2020年10月1日木曜日

【No.1106】自分で育てているときと、そうではないときの見分け方

9月13日(日)のzoom講座のあとから、こういった質問を多く受けるようになっています。
「自分でなにか(発達)を育てているときと、そうではないときの見分け方は?」
確かにその見分け方までは説明しなかったと思います。
途中で質問タイムがあり、そういった行動についての相談がありましたが、答えることがメインで根拠までは説明しませんでした。
昨日で録画した動画を視聴できる期間が終わりましたので、この辺りのお話をしようと思います。


言ってしまえば、雰囲気です。
実際に見れば、良く分かりますが、何かを育てているときの姿は雰囲気がぜんぜん違います。
伸びやかで、自然で、明るく、内側から突き動かされている感じがします。
でも、これは私個人のイメージであり、現在まで多くの人たちと関わってきたからこそ、感じる部分だと言えます。
なので、答えているようで答えになっていませんし、これでは講座を視聴してくださった方達への後押しになりません。
ちなみに、メール相談でも、電話相談でも、親御さんの言葉を通してお子さんの雰囲気は伝わってくるものです。


そこで、どのようなところを具体的に見ているのか、どのような勉強を通して身に付けた技術なのかを紹介しようと思います。
まず大まかな枠組みとして、子ども達の行動には「育てる」「(純粋な)遊び」「防衛」が考えられます。


自分自身で発達を育てているときは、必要な刺激、足りていない刺激を求めていますので、型はどうでもいいわけです。
どんなやり方、どんな環境を使おうとも、同じ刺激が得られれば良いのです。
ですから、内耳を育てている子は、移動するときもピョンピョン跳ねているし、縁石をみればその上を歩こうとするし、ソファーに上がってはそこから跳び下りようとするし、おんぶされていても頭をたくさん動かすし、公園に言えば、とにかくブランコだし、自分も回るし、扇風機など回るモノも好きだし…という具合に、生活全般の中で「ああ、内耳を育てたいのね」というまとまりがあります。
一方で遊びは趣味嗜好なので、ある程度、決まった型があります。
いつも同じ場所で行う、いつも同じものを使う、遊びは変わっても遊ぶもの自体は、やり方自体は変わらない、ということがあります。


また育てる行動は、一種の退行ですので、その子の認知機能からいえば、行動レベルが幼いことをやります。
普通級で勉強しているような子でも、家に帰ったとき、グルグル回ったりします。
しかし遊びは、その子の愉しさと繋がるものですから、つまり、認知樹的な好奇心を満たすものですから、認知機能と合ったものを選択することが多いです。
IQや認知機能が変わると、遊びもより複雑なものへと変わってきます。


そして育てる行動は一過性のものが多いといえます。
乳幼児期の子ども達の姿を見ればわかるのですが、ハイハイを育てる時期は、朝起きてすぐにハイハイ、寝ているとき以外、ハイハイという具合に、1つの発達課題に没頭する傾向があります。
そのような四六時中、ハイハイの時期があったかと思えば、ある日を境にピタッと止め、とにかく伝い歩きに没頭する時期へ移行していきます。
親御さんのお話を伺っていても、「ある日、パタッとやらなくなった」「急に先週くらいから、毎日、〇〇をするようになった」ということがありますので、この場合は、ある発達課題をやりきった、ある発達課題を育て始めた、と解釈できると思います。
遊びの場合は、それこそ、小学生になっても、中学生になっても、大人になっても、遊びの大枠、型は変化しません。
虫が好きだった子が、図鑑や生物の仕組みに興味が出るように、車を並べて眺めていた子がブロック制作が好きになったり。
親御さんは子どもさんの遊びを見ていると、「そういえば、小さかったときから〇〇が好きだったもんね」というように、遊びの歴史、繋がり、きっかけがわかると思います。


