2020年8月4日火曜日

【No.1088】特別支援によって救われた未来と、奪われた未来

件数は少ないものの、「うちの子が発達障害ではないことを確認してくれませんか」というような依頼が来ることがあります。
「発達のヌケを確認してほしい」「今後の子育てについて助言がほしい」
そのような依頼をされる親御さんと比べて、「ないことを…」という依頼をされる親御さんに障害受容がないというわけではありません。
親御さんは本能的に気がついているのです。
「うちの子は違う。だけれども…」


「だけれども」に続く言葉は、親御さんにその言葉を連想させてしまうのは、保健師さんだったり、保育士さんだったり、幼稚園・学校の先生だったりします。
今は少しでも何かあると、「発達障害では」と言う人が多いと感じます。
それも年々増えている印象を受けます。
でも、実際はその人が思う"疑い"であって、単に発達がゆっくりな子、単にその人の指導力が足りないだけということも少なくないと思います。


他人に指摘されるまで、我が子の発達の遅れ、自閉的な特性にまったく気づかない親御さんは、どのくらいいるのでしょうか。
「家では問題なく生活できている」
「今まで我が子の発達で気になったことがない」
そういった親御さんが、他人からの指摘や促しにより、病院に行く。
ドクターに、「家では問題なく生活できているのですが、園の先生から『一度、発達専門の病院で診てもらってください』と言われまして…」と告げると、園でのトラブルについて根掘り葉掘り訊かれる。
そして、発達障害という診断名が付き、療育・支援のレールの上にポンと置かれる。
平成の時代の教科書には、「自閉症の子は、場面が変わると混乱する。普段できていたことができなくなることがある」と記されていたので。


私はいつも不思議に思うのです。
家で問題なく生活できている子、今までの発達の中で気になるところがなかった子は、本当に発達障害といえるだろうか、と。
こういった場合、まず疑うのは発達障害ではなく、崩れている場所の環境ではないでしょうか。


ビックリするような話ですが、小学校1・2年生は普通級で問題なく勉強できていた子が、3年生になり、集中力や学力の低下、離席等の行動が見られるようになる。
すると、担任から「発達障害ではないですか」「特別支援担当の先生に一度」「病院で診てもらっては」などと言われる。
でも、その前に他の要因も確認する必要があると思います。
担任の指導力は?
級友との関係は?
心理的な変化はないだろうか?
前の担任に様子を訊いてみよう。
そういった確認をしたうえで、初めて「発達障害では?」という話になる。
でも、その場合だって、受診するかどうかは家族の話です。
何よりも本人に利するところがなければ、他人がとやかくいう話ではありません。
しかし「受診させなければ、そのまま支援級へということになります」などのプレッシャーをかけてくる学校もあり、気が付いたら診断名が付き、特別支援の世界に入っているご家族もいるのです。


こういった親御さんは、「受診すれば、うちの子には『発達障害はありませんよ』『自閉症ではありませんよ』と証明してくれると思っていました…」と言われます。
病院は診断名が付くことで、その診断名に従って治療方針を決め、治療を始めていく場所ですので、多くの場合、診断名が付きます。
ですから、受診すれば、なんらかの診断名が付く可能性が高いといえます。
そうなると、発達障害を疑った他人にお墨付きが与えられることになり、学校や園などでは、「そういった子」ということで体制が組まれていきます。


本来、子どもと関わる仕事をしている者は、その子がよりよく育つことを一番に考えるはずではないでしょうか。
学校の先生なら、診断のあるなしに関わらず、「この子がどうやって伸びていくか」を考え、試行錯誤しながら指導していくのが本来の姿だと言えます。
でも、その自分の指導力不足を棚に上げ、すぐに課題の理由を障害という言葉に置き換えてしまう。
幼稚園でも、保育園でも、なんだかすぐに特別支援の世界に丸投げしようとする姿が見えます。
「お子さんがかわいそうなんで…」と言いつつ、本当は自分がこういった子を担当して"かわいそうだから"と言っているようにも聞こえます。


