2020年4月7日火曜日

【No.1043】その子の認知的スキルから見て、普通級が望ましいか、支援級が望ましいか

「支援級から普通級への転籍」という話は、皆さんの関心が高いように感じます。
この話題に触れると、アクセスは増えますし、相談や質問も多くなります。
もしかしたら、ネット検索でひっかかるワードなのかもしれません。


私のところには、毎年のように上記のような相談、依頼がありますし、実際、転籍をしていくお子さん達がいます。
しかし、だからといって、どの子にも、転籍を勧めているわけではありませんし、その子の状態、学校の様子から、「そのまま、支援級の方が良いのでは」という話をさせてもらうこともあります。
「なんで、他の子には支援するのに」と言われた親御さんもいますし、散々、支援級での学び、環境について、いかに最悪かを言い続ける親御さんもいました。
いくら仕事とはいえ、依頼とはいえ、親の願いとはいえ、お子さんのより良い未来へとつながらないと感じることには同意できません。


私の基本的な考えとしましては、不登校と登校を比べれば、断然、登校できる方が良いと思っていますが、支援級か、普通級か、といえば、その子が伸びるのなら、どちらでも良いと考えています。
普通級に通うのが難しくて、支援級なら通えるし、勉強もできる、というのなら、その子にとっては支援級が望ましい環境だといえます。
また、学校に通えていて、支援級で成長が見られているのなら、無理に転籍する必要はないと思います。


私が転籍、普通級を強くお勧めする場合は、支援級での時間が本人の成長に繋がっていない、また、時間つぶしのような学習内容だというときです。
本人の学力や能力とミスマッチしている時間というのは、非常にもったいないことです。
本来、普通級レベルのお子さんが、診断名がついたという点だけで、支援級への在籍が決定されることがあります。
それまで、普通級で何年も勉強していたのに、診断名が付いた途端、学年の途中からでも、支援級へ席が移されることもあります。
支援級で力をつけていき、普通級でもやっていけるだけの準備が整ったのにも関わらず、「小学校のうちは」「中学校のうちは」とズルズルいくこともしょっちゅうです。
その子が最もよく伸びる、よく学習できる環境を用意するのが学校、親の務めですから、ミスマッチが生じた時点で、環境を変える必要があります。
それがなされないまでの時間は、空白の時間になってしまいますので。


「日本でもホームエデュケーションを」と言われますが、今の日本の学校という環境を用意することは大変難しいといえます。
同世代の子ども達が学校で学び、経験していることを、家でやろうとすれば、大人の側も相当な知識と技能、準備、環境調整が必要になります。
別の言い方をすれば、なにかあるとすぐに「学校教育ガー」と言われますが、多くの先生たちは優秀であり、学校という環境は恵まれているといえます。
ですから、なおのこと、空白の時間を作らない。
そのためには、普通級でも、支援級でも、成長し続けられていることが何より大事なことです。
将来的なことをいえば、普通級に在籍している方が、選択肢が多いのは事実です。
でも、普通級にいることが多くの選択肢を得られることにはなりません。
本人が成長し続けることで、目の前に現れた選択肢を掴むことができる。
親御さんの強い意向で、普通級へ転籍した子もいましたが、結局、本人の成長にはつながらなかったため、支援学校、福祉の世界へ行ったという話もあります。


一昔前のような一度、支援級に在籍したら、「進学は無理」「一般就労も無理」「将来は福祉」ということは、だいぶ薄れてきたと感じます。
子ども自体が減っていますし、発達障害を持つ子達も特別な存在とは見られなくなってきています。
ですから、社会の方にも選択肢が増えたのだといえます。


しかし、その「選択肢が増えた」という変化は良かった反面、その子個人が問われるようになったともいえます。
普通級にしろ、支援級にしろ、ただ在籍しただけではどうにもならなず、そこで何を学び、どんな成長を遂げたのか、が問われるのだと思います。
「支援級にいました。ですから、高校でも、御社でも、同じような配慮をお願いします」は無理な話です。
同じように、「発達障害はありますが、普通級に在籍していました」というだけでは、「はい、そうですか」で終わってしまいます。
在籍よりも、「あなたは何を学び、成長したのか」「あなたには、何ができますか」の時代です。


そういった意味でも、学校という場を最大限に活かすために、その子がより良く学べる環境を用意していくことが肝要だといえます。
そのときのポイントは、本人の認知的スキルです。
よく「同じように体験させたい」という理由から、普通級を望まれる親御さんがいますが、学校は体験教室ではなく、一番は学ぶ場ですので、認知的に見て、普通級で学べるか、が重要になります。
認知的な差、不一致がありますと、当然、その場にいるだけのお客様になります。
お客様になると、受け身になり、学習にはつながりません。
大事なのは、主体的に学ぶことですから。
そのためには、やっぱり認知的に理解できる段階まで育っていることが必要です。


また、その認知的なスキルには、学習の土台である発達も含みます。
座位や立位の姿勢保持や、手や指の使い方、感覚の育ちや自分の軸、基本的な運動の発達が完了していることが基本になります。
いくら授業の内容がわかったとしても、基本的な動作、身体、感覚に未発達、ヌケがあれば、授業を受け続けることが難しくなります。
小学校の中学年以降、不登校になる子の中には、この土台の部分の未完成により、学校自体がしんどくなり、結果的に授業についていけない、学力低下、意欲の低下と繋がってしまう場合も少なくありません。
特性云々、支援云々、普通級より支援級という話ではなく、発達という土台の不安定さから、身体がしんどいだけです。


そういった意味で、家庭での取り組みが重要になります。
それは、学習面のフォローという意味ではなく、やっぱり子育てを通して、いかに発達の土台を培っておくか、未発達&ヌケを1つでも多く育てるか、です。
そこが育たない限り、普通級が、支援級が、といった話にはなりません。
学校はあくまで学習する場であって、発達を促す場所ではありません。
教科の時間を削って、「呼吸を育てましょう」「栄養を整えましょう」「感覚刺激を存分に味わいましょう」とはなりませんし、なっても困ります。
学校が教科を教えなくなれば、ひと昔前の特殊学級、養護学校のような空白の12年間へ逆戻りになります。


