2018年6月25日月曜日

『発達機会の障害』の時代を見据えて

就学前、特にお勉強を始める前の子ども達の中に、発達障害が治っていくヒントが隠されているように感じます。
ここ1,2年は就学前の子ども達と関わる機会が多くなっていますので、そんな風に感じるのです。


ギョーカイの言う『早期療育』には賛同しませんが、やっぱりお勉強を始める前の子ども達は反応が早いし、反応が大きい。
「同世代の子ども達と比べると、1,2年遅れている…」と言われていたお子さんが、ある日、突然大きな発達を見せる。
このような場面に出会うのは、珍しくありません。


「何も変化がないな」「同世代の子ども達と発達の違いは大きくなるばかり」
そんな風に心配される親御さんは多いですが、それは目に見える世界の話で、子どもさんの内側では日々神経発達が行われている。
特に、就学前の子ども達の内側は、人生で最も神経発達が盛んな時期であり、神経同士がつながり合う時期でもありますので、同時進行的につながっていき、その分、大きな変化が一気に現れるのが、子どもの発達の特徴になるのだと思います。


また子どもの発達の特徴として、「自分で自分に必要な刺激を求めていく」というのもあります。
これは相談メールのやりとりからモロに感じることです。
「我が子のこんなところに課題があるんです」というようなメールを頂くと、「最近、熱心にやる行動、遊びは何ですか?」と尋ねるようにしています。
そうすると、ほとんどの子どもさんは自分自身の発達課題を育てる活動をやっているのです。
子どもは自分で発達のヌケや遅れを育てているんですね。
それが周囲からは、意味のない行動に見えることがある。
同世代の子どもがもうやらなくなった行動だったりすると、止めさせようとしたり、ここぞとばかりにヘンな支援が入ってこようとしたりする。


親御さんは、本能的に我が子の発達の課題を見抜く力を持っていると思います。
いろんな悩み、気になることがあるのにも関わらず、メールの文章にはすべてが書かれているわけではありません。
ピンポイントで気になる行動が記されており、それについて助言を求められている。
ということは、その行動が子どもさんにとって重要な課題であると、本能的に見抜いているのです。
ですから私は、親御さんが見抜いた重要な発達課題と、お子さんが自ら行っている育てる行動を結びつけるのが役割になります。


クドクドしいお返事を書いたとしても、かかるのは10分くらいなものです。
お子さんが熱中して行っている行動の意味を解説するだけ。
我が子が自分自身で発達課題を育てようとしているのがわかると、親御さんはすぐに納得され、その行動を見守り、存分にやり切ることを後押しするようになります。
そうすれば、発達の歯車はクルクルと元気よく回り始めるのです。
そこに療育も、私の直接的なセッションも必要ありません。


こういった子どもさんの発達の特徴を見てきますと、療育や支援が子どもの発達にかすっていないばかりか、むしろ足を引っ張っているんではないか、と思うことすらあります。
子ども時代に必要なのは、発達課題を自分でやり切ることだと考えています。
やり切る前に、療育だ、支援だ、とやってしまうから、中途半端に終わり、発達課題を残したまま、その上に知識や情報を積みあげてしまって、いびつな発達、成長としてしまう。
「一人ひとり発達の仕方、スピードは違う」とよく支援者は言いますが、結局、やり切る機会を奪い、支援グッズの使い方、支援者に気にいられる行動を身に付けさせようとしてばかりいるのでは、と思ってしまいます。


子どもは自分で自分の発達課題をクリアしようとするのですから、余計なことをしないのが一番です。
周囲の人間にできることがあるとすれば、その子の行動の意味を理解し、存分にやり切れる環境と機会を用意することではないでしょうか。
そういった環境の中で、自由に、自分自身でやり切れた子ども達が、診断や支援を受ける前に治っていった子ども達。


冷蔵庫マザーの時代に、これはヒトの内的な問題だと気づいた人がいた。
脳の機能障害の時代に、脳は神経の集まりであり、神経を刺激することで治っていくことに気づいている人がいた。
では、神経発達の障害の時代に、どんな一歩先の気づきがあるのか。


子ども達と関わりの中で、私はこんなことを想像します。
神経発達の障害の次は、『発達機会の障害』の時代。
つまり、十分に発達する機会が得られなかった人に発達の凸凹が見られる、ということ。
もちろん、全員が全員、機会の問題とはならず、生理的な問題で発達障害になる人もい続けると思います。
でも、今のように、どんどん診断される人が増える未来ではなく、生理的な問題、障害の人と、そうではない人で分かれていくはずです。


そのとき、ほとんどの発達障害の人は治っていき、ほとんどの支援者はいらなくなる。
治すのは、子ども自身であり、発達を後押しするのは親御さん。
「必要なのは、支援や療育ではなく、存分にやり切る発達の機会である」
そんな言葉が聞かれる時代を見据えながら、私は見たての力を磨き、持っているものを少しでも多くの方達にお渡しできれば、と思っています。

2018年6月22日金曜日

自分の分を頑張る!

