2018年8月14日火曜日

発達と向き合っているから前向きで元気になる

この夏は、いろんな方とじっくり時間をかけてお話ができているように感じます。
そして、お話をしていると、「元気が出ました」「希望が見えてきました」「頑張ってみようと思います」というように、みなさん、前向きな言葉を言ってくださいます。


本人や家族の方達から前向きな言葉が聞かれると、お伺いして良かったと心から思います。
大事なことは、前に足を動かすことですから。
一歩でも、半歩でも、昨日より今日、今日より明日、前に進んでいれば、より良い人生を歩んでいる証です。
時間は後戻りできませんし、前へ前へと進むのが自然の原理というものです。


時々、「話をさせてもらうと、元気になる」「私が前向きな気持ちになるように、前向きな言葉を使うようにしているのですね」などと言われることがあります。
しかし、私は敢えて前向きな言葉を使おうとは思っていませんし、本人のためだったら厳しいこともガンガン言います。
もし意図的に前向きな言葉を使っているとしたら、それは私が特別支援の世界に見た接待していることになりますし、本人の幸せではなく、自分の仕事や自分自身を見て仕事をしていることになりますので、そんなことはあり得ないのです。
接待や支援者自身のための支援は、本人の成長と自立を阻むのを散々見てきましたから。


では、なぜ、前向きな話になるのか。
それは、私の仕事が発達に関わることだからです。
この前も書きましたが、成長には良い成長と悪い成長がありますが、発達には良い発達しかない、ということです。


発達は、前に前にしか進むことができません。
発達が後戻りするなどということはなく、やったらやっただけ発達の器には水が溜まっていきます。
発達にヌケを持ったまま成長したお兄さん、お姉さんも、発達のヌケが埋まった瞬間、どどどっと一気に成長することがあります。
それは、もっと幼かった頃、ちゃんと発達の器に水を溜めていたからです。


当時、その取り組みは、結果として表れなかったけれども、少しずつ水は溜まっていた。
発達のヌケが埋まって堰が切られた瞬間、その水が溢れ出した。
よく「一気に変わった」というような場面に遭遇しますが、それは単に発達のヌケが埋まっただけではなく、それ以外の部分での育み、蓄積がちゃんとあったからだといえます。
たとえ、そのとき、意味がないように見えたことでも、将来を見据え、「きっとこの子の将来に活きてくるはず」「これも大事な学び、成長につながる」と思って、コツコツと取り組まれていた親御さんのお子さんには、こういった堰を切ったような発達、成長の波がやってくるように感じます。


この夏、出会った親御さんが、「子どもの発達っておもしろい」とおっしゃっていました。
本当に、その通りだと思います。
本来、発達とはおもしろいものです。
だって、前に前に進むものですし、やったらやっただけ発達につながっていくわけですから。
もし、子どもさんと関わっていて、そのおもしろさを感じられず、ただ辛いもの、どうなるかわからず不安なもの、というようにしか感じられていないとしたら、それは発達と向き合えていないのだと思います。


良い方向にも行くし、悪い方向にも行く。
そんな風に感じているのでしたら、それは発達ではなく、成長を、いや、成長ではなく、ただ単に行動のみを見ているのかもしれません。
子どもの行動のみを変えようとしているのでしたら、それは不安や緊張感、ときに無力感を感じるもの。


行動の主体は、子ども本人であり、行動を思うがままに変えるのは不可能ですし、もしそれができるとしたら洗脳するか、その子の主体性を奪ってしまうしかないからです。
意のままに操るのも、主体性を奪ってしまうのも、親心もそうですし、自然の摂理にも反することです。
ですから、行動のみに注目し、それを変化させようとしている人達は、ずっと苦しさが漂っている。
「〇〇ができるようになった」と言って喜んでいるようでも、それが本人が発達した結果ではなく、行動変容がもたらした結果だとしたら、心の奥底からは喜べない、むしろ、心の奥底で苦しみ、涙を流していることもある。


