2020年11月10日火曜日

【No.1127】ラジオチャンネル開局のお知らせ

発達って目に見えないものですよね。
その見えないものを商売にしている私は、とても危ない橋を渡っているといえるのです。
実際に商品が合って、それを売り買いする商売でしたら、モノが残り、またその価値を感じることができます。
しかし、私の行う発達相談、援助はサービス業であり、お客さんが満足するかどうか、そのニーズに応えるかどうか、それが唯一の価値になります。


標準療法は、エビデンス、科学的根拠を重視します。
何故なら、みんなの税で成り立っている商売だからですね。
サービスを利用しない多数の人がいて、少数の人がサービスを利用している。
そのとき、エビデンスが必要になるわけです。
よく勘違いされている人がいますが、少数の利用している人のためにエビデンスがあるわけではありません。
利用していない大多数の人のために、「皆さんから集めた税金は、ちゃんと科学的根拠のあるものに使用していますから」というある意味、建前のためにエビデンスが使われているのです。


親御さんによっては「エビデンスのある療法しか信じない」という人もいますが、たぶん、その人は基になる論文を読んでいないのでしょう。
論文には、こう書かれています。
「被験者〇名のうち、〇%の人に効果があった」と。
つまり、どの論文も100%の人に効果があるとは言っていませんし、そんなことは不可能です。
被験者という括りは同じですが、もっている資質、生活している環境、影響を受けた刺激、その人が歩んできた歴史が違うのですから。
よって、エビデンスがあるから、我が子にも効果があるとはいえないわけです。
エビデンスの根底に流れているのは、「効果があるかないか、やってみなきゃわからない」


70%の人に効果があるけれども、必ずしもその70%に自分の子が入る保証はありません。
効果のない30%に入る可能性だってあるのです。
しかも、その70%も同じように再現できる可能性は少ないから、実際は35%というようなこともある。
さらに論文に書くような実験は、先に挙げたような個別の違いを極力排除というか、見ないようにします。
そこを見たら、研究などできないからです。
それこそ、冒頭でお話ししたように発達とは目に見えないものですし、ある発達課題1つをとってみても、そこに関わる要因は、環境、遺伝とはず、複数あり、それも複雑に絡み合っているのです。
Aというエビデンスがある療法をやったからといって、Bという結果が見られたなんてあり得ませんね。
それはすべて解釈です。


実験室のモルモットの場合、遺伝子も、環境も、ある程度、コントロールすることができます。
でも、それと同じことは人間にできない。
が、一応、できていることにしているのが現在のエビデンスのある療法とやらです。
子どもの発達は一人ひとり違いますので、ある特定の療法にこだわるのはリスクが大き過ぎると思いますし、どうせやってみなきゃわからないのでしたら、いろんな方向からアプローチした方が良いでしょう、確率的に言っても。


そう考えると、他人である支援者と言うのは、幅広い情報、選択肢を伝えられなければなりません。
自分が好きな療法のみを伝えるのは、押し売りです。
しかも、ひと様の税金を使って押し売りしてはなりません。
でも、地方は特に、ここで診断を受けたら、次にここの相談機関を紹介して、その紹介機関はここの療育機関を紹介し…というズブズブのシステムが出来上がっているところがばかりです。
公共事業の元請けがあって、下請けがあって、孫請けがあってと同じですね。
まあ、そこを見えなくするために、「私が紹介しているところはエビデンスがある支援をやっているところですよ」なんてしているわけです。


家族にとっては、その子ひとりであり、その子が良くなるのが望みです。
そんなとき、他人である私たちのような支援者が、他の子どもさん、家族から得た経験、そこで磨かれた実践を伝えていくという意義が生まれます。
一人の子育てはできないけれども、100人、200人、300人…というような子ども達と家族と関わってきたからこそ、見えるもの、感じるものがあります。
私が思うに、どっかの誰かがやって一応「エビデンスがある」と言っている1つの方法よりも、こういった生きている情報、生の知恵の100、200、300のほうが、子育てをカスタマイズするには有効だといえます。


この世界に入って20年弱。
そして起業後も、関わる人たち、家族の人数は増えていっています。
そういった中で、「言葉で伝えること」がとても重要だと感じ、このブログを書こうと始めました。
ありがたいことにのべ33万人以上のアクセスをいただいています。
ですが、自分の中でもっと伝える力を、特に専門家がいう「雰囲気」という感じ方を表現できるようになるためには、別の方法でも磨いていく必要があると思うようになりました。
そしていろいろと検討した結果、音声によるブログ、発信に行き着きました。


私も共働きで、子育て世代です。
久しくタイムリーでテレビを観ることがありません。
観ても録画で、倍速で見ていますし、ながら見ばかりです。
ネットの動画でも、画面を見ているよりも、音だけ聞いている人が多いはずです。
たぶん、近い将来、動画から音声発信の時代が来ると思います。
そのときになってから準備していては、民間企業はおしまいです。
なので、それを見据えてのチャレンジでもあります。


昨日、開局し、今日も音声ブログを更新しています。
取り上げてほしいテーマや、もちろん、個人情報は落としますが、聴取してくださるみんなと共有できるようなリアルな相談があれば送ってくだされば、と思っています。
私の知識も生き物なので、そのとき、その瞬間感じたものを音声を通じてお伝えしていきたいです。
こちらのブログも引き続き更新していくつもりですが、徐々に重きが変わっていくと思います。
『てらっこ塾 大久保の【発達援助のこころ】』もよろしければ、今後とも御贔屓くださいませ。
どうぞよろしくお願い致します!
会員登録する必要はなく、スマホでも、パソコンでも、アクセスすれば聞くことができます。