「みんな、自分の分しか頑張れない」
本当にそうだと思いますね。
いくら我が子が愛おしくても、代わりに頑張ってあげることはできません。
だって、子どもの人生は子どものものだから。
親にできることは、親としてできることを頑張るのみ。
そこから先は、子どもの頑張り次第。
自分の分をしっかり頑張れる人に育てるのが、親の頑張りなのかもしれませんね。


「自分が自分の分を頑張れていない」、ただそれだけなのに、頑張っている他人を見ては、足を引っ張ろうとする。
どうも頑張る方向性を間違えている人がいますね。
一人ひとり別人格で、みんな違う存在なのですから、自分で自分の人生を頑張るだけだと思います。
だから、他人が自分の人生を頑張っているのを見て、不安や焦りなど感情が揺れ動くとしたら、まずそこを治す必要がある。
自分の人生を頑張るには、自分という主体がはっきりしていないとできませんから。
他人が頑張る姿は、自分とは何かを明確にしてくれます。


ここ数年、自閉症の有病率は68人に1人と言われていたのですが、今年の4月26日、アメリカで発表された報告書によると、有病率は59人に1人になっていました。
私が学生時代は、だいたい1%くらいと言われていたのですが、最新の発表では1.7%くらいになったわけです。
ASD以外の発達障害の人たちもいるわけですから、日本の中にも、いや、それぞれの地域の中にも、多くの人達がいることが推測されます。


よく用いられる『発達障害の子どもが6.5%いる』というデータは、2012年のものであり、医療機関による診断を受けた数ではなく、教職員の見立てによる調査数ですから、どこまで正確に実態を表している数字かはわかりませんが、大きく外れた数字だとは思いません。
日本の人口が、約1億2652万人(H30.6)なので、単純計算で822万人くらい、発達障害を持つ人達がいることになります。
厚生労働省の調査(H27.12)では、医療機関に通院、または入院している発達障害の人達が19万5千人(推定値)です。
ということは、推測の域は出ませんが、800万人くらいの人が医療機関にかかっていないということになります。


現在の子ども達に発達障害を持つ子が増えてきているのは、診断そのものの影響も考えられるし、環境要因として何らかの影響があり、実数が増えているとも考えられます。
ただはっきり言えるのは、有病率と比べて、実際に診断や医療機関に通院している人が少ないということ。
つまり、何が言いたいかと申しますと、私達の地域、社会の中には、診断を受けずに生活している発達障害の人が大勢いるということです。


発達障害に関する啓発では、自分の障害に気づかず年齢を重ね、学校や仕事で躓き、心身の不調から心療内科医に行くと、「あなたは発達障害がありますね」というお決まりのパターンがあります。
これは、それこそ、まだ診断を受けていない人に「診断を受けましょう」キャンペーンであり、支援を受ける利用者を増やしたい、という意図があります。
だから、診断を受けないとマイナス、診断を受けるとプラス、という筋書きが最初から決まっているのです。
でも、実際は、もちろん、自分の生きづらさの原因がわからず、苦しまれている人もいるでしょうが、反対に、社会で適応できている人もいるでしょうし、自立し、家庭を持っている人もいるはずです。
また、生きづらさや発達の凸凹があったとしても、それを医療機関に頼らずとも、育て、治していった人がいるのだと考えられます。


啓発のイメージ戦略により、診断を受けることがプラスになる、生きづらさが改善する、また発達障害の人の多くは、医療機関に通院している、と思っている人も多いと思いますが、実際は診断を受けずに、通院もせず、社会の中で生きている人が大勢いるのです。
厚生労働省によると、精神疾患の患者数は、平成26年で約392万人なので、大袈裟に言って全員発達障害を持つ人だと仮定しても、400万人くらいは精神疾患になるくらいの生きづらさは抱えていない、抱えたとしても、自分自身で対処できている、または治しているとも考えられます。


まあ、簡単に言えば、発達障害=「生きづらさ」「生涯にわたる支援」「治らない障害」というのは、ギョーカイのイメージ戦略だといえます。
こんなことを言うと、「生きづらさを抱えているが、自分の障害に気づいていない人、医療機関と繋がれていない人が大勢いるんだ」という声が聞こえてきそうですが、それだったら、青いお祭りが全然社会のためになっていないと認めたようなものです。
青いお祭りや各地でのギョーカイによる啓発活動が的を得ていないか、医療機関を利用せずとも、自分たちで育て、治し、自立した人生を送られている人がたくさんいるかです。
私は、両方だと思いますが。


是非、これからの若い支援者、専門家の皆さんの中から、医療機関を利用することなく、自立した人生を送られている人達のことを調査、研究する人が出て欲しいと思っています。
有病率と診断数、患者数を比べれば、多くの人が医療機関にかかっていないことがわかります。
だからこそ、この多くの人達が、どうして医療機関にかからず、生活できているのか。
その要因を調べていけば、生きづらさを抱えている人を助ける道標になりますし、発達障害が一生涯の支援が必要な障害ではないこと、そして神経発達とともに治っていく障害だということが証明されると思っています。


人それぞれには役割があるのだと考えています。
私の役割は、臨床を通して、今、生きづらさを抱えている人、治っていきたい人、自立して生きたい人を後押ししていくことだと思います。
そしてお医者さん、研究者の中から、今までの常識を覆すような論文が、いいえ、今、「治った」と実感されている人達が決して偽物なんかじゃなく、自分自身で頑張った人だということが証明されるような発表を願っています。
そのためには、治る人を増やしていくこと。
まさに『私の頑張る分を頑張る』ですね!

