2018年2月22日木曜日

強度行動障害の子に加算で、見えてきた本質

悲しいですね。
本当に悲しいです、怒りを通り越して。
児童デイを強度行動障害の子が利用すると加算されるのに伴って、そういった子がいないか、事業者同士で引っ張り合いが始まっているとのことです。


私も施設で、そういった子ども達の支援に携わっていましたが、本当に大変です。
もちろん、本人が一番大変。
だって、普通の生活を送ることすらままならないから。
起きて、ご飯食べて、学校行って、お風呂に入って、寝る…。
そういった日常生活一つ一つに困難が生じます。


それに自分を傷つける危険性がある、他人を傷つける危険性がある。
自分を傷つけることは、自分の命、生きるを傷つけることになります。
他人を傷つけることは、大事な家族に恐怖感を与えることになり、支援に携わる者を減らすことになります。
自分も、他人も、傷つけてしまうこと。
それは肉体的にも、精神的にも。
そして何より悲しいのは、自分で自分のことを、周囲の人間が自分のことを好きではなくなり、どんどん心が遠くなってしまうことなのです。
本人が一番辛いのに、誰からも愛されなくなって、自分でも愛せなくなってしまう。


施設のときは、24時間365日の体制で、常に職員が支援にあたり、医師などとも連携し、支援にあたっていました。
本気で行動障害を治そうとしたら、支援者も相当しんどいものがあります。
こういった体制の中、職員みんなで考え抜き、最後まで諦めないで支援を続けていった先に、ようやく本人の穏やかな生活が待っているのです。
行動障害で苦しむ本人を見ていたら、支援に携わる辛さよりも、その姿からにじみ出てくる苦しみ、悲しみを感じる方が辛いものです。
ですから、私達は、一日でも、一分でも、一秒でも早く、ラクになってもらいたいと願い、支援に携わっていました。


そういった子ども達を、自分たちの経営のために引き入れようとするなんて、言語道断だと思います。
施設で働いていたあの時の私たちのように、「絶対に治してみせる」という気概があって、その力もあるのなら、私は何も言いません。
でも、かたや「スタッフ募集。未経験者も歓迎。子ども好きな人集まれ」なんて言っちゃっている。
24時間体制で、施設で働いていた人間も大変だと思いながら、日々支援していたのに、こういった募集で集まる人、集めざるを得ない事業所に、何ができるというのでしょうか。


行動障害の子がいれば、周囲に危険が及ぶこともあります。
そうなれば、同じ場所を利用している子ども達を守らねばなりません。
そして、行動障害の子は、大人が付きっきりになり、他の子と空間が分けられるでしょう。
その子専用の場所ができ、他の子ども達との接点がなくなっていく。
ただただ時間が過ぎるのを待つだけの活動。
結果は見えていますね。
行動障害が治まるどころか、どんどん悪化していきます。
「時間が解決してくれる」などということはなく、早めに手を打たないと、ますます困難性が増していくのです。
それこそ、のんびり「いつか治まるだろう」と待っていたら、身を滅ぼしかねません。


行動障害は、本人も辛いし、周りにいる人間も辛い。
「行動障害も障害からくるもので仕方がないね 」みたいに言う人がいますが、たとえ、本当にそうだとしても、割り切れるものではありません。
行動障害はありのままにできないし、ありのままで幸せにはなれません。


自分たちにとって急場しのぎの「加算」に目がくらんで、一時期、収入が増えたとしても、行動障害の子がいる児童デイは、人が辞め、人が集まらないでしょう。
そして、そのしわ寄せは、利用している子ども達に、行動障害を持つ本人の生活と人生に向かっていく。
事業者は「や~めた」といって畳むことができますし、別の仕事を、人生を歩むことができます。
でも、成長と将来の自立のためにより良い放課後の時間、子ども時代の時間を過ごせなかった子、行動障害をそのままで、ありのままで時間だけが過ぎてしまった子は、簡単に辞めれないし、そのツケは自分たちで払っていかなければならないのです。


その子の分の加算はいただくけど、その子の生活、人生に責任は持たない。
そんな事業者がいないとも限りません。
だからこそ、私は怒りを通り越して悲しいですし、心から治ることが一番だと思うのです。

2018年2月21日水曜日

地域で顔色を伺う必要はない!