ご聴取はこちら


2020年11月6日金曜日

【No.1126】名も無い遊びが連なっていくイメージで

「子どもは自分に必要な発達刺激が分かり、自らで育てようとしている」というのは、日々の発達相談で感じることです。
この視点を1つもつことができれば、子にとっても、親にとっても、気持ちが前向きになり、どれほどラクになるのかと思います。
ですから、私はせっせとその話を方々でしています。


その一方で気を付けなければいけないな、私の説明に足りないところがあったな、と思うことがあります。
「子どもが主体的に育てようとしている」がひっくり返って、「主体的に行おうとしないことには育ちがない」という解釈です。
確かに今、お子さんが主体的に、それこそ時間を忘れるくらい没頭しているような名も無き遊びがあるのなら、それをやりきれる環境を作ることが発達の後押しになります。
しかし、じゃあ、見向きもしない遊びは全部必要ないかと言ったら、そうではないと思うのです。


あるお子さんは、内耳(前庭感覚)に発達の遅れがありました。
シーツブランコをキャッキャキャッキャと楽しむお子さんでしたが、身体が大きくなりましたので、公園のブランコで揺れる感覚を味わってみたら、と試みました。
そうすると、ブランコに乗って揺らした瞬間、嫌だと降りました。
その姿を見て、親御さんは「やっぱり早かったかも」と止めようとされていましたが、その子は揺れる前までは座っていたのです。
ということは、「揺れの大きさを変えてみたら…」と思いました。
実際に、揺れの幅を小さく、ゆっくりにすると、その子はその揺れを感じるように座っていました(その後も10分ほど)。
たぶん、この子にとっては、ブランコに座り、ちょっとだけ揺れるも、名も無い遊びだったのです。


子どもさんの場合、「知らない」「わからない」がたくさんあります。
ですから、自ら進んで育てようとする名も無い遊びは、どうしても体験したことや見聞きしたことの範囲で選択されることが多くなるのです。
もしかしたら、その子がもっともっと熱中するような名も無い遊びは、ほかにもあるかもしれません。
よって、子どもの世界を広げるためにも、いろんなチャレンジ、体験をすることが重要になります。
そういったときに、一見見向きもしないような遊び、活動の中にも、やり方を変えれば、発達につながるような遊びに変わることもあるのです。


もちろん、そういったことができる前提には、「今、我が子がどこを育てたがっているか」「どこが発達のヌケか」を捉えている必要があります。
ですから、ここからは発展形になるのですが、たとえば、先ほどのお子さんのようにシーツブランコを楽しんでいるというのなら、同じような揺れに対しても、発達刺激になる可能性があると考えます。
ブランコも同じ前庭感覚を刺激する揺れがあります。
でも、それを嫌がるということは、私達が捉えている「揺れ」はざっくりし過ぎで、もっとこの子が何を欲しているか、どういった揺れ、刺激に発達刺激を見出しているかを掘り下げていく必要があります。
「仰向け、つまり、重力と平行になっているのが良いのだろうか」
「強い揺れが良いのだろうか、小さな揺れが良いのだろうか」
「横揺れ?縦揺れ?リズムが一定が良い?変化がるほうが良い?」
など、同じ揺れにしても、連想は広がります。


そういった連想を元に、別の遊びへ誘うことも重要です。
何故なら、同じ刺激は確かに心地良いですが、それが慣れまでになってしまうと、発達刺激になる変化が生じなくなってしまうから。
神経発達というよりも、どちらかといえば、癒しになってしまいますね。
発達援助の基本は、発達刺激にバリエーションを付けること、いろんな発達刺激を味わってもらうことです。
発達刺激と癒しの境目は慣れになります。


子どもさんが主体的に行っている名も無い遊びには、発達の機会があるといえます。
一方で、ある程度、年齢が上がっていけばいいのですが、まだ知らないこと、体験していないことが多いお子さんの場合には、主体的な名も無い遊びの幅、バリエーションが限られていることもあります。
「もしかしたら、彼がまだ知らない世界に、もっと豊かにしてくれる名も無い遊びがあるかもしれない」
そういった視点を持つことが大事です。
最初は見向きもしなかったことでも、やり方を変えれば、一気に熱中する遊びに変わることもあります。
同じシーツブランコでも、揺らし方を変えてみる。
同じような揺れを味わえるブランコや吊り橋、スキンシップ遊びなど、バリエーションの広がりを目指してみる。
そういった工夫が、発達のヌケを育てきるまで必要です。


案外、最初の名も無い遊びのまま、年齢を重ねていき、いつの間にか、それが慣れであり、癒しになり、結局、そこのヌケが埋まっていっていない人も少なくないように感じます。
「子どもが主体的に育てるから、親は見守っているだけでいい」というのは、半分合っていて、半分間違っていますね。
子どもの主体性は邪魔してはなりません、特に時間を忘れて没頭しているような名も無い遊びの場合は。
でも、「もっと心が躍るような名も無い遊びがあるかもよ」と誘っていくのも、親、大人の役目です。
「我が子がどんな刺激を今、欲しているか?」
そういったことを日々考え、連想できるのは一緒に生活している家族だからできること。
是非、お子さんがいろんな名も無い遊びを見つけられるような、それがどんどん連なっていけるような後押しをしていただければ、と思います。




2020年11月4日水曜日

【No.1125】日によってできたり、できなかったり

自閉っ子は、発達障害の子は「凸凹がある」というような言い方をされます。
確かに、アセスメントをしていても、こっちは同年代と同じくらいで、あっちは数年遅れている、なんてことは多々あります。
まあ、神経発達に不具合がある子ども達なので、というか、神経の繋がりにバラつきがあるのですから、「ああ、ここが抜けた分、迂回してこっちと繋がったのかな」「本来、必要ないくつかの繋がりの部分が少し足りないな」と感じます。
イメージで言えば、たとえ同じようにできていることでも、定型の子どもさんよりも迂回や繋がっている本数が違う分、目一杯でできている感じ。
よって、応用するような場面で、それらの回路がうまく使えなかったりして、能力の凸凹ができてしまうように思えます。


