2018年10月15日月曜日

疑い尽くした先に、その子の本質がある

「うちの子、睡眠障害があるんです」と、相談がある。
それで、詳細にお話を聞いていくと、寝る前にゲームをやっていることがわかる。
「じゃあ、そのゲームの刺激が眠りを遠ざける可能性もあるので、寝る前は止めるようにしたり、時間をずらしたりするのは、どうですか?」と提案すると、「ゲームは本人のこだわりだから」「禁止すると、怒るから」と返ってくる。
この子は、本当に睡眠障害があるのかもしれません。
でも、その結論を出す前に、やるべきことがあるのではないか、と思います。


他にも似たケースがあって、「授業中、ボーとして、注意散漫だ」という子の相談がありました。
ADDの診断を受けていましたが、話を聞くと、朝食を食べずに学校に行っているという。
脳を動かすエネルギーが足りなければ、頭が働かず、ボーとするのは当たり前だと思います。
発達障害の前に、ヒトであり、動物なんですから。
水分摂って、陽にあたっていれば生きていける植物とは違う。
衝動的に手が出てしまう子の話を聞けば、甘いお菓子ばかりを食べている。
何年も引きこもっている人の相談に伺えば、カップ麺とコンビニ弁当しか食べていないという。


快食、快眠、快便は、基本中の基本。
発達障害とか、知的障害が重いとか、まったく関係がありません。
施設に子どもが入所してきたとき、まず最初に整えていくのが、この快食、快眠、快便です。
ここがクリアされない限り、特に強度行動障害の人達の支援は始めることができません。
だから、上記のようなケースの相談があるたびに、本人ではなく、周囲が障害、困難さ、生きづらさを決めてしまっている、と感じます。


本来なら、やれることがあれば、それをすべてやってから、受診なり、支援なり、相談を受けるべきだと思います。
上記のようなケースの中には、そのまま、つまり、やれるべきことをやりつくす前に、医療、支援者と繋がったばっかりに、その子の本質的な問題として投薬、治療、支援が行われてしまった人がいます。
寝る前に何時間もゲームをしたり、布団に入ってからもテレビをつけ続けていたりしているのを伝えず、ただ「眠れない」「睡眠が乱れている」だけが伝わる。
そうすると、睡眠薬が処方される、「9時になったら寝ます」という絵カードが提示される、9時までに布団に入れたら、ボーロが貰えるという異質なルールが誕生する…。
こうやって、本質からどんどんズレていき、これが何年も続けば、作られた生きづらさの完成です。


私は、発達援助をする上で、必ず疑いから入ります。
「睡眠導入剤を飲んでいるけれども、本当に薬が必要なのだろうか?本当に睡眠障害なのだろうか?」
「検査結果では、重度の知的障害となっているが、本当に重度なのか?これ以上、伸びていかないのだろうか?」
そんな風に、一旦、必ず疑問を持つようにしています。


この姿勢は、施設職員時代に形成されたのだと思います。
強度行動障害の人の支援をする際、その人のことを「強度行動障害」と見た瞬間、何も支援ができなくなるのです。
いろんな施設を渡り歩き、辿りついた人もいる。
実際の行動、日々は激しいもの。
そんなとき、疑うことをしなければ、向かう先は抑制、抑圧。
物理的に制限を加えるか、薬の力を使って行動を起こせないようにするか。


疑うことは、着想を生みます。
「こだわり」と言われているけれども、それ以外、知らないからかもしれない。
傍を通る人に手を出してしまうのは、周囲の空気を感じる感覚が育っていないのかもしれない。
身体をつねってくるのは、相手を呼ぶための手段を持ち併せていないからかもしれない。
疑問から着想が生まれ、実際にやってみる。
そうやって繰り返していく中で、直ることも多々あります。


睡眠障害、一つとっても、本当にやり尽くして、最後に残ったのがその症状なのか、と思うことがあります。
寝やすい環境を整えること、睡眠に入りやすいリズムを作ること、眠れる身体を育てること…。
それらをやり尽くす前に、「はい、睡眠障害だ」「はい、不登校になった」では、その子の本質を見誤ることになる。
そして何よりも、その子の未来の選択肢を、周囲の頭の中で狭めてしまうことにもなる。
このように不幸になってしまう子ども達は、少なくないように感じます。


人と関わる仕事、ヒトを育む営みに、100%はありません。
だからこそ、疑う視点が大事なのです。
脳画像を見せられ、「この子の言語野は白くなっていますから、一生しゃべることはないでしょう」と告げられた子が、今、普通にしゃべっている。
就学時に言葉がなく、知的障害も重度だった子が、今、普通の人として一般就労している。
こういった若者たちの陰には、専門家から言われたことに対しても、ちゃんと疑う視点を持てた親御さん達がいます。
治す親御さんと言うのは、みなさん、こういうのです。
「あのとき、そう言われたけれども、私は違うと思ったんだ」
「具体的な方法はわからなかったけれども、別のところに解決する方法があると思ったんだ」と。


