2018年7月12日木曜日

子どもに直接、話をします

「私に話してくれて嬉しい」
こんな風に言ってくれる子がいました。
私は、小学校の2,3年くらいの子から、直接、本人に話をするようにしています。


おじさんは、今、どのくらい成長しているか調べる仕事をしていること。
「まだ育っていないところを見つけたら、それを教えるから、一緒にどうやって育てていけばよいか考えていきましょう」と話をします。
そして、「おじさんは、一気に育てるような魔法や薬は持っていないし、〇〇くんの代わりに育てることはできない。育てる手伝いはできるけれども、育てていくのは、〇〇くんだよ」と話をします。


冒頭の子は、今までずっと自分の話題になるけど、自分はその輪に入っていないと思っていました。
いろんな場所に連れていかれ、いろんな大人と会ったけれども、話しかけられるはすべて横にいるお母さん。
自分のことを話しているのに、自分には向けられない意識。
そんな雰囲気や疎外感を感じられる子が、生涯に渡る支援の中に入りかけていたのです。


定期的に関わっている子ども達には、前回と比べて、何か変わったことがあるか、尋ねるようにしてます。
「ラクになった」「不安な気持ちが減った」「学校行くのがあまり大変じゃなくなった」「たくさん寝れるようになった」「話が聞こえるようになった」など、いろんな気づきを教えてくれます。
中には、「何か分かんないけど、いいね」と言う子もいて、一人ひとり違う感じ方と表現を、私も楽しみにしています。


当然、何も変化を感じない子や悪くなったと言う子もいます。
でも、それで良いと思っています。
大事なのは、自分自身の内面に目を向けることであり、自分を育てている自分という意識を味わってもらうことです。
育てる主体は自分で、治していくのも自分です。


自分自身の変化により気づけるようになると、主体性が出てくるような気がします。
主体性が出てくると、より自分の変化に気が付けるようになる気がします。
主体性と内面の気づきは、お互いが高め合う存在だと私は考えています。
内面の育ちが主体性を育て、主体性の育ちが内面を育てる。


治っていくプロセスとは、変化に主観的に気づき、その変化に合わせて主体的に行動する、の繰り返し。
主という自分の意識がなければ、治っていきません。
ですから、私は子ども達に対しても、「何か変わったことある?」と尋ねます。


私が、子どもさんと向き合って話をしている様子を見て、親御さんはハッとさせられる、とよく言われます。
診断を受けたときから、ずっと親の私が話しをするものだと思っていた。
そして、その受け答えは、いつしか親の自分がこの子にやってあげなければ、という思いを作り、それに合わせて行動してきた、それを疑うことすらなかった。
でも、発達の遅れを育てていくのは、私ではなく、この子自身なんだ、と。


ある子は、こんなことを言っていました。
「この人は、自分のことを障害を持った子と見ていない」
幼い子だとしても、この辺の雰囲気、大人が発する感情はすぐに見抜くものです。
子どもの方が、言葉以外から察します。
「遅れているところ、苦手なところがあるのなら、そこを育てていけばいいでしょ」
そんなシンプルな一言に、子どもは目を輝かせます。
「僕は手伝ってほしいんじゃなくて、どうすれば治るか知りたかったんだよ」と言う子もいました。


このブログの文面だけでも、この子達に可能性を感じた方は多いのではないでしょうか。
でも、こういった子ども達に、『一生涯の支援』という線路の上を歩ませようとする大人たちがいる。
進みかけていた道以外にも、いや、それよりも可能性を広げる道があることを、彼らに伝えられたとき、私はこの仕事を作って良かった、社会のお役に立てることがあったと感じます。
この仕事を続けている限り、私は子ども達に直接話しかけようと思います。

2018年7月9日月曜日

楽しむ心が発達の出発点

赤ちゃんは、「ハイハイが上達するように」と思って、ハイハイしているのではありません。
見たいものがあり、触りたいものがあり、行きたい場所があるから、ハイハイをする。
自らの意思と自発性、喜びや興奮に付随してハイハイがあり、その先に発達がある。
そんな風に私は考えています。
ですから、発達援助とは心地良い雰囲気が重要であり、「やらせよう」「もっともっと」「これは良くて、あれはダメ」と思った瞬間、成り立たなくなるものだと思います。