能力の凸凹ですので、「数学はできるけれども、国語がまったくできない」ですとか、「素晴らしい文章は書けるけれども、他人の気持ちを察することが苦手」などというようなことを指すのだと思いますし、実際、そのような人達が多いと言えます。
知的障害を持つ人達の場合、全体的な発達が遅れている、全体的な認知機能で遅れがある、という様相を見せるので、ここが神経発達症の人達に特徴的なところでしょう。
しかし、どうも、この能力の凸凹が拡大解釈されているようです。


子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですし、気分や体調によって、できることができなかったり、やれるのに「今日はやりたくない」とやらなかったりします。
これは幼ければ、幼いほど、当たり前ですし、自然な子どもの姿だといえます。
一度、できるようになったことは、コンスタントにできるというのは、心身共に年齢を重ねないと見られない姿です(大人でも難しいww)。
それなのに、この「できたり、できなかったりする」が能力の凸凹であり、発達障害の特徴である、故に自閉症である、なんてことを言う人たちがいるのです。
最初は、親御さんの口からそういった話が出ていましたので、その都度、説明はしてきたのですが、なんと「支援者からそうやって言われた」という親御さんがいたり、中にはそれが診断の決め手だという風に言われ、診断名をつける材料にされてしまったご家族もいるのです。


いつからコンスタントにできる=定型になり、それができないと発達障害になったのでしょうか。
日によってできたり、できなかったりするのが子どもであって、そんなことを言ったら、世の中の子ども全てが発達障害になってしまいます。
もともと認知機能の検査をすると、自閉症の子の多くに能力間の差が大きい傾向が見られたため、それが1つの判断材料となっていただけなのに、いつの間にか同じ活動の日ごとの差までをも、障害の特性、または根拠に使われてしまうような事態になってしまいました。
ギョーカイというのは、どこまで発達障害を増やしたら気が済むのでしょうか。


同年齢の子の発達から見て、同じようにできる能力がある一方で、大きく定型から外れるような能力がある。
だからこそ、同年齢と同じ環境で学ぶには配力が必要であり、そもそもそこが本人の生きづらさに繋がっているのです。
たとえば、昨日は友達と集団で遊ぶことができた。
でも、今日は友達と遊べず、ずっと一人で活動をしていた。
これって本人の生きづらさにはつながっていませんよね。
そりゃあ、昨日と今日で体調も、気分も違うわけですし、遊ぶ内容だって違う。
しかも、本人が納得して一人で遊んでいるならいいじゃないですか。
っていうか、一人で遊ぶのは障害ではありませんね。


私だったらここで注目するのは、昨日、友達と集団で遊ぶことができたこと。
たとえ、それが昨日一日の出来事だったとしても、集団で遊べたというのは、素晴らしい能力であり、ちゃんと育っている証拠です。
365日あって一度もない、今まで生まれてから一度も友達と遊んだことがないというのでしたら、そこに配慮や発達のヌケ、遅れを生めるようなアプローチ、トレーニングが必要になるといえますが、そうじゃないんですね。
まだ不安定かも知れないし、それこそコンスタントに見られるわけではないけれども、ちゃんと育ちの息吹を感じる、友達を意識し、遊びの場を共有しようとする動きがみられる。
それこそが、この子をより良く育てる糸口であり、子どもらしい発達のプロセスだと思うんです。


でもね、その一方で、「今日、友達と遊べなかったじゃないか」「一人で遊ぶなんて、自閉症の子の特徴だ」などと言って、そっちばっかりに注目し、挙句の果てに診断の根拠にしてしまう人たちがいるのです。
今までに数えくれないほど、親御さんからの相談がありましたよ、「できないことばかり言われて、そこは諦めなさいと言われました」「『いくら家ではできるんです。検査室でできなかったのは、緊張したからだと思うんです』と言っても、『検査結果がすべてだから』『私には分かるんですよ、お母さん』と言って聞く耳を持ってくれませんでした」という話が。


家でもできなくて、園でもできなくて、検査室でもできなくて、初めて一致するんじゃないですかね。
家でできるのなら、その子の内側には能力があるし、それが育つ可能性があるということではないでしょうか。
どうして家や園でできることが、いつもじゃなくても時々できることが、過去にできていたことが、その子のアセスメントに加えられないのでしょうか。
たぶん、ここには専門家特有の「親の言うことは当てにならない」「親よりも、専門家の見立てのほうが正しい」というおごりがあるのだと思います。
だから、家でできたことが検査室でできない=検査者の腕が悪い、というのを認めたくなくて、親御さんの見立てを一蹴しているのでしょう。
あとは、発達障害の診断自体が微妙なものなので、必死にできないところを集めて、無理くり診断名をつけている場合も少なからずあると思います。


とにかくたまったもんじゃないですよ、日による違いまであたかも「発達の凸凹」「能力の凸凹」にされてしまい、だから自閉症ですね、あなたの子には生涯支援が必要ですね、とされてしまうのは。
本当に無茶苦茶な話です。
「支援者って、どうしてあんなにも揚げ足取りなんですか?」
「療育機関に行っても、ダメ出ししかされないのは、どうしてなんですか?」
こういったのは、よく質問されることですので、私は「まあ、悪趣味なんでしょうね」って答えています。
それくらい診断もそうですし、療育機関も、とにかく"できない"に注目し、いったんそこを切り捨てることから始めます。
そして「できないことは諦めましょう」「できることを支援していきましょう」と進んでいく。