「発達障害は治りません」
「この子は、一生支援を受けて生きていく子です」
そんな専門家の言葉を聞いて、「はい、そうですか」と思う人が治るわけないのです。
人が人の人生をどうやって見通すことができるでしょうか。
医学免許を持っていたら、ナントカ療法の免許を持っていたら、その子の神経発達の仕方が見えるというのでしょうか。


神経発達の仕方がわからないのだったら、必要なのは神経発達を促すアイディアです。
治る治らないという結果ではなく、プロセスが重要なのです。
プロセスを豊かにしていくには、試行錯誤。
その試行錯誤の源は、疑問に思うことです。
睡眠障害という結果からは何も生みません。
でも、睡眠障害を疑うことで、解決の糸口が見えてくる。
そして、その子の本質を見ることに繋がります。


症状で診断される発達障害。
ということは、見える部分だけでレッテルがついてしまうということ。
疑問という視点がなければ、生きづらく見えることが本質になってしまう危険性があります。
全国から相談をお受けしていますが、まるで流れ作業のようにレッテルがついているように感じます。
「本当に、発達障害なのだろうか?」という疑問が削ぎ落されている雰囲気の中、元気な子まで発達障害になっている姿を連想します。


「治らない」に疑問を投げかけることで、治る部分と治る道が見えてくる。
だから、専門家の言う「治らない」は罪なのです。
疑う姿勢を否定し、プロセスを排除するから。
「治る」は結果。
神経発達を促すはプロセス。
そのプロセスとは、子育てそのもの。
つまり、「治らない」というのは、専門家からの子育ての否定なのです。
子育てを奪おうとする専門家に対して、親御さんは疑問に思うことで対抗してもらいたいと願っています。

2018年10月14日日曜日

「全員、治らない」と、どうして言えるのだろう

もう過去の話になりますが、自閉症、発達障害の人たちは、「脳の機能障害」と言われている時代がありました。
2013年5月に「神経発達の障害」と改訂されたのですから、もう5年以上前のお話になります。
でも、いまだに「脳の機能障害」と言い続けている人がいます。
しかも、発達障害が治らない根拠として、それを用いているのです。


まあ、100歩譲って、「脳の機能障害」でもいいです。
しかし、じゃあ、なんで「脳の機能障害」なら、治らないといえるのでしょうか?
機能障害とは、損傷とか、機能不全の状態のことを表しています。
発達障害は、脳に損傷ができたためになる障害ではありませんので(だって、先天的な障害なんでしょ)、脳に機能不全の状態の箇所があるということ。


脳に機能不全の箇所があるのなら、その状態を回復させればよいのです。
というか、専門家なら、医師なら、その方法を研究し、目指すのが当たり前。
欠損した脳を回復させるのは難しいでしょうが、機能不全の状態を回復させるのは不可能ではないはずです。
だって、脳の素晴らしい性質である「可塑性」があり、病気や交通事故で脳に損傷した人たちには、当たり前のように昔からリハビリが行われているのですから。


必要な刺激を与えることで、脳の機能不全を改善しようとするのは自然なことで、可能性のないことだとは思えません。
現に、発達障害の子ども達も、ずっと赤ちゃんのような発達段階のままということはなく、定型ではなくとも発達し、成長するのですから。
排せつや身辺処理、勉強や運動など、成長とともにできるようになっている姿は、ただ単に適応や暗記しているだけではなく、発達している、発達する可能性があることを示しています。
だったら、脳の機能不全の部位だって、その状態のレベルだって、発達のスピードだって、一人ひとり同じなわけはないのですから、「発達障害」というラベルが同じでも、みんながみんな、治らない、治る可能性がないとは言えないのです。


「脳の機能障害」だから発達障害は治らない、というのは答えになっていません。
それは発達障害が治らないんじゃなくて、脳の機能不全の状態を回復させるアイディアを持っていない、という意味。
むしろ、発達障害、本人の問題というよりは、専門家の方の問題ではないでしょうか。
そもそも誰が最初に「脳の機能障害だから、発達障害は治らない」と言い出したんでしょうかね。
というか、脳の機能障害と言われ始めたのは、もう何十年も前のことですから、いつまでその当時の知識をひっぱるのか、と思います。
「脳の機能障害」は、冷蔵庫マザーを否定するという意義は十分果たしたのですから。


「神経発達の障害」と言われてから、もう5年以上が経ちました。
どう見ても、知的障害の重い軽いに関わらず、発達障害の子ども達はみんな、神経発達が起きています。
決して、神経発達が起きる可能性がない人たちではありません。
発達障害のあるなしに関わらず、神経発達の仕方は多様ですし、受精後の環境と刺激の影響を受けて変わっていきます。
定型発達の子との違いがあるとすれば、発達の順序。
発達の順序が違ったり、段階を抜かしたりすることが、「治らない」という証明にはなりません。


この5年間の間にも、神経発達を促すための知見や情報、実際、子ども達で見られた素晴らしい結果が集まってきました。
神経発達の仕方は、一人ひとり違う。
そして、その子にあった促し方、育み方も、一人ひとり違う。
だからこそ、こういった知見や実践で得られたものは、本人、親御さん、支援者にとって貴重な着想となります。
発達障害全体を一色単にしたような概念的な知識は、目の前の子のより良い発達の仕方には役に立ちません。