なんとなく「育ち」と「遊び」の違いは分かったと思うので、「防衛」に話題を移します。
防衛は、遅延性や即時性のストレス回避行動です。
簡単に言えば、ストレスから身を守るために行っている対処行動になります。
聴覚過敏の子が、子どもの鳴き声を聞いて耳をふさいだり、学校で疲れた子が家に帰ってきて布団の中にくるまったりする行動です。
こういった行動は"明らかに"ですので、他の二つとの違いはわかると思います。
当然、自傷・他害なども、育てたり、遊んでたりはしていません。


「育ち」は刺激を求めていて、「防衛」は刺激を遠ざけています。
時折、嫌悪刺激から身を守るために常同運動(顔の前で手をパタパタさせる、ピョンピョン跳びはねるなど)をする場合もありますが、嫌悪刺激が止まれば、こういった行動も止まります。
「育ち」の場合は、周囲の環境が変わっても続きますので、ここが違います。
あとは、「防衛」がストレス始まりの行動なので、表情が硬く、身体に力が入っていて、動きがぎこちない、動きのバリエーションが少ないという特徴があります。
一方で「育ち」はリラックスしていますし、幼い段階に戻る行動ですので、動きがなめらかです。
細かいところで言えば、「育ち」や「遊び」は周囲からの声がけにパッと応じられますが、「防衛」のときはそれが難しい、ストレスレベルが下がるまで続く、ということがあります。


上記までの説明では、雰囲気を無理やり言語化した感じになります。
たぶん、経験則的に「こういった方向性で提案したほうがうまくいく」というのがわかるのだと思います。
でも、それだけだと間違いを起こしますので、勉強&補助として定型発達を理解することになります。
「育ち」の場合は、定型発達の子ども達も、どこかの年齢で行うことが多いといえます。
あまり自己流ということはなく、子ども達に共通して見られる行動です。
そこにプラスして、成育歴、発達の流れ、そして今の発達段階を確認し、「汗をあまりかかない。砂遊びを嫌がる。触られるのがイヤ。寝返りの際、反動をつけて回っていた」からの「お風呂からなかなか出ようとしないのは、皮膚を育てようとしているかも。水の時期だからかも」という見立てになります。
そこから、「じゃあ、足を使った遊びを」「じゃあ、海へ」「波打ち際を裸足で歩こう」というような刺激のバリエーションを増やすことからの発達の後押しへとつなげていきます。


たぶん、ほとんどの親御さんは、この3つの違いが感覚的にわかるはずです。
こういった質問をされるというのは、今、不安な気持ちがあるからであり、「解釈を間違えたらどうしよう」という想いからだと想像します。
たとえ解釈を間違えても、基本的に見守りでOKです。
ストレスに対する防衛行動だとしても、自分自身で動き、乗り越えようとしていますので、またその乗り越えた経験が生きていく上での武器になりますので、本人や周囲に危険と迷惑がかかる行動でなければ、特段介入する必要はないといえます。
ただし、親としてそのストレスが何なのかは確認する必要がありますが。


まずは子ども育つ力、乗り越える力を信じること。
そうすれば、ひとつ冷静になって、子どもの姿を見ることができます。
アセスメントのコツは、見ている側の感情を乗せないことになりますので。




2020年9月30日水曜日

【No.1105】因果関係ではなく、育つための糸口として捉える

神経発達症の子ども達は、神経に「未成熟や未発達の部分がある」ということだといえます。
ですから、もし彼らに有効な薬があるとすれば、神経の発達を促す薬になるでしょう。
しかし残念ながら、そういった薬はありません。
今ある薬、処方されている薬は、彼らの症状を抑えるためのものになります。


表に出ている症状によって、生活に支障が出ている人もいるでしょう。
そういった人たちにとっては緊急事態ですから、一時的に症状を抑える必要があると思います。
でも、緊急事態は緊急事態であって、生涯、永遠に、ということはないはずです。
根本的な解決を目指すとすれば、彼らの神経をよりよく育てていく以外ないのです。