「いろいろ言われて嫌になりませんか?」と訊かれることがあります。
正直、メンドクサイなと思うことはあっても、それで気が滅入るみたいなことはありませんね。
直接、言ってきた人に対しては、きちんと自分の主張をし、闘いますが、それ以外はどうぞご勝手にです。


この事業を始めるとき、「どうして函館なの!?」ですとか、「手が出せないところからバックアップを貰っておくか、いっそのこと、最初から手を結んでおいて方が」などと言われたものです。
これは都市部に行けということではなく、函館は止めた方が良い、いばらの道しかないから、という意味です。


私は、母親から「あんたは、いつも大変な方の道を選ぶ」と半分飽きられながら、よく言われていました。
自分ではそういった意識はないのですが、より困難だと感じる方へと進みたくなるのは子ども時代から変わっていません。
小さいときから、他人とは違った経験がしたかったですし、そこに困難さ、大変さが伴わないとやる気が起きなかったのです。
子供時分からの性分というのは、大人になってもなかなか変わらないもので、親から言わせると、「相変わらず、大変な道を進もうとする」といった生き方なのだと思います。


結婚してから、妻に「あなたは大切に育てられてきたのがわかる」と言われたことがあります。
ひと様のおうち、家族のことは知る由もなく、自分にとっては自分の家族が当たり前だと思っていたので、そう言われて驚いた記憶があります。
確かに大切に育てられたと感じていましたが、それが特別なものという感じはありませんでした。


冒頭の話に戻りますが、私は何を言われようとも、ほとんど気にはなりません。
たとえ、ひどいことを言われたとしても、それによって自分の価値、存在意義が変わることがないからです。
それに自分には、どんなときも味方でいてくれるパートナーがいて、子ども達がいる。
そして、両親、兄弟は決して私を裏切らないという確信が自分の中にあります。
ですから、世の中、全部が敵になっても大丈夫だと思っています。


このように考えると、自分がより困難な道を進もうとするのは、両親から土台をしっかり育ててもらった証拠であり、今、信頼できる家族がいるからだと思います。
「失敗しても大丈夫」「何を言われても大丈夫」そのような実感があるからこそ、より困難な道へと進めますし、失敗しても起き上がれば良いと前向きになれる。


こんな私だからこそ、権威や役職などに影響されるのではなく、自分の勘や想い、家族を優先してほしいと思うのです。
この地域で暮らしていくには、「あの先生の話は聞いておいた方が良い」「あそことは仲良くしておいた方、つながっておいた方が良い」なんてこともあるかもしれません。
でも、自分に、我が子に必要性を感じない支援を続ける意味があるのでしょうか。
「もっと別の道が、方法があるのでは」という直感に蓋をするのは、我が子のためになるのでしょうか。
協力という名の搾取で、プライベートの時間に借り出される親御さん達もいます。
本人が率先して行っているのなら、何も言いません。
でも、目を付けられないように、気にいられるように、後々利があるかもしれないからといって、笑顔を作って協力しているというのなら、私の目にはその姿勢が卑しく見えます。


たとえ、学校から、地域の組織から、有名支援者から、ママ友から、目をつけられたり、嫌われたりしても、どうってことはないと思います。
それよりも大事なことは、自分自身が主体的に生きること、またそのような子に育てていくこと。
そのために他人の顔を伺い、媚びる必要があるのか、考えた方が良いと思います。


「あそこと敵対すると、後々、大変になる、この地域で暮らせなくなる」
そんなことを言われる方がいます。
しかし、それは作り話。
学校はいずれ卒業するし、相談機関、福祉機関に、そこまでの力も、権利もありません。
もし本当に住めなくなったのなら別の場所に移り住めばよいですし、そもそも支援を必要としないくらい治り、自立できれば、そんな人たちの顔を伺う必要はなくなるのです。
地域で自立して暮らしている人に対して、他人はとやかく言ってきません。
ですから、敵は外にいるのではなく、自分の内側にいる。
信頼できる人がいるのか、自分の選択と結果に覚悟と責任が持てているのか。
そこの問題が、外に敵がいるように見せるのだと思います。