発達障害を概念、文字、知識として捉えている人の前には、治る人も、治った人も現れないでしょう。
学問の発達障害は固定されたものになるが、目の前の人に固定など存在しません。
神経発達の仕方も多様。
神経発達のヌケや遅れている箇所の多様。
その人自身を見ても、今と次の瞬間には、異なる神経発達が起きている。


ですから、常に変化し、神経発達が起きているヒトに対して、「全員治らない」とは言えないのです。
確かに治らない人はいるかもしれない。
でも、確実に治る人はいるし、全部が治らなくても、部分的に治る人はいる。
だって、みんな発達する力、可能性を持っているし、生まれた後の環境と刺激の影響を受けて発達の仕方が変わっていくから。
発達の可能性があるのなら、その可能性にかけ、できることは何でもしようとするのが親心。
その親心が向かう先は、学問としての言葉、概念ではなく、全国で積み重なってきた知見と実践の成果だと思います。
そうして試行錯誤し、得られた結果が、また誰かの神経発達を後押しすることになるのです。

2018年10月11日木曜日

身体と選択の育ちが主体を育み、主体の育ちが想像力の育ちと繋がっている

この仕事をするまで、「主体性」なんて考えることはなかったですね。
自分に主体があるのは当たり前ですし、自分以外の人だって、それぞれ主体を持っている。
自分に主体があるから選択し、行動することができる。
他人にも主体があるから、その選択、行動を侵すようなことはしてはならない。
そんな風に思っていました。
でも、この主体が「わからない」人がこんなにもいるのか、と感じるのが、この仕事を始めてから続いています。


「自分と同じように、他人にも主体がある」という視点がない人は、自分の脳内のみで物事を完結させます。
また、自分から見える他人の行動のみで、物事を判断します。
だから、平気で他人に対し、自分の価値観を押しつけてくるし、自分と異なる意見や考えを理解することができません。
これは、想像力の問題。
そんな想像力の土台になっているのは、感覚、内臓、身体、動きなど。
一言で言えば、自分という主体がちゃんと育っていないということです。
自分が分からずして、他人の視点を想像することはできません。


はっきりしない自分が、想像力の問題の正体です。
それを、いつまで経っても「それが障害特性ですから」というレベルから抜け出せない人が、「理解をー」と叫び、応用の利かないパターンで想像力を補うことを教えます。
でも、これは想像力の問題を補っているのではなく、当然、想像力を育てようともしていません。
ただのその場しのぎであり、支援者が「ちゃんと支援やってますよ」とアリバイを作っているだけ。
真の支援者、専門家だったら、想像力を構成する神経発達に目を向け、その発達自体を促せなければ責務を果たしているとは言えないでしょう。


他人の主体を侵すまでに至らなくても、主体が乏しいと感じる人は、親御さんの中にもいます。
その人の物語を辿っていくと、主体を育てる機会の乏しさと突き当たります。
親が常に先回りしていた子ども時代。
自分の意思よりも、親の意思が優先された子ども時代。
親が思い描く姿になることが、自分のすべてだった人が大人になり、子どもを授かると戸惑います。
また、子ども時代の親の意思というよりも、環境、空気感を読み、自ら主体を無くしてきた人もいます。
それが主体性のない支援者であり、有名支援者、エビデンスなどの言葉に従ってしまい、自らの意思や感覚が押しだせない支援者たち。


想像力の問題は、固定された障害ではなく、未発達という意味。
だから、必要なのは、育んでいく機会です。
でも、想像する力を養おうとして、いくら相手の気持ちを考えさせる練習をしても意味がありません。
想像力が育つには、主体が育っている必要がある。
それには身体を育てていくことが重要です。
またそれと同時に、選択する機会が重要。


自らで選択することで、自分が何が好きで、何が嫌いかがわかってくる。
最初は、食べ物や遊び道具など、具体的なものから。
そして徐々に、何がしたいか、したくないか、抽象的なものの選択を行っていく。
そうすることで、自分というものが何なのかはっきりしてきて、自分という主体が掴めるようになってくる。
主体を育むというのは、身体からと選択からの両方があると考えています。
先回りする親も、失敗させない支援者も、この選択の機会を奪うことに繋がるため、その子の主体性が育たず、結果的に想像力の問題へと繋がっていくように思います。


私も施設では、自閉症、行動障害だけではなく、重度、最重度、また測定不能と言われるような方達の支援に携わっていました。
今も、知的障害の重い方の発達援助に関わっています。
でも、知的障害が重かったとしても、選択することはできますし、選択する力は養っていけると思います。
それが例え限られた範囲で、具体的な物だったとしても。
どんな重い子でも、私は選択する機会を尊重し、大事な育ちだと考えています。
拒否だとしても、それは本人にとっては、大事な主体の一部です。
拒否できない、拒否できなかった姿は、愛着障害の人の姿と重なります。