でも、支援者、専門家があっさり言い放つ"できない"って本当にできないことなのでしょうか。
一方的に決め付ける"できない"の中にも、環境を工夫すれば、発達のヌケや遅れを育て直せば"できる"に変わるものも少なくないと思います。
それに"できない"の中には、支援者が見逃している"できる"もたくさんあると思います。
というか、親御さんが"できない"と諦めているものの中から、"できる"や可能性を見つけるのが支援者の役目でしょ。
今、反対になっているんですよ、支援者が「できない」とばかり言い、親御さんが「できる可能性があるんです」と言う。


「発達障害は治らない」「自閉症は支援するしかない」と言っている親御さん達の中には、こういった支援者からの"できない"を信じ、可能性を見つけることを諦めてしまった人たちが少なくないように感じます。
普通、考えてもみてください。
どこの世界に、子どもの可能性、将来を最初から諦めている親がしますか。
子どもが生まれれば、期待し、将来の可能性を夢み、楽しみにするのが親です。
この前、お会いした親御さんは、1歳半の時点で、専門家から「もう諦めなさい」と言われたんですよ。
生まれてたった1年半。
そこで諦めろなんてひどい話です。
でも、それが現実に起きていることなんです。


日によってできたり、できなかったりするのは当たり前。
能力間の差だって、定型の範囲まで育っている能力が1つでもあるのなら、他の能力も定型の範囲まで育つ可能性は十分にあるでしょ。
どうして一番低い能力、育っていない能力に、子どもの姿を見る必要があるの??
育っていないのなら、どうやったら育つかを考えるのが支援者であり、その可能性を最後まで信じるのが親。
ダメなところしか見えていない人に、子どもの発達を後押しすることはできませんし、子どもさんも迷惑です、そんな人に関われることは。




2020年11月2日月曜日

【No.1124】「長所を伸ばすか、短所を減らすか」ではなく、「資質を磨く、未発達を育てる」

時々、「発達障害だから私なんだ」「自閉症の特性があって良かったんだ」というような人を見かけます。
たぶん、これは自閉症を一つの才能として捉えているというか、そこに極端にフォーカスしているんだと思いますね。
裏を返せば、それだけ生きづらいということです。
単にポジティブな才能だとしたら、「私、絶対音感があるんです」とか、「私、過敏に相手の気持ちを察することができるんです」とか、「私、一度見た景色をそのまま覚えていられるんです」と言えば良いのですから。


何だかわからないんですが、私にとってかけがえのないものなんだ、それこそが私なんだと言う一方で、「生きづらい生きづらい」と言い、「理解を」と訴えます。
これだと良くなりたいのか、なりたくないのか、わかりませんね。
中にはアクロバティックな主張もあって、「この長所(?)を無くすくらいなら、ずっと発達障害でいい」などという人たちもいます。
まさに、これこそが医原病というか、特別支援病というか…。
育つ部分、治る部分、活かす部分がごちゃまぜというか、良く分かっていないんでしょうかね。
流れ作業のように、マニュアル支援によって「脳の機能障害」という言葉で、「はい、おしまい」になってしまう現状。
一人ひとりの"人"に対するアセスメントが行われていないという実態と、「大人の発達障害はちょっと…」と敬遠しがちで、子ども以上に諦めの態度で臨んでいる支援者たちが、生きづらさに目を閉じて、やたらめたらに「長所長所」と言い続け、こういった人たちを育てているのでしょう。
まあ、支援の目的がいまだに「二次障害にならないように」というのですから、文章を見せられれば「文の才能がある」、絵を見せられれば「絵の才能がある」、こだわりのものを見せられれば「その道を極めてみたら」と、無責任発言が繰り返されるのだと思います。


少なからず、こういった大人たち、特別支援の中の戯言の影響を受けているのでしょう。
お子さんを育てている親御さんの中にも、「特性が良くなる」「症状が育ってみられなくなる」と「長所も消える」という関係性について疑問に思われている人たちがいますね。
ほとんどが感覚の過敏性に関連する部分だといえますが。
結論から言えば、過敏性がなくなる、つまり、聴覚が育つ、前庭感覚が育つ、嗅覚が育つ、味覚が育つ、視覚が育つが、優れて育っている部分まで打ち消すことはありませんね。
私が見てきた子どもさん達は、未発達が育ち、過敏性がなくなったあとも、それまでの長所、資質の部分は残ったままです。


どういうことかと申しますと、たとえば一番多いのが聴覚過敏。
聴覚過敏によって苦しいけれども、絶対音感みたいなことが見られる場合。
聴覚過敏の大元は、前庭感覚の未発達なので、そちらが育ってくると、聞き取りが育っていくんですね。
音の聞き取りが良くなる、人の言葉の聞き洩らしが減る。
で、絶対音感みたいなものも残り続けるんです。
でも、これは一つ条件が合って、「この子は音の聞き分けが素晴らしいな。だから、ピアノを一緒に楽しもう」などと、そちらの方面でも育てようとしている場合に、です。
「うちの子、絶対音感がある。音楽の才能がある」と喜んでいるだけではダメで、その才能に気づき、一方で聴覚過敏、聴覚の未発達をどうにかしよう、育てようと、イメージで言えば両方から刺激し、育てている場合、それが聴覚が育ったあとも才能の一つとして残り続けるのです。
よく見かける「聴覚過敏は障害特性。でも、絶対音感は才能。だから、普段はイヤーマフを付け、家では音楽をたくさん聞かせる」という方向では、絶対音感を持った生きづらい人にしかなりませんね。
生きづらさ、未発達を育てるからこそ、資質が開花するのです。
もちろん、未発達を育てるだけでも、資質を伸ばそうとするだけでもダメで、よりバリエーションをもって豊かに育てることが重要です。


この前の発達相談でも、「心を育てるってどうしたらいいんですか?」と尋ねられました。
これもギョーカイ支援あるあるで、生きづらさの根っこにアプローチできない支援者が「心が育てば、できる子です、この子は」なんていうわけです。
障害特性はそのままで、できることは周囲の理解と支援だから、「心」という曖昧なものに注意をそらそうとするんですね。
身体が不調だと、気持ちも不調になります。
だから、身体の不調から整えていくんですね。
自由自在に動けない身体だから、心がいつまで経っても伸びやかになっていかない。
それと一緒で、才能、資質も、土台となる身体が整っていないと発揮できないし、磨きもできない。
いくらお題目のように、「あなたには才能がある」なんて言っても、その才能が発揮できなきゃ意味がないわけです。
文を描くのも、絵を描くのも、何かに詳しいのも、全部、身体がないとできない、身体が動かせないと表現することができない。
口先は妄想で、動いて初めてそれが現実となる。
お子さんを育てている親御さんは、本人の資質を見極め、そこを刺激しつつ、一方でその裏にある未発達を育てることをお忘れなく!