また発達を後押しするのではなく、対処をし続けている人にも、同様の苦しさを感じます。
「困ったことが起きたから対処する」
「これができないから、こうやって対処する」
対処には、その場に留める、流れを止める、というようなニュアンスがあります。
たとえ、問題行動であったとしても、その根っこは本人の内側から流れる自然な発露。


もちろん、問題には対処する必要がありますが、それだけではいつまで経って課題は解決しませんし、周囲の人間は本人の流れ、エネルギーを止め続けなければなりません。
問題行動こそ、発達のヌケを育て直し、埋めていく必要があると思います。
課題を抱える子を育てている親御さんが、「毎日、大変」「子育てが辛い」と感じるのは、その問題行動というよりも、その問題に対処し続けないといけない、子どもから出ているエネルギー、流れを止め続けないといけないことに対する悲鳴のように感じることがあります。


治るを目指している本人たちや親御さん達には、エネルギーに溢れ、明るい雰囲気が漂っています。
それは、前に前にと進んでいく発達と向き合っているからであり、自然な流れに沿っているから。
自然と言葉や態度が前向きになるのは当然だといえます。
自然な流れに沿った子育て、生き方というのは、心地良さがあります。
心地良い流れが、子どもの発達を後押しし、親としての本能を存分に発揮させる。
そして何よりも、自分の人生に動きを生み、彩を与える。


治るを目指している人たちは、明るい言葉、前向きな言葉で溢れています。
治るのは、発達だからです。
その子が発達しないから、「行動くらいは変えよう」「対処くらいはしよう」とするのではなく、自然の原理である発達が何らかの理由でうまく進めていけないのだから、そこをどうにかして、本来の前向きな流れにしようとするのが発達援助。


発達は、やったらやっただけ器に水が溜まっていくし、前にしか進めないもの、良い方向にしか進まないもの。
だから、発達と向き合うのはおもしろいことですし、発達援助は本人だけではなく、周りも元気にしてくれるもの。


この夏も、いろんな子ども達の発達、成長の話を聞くことができました。
ガラッと変わった子ども達の周りに、親御さん達の明るく、元気な声が溢れています。
秋の気配を感じる北海道のように、すでに豊かな実りの便りが届いています。

2018年8月11日土曜日

治っていくと、本来の姿が現れる

明確な発語がなくて、表情も、動きも乏しいお子さんのところへ行ってきました。
このような状態ですと、当然、重い知的障害と判定され、医師や支援者からも「無理せず」「この子のペースで」「支援を受けながら」と言われていました。


昔の言い方ですと、カナー型の自閉症の子。
私が部屋に入ってきても、注意を向けることはありません。
まるで、一人の世界で生きているようです。


しかし、一瞬ではありますが、同世代の子どものように、自然な表情で、柔らかい身のこなしを見せることがありました。
それは一緒に思いっきり遊んだときです。
この子は、大きな声を出して笑って、「もっともっと」と要求するのです。


その瞬間の姿は、とても子どもらしく、重い障害のある子には見えませんでした。
たぶん、この子の本来の姿なのだろう、と私は思いました。
と同時に、この子の課題は「神経同士の繋がり」 なのだと感じました。


こういった自然な姿が垣間見れる瞬間というのは、他の子でも見られることです。
特に、感情が揺さぶられるような状態のとき、まるで全身に電気がビビっと駆け巡るみたいで、表情や動きがとても自然になります。
「発達の遅れ」という言葉からは、その部位、機能自体の遅れ、未発達が連想されますが、このように繋がりに課題がある場合もあると感じます。
ですから、このケースの場合の発達援助のテーマは「神経同士の繋がり」となるのです。


神経同士の繋がりが良くなれば、その子らしさが出てくる、という視点は大事だと思います。
もしそういった視点がなければ、表情が乏しいのも、動きが固いのも、障害だから、自閉症だから、となってしまいます。
「障害だから」という言葉は、症状の固定化を生みます。
症状の固定化は、本来の姿を見えなくするものです。


ある意味、発達援助の目的は、本来の姿を取り戻すことだといえます。
障害によって、その人らしさ、本来の姿が表れていない、資質が開花せずにいる。
だからこそ、発達のヌケを育て直す、神経同士の繋がりを育てる。
発達障害が治ったあと、本来の姿、資質が表に出てくると考えています。