決められたスケジュールを淡々とこなしているようでは、主体は育っていきません。
生活、育ちの中に、選択がないからです。
特に支援者というのは、当事者の主体性を嫌いますので、こういった選択のない支援が横暴しているのです。
ですから、いつまで経っても、「想像力の障害」から抜け出せませんし、育もうなんていう視点は出てきません。


主体の育ちと想像力の育ちは繋がっていると思います。
主体は、身体という土台の育ちと、選択の機会が育んでいくと思います。
選択の発達過程は、具体的なものから抽象的なものへ。
2つの選択から3つの選択、そして最後は選択肢のない中での選択です。
「これが好きだから、このおやつ」ではなく、「こっちとこっち、どっちにする?」というひと手間が大事な育ちになるかもしれません。
選択の機会だったら、今日、今からすぐにおうちで行うことができますね。

2018年10月10日水曜日

想像力の問題は、自立を妨げる本丸

いつも疑問に思うのですが、「治るなんてインチキだー」「トンデモだー」と言っている人、それは何を見て、そう言っているのでしょうか?
そうやって、見ず知らずの当事者の方や親御さん達のことを批判し、また治るという考えの元、発達援助、後押しをしている人達のことを、人を騙して儲けているかのように表現する。
それくらいの発言をしているのですから、それなりの覚悟と根拠があるのでしょう。


「治る」と言っている人達が、どのような育て方をしているのか、また「治った」と言っている人が、どういう人なのか、それを自分の目で確かめない限り、本当の意味で批判することはできないと思います。
というか、そういった確認をしないで、相手のことを調べもせず、ただ自分の考えのみで批判するのは、便所の落書きレベル。
本来なら、見向きもされないのが普通です。
でも、ツイッターとかで反応を貰っちゃうと、あたかも自分が正しいことを言っているかのように勘違いする。
何故なら、こういった自分の身体を通した確認ではなく、自分の頭の中で作った物語で生きているから。
つまり、想像力に問題があるから、勘違いを起こすのです。


昔、発達障害の子ども達は天使だ、なんて言っていた支援者がいました。
天使なんかであるものですか。
発達障害の人も、定型発達の人と同じように他人を傷つけることもある。
特に、想像する力の問題が、引き金になることが多い。
相手の気持ちを想像することの欠如。
自分勝手な脳内論理で善悪を判断し、独りよがりの行動を起こすことは珍しくない。
社会や周囲の理解よりも、この想像の問題が問題なのです。


支援者から「様子を見ましょう」と言われた経験は、どの親御さんもあることだと思います。
でも、その理由が「敢えて引き延ばすことで、自分たちの推奨する支援を利用してくれること」という本音を聞いたら、みなさん、どう思うでしょうか。
治る道を進む人、標準療育の道を進む人、そんなのは関係なく、どの親御さんも怒りがこみあげてくるのではないでしょうか。
自分の命を分けて生んだ子に障害があると分かったとき。
そして、その子の障害と向き合うことを決め、我が子のためにできることは何でもするという腹をくくり、頼った専門家が「様子を見ましょう」と繰り返す。


様子を見たいから、相談に行ったのではなく、何でもするし、したいから相談に行く。
「様子を見ましょう」という答えのない答えを聞くために、相談する親御さんなどいないはずです。
相談に行けるまでの心情の動きを想像するだけで、親御さんの悲しみや苦しみが伝わってきます。
完全に親御さんの心情を理解し、共感することはできなくとも、想像することはできます。
でも、もしこの想像する力に問題があったとしたら、そんな親心を踏みにじる行動をしてしまうのでしょう。
それがまさに自分の利益、自分の脳内論理のみで、引き延ばしをする行為なのです。


想像力の問題は、他人を傷つけることになり、またそれによって自分も孤立し、傷ついていくことになる。
極端なことをいえば、身の回りのこと、収入を得ること、移動や余暇のサポートは他人にやってもらうことができる。
でも、それだけでは、社会の中で生きていくことはできません。
想像する力が重要なのです。
そこに大きな問題があれば、自分をサポートしてくれる人がいなくなってしまうのです。


どこに他人のことを平気で傷つける人のことをサポートしたいと思う人がいるでしょうか。
例え仕事だったとしても、そんな人と関わりたくないと思うのが人の心です。
実際、福祉の仕事を離職する理由の中で、仕事が金銭的、体力的、心理的にきついのもそうだけれども、もうこの人達の支援がしたくなくなった、関わりたくなくなった、と言う人が多いのです。


ヒトは損得のみで行動するのではありません。
ここが分からない人は、行動療法を盲信するように感じます。
心があり、意思があり、主体性がある。
ここが分からない人は、自分の意思で選択した「治る」という道で頑張る親御さんを見て、「騙されている」「甘言につられてしまった」と解釈するように感じます。
どっかの新興宗教と違って、一度入ったら抜けられない、などということはないのです。
自分の意思で選択、行動し、育んでいるのが、多くの親御さん。
もし、良いと思った育て方が我が子に合わなくなったと感じたら、すぐに止めるに決まっています。