ある親御さんが、特別支援とは「ダメ出しに耐えること」と表現していました。
我が子に発達の遅れがわかったときから、ずっと「ダメだダメだ」と言われ続けてきた、そんな印象しか得られなかった、と。
だから、初めて家族以外の人からダメ出しではなく、希望の言葉が聞けて、本当に嬉しいと涙を流されていました。


私もダメ出しはします。
生活の流れを見て、子どもさんの発達の流れを悪くしているものがあれば、指摘しますし、当然、どこに発達のヌケや遅れ、育っていない部分があるか、将来の問題の根っこが見えれば、そのリスクもはっきりと言葉にします。
だけれども、そのダメ出しを誘導する力に使っていません。


支援者の中には、ダメ出しを自らの支援への誘導に使っている人がいます。
「発達の遅れがある。だから、特別支援学級へ」
「二次障害というのがある。だから、無理はさせずに支援を受けながら生活を」
「就職してもすぐに退職する人ばかり。だから、福祉的就労に」
発達の遅れという事実を恣意的に色付ける支援者の存在があります。


しかし、発達の遅れというのは、何か特別な色があるわけではありません。
発達に遅れがあるのなら、どうすれば発達していくか、発達が取り戻せていくか、そこが重要なのです。
発達の遅れの状態から一歩前に行く、その後押しこそが人を支援するということ。
自分のしたい支援に誘導するのは、ただの勧誘です。


私とのセッションが終わったあと、「楽しかった」「前向きになれた」と感想を言われる親御さんが多くいます。
それは私がどうのこうのではなく、それだけ今までの歩みの中で抑圧されてきた、自らを抑圧してきたという証です。
親御さん達は、特別支援をやってきたのであって、子どもを育てることは行えていなかったのでしょう。


本来、発達とは楽しいことです。
赤ちゃんが楽しいからハイハイするように、大人たちも楽しいから発達を後押しする。
そこにはノウハウも、賞罰も、資格も、経験年数も、支援グッズも、アセスメントシートも、診断名も、入る余地はなく、価値や意味すら持たないのです。
必要なのは、楽しむ心。


気持ちが前向きになれただけで、どんどん発達の後押しができていく親御さんがいます。
「発達が遅れているのなら、ヌケているのなら、そこを育てる」
たったこの一言と出会っただけで、本人は治り始め、親御さんは何をすれば良いかわかるようになる。
それくらい気持ちと雰囲気は大事です。
楽しむ心が持てず、「やらせよう」と義務感で接している子は、成長するかもしれませんが、いつまで経っても発達はしません。
発達の遅れやヌケを残したまま、大きくなっているように感じます。


発達したいなら、発達してほしいなら、赤ちゃんの目になること。
赤ちゃんは、発達しようと思って行動するのではなく、楽しくて、ワクワクするから自ら行動し、結果として発達していく。
この順序、流れを忘れてはなりません。


重苦しい雰囲気の中に発達はありません。
ましてや療育施設など、日常生活から切り離されたような不自然な環境の中で発達が生まれることはありません。
あるのは成長であり、発達ではない。
成長には良い成長と悪い成長がありますが、発達には良い発達、前向きな発達しかないのです。
私たちの役割は、発達にヌケや遅れがある子に、より良く発達してもらえるよう後押しすること。
支援者の扱いやすい人に成長してもらうのを後押しすることではありません。

2018年7月4日水曜日

「父親の理解ガー」

「父親の理解が…」とおっしゃるお母さんには、「お父さんに理解がなくても、稼ぎがあれば大丈夫です」と言っています。
まあ、理解があるに越したことはありませんが、父親が子育ての全面に出てくる家庭は、往々にしてうまくいっていないことが多い印象です。
だいたい子どもさんが伸びやかに発達、成長していかない家庭というのは、父親の理解が足りない家庭というよりは、父親がお勉強好きで子育ての主導権を握っている家庭だといえますね。
別の言い方をすれば、お母さんが伸びやかに子育てできていない、母親の感性、本能が活かされていない家庭というのは、治りにくいし、治っていかない、と感じます。


もちろん、お子さんの発達のヌケを埋めるのには、父親の力が必要な場面もあります。
全身を使った運動や大きな動きの遊び、ワクワクするような冒険心を刺激する活動など、お父さんならではの発達援助がある。
でも、子どもさんのことを理解するという点では、母親の右に出るものはいないと思います。