実生活で何らかの支障が出る。
そして受診し、薬が処方される。
ドーパミンやノルアドレナリンなど、神経伝達物質を調整することで症状の緩和や抑え込みを目指していく。
しかし、ここでしっかり考えなければならないのは、神経伝達物質の問題が症状と直接結びつているかどうかです。


たとえば、授業に集中できない子がいるとします。
そこで中枢刺激剤が処方され、服用するというのが一般的な流れですが、授業に集中できないのは、神経伝達物質の問題だけではないはずです。
そもそも中枢刺激剤は、神経発達症以外の人が服用しても集中力が上がるものでもあります。


本来、医学的な処方をするのでしたら、他人の身体の中に何かを入れるという判断をするのでしたら、それなりの根拠が必要になります。
しかし全国を探して、わざわざ学校まで子どもの様子を見に来てくれる医師はいるのでしょうか。
というか、ここに神経発達症における医療の限界があるのだといえます。
つまり、因果関係がはっきりしているものに対して強いのが医療。
だけれども、いろんな影響と可能性が考えられる複雑系のものに対しては限界がある。
(授業に集中できないのは、聴覚(≠前庭系)の未発達、身体の軸が育っていない、腰が育っていない、脳の未分化、栄養不足、睡眠の乱れ、汗がかけない、そもそも授業がつまらない、先生が嫌いなど無数&複数の重なり合い)


神経発達なんて、複雑系の最たるものです。
神経発達症の子ども達に多く見られる言葉の遅れ、不器用さ、こだわりなど、何か一つの原因で説明できるものなどありません。
遺伝というベースに、胎児期からの環境からの影響を受け、複雑に絡み合い、現時点で表に出ている部分がその症状の一つに過ぎないのです。
同じ言葉の遅れでも、一人ひとり、理由は異なりますし、その影響のバリエーションといったら無限にあります。
ですから、そもそも神経発達症において、因果関係をはっきりさせようとすること自体、不可能なのです。


掴めないものだからこそ、不安になり、不安になるからこそ、膨大な情報の中からシンプルな答えを求めようとする…。
でも、それは子ども自身ではなく、親御さんにとって、支援者にとって。
「自閉症は視覚優位だから、視覚的に提示すれば、よくなる」
「神経発達にはタンパク質が重要だから、プロテインを飲ませれば、よくなる」
「普通の子とは違うのだから、専門家に任せれば、よくなる」
【自閉症→視覚支援】【神経発達→タンパク質】【特別支援→専門家・療育】
こういったのはすべて一方通行であり、部分的な仮説の一つにすぎません。
視覚支援は、すべての自閉症の人に合うか?
タンパク質を摂れば、神経発達が起きるのか?
そもそも我が子の神経発達の遅れがタンパク質不足だからなのか?
専門家・療育を受けなければ、神経発達は生じないのか?
家でできることはないのか?


さらにいえば、こういったシンプルな図式は迷いを払しょくし、ひと時の安心感を得られますが、失うものが大きい。
自閉症の子ども達に視覚支援ばかりした結果、聴覚を育てる機会が極端に減ってしまった。
タンパク質にこだわるばかりに、通常の食事においての味覚を育てる機会、消化器系を育てる機会、咀嚼をする機会を失ってしまった。
療育に突き進んだ結果、親子の愛着形成が遅れてしまった、園などで同年代の子ども達と集団で過ごす体験を失ってしまった。
多くは申し上げませんが、栄養療法が流行してから、口、舌、嗅覚&味覚、言葉、咀嚼からの認知の遅れで相談される子が増えたように感じます。
物事を単純化するということは、因果関係をシンプルにするということは、それ以外の多くの影響を切り捨てることでもあります。
それは精神科薬と同様、副作用が大き過ぎます。