未発達や発達のヌケを育てていくことで、適切な学びの場、教育内容と目標が変わっていく。
そうなったときに、初めて「交流学習を増やそうか」「普通級への転籍はどうか」という話題になるのだと思います。
未発達や発達のヌケ、つまり、発達という土台が育つことで、学習の準備が整うことになる。
学習の準備が整うということは、本人の認知的なスキルが上がるということです。
本人の今の認知的スキルから見て、支援級が合わないなら、普通級の方がより良く伸びる、学習できるとなれば、是非、転籍を目指してください。
決して、「普通級に在籍したから伸びる」という順番ではありません。
過去に何人もの子ども達が、それでつらい経験をしてきたのを見ました。
私自身も、あのとき、もっと強く言えていたら、きちんと納得できるくらい上記のような説明ができていれば、と後悔することもあります。
発達の土台が育つ→認知的なスキルが向上する→交流級増or普通級転籍の流れです。


単に「学力だけつければいい」という話なら、在籍する教室はどこでもよく、なんなら塾に行って、家庭教師をつけて、なんなら学校に通う必要もない。
でも、どれだけ正確に多く記憶できるかが評価される時代は、とっくに終わっています。
これからは、主体的に学び、自分で答えを見つけていく時代。
答えのない問いに答えを導き出していくには、お客様では無理です。
たとえ、支援級にいたとしても、お客様ではなく、自分で課題を見つけ、答えを出していく主体性が求められます。


「うちの子には、発達障害があるから…」というのは、逆差別です。
発達障害があろうとなかろうと、主体的に学ぶ姿勢を培っていく。
そのためには、認知的な不一致が起きてはなりません。
それが、その子をお客様にし、受け身の姿勢を養うこととなりますので。

2020年4月5日日曜日

【No.1042】普通級転籍には、それなりの『準備』と『交渉』が必要です

北海道は、明日から新学期&登校が始まります。
しかし、首都圏を中心に陽性者が増え続けている地域では、まだ通常登校まで時間を要するとのことです。
このような状況が続くと、日々の生活の中での心身の疲れも心配ですが、いざ、休校が明け、登校が始まったあと、授業に集中できるか、学校に通い続ける体力が続くか、リズムを取り戻せるか、も心配になります。


夏休みのような長期休暇でも、新学期後は乱れる子が多いのに、今回はいろんな制限、また心身のストレスもあると思いますので、学校が再開後、不登校や問題行動、意欲&集中力低下など、様々な面で、あとから子どもへの影響が出てくるように感じます。
休校が伸びた地域の子ども達は、より再開後のことをイメージした生活が望まれます。
たとえ、自分の家が生活を整え、いろんな学習の準備をしてきたとしても、他の家庭は分かりませんので、そういった影響も考慮しながら、我が子の学習の機会を守っていく必要もあるように感じます。


新聞やネットなど、メディアでは、休校が続くことに対する意見や影響が報道されています。
その中で気になるのが、支援級、支援学校に在籍する子ども達に関する記述です。
普通級の場合、学習の遅れや受験などを心配する声、論調が主なのですが、支援級、支援学校に関しては、「生活のリズムが乱れ、親子とも、大変」「変化に対応できず、問題行動が出て困っている」「登校することで、ストレス発散になっている」などの声が目立ちます。
とても驚いたのが、どこかの大学教授の「日中、学校という預かってくれる場所がないと、家庭は疲弊していく」という発言でした。
おいおい、いつから学校は“預かってくれる場所”になったのか。
どうして、普通級の子ども達のように、「彼らの学ぶ機会を」とか、「学習の遅れが心配だ」とか、「進路への影響が」とか、そういった論調、声が出てこないのか。
日頃、アピールするときには使われない言葉が、あらゆるところで見られます(脇が甘い)。
こういった非常時には、本音の部分、繕っていた認識が表に出るのだと思っていたのでした。


実は、この春から、支援級から普通級へ転籍する子ども達が数名いました。
しかし、その中には新学期の始まりが伸びてしまった子達もいて、親子共々、残念に思っているというお話が届いています。
せっかく頑張って、実績を積み、また認められ、転籍が叶ったのに…。
さあ、普通級で、新学年を頑張ろうとしていた矢先だったのに…。
その無念さも伝わってきて、私も残念に思うのですが、どのご家庭も、転籍に至るということは、それだけ前向きに行動できる方たちなので、いくら休校が伸びようとも、今の子の時間も大切に過ごし、乗り越えられると思っています。


「転籍」と一言で言っても、その道のりは大変なものがありました。
まずは、一度、「支援級が妥当」と行政的に判断されたものを変えていく、という点です。
特別支援教育の理念上、本来なら、その子の発達、成長と共に、最適な学習の場を変えていける、変えていくべきなのですが、なんせ、前例主義の学校なので、なかなか、「じゃあ、新学期から普通級ね」とはなりません。
たとえ、支援級で学力がついても、それはあくまで「支援級にいたから身についた」という評価になり、「このまま、支援級で」となりやすいです。
実際、同学年の教科書レベルの学力が身についた子がいましたが、「これは支援級という環境で学んだからです」「普通級の一斉授業になると、ついていけなくなりますよ」「普通級はいじめもあるし」などと脅しのようなことを言ってくるケースもありました。
あとは、「交流の時間を増やしていきますんで」と、転籍はしないけれども、普通級の時間を増やす、という提案も、よくあるパターンです。
それだけ自分が担任の間は、前例を覆したくないし、作りたくないし、リスクを取りたくない、というのが基本的な姿勢だと感じます。


そして当然、普通級へ転籍するには、一斉指示、一斉教示で理解できなければなりませんし、普通級は普通級で様々な子ども達がいるわけです。
何も、診断がついている子だけが大変なわけでも、問題を起こすわけでもありません。
一緒に学ぶ子の人数が増えるということは、それだけ刺激も増えるということ。
そういった教示の仕方や環境の違いにも対処できるだけの土台が育っている必要がありますし、学習面だけではなく、こういった部分も養っていかなければなりません。