父親の理解というのは、知識からの理解です。
「発達障害には、こんな特性があって、こんな場面で困難を見せる。そういえば、息子にも同じ困難があるから、きっとこういった特性が強いんだろう」って感じ。
しかし、母親の理解っていうのは、物語としての理解。
受精した瞬間から現在に続く物語。
ですから、お母さんの話を聞いていると、流れを感じることができますので、発達のヌケが流れの中からパッと浮かんできて掴みやすく、そして未来像、今後どうなっていくかがよりリアルに描けるのです。


まあ、男というのは、コンプレックスをまとって生きている存在みたいなもので、子育てにも、そのコンプレックスが投影されることがあります。
SNS等で発信している父親をみますと、だいたい自分を納得させるために文字を書いている匂いがプンプンしています。
そういったとき、私はその人のことを父親ではなく、オスなんだと察します。


オスの本能は、より多くの子孫を残すこと。
でも、現代社会では、動物の雄のような繁殖行動はできません。
となると、少ない子孫をより優秀で、より強い子として残そうとするものです。
そういったときに、我が子に障害があることがわかる。
自分が一生懸命勉強して大学に行き、一流の会社に勤めたように、我が子にも社会の、集団の頂点を目指し、強い人間に育ってほしいと願っていた矢先に。
だから、オスとしての本能を抑え込むためにSNSで文字を綴っていく。
周りを納得させることよりも、自分自身を納得させるために。


「発達障害は治らないんだ」と主張するオスたちの文章というのは、読んでいて本当につまらない。
論理の上に、論理を重ねているだけで、結局、結論は最初から決まっているから。
オチが分かるドラマは誰も観ないし、心を動かされません。
ただ自分を納得させたいだけの独りよがりの言葉の羅列の中からは、ロマンも感じなければ、未来も感じません。
そこにいるのはオスである自分自身なのですから、当然、子どもの姿はないのです。
「治らない」という父親ほど、我が子を受け入れられていないと感じます。


オスとしては、子どもに治ってほしい。
でも、父親としては治ってほしくない。
何故なら、治ったところで、この社会の中で自分と同じような強くて、勝ち抜けるような人間に育つとは思えないから、自分が育てられるとは思わないから。
だから、論理をこねくり回すことで、自分の頭の中の世界のバランスを保とうしている。


ちなみに、母親の「発達障害は治らないんだ」の原動力は、愛着障害が多い気がします。
一言で言えば、ダメ親と見られたくない。
他人軸で生きていた人が、自分がこう思うから、こうするんだ、という生き方をしてこなかった人が、急に「治していくのは、あなたですよ」と主導権を渡されれば、慌てふためき、恐怖を感じる。
つまり、根っこは感情だから、父親のSNS、主張と比べて、論理臭を感じません。
「治ってほしいけれど、私次第って言わないで」って感じです。


子どもの発達を論理的に読み解こうとしても無理な話です。
子どもは生命体で、ひと時も同じ状態がありません。
発達は前に進むのみで、後戻りはしない。
「こうやったから、こうなる」なんて単純な図式化はできないのです。
当然、場面場面を区切って、子どもを見ても、わかるものは限られています。


じゃあ、どうやって子どもの発達を理解していくのか。
それは子どもと同じ息づかいをするということ。
子と親が同化していくのです、母体にいたときのように。
お母さんとお話ししていて、お子さんの姿がリアルに見えてくるときは、まるでお母さんが子どもさんの内側に入ってしゃべっているような感覚があります。
同じ子の生きづらさを語るときでも、父親と母親では、伝わってくるものが全然違います。
父親は『生きづらさ』という文字から語り、母親は子どもと同じ感覚から語る。


父親はダイナミックな遊びや冒険心をくすぐるような活動のとき、能力を発揮するのだと思います。
また、発達のヌケを育て直すときよりも、そこが埋まったあと、どう生きるのか、生きていくのか、という場面に子どもが立ったとき、大切な役割があるのだと思います。
私の今までの経験からも、お子さんの発達のヌケを育て直すのは、お母さんが主体的に行っていく方がうまくいくといえます。
何より、発達という連続体、流れを的確に感じられるのは、お母さんが一番です。


発達を掴むのは、いくらお勉強ができてもできることではありません。
発達を掴むには、子どもと同じ息づかいができること、感覚的に変化がわかることが重要です。
発達は情報ではなく、流れであり、物語です。