「治るなんてインチキだ」という人は、その治るという方法も、人たちのことも自分の目で確かめることをしない。
すべて自分の脳内でできた物語で、独りよがりのことを言っているだけ。
普通、「治るなんてインチキだ」というのは、実際にやった人達が言うものです。
「治ると言っていたけれども、全然、治らないじゃないか。子どもは成長しないじゃないか、変わらないじゃないか」という声は、実際を知らない、知ろうともしない者が言うセリフではありません。


治る道を歩んでいる本人、家族からは、「この知見と出会ってよかった」「子どもはどんどん発達するし、課題が解決していっている」という声ばかり。
そして、「インチキ」「トンデモ」と言っている人は何も知らない人であり、聴こえてくるのは、自分は、我が子は「生きづらーい」という声ばかり。
この図式を見れば、特別支援の知識があるとかないとか関係なく、想像する力がちゃんと育っている人は真実を理解することができます。


想像する力が育っていないとしたら、ちゃんと育てなきゃなりません。
「ここの場面では、こう振る舞う」などといった方法ではなく。
空気が読めないのなら、自分の感覚面を育て直す。
他人の心情、視点が想像できないのなら、まず自分の主体性を、内臓、背骨など身体面から育て直していく。
「私、発達障害があって、相手の気持ちがわからず、傷つけてしまうことがありますので」と言われても、許されないのが自然な社会。
想像力の問題は、自立を妨げる本丸なのです。

2018年10月9日火曜日

「問題行動は無視」は、半分あおい

「問題行動は無視」という標語は、腐るほど、耳にしました。
で、この「問題行動は無視」というのは、ある部分は合っていて、半分足りません。


自閉症児施設で、かつ、強度行動障害の人達の支援をしていましたので、問題行動と向き合うことが仕事とも言える状態でした。
問題行動に対して、その知識や技能がない、何ら手立てが浮かばない、というのでは、仕事ができませんし、何より自分の身を滅ぼすことにもなります。
ですから、その当時、良いと言われているものは、すべて学びましたし、有休は使えなかったので(そもそも存在していない!?)、休みをどうにかやりくりし、全国どこでも行って研修を受けました。


今から10年以上前になるその当時から、「問題行動は無視」という標語はよく耳にしていました。
でも、これは問題行動なら何でも無視すればいい、という話ではありませんし、大事な後半部分が抜けているのです。
問題行動は無視ししても、良くなることはありません。
いや、良くなることなんか、あり得ません。
私が施設で働いていたときも、そんなことをする人なんか、現場に一人としていませんでした。
もし、それをやっていたとしたら、支援者は死んでいます。


私も、臨時で急遽、いつもとは違う寮に入ったとき、ちょっと気を抜いた瞬間、ある利用者の人が後ろ向きに倒れ掛かってくることがありました。
その利用者は、体重100㎏オーバーで180㎝以上の大きな人。
その人の側を通った瞬間、倒れ掛かってきたので、そのまま、下敷きになりました。
一人勤務でしたし、持ち上げることも、抜け出すこともできない状態でしたので、こりゃあ、終わったかな、とも思いました。
でも、この利用者さんが男性だったから、助かった。


まあ、このように飛んでくるのは大男だけではなく、手も、足も、食器も、家具もです。
噛みつき、頭突きは日常茶飯事。
だから、現場の職員は、問題行動を無視しないし、そもそも単に「無視しましょう」という話ではなかったはずです。


私が学んだ知識としても、現場での経験としても、他人を巻き込む問題行動はコミュニケーションとして捉えます。
どういった意図を持ち、相手に向かって来ているか、その意図、伝えたいことを確認します。
そのとき、例えば、「喉が渇いた」「水が飲みたい」という要求の意図で、噛み突きを行っていたとしたら、噛み突かれて、すぐに水を手渡すのではなく、噛み突き自体には要求に応えるという反応はしないで(ここが無視)、コップを持ってくる、蛇口を指さしする、「ミズ」と言葉で言うように促す、といったように、適切な要求の仕方を教えます。
つまり、他人に向けられた問題行動は、コミュニケーションと捉え、その意図を分析し、適切な行動を教えていく。
だから、「問題行動は無視」は、部分的に合っていて、教える部分が表現されていないので足りないのです。


あと、問題行動と一口に言っても、状況や本人の発達状態によっても様々です。
上記のような他人を巻き込まない問題行動だってある。
たとえば、排泄物をいじったり、衣類や置いてある物を破壊したり、叫んだり、自傷したり、不適切なものを食べたり。
こういった一人で完結する問題行動は、背景に虫歯や病気が隠れていたり、睡眠や食事、栄養、トラウマ、フラッシュバックなどが影響していたり、感覚や内臓、身体、動きなどの発達課題をクリアするための自らの育ち直しだったりします。
当然、こういった問題行動に対処、直していくには、細かい分析と根気がいる指導、支援が必要です。