バリバリ発達の遅れがあり、バリバリ症状が出ている状態で、それをその人の「個性だ」なんて言う人もいます。
でも、それは障害以外のなにものでもなく、治す対象だと思います。
「障害は個性だ」というのは「障害だから」と同じで、症状の固定化を生みますし、その症状に何の手も打てないことを言い換えているだけです。


その人の個性というのは、最後の最後まで残り続けるものだと思います。
発達のヌケや遅れという普遍的ではないもの、育て、治していけるものは個性とは言いません。
発達のヌケや遅れを育て、治しきった先に、それでも残るものが、その人の個性だと言えます。
治しきっていないのに、それもこれも「個性です」というのは、「私は何もしないけれども、あなたはすべて受け入れてね」という一種の甘えです。


発達のヌケや遅れが育ち、治ってくると、別人のようにガラッと変わる人達がいます。
治ると、本来の姿が表れてくるのだと思います。
言葉の遅れがあり、他人とコミュニケーションを取るのが難しかった子が、陽気で社交的な若者になっていました。
もともと明るくて、人といるのが好きな子が、発達のヌケや遅れによって、その人らしさが出ていなかっただけなのですね、という感じです。


「重い自閉症ですね」と言われていた子が、感情が大きく揺さぶられたとき、自然な表情、動き、姿が表れる。
こういった場面と巡り合うと、「重い自閉症」は本来の姿ではないと思います。
本来の姿ではないものを、その人の「個性だ」と言ってしまう恐ろしさ。
しかも本人ではない他人が。
私は、一瞬見たその子らしい自然な姿が本来の姿であり、もっと表に出てこれるように、治す後押しをしていきたいと思うのです。

2018年8月5日日曜日

成長には良い成長、悪い成長があるが、発達には良い発達しかない

子どもが、自分自身の発達のヌケを育てようとしている行為を、「年齢にそぐわないから」といって止めてしまう。
その行為は誤学習であり、問題行動なのに、「障害だから」といって、すべて受け入れてしまう。
こういったチグハグな対応をする支援者は少なくありませんね。


だいたいこういったチグハグな対応をしてしまう人は、子どもが軸ではなく、自分の軸で支援しているのだと感じます。
興味関心があるのは、目の前にいる子どもではなく、その子の行動のみ。
だから自分から見て、問題に見えるその行動を止める、抑え込む。
障害に関係なく、誤った経験、学習を積み重ねていった結果であるのに、「障害はかわいそうだ」「障害を持った子ども達は100%頑張っている」「障害を持った子は、全面的に受け止め、受け入れる存在だ」という個人的な思想により、注意や制止しないばかりか、その行為を認め、強化することすらある。


子どもを軸に、もっと具体的に言えば、発達を軸に支援する人は、こういった過ちは犯しません。
発達の軸がわからないとしたら勉強不足ですし、そもそも発達にヌケや遅れがある人と関わるべきではないと思います。
人がどのように発達するのか。
これがわからなくして、どうして発達援助ができる、やっていると言えるのでしょうか。
まあ、支援者の多くは、人の発達が分からないから、支援グッズを作ること、支援技法と知識の量を比べること、啓発活動に向かっていくのでしょう。


親御さんからも、「我が子のどんな行動が発達を育てなおしているのか、問題があり、止めるべき行動なのかわからない」と相談されることがあります。
基本的に支援者とは異なり、親御さんは我が子が育てなおしているのか、問題を起こしているのか、直感的に、本能的にわかると思います。
もし、それがわからなければ、頭でっかちになっているか、親御さんにも課題があるかですので、そこを治していきます。


「わからない」という親御さんには、このようなお話をしています。
「成長には良い成長と悪い成長がありますが、発達には良い発達しかありません」と。
好青年に成長する子もいれば、どうしようもない大人に成長する子もいます。
まったく成長しないということもあります。
でも、どうしようもない発達、まったく変化のない発達などありません。
発達は、常に前に前にと進み、満たされ、成熟するという良い方向にしかいきません。
発達には良い発達しかないことがわかると、多くの親御さんは自信と元気が出てきます。
子育ては技法ではなく、正解、不正解があるわけではないことがわかるからです。