2018年6月21日木曜日

100%の効果が得られるアプローチなどありません

論文を読むと、こんな表現がよく出てきます。
「〇〇というアプローチをする前と後では、介入後の方が37%問題行動が減った」
「〇〇というアプローチをしたグループと、別の△△というアプローチをしたグループ、何も介入しないグループで、3か月間の変化を見たところ、最もポジティブな変化があったのが〇〇というアプローチのグループの子ども達で65%の子どもにその効果が見られた」
もちろん、これは意訳であって、実際の論文はもっと難しい表現がされています。


エビデンスのあるアプローチと言われているものは、こういった検証とデータが積み重なっていき、その科学的根拠が明らかにされています。
「科学的根拠がある」というのは、効果があるという証でもあります。
じゃあ、そのエビデンスのあるアプローチを選択したら、証明された効果が同じように得られるか、といったら、そうではありません。
私が知る限り、このアプローチをすれば、「100%同じ効果が得られる」というような論文には出会ったことがありません。


つまり、効果があるけれども、全員が全員、同じ効果が得られるとは限りませんし、その効果だって到達度には差があるのです。
例えば、「37%問題行動が減った」というのは、「63%の問題行動は変化がなかった」ということであり、「グループの65%の子にポジティブな変化があったというのは、35%の子には変化がなかった。またはネガティブな変化があった子もいる」ということでもあります。
「エビデンスがある」=「効果がある」というのは正しいのですが、どうもすべての人に効果があるといった誤解や、その効果が永続的で、100%到達するといった誤解をしている人がいるような気がします。
「エビデンスのあるアプローチをしているから、うちの子に効果がある」とは、必ずしも言えないのです。


こういった人は、元になった論文まで読んでいないのでしょう。
だから、「エビデンス」と聞いただけで想像を膨らましてしまったり、言った人を見て、そのまま受け売りしてしまったりしているのだと思います。
そもそも「100%誰にでも効果がある」という方法があれば、みんな、こんなに苦労していないはずですし、国を挙げて、そのアプローチをやるでしょう。
こんなに特別支援の世界が揺れ動き、いろんな療法に溢れているのは「100%がない」という一番の表れだといえます。


じゃあ、なんで100%がないのか?
それは人だから。
いくら高度に環境を統制し、優秀な専門家たちが集まって研究したとしても、その人まではコントロールすることができません。
同じ人間であったとしても、親から受け継いだものは異なり、受精した瞬間からの歩み、環境は一人として同じ人はいません。
同じ人間がいないからこそ、同じアプローチをしても、刺激の受け取り方、効果の表れ方は異なる。
これが自然なのです。


「エビデンスのあるアプローチしかやらない」というのは、「オーガニック食品しか食べない」に近いものがあると思います。
オーガニック食品は身体に良いかもしれませんが、それだけで必要な栄養素がすべて賄い続けらるとはいえません。
どうしても偏りが出てくる。
エビデンスのあるアプローチも一緒で、偏りが出てしまいます。
エビデンスのあるアプローチをいくつか組み合わせて足していけば、100になるかと言ったら、そんな単純な話にはならないのです。


発達障害の人達は、個人差が大きいと言われています。
ただでも個人差が大きい子ども達が、特定のアプローチで、みんな同じ結果が出るとは考えにくい。
ある子には、とっても良かったけれども、別の子には全然効果がなかった、またはマイナスだった、ということも十分考えられることです。


ですから、組み合わせることが大事なんです。
一つの方法で100%を目指そうと横着したら、どっちに転ぶか運次第になります。
我が子の子育て、人生をサイコロを振るように考えてはいけません。
大事なのは、どのアプローチが我が子に合うかであって、成長と共に変化する必要な刺激に合わせてどんどん変えていく必要があるのです。
特定のアプローチにこだわるのは、リスクを犯すことだといえます。
大事なのは、親の好みではなく、子ども主体の選択です。
あと、そのアプローチの限界の見極めです。


特定のアプローチにこだわり続けた結果、子どもに望んでいた変化のないまま、大人になってしまった、という人達は少なくありません。
エビデンスを見て、子を見ていなかった人の典型です。
私が関わっている子ども達、若者たちも、エビデンスのあるアプローチもすれば、そうではないアプローチも上手に組み合わせながら、その時々で最適な形を作り、発達、成長しています。
自立して働いたり、同世代の子ども達と同じように学んでいったりした人こそ、上手にいろんなアプローチを利用しながら発達、成長していった姿がありました。