お母さんが活き活きと我が子の物語を語れる家庭というのが、素晴らしい発達の場だと思います。
ですから、父親が「こうせい、ああせい」と言うのは、よくありません。
問題が絡み合っている家庭というのは、だいたい父親が、お母さんの話を聞かずに頑張っちゃう家庭でしょ。
「この子のことは、妻に任せています」と、堂々と言われるお父さんのところは、お子さんも、お母さんも、伸びやかです。


論理的な説明はないけれども、「なんかおかしいと思うんだよね」「このままだと、将来まずいことになりそうな気がする」と感覚的に察することができるお母さん。
そのお母さんに対して、「妻が言うなら」と立ちどまり、そして共に考えられるのが父親です。
少なくとも、「なに訳のわからないことを」「そんなの気にし過ぎだ」とオス発言して、お母さんの感覚を否定しないくらいには発達すべきですね。


オスでいたいなら、しっかり稼いでくる。
そして、子育ての主導権を奪わない。
オスとしての生き方を我が子に伝えたいのなら、発達のヌケが埋まり、土台が育ったあと。
コンプレックスを抑え込むなら、独りよがりの文章を書いていると自覚することと、意見の違うひと様に絡まないこと。
日頃、オス丸出し、コンプレックス丸出しなのに、急に父親面するから問題が絡まるばかり。


発達援助に関しては、お母さんが主体的に、かつ伸びやかにやられるのが望ましいと思います。
必要なのは、お母さんの持つ感覚と、我が子と同化する息づかい。
お子さんが治っていく家庭は、お母さんが能力を存分に発揮できる家庭。
父親が協力的か否かは、お子さんの治るには、そこまで関係しないと感じますね。

2018年7月3日火曜日

雰囲気の一つになる

日曜日に行われた函館マラソンは、朝から土砂降りの雨でした。
スタート30分前には、競技場内で待機しなければならなかったのですが、その時点で、頭から水が滴り落ちているし、靴はすでにおもおもの状態。
会場には8千人以上の人達がいたのにもかかわらず、シーンと静まり返っており、耳に入ってくるのは雨が激しく地面を叩く音ばかり。
皆の息づかいは、ただただ早くスタートの瞬間を迎えたい、その一心だったと思います。


とても長く感じたスタートまでの時間。
しかし、スタートのピストルが鳴った瞬間、雨の音は聞こえなくなり、会場の雰囲気も一気に明るくなりました。
聞こえてくるのは沿道の声援、近くを走るランナーの息づかいと足音。
そして、目に入ってくるのは、前を走るランナー。
マラソンは、他人と競うのに、自分自身との闘い。
マラソンは、一人で走るのに、前を走るランナー、沿道で声援する人、ボランティアのスタッフに引っ張られ、引き出される。
そんな雰囲気を感じた今回の大会でした。


メールというのは、無機質な文字の羅列だといえます。
特に、私がいただくメールは、実際にお会いしたことのない方からのものがほとんどですから、余計にその側面が強調されやすいと思います。
しかし、その文面を読み進めていくうちに、自然と引きこまれていくメールが多くあります。
そして、お会いしたことのない親御さんの息づかい、子どもさんの持っている体温が伝わってくることもあるのです。


気が付いたら、お返事の文面が出来上がっている、なんてことはしょっちゅうです。
それも聞かれていないことまで、答えていることがある。
我に返り、文章を読み返してみると、「どうして、自分はこんな文を書いたのだろうか」と思うことも多々あります。


実際にお会いしたときは、もっと顕著で、自分でしゃべっているのに、途中から自分じゃない人がしゃべっているような気になります。
自分が溶けていき、目の前にいる方の想いと馴染んでいく感じです。
予定していた時間はあってないようなもの。
家につくと、どっと出てきた疲れを感じることで、今日も出しきれたんだ、と思うのです。


施設で働いていたとき、学校で働いていたとき、私は「引き出される」という感覚も、「溶け込む、馴染んでいく」という感覚も、感じたことがありませんでした。
自分自身が成熟していなかったこともありますし、立場という存在がそれを許さなかったこともあるでしょう。
また伝わってくる感情がネガティブなものばかりだったので、馴染むことを拒否したのもあると思います。