「発達障害がないことを」という依頼をされる親御さんは、自分の感覚と他人からの指摘のギャップに苦しまれます。
自分の感覚を信じたいのに、その感覚を、そういった感覚を持つ親という存在までを否定され続ける。
それによって心身を病む親御さんもいます。
特別支援は、その子がよりよく育つために、より良い未来のためにある存在なのに、子どもの未来を奪い、学びの機会を奪い、挙句の果てに家族にまでネガティブな影響を与える。
特別支援によって救われた未来と、奪われた未来。
どちらが多いと言えば、私は後者のほうがまだまだ多いと感じます。


ちなみに、「発達障害がないことを」という依頼に対しては、発達障害がないことを確認しようとはしません。
反対に、全力で発達障害がある部分、自閉症やADHDなどの特性が現れている部分を見つけようとします。
そうやって全力でヌケや遅れ、特性の部分を見つけ出そうとし、見つけた部分が同年齢の子の発達と比べて大きく違うのは、定型発達のバリエーションの範囲に入るのかを確認していきます。
そうすると、本当に発達障害と呼ばれる状態なのかが見えてくるだけではなく、より良い子育ての方法が見えてくることがあります。
結局、必要なのは診断基準に当てはまるかどうかではなく、その子がよりよく育つアイディアです。
私は、子どもに関わる者が「目の前の子がよりよく育つには?」という問いに対する答えを自分自身で見つけようとしなくなったことが、こんにちの特別支援の混乱を招いていると考えています。




2020年8月3日月曜日

福岡出張のご案内(8月21日~23日)

あと20日もありませんが、急遽、福岡県に出張することが決まりました。
8月21日(金)の夕方に着く便で福岡に移動します。
今回、お声掛けくださったご家族への訪問が、8月23日(日)の午前中になっております。
もし今回の機会に、発達相談を希望される方がいらっしゃいましたら、てらっこ塾までご連絡ください(お問い合わせ&ご質問も)。
お待ちしております。


21日(金)は、17時以降、ご希望があれば承ります。
22日(土)は、一日、空いています。
23日(日)は、午後、空いております。→午後もご希望がありました(8/3 15:00)
*8月3日14時現在。


2020年7月31日金曜日

【No.1087】「自閉症」「発達障害」という言葉を使わずに

私が出張するときは、移動がありますので、午前ひと家族、午後は1~2家族という具合に行っています。
ですから、3日で15名の発達相談はさすがに大変でした。
同じ市内とはいえ、各家庭に訪問しますので、まさに分単位での移動。
決められた時間までにアセスメントをし、親御さんの悩みに答え、今後の方向性を提案する必要がありました。
しかし、こういった制限があるからこそ、それこそ無茶ぶりをしてくれたからこそ、突破できる何かがあると感じています。
ちなみに、報告書が完成し送付しましたので、後日、支援員さんから配布されると思います。


私は発達相談のとき、なるべく「自閉症」「発達障害」という言葉を使わないようにしています。
そういった言葉を使ってしまうと、下手くそになる気がするからです。
「自閉症が~」とか、「発達障害ですから…」などと言って説明を始めると、聞いているほうは、なんだか正しいことを言われている気がするものです。
私も若手のときは、講演会などで、事例研究などで、「Aさんには自閉症がありますから…」なんていう言葉を聞くと、それ以降の支援、対処法が正しいような気がしていました。
でも、詳しく聞くと、それはAさんへの支援ではなくて、自閉症の支援だったりするわけです。
Aさんじゃなくても、自閉症の人なら誰でも良いわけで、っていうか、その自閉症も、学生時代に習った、教科書に載っているような、それこそレインマンのイメージだったり…。


「自閉症」という言葉は、支援者を甘やかせる言葉です。
詳細を語らずとも、提示する支援、対処法へと、相手を誘導することができるからです。
しかし、重要なのは、その詳細なのです。
詳細に語るというのは、詳細にその子を見る必要があります。
やってみればわかるのですが、「自閉症」「発達障害」という言葉を使わずに、その子のことを説明しようとすると、支援者自身に負荷がかかります。
そしてその負荷から抜け出すには、支援者の言語力とアセスメント力がなければなりません。