「問題行動は無視」が現実を表していないのは、時間を部分で区切れない入所施設の職員と親御さん、家族は分かっています。
逆に言えば、こんなことを信じるのは、現場を知らない支援者、情報を得ただけで勉強した気になっている支援者くらいなもんです。
というか、一般的な感覚なら、「無視しても意味ないでしょ」「ちゃんと教えなきゃダメでしょ」となる。
というか、特別支援に少しでも関わっているのなら、これだけ問題行動に困っている本人、家族、支援者がたくさんいるのだから、無視だけでうまくいかないのは、考えれば分かるはず。
問題行動を無視しただけで解決するなら、専門家はいらない。


「問題行動は無視」という言葉を聞くと、小学校のクラス目標を連想します。
先生役の専門家が、「問題行動は無視ですよ」と言う。
それを児童役の支援者たちが「分かりました」と言って、それに沿った行動をしようとする。
何故、それが正しいのかを教えない先生と、「先生が言ったから」と理由を深めていこうとしない児童。
そんな姿が、「問題行動は無視」と聞いただけで、実際にやってしまっちゃう支援者たちと重なります。


「問題行動は無視」もそうですが、他の療育方法でも、なんだか表面的な意味で捉え、しかもそれを頑なに信じ、実行していることが少なくないように感じます。
どうも支援者というのは、自分の頭で考えるのが苦手なようです。
誰か有名な先生が言っているから、正しいみたいな人が多すぎです。
多分、支援者の多くは、発達障害の人と部分的にしか接していないからでしょう。


学校や療育機関、児童デイなど、問題行動を無視していても、時間が経てば、子ども達は帰っていきます。
だから、「その時間だけでも」とか思って、無視し続けることができてしまう。
でも、家庭ではそうはいかない、入所施設も。


私が施設職員だった当時ではありますが、行動障害がある子ども達は学校に行っても、教室の隅に作られた小さな囲いで一日を過ごし、また移動や活動をするのにも、横に先生が付き、でも、一言も話さず、関わらず、そんな学校生活を送っていました。
いくら「無視しだけしても仕方がない」「ちゃんと学習、勉強させてください。正しいことを教えてください」と言っても、施設職員の言葉に耳を傾ける人はいませんでした。
学校で刺激のない時間、また関わろうとしても無視され続けた子ども達は、いくら施設で正しいことを教えようとしても、一日の感情を爆発させるだけで、そしてその爆発し散らばった感情、心身を拾って集めるだけで、学びが入る余地がなかったのです。


あるとき、研修で招かれた講師が、エラソーに行動障害の支援の仕方について語ったのです。
でも、その人に訊いたら、家族に発達障害、行動障害の人がいるわけでも、入所施設で働いた経験があったわけでもなかった。
つまり、お勉強として、たまたま関わっているだけ、研究対象になっただけ。
別に、行動障害を持つ人じゃなくても、イルカでも、モルモットでも、良かったのです。
そんな人が語る支援方法を、そのまま信じる方も悪いと思います。
誰が言ったかではなく、自分がどう感じ、どのように考えるか。
それこそが大事なことですし、一人ひとり違うヒトと関わり、支援し、育む人達は、自分の頭で考える癖と他人の言っていることを一度疑う癖を持つ必要があると思います。


本を読んだだけで、研修に行っただけで、分かった気になっている。
そんな人に、良い支援ができるはずはありませんし、人を育てる仕事はできません。
別の言い方をすれば、そんなレベルで支援者面ができるのが、支援者という仕事なのです。
いろんなことを疑ってみる。
そして、自分の頭で考えてみる。
わからなければ、その本人に会いに行き、実際の支援の様子、考え方をこの目で、この身体で感じてみる。


リアルを拾う。
想像は負ける。
好きなやつがいたらガンガン会いに行く。
空想の世界で生きているやつは弱い。
心を動かされることから逃げてはならない。
そこに真実がある。


それをやらない支援者がいたとすれば、そういった支援者が多数だとしたら、支援者も、特別支援の先生も、介護者になるのだと思います。
発達障害の人も、行動障害を持つ人も、必要なのは介護をしてくれる人ではなく、正しいこと、適切なことをしっかり教えてくれる人なのです。

2018年10月7日日曜日

「現状維持」という負の遺産

未だに「現状維持できていたら、良い支援」と言っている支援者がいるそうですね。
それって、私が学生時代に、支援者たちがよく言っていた言葉です。
脳機能の障害から神経発達の障害だと明らかになった今でも、そんなことを堂々と面前の前で言える根性がすごいと思いますよ。
だって、「私には現状維持できることで精一杯ですから」と言っているようなものだからです。


この発言を最初に聞いたときは、感じませんでしたが、仕事を続けていく中で、この言葉の持つ意味の恐ろしさを感じるようになりました。
「現状維持を目指す支援」とは、どういった支援のことでしょうか。
ヒトは現状維持できない生き物です。
外面的には変化はないように感じますが、その内部を見れば、1秒たりとも同じ状態はないのです。
特に、神経発達が盛んな時期を過ごす子ども達は、環境から伝わってくる刺激に反応し、発達と成長へ向かって常に変化し続けています。