そういった意味では、いろんなアプローチ、考え方、支援者と出会うのが良いと思います。
出会ってきたものの中から、その時々で取捨選択し、オリジナルのアプローチ、いや、子育ての仕方を見つけていく。
そして成長と共に、その子自身で自分自身をより良く成長させる方法を確立していく。
そういった試行錯誤と小さな積み重ねが、100%に近づかせていくのだと思います。
私達が目指しているのは、発達障害のある子ども達を治療することではなく、より良く育ってもらうための子育てをすることなのですから。

2018年6月20日水曜日

情報のヌケやズレが独自の世界観を生む

自分の文章を読み直すと、「相変わらずクドイ文章だな」と思います。
どちらかというと、性格はさっぱりしている方だと思いますし、学生時代までクドクド書くのも、クドクドしい文章を読むのも嫌いでした。
そんな自分の文章がクドイ。
自分自身で胸焼けすることもある。
もっとシンプルに、さらっと書けば、文章の量は半分くらいに減らせるだろう、と思いながら、ブログやメール、レポート等を書いています。


この仕事を続けるにつれて、どんどん文章が脂ぎってきたような気がします。
それは「こんなところまで詳しく書かなくて良いよな、わかるよな」という感覚のものが、相手によっては抜け落ちていたり、別の想像で埋めてしまったりする可能性があるからです。


私が若手の頃、トレーニングを受けた専門家たちがこういっていました。
「10歳の子がわかるような文章にしなければならない」
アメリカの人達でしたので、いろんな人種、文化の人達がいるアメリカだからこそ、10歳というレベルの表現にしなさい、と言っているんだろうと、そのときは思っていました。
しかし、この仕事を続けていると、というか、自閉症、発達障害の人達と接する機会が増えていくと、この「10歳レベル」は知的なレベル、読解力のレベルを指しているのではなく、ある程度の年齢の人ならすぐにわかることでも、わかない部分がある、基本的な知識、情報の部分で抜け落ちがある、ということを意味しているのだとわかりました。


「10歳の子どもでもわかる」というのは、子どもニュースのようなイメージです。
大人なら当然、わかっているだろうと思う部分も、子どもは知らないことがある。
もちろん、自閉症、発達障害の人達は、みんな子どもでなければ、10歳程度の知識しかないということではありません。
それくらい「当然、わかっているだろう」と思うところが抜け落ち、そのまま年齢を重ねていることもあるという意味です。
こういった方達が大人になっていくと、コミュニケーションですれ違いが落ちたり、また独自の切り取り方、想像の仕方で、その穴を埋めようとすることもあります。
だから、自然と言葉が長くなってしまいます。


例えば、「炎上商法」という言葉がありますね。
意味とすれば、『意図的に刺激的な表現を使って注目を集め、商売に繋げること』といったところでしょうか。
私も「治る」という言葉を使うから、「炎上商法」と言われることもありますが…。


実際、炎上商法というものが存在するのでしょうが、自分の仕事に注目を集めることは悪いことではありませんし、どの商売も基本です。
表現方法は違えど、自分の事業、仕事を知ってもらわなければ、お客さんはきませんから。
正当な(?)宣伝、普通の宣伝と、炎上商法の宣伝の仕方の違いは、私にははっきりとわかりませんが、とにかく宣伝するのは商売の基本。
だから、騙すような宣伝をしなければ、問題ないと思います。
それに一度、注目を集めたとしても、そのあとも商売が続いている、お客さんがいる、増え続けるのなら、その商売自体に魅力があり、ニーズを掴んだ本物を売っているということであります。
炎上くらいで、商売がうまくいったら、こんなラクなことはありません。


「炎上商法」と叫ぶ人の多くは、上記のような仕組みの理解はあります。
だから、「炎上商法」とわざわざ言うのは、その相手に何か一言いいたいだけの人です。
ただ気に食わないだけ。
感情的な問題です。
たとえば、私の仕事に対して「炎上商法」と言ってきたとしても、それで利用している人が「やめよう」とはなりません。
と言いますか、自分ではなく、我が子の生活と未来を真剣に考えているのが親御さん達ですから、自分自身で納得しなければ利用などしません。
まあ、悪評も含め、そんなことで商売が潰れると思ってしまうのは、その人がお客さんが自動的に流れてくる仕事しかしていない人か、そもそも仕事をしたことがない人、字面の表面だけで想像し、理解した気になっている人でしょう。


またまたクドク書いてしまいましたが、それは「炎上商法」という意味を誤って使っている当事者の人がいたからです。
「炎上商法」という字面から、字面だけで、なんか悪いことをしているような気になっていたのです。
まあ、上記のような情報が抜け落ちていれば、なんか悪いことをしているような想像だけが膨らむのも無理がないかもしれません。
「悪いことをして人を集め、商売を続けている人」みたいな解釈、というか偏った独自の想像ですね。
世の中に、わざと炎上させて商売している人がいるのかはわかりませんが、基本的に普通の商売は、普通に宣伝しますし、「私、炎上商法しています」なんて言いません。
言うのは、その相手が感情的に嫌いな周りにいる人です。