支援者同様に、親御さんの中にも、「うちの子、自閉症で…」「発達障害があるから…」と枕詞のように使われる人がいます。
そういう人は、率直に言って、子どもさんのことが見えていません。
見ているのは子どもさんではなく、障害であり、障害児というその人の内側にあるイメージです。
発達相談で成育歴や現在の悩みをお聞きする際、何度も「自閉症の困り感ではなくて、お子さんの困り感を教えてください」ということがあります。
確かに、それは典型的な自閉症の人の困り感、特性ではあるけれども、その子自身のものを答えているのではありません。


「自閉症」も、「発達障害」も、いうならばイメージでしかありません。
そのイメージも、特定の姿があるわけではなく、各々がイメージする障害像です。
残念な支援者は、実生活での困り事をすべて「自閉症」という言葉で片づけている人もいます。
「自閉症だから」という言葉、説明は、自然な子どもの姿を見えなくする呪文です。


こんなことを考えるようになったのは、全国どこでも検査所見が「自閉症」「発達障害」という言葉で語られているのを知ってからです。
北から南まで、テンプレートがあるのかなと思うくらい検査所見には、イメージの中の自閉症者について語られていて、一向にその検査を受けた子どもの顔、姿が見えてこないのです。
「これだったら、検査をしなくても、検査所見が書けますね」というのは、私の持ちギャグにもなっています。


「自閉症だから視覚優位。よって視覚支援」
「自閉症だから見通しが持てない。よって、スケジュールの提示」
「自閉症だから言語理解が難しい。よって、言葉ではなく、見える形で伝える」
「自閉症だから新しい場所が苦手。変更が苦手…」
その最終形が、「自閉症だから治らない」という説明になるのだといえます。
なぜ、自閉症だと治らないのでしょう?
生涯支援を受け続けるのが決定事項なのでしょう?
100歩譲って自閉症は治らないかもしれないけれども、それだからといって我が子が治らないということにはならないと思いますがね。


支援者さんや先生から助言を求められるとき、私は「自閉症」「発達障害」という言葉を使わないことをお勧めしています。
この言葉を使わなくなるだけで、言葉が磨かれますし、子どもさんをしっかり見る目が養われて行きます。
これは親御さんが子どもさんをしっかり見るときも使えるアイディアだと思います。
短い夏休みが終わったあと、担任の先生との面談があったり、就学相談が始まったりすると思いますので、是非、この言葉を使わずに伝えることを意識してみてください。
きっと、もう一段研ぎ澄まされたアセスメントに、我が子のことを深く見て、知るきっかけになるはずです。




2020年7月21日火曜日

【No.1086】アセスメントは仮説力

親御さんからしばしば「子どものどこを見ているのですか?」というご質問を受けます。
他にも、「どういった順番で、子どもの発達を確認していけばいいのですか?」ということを尋ねられる方もいます。
「発達には順番がある」
「この課題は、ここの部分とつながっている」
そういった知識を持たれた親御さんが増えたからこその質問だと、私は感じています。


「発達には順序性と関係性があるのだから、支援者には決まったアセスメントの流れ、確認すべきポイントがあるのだろう」
そんな風に思われている親御さんもいるように感じます。
実際、私のアセスメントが始まりますと、「今、どこを確認したんですか?」「どこから見ているのですか?」「次は?」と質問される方もいます。
しかし、どこを最初に確認するかとか、ここを確認した後はここをとかはありません。


じゃあ、どういった流れでアセスメントをしているのか?
一言で言えば、雰囲気です。
「このお子さんは、身体から確認したほうが良いかな」
「認知や言語力かな」
「遊びから発達の状態を確認しようかな」
そんな風に、その子の雰囲気から感じたままでアセスメントを行っていきます。


こういう風に言うと、「やっぱり、アセスメントは専門家だからできるんだ」「アセスメントは経験豊富な人しかできないんだ」などと思われてしまいます。
でも、これは私の意に反しますし、私の仕事のゴールとは異なってしまいます。
私に対する依頼の多くはアセスメントになりますが、そのアセスメントの仕方、視点を親御さんにお渡しすることが仕事の目的だと考えています。
著しい変化が見られるお子さんのアセスメントを、その都度、支援者に依頼して行うのでは子ども達のためにもなりません。