私も「背骨の過敏さをとりましょう」「ハイハイをやり直しましょう」「水遊びをしましょう」「親子でのスキンシップ遊びを増やしましょう」「内耳を育てましょう」などと提案することがあります。
しかし、これは因果関係で申し上げているのではありません。
あくまで基本は、「治しやすいところから治す」「育てやすいところから育てる」です。
神経発達の一部分でもつながれば、引っ張られるようにしてほかの部分も育ち始めるのは、子ども達の特徴になります。
つまり、数ある糸口の一つをお伝えし、そこを育てる後押しをしてもらうことで、結果的に子どもさん自身の発達する力、自然治癒力を発揮してもらおうと考えているのです。
たぶん、他の実践家の人たちも、複数の要因・影響が見えつつも、一番効果的な一本(糸口)を伝えているのだと思います。
症状を抑え込むためではなく、症状をより良い発達への入り口とするための糸口です。


一方で、この無限にある影響、要因をすべて明らかにすることができないからこそ、快食快眠快便を整えること、親子での関わりを大切にすることを強調しています。
神経発達症の子ども達の発達のズレが、言葉を獲得する以前の胎児期から2歳前後に生じていることからも、この時期の育ちを、動物としての原理原則をもう一度見直し、そこから育てなおすことが重要だといえます。


因果関係に固執すると、その周辺にある大事なものが見えなくなります。
ですから、動物としての育ちを大切にし、糸口をたくさん見つけていくことが必要です。
その糸口は仮説で構いません。
神経はいろんなところと繋がっていますので、1つが育てば、いろんな面に影響を及ぼすのです。
まさに「ラクになってほしい」「より良く育ってほしい」という親心が、表に出ている症状を抑え込むのではなく、症状からより良く育つための糸口を見つけていく連想への一歩になるのだと思います。




2020年9月28日月曜日

【No.1104】人それぞれの成育パターン

親御さんと話をしていると、「小学校低学年くらいまでは先生の話が全然聞けなかったんです」「他人の気持ちが想像できるようになったのは、小学校高学年くらいからですね」「小学生の間は、落ち着きがなく、いつも走り回ってきました」なんていうことをよくお聞きします。
だいたい10歳くらいですね、そんな皆さんがガラッと変わるのは。
親御さんの発達の流れを見ていますと、バラバラに発達していたものが、一気に繋がったという雰囲気を感じます。
細かい部分で見れば、こうやってお話ししている今も、多少の発達の凸凹がありますが、社会の中で、家族を作り、生活することができているのです。


「今の時代に子どもだったら、私も診断がついていたでしょうね」
これも、親御さんからよく聞くフレーズになります。
確かに、青田買いの現代では、生後3年間の中で、少しでも発達が遅れていれば、すぐに指摘され、診断→療育→支援へとつながれていたと思います。
そうだとしたら、今の親御さんの人生、生活、そして我が子と暮らす日々もなかったでしょう。


このように10歳を過ぎたあたりから、一気に神経が繋がっていく人達は、発達障害の人達なのでしょうか。
私はそうは思いません。
ただ神経ネットワークができるのがゆっくりな人達であり、環境と成育パターンの違いなのだと考えています。
生後すぐに生まれ出た環境に、脳・神経を合わせようとする発達パターンの人もいれば、10年くらいかけて環境を見極め、よりよく適応できるようにと発達するパターンの人もいるでしょう。
ヒトの目的は、生き抜くことと子孫を残すこと。
その「生き抜く」ためにも、「子孫を残す」ためにも、まずは環境適応が重要なことになりますので、そこに個としての多様さ、生存戦略の違いがあっても不思議ではありません。


ですから、発達障害というのは、現代病なのでしょう。
環境の急激な変化によるリスク要因の増大とともに、端的に言えば、人それぞれの成育パターンを待ちきれない社会が作りだした病なんだといえます。
3歳でグッと繋がる子、5歳でグッと繋がる子、7歳で、10歳で、20歳で、グッと神経が繋がる人達がいるのにもかかわらず、教科書通りの成育パターンで判断され、1歳、2歳、3歳でつまみとられていく。
つまみとられた先に、子ども達が伸びやかに"育つ"環境が用意されていれば良いのですが、あいも変わらず、カナー型を想定して始まった支援へと繋がれてしまう。
育ちが必要な子ども達に、手をとり足を取りの支援は却って発達を阻む結果にもなります。