あと、大きいのが、45分、座っていられるだけの姿勢、体力です。
就学すると、普通級の子ども達は、45分授業を受け、5時間、6時間と学校で過ごすわけです。
その間、支援級では、同じように45分単位で座っての授業を行っているか、教科学習を同じ時間数行っているか、といったら、疑問に思うところ。
「プリント1枚やって、あとは余暇エリアで」「朝の会がやたらに長い」「なんだかわからないけれども、とにかく調理学習(ていうか、給食の前におやつの調理は止めようよ)」…。
当然、新一年生は、45分座ってられないし、午後の授業まで集中力も、体力も持たない。
それでも、続けていくうちに、一年生、二年生と少しずつ身についていくのです。
その学ぶ姿勢を培っていく機会が、最初から普通級の子とは大きな差があります。
ですから、発達的にも、学習的にも、普通級で大丈夫、だけれども、45分×5時間、6時間が無理で、転籍を諦める子もいます。
この学ぶ姿勢は、家庭や習い事などでフォローしていく必要があります。


こういったことを考えながら、個別に課題をクリアしていく。
それには、どうしても1年、2年と、かかってしまいます。
まとめますと、支援級からの転籍には、自分が支援級に在籍してきた同じ時間で、普通級の子達が学んだこと、経験したこと、身に付けたことをフォローしておく必要があります。
また、当然、就学時、「普通級よりも支援級が望ましい」という何か発達上の課題、遅れがあったのは事実ですので、そこは育て直しておく。


そして、ここが一番の山なのですが、学校側との交渉です。
学校は前例主義で、特に教育委員会、その前には医師からの診断、意見書が出た上で、会議を行い、決定されたものに対して“変える”、しかも自分が担任のときに、というのは、なかなかハードなものです。
親の要望で、一担任の意向で、なんて簡単に変えることはできません。
それに、管理職も、担任も、数年おきに変わります。
ですから、転籍を勝ち取るためには、具体的な理由と客観的なそれが望ましいという根拠を示し、また転籍後、一番学校側が気にするリスクに対する対策案を提示し、かつ、最後には人間同士なので、学校内に賛同してくれる人を増やしていく必要があります。


私は教育大出身で、同期はほとんど教員なので、そういったネットワークも利用しながら情報を集め、交渉のアイディアをお伝えするくらいしています。
それでも、なかなか認められないことの方が多く、結局、小学校6年間は支援級で過ごし、中学受験をして普通教育へ移っていった子ども達も少なくありません。
っていうか、相談のたびにいつも思うことですし、これを書いてて湧き出てくる感情ですが、どうして、家庭が、親が、実績を作り、学校側に認めさせるか、意味が分かりません。


普通、学校という場で指導している先生の側から、「普通級への転籍はどうですか」「もう大丈夫だと思いますよ」「同年齢と一緒に学ぶ方が、〇〇くんは、より成長できると思います」なんて、親御さんに提案があるべきなのに。
実際は、交流学習の時間を1時間、増やすのも、親が難儀する有様です。
就学時、適当だった学び舎が、ずっと最適なわけはありません。
子ども達は、日々、成長しますし、変化しますので、その時々で適当な場所を、学びの機会を考え、提供するのが、学校の役目、特別支援教育の意義ではないでしょうか。
それを6年間、考慮することなく、また本人の実態、成長を更新することなく、同じ教室に留めておくなんて、学校は何様?と思ってしまいます。


6年間、支援級という事実は、そのまま、中学へ引き継がれます。
中学校3年間、支援級だったという事実は、受験、内申書にそのまま書かれます。
今は、高卒認定や通信制の高等学校など、選択肢があります。
でも、そもそも普通高校も含めた中の選択肢だったら良いのですが、「普通高校が無理だから、高卒認定、通信制」というのは違うと思います。
元支援級、支援学校だった若者たちと話す機会もありますが、彼らは発達障害以前に、学びの機会、選択肢が少なかったと感じますし、そこを辿っていけば、就学時の選択、小学校での学び、周囲の考え方、認識と、ぶつかります。
特別支援教育が始まって10年以上経ちますが、まだまだ理念が体現されていくまでに時間がかかるような気がしています。


今回、ネットを使った学習が展開されるようになり、「そもそも、学校に通う意味は?」なんてことも言われています。
しかし、学校は単に学力を身につけるだけではなく、もちろん、それが学校の中心であることは疑いもないことですが、通い続けること、座位を続けること、一斉授業の中で自分をコントロールし学び続けること、自分の思い通りにいかない他者という存在を子ども時代に味わうこと、他者や集団での共感、共有、単純に刺激を受けるだけではなく、自分が刺激を与え、変化が生じることを体験すること、など、挙げればきりのないくらい、その意義、ある意味、ライブ感の刺激の交流には、数値化されない学びがあるのだと思います。


理想で言えば、もっと流動的に、子どもの学び舎、教室が変わっていけると良いですし、学校側がリードするように、支援級→普通級の転籍の提案と指導、教科ごとの選択ができていくと良いと思います。
それには、やっぱり転籍し、伸びやかに成長していける子ども達を増やしていかなければなりません。
案外、1名、前例ができると、すんなり「転籍、いいですよ」となりやすいです。
その当時の担任の先生が、味方になってくれる場合もありますし。
無事に新学年が始まり、楽しみにしていた普通級での学びが始まりますようにと願っています。

2020年4月3日金曜日

【No.1041】『発達』と『学習』は別もの

欧米ではDVが増え、日本では「コロナ離婚」なる言葉が流行っているようですね。
コロナの影響で、顔を見合わせる時間がグッと増えた家族。
その家族の時間をポジティブに楽しめる家庭もあれば、それがストレスとなる家庭もある。
何故、家族同士でもストレスになるかといえば、相手に「こうしてほしい」「ああしてほしい」などの理想を勝手に抱き、その通りにならないギャップにストレスを感じているのだと思います。
そもそも、家族であったとしても、自分とは別人格なので、最初から何かを期待する方が間違っているといえますが。
もし、自分の期待通りに他者が動くとしたら、それは洗脳に違いありません。