支援者によって決まった技法があり、正解不正解があると洗脳されているだけ。
ですから、本能の部分に蓋がされ、頭で判断しようとするから迷うのです。
親御さんの資質が一番発揮されるのは、我が子の発達という舞台。
「良い発達しかない」という言葉は、自分の直感、本能の声に従う美しさを呼び起こすのだと感じます。
正解、不正解などというデジタルを超えたところに、ヒトの発達というアナログがあり、美しさが存在する。


年齢だ、IQだ、障害だ、という人工的な基準から子どもを見ても、ただ息苦しいだけで、発達は見えてきません。
親御さんには、我が子の発達を見てほしいですし、後押ししてほしいと思います。
発達には良い発達しかありませんので、とことん付き合い、とことんやり切ってほしいです。
またそれができるのが、家族です。


親御さんが感じるまま、本能のままに発達を楽しみ、喜ぶ。
発達は良い方向へ、後戻りせず前へ前へと進むものですから。

2018年8月4日土曜日

資質が喜ぶ声を聞く

聴覚過敏がバリバリで、人混みの中は辛くていられない。
発語は小学校に入学してからで、ずっと話すのが苦手だった子。
でも、今、その子は社会人として週40時間以上働き、休みの日にはライブハウスに通うようになっています。
好きなバンドの演奏を聴きながら、踊ったり、同じ会場にいる人達と会話を楽しんだり。
仕事も、プライベートも充実し、「今、私は幸せ」と言っていました。


この言葉を聞いて私は、資質が開花したのだと感じました。
聴覚過敏やその他の課題が治った、ただそれだけではないと思います。
治った先に、本来持っていた資質が飛びだしてきたのです。
しゃべることが苦手で、人と関わること、人と一緒にいることすら苦痛だった姿は、本来の姿ではなかった。
本来の姿は、社交的で、みんなと一緒に盛り上がるのが好きな人。
治った先にあった今の姿は、本人や家族だけではなく、本人の持っていた資質も喜んでいるのだと思います。


「資質が喜ぶ」
これは本人のみの目標ではありません。
子どもの発達を後押しする家族も同じだと思っています。
家族一人ひとりの資質が喜んでいるだろうか?
家族が自分たちの資質が喜ぶ子育てをしているだろうか?
そんな視点で、ご家族とも関わらせていただいています。


発達障害を持つ子は、どっか別のところから急に現れたのではありません。
少なからず、両親から資質を受け継ぎ、また兄弟児も似たような資質を持っています。
ですから、家族の資質を見ること、特に資質が開花し、喜んでいる様子を見ることは、本人の発達援助をする上で、重要な気づきを与えてくれます。
充実した生活、人生を送っているという親御さん、兄弟の背中には、資質を開花させた物語があるものです。
その物語の中には、本人の資質を喜ばせるヒントがあると、私は信じています。


子どもが伸びやかに成長していかない、発達が埋まっていかないのは、親御さんの資質に合っていない子育てをされている、ということが多々あります。
うまくいかないとき、「私の勉強不足」「私のやり方が間違っている」と考える親御さんがいますが、間違っているのは方法ではなく、資質と子育ての関係性です。
直感的に行動してきた人が、知識を詰め込み、考えて子育てしようとするとドツボにハマります。
じっくり考えて行動してきた人が、感覚的に子育てをすると選択を誤ります。
親御さんも、一人の人間であり、その資質と資質を喜ばせる方法は一人ひとり違うのです。
だからこそ、親御さん自身の資質が喜ぶような、活かされるような子育ての仕方をしなければ、子どもも伸びやかに発達、成長していきません。


夫婦も、元を辿れば、赤の他人。
育ってきた環境、歩んできた物語も違えば、資質も違います。
でも、異なる資質同士が刺激し合い、開花した資質が融合した先に、その家族ならではの子育てがあり、一つの家族としての成長があるのだと思います。
お母さんも、お父さんも、自分の資質に合った子育てを行っていく。
そうすると、子どもの内側にある受け継いだ資質も共鳴し、花が開いていこうとするのです。