でも、今は違います。
これ程までに「治りたい」「治ってほしい」で溢れている。
その想いに、私は引き出され、そして溶け込んでいく。


支援者や先生だったときは、支援する主体である自分、指導する主体である自分がいました。
目の前にいる子を引き出すのが自分であり、教え導くのが自分でした。
しかし、その自分は今いません。
今いるのは、溶け込むことを厭わない私という雰囲気です。


治りたい人、治したい人が、今、必要なエッセンスを抜き取り、それを実生活の中に馴染ませていく。
常々申しますが、治すのは私ではなく、自分自身であり、家族です。
ですから、私に必要なことは主体性を出すことではなく、本人たちが主体性を発揮しやすいような雰囲気の一つになることだと思います。


子どもが親の、親が子どもの息づかいを感じられるようになる。
子どもさんが持つ「治りたい」と親御さんが持つ「治したい」が溶け込み、馴染んでいくと、一気に治っていきます。
反対に言えば、お互いの息づかいに気づけていない家族、想いが馴染んでいかない家族は、いくら治っていくアイディアや情報があったとしても、治りません。


私が治りたい雰囲気の一つになりきれたとき、それぞれの方達がそれぞれの抜き取り方、感じ方をするのだと思います。
そして、各自で治っていく。
各自で治っていくものを、他人が「治るはずはない」「治っていない」と言うもんじゃないのです。


過去の自分の反省からも、支援者が主体性を発揮すると、ろくなことが起きません。
何故なら、支援者は治すことが不可能だから。
治せない主体性は、本人の想い、親心と馴染めませんし、反発し合うのです。
支援者の主体性が強いとき、支援者に自分が、親が主体性を預けてしまったとき、『治る』は無機質な文字になる。


私は直接的な援助を終えるとき、「いい雰囲気になったから、もう終わりにしましょうね」と言います。
これだけ見ると、怪しげなやりとりに聞こえますが、実際は「そうですね」「私もそう感じていました」と言われる方がほとんどです。
発達は家族の営みの中で自然に育まれることなので、その場の雰囲気、親子の息づかいが重要なのです。




2018年6月26日火曜日

発達課題の見つけ方(年齢を重ねていった方の場合)

昨日は、「子どもは自分で発達に必要な刺激を求めていく」というようなことを書きました。
また文章の中で、「お勉強を始める前の子ども」「就学前の子ども」などの表現も用いました。
すると、このブログを読んでいた方から、「年齢が上がっていくと、どうなるの?」「大人はわからないのでしょうか?」といった質問がありました。


質問された方が気づかれたように、昨日のブログでは子ども、特に就学前の子どもという印象を持たれるような書き方をしていました。
もちろん、就学以降の子どもさんでも同じように、自分の発達で足りない部分を埋めようとする行動は見られます。
しかし、私の印象ではありますが、年齢が上がっていくと、本人も、周りも、「見えづらくなる」というのは感じます。
幼い子ども達のように、ストレートに行動に表れないのです。


その大きな理由の一つは、勉強を始める、言葉で考えるようになるからだと考えています。
幼い子ども達は、本能的な、直感的な動きを見せます。
その子の頭の中には、「自分に必要な刺激」「発達課題」などの言葉もなければ、概念もないでしょう。
しかし、お勉強を始めると、言葉で考えるようになるので、段々分からなくなっていくのです。


たとえば、自分で必要な刺激を求めて動いている子どもに対して、「きみの発達課題はなんですか?」と尋ねても、答えられるはずはありません。
彼らは、言葉で発達課題を捉えているのではなく、身体で発達課題を捉えています。
実際に、本人たちの言葉で聞いたことはありませんが、傍から見ている私などは、必要な刺激に身体が引きこまれている風に見えます。
身体が欲し、感覚が欲している、といった感じです。


一方で、年齢が上がり、勉強を始め、言葉で考えるようになってくると、自分の身体の叫び、感覚の叫びよりも、頭の中の言葉に耳を傾けるようになります。
言葉で発達を捉えるのは難しいことです。
発達とは、外側で得られる情報ではなく、身体の内側で起きている変化だからです。


内から外への発達、つまり、身体という土台が育ったあと、知識や技術といったものを身に付けていのが自然なのですが、発達障害の人達は、土台が育ちきる前に、知識や技術の獲得へ歩みを進めてしまうことがよくあります。
そうなると、あとから言葉で考えて、「自分に足りない刺激って何だっけ」と思っても、なかなか感じとることができません。
それが就学前の子ども達との違いだと思います。