私が立ち上げた事業に終わりがきたら、それは周囲の力が強かったからではなく、ただ単に自分の実力がなかったからだと思います。
未来は分かりませんが、敢えてこの地域を選んだことを後悔していませんし、その日が来るまで、全力で頑張っていきたいと考えています。
そして、どんな状況、どんな未来が来ても、私はより大変な道、困難な道を選び、そちらを進んでいくのだと思います。
たくさんの困難を楽み、味わえる人生こそ、私にとっては充実した人生!

2018年2月20日火曜日

私は対処療法の存在までは否定しないけどね~

ブログを書き始めてから、もうすぐ丸5年になります。
毎日、300前後のアクセスがあるのですが、時々、1000を超えるときがあって、「あ~、今日もどこかで燃えているな」って思います。
オープンの場で書いていますので、別にリンクに貼ったり、拡散したりするのは構いませんし、ネガティブに取り上げられても、どーってことはありません。
いろんな意見があるのが自然ですから。


しかし、仲間内で、見えないところで好きにやっていれば良いのに、「消せ」だの、「訂正しろ」だの言ってくる人もいます。
「好き勝手書きやがって」みたいなのもありますが、ブログを書いている人達は、みんな好き勝手書いているのではないのですか。
誰かにお伺いをかけて、何度も推敲と校正を繰り返し、アップされているのでしょうか。


私は、発達のヌケを育てなおすことが幸せになる近道だと考えていますし、発達を促していくのはその人自身であり、家族が主体となって発達を援助していくのが良いと考えています。
私がこういった信念をもって仕事をしているように、他の方達も、おのれの信念の元に仕事や子育てをされれば良いと思います。
信念をもって仕事、子育てをしていたら、自分と違う意見の人に、わざわざ消せとか、訂正しろとか言う暇がないはずです。


私は、治った人、治すアイディアを持った人との出会いから、今は「治す」を中心に捉え、仕事をしています。
でも、それ以前は、ずっと視覚支援、環境調整を学び、実践してきました。
それ以外にも、ABAやSST、PECS、感覚統合等、一通り勉強してきました。
そうやって一通りの対処療法を学び、実践、経験したからこそ、信念をもって治す道を進めていますし、同時に、必要なときには対処療法のアイディアも使っています。
治す路線の人が、対処療法を絶対に用いない、完全否定していないように、対処療法路線の人も神経発達を促したり、感覚過敏を治したりすれば良いのだと思いますし、それが本人と家族のニーズに応えることだと思います。


発達障害支援センターこそ、本人や家族のニーズに合わせて、その時々で、いろんなアイディア、選択肢を提供できなければならないし、それが大事な役割の一つだと思います。
しかし、実際は、その機関ごとに色が出ていることがあります。
その理由は、行政からの委託事業だから。
一般のイメージとしては、専門家や優秀な支援者が集められ構成された独立した機関と思われるかもしれませんが、それぞれ母体があるのです。
県に1つ、政令指定都市に1つ、という具合ですので、個人が手を挙げて、「私やりたいです」と言っても無理です。
その場所場所での力関係、政治があるのです。


もちろん、実際に支援センターで働いているスタッフの方達は、研修を積み重ね、優秀な人も多いはずです。
でも、元を辿っていけば、委託を受けた法人の職員ということもあります。
となると、それぞれの法人の色が出ることもあるのです。
「一生涯の支援をお任せください」と言っている一方で、「支援が必要なくなるよう自立を目指しましょう」とは言いづらい。
「〇〇療法が、障害を持った方達に最適な方法です」と言っている一方で、「治す方法もあります」とは言いづらい。
「まず自分のとこで、その成果だせよ」とツッコミが入るので。
こうなると、本人や家族ではない方を向いて仕事をしている可能性がないとは言えないのです。