いろんな親御さんと関わっていると、みなさん、我が子に対して大きな期待をよせているのがわかります。
当然、愛する我が子ですから、親として期待するのは当たり前。
でも、その親の期待は必ず裏切られるものです。
親の期待や想像を裏切るような行動をし、成長を見せるから、子は親を超え、自立することができる。
別の言い方をすれば、親のイメージの中で終始している子は、親元を離れての自立は難しいでしょう。
それは、不登校やひきこもりの人達と関わり感じたこと。
そして支援者にとって支援しやすい子がいつまでも自立できず、一方で支援を受けていたとしても、ある時期を境に「No」と言えた子から自立していく姿を見てきて気づいたこと。


期待するのは、自由です。
でも、その子本人とは切り離して考えるべきだと思います。
「ああなってほしい」は、周囲が勝手に思っているだけで、本人には関係ありません。
「自分の期待」と「本人の主体性」の境を曖昧にすると、我が子との生活がストレスになり、子育てが洗脳になります。


「なんで、これができないんだ」
「どうして、課題がクリアされ、育っていかないんだ」
というのは、本人にそのための準備が整っていないだけ。
特に、身体や感覚、ヒトとしての土台となる胎児期から2歳前後の発達にヌケや遅れがあると、何かを教えよう、身に付けさせよう、問題を無くそうとしても、無理な話です。
それこそ、強制し、矯正し、洗脳するしかありません。


いろんな相談を受けていますと、この辺りの認識の違い、曖昧な捉え方が、親御さんの悩みの根っこに繋がっていると感じます。
中でも、これは支援者、教育者にも多いのですが、「発達」と「学習」の違いです。


発達障害の子に、何かを教えようとする。
たとえば、服の着脱衣としましょう。
着脱衣は、人間しかしないので、学習の側面が大きいといえます。
その方法を身振り手振りで教えたり、何度も練習したりすると、できるようになる子がいます。
そういった子は、着脱衣ができるだけの準備ができていた子だといえます。
その準備とは、腕を通すときの動作であったり、ボタンをつまみ止める指の動きだったり、自分の身体の範囲がわかるという感覚の育ちだったりします。
つまり、教えたからできるようになったわけではなく、土台である発達という準備が整っていた上に、本人が学習したからできるようになったのです。


私は施設職員から教員になったわけですが、そのとき、強い違和感を持ったのがこれです。
どう考えても、発達という土台ができていない子に、なんとか学習させようとしている姿。
それが教育だと言われればそれまでなのですが、鉛筆が正しく持てない子、座位を保つのが難しい子に対して、教科を教えようとする。
それで、当然、発達的に準備が整っていないのですから、それは身体的にも、感覚的にも、脳の発達的にも、本人も理解できないし、身につかないのです。
その姿を見て、教え方がどうだ、教材がどうだ、教室の環境がどうだ、挙句の果てに「家庭ガー」「障害特性ガー」が始まる始末。
いやいや、発達検査でも、その年齢がでているのに、おかまいなし。
2歳数か月とか、3歳数か月とかいう発達年齢の子に、国語の漢字は難し過ぎます。


分かりやすく単純に言えば、発達とはヒトの部分、動物の部分です。
学習とは、人間の部分。
発達障害と言われる子ども達は、この動物の部分、ヒトから人間へと進化する過程の中に、課題がある子達だと考えられます。
親御さんが育むこと、そして発達援助を行っている我々がアプローチするのは、この動物としての育ち、胎児期から言語獲得までの発達でしょう。


この辺りがきちんと理解できていないと、発達という土台の準備ができていない子に、何度もチャレンジさせたり、練習&指導したりしてしまう危険性があります。
当然、いくら練習しても、指導しても、時間をかけても、できるようにならず、その自分のかけた労力に比例して「こうなってほしい」が大きくなり、結果的に落胆からのストレス、または諦め、「どうせ、障害だし」となる。
その子の発達を視ず、学習させようとするのは、強制であり、洗脳です。


本来、特別支援教育とは、その子の発達をベースに、教育が展開されていくはずなのに、正直、現状は、「普通級のレベルを下げたものを繰り返し、覚えるまで続ける」みたいな印象を受けます。
本人の発達がリードし、学習内容が設定されていくべきなのに、教員が設定した学習内容にその子を引っ張り上げるようなイメージです。
そりゃあ、いつまで経っても、学習が進んでいかないわけです。


親としての期待が外れれば外れるほど、その子は主体的に自分の発達を遂げているのだと思います。
どの子も、親の思い描いた通りに成長したら、おかしいですよね。
親のイメージの範囲でしか成長できていないとしたら、むしろ、それは危険なことなのです。
私達大人だって、みんな、親の期待を大きく裏切り、大人になり、社会人になり、自分の家庭を築いているはずです。
期待はあくまで自分の胸の内に。
そして、我が子には、我が子らしく伸び伸びと発達、成長してもらう。
そのための土台作りが子育てであり、私達が行おうとしている発達援助。


それは“発達”なのに、“学習”のように捉えてしまっているから、「もう身につくはずなのに、まだ身につかない!」「これだけやったから、できるようになるはずなのに!」と積み上がっていく理想を重ね、そのギャップにストレスを感じてしまう。
でも、それは“発達”だから、親や教師、支援者の思う通りには進まないし、なってはいかない。
発達とは誰のものでもなく、本人のモノだから、本人の内側から湧き出てくるものだから。
この辺りが頭の中で、感覚的に整理できていると、いつもよりも長くなった家族の時間を、子育ての時間を愉しむことだできるはずです。
“発達”と“学習”は別もの。

2020年4月2日木曜日

【No.1040】子育ての“方向性”

3月は予定していた出張がすべて中止になり、道内の予定も、緊急宣言が出ていましたし、濃厚接触の危険性がありますので、ほとんどを見合わせました。
こういった日々を送っていますと、起業当初を思いだすこともありました。
ちょうど7年前の2013年4月2日から事業を開始したのですが、当時は学生時代から前職までの間で関わりがあった人達からの仕事オンリー。
なかなか新規が増えない時期が続き、もどかしかったときの感情を今でも思いだします。