ということは、「現状維持を目指す支援」とは刺激を与えない支援のことを表しています。
なるべく変化はなく、いつもと変わらない一定の刺激を与える、または刺激自体を調整し、遮断してしまう。
これは、「いつも同じ日課、スケジュール、流れを崩さない」といった独自の解釈で構造化された支援を続けていた人達の姿と重なります。
あの当時、「現状維持」と言っていた支援者たちは、みんな視覚支援、構造化信仰の人達だったので、自分たちの支援の妥当性を「現状維持」という言葉で表していたのでしょう。


「現状維持」を鵜呑みにしていた人達は、どうなったか。
一日、一日をなるべく変化がなく、混乱のきっかけになるような刺激をすべて排除していった。
感覚過敏で苦しまないように、いつも同じ食事を用意し、苦手な音が聞こえてこないように神経をとがらせ、本人を誘導していった。
その結果、当然、発達の機会は奪われたために課題は残りっぱなし。
現状維持を目指しいても、どんどん課題は大きくなるばかり。
結局、現状維持は、生きづらさの現状維持という意味になったのです。


名のある支援者の「現状維持」という言葉を聞いて、それを信じた親と支援者。
でも、この人達には想像する力が足りなかった。
その支援者の言葉の裏に隠された意味を。
そして、自分の目の前にいる子どもが、その言葉を聞いたら、どう思うのか。
「私にできることは、あなたの今の状態を保つことよ」と言っている人の支援を受け続けないといけない子の絶望感を。
私が子どもだったら、自分の可能性を否定する人、信じない人の元で生きていくのは、生きづらさが変わらないことと同じくらい辛かったと思います。


「現状維持」という言葉は、子どもの視点に立てば、恐ろしい言葉。
でも、視点を変えれば、もう一つの恐ろしさがあります。
それは、一般の人たちに与えるイメージがもたらす恐ろしさ。


身近に発達障害の人がいない、特に発達障害を意識して生活していない人が、ぽっと「現状維持」という言葉を聞いたらどうなるでしょうか。
「発達障害の人達は、現状維持を目指すことしか望めないような人達なのか」と、まったく変化も、成長も、発達もない人達だと誤った印象を持たれるかもしれません。
本人たちが望んでいる特別支援教育や福祉サービスなども、介護の名前が変わっただけという印象を持たれるかもしれません。
そうなれば、「現状維持」と言っている支援者、親たちだけではなく、一般の人達からも、その人の持つ発達、成長の可能性を否定されることになります。
こんなに悲しいことはありません。


これから、時代が進み、どのような未来がやってくるか、わかりません。
超高齢化社会が続いていけば、国としての余力も、成長も乏しくなっていくでしょう。
大きな自然災害、経済の混乱、国同士のトラブルに巻き込まれたり、当事者になったるすることも十分に考えられます。
そんなとき、「どうせ、現状維持しかできないのなら、そこまで予算も、人も割く必要がないんじゃないか」という意見が出てこないとも言えません。
現在でも、早期療育の効果に対する疑問、特別支援教育、福祉サービスに対する疑問が上がってきているのですから。
歴史を振り返れば、可能性がない人、乏しい人とみなされた人たちには、 支援や制度の充実ではなく、効率化という方向への道が用意されてきたのです。


「現状維持」という言葉の持つ恐ろしさとは、可能性の否定なのです。
本人の発達、成長する可能性の否定。
彼らを支援していく可能性の否定。
本当は、「現状維持」という言葉しか出てこないような支援者、実際、現状維持することもままならない支援しかできていない者たちが自らの至らなさを謝罪する必要があるのに。
いつしか、本人の可能性の問題としてメッセージを送り続けている結果になっているのです。


社会の空気、流れを変えるのは、当事者の方達だと考えています。
決して、現状維持がゴールとなるような私達ではない。
きちんとした育み、サポートがあれば、どんどん発達も、成長もしていき、自立した人生を送ることだってできる。
そういったメッセージを言葉だけではなく、行動として、実際の姿として見せていくことが、未だに「現状維持」などと言っているような人達を退場させることと、これから生まれてくる子ども達の未来を後押しすることになると思います。
「発達障害の人達は、発達もするし、成長もする。仕事もするし、自立もする」
そんな風に思う人達が増えてくれば、支援というバトンを次世代につなぐことができる。
「現状維持」などという言葉を、これ以上、残しておくわけにはいかないのです。

2018年10月6日土曜日

「治る」は甘い言葉なのか?