2020年10月30日金曜日

【No.1123】揺らぎ、言語化

いつも好き勝手書いているこのブログではありますが、読んでくださる方達に向けて2つのねらいがあるんです。
それは「揺らぎ」と「言語化」です。


「揺らぎ」っていうのは、心の揺らぎ、身体の揺らぎ、感情の揺らぎ、いろんな揺らぎがありますね。
「自分はこう考えていたけれども、もしかしたら別の道があるかも」
「もしかしたら、私が捉えていたものは、一側面でしかなかったかも」
とにかく何でもいいんで、揺らぎが起きて欲しいなと思って綴っています。
揺らぎがないと変化が生じないわけで、変化が生じないということは後退がなければ、進歩もないということですし、一切揺るがないというのは危険でもあるんですね。
その道を極めるような職人さんならそれども良いのだと思いますが、相手は生きているヒトですし、我が子とは言え、他人です。
しかも、私たちが関わろうとしているのは、発達という現象です。
その発達こそが、揺れ動く存在そのもの。


非定型なんて言われますが、定型発達だって安定ばかりではありませんね。
発達とは揺れ動きながら前に進んでいくものなので、そういった発達と向き合う大人たちも日頃から揺れ動く体験をしておく必要があると考えています。
「ああ、これでよかったのかな」
「もっと別の方法があったかも」
それがあるから、子どもさんの発達の流れ、揺れに合わせて柔軟な後押しができるのでしょう。
揺れない人っていうのは、子どもに見られる自然な揺れを自分の型の中に収めようとする傾向があり、子どもさんとお会いすると息苦しさを訴えていることが多くあります。


もう一つの「言語化」というのは、一人ひとりの内側にある感覚を言葉に表すことです。
発達相談で感じるのは、既に親御さん達の中ではアセスメントも、どうやって育てたら良いかも気がついている場合が多いということです。
ただ皆さん、それが言語化できていない。
無意識レベルでは捉えているし、日々の生活の中で察している。
だけれども、その感覚に見合う言葉が出てこないから、モヤモヤされているように感じます。
そのモヤモヤの状態が続くと、自分の内側から離れた言葉に身を寄せ始める。
「発達のヌケ」という言葉と出会えず、「それが"障害特性"だから」という言葉で無理やり自分の内側にあるものに命名している感じです。
これまで多くの親御さん達とお会いしてきましたが、察しているものと言葉のズレ、感じているものに見合う言葉がない、という状態が結果的に、子ども達の内側から発せられている声に気づけない要因の一つになっているように思えます。


「私がぶれてばっかりなんで、子どもがうまく育っていかないんです」
そうやって涙を流される親御さんは少なくないですね。
たぶん、これは「一貫性のある対応、支援」というギョーカイ用語の影響でもあると思います。
この「一貫性」云々というやつは、そのほうが子どもの発達、成長に繋がるという意味ではなく、「一貫して私達の支援をご利用ください」という商売文句なんですね。
だって、子どもの発達が一つの療育、支援、機関に納まるわけないでしょ。
一貫性がないから、揺れ動くから生きているのであり、それが発達しているということ。


ですから私は、「ブレないほうが問題でしょ。だって、親になって数年しか経っていないんだもん」とお伝えしています。
そうやって子どもと一緒にブレ動くからこそ、より豊かな発達があるのです。
親がブレなきゃ、そばにいる子どもも心地良く揺れ動くことができないですから。
子どもと一緒にゆらゆら揺れながら、海に浮かんで一緒に揺れているような感じが良いと思いますね。
波に抵抗するのではなく、波に身を任せ共に揺れながら、いつの間にか、海の中を自由自在に泳げるようになっているイメージ。


子どもさんが小さいうちは特に発達が安定せず、揺れが大きいときですから、ちゃんと親御さんにも揺れ動いて欲しいと思いますね。
「昨日は良かった。でも、今日はダメだった。だから明日は別の方法をやってみよう」
そういった試行錯誤が子育てには重要です。
オーダーメイドの子育てができていない親御さんを見ると、やっぱりこの試行錯誤の段階を飛ばしているんですね。
その飛ばした先が、依存させることが目的の支援者なら最悪です。
だから、このブログを読んで、ムカッとしてでも良いから、揺れ動きを体験すること、本来の自然な子育てのために準備をしてもらえたらな、と考えています。


そして日々の生活の中で感じたり、察したりしたことを、きちんと言語化すること。
子育てで重要なのは、ノンバーバルな次元を大切にすることです。
発達はノンバーバルな世界。
目に見えず、捉えることのできない現象だからこそ、私達は感じる心を大切にしなければなりません。
ノンバーバルな世界と私達の意識を結びつけるには、言語化という橋渡しが必要です。
お子さんと親御さんの感じる世界をつなぐような言葉、文章が書ければ、と思っています。