今回も似たような状況ではありましたが、全然、焦りはなく、むしろ、「この期間に、あれもしたい、これもしたい」という想いばかりで、世が落ち着いたら、今まで以上に頑張ろうという気持ちでみなぎっています。
それは、この期間中も、毎日のように相談があり、また出張の問い合わせや依頼、日々更新するブログへの多くのアクセスがあったからです。
8年前と心持ちが違うのは、このように共感し、応援してくださる皆さまが全国にいるからだと思います。
ですから、「個人事業主、フリーランスは、その人が好き好んでやっているんだから、こんなときだけ補償を求めるなよ」と毒つきながらも、「やるべきことをしていれば、見ててくれる人がいる」という想いでポジティブにいられました。


さて、年度の切り替えの時期である3月4月のご相談、ご依頼は、この1年間の振り返りと次年度、今年度に向けてが中心になります。
特に年長さんになるご家庭は、半年後には就学時健康診断があるわけです。
この時期にしっかり振り返りを行い、就学までの準備を頑張りたい、と思われている親御さんがたくさんいるのがわかります。


一年間の振り返りだけではなく、通常の発達相談でも、「私の方法は合っていますか?」「子育ては間違っていませんか?」という言葉が多く聞かれます。
また、なにかお子さんに課題が出てくると、目に見えるような成長がないと、「私の発達援助の方法は間違っているかも」と心配される親御さんもいます。
しかし、そのような相談や悩みがあったとしても、私はあまりその具体的な方法、やっていることには注目しません。
それよりも、全体的な発達の流れ、お子さんの雰囲気、家族の関係性、空気はどうか、に注目するのです。


基本的に、親御さんが行っている育みを、お子さんが受け入れてくれるのなら、心地良く感じているのなら、やり方がどんなんでも良いと思います。
第一、私の根本的な考えとして、こういった親御さんの育みというのは、補助であり、後押しの一つでしかない、と捉えています。
確かに、子どもさんの場合、親御さんの子育て、選択、行動の影響を受けやすい。
でも、それはあくまで環境としてであり、やっぱり発達の主体は本人、お子さん自体です。
その子が夢中で行っていること。
何度も何度も繰り返し行っていること。
名も無い遊びが、その子の発達そのものだと、私は考えています。


ですから、あまり神経質に、「これで合っているか、間違っているか」「回数はどうだ」「力加減はどうだ」なんていうのは気にしなくて良いと思います。
繰り返しになりますが、本人が受け入れてくれて、心地良いと感じているのなら、それで発達の後押しになっているはずです。
よって、成長に停滞やゆっくりさを感じるのなら、そういった時期であり、その子の発達の仕方なのでしょう。
子どもの発達の特徴は、停滞の時期、つまり、なんも変化がないな~と思っていたら、急にできるようになる、というものです。
大人のように、少しずつ右肩上がりで上ってはいきませんし、できたり、できなかったり、波を繰り返し成長していきます。


私はよく「方向性は間違っていませんね」「方向性は合っていると思います」という具合に、「方向性」という言葉を使って、振り返りを表現します。
最初に相談があったとき、その子の胎児期から現在に続く発達の流れ、物語を確認するわけですが、それによってある程度、未来の姿が見えてくるものです。
実際に言葉で、「半年後は〇〇ができるようになっていると思いますよ」「〇〇という発達課題は、遅くても夏くらいまでには育ちきっているはずです」など、親御さんに伝えることもありますし、伝えなくても、発達相談をしながらイメージするわけです。


その将来のイメージから見て、その姿と重なっていれば、それまで行ってきた家族での育みの方向性は合っていると言えますし、イメージ以上の成長が見られれば、親御さんの後押しが強力で、本人のニーズとドビンゴだったといえます。
それって素晴らしいことですし、それ以上の「正しい」なんていうのはないと思います。
本人が、前に前にと進めていけれたのなら、どんな子育てでもOKです。
正直、細部にこだわっても、親御さんが神経質にやり方を調整しなくても、子は育ちます。


と言いますか、虐待のようなものはもちろん影響を及ぼしますが、親御さんの関わり方をちょっと変えたくらいでは、子の発達、成長を止めることはできませんし、そんなに影響はないはずです。
そういう支援者の私だって、その子の発達に影響を及ぼす、左右するなんてことはできません。
できるのは、その子の発達の流れに沿った後押しをして、ちょっと発達を加速させる、より伸びやかな環境、刺激を作りだす、といったところです。
発達を決めるのは本人であり、本人の内側にある力と資質。
周囲の我々は、その子の発達を変化させる存在ではなく、後押しする存在。
その子の内なる発達の流れを変えようなんていうのは、神様じゃなきゃできません。


一年間を振り返り、「ああ、我が子は成長しているな」「こういったところが伸びているな」と思えたら、子育ての方向性は合っていると思います。
あれをやったから、やらなかったから、などと思う必要はなく、大事なのは本人の発達の流れを止めないこと、心地良く明日も、明後日も、一年後も流れ続けてもらうこと。
「あのとき、あんな関わり方、子育てをしたから」などと反省はしても、後悔する必要はありません。
だって、1つや2つの失敗、過ちで、子の発達の流れは変わらないから。
それよりも、こうやって日々、発達成長していることを喜んだ方が良いと思います。
子どもさんだって、そう思っているはずですよ。


それに、自分の親だって、全部正しくて、非の打ち所がない素晴らしい子育てをしていたなんてあり得ません。
自分の親だって、他の親御さんだって、試行錯誤しながら、日々、悩み、後悔しながら、私達を育ててきたはずです。
なので、我が子が内側に秘めている発達する力を信じること。
「私が発達させよう」ではなく、「我が子が伸びやかに、今後も発達、成長できるように環境を整えよう」と思うことが大事だといえます。


今日から始まる8年目も、その子の発達する力を信じ、そのためには発達の流れを見極める目を磨きつつ、より伸びやかになる発達相談、援助を行っていきたいと思っています。
そして何よりも、関わったご家族が、今しかない家族の時間を楽しみ、幸せを感じられるような後押しをしていきたいと思います。
8年目のてらっこ塾、大久保を、よろしくお願いいたします。