睡眠障害や行動障害で悩んでいた子が、寝られるようになり、落ち着いて、みんなと活動できるようになった。
「一生、支援を受けて生きる人です」と言われていた子が、クローズで一般就労して何年も経っている。
支援級の子が、普通級で学べるようになり、手帳を持っていた子が返納している。
そういった姿を間近で見てきた人達が、その様子を見て「治った」と言う。
それのどこが甘言になるのか、わかりませんね。


何らかの理由から、神経発達にヌケや遅れが生じた人達がいる。
だから、そのヌケや遅れの根っこを確認し、そこから育て直していけば、神経発達が起きるでしょうし、障害と言われている状態から飛びだして発達していく人がいても不思議ではありません。
そういったことが想像できない方が問題な脳みそなんだと思います。


治った本人、治った人を傍で見てきた人が「治る」と言うと、その歩みに興味がひかれ、自分でもやってみよう、そのアイディアを取り入れてみようとする人達が出てくるのは自然な流れです。
でも、「自分も治りたい」「我が子も治ってほしい」と願い、治る道を選択する人達を見て、「甘い言葉につられてしまう可哀想な人」というように捉える人がいます。
これまた想像力の欠如と言わざるを得ません。


「発達障害は脳の機能障害だから一生治らない」と思うのも、考えるのも、信じるのも、個人の自由です。
自分自身の、我が子の課題が、ずっと直らず、改善せず、むしろ現状維持もできていない、だからこそ、治るなんて嘘だ、と思いたいのはわからなくもありません。
でも、自分の見える範囲以外にも、事実があり、現実がある、という想像ができないのは、大問題だと思います。
というか、それでは人生、生きづらい。
というか、見える範囲がすべての人間、想像する力が乏しい人間には、人を育てることはできません。
できるのは、現状維持のみ。
最初から、他者の視点を想像できない人間には、育つも、発達も、治すも、生まれる余地がないのです。


「治る」に惹かれ、心から望む本人と親の自然な内面の動きが想像できず、あたかも「治るなんて現実的ではない言葉に騙された可哀想な人達」と捉えてしまう人。
その人が間違えているのは、他者の心情だけではなく、「治る」が甘い言葉だと捉えていることもです。


本人や親御さん、家族にとっては、「治る」は希望の言葉になると思います。
しかし、決して甘い言葉にはなりません。
むしろ、ある意味、厳しい言葉でもある。
何故なら、「治る」は、「あなた次第」と言っているのだから。


想像力が欠如した人というのは、「治る」と言っている支援者に騙され、お金と労力、時間を獲られてしまう、と誤った解釈をしています。
実際、治す支援者は何万も、何十万も、料金を要求しないで、一般的な料金で経営しています。
逆に、治さない支援者の方が、50分、1万5千円とか、アセスメントだけで何十万円も請求している。
こういった事実を見ようとしないのも、いつまで経っても想像力が発達していかない理由の一つですが、何よりも誤った解釈の始まりは、治すのは本人であり、家族ということなんです。


「治る」と言っている人達の中に、私が「治す」と言っている人はいないのです。
ここも想像すればわかることですが、本人と家族が動かないと神経発達など起きるわけがありません。
気功でも、治る塩でも、何か他者が与え、勝手に神経発達が起きるのなら、こんなラクなことはありませんし、世の中の発達障害の人、みんな治って、いなくなっているはずでしょ。
神経発達を促すには、本人が行動し、家族が育んでいかなければならないのです。


そういった意味で、「治す」は厳しい言葉になるのです。
本人は受け身ではなく、主体的に行動していかないといけませんし、コツコツと積み重ねていく必要があります。
親御さんは、課題がクリアされるまで試行錯誤を続け、育み続けなければなりません。
ある意味、「治らない」というままの方が、「治る」という言葉と出会わない方が、ラクな場合もあるのです。
だって、支援者という他人に任せられるから。
治らなくて、問題がそのままでも、障害のせいに、支援のせいに、社会のせいにできるから。
少しでも成長が見られれば、頑張っている親として見られ、何か起きても自分は責められない。


私はいつも思います。
「治りたいんです」と言われる方、治る道を選択し、歩んでいる方は、本当に強い人間だと。
朝、学校に出したら、夕方、児童デイの車が家の前に着くまで、子の責任を持たなくてもよい選択もあったのです。
何かトラブルが起きれば、「うちの担任、普通級から来たばっかりだからダメなんだよ」「この子達が生きづらいままなのは、多様な子の個性を理解できない社会が悪いんだよね」と言っていられたのです。


でも、自ら子の人生、未来に責任を負うことを選択し、そして日々、試行錯誤と地道な積み重ねの道へと歩まれた。
きっと我が子は治ると信じていても、それがいつなのか、必ず来るかはわかりません。
そんな不安も、心細さもある道を、我が子の視点を想像しながら歩んでいく。
「この子自身が治ることを望んでいるし、大人になった我が子は、治っている方が幸せになる」と。


治る道を選択した人達は、決して甘言につられた弱い人達ではありません。
むしろ、我が子の未来も、自分自身の人生も、受け止める覚悟と責任がある強い人達。
本当に強い人間は、弱い人間のことも、ちゃんと想像できるものです。
弱い人間こそ、強い人間のことを想像することができない。
弱い人間は、みんな弱い人間であって欲しいと願うものです。
弱い人間に合わせて、自分も、我が子も、弱くなる必要はありません。
厳しい道だとしても、力強く歩き続けた先に、発達と成長、自立と幸せが待っているのだと思います。
弱い人間が望むように、幸せの方からやってきたはくれないのですから。