時々、「大久保さんに見てもらってから、子どもが大きく成長しました」などとおっしゃる親御さんがいますが、それは違うと思います。
発達のストッパーやヌケを確認し、お伝えした場合は、多少影響はあったかもしれませんが、そうではない場合は、たまたまタイミングが合っただけです。
子どもが育つタイミングで、私が関わっただけ。
子どもの発達・成長する力を侮ってはなりません。
ちょっとやそっと外部から刺激を与えたくらいで変化させられるようなものではないのです。
もしそうだとしたら、とっくの昔に人類は滅んでいます。


10歳でいろんなものが一気に繋がり、世界が開けたという元子ども達の皆さん。
そのような方達は、支援級で勉強したのでしょうか、早期から療育を受けたのでしょうか。
もっといえば、プロテインやサプリを摂ったのでしょうか、原始反射の統合や発達のヌケを育てなおすことを日々行っていたのでしょうか。
私も「発達援助」を掲げて仕事をしていますが、もう少し親御さんの、ご自身の内側にあるものに注目し、そこからより良い子育てへと繋げて欲しいと思っています。


発達相談と聞くと、発達のヌケやストッパーを私が確認し、それをどうやって育てたら良いか、アプローチしたら良いかを伝えるという一連の流れを想像されるかもしれません。
でもそれは私の仕事のやり方の一つであって、メインは親御さんの内側にある知恵を引き出すことです。
なので、子どもさんのアセスメントをしているようで、実際は親御さんのアセスメントをしていることが多い。
結局、療育も、特別支援も、栄養療法も、身体アプローチもない状況で育ち、自立しているのです。
無数にある成育パターンの中で近いものを持っている親子なのですから、その歩みの中にこそ、中心となる発達援助があるといえます。


この領域で、医療が子ども達の未来をより良いものへと変える力になれないのは、つまるところ子育てだからです。
子育ての中心は、親子の関係に他なりません。
親子で触れ合い、戯れ、同じものを共に食べ、共に排泄し、共に眠りにつく。
こういった親子という原始的な、1対1の関係性の中でしか育たない部分があるのに、そこが生きるための土台の発達になるのに、その時間を削って外部を頼るのは間違っていると思います。
また外部の知恵を求めるよりも、まずは自分たち親が育ってきた道、歩んできた道の中に、我が子をより良く育てる知恵を探すべきだと思います。
それこそが命をつなぐ、命を伝えることではないでしょうか。


私のような外部の者が、親子の子育てに新しい知恵を与えることはほとんどありません。
たぶん、私の仕事のメインは、親御さんが気づいていない、無意識に育てきった知恵を言語化することなのでしょう。
発達相談の際、親御さんが私の提案を聞いて共感するのは、既にご自身の体験の中にそれがあったからだと思います。
まずはご自身の内側にある知恵を求め、もしあとになって繋がったという意識があるのでしたら、その年齢まで我が子の育ちを待つことも大事なのかもしれません。
大器晩成という成育パターンの子も少なくないのですから。




2020年9月25日金曜日

【No.1103】複雑から単純へのプロセスを見る

発達のヌケや未発達が育ってくると、課題が集約されていきます。
「ここも育てなきゃ」「あそこも育てなきゃ」という状態から、「この困り感も、あの困り感も、すべて○○と繋がっていますね」という状態へ変わります。
ですから、発達相談でアセスメントを行っても、その時間に大きな違いが出るのです。
10分くらいで結論が出るご家庭もあれば、2時間以上かかるご家庭もあります。


子どもさんの困っているところをお聞きすると、「それってすべて内耳の発達と繋がっていますね」「背骨の過敏さが、全体的なストッパーになっていますね」というように展開する場合は、ヌケや未発達が少ないか、既に大部分が育ち直されたご家庭です。
反対に、運動発達も、呼吸も、感覚も、愛着も、背骨も、口も、脳の偏りも…という具合に、あれもこれもとなるご家庭は、まだまだ課題の本質、根っこに届きづらい状態です。