スタッフの人数と、任されている範囲を考慮すると、あり得ない担当、仕事量だと思います。
それでいて、各都道府県にできてから時間も経っているので、結果が出てしまっている。
そして批判されることが多い。
しかし、委託事業であり、母体の存在を知れば、過度な期待はしなくて済みます。
専門家集団で、どんなニーズにも柔軟に応えるわけではなく、色があり、意向がある。
「ここの通所、児童デイ、病院が良いですよ」と言っても、基準があって、どこでもここでも勧めているわけではないのです。
だって、治る路線の私は絶対に勧められないから(爆)
発達支援センターに行けば大丈夫、何でも応えてくれる、ということはなく、支援サービスの中の人つであって、最後はやっぱり“人”なんだと思います。
合う人もいれば、合わない人もいる。
その時々でも、合う合わないは変わってきます。


生きている者は、常に変化していますし、特に子どもさんの場合、変化がより大きいと言えます。
環境調整や視覚支援、お薬、ICTが必要なときもありますし、神経発達を促すことが必要なときもある。
子どもの支援に必要性、緊急性があるときもあれば、親御さんへのサポートに必要性、緊急性があることもある。
常に変化し、移り変わるからこそ、その時々で柔軟に対応していくことが大事なのです。
ですから、自分の主義主張、意見、専門と違う人がいても、その存在まで否定する必要はないし、否定することはできません。
特に「神経発達を促す」「治していく」は、誰しも必要な時期があるから。


私は対処療法の存在を否定しません。
何故なら、その人、その家族によって、必要なときと場合があるからです。
ただ根っこから課題を解決していく方が近道だと考えているので、優先順位が低いだけです。
私は個人事業主で、誰かの意向や利害関係はありませんので、信念の元に、その人に合ったアイディアをその時々で提供しています。
もちろん、ブログも、信念をもって、これからも好き勝手書いていきたいと思います!

2018年2月19日月曜日

良い地域って何だろう?

以前、相談を受けていた方から、自分が、我が子が「こんな風に成長しました!」とご報告をくださることがあります。
ほとんどの方とはお会いしたことがございませんが、メールや電話から伝わってくる雰囲気から、本人も、家族も大変喜ばれている顔が、姿が見えてきます。


何よりうれしいのが、その結果ではなく、「自分たちで成長できた」という達成感と、「これからも頑張っていく」という自立心が感じられたときです。
私がしているアドバイスは、占いみたいなもので、当たるも八卦当たらぬも八卦であります。
ですから、実際に考え、手と足を動かしたのは本人と家族であり、喜べる今はご自分たちで作ったものです。
私にできることは、一つのきっかけになること、行動を後押しすることなので、自分たちで動き出したのなら、それだけで良かったと思いますし、役目は果たせたなと思います。
さらに行動が、発達や成長を感じられる結果とつながったとなれば、それ自体が次の行動の後押しとなりますので、私が目指している“自立”が近づいたと言え、嬉しくなるのです。


こういった喜びのご報告とともに、「函館にいる人は羨ましい」というようなお世辞を頂戴することもあります。
しかし、上記で述べたように、喜ばしい結果を得られたのは、ご自身の、ご家族の行動と頑張りですし、第一、函館にいる人で大久保がいて良かったなんて思う人は皆無です。
利用してくださっている方達も、たまたま同じ地域に私がいただけであって、もし私がいなかったとしても、自分たちでできて、発達を促すアイディアを持った人を探し出していたと思います。
それくらい主体性と純粋な想いを持った人達だからこそ、治っていっているし、治ったのだといえます。
羨ましいどころか実際は、完全アウェーのブーイングの嵐の中、細々と活動しています( ;∀;)


私も起業当初は、「地域の一つの選択肢になりたい」と思っており、おこがましくも「地域を変えるきっかけになれれば」と言っていました、ごめんなさい。
でも、この仕事を続けていく中で、この地域に、選択肢を増やしてほしいというニーズはないし、選択肢を増やすことが地域を変えることにつながらないと考えるようになりました。