言葉で考えることが普通になると、自分に必要な刺激になかなか気づかなくなる。
また「発達のヌケ」というのも、「こういった場面で、いつも失敗するから、自分にこんな課題があって、その課題の背景は…」という具合にパッと見ることができなくなりますし、同時に迷いや間違いが生じやすくなります。
特に成人した方達は、言葉で考えてきた期間が長いだけではなく、そこにいろんな経験も加わりますので、益々、「自分に必要な刺激って何だろう??」となる。
頭と経験で考えると、迷路の中に入りこんでいきます。


ですから、ある程度の年齢の方には、言葉を通して、感覚を呼び起こす工夫が必要になります。
そのとき、用いられるのが、「気持ちいい」であり、「幸せ」であり、「ワクワクする」などです。
その人の内側が動き出すような、その動きと共に、自分の内側に意識が向いていくような言葉を使って、身体へと誘います。
そういったやりとりを通して、徐々に意識が頭から解放され、自分が求めていた刺激に辿りつく。
そこまでくれば、あとは、自分自身で育てなおしていくのみです。


自分の発達に必要な刺激は、いくつになっても自分自身が一番わかることだと思います。
しかし、言葉で考えるようになってくると、お勉強が始まり、知識や経験が増えていくと、見えづらくなるものだとも思います。
「自分の発達に必要な刺激がわからない」という方には、上記のような言葉を使った誘いも行いますし、それより前に身体をラクにすることから始めることもあります。
また、それでも見えてこない状態が続きますと、親御さんから幼少期のお話を伺い、当時夢中になっていた遊び、活動を確認し、そこから皆さんと一緒に読み解くことも行います。


「そういえば、うちの子、〇〇という遊びばっかりしていたよね」
そういった思い出の中から、当時の本人に「発達に必要な刺激はなに?」と尋ねると、結構、見えてくるものです。
ですから、今、就学前のお子さんを育てられている親御さんは、どんな遊び、運動に夢中になっているかを心に留めておくことが、未来の発達援助へとつながることがあると思います。


『子どもも、青年も、大人も、自分自身が発達に必要な刺激を一番知っている』というのは変わりないですが、その見え方、見つけ方に違いが出てくる点だけ押さえておくのが良い、というのが、私が仕事をする中で感じたことです。
どなたかの参考になれば、と思い、文章にしました。

2018年6月25日月曜日

『発達機会の障害』の時代を見据えて

就学前、特にお勉強を始める前の子ども達の中に、発達障害が治っていくヒントが隠されているように感じます。
ここ1,2年は就学前の子ども達と関わる機会が多くなっていますので、そんな風に感じるのです。


ギョーカイの言う『早期療育』には賛同しませんが、やっぱりお勉強を始める前の子ども達は反応が早いし、反応が大きい。
「同世代の子ども達と比べると、1,2年遅れている…」と言われていたお子さんが、ある日、突然大きな発達を見せる。
このような場面に出会うのは、珍しくありません。


「何も変化がないな」「同世代の子ども達と発達の違いは大きくなるばかり」
そんな風に心配される親御さんは多いですが、それは目に見える世界の話で、子どもさんの内側では日々神経発達が行われている。
特に、就学前の子ども達の内側は、人生で最も神経発達が盛んな時期であり、神経同士がつながり合う時期でもありますので、同時進行的につながっていき、その分、大きな変化が一気に現れるのが、子どもの発達の特徴になるのだと思います。


また子どもの発達の特徴として、「自分で自分に必要な刺激を求めていく」というのもあります。
これは相談メールのやりとりからモロに感じることです。
「我が子のこんなところに課題があるんです」というようなメールを頂くと、「最近、熱心にやる行動、遊びは何ですか?」と尋ねるようにしています。
そうすると、ほとんどの子どもさんは自分自身の発達課題を育てる活動をやっているのです。
子どもは自分で発達のヌケや遅れを育てているんですね。
それが周囲からは、意味のない行動に見えることがある。
同世代の子どもがもうやらなくなった行動だったりすると、止めさせようとしたり、ここぞとばかりにヘンな支援が入ってこようとしたりする。