2020年10月29日木曜日

【No.1122】心にピッタリな言葉を

喉元過ぎればなんとやらで、きっと今回のコロナ騒動も、うやむやになって終わっていくでしょうね。
民間レベルでは振り返りや反省、問題点の整理などを行うのでしょうが、たぶん、そういった類の本もでますね、だけれども、国家レベルでは白黒はつけずに曖昧にして処理されていくと思います。
当然、当事者の人達の反省の弁もないでしょう。
気が付けば「コロナが終息した」「私達はコロナに打ち克った」などと言うのも見え見え。
ただ最初からそんなに恐れるレベルではなかったものを、いつまでも恐怖感というムードに引きづられ、軌道修正できなかっただけなのに。
「敗戦」を「終戦」と言ったり、この辺りは日本語の豊かさでもあり、豊かさに胡坐を嗅いだ日本人の悪いところでもあるように感じます。


言葉で言えば、特別支援の世界も、そういった曖昧さを利用した意図的な言い換えが多いですね。
たとえば、「移動支援」
学校終わりに車に乗せ、児童デイまで連れていき、終わったら家の玄関まで届ける。
これのどこが支援なんですかね。
お年寄りの移動"介護"と何が違うのでしょうか。
そしていつも思うのですが、学校の下校時間にタクシーをお願いして、乗り合いで児童デイまで行ったほうが安いと思いませんか。
みんなから集めた税金を使って、タクシー料金の何倍も使っている。
毎日ハイヤーで御迎えかよ、と思っちゃう金額です。
乗り合いなら割り算なのに、税金は人数の掛け算ですよ(ひとの金だと思ってプンプン)。
私はタクシーを使うほうがよっぽど子ども達のためになると思いますね。
タクシーの使い方の勉強、運転手さんとのやりとりから感じるもの、学ぶものもあるでしょうし。
それでいったら、公共のバスとかで移動したほうがいいですね。
一般のお客さんもいますし、沢山の刺激と学び、体験が得られます。
どうせ、「移動支援」というのなら、そういった将来につながるような支援をしてほしいものです。
学校の前からみんなでバスに乗って移動する際の見守り・支援。
支えるも何も、流れ作業のように子どもを乗せて、ただ送り届けているのは支援と言わないでしょ。


「自立支援」なんてもいいますが、その自立支援を受けて自立につながる人はいませんね。
だってやっているのが、自己肯定感を高めるという名の接待であり、将来介護しやすい人になるための、もっといえば、支援者が介護しやすいための訓練ばかりなのですから。
自立って、自分の身体を使い、自分の頭を使い、選択、判断、行動できることを言うんですよ。
それなのに、視覚支援の使い方の訓練、ボーロをもらったら言うことを聞く訓練、まったく般化も応用もできない社会のルールの丸暗記…全部、自分の身体を育てるものでも、自分の頭で判断できるためのものでもありませんね。
むしろ従順な姿勢を覚えさせているようです。
自立支援とは、自立につながるための支援なのですから、本人が自立に向かうにつれて支援が減っていくのが自然な流れ。
支援が変わらない、支援が増えていくというのは、自立から遠ざかっている証拠です。


「療育」という言葉もそうですね。
治療と教育、まあ、中には保育という人もいますが、まず治療はしていません。
だって、発達障害は脳の機能障害であって、治す対象ではないから。
そのような考えから脱却できていない特別支援に治療はありませんね。
療育機関の支援者に訊いてみたらいいですよ、「ここに通ったら、ちゃんとうちの子、治してくれますか?」って。
そうしたら十中八九、「いや、お母さん。"治る"っていうのはね…」とお決まりの説教が始まります。
治さない人たちが、どうして「療育」という言葉を使うのでしょうか、そういったものを看板に掲げているのでしょうか。
嘘の看板を掲げたら、虚偽表示法で罰せられますね。
せめて、私達は「育」をしています、と言わなきゃ。
介護しやすい子に育てるのも、育には違いありませんから。


まあ、そんなことをいったら、大元は発達障害という言葉がおかしいんですね。
「発達に遅れがある状態」「神経発達に不具合がある状態」というのが本来なのに、発達の障害になり、その障害は身体障害の人たちと同じような障害の意味にしてしまっているし、しかも昨日お話ししたように、発達の遅れがいつの間にか自閉症とイコールになってしまっていたりの現状があるし。
ある専門家の先生が、「"新型"って付くけれども、基本的にはコロナウィルスなんだから、対応は一緒です」と言っていましたね。
それと一緒で、不具合を障害と意図的(?)な誤訳をしたところから間違いが始まっているんですね。
「ああそうか、新型って言うけれども、いつもの風邪の一種ね」だったら、こんなことになっていなかったはずです。
「ああそうか、障害ではなく、不具合が起きている状態なんだね」だったら、その状態から抜け出せるように丁寧に育てればいいんじゃんってなったと思いますよ。
そうしたら、ほとんどの特別支援が必要なくなります。


今の特別支援って、介護が必要ないくらい元気なおじいちゃん、おばあちゃんに、あれこれやってあげて、挙句の果てに脳機能や筋力が衰えてしまう状態と似ていますよ。
そういえば、ジムに行っていたおじいちゃんがコロナで入院させられたことがありましたよね、ジムに行くくらい元気な人に入院は必要ないでしょ。
まあ話を戻すと、確かに何かしら発達に遅れがある子なのかもしれません。
でも、五体満足に産んでもらって、元気に学校に通えているでしょ。
だったら必要なのは、その足で、その身体と頭を使い、児童デイまで自力で移動することだと思いますよ。
就学時、身体がぐにゃぐにゃで、椅子に座っているのもしんどかった子が、毎日、登校を頑張り、また児童デイも自分で歩いて30分以上かけて通っていたんです。
久しぶりにあったら、身体の軸が育っていて、たくましくなっていましたよ。
もしこの子が、今のような移動支援を利用してたら、また違っていた姿だったと思います。
この子は、自分の足で育てたんですね。
もし支援が必要なら、その自分の足で歩く最初の頃の後押し、支援でしょ。