その人が治るか、治らないかというのは、地域に治す系の支援者がいるかどうかではないと思うんです。
結局、全国どこであっても、治したい人は治すし、治したくない人は治さないんです。
ローカルギョーカイにぐるぐる巻きにされる地域に住んでいたとしても治っている人がいる。
反対に、治る系の支援者がいても、それを選ばない人、選べない人がいる。
そして、自らの意思で対処療法を選ぶ人もいる。
どういった道を選ぶかも、一人ひとり違うし、違うのが自然。
だから、私は「治したい」「自分たちで主体的に育てていきたい」という人達の後押しすることが役割だと思うようになりました。


近頃、「良い地域」って何だろうと考えています。
いろんな専門の支援者がいる地域が良い地域なのだろうか?
福祉サービスが充実している地域が良い地域なのだろうか?
障害に理解がある地域が良い地域なのだろうか?
でも、いくら専門家がいっぱいて、サービスが充実していて、地域の人達に障害の理解があったとしても、本人、家族が幸せだと感じなければ、その人たちからは良い地域に見えないのではないかと思うのです。
つまり、「私の地域ガー」と言う人達は、良い地域に変わることを求めているのではなく、また良い地域だろうが、そうではないだろうが、自分が幸せになることを求めているのだと思います。


私は地域を変えることが、幸せな人達を増やすことだと考えていました。
しかし、幸せな人を増やすことが、地域を変えるのだと思うようになりました。
治りたい人が治っていける。
生涯に渡る支援ではなく、自立したい人が自立できている。
支援者に委ねるのではなく、家族が主体となって子育てしたい人が子育てできている。
そのような自分の希望に向かって歩める人がたくさんいるから、良い地域になっていくのだと思います。


全国から頂く相談からは、理想的な地域とは言えないものの、それぞれの地域で、個々に頑張っている姿が見えてきます。
その地域では少数派で、孤立しているかもしれませんが、ネット上ではつながっていますし、治りたいという輪は確実に広がってきているのを感じます。


治りたい人が、治った人、治すアイディアを持った人とつながっていく。
それは地域にとらわれる必要がないものです。
治りたい人から治っていくように、幸せになりたい人から幸せになっていく。
自分の希望に向かって歩めているのなら、その人にとっては良い地域であり、そんな人がたくさんいる地域は良い地域になっていくように感じます。
ですから、私は、自分が、希望される方がどこに住んでいようとも、治す後押しをしていきたいと思いますし、「もう函館にこだわる必要はない」と思う今日この頃です。
ブログの更新が止まったら、潰れたか、闇討ちにあったか、別の場所に行ったか、転職したか、と思ってください。

2018年2月17日土曜日

平成になれない先進地域

オリンピックを観ていると、10代の頃から海外に留学し、力をつけてきた選手がいることがわかります。
「自分を高められる場所があるのなら」「今よりも、より良い環境を求めて」という強い想いを持った若者たちが、日本にとらわれることなく、どんどん世界に出ていっている。
日本が劣っている、海外の方が素晴らしい、などとは思いませんが、自らの意思でより良い環境を求めていく若者の姿にたくましさと、明るい未来の日本を思い浮かべます。


一方、福祉の世界は相変わらず、時代が進んでいきません。
老舗の法人や手広くやっている法人などは、10年も、20年も前と同じ話をしています。
「〇〇という支援があれば、自閉症の人達は安心して生きていける」
「〇〇という療法で、問題行動は治まっていくのです」
「障害を持った人からではなく、こちら側から歩み寄ることが大事なんです」


一人一台スマホを持ち、平成も終わろうかというこのときに、何十年も前と同じことを言っている。
その理由はシンプルです。
一度、「〇〇という方法が一番です!最適です!」と言ってしまった以上、あとからより良い方法が出てきても、切り替えられないのです。


「いやいや、それは個人の問題、柔軟性の問題」などと言われそうですが、こっちはシンプルにはいきません。
何故なら、いろんなものを巻き込んでしまっているから。
まず当事者と家族ですね。
当時、「治らない」で、「支援も、サービスも、財源も、理解も足りない」から始まっていましたので、障害を持った人が、また家族が一生涯安心して暮らせるよう環境づくりを行ってきました。
そのため、一生涯ケアを受けられることがゴールであり、人生設計だったわけです。
ですから、今更、「神経発達を促す方法がありました」「一生涯の支援じゃなくて、本人の発達、成長を後押しし、自立を目指しましょう」とは言えないのです。
「この道が最高の道であり、私達がその先導者だ」と言ってしまったから。