大学に通ったり、働いたりしている発達障害の人達でも、「こういったことも情報が抜け落ちているんだ」と思うことが多々あります。
ということは、会話や説明するときにも、お互いが持ち併せている情報量に差があるかもしれない、ということです。
そういった差を前提に、またそこを読みとりながらコミュニケーションをしていくと、どうしても言語化する部分が増えていきます。


周囲も、本人も、情報の抜け落ちに気づかず、年齢を重ねていくと、知らず知らずのうちにその穴を想像で埋めようとすることがあるように感じます。
その想像が、周囲の情報と併せてなら問題ないのでしょうが、どんどん自分の頭の中だけで膨らんでいってしまうと、トラブルの元になる場合もあります。
先の「炎上商法」の例でも、「何か悪いことをしているんじゃないだろうか」という偏った想像が、その相手を執拗に責めることになり、また後から「あなたはいけないことをしている」と指摘されても、「いいや、違う。私は悪いことをして商売している人を注意しているだけだ。お客さんは騙されているから、それを救っているんだ」など、最悪なパターンが出来上がることもあります。


トラブルを起こしたり、世の中を恨んだりしているような人の中には、自分の頭だけの想像の世界で生きている人が少なくないと感じます。
こういった人の多くは、子ども時代からの小さな抜け落ちが積み重なっていき、それを想像で埋めていった結果、独自の世界観が出来上がったと思われます。
だからこそ、「こんなことは当然、知っているだろう、気が付いているだろう」ではなく、子ども一人ひとりをしっかり見て、「どこかに情報のヌケやズレがあるかもしれない」などという視点を持つのが良いと思います。

2018年6月17日日曜日

昨日の子のような笑顔が見たいから

昨日、伺ったお宅の子どもさんが、急に余所余所しくなったので、どうしたのかなと思いましたら、背中の方からあるものを渡してくれました。
算数テストの答案です。
表も、裏も、満点の数字が見えました。
そして、私の顔を見て、この子はニコッと笑ったのです。


小学校のテストで100点を取るのは、それ程、大きな出来事ではないかもしれません。
しかし、この子の場合は、特別な意味があったのです。
人生初の100点満点の答案。
しかも、低学年のとき、医療機関で正式な診断を受けており、「〇〇ちゃんは、アスペルガーだけでなく、LDもありますね。学年が上がれば、勉強についていくのも難しくなりますし、この子は福祉を利用しながら生きていくでしょうから、無理せず、早めに支援級へ移った方が良いですね」というようなことを言われていたのです。


そんな子と出会ったのは、実際、支援級へ転籍することが具体的に進み始めていた頃でした。
親御さんは、医師の診断と見たてを聞き、「無理させないで、福祉の中で生きた方が幸せなのかもしれない」と思いかけていました。
でも、心の中では「本当に幼い我が子の未来は決まっているのだろうか、他の可能性は無いのだろうか」「本当に何もやってあげられることがないのだろうか」という想いがあった。
そんな揺れ動く心情のとき、我が子の言葉を聞いたのです。
「私、みんなと一緒に勉強がしたい」


もし、あのとき、医師の言葉を信じ、転籍していたらどうなっていたでしょうか。
少なくとも、昨日の笑顔は見ることができなかったでしょう。
ある意味、医療を超えた瞬間でもありました。
現代医療を、親御さんとの二人三脚で、この子は跳び越したのです。


ご存じの通り、発達障害に対し「治る」という言葉を使うと、「医療的に誤りだ」「そんな医学的な知識、見解もないのに、よく専門家を名乗れるな」などと言ってくる人達がいます。
中には、「そんなこともわからず、よく教員免許が取れたな」などという反論するのもバカバカしくなるようなクソリプを飛ばしてくる人もいました。
多分、こういう人は、我が子の学校の先生に対しても、こんな上から目線のバカにしたような態度でいるのだと思います。
こういう人は、いつの時代の教職員を想像しているのか、と思いますね。


今どき、特別支援教諭の免許取得に限らず、どの種類の教員免許を取るにも、障害について学びますし、特に発達障害については、以前よりもましてしっかり学ばなければなくなりました。
当然、国が定めた教員免許を取得するには、一定以上の知識を獲得する必要があるのです。
しかし、学校の先生は支援者でなければ、療育や介護をする仕事ではありません。
学校の先生は、勉強を教えることが一番の目的です。
勉強を教える際、特別なニーズがある子の場合には、その子に合ったアイディアと方法で、勉強を教えていく。
勉強を教えていく、子どもの知識や技能の獲得を後押ししていくのは変わりがないことです。


中途半端に特別支援について勉強したり、地域の支援者とつながったりしていると、「そんなことも知らないの」「そんな療育方法もできないの」というような態度をとる親御さんがいます。
こういう人は先生の役割を誤解している人であると同時に、我が子の成長を後押しできない人だといえます。
何故なら、求める療育とは対処療法であり、子どもが身に付けるのは適応だからです。
ちなみに、こういった親御さんは態度に表さなくても、相手はすぐにわかるもので、当然、すこぶる評判が悪いですね。
こういう親御さんと連携して、その子により良い教育をとは…以下略。
まあ、自業自得です。