2020年4月1日水曜日

【No.1039】言葉は言葉のみにあらず

前回のブログ、言葉の発達について綴ったものに対して多くの反響がありました。
感想やさらなるご質問をくださった方達もいらっしゃいました。
それだけ関心があり、同時に悩まれている方も多いのだと感じます。
確かに、運動面や学習面の遅れよりも、インパクトは強いといえます。


進路選択の上で、「就学前までに」という話の流れでしたが、就学までに言葉が出なければ、それ以降の発達も難しいか、といったら、そうではありません。
就学時に、一言もしゃべれなかった子が、今では一般就労して(しかも店内の勤務)働いていますし、ずっと喃語しか出なかった子が、中学生になってから言葉が出るようになった、私の知る限りでは、成人してから単語レベルの言葉が出るようになった、という人もいます。
このように、本人の問題ではなく、教育行政、制度の問題のため、「就学前」とは言っていますが、それ以降も言葉の発達はみられます。


施設で働いていた時も、知的障害の重度、最重度と判定された子が、学年が上がるたびに、言葉が増えてきて、ずっと絵カードでコミュニケーションをとっていたいましたが、それを使わないで、やりとりができるくらいまで成長していきました。
そういった子ども達は、一人二人という特別な話ではなく、重い知的障害を持った子であっても、少しずつ言葉が育っていった子が何人もいました。
ですから、どの子にも言葉の発達の可能性はありますし、その育てる方法は、前回記した通りです。


このように、行政的な視点を取っ払えば、言葉の面でも、生涯育ち続けるし、発達のスピードは人それぞれで何の問題もないはずです。
ただ再三申し上げるように、一つ就学が大きなポイントになっていますし、そこで「言葉がないから重度ね」「普通級は無理だね」と決められてしまい、その後、いくら本人が発達、成長しても、親御さんが頑張っても、「支援級が妥当」「支援学校が妥当」という行政的な判断がついて回り、それを覆すには、相当な労力が必要というのが現状です。
もう少し柔軟に、それこそ、発語原理主義が変わっていかない限り、こういった問題は起き続けていくと思いますが、ただ憂いているだけでは変わっていかないのも事実です。
たぶん、上記でお話ししたような就学後も言葉が育ち続け子ども達、成人後に言葉が出始める人達の存在を多くの人が知らないし、言葉があとから出たところで、前例主義の態度が変えられないのだと思います。


これも度々申し上げていますが、発達が遅れること自体は、障害でもなんでもありません。
ただ現時点で遅れているだけ。
目の前にいる子は、障害児ではなく、発達に遅れがある子です。
なので、それこそ、生涯をかけて育っていけばいいのであって、発達がまったく生じない子がいれば、そのとき、初めてその子に「障害」という概念がくっつくのだといえます。


言葉の遅れがあると、今ではすぐに「自閉症」だとか、「言語障害」「知的障害」などと診断名がつきますが、それは「一生伸びない」という意味ではありません。
しかし、その説明が十分になされているとは言えない状況がありますし、「いやいや、障害だから、ずっと変わらない」という具合に、昭和の頭から切り替えられない人々もまだ残っています。
現時点で、「障害の診断基準に当てはまる」というのと、「その後、生涯に渡って診断基準を満たし続ける」というのは、イコールではないわけです。


自閉症も、言語障害も、知的障害も、言うならば、ADHDも、LDも、発達性協調運動障害も、全部、神経発達、ネットワークの表現型の一つです。
便宜上、共通性のある表現型を括って、なんとか障害と言っているだけです。
個別に見れば、同じ障害名、同じ診断基準を満たしたもの同士であっても、神経発達の具合はまったく異なっているわけです。
ですから、その子が、その人が、生涯どのような神経発達を遂げていくか、なんか誰にも分かるはずがないのです。
ただ一つ言えることは、神経発達は生きている限り、生じ続けるということ。


生涯生じ続ける神経発達。
それをサポートし、後押しするのが、支援者、専門家の役目だといえます。
一度付いた診断名で支援を組み立てるのは、ただの前例主義のお役所仕事。
転入出の手続きじゃないのですから、一人の人の人生を右から左に流すようではいけません。
それこそ、生涯発達し続ける、大人になってから言葉が出る人もいる、みたいな正しい知識、前提から作り上げていく必要があるのかもしれません。
それくらい、特別支援の世界は遅れているってことです。


発語がない子が言葉を話すようになれば、過去の診断時とは違った結果になるのは当たり前。
知能検査の値も、ググッと変わるのは奇跡でもなんでもなく、自然なこと。
だって、神経発達は止まらないから。
今まで個別の症状に対する発達の促し方を支援者たちが知らなかっただけで、勝手に個人のせい、障害のせいにされていたのです。
もちろん、神経発達が盛んな時期と、そうではない時期がありますが、ゆっくりでも発達し続けるし、その発達の具合を左右するのは、刺激と環境です。
より良い刺激、そのとき、必要な刺激によって、発達が促されていくのですから、指をくわえてみていないで、前例主義で流れ作業みたいな仕事をしていないで、やれることとやるべきことはたくさんあるわけです。


成人した人に対しても、言葉の発達に繋がるような援助方法をお伝えしています。
当然、諦める理由がないから。
ゆっくりでも育っていけば良いですし、言葉は言葉のみで発達するわけではなく、全体的な発達の上に生じるのですから、結果的にその人の生活がラクになるわけです。
イメージで言えば、言語は認知の表れ。


「ずっとカードでコミュニケーションしてたんだから」
「代替の音声機会を使えば」
「今さら、いくつかの言葉を発せられたとしても」
なんてことは、よく言われます。
でも、言葉は言葉のみにあらずです。
言葉は、いろんな機能、運動、感覚と繋がっているのです。
概念と言葉もリンクします。