発達障害を治すのは、途中経過であり、ゴールではありません。
冒頭の若者のように、治ったあと、資質が開花した瞬間、発達援助の役割が終わるのだと思います。
我が子を治す親御さんは増えてきたと感じます。
発達のヌケや遅れを育て直すアイディアが広がってきたからです。
これからも、どんどん治していく親御さん、治っていく子ども達は増えていきます。
だからこそ、私はその先を見つめていきたいと思います。
治ったあと、資質を開花させ、喜ばせる生き方をする人達を増やしていくことです。


私も、たくさんのご家族と関わらせていただきました。
そして今思うのが、子どもの資質を開花させるところまで後押しできる親御さん、ご家族というのは、一人ひとりがご自身の資質を開花させ、資質が喜ぶような生活、子育てをされているということです。
発達援助とは、ただ発達のヌケ、遅れを育て直す行為のことではなく、その子の持つ資質を開花させるまでの営みだと私は考えています。
「資質が喜んでいるだろうか?」という問いかけは、本人だけではなく、家族にも向けられるのです。

2018年7月25日水曜日

ロマンを感じる発達援助

「それは発達障害だから」ってロマンがないじゃないですか。
そこから先に進んでいかない。
何も連想が浮かんでこない。
正しいことを言っているようで、何も応えていないただのセリフです。


私のところにも、「発達障害だ」「アスペルガーだ」「ADHDだ」と診断名を持った方達がいらっしゃます。
でも、そんなラベルはどうでも良いのです。
自閉症さん、発達障害くんという名の人は、いないのですから。
私が知りたいのは、人工的に分類された名ではなく、本人たちが発する声。
どんな刺激が欲しいのか、何を後押ししてほしいのか、という声。


以前は、自閉症と診断されれば、視覚支援、構造化なんていう時代もありました。
しかし、そこに真の意味での個別化はない。
そして、人がいない。
診断名から支援方法が連想されたとすれば、それは目の前にいる存在を人ではなく、支援対象としてみている証拠です。
目の前の人から支援が連想されていかなければ、対人援助とは言えませんし、行うこともできないでしょう。


連想の源は、その人自身です。
目の前にいる一人の人と真剣に対峙したとき、連想の世界へと誘われるのです。
連想とは動的な存在。
本人の動きを感じ、支援する側の人間も、心身共に動きがなければなりません。
そういった意味で、支援者の解き放つ「それが発達障害だから」という言葉には動きがなく、むしろ動きを止めようとする作用すらあります。
それに、その言葉を受け取った人間が、ワクワクするような、自分でもやってみようと思うような、未来へ向かわせるロマンがないのです。


課題を挙げれば、きりがないかもしれません。
でも、そんな課題の中から一つでも改善する、治っていく、そんな糸口が見えてくれば、人は前へ前へと進むことができる。
特に発達障害の人達は、一つが治れば、次々に連動して治っていく、育っていくことがあります。
発達には流れがあり、繋がりがあるからです。
発達のヌケが埋まれば、堰を切ったように発達していく、それがヒトの発達というものです。


私は仕事をする上で、本人や親御さんにちゃんとロマンを感じてもらえているか、ロマンを言動や雰囲気で伝えられているか、を考えています。
地球が46億年前に誕生し、最初の生命体が生まれたのはそこから6億年後の40億年前。
そして、途方もないくらいの数の生命体と進化が繰り返され、私達人類のご先祖様は600万年前から歩み始めた。
そして、今、自分がいて、同じ時代を生きる人達がいる。
私達の身体に流れる生命の歩みを想像するだけでロマンを感じます。
発達というロマンを感じられない人に、ロマンのある対人援助はできないと思います。
ロマンのない対人援助を行う人は、たまたま人と関わる、人を対象とする仕事に就いた人。


こういったことを考えるようになった源流は、支援員として働いた20代。
数え切れない程の行動障害、課題を持っていた方達の中に、たった一つでも良くなる兆しを見つけたとき、私はそこを追い求めたい、そこだけでも良くなってほしい、というエネルギーに溢れました。
「強度行動障害」という文字からは、何も浮かんでこなかった。
むしろ、絶望や諦め、同情という感情すら出てきてしまった。
でも、一筋の、たった一つの兆しだけで、自分は変わり、本人も変わっていった。
だからこそ、今、私はロマンのある仕事をしたい、しなければならないと思います。


明日から西の方へ伺いますが、こういったロマンをお届けできるか、それが私のテーマでもあります。
数日間ではありますが、お会いする皆さま、よろしくお願いいたします!