「治った、と言っているのは、適応できるようになっただけ」と言うような人もいます。
ここまでくれば、そんな発言をひと様に聞かれて恥ずかしくないのか、と同情すら覚えます。
多分、こういう人は、動物の曲芸のようなものを療育であり、教育であると思っているのでしょう。
場面に合わせた振る舞い方ができるようになる。
それは、発達しているわけでも、成長しているわけでもなく、ただの条件反射です。
条件に合わせて、求められる振る舞いをしているだけ。
動物の曲芸のように、芸をいくら覚えても生きやすくならないし、ましてや自立なんて不可能です。
だって、人生100年時代を生きる中で、子どもが出会う場面は、限りないくらい多くあるから。


私達が言っている「治る」は、適応といった表面的なことではなく、根本的な意味。
発達障害は「神経発達の障害」なのですから、一人ひとり異なる発達の課題の部分を見極め、そこを丁寧に育てなおしていく。
ヘンなサプリや水を飲むだとか、壺を買ったり、お祈りしたりだとのオカルト的なものではなく、とても合理的で、科学的だと思います。
こういう発言をすると、また「医学的に証明されていない」など、もう屁理屈みたいなことを言ってくる人もいますが、じゃあ、逆に質問しますが、「医学的に証明されていないこと以外、すべて誤っているといえるのか?まったく効果がないといえるのか?」「世の中全ての事象を科学で検証することができているのか?可能なのか?」と思うのです。


私が学生時代、それこそ、障害児教育の講義で学んだ「自閉症は脳の機能障害」「生来的な障害で、治ることはない」という知識が、すでに変更されています。
「脳の機能障害」が「神経発達の障害」と変わったのは、「脳の機能障害」と言われた時期に、すでにそれに当てはまらない人が存在していたということであり、「神経発達の障害」とした方が実態に適していると、世界の専門家の中で判断する材料が揃い、コンセンサスがとれたということ。
時代は動き、医療は日進月歩で進歩しているのに、いつまで、あなた様の頭の中は、「脳の機能障害」で止まっているのですか?
また今後も変わりうる医療の前に、「医学的にそう言っているから、それに従います」という姿勢でい続けるのですか?
未だに、発達障害の診断だって、目に見える、確認できる症状を診て判断している状態で、生物学的なマーカーで科学的に診断できているわけではないのです。


いつ来るかわからない、またどうなるかわからない医療の見解を待っている間にも、目の前のこどもたちは日々、大人に向かって歩みを進めています。
医療が言っていることと外れないことを選択するのと引き換えに、子どもの発達と成長の機会を犠牲にする覚悟があるのか、と思います。
冷蔵庫マザーの時代の親御さん、支援者の中にも、「いや、この子達が必要なのは親の愛情ではなく、適切な支援だ」と思う人がいて、実践し、結果を出してきたからこそ、「脳の機能障害」という見解が生まれた。
同じように、「脳の機能障害」と言われた時期に、「いや、脳の機能障害と言われているけれども、根本的な課題は、感覚や内臓も含め、生きる上で土台となる身体の発達にバグがあるのでは」と思う人がいて、そういった部分を育てていった結果、苦しめられていた障害がなくなり、同世代の人達と同じような生活ができる人が出てきた。
どうしてこんな当たり前のことを勘違いしているのかと思ってしまいますが、このように「人がいて、医療が追い付くこともある」というか、それが自然な流れです。


山中教授のように、不治の病に挑み、医療技術の進歩に人生をかけている医師たちがいます。
その一方で、そういった可能性と未来を信じず、「あ~、この子はアスペで、LDもあるから、将来は福祉ね。普通級?ムリムリ」と言う医師もいる。
私は、医療の可能性を信じられない人は、そもそも人間の可能性を信じることのできない人だと思います。
たとえ、自分が関わる医師が、支援者が人間の可能性を信じられない人だったとしても、親御さんは我が子の可能性を信じるのではないでしょうか。
そして、子ども自身も、表現しなかったとしても、自分の可能性と未来を信じているはずです。
親が子どもの可能性を信じず、誰が信じるのです。


治るの道を進む人達は、決して理想主義で、楽観的で、医学的な知識が全くない人ではありません。
みなさん、医学的に「治らない」と言われているのも知っています。
でも、目の前の子の中に、そういった知識を飛び越える可能性が見えている人たちなのです。
だから、何も知らず、あたかもただの無知のような、またインチキをやっているような発言をする人間を私は許せません。
だからといって、そういった人達に考えを改めてもらうつもりもないし、治らず、支援と理解を求めて生きていけば良いと思います。
医学的見解から外れてない自分に酔いながら、目の前で生涯生きづらいままの子を見続ければよいでしょう。