アセスメントの基本は、一緒に生活する親御さんがタイムリーに行うことです。
素早く変化に気づくからこそ、そのとき、必要な刺激、環境、子育てを創造し、実行することができるからです。
「アセスメント」というと、高度で、専門的な雰囲気を醸し出しますが、やっているのは子どもを丁寧に見ること、その変化をしっかり捉えることです。
アセスメントは特別なイベントではなく、日々の子育ての一部です。


「支援者は」と言うと大げさになりますが、私のアセスメントの仕方はこうです。
まずは、お子さん全体を見る。
イメージで言えば、部分を詳細に見るのではなく、ぼやっと全体を見る、その子の雰囲気を見る感じです。
ここでなにがポイントかと言いますと、全体の調和を確認することです。
お子さん全体を見て、何か違和感を感じるところはないか、それがあったら、まずそこを切り口に確認していきます。
また、発達障害のお子さんに関しては、全体的に発達が遅れているのか、部分的に遅れているのか、または進んでいるのか、を捉えます。
事前情報をあまり入れないのは、この最初の全体を掴むときに純粋に感じたいからです。


全体的な姿を見たあと、すぐに仮説を立てます。
アセスメントは、見るポイントが決まっていて、そこを1つずつ確認するのではなく、支援者が感じたことを元に仮説を立て、それを確認していく作業を言います。
「動きのちぐはぐさは、ハイハイのヌケじゃないだろうか」
「全体的に発達が遅れているのは、首が育っていないからじゃないだろうか」
「よく躓くのは、立体視が育っていないからかもしれない」
「話が聞こえていない。じゃあ、三半規管の育ちを確認してみよう」
こんな感じに、自分の頭の中で仮説を立て、次々に確認していきます。
そうやって、その子のどこに発達のヌケがあるのか、課題の根っこはどこか、どこを育てると生きやすくなるか、を探っていきます。


私が考えるアセスメント力とは、この仮説を立てる力、豊かさです。
経験が浅いときは、この仮説を立てることが難しいのです。
なんとなく、全部、障害特性に見えてしまいますし、どこか課題のポイントを見つけたとしても、それが何と繋がっているのか、どこを確認すれば明らかになるのかが分かっていませんでした。
そういった段階から経験を積んでいき、多くの仮説を立てられるように。
そして、たくさん仮説を立てられるようになったあと、余分な仮説を立てずに的確なアセスメントができる段階になります。
今振り返っても、「えらい遠回りしてアセスメントをしていたな」と自分でも思います。
発達相談後にお送りする報告書が年々シンプルになってきたのは、すこしずつでも前に進んでいると気づかせてくれます。


気づかせてくれると言えば、明日から広島出張です。
ありがたいことに、今年で3年連続の訪問になります。
某市の支援員さんと3日間、発達相談を行わせていただく予定です。
いつもは一人で家庭訪問をするので、客観的に私の仕事を評価してくれる人がいませんが、この広島出張では支援員さんから私に対してもいろいろと感想を聞くことができます。
私より経験豊富で、信頼できる支援員さんです。
支援員さんからどんな言葉を貰えるか、一年前の自分と比べてどうか、ちゃんと成長できているか、その辺りも楽しみにしています。
明日移動で、明後日から3日間、広島の皆様、どうぞよろしくお願い致します。




2020年7月20日月曜日

【No.1085】「正しい診断が正しい治療に繋がる」という考え方

ある医師は、診断についてこのようなことを言っていました。
「医療が診断にこだわるのは、正しい治療を行うため。正しい診断が正しい治療に繋がると信じている」
この話を聞いて、なるほどと思いました。
確かに診断を間違えば、治療方針を間違えてしまい、患者さんに不利益を与えてしまいます。
ですから、治療方針を間違えないように、まずは正しい診断という考えなのでしょう。