就労支援を受けて、就労できる人はほとんどいませんね。
というか、就労できるくらいの人は、就労支援を利用しない(爆)
これが三次障害というのかもしれませんが、必要のない介護を受け続けて、心身共に育たず、介護を受けることに慣れてしまった、介護に依存してしまった人たちが大勢いると思います。
「あの子、自立できるよね」と言われていた子が、ことごとく、介護慣れ、介護者依存を起こし、福祉の世界にどっぷり浸かっていますよね。
やってあげることって、やるほうにとっては気持ちが良くても、受けるほうにとってはまずい結果につながることが多いのです。


発達に遅れがある、発達にヌケがあるって、障害ではないですね。
自分ではどうしようもない部分に対して行うのが支援ですし、それは必要なことです。
じゃあ、発達に遅れのある子ども達に、今の特別支援は、ちゃんと支援できているのでしょうか。
それって余計なお世話じゃないの、それって介護じゃないの、介護しやすい子に育てているだけじゃないのって、みなさんは思いませんかね。
私は思いますよ。
未発達って、どうしようもないことではないもん、あとからでも育てられるもん。
育てるっていうアイディアと方法があって、そしてその力を子ども自身が持っているから。
今一度、我が子に、目の前の子の、何を自分は支援しているのか、それって介護になっていないか、一人ひとりが考えるときだと思います。


児童デイの送迎は、全部、タクシーにしたほうがいいですね。
もし一人で乗るのが難しい子がいたら、それこそ、同乗者が支援になります。
就労支援はジョブアプリに、診断もアプリに。
早期療育は全部やめて、その分、幼稚園、保育園の先生を増やして統合保育にしたほうが、発達の遅れやヌケが育つ可能性大、というか、そうやって発達に遅れがある子も、みんなの中で遊び育ってきたんですね、発達障害バブルの前までは。
放課後は、学童と地域の習い事と公園。
将来の生活の場である施設も、グループホームも、同じお金があるのならホテル暮らしにすればいい。
3食付いて1万円くらいでしょ、温泉も入れるし、スタッフも優しいし、部屋も掃除してくれるし。
特別支援なくしたら、毎日、Go to トラベル♪


特別支援の世界って、介護を「支援」という言葉に置き換えることで発展してきたんですね。
発達に遅れがある子ども達に、まだ今まさに育とうとしている、発達の真っ最中の子ども達に、「介護します」というのでは予算はおりないでしょ。
まあ、反対に、いつまで経っても福祉に予算が増えないのは、「自立につながっていないよね」って把握されているからだともいえますが。
発達に遅れがある子ども達に必要なのは、その遅れを育てる環境であり、時間なのです。
発達って療育機関だけのものでも、支援者だけが持っているものでもないでしょ。
登下校の道のり、親子の間に、家にも外にも、自然の中にも、それこそ、この世界全てが発達の場ですよ。


さあ、ギョーカイ用語を使うのはやめましょう。
使っているうちに、ギョーカイ脳になってしまいます。
大事なのは、子どもさんが感じている内側を言葉にすること。
そして親御さんが感じているそのままを言葉にすること。
言葉は道具であって、道具に心が支配されてはいけません。
「うちの子、発達の遅れがある。だから、そこを丁寧に育てよっ(^^)」
これが親子の願いであり、親子の心にピッタリな言葉ですね。




2020年10月28日水曜日

【No.1121】発達の遅れ=自閉症なの??

毎年、この時期になると、お子さんの成長した様子を教えてくれるメールが多く届きます。
夏思いっきり遊んだ子ども達が、だいたい3ヶ月くらい経って、ググッと神経が繋がり、大きく育つ時期なんでしょうね。
中には「大久保さんの発達相談のおかげで、治りました!」と言ってくださる親御さん達もいますが、まあ、私はきっかけの一つであって治す力は持っていませんし、言うならば治したのは子どもさん本人で、それを後押ししたのはご家族です。
でも、その「治った」も、私が関わるお子さんの場合、なんか違う気がしますね。
治ったというよりも、ヌケていた発達課題が育った、未発達の部分が育ったという感じ。
子どもが発達するのは当たり前なので、それに未発達が育つのは特別な出来事ではないですし。
ですから、治ったというよりも、特に幼児さん、小学生の子ども達に関しては、いま、「育った」のだと思います。
この辺りのニュアンスが、やはりある程度、年齢を重ね、生きづらさを抱えながらも、生活も、脳内も、折り合いをつけてきた人たちとは違うような気がします。


ここ1年くらい、「治った」と「育った」をその人の雰囲気で使い分けていました。
でも最近、わかったんですね、その違いが。
この前もそうなんですが、自閉症という診断名がある子のおうちに行ったんですね。
でも実際に本人にお会いしたら、どこが自閉症なんですか?と思うくらいナチュラルだし、そもそも診断基準ぜんぜん満たしてないじゃん、という子だったんです。
私が仕事で伺ったのに、反対にお母さんに「どうして自閉症って診断できたんですか?」「どういった行動、症状があったんですか?」と尋ねちゃうくらいです。
でも、こういった出来事というか、現象というか、本当に多いんですよね、道内だけではなくて、全国あちこちでも。