また地域を巻きこんじゃっていますね。
「我が地域は、先進地域です」なんて言って、海外からも人を呼んじゃって、後援もたくさんお願いしたし。
税金もいっぱい使ったし、特に福祉が産業になっているような地域では、福祉を中心とした街づくりもしちゃっている。
それが突然、「いや~、どんどん自立する方法が見つかったから、ゆりかごから墓場までの支援も必要なかったんですよね、テヘッ」とは言えないし、金返せになる。


さらにさらに、そういった法人って、自分たちが推し進めてきた療法の当時のリーダー達と関係ができちゃっている。
高い旅費と高いコンサルテーション代を支払い続けてきた。
その当時の大先生に見て頂いていることで、お客様を集め、「私達が先進地域です、エッヘン」とやってこれてきた。
一方で大先生も、高額なお金と実績、講演のネタを作ることができた。
ちなみに何故、高額かって言ったら、元を辿れば、自分たちで稼いだお金ではなく、税金だから。
同じくらいの規模の一般企業なら、どんぶり勘定で、そんなに高いお金は出せないはず。
一度、ズブズブな関係が出来上がったら、なかなか切ることはできません。


10年前、20年前、「先進地域」と呼ばれていた場所が、軒並み、残念な結果になっているのは、当然なのかもしれません。
全国的に、右往左往していた時期に、いち早く手を挙げて、特定の方向へと推し進めることができた。
それには、ある程度、資金と影響力を持った規模と歴史、その地域での看板が必要だったわけです。
ですが、時代はスピードを上げて、大きな変化を遂げています。
それに対応するには、老舗であること、手広くやっていることがネガティブに作用します。


自閉症、発達障害が「治らない障害」「一生涯支援が必要な障害」ではなくなった今、いち早くそういった方向へとシフトできる人、組織が生き残っていくと思います。
「一生涯の支援」「障害に理解のある街づくり、社会のシステムづくり」には、大きな看板、大きな組織が必要でした。
でも、これからの特別支援は、発達援助は、本人が主体であり、家族が後押しするものになりました。
そうなれば、今までのような大きな看板、組織は必要なくなります。
個人と個人がつながれば良いのです。


私の父は転勤が多く、いろいろな土地で子ども時代を過ごしたので、なおさらなのかもしれませんが、生まれ育った土地に縛られる感覚が分からないのです。
「私の地元に良い支援者がいない」などと仰られる方がいますが、だったら、ほかの地域に行けばいいんじゃない、って思うのです。
生まれ育った地域が、一生涯、障害を持った人を抱える時代は終わったのですよ。
多くの人が一人一台、スマホを持っているのです。
新幹線だって北海道までつながったし、沖縄と北海道だって、飛行機を使えば一日で移動できます。
スマホを使って、我が子に、自分の感覚に、願いに合った支援者を探せばよいのです。
本やネット情報など、以前と比べて、多様になってきましたよ。
SNSやメールでもつながることができる。


「私の地域ガー」は、いつの時代ですかって感じですし、ある意味、主体性のなさからの発言だと思います。
地域のせいにしている暇があるのなら、自分でより良い方法、支援者を探した方が人生の時間を有効に使えるはずです。
ギョーカイの言う意味の「早期療育」には賛同できませんが、発達援助は一日でも早いほうが良いのです。


平成の若者たちが、より良い環境、自分を高めてくれる環境を求めて世界に飛びだしていくように、昭和の私達も地域を飛びだしていきましょう。
昭和の人間たちも、まだまだ負けてはいられないのです!(笑)

2018年2月16日金曜日

発達援助と家庭料理

幼い子の親御さん、特別支援の世界にまだ足を踏み入れていない親御さんには、支援者との関係について「家庭料理」という例えでお話しすることがあります。


料理のプロは、世の中にたくさんいて、和食が専門の人、中華が専門の人、洋食が専門の人という具合に、それぞれ専門があります。
支援者も同じで、いろんな専門の人がいて、その専門の中でも、うまい店もあれば、下手な店もあります。
「欧米で認められた療法です!」なんていうのもよくあるけれども、それは世界展開しているファーストフード店みたいなもので、その料理がおいしいか、日本人の舌に合うかは別問題。
自分の国だけではなく、各国の市場を舞台に商売しているっていう意味です。