日本において神経発達症の診断も、医療の範疇になります。
しかし、病気や他の身体的な障害とは異なり、客観的な正しい診断ができない状況です。
そうなると、「正しい診断が正しい治療」というのから、『正しい』の文字が消えてしまいます。
「申請が通りやすいように、症状を重く書いておきましたから」
「お母さんが受けたい療育、支援に合わせて、診断名つけておきますから」
「とりあえず、自閉症をつけておけば、今後も支援が使いやすいですしね」
こんな話は、しょっちゅう耳にします。
そういえば、数年前、北海道で聴覚障害を偽装し、障害者年金をだまし取っていたという事件がありましたね。
本人の状態ではなく、親御さんの希望や医師のさじ加減で診断が変わるとしたら、それは正しい診断ができているとは言えないでしょう。


医療の外から診断を見ていますと、治療ありきの診断のような気がしています。
「この地域には、こんなサービスが利用できるから」
「うちの系列の療育に通わせるためには」
そんな感じで、地域の実情、資源に合わせて診断がされているような印象を受けます。
ある地域では、どの子も同じ診断名で、どの子も同じパターンの療育、支援を受けていました。


こういったことに、私は大きな違和感を持ちます。
私は医療ではない診断のトレーニングを受けました。
欧米では心理士も診断ができますので、そういった方面からの勉強です。
その際、重点的に教えられたのが、その子を深く知った結果が診断名で、診断はより良い支援を創造するための入り口である、ということです。
神経発達が盛んな子どもさんなら、なおのこと、発達・成長と共に診断名が変わっていくのは当然のことなのです。
客観的なデータ化、数値化ができないのですから、状態の変化が診断名の変化になります。
ということなので、あまり診断名自体が重視されていません。


ところが日本は、いまもなお、診断名重視で、一度、診断名が決まれば、それに合わせて行政も、学校も、支援も一直線に連なっていくイメージです。
「医師がつけたものを、医師以外の人がくつがえすなんて…」などと言われます。
そりゃあ、脳波や血液検査などの医学的で、かつ客観的な診断ができるものに対しては否定するつもりはありませんが、そもそもが「"正しい"診断ができない」「状態の変化とともに診断も変わる」という属性のものなのですから、というか日本以外は医師じゃなくても診断ができるものなのですから、否定もなにもありません。
「"正しい"診断ができない」という点では、医師も、私のような支援者も、親御さんも同じなんだと思います。


そもそもが「正しい診断が正しい治療に繋がる」と言える類のものではないのでしょう。
"正しい"診断がなければ、"正しい"治療もありません。
あるのは、その子がよりよく育つアイディアであり、神経発達を後押しするアイディアです。
「この診断名には、この方法」と系統立てることなどできないのです。


一人ひとり症状や状態は異なります。
神経発達は日々、変化していくものです。
ですから必要なのは、ある決まった日に付られた診断名ではなく、今日、この瞬間の子どもを見る目だといえます。
同じ「自閉スペクトラム症」だからと言っても、状態も、発達の仕方もみんな同じではありません。


「アセスメントも、育てる方法も、寄せ集めである」というのが、私の考えです。
「大久保さんが学んだ学派はなんですか?流派は?師匠は?」などと訊かれることがありますが、特別「これ」というものはありません。
私の知識、知見は、今まで歩んできた道で学び、拾ってきたものの寄せ集め。
たぶん、1つの流派では対応できないでしょう。
神経発達は無限ですから。
療育でも、自分が学んだ流派を押してくる支援者は治せないのは、お子さんと流派が一致したときだけ効果があり、まさに運次第だからです。


人は、正しさを求めると系統や秩序を求めます。
神経発達症を正しく診断しようとすると、〇✖クイズのような診断基準、マニュアルが出来上がります。
正しい治療をしようとすると、同じ診断名は同じ治療という不自由さが生まれます。
しかし、神経発達症に正しい診断も、治療も存在しません。
あるのは、一人ひとりにあった育て方のみ。
寄せ集めたアイディアの中から、我が子にあった、自分にあったものを選び、最適な育ちを作り上げていくことこそが発達援助なのだと私は考えています。
よって、「正しい診断が正しい治療に繋がる」のではなく、「その瞬間を見ることが、より良い選択に繋がる」だと思います。