現在の診断方法が適当かはおいといて、自閉症というからには中核的な特性が揃っている必要がありますね。
言葉の遅れや他者との関わり、それに伴う想像性や固執、感覚面の異常さとか。
しかし私がお会いする子ども達は、あっても1つか、2つかで、それも既に治っている、症状や異常さが消えている、定型の範囲まで育っている場合ばかりなんです。
ここで考えられるのが、「治った」ということですね。
確かに診断を受けた時点では、自閉症の中核的な特性が一定以上見られていた。
でも、その後の成長の中で、そういった異常性を持つ特性が治って、今はこれだけになっている、自閉症の診断基準を満たしていない、ということ。
この場合、日本の特別支援における「一度、付けた診断は外れない(外さない)」というムラの掟が悪いほうに出ているんですね。
ある県では、その県内におけるトップの医師がいて、その医師が一度付けた診断名は外さないというルールがあると聞きました(しかも、複数の方面から)。
中には、正直に「勘弁してください。〇〇先生の判断を否定するようなことはできないんですよ~」と話してくれる若手の医師もいるそうですが。
世界的には認められている、というかそれが自然なことだと考えられている神経発達症に関しては「診断名が外れる」という現象も、国内ルールでは認めていませんので、こういったことが起きるんだと思いますね。


でも、ここで話が終わらないんです。
単に「一度付けた診断は外さない」というムラの掟ならわかるんですが、どうも最初から自閉症の特性が複数あったかどうか、そもそもそれが特性といえる状態なのかが怪しいんですよ。
「言葉の遅れはあったんですか?」と尋ねれば、「確かに言葉の遅れがありました。初語が2歳前後でしたから」と返ってきたりして、これの何が問題かといえば、初語が2歳前後は確かに同年齢の子と比べれば遅れていることに違いないが、それでも定型発達の範囲内ではあるんですね。
他にも、「共同注視がなかった」とか、「指さしがなかった」とかいうのもありますが、お母さんが困った顔をしていたら、すっと優しい声がけをしたり、「ねえねえ、見てみて」とモノを持ってきて見せたりしていたり。
あと多いのが、「こだわり」
こだわり、固執というのは、認知の部分で行うことではないんですね。
もう脳内でそうせざるを得ないような神経回路が出来上がってしまい、身体のあとから認知が追い付こうとしている感じです。
なので、本人の意思で止められないし、止めるにはそれ相当のダメージが生じるのが普通です。
それなのに、医師から診断された「こだわり」がただの車が好きとか、同じ道で帰りたがる(そっちに好きなものがあるから)とか、同じ服を着たがるとか、そんなレベルのものばかりなんです。
それって幼い子にフツーに見られる行動でし、そもそもそこに生活に支障が出るくらいの異常性はないでしょ。


そうなんです、生活に支障が出るくらい、本人にはどうしようもないくらいの症状だからこそ、障害になるのであって、ただの発達の遅れは障害ではないんですね。
つまり、私が仕事をしている範囲ではありますが、全国的に一時的な発達の遅れが、なんだかわからないけれども、「自閉症」になっているんですよ。
自閉症の子に発達の遅れが見られるのはわかるけれども、発達の遅れがある子=自閉症ではないんですね。
いやいや、それってただの発達の遅れだし、そもそも定型の範囲の後ろのほうにいるだけだし、というのが多すぎ。
「ああ、現時点で発達に遅れが見られていますね。だったら、そこを丁寧に育てていきましょうね」でしょ、普通。
それなのに、無理くりかどうかはわかりませんが、発達に遅れが出ている子を「自閉症」にしてしまう現状っておかしいですよね。


自閉症の診断基準って、何度読んでも、純粋に自閉症の人だけではなくて、重い知的障害を持つ子やそれこそまだ育っていない未発達が多い子も該当してしまうような記述になっているんですね。
だから、純粋な自閉症の人がいるのかどうかはわかりませんが、とても曖昧だし、診断者の意図によって広くひっかかるような仕組みになっているといえます。
だから誤診がこんなにも多いのでしょう。
そしてさらに問題をややこしくしているのが、白い巨塔みたいな医療の世界と、特別支援ムラの掟。
本当は良くないけれども、いいんですよ、誤診だったら誤診で、認めてくれれば、ちゃんと詫びてくれれば。
でも、ただの現時点で発達が遅いだけの子が、たぶん、療育や支援が受けられるようになるために「自閉症」という仮の診断名が付けられて、しかも外せない、しかも介護しやすい人に育つための支援の世界に放り込まれる…。
こうやって、最初は一時的に発達が遅れていただけの子が「自閉症」になり、そうやって育てられていくうちに自閉っぽくなっていくんですね。


発達の遅れは障害ではありませんね。
もし神経発達が生じないのでしたら、それは障害だと言えると思いますが。
実際は適切な環境と時間によって、ほとんどの子は育っていきます。
ただ育つ機会、環境、時間を奪われるから、発達の遅れが育たないまま、後天的に知的障害の範囲に入ってしまったり、育ちの偏りが脳の偏りになり、自閉症のような言動、症状が出てきたりするんだと思います。


ですから最近では、発達の遅れは、発達の遅れのままにしてくれよ、と思いますね。
そうすれば、親御さん達も、その遅れの部分に注目して、そこを丁寧に育てていこう、後押ししていこうという気が起きるのではないでしょうかね。
どう考えても、「自閉症」というインパクトは親御さん達にとって大き過ぎです。
「発達の遅れがありますね、お母さん」のままだったほうが、流さなくてよかった涙と、諦めなくてよかった子育て、家族の時間がたくさんあると思います。
それに前向きな関わりと子育ての中で、遅れていたところが自然と育ち、同年齢の子ども達と一緒に歩んでいけた子が多いですよ、きっと。


私が関わる家庭は、治ったというよりも、育った子のほうが多いと思います。
ということは、それだけ人災が多いんですよ、人災が。
良かれと思っての「自閉症」という診断かもしれませんが、結果的にその子の人生に大きな影響を与えているんですね。
本人自身がコントロールできない、それこそ、認知ではなく、脳内で生じている現象に関しては、支援や療育、理解や薬が必要でしょう。
でも、「発達障害も発達する」
さらに「子どもはみんな、発達する」
大人だって発達するんだし、発達しないんだったらそれは生きていないのです。
子どもの発達する力を信じなきゃいけませんね、まずはそこからですね。