ですから私は、「行政的な判断材料となってしまうから」と「その人の全体的な発達に繋がるから」という二つの側面から、どうやれば、言葉の発達が促されるか、より良く後押しできるか、をテーマに追い求めているのです。
単純に言葉が出ればラッキーではなく、その人の生活全般、生活の質の向上と、認知的な向上による本人のラクのために、これからも探求し続けます。

2020年3月30日月曜日

【No.1038】言葉の発達とリズム遊び

「発語のあるなし」と、言語理解はイコールではありませんし、当然、その子の認知を表すものではありません。
しかし、診断や知能検査において、「発語のあるなし」は、その見え方に大きな影響を及ぼすのも事実です。
診断者の立場を想像すると、発語のない子を軽いとは診断しづらいといえます。
何故なら、そこに根拠が求められるから。


何度も言うように、現在の診断も、知能検査も、その子の部分を人為的に切り取っているだけです。
ですから、発語のない子に重い診断が下されることに対して、「どうして"重い"という結果なんだ」という指摘には答えやすい。
だって、「発語がないでしょ」「遅れているでしょ」と。
それは、ある意味、客観的な側面を持ちます。


一方で、発語がないんだけれども、実際は言葉の理解もあるし、認知も同年齢と同じように育っている子に対して、言葉では「重度ではないよね」「検査結果上は重度の範囲に入るけれども、実際は結構分かっているよね」とはいえても、数値上は、それを表すことはできないし、その根拠も示しずらい。
となると、紙面上は、行政へ提出する書類には、重度に偏りがちになりますし、受け取った行政、学校等は、医師から「重度」となっているものを、自分の判断で覆すのは難しく、また大部分の人は、「はい、そうですか」と紙面を見て、判断し、振り分けていきます。


いろんな不備や理由が絡み合い、現在のシステム上、「言葉のあるなし」は、その子から切り離され、独り歩きし、それが様々な判断、またいろんな人のバイアスとなるのです。
当然、言葉のない子は、重度の子として支援、教育されていきます。
ですから、ここ1、2年、私はどうしたら発語が促せるのか、何が発語の発達につながるのか、をテーマに勉強し、自分なりの答えを見つけようとしています。


以前のブログにも書きましたが、発語、音声言語はヒトの進化の過程で獲得したものであり、その原型は、リズムでした。
まだ明確な発語を持たなかったご先祖様たちは、リズムやダンス、踊りによって、他者と共感しあい、コミュニケーションをとっていたと言われています。
また、赤ちゃんの発達研究では、リズムにより反応する子、もう少し大きくなってから(1、2歳)ダンスのようなリズム遊び、運動をする子は、発語の発達が良いという結果も出ています。
つまり、発語とリズムは関係性が強い、と考えられるのです。


実際、親子でリズム遊びをしたり、楽器を鳴らすようなことをしたりしたご家庭で、「発語があった」「言葉の面で伸びた」という報告をいただいています。
まあ、私の発達援助は、総合的に見て、良いと思われる提案はすべて行いますので、いろんなことをやった中の1つに、「リズム」があったのは確かです。
ただ、私のここ1、2年の実践からも、リズムを楽しむことは、言語面の発達に良い効果があるように感じます。


また最近が勉強したことに、赤ちゃんは、そのリズムを聴覚からではなく、触覚と固有受容覚で感じ、理解しているという話がありました。
冷静に考えれば、私達も、耳からではなく、身体を通してリズムを感じているところがあると思いますし、音楽を聴くと自然と身体が動き出す、リズムをとりだすという姿も良く見ています。
順番で言えば、身体(触覚と固有受容覚)でリズムを感じたあと、聴覚的なリズムとして認識されるということ。


発語の発達と関連性があるリズムは、聴覚よりも、触覚や固有受容覚で感じ、育てている。
しかも、他の研究では、リズムは足でとっても聴覚的なリズムとしてつながらないが、頭が動くと、それが聴覚的なリズムへとつながり、より強くネットワークが築かれるということでした。
このことから、耳の内側である前庭系の育ち、発達も、発語の発達と強い関連性があることが考えられます。


胎児期、母体の中で、母親の心臓の動き、リズムを身体を通して感じ、生後は身体をさすられたり、トントンされたりすることで、リズムを味わい続ける。
寝ているだけの状態から、自由に身体を動かせるような状態になると、触覚が育ち、固有受容覚が育ち、前庭覚が育っていく。
そうなると、よりリズムを感じやすくなり、それが発語への準備となっていく。


よく、発達のヌケ、特に運動発達のヌケを育て直すと、言葉の発達が見られる、ということがあります。
これも、たとえば、ハイハイなどをやり直すことで、同時に身体全体の触覚が育ち、また自ら手や足で触ることで、筋肉と腱から固有受容覚が刺激され、育つ。
もちろん、身体を大きく動かせば、頭が揺れ、傾きなどを検知する前庭覚も刺激&育つ。
ということで、結果的に言葉の準備も進められていく、ということなんだと思います。


今まで発達相談で関わってきた就学前のお子さん達。
そのお子さん達の中には、発語がなかったり、言葉の遅れがあったりする子ども達も多くいました。
そういったお子さん達のテーマは、年長の秋までに発語が出ること。
実際、多少の遅れがあっても、発語があれば、もちろん、認知的な問題がなければ、そのまま、普通級へ進学していった子ども達がいました。
その子達は、就学後も少しずつ言葉を発達させていき、みんなと一緒に勉強しています。


一方で、ちゃんとこちらが言っていることも理解しているし、教科学習ができる準備が整っている子の中には、支援級、支援学校への決定がなされた子ども達もいます。
本来、その子がより良く学習でき、育つことが、特別支援教育なのに、機械的に振り分けられてしまったということもあるのです。
当然、普通級ではいじめの問題もあるでしょうが、そこは特別なニーズを持った子の問題ではなく、いじめる子の問題だといえます。


本人の内側にある育つ力、学ぶ力よりも、紙面や数値が意味を持つ時代は、まだまだ続きそうな気がします。
なので、私はこの仕事をしている以上、言葉の発達については、特に真剣に取り組み、答えを見つけていかなければならないと思っています。


胎児は既にリズムを感じることができています。
でも、身体、特に触覚を通してです。
生後は、そこに固有受容覚と前庭覚が加わり、リズムを味わうようになる。
そのリズムを感じることが、発語の準備となります。


ですから、言葉の遅れがある子は、触覚を、特に自ら触ることで、育てる。
何故なら、触覚で痛みや熱さ冷たさを感じるだけではなく、意識的に触ることで、モノの重さやバランスを感じることが、固有受容覚をも育てることになるから。
そして、そういった感覚が育ってきたら、前庭覚が刺激されるようなリズム遊びをたくさんすること。
リズム遊びやダンスは、言語発達を促すからです。


ただリズム感のある音楽を聴くのではなく、実際に身体を動かし、そのリズムを感じてみる。
そういった遊びは、療育に行かずとも、家庭の中で、親子の関わりの中でできること。
どうぞ、言葉の遅れが気になる親御さんは、お子さんと一緒にLet's dance !!