2020年7月17日金曜日

【No.1084】「できる」と「できない」ではなく、「できる」を掘り下げる視点

日々、共に生活している親御さんの目からは「できる」「できている」と見える我が子の行動が、実際はそうではないことも多々あります。
「言われるまで、できている、大丈夫だ、クリアしていると思っていました」などという言葉をお聞きすると、訪問して良かったなと私は思います。
このアセスメントのズレに気が付き、そこを伝えていくのも発達相談の大事な仕事になります。


両足ジャンプができる。
スプーンで食事ができる。
相手に要求を伝えることができる。
文字が理解できる。
子どもの生活の中には、たくさんの「できる」があります。
その「できる」が増えていくことが発達、成長であり、より良い子育てである、というのは正しい考えです。
なので、なにかできるようになると親御さんは安心し、また次の「できない」から「できる」に意識が向いていくのは自然なことなのです。
しかし、その「できる」にはバリエーションがあります。


できないことに対して、「なぜ、できないのだろうか?」「どうしたら、できるようになるのだろうか?」と考えるように、できることに対しても、「なぜ、できるのだろうか?」「本当にできているのだろうか?」というように考えていきます。
なぜなら、一見すると問題なくできているような行動の中に、「"見せかけ"のできる」「"無理をして”のできる」「"意識して"のできる」が混じり込んでいるからです。
私の感覚では、こういった感じの「できる」はできると考えません。


「"見せかけ"のできる」とは、パターンや学習、適応の結果としてできているという意味です。
たとえば、飲み物が欲しいときに、「ジュースちょうだい」と言う。
でも、それが音の丸暗記ということもあるのです。
とにかく「ジュースちょうだい」といえば、飲み物が貰えると学習している子どももいます。
他の飲み物が欲しいときや食べ物が欲しいときにも、同じように「ジュースちょうだい」と言ったり、コミュニケーションの核である「相手に伝える」というところが抜けていたりすると、「"見せかけ"のできる」だと考えられます。
要求する相手のほうを見ていない、うわごとのように言う、といったのは、コミュニケーションしているとはいえないからです。
数多くのコミュニケーションカードを使っているが、人と人とのやりとりが成立していない子がいます。
カードの豊かさが、その子のコミュニケーションの豊かさにならないのは、「"見せかけ"のできる」をできると評価してしまうことに原因があります。


「"無理をして”のできる」とは、端的に言えば、そこにエネルギーの大部分を使ってしまっている、ということです。
学校を休まず登校できている、毎日、宿題をやり遂げることができている。
でも、学校から帰ったら横になって動けなくなる。
でも、宿題を終えるだけで何時間もかかる、宿題以外、なにもできなくなる。
そういった「できる」は、無理をしてなんとかできているのだといえるでしょう。
これを「できる」と評価してしまうと、本人に限界が来るまで、周囲からも、もしかしたら本人自身も見過ごすという結果になってしまいます。
不登校やひきこもりの人からの相談もありますが、親御さんも、先生も、同じようなことをおっしゃいます。
「大変そうだったけれども、本人が頑張ってできているから大丈夫だと思った」
「そうやって頑張って続けているうちに、力がついてくると思った」
これも「できる」という勘違いが生みだした悲劇です。


「"意識して"のできる」というのも、「"無理をして”のできる」と重なる部分があります。
もしかしたら、この二つを分ける必要がないのかもしれません。
でも発達相談において、「今のは、意識してできているのですね」と私は指摘します。
どういうときにそれが見られるかと言いますと、本人の意識が他のことに向いたときです。
たとえば、コップを片手で持ち、飲んでいる。
でも、話しかけられ、それに応えようとしながら飲む際、両手でコップを持って飲んでいる。
片手での操作は、右脳と左脳の分化、利き手の確立、同側性の動きなどといえますが、咄嗟に持ったとき、意識が他へ向いたとき、両手で持つというのはまだ前段階の発達が本当のところとみます。
他には、スプーン食べできているけれども、疲れてくると手づかみ食べが出る、「スプーン使って」と言われないとスプーンで食べないなどもあります。
大人のかたでも、意識しないと寝返りが打てない、座った姿勢から立ち上がれない、走ったりジャンプしたりできない、相手の気持ちが想像できない、空気が読めないといったこともみられます。
「意識してできるんだったら、いいじゃないか」と言われそうですが、特別な技術や運動以外で、ほとんどの人が無意識に行えるような基本動作、思考が意識しないとできないようでは問題ですし、そこにクリアすべき発達課題があると考えるのは当然です。