2018年7月22日日曜日

何を訊いても、返ってくるのは「それが障害だから」

親御さんの心配事や質問に対し、「それが自閉症だから」「発達障害だから」と言う。
でも、これって答えになっていないと感じます。


「どうして、変更を受け入れられないんでしょうか?」
「それは自閉症だからです」
別に、親御さんは診断基準のクイズをしているのではないですね。


「言葉の発達が遅くて、まだ出ないんですが、どうすれば良いのでしょうか?」
「焦らず、お子さんの発達を温かく見守っていきましょう」
温かく見守るだけで言葉が出るのなら、親御さんも、先生も、社会のみんなも、喜んで温かく見守りますね。
嫌味な見方をすれば、日頃、「エビデンスガー」と言っている人間が温かさを発達要因にするのも矛盾していますし、言葉の遅れは親御さんの温かさが足りないからと言っているようにも聞こえます。
これって冷蔵庫マザーの考え方と同じじゃないですかね。


このような問答は、以前から親御さんと専門家の間で繰り返されており、平成最後の夏にもまだ続いているかと思うと、頭が痛いですし、そのやりとりで仕事がなり立つならおめでたい話だな、と思ってしまいます。
平成が始まった頃からずっと親御さんは、我が子についたラベルを知りたいのではなく、親としての心構え、精神論を聞きたいのではありません。
我が子に、どんな遅れや課題があり、どうすれば改善していくのかを知りたいのです。


自閉症も、発達障害も、遺伝性の障害ではありません。
もちろん、前の世代から遺伝する部分もありますが、それが100%でなければ、決定要因でもありません。
遺伝要因と環境要因の相互作用と言われています。
たとえ遺伝的要因を持っていたとしても、環境要因によって発症しなかったり、重症化しなかったりするということです。


これまたよく言われていることですが、「発達障害は生まれつきの障害だから治らない」というのも、おかしいと思いませんか。
生まれつきの障害だとしたら、遺伝要因100%なのでしょうか。
影響する環境というのは、受精から出産する瞬間までの限定的な環境ということなのでしょうか。
もしこの約10か月間のみの環境が重要だとしたら、「3歳から早期療育!」じゃあ、遅すぎるということになりませんかね。


というか、早期療育の意義すら怪しくなる。
早期療育だって、早くから介入することで、より良い発達と症状の軽度化を目指しているはずです。
というか、「発達障害は生まれつきの障害だから治りません」と言っている人間だって、環境側からの働きかけをすることに意義があると考えているから、療育だ、支援だ、とやるわけです。


「生まれつきの障害だから」と言いつつも、受精から出産までの期間の環境要因、環境的リスク要因については、まるで禁句のように口を閉ざし、否定する支援者たち。
それでいて、生まれる前の母子にはアプローチするわけではなく、生まれたあとになってから「早期療育が大事です」「支援が」「エビデンスのある方法が」とやり始める。
生まれつきの障害で、一生治らないんだったら、ほとんどの支援者はやることも、できることもないでしょうに。
治すのも、軽度化も、目指さないんだったら、何を目指しているの?
生涯にわたる雌鶏化??雌鶏を増やすこと??