何を言われようとも、治りたい人達と共に私は歩んでいきます。
昨日の子のような笑顔が見たいから。
私は子どもの笑顔を犠牲にし、医療と心中するつもりはないのです。

2018年6月14日木曜日

『発達障害者支援法は誰を救ったか?【電子版】』(花風社)を読んで

今朝、花風社さんから電子版の新刊が発売されたことを知り、早速ダウンロードして、今、読み終えたところです。
それこそ、発達障害者支援法が施行された13年前では考えられないくらい便利で早く、そして求めている知見や情報を得られるようになったと感じます。
今日、世に出た知見や情報を、今日、全国にいる皆さんと共に享受することができる。


13年前は、当時のリーダー達が言っていた言葉をそのまま信じていました。
主に夏に行われていた全国の都市部開催の講習会へ出かけて行き、そこで必死にメモを取り、各地域に持ち帰る。
そして有名な支援者たちが書いた本で勉強する。
今のように、様々な種類の本は出ていませんでした。
いわゆる専門書と呼ばれるもので、専門家が専門用語を使い、読者よりも専門家の方を向いた本だったように思います。


そんな専門書から伝わってくるのは、「脳の機能障害」と「生来的な障害」であるということ。
「治らない障害に対して、私達は何ができるのか?」
それが支援者の頭の中にはあり、そして私も含め多くの支援者が「環境を整え、一人でできることを増やし、より自立“的”な人生を歩めるように支援する」という方向へと進んでいきました。
あの当時、みんなが同じ方向を突き進んだのは、その支援を否定する声がなかったから。
いや、あったのかもしれないが、多くの人の耳には届いてこなかった。
そして一番の理由は、治った人を見たことも、いることも知らなかったからだといえます。


ちょうど昨晩、SNS上で、2014年に発売された『自閉っ子の心身をラクにしよう!』を読み、実践してからどれくらいで、どのような変化があったかが話題になっていました。
住む場所も、年代も、違う人達が、「我が子には」「私自身には」と情報のやりとりがされている。
そんな様子を拝見させていただき、4年前に出版された本、また著者の栗本さんの知見が多くの方達の成長と生活を支え、後押ししたことがわかりました。
それと同時に、13年前では考えられなかった睡眠障害や感覚過敏等で苦しんでいた人達が、それに悩まされないくらいまで変わったこと、普通学級や一般就労は無理と言われていた人達が、元気に学び、働く毎日が過ごせていることが、全国どこにいても瞬時に知ることができるようになった、そのように変わったんだと思いました。


今振り返ると、先進地域の人達は、有名支援者を地元に呼ぶことができ、他の地域よりも新しい知識を得ることができている、ということ自体に満足し、盲目的に、疑問を持つことなく、突き進んだのだと思います。
また、そうではない地域は、「自分たちは遅れている」などと思いながら、時々、先進地域に出かけていって得られた僅かな情報を基に支援を展開していったのでしょう。
いま、「自分たちは遅れてるもんね」という地域の人達の方が治ってきているのは、より良い情報が外にある、と思っているからだと感じます。
「この地域になければ、他のところにあるかもしれない」という考えは、こういった歩みと得たい情報をすぐに得ることができるという今の時代と有利にマッチしたのだといえるでしょう。


今回の新刊『発達障害者支援法は誰を救ったか?』は、その名の通り、2005年に施行された発達障害者支援法を軸に、13年前の当時の空気感、そしてその13年間で、本人たち、親御さん達、支援者たちがどのように捉え、行動していきたのかがわかる本になっています。
私の感覚では、特別支援が始まったのが、ついこないだという感じでいますので、もう13年の月日が流れたのか、と思ってしまいます。
13年前の小学1年生がもう成人したのですね。
そう考えると、今、幼い子ども達を育てられている親御さん達は、当然、当時の空気感や推移がわからなくても仕方がないのだと思います。
本を読み進めている中で、私自身も13年間を振り返りながら、「こんなはずじゃなかったよな」と改めて思うのでした。
今、子育て真っ只中の親御さん達は、どうして「治るが勝ち」なのか、本を読まれることでより深くわかることがあると思いました。


まだ出版されたばかりですし、内容に関わることは避けますが、「発達援助の非医療化」には大いに賛同しますし、自分自身、その道を推し進める一つになりたいと思いました。
そして、「勝ち逃げ世代の支援者」という表現からは、私達、中堅、若手の世代の支援者たちに向けた熱い叱咤激励のメッセージと想いを受け取りました。
13年前のリーダーたちは、当時からおじいさん、おばあさんばかりでした。
前世代の人達が果たした役割は、あの当時、大きかったと思います。
今から振り返れば、おかしいなと思うことでも、それは今、知見が集まり、進化していった結果から見れば、なのだと思います。


しかし時代は大きく変わっています。
それに今よりも少しでも本人と家族がラクに、より良い子育て、より良い人生と自立した生活のために前進しようという想いと行動がなければならないのだと思います。
そういった積み重ねが、次の10年を変えていくはずです。


10年後、今を振り返ると、治る、治らないで言い合っているのが笑えてくると思います。
すでに結果は出ているでしょうし、国の考えや方針、これから進んでいく未来の状況からも、治りやすい人から治っていく、本当の意味での自立していく人が今よりもずっと増えて、自然な状態になっているはずです。
治りたい人、自立したい人を応援し、後押しする時代にどんどんなっていくと考えています。