じゃあ、本当に「できる」ってどういうことを言うのでしょう?
ある行動に注目したとしても、その行動の背景にはいろんな発達があり、他の発達ともつながっていますので、実際のアセスメントでは、一つの行動だけをとりだして評価をすることはありません。
ですが、敢えて言葉にするのなら…
その行動が「別の場所、人、行動に応用している、応用できている」
その行動が「その人の持つエネルギーの大部分を占めない。それを行っても、他の活動、生活に支障が出ない」
その行動が「咄嗟の場面でも、他に意識が向いたときでも、一定の水準で行うことができている(例:意識して走ると早いが、無意識になるとガクンとスピードが落ちる、転ぶことがあるなど)」
といったところでしょうか。
私の場合は、ある行動を見たとき、その姿から滑らかさの雰囲気を感じないと、「おやっ」と思い、アセスメントの掘り下げを行っていきます。


支援者の習性として、彼らは子どもの「できないところ」が大好物なものです。
「ここができない」「あれもできない」
そう指摘すると、支援者である自分に、親御さんの意識が向いてくるからです。
それこそ、濃密な1対1関係への希求です。
そういった影響もあり、我が子を見る際、「できる」と「できない」というシンプルな視点になってしまいがちです。
でも、「できない」だけではなく、「できる」も掘り下げていくことが重要です。
それもより良い子育て、その子の豊かな生活には必要な視点になるからです。
是非、親御さんには我が子の「できる」に関しても、深く感じ、深く見て頂きたいと思います。




2020年7月15日水曜日

【No.1083】求めてくる関係性から治す人か、治せない人かを見る

新大阪から伊丹空港へ向かうバスに乗ると、隣の席にご年配のグループが後からやってきました。
ツアーかどうかまではわかりませんでしたが、みなさんで地方へ旅行に行くようです。
「わしら、コロナが終息するのを待っとったら、生きてるか分からんしな」とある男性が言うと、グループの仲間もそうだそうだと大笑い。


移動した先でコロナの発症者と出会う確率。
出会ったとして、その発症者と自分が濃厚接触者になる確率。
濃厚接触者になって、自分が発症する確率。
自分が発症し、そこから重症になる確率。
重症になったあと、回復しない確率。


そういった確率を掛け合わせ、宝くじで億万長者になる確率よりも低い可能性と、自分の人生をよりよく生きようとするための選択。
「1年の自粛、2年の自粛」
そんなことを許容できるのは、1年後も、2年後も、生きているという前提があるから。
ご年配のグループのかたじゃなくても、そう、私だって1年後、2年後、確実に生きているとは限りません。
人の生死をいつも見ている医療関係者だから、個人の想い、息づかいが見えなくなっているのかもしれないと思います。
誰のための自粛なのか、医療に個人の選択を規制する権利があるのか、医療従事者以外、一般の人には健康を保ち、病気から身を守ることができないとお思いなのか。


6月以降の出張では、みなさん、口を揃えて、こうおっしゃいます。
「このコロナ自粛期間中に、子どもがグンと伸びた」
南は行っていませんが、北も、東も、西も、どこに行っても、「家で過ごしているときが一番伸びた」とおっしゃっていました。


この理由はとてもシンプルです。
発達障害の子ども達の多くは、胎児期から2歳前後の発達過程にヌケや遅れが生じます。
この時期のヒトの発達というのは、主に1対1関係、または環境との関係性の中で育まれて行きます。
幼稚園や保育園などの集団生活の中で刺激され、発達する部分もありますが、そこが発達の遅れの根っこだということはあまりありません。
ですから、親子で濃密な時間が過ごせた自粛期間中に、根っこの育て直しが進んだのだと考えられます。


また商業施設等に行かなかった分、公園や自然の中で過ごす時間が増えた。
自然の中は五感を刺激しますし、何より自分の身体が遊び道具となります。
これまた胎児期から2歳前後で育てる部分とマッチします。
あるご家庭では、1年以上、療育機関に通っても変化がなかった部分が、この自粛中にクリアできたと言っていました。
1対1の関係性の中で、五感や運動を刺激する自然の中で、発達のヌケが埋まっていくのは当たり前なことなのです。