支援を専門家に頼むっていうのは、外食するようなものです。
一般的な家庭では、毎日、外食しないように、毎日、専門家に我が子の支援を頼むっていうのは普通考えにくいことです。
当然、栄養、嗜好は偏りますし、子どもへの発達、成長への影響も少なくないといえます。


子どもの発達や成長を後押しする営みは、家庭料理のようなものです。
どんな材料で、どんな料理を作るか、家族が主体的に考え、選び、手を動かしていきます。
もちろん、親御さんの中にも料理の得意、不得意があるように、どうやって育てていけばよいか、どんな支援が子どもにあっているか、わからない人もいます。
そういったときに、料理教室に行ったり、レシピ本を読んだりすると思いますが、それにあたるのが専門家です。
相談に行ったり、勉強会に行ったりしながら、ときに、実際に支援するのをそばで見たりしながら、親御さんが腕を上げていく。
だって、子育て、子どもの発達、成長の後押しは、日々の積み重ねであり、家を巣立っていくまで続くから。


発達障害の子を持つ多くが、親になって初めて、障害と向き合い、支援者、専門家と呼ばれる人達と付き合います。
そのとき、勘違いする親御さんが少なくないと感じます。
「私じゃなくて、専門家がどうにかしてくれる、よりよく育ててくれる」
しかも、支援者側がそのように仕向けるので、余計、その方向に行ってしまいがちです。


「子どもは社会が育てていくものだ」
そのように主張する人もいます。
でも、発達障害の子ども達に関しては、発達のヌケという人間としての土台の部分に課題があるのですから、家庭生活が重要であり、親御さんの力が大きいと言えます。
その土台がしっかりしたあとは、社会が人を育てていくのだと私も思います。


定型発達の子どもが「習い事何しようか?」「どの学校に進学しようか?」というレベルではなく、様々な他人が様々なことを言ってきますし、その選択がモロにその子の人生に影響してきます。
普通、家庭料理に料理人がなんだかんだ言ってこないのに、「今日の味付けが悪い」「今晩のメインは中華にしろ」と言ってくるようなものです。
ですが、それを受けてしまう親御さんがいて、食べたくない料理を食べて続けているように、舌に合わない支援をずっと受け続けてしまう。


子どもの体調、様子を見て、料理や味を変えられるのが、家庭料理の醍醐味です。
子育ても、発達援助も、子どもの状態に合わせて、支援を変えたり、組み合わせをアレンジしたりしていくのが良いのです。
家庭料理の味が家々によって違うように、子育て、発達援助の仕方もオリジナルで良いはずです。
しかし、特別支援の世界は、「この療法が一番だ」「あなたの子に合っている」と言ってきます。
ですから、家でご飯を作るように、「私が決めます!作ります!」という姿勢でいて欲しいと思っています。


時々、外食するのは良いですが、基本的には自分たちでメニューを考え、料理を作っていく。
支援者はあくまで、よりよい家庭料理を作るためのレシピ本であり、料理教室の先生です。
たまに、「うちの包丁を使わないと、うまい料理はできないよ」と支援グッズを買わせようとする輩もいますが、そんなときは蹴っ飛ばすたくましさが必要です。
親御さん自体、腕を上げ、コツを掴んでいかないと、より良い子育て、発達援助ができていきません。


ですから、支援者側も、親御さん自体が自立していけるよう後押ししなければならないと思います。
同じ家族にストーカーのようにつきまとうのではなく、家族が試行錯誤しながら自分たちの味を作っていけるように導くのが、本当の専門家と呼ばれる人の役割のはずです。
より良い成果のために研究し、腕を磨いていくのが専門家の役割であり、それを参考に我が子に合った子育て、発達援助をしていくのが親の役割ですね。