いくら治ってほしくない人が「治りません」と言い続けても、「治ったよ」「自立したよ」「働いているよ」という情報は、瞬時に広がっていきます。
より良い情報や知見、求めているものを持っている人がいれば、直接つながっていける時代です。
13年前を振り返り、当時の空気感を思い出しながら、10年後の素晴らしい未来を想像する。
これが今朝から今に至る私の時間でした。
当時を知る人も、当時を知らない人も、是非、読まれると良いと思います。
特別支援に対する考え方と、自分が何を求めているのか、が明確になってくるはずです。


 


2018年6月13日水曜日

特別支援の外にこそ、真のニーズがある

日本の場合、お医者さんしか診断することができません。
ですから、発達障害の人達が通る医療の中で軽度化や症状が出ない状態までの治療がなされれば、医療が入り口であり、出口になります。


しかし、現在の医療では、発達障害を治療し、治すことができません。
なので、発達障害の人達の生活を支えるケアの必要性が生まれます。
それが支援や介助といった福祉です。


制度的、金銭的、人的、環境的な支えは必要ではありますが、生涯支え続けることは、本人も、社会も求めていないといえます。
「治らない障害の人たちなのだから、何もせず、ずっと福祉の中にいればよい」
決してそのようなことはなく、個々に合った学びがあれば、成長していく人達です。
そして特別支援教育が生まれました。


特別支援教育の目的は、その子の持つ資質を最大限伸ばし、将来の可能性を広げ、自立して生きていける社会人を育てることです。
そのために、普通学校の教育とは異なり、より個別的に、より柔軟な教育が行われます。


医療があって、福祉があって、教育がある。
それも公的に、誰でも利用することができます。
ある意味、定型発達の子どもを育てるよりも、多くの選択肢があり、多くの資源、サポートがあるといえます。
それなのに、どうして公的な機関を頼るのを止める人がいて、どうして民間の機関を頼る人がいるのでしょうか。


それは公的な機関に満たせないニーズがあり、公的な機関の外にニーズがあるからだと思います。
医療→福祉→教育と、特別支援がニーズと共に生まれてきたのと同じように、ニーズが民間の選択肢を生んだのです。
ニーズがないところに民間が出ていけば、いくら肩書や資格、資金等あっても淘汰されるのが当たり前です。


私は公的な機関を通って、民間になった人間です。
公的な機関で働いていたときにヒシヒシと感じていました。
公的な機関の限界を。
そして、本人、親御さん達のニーズを満たせていないことを。


私が感じた限界は、特別支援の中だけで、子どもを育てていくこと。
診断名をつけたところから、ずっと特別支援の中でどうにかしようとしているのがわかります。
結局、間に特別支援教育が入るけれども、医療と福祉の行ったり来たりであり、特別支援の世界から外に出ていく人がほとんどいない状況があります。


「親元を離れ、自立して生きる」
これは動物としての本能であり、長い進化の過程の中で遺伝子に組み込まれたものだと思います。
本人と家族の想いであり、ニーズです。


特別支援の中で完結できないのは、自立が存在しないからです。
特別支援の中で言われる「自立」とは、支援を受けながら自立“的”に生きていく、という意味ですから。
そして一番の問題は、子育てのニーズに応えず、治療と教育と支援にしてしまったこと。


発達障害とは受精した瞬間から現在まで続く発達の中に課題が存在するということ。
決して診断された瞬間から障害が生まれたわけではありません。
特別支援は診断から始まりますが、子育ては、子どもの発達は、その前から始まっているのです。
つまり、発達に障害がある子をどう育てていくか、どうすればより良く育っていけるか、これこそがニーズの中心だといえます。


親御さんがしたいのは、療育ではなく、子育てです。
本人が望むのは、特別支援の世界で生きることではなく、より良く発達、成長し、社会の中で自立して生きていくことです。
子育てに、資格も、エビデンスも必要はありません。
必要なのは、我が子がより良く発達、成長する姿のみ。
だから、親御さんは公的、民間にこだわらず、より良いものを求めて行動します。
「資格だ」「エビデンスだ」は、支援者間の陣取り合戦であって、子どもも、親御さんも興味が無いのです。
そういったものは、本人と親御さんの「自立したい」という欲求の前では、ただの音であり、文字でしかありません。


親御さんが求める子育てのニーズ、本人が望む自立のニーズが満たされない限り、民間の機関はなくなることがないでしょう。
むしろ公的だ、民間だ、という声がなくなるのが望むべき未来です。
何故なら、子どもを育てるとは、社会全体で営まれることだから。


今のように、特別支援の中だけで育つ子ども達の未来は良くないと思います。
発達障害を持った子ども達も、同世代の子ども達と同じように、地域の資源を使い、より良く育っていく。
必要なのは、特別なニーズを満たす場所を作り、分けることではなく、同じ地域の資源を使いながら成長していくこと。
ですから私は、子育ての中にニーズがあり、家庭での子育ての中に発達を促す力があるのだと考えています。
特別支援の外にこそ、真のニーズがある。