親御さんは、本能的に我が子の発達の課題を見抜く力を持っていると思います。
いろんな悩み、気になることがあるのにも関わらず、メールの文章にはすべてが書かれているわけではありません。
ピンポイントで気になる行動が記されており、それについて助言を求められている。
ということは、その行動が子どもさんにとって重要な課題であると、本能的に見抜いているのです。
ですから私は、親御さんが見抜いた重要な発達課題と、お子さんが自ら行っている育てる行動を結びつけるのが役割になります。


クドクドしいお返事を書いたとしても、かかるのは10分くらいなものです。
お子さんが熱中して行っている行動の意味を解説するだけ。
我が子が自分自身で発達課題を育てようとしているのがわかると、親御さんはすぐに納得され、その行動を見守り、存分にやり切ることを後押しするようになります。
そうすれば、発達の歯車はクルクルと元気よく回り始めるのです。
そこに療育も、私の直接的なセッションも必要ありません。


こういった子どもさんの発達の特徴を見てきますと、療育や支援が子どもの発達にかすっていないばかりか、むしろ足を引っ張っているんではないか、と思うことすらあります。
子ども時代に必要なのは、発達課題を自分でやり切ることだと考えています。
やり切る前に、療育だ、支援だ、とやってしまうから、中途半端に終わり、発達課題を残したまま、その上に知識や情報を積みあげてしまって、いびつな発達、成長としてしまう。
「一人ひとり発達の仕方、スピードは違う」とよく支援者は言いますが、結局、やり切る機会を奪い、支援グッズの使い方、支援者に気にいられる行動を身に付けさせようとしてばかりいるのでは、と思ってしまいます。


子どもは自分で自分の発達課題をクリアしようとするのですから、余計なことをしないのが一番です。
周囲の人間にできることがあるとすれば、その子の行動の意味を理解し、存分にやり切れる環境と機会を用意することではないでしょうか。
そういった環境の中で、自由に、自分自身でやり切れた子ども達が、診断や支援を受ける前に治っていった子ども達。


冷蔵庫マザーの時代に、これはヒトの内的な問題だと気づいた人がいた。
脳の機能障害の時代に、脳は神経の集まりであり、神経を刺激することで治っていくことに気づいている人がいた。
では、神経発達の障害の時代に、どんな一歩先の気づきがあるのか。


子ども達と関わりの中で、私はこんなことを想像します。
神経発達の障害の次は、『発達機会の障害』の時代。
つまり、十分に発達する機会が得られなかった人に発達の凸凹が見られる、ということ。
もちろん、全員が全員、機会の問題とはならず、生理的な問題で発達障害になる人もい続けると思います。
でも、今のように、どんどん診断される人が増える未来ではなく、生理的な問題、障害の人と、そうではない人で分かれていくはずです。


そのとき、ほとんどの発達障害の人は治っていき、ほとんどの支援者はいらなくなる。
治すのは、子ども自身であり、発達を後押しするのは親御さん。
「必要なのは、支援や療育ではなく、存分にやり切る発達の機会である」
そんな言葉が聞かれる時代を見据えながら、私は見たての力を磨き、持っているものを少しでも多くの方達にお渡しできれば、と思っています。

2018年6月22日金曜日

自分の分を頑張る!

「みんな、自分の分しか頑張れない」
本当にそうだと思いますね。
いくら我が子が愛おしくても、代わりに頑張ってあげることはできません。
だって、子どもの人生は子どものものだから。
親にできることは、親としてできることを頑張るのみ。
そこから先は、子どもの頑張り次第。
自分の分をしっかり頑張れる人に育てるのが、親の頑張りなのかもしれませんね。


「自分が自分の分を頑張れていない」、ただそれだけなのに、頑張っている他人を見ては、足を引っ張ろうとする。
どうも頑張る方向性を間違えている人がいますね。
一人ひとり別人格で、みんな違う存在なのですから、自分で自分の人生を頑張るだけだと思います。
だから、他人が自分の人生を頑張っているのを見て、不安や焦りなど感情が揺れ動くとしたら、まずそこを治す必要がある。
自分の人生を頑張るには、自分という主体がはっきりしていないとできませんから。
他人が頑張る姿は、自分とは何かを明確にしてくれます。


ここ数年、自閉症の有病率は68人に1人と言われていたのですが、今年の4月26日、アメリカで発表された報告書によると、有病率は59人に1人になっていました。
私が学生時代は、だいたい1%くらいと言われていたのですが、最新の発表では1.7%くらいになったわけです。
ASD以外の発達障害の人たちもいるわけですから、日本の中にも、いや、それぞれの地域の中にも、多くの人達がいることが推測されます。