2018年2月15日木曜日

自らが治し、発達、成長させる

怪我をすると、血が出ます。
血が出たあと、その傷口を消毒したり、縫ったりして処置するのは、人間だけです。
他の動物は、そんなことはしません。
じゃあ、他の動物は怪我が治らないのかといったら、そうではなく、自らの力によって傷を癒し、再生していきます。
中には、切断した身体の部分を自己再生する動物もいます。
ですから、消毒液や縫合糸に傷を治す力はありません。
自分を治す力は自分が持っているのです。
そういった意味では、人間が作った医療も、治すための後押しをしているのだといえます。


人間の発達、成長も、同じだと私は考えています。
自らの内側に発達する力、成長する力を持っている。
しかも、それは止まることなく絶えず動いており、環境により良く適応するといった方向へと進んでいるのだと思います。


そのように考えると、発達に遅れがある子ども達は、何らかの理由で自らが持つ発達、成長する力が阻害されている状態、発揮できていない状態と言うことができます。
発達障害の人達は、ヒトの中に組み込まれた発達過程の中に抜けている部分があることが中心的な理由になります。
しかし他にも、動物として基本的な食事、睡眠、排泄に問題があること、不適切な養育、環境からの過剰な刺激などの理由も考えられます。


行動障害に関しても、環境により良く適応しようと動いた結果だと考えると、2つの側面が見えてきます。
まずすぐに思いつくのが、誤学習です。
周囲の誤った関わり、メッセージにより、誤った環境に適応してしまうということです。
また、本人が情報の切り取り方を間違ってしまい、誤った風に捉え、それに適応していってしまうということもあります。


もう一つの側面は、本人が今の環境の中でラクになろうとして動いた結果が、周囲からは認められなく、行動障害に見られてしまうということです。
自閉症で、かつ行動障害を持つ人の多くに、感覚面の課題を持っています。
周囲から理解されない彼らの行動も、そんな感覚面の課題に対する対処であり、自己治療のような気がします。
経験が浅いときには、「どうしてそんな行動をするのだろう」と疑問に思っていましたが、彼らと寝食を共にする中で、「やらざるを得ないからやっている」「そうしないと、自分の精神、命が保てないからやっている」そんな風に感じるようになりました。


人間の社会では、医療が尊いものであり、限られた人間にしかそれを行う権利がないものです。
でも、医療は治す後押しができても、根本治癒を果たすことができません。
死んだ人間の傷口をいくら縫っても、死んだ人間にいくら薬を投与しても、治りません。
生きているから治るのであり、治す力を自らの内側に持っているから治るのだと思います。


動物はみな、自らの傷を癒す力を持っているように、自らを発達、成長させ、より良く環境に適応する力を持っているのだと考えています。
ですから、発達障害の子ども達と接する援助者ができることは、彼らの力が発揮できるようにしていくこと。
なんだかんだ専門的、高度な知識と技術などと言わずとも、阻害している要因をクリアにすれば、あとは自らの力で発達、成長していくはずです。
それ以降は、彼らが適応していこうとする環境を整えていけば良いだけです。
彼らの知的好奇心、試行錯誤、やり切る気持ちを満たせる環境です。


自閉症、発達障害の人たちへの支援を専門分野にしたことで救われた人もいると思います。
しかし、専門分野にした結果、余計に糸が絡まった、支援者が思い描く人工的な環境に適応してしまった、という人もいると思います。
治す力、成長、発達する力を持った彼らに、発揮できない状態をありのままに、「これが社会だよ」と人工的な環境を用意する。
これは、とっても勿体ないことだと思いますし、ヒトの視点が抜けた育ちだと思います。


医師に限らず、先生、支援者など、「私が治しますよ、育ててみせますよ」という人よりも、上手に子どもの力を引き出し、子ども自身で発達、成長できるように補助してくれる人を探すのが良いと思います。
頼った結果、状態がもっと悪くなる、新たな問題が出てくるのはもっての外ですし、本人も、家族も、主体性が失われていく、受け身になっていく、というのも御止めになった方が良いと思います。
背中を押してほしいのに、足を引っ張られるのは御免ですね。