「それが障害だから」という言葉は、「これ以上、訊くな」「これ以上、掘り下げるな」という不誠実な空気感が漂っているように感じます。
「それが障害だから」としか返ってこない相手に、これ以上、何も訊けなくなりますよね。
だから、親御さん達は専門家と呼ばれる人に相談するとモヤモヤする。
診断受けたあとに相談に行って、「それが自閉症です」って何にも答えていない。
「自閉症はわかったから、どうすれば発達、成長していくかを教えて」って訊いているのですから。


平成の次はまだわかりませんが、次の年号の時代は、支援者たちの言動の矛盾、論理が破綻している事実を多くの人に気づいていただき、こういった実生活に、明日につながらない問答がなくなることを願っています。
「どうして山に登るんですか?」に対し、「そこに山があるから」という答えにはロマンがありますが、「どうして、こちらの話が伝わらないんでしょうか?」に対し、「それが自閉症だから」という答えには不満しか出てきませんね。

2018年7月20日金曜日

水→泥→砂→土→木…そして本

出張前には、決まって過去の記録を読み返したり、書棚に並ぶ本を思いのままに手に取って読み返したりします。
何度も読んだ本なのに、その時々で新たな気づきがあります。
以前読んだときには、ぼやっとした理解だったのに、今なら手に取るようにわかる、という体験もよくあります。
本というのは、ただ単に文字と情報の集まりではなく、自分自身の成長を確認できるものであり、時間や距離を超え、著者と自分とを結びつけてもらうものだと感じています。


私は本を読む前、その著者の声を調べる癖があります。
ネット等で、実際の声を聞くと、その声で本を読みます。
そうすると、スラスラ読めますし、内容やその言葉の背景への想像が膨らむのです。
私にとって本とは、著者の息づかいを感じることであり、その表現に至った著者の経験、思考を疑似体験することだといえます。
本を通して、著者と対話できなければ、活きた実践へとつながらないからです。


幼いときから本に親しんで生きてきた私は、本が自分を成長させてくれる、という想いがあります。
特に、この仕事に関しては、師匠と呼べる人と出会うことなく、独立まで至ったので、すべての本が私の師匠という感じです。
本は人としても、仕事人としても成長させてくれるものだと考えています。
ですから、日頃、出会う若者たちには、本を読むことを勧めますし、本が読める、また味わえるくらいまで発達、成長することが大事だと考えています。


ある支援学校に通っていた若者は、文字の勉強をし直し、簡単な本が読めるくらいまでになると、自分で本を読むようになり、次々に視野を広げていきました。
ある程度の年齢になると、親が教えられること、また私のような人間が教えられることは薄っぺらくなるものです。
でも、本は地平線に広がる海のように、知識、知恵、考える機会を与えてくれます。


進化の過程を考えると、赤ちゃん、幼児は水と戯れることで魚類の発達段階をクリアするのだと考えています。
この年代の子はもちろんのこと、この発達段階にヌケがある子には、水が大事な発達刺激になります。
また両生類の発達段階の子には、泥が大事な発達刺激になり、爬虫類の発達段階の子には、砂や土、大地が発達刺激になる。
そして、哺乳類の発達段階の子には、草木が大事な発達刺激になる。
最後にヒトの発達段階まできた子には…。
私は、それこそ、絵や文字であり、本だと思っています。


ヒトは、水から泥、泥から砂や土、砂や土から草木、草木から絵や文字へと戯れることを通して、発達していくのだと思います。
人間になるまでの発達の刺激、パートナーは、自然のはずです。
そうやって700万年もの間、進化と発達を繰り返してきたのですから。
私達が行っている発達援助も、自然と共に歩む必要があると思います。


発達障害は現代病とも言えるかもしれません。
ヒトが自然から離れれば離れる程、遠くへ行こうとすればするほど、発達のヌケが埋まる機会は少なくなっていき、そのヌケが際立ってくる。
ヒトとしての土台の部分に、発達の遅れやヌケがあることの多いのが発達障害と呼ばれている方達です。
ですから、どういった環境で、どういった刺激と共に進化、発達してきたかを想像する視点が大事だと思います。


以前、相談に乗っていた方は、近くにある砂浜を素足で歩いているうちに心身共に発達が見られた、ということもありました。
砂浜には、ライセンスも、エビデンスも必要はなく、あるのはただ私達のご先祖様達が歩まれてきた道があるだけです。
発達を促す必要な刺激の中に、こういった自然という視点も入れられると良いかもしれません。