よく用いられる『発達障害の子どもが6.5%いる』というデータは、2012年のものであり、医療機関による診断を受けた数ではなく、教職員の見立てによる調査数ですから、どこまで正確に実態を表している数字かはわかりませんが、大きく外れた数字だとは思いません。
日本の人口が、約1億2652万人(H30.6)なので、単純計算で822万人くらい、発達障害を持つ人達がいることになります。
厚生労働省の調査(H27.12)では、医療機関に通院、または入院している発達障害の人達が19万5千人(推定値)です。
ということは、推測の域は出ませんが、800万人くらいの人が医療機関にかかっていないということになります。


現在の子ども達に発達障害を持つ子が増えてきているのは、診断そのものの影響も考えられるし、環境要因として何らかの影響があり、実数が増えているとも考えられます。
ただはっきり言えるのは、有病率と比べて、実際に診断や医療機関に通院している人が少ないということ。
つまり、何が言いたいかと申しますと、私達の地域、社会の中には、診断を受けずに生活している発達障害の人が大勢いるということです。


発達障害に関する啓発では、自分の障害に気づかず年齢を重ね、学校や仕事で躓き、心身の不調から心療内科医に行くと、「あなたは発達障害がありますね」というお決まりのパターンがあります。
これは、それこそ、まだ診断を受けていない人に「診断を受けましょう」キャンペーンであり、支援を受ける利用者を増やしたい、という意図があります。
だから、診断を受けないとマイナス、診断を受けるとプラス、という筋書きが最初から決まっているのです。
でも、実際は、もちろん、自分の生きづらさの原因がわからず、苦しまれている人もいるでしょうが、反対に、社会で適応できている人もいるでしょうし、自立し、家庭を持っている人もいるはずです。
また、生きづらさや発達の凸凹があったとしても、それを医療機関に頼らずとも、育て、治していった人がいるのだと考えられます。


啓発のイメージ戦略により、診断を受けることがプラスになる、生きづらさが改善する、また発達障害の人の多くは、医療機関に通院している、と思っている人も多いと思いますが、実際は診断を受けずに、通院もせず、社会の中で生きている人が大勢いるのです。
厚生労働省によると、精神疾患の患者数は、平成26年で約392万人なので、大袈裟に言って全員発達障害を持つ人だと仮定しても、400万人くらいは精神疾患になるくらいの生きづらさは抱えていない、抱えたとしても、自分自身で対処できている、または治しているとも考えられます。


まあ、簡単に言えば、発達障害=「生きづらさ」「生涯にわたる支援」「治らない障害」というのは、ギョーカイのイメージ戦略だといえます。
こんなことを言うと、「生きづらさを抱えているが、自分の障害に気づいていない人、医療機関と繋がれていない人が大勢いるんだ」という声が聞こえてきそうですが、それだったら、青いお祭りが全然社会のためになっていないと認めたようなものです。
青いお祭りや各地でのギョーカイによる啓発活動が的を得ていないか、医療機関を利用せずとも、自分たちで育て、治し、自立した人生を送られている人がたくさんいるかです。
私は、両方だと思いますが。


是非、これからの若い支援者、専門家の皆さんの中から、医療機関を利用することなく、自立した人生を送られている人達のことを調査、研究する人が出て欲しいと思っています。
有病率と診断数、患者数を比べれば、多くの人が医療機関にかかっていないことがわかります。
だからこそ、この多くの人達が、どうして医療機関にかからず、生活できているのか。
その要因を調べていけば、生きづらさを抱えている人を助ける道標になりますし、発達障害が一生涯の支援が必要な障害ではないこと、そして神経発達とともに治っていく障害だということが証明されると思っています。


人それぞれには役割があるのだと考えています。
私の役割は、臨床を通して、今、生きづらさを抱えている人、治っていきたい人、自立して生きたい人を後押ししていくことだと思います。
そしてお医者さん、研究者の中から、今までの常識を覆すような論文が、いいえ、今、「治った」と実感されている人達が決して偽物なんかじゃなく、自分自身で頑張った人だということが証明されるような発表を願っています。
そのためには、治る人を増やしていくこと。
まさに『私の頑張る分を頑張る』ですね!