2020年3月28日土曜日

【No.1037】我が子の障害を願う人たち

以前から、周囲からの関心と、それによる心の安定を得るために、我が子の障害を重く見せようとする親御さんの存在は知られていました。
実際、そういった親御さん達と関わったことがありますが、どれだけ自分が大変か、そして頑張っているかなど、とにかく話がそちらばかりにいき、我が子のより良い未来については、話が進まない、否定ばかり、もしくはまったく関心がないようにも見えました。


中には、育てることで治っていく部分を多く持った子もいましたし、ここさえ育てば、だいぶ、本人はラクに生きていけるだろう、と感じる子もいました。
私から見れば、早く治してあげれば良いのに、と思うのですが、親御さんにその気がなければ、どうしようもないのが現実です。
世の中には、こういった本人ではない人の意思、考えによって、「治るもんも治らない」という場合が少なくないのだと思います。


こういった「自分への関心と心の安定」が目的である場合とは違ったケースにも遭遇します。
同じように、我が子に障害があってほしい&治ることの否定、興味なしは共通しているのですが、そして目的は心の安定も共通しているのですが、その目的へと向かう根っこが違います。
それは自分の関わり方、育て方によって、発達障害が発症したと強く思っている節があるのです。
「赤ちゃんのとき、スマホに育児をさせなければ」
「すぐに立ったことを喜び、どんどん歩かせようとしなければ」
「離乳食を食べないから、お菓子を与えていたけれども、それをやめておけば」
「外で遊ぶのが億劫で家の中ばっかりにいたのをやめておけば」
これは実母、実父だけではなく、祖父母に表れることもあります。


そういった強い後悔が、これから挽回しよう、より良い子育てに変えていこう、自分も成長していこうへと向かっていけば、強力なエネルギーとなるのですが、あらぬ方向へ向かうと、子どもの発達、成長を阻む一番の壁になることがあります。
どう考えても、障害ではないし、定型発達の範囲の中にいるのにも関わらず、「いや、この子は障害があるんだ」「障害があるから、治るなんてないんだ」と言い張る人もいます。


そのような人は、私に相談した理由が明確です。
治るという考え、方向性で支援している人に、しっかり「治らない」「それが難しい」「障害だ」と言われたい、というもの。
最初は、また相談の依頼のときは、「どうしても治したい」「治ることをやりたい」という感じで訴えてくるのですが、いざ、直接関わり、アセスメントし、その見立て、育て方の話になると、全力で否定してきます。
「もしかして、〇〇くんに障害があることを望んでいるのですか?」と、直接、私は言うこともあります。
お仕事で行っていますが、はっきり言って、大変不快ですし、仕事を受けたことを後悔します。


家族間、親族間に、こういった人が一人いると、その家庭は、ひっちゃかめっちゃかになります。
夫婦間の不協和、親族間の不協和です。
当然、そのお子さんのより良い発達など望めませんし、子育て、発達援助どころではなくなります。


「発達障害が治る」という点に対しては、一般的な家庭でも認識の違いが出やすいのですが、そういった考え方、認識の違いを飛び越え、(自分の安定のために)我が子の障害を重くしたい、重く見られたい、明らかな生まれつきの障害であって、私の関わり、過去は関係ないとしたい、といって足を引っ張る、わざと発達に繋がらないような環境、状態にしておく、という人がいるのも事実です。


本人の伸びる力、成長する力、障害を飛び越えていこうとする力を発揮させられないこと。
それが一番の味方であってほしい家族から阻まれていること。
私が発達相談で関わらせていただくご家族のほとんどは、本気で我が子のより良い成長と未来へと行動される方達ですが、中には、こういった家族がいて、悲しい想いをすることがあるのです。
本人の意思、願いと違うところで、未来が奪われていくのは、つらい。


親御さんの心理状態、生活環境を改善し、少しずつ、こういった考えから脱し、結果的に子の成長を喜べるようになった家庭もあります。
でも、その場合は、時間がかかりますし、他の協力者を得る必要もあります。
また、私は絶対に譲らないので、支援の継続が打ちきられることが多いです。
ですから、私の時間も、みなさんと同じ24時間ですので、現在はそういったご家庭とは関係を継続せず、「我が子のより良い未来を」と思っているご家族に絞って対応しています。
自営業は、お客さんに選ばれるだけではなく、お客さんを選ぶこともあります。


「身近な親族に、ママ友に、こういった人がいるんだけれども、どうしたらよいでしょうか?」という相談を受けることもあります。
私の経験から思うのは、関わるだけ時間の無駄。
その時間は、我が子のために、同じ気持ちを持ったママ友のために使った方が良いですよ、と私はお伝えしています。
本気で、その人を、またその人の子を救おう、変えようとすれば、生半端な気持ちではできません。
いろんなものを犠牲にする覚悟も必要です。


なので、そういった想いを持った親御さんに対しては、救うよりも、共感の輪を広げていくことをお勧めしていますし、私個人としても願っています。
「ああ、あのおうちのように子育てしたい」
「あそこのお子さんのように、うちの子も育ってほしい」
前向きに頑張る親御さんの、家族の背中は、後に続く者の希望になります。
それは、私達支援者にはできないことなのですから。