1対1の関係で言えば、親子なら良いのですが、支援者とはいけません。
1対1の関係は、感情を共有し、濃密な関係性を築くためのものです。
親子の濃密さは、子どもの心身の安定を生み、発達に向かうための力になりますが、支援者との濃密さは依存を生みます。
依存は、自立を阻む最も大きな障壁です。


ですから私は、発達相談において、1対1の関係性にならないように、そこを求められても濃厚になっていかないように注意しています。
あくまで私は、その子の発達課題を直接クリアする存在ではなく、クリアできるために共に考える存在でいようと心掛けています。
「私が治しましょう」ではなく、「より良い子育てを一緒に考えましょう」です。
対象が人ではなく、発達課題であり、より良い子育てになります。
治すのは本人、それを後押しするのは家族、アイディアを出すのが支援者。
ここのところを間違うと、治らないし、依存が生まれるし、自立からどんどん遠くなっていきます。


愛着障害を持つ支援者、治せない支援者というのは、この1対1関係を築こうとしますし、この関係性を築くことが支援である、仕事であるという大きな勘違いをしているものです。
やたらと親御さんに共感し、褒めたたえる支援者。
やたらと「子どものため」といって、手とり足とり、なんでもやってしまう支援者。
そういう支援者が一番自立を阻みます、親も、子も。
1対1関係は、その二人の間で関係性を深めるためのものですから。


このように言うと、「じゃあ、成人の当事者から相談があったとき、お前はどうしてるんだ」と言われそうです。
当然、本人と私の1対1ですので、自然と関係性を深める方向へと進みがちです。
しかし私との関係性を深めても、自立できませんし、発達のヌケは埋まっていきません。
ですからこういった場合にも、対象を「私とあなた」ではなくて、「発達のヌケ・課題」とします。
本人と私が結びつくのではなく、課題を通して結びつくのです。
そうすることで、本人の「私が自分の課題と向き合う、解決を目指す」という姿勢を妨げないで済むことができるのです。


医療の話に戻れば、医師の中にも、1対1関係で進めようとする人が少なくないような気がします。
「私と患者」の濃密な関係を築こうとし、本人の自助努力よりも、「私に従っておけ」という姿勢が見られます。
それが端的に現れるのは、発達障害の診断の際。
親御さんは子どもの発達の課題と解決を中心に関係性を結ぼうとするのに、それを拒否する医師。
だから、「この子は自閉症です」「療育を受けてください」「生涯、このままですよ」と、濃密な関係性で成り立つ、もっといえば、主従関係でのみ成り立つような無礼なことを口にしてしまうのだと思います。


ここには書けませんが、どれほど多くの親御さんが、診断時の医師の言葉に傷つき、苦しんできたか。
「何様のつもり」というエピソード満載です。
中には、その言葉で親御さんが精神的な疾患になった人もいるくらいです。
病院に行って、病気になってどうするんだ、って感じです。
親御さんは我が子に発達の遅れがあることよりも、専門家の言葉や態度に傷つくことが多い。


愛着障害を持つ人は、1対1関係を求めます。
ですから、本人も、親御さんも、支援者も、自立するためには治す必要があるのです。
親子での濃密な時間は、胎児期から2歳前後の発達課題をクリアさせますが、濃密な関係性のベースに愛着障害があれば、依存を生みます。
愛着障害を持つ支援者が、当事者の自立を阻むのと同じように、親御さんが我が子の自立を阻むケースも少なくありません。
そういった意味で発達相談のとき、他人である私とどのような関係性を求めてくるかで、愛着の発達状態を見ます。
愛着障害を治すほうが、発達のヌケを治すより優先すべきケースもあります。


今回のブログは、話があっちこっちに言ってしまいましたが、支援者を見抜くアイディア、「求めてくる関係性から見る」というお話でした。
今の支援者、過去の支援者、これから会う支援者を見抜くための視点としてお持ちいただければと思います。
あと業務連絡です。
今回の関西出張の報告書、郵便局で出してきました!