対人面、コミュニケーション、身辺面、身体の動きなど、表に出ている課題は多くあるのに、課題の根っこが1つに集約されている状態。
同じように、対人面、コミュニケーション、身辺面、身体の動きなど、表に出ている課題が多くあって、それぞれ別の根っこと繋がっている状態。
表面に出ている課題ではなく、その課題と繋がっている根っこを見抜くのがアセスメントになります。
神経発達症の子ども達が育っていく過程は、複雑から単純へ。


「複雑から単純へ」というのは、子どもが育っていく過程以外にも見てとれます。
たとえば、親御さんの特別支援との向き合い方です。
最初は、あらゆる情報を集める、あらゆる療育を受けさせる、あらゆる専門家のところに行く。
そうやって我が子の発達の遅れと向き合った瞬間から、どんどん複雑な方向へと進んでいきます。
そして子どもが発達・成長し、自分の中でいるいらないがわかってくると、単純化へ向かっていきます。
いらない情報は捨てる、いらない本は捨てる、特定のブログを読まなくなる、療育に通うのを止める。
結局、神経発達症は病気ではありませんので、シンプルに言えば各家庭の子育ての話です。
その本質に気づくと、余計なことをやらなくなり、子どもと純粋に向き合えるようになるので、発達が加速していくものです。


ですから反対の見方をすれば、複雑化を進んでいる親御さんは、子どもの発達を後押しすることが難しい状態だといえます。
そこら辺の支援者より情報をたくさん持っている親御さんがいます。
「どこにそんな時間があるの!?」と思ってしまうくらい、あちこちに顔を出している親御さんがいます。
支援者も使わないような資格を何万円も出して習得するような親御さんもいます。
以前は、子どもの障害が分かってから、大学に入り直す親御さんも少なくありませんでした(そして支援者や教員になる…)。
で、情報や知識、掛けた時間に反比例するように自分の子が伸びない。


何故なら、先ほども言った通り、神経発達症の本質は、子育てだから。
生き物としての土台である快食快眠快便を整えること。
安心できる家、生活、親子関係を築いていくこと。
そういった動物としてのシンプルな部分をないがしろにして、いくら情報や知識、資格を手に入れても、子どもの発達を後押しすることはできません。
発達相談でよく「私は、あんなお母さんみたいにはできない」と言われることがありますが、「あんなお母さんになる必要はありませんよ」と答えています。
私も多くの親御さん、ご家庭の発達相談を行ってきましたが、子育てを大事に頑張ってるご家庭の子が一番良く伸びています。


私の仕事、発達相談では、いち早く複雑から単純へと進めるように後押しすることだと考えています。
子どもさんの複雑な課題の根っこを、できるだけわかりやすく整理して伝えること。
子どもさんの課題の根っこが既にシンプルなものへと集約されてきているのなら、それを伝えること。
神経発達症は、神経をより良く育てることが重要なのであって、対処療法が求められているわけではないと伝えること。
どんな知識、情報、資格、専門家も、集めるのは親御さんの趣味であって、子どもにも、子どもの発達にもほぼ無関係だと伝えること。
あれこれやり過ぎると却って、本人が育てたいところが十分に育てられず、また神経ネットワークを作る"間"ができないために発達の滞りが生じると伝えること。


人は不安になると、なんでもかんでも集めたくなる性質を持っています。
マスクはウィルスを通すのに、必死に買い集めようとしている人たちがいまだにいます。
マスクは症状がある人がするものであって、無症状の人が、健康な人がわざわざつけるものではありません。
本当はそういった真実も知っているのに、まだ外さないのは、周囲の目が気になるから。
結局、必要がない療育に通わせているのは、うちだけ通わなくなった場合に向けられる周囲の目を気にしているだけ。
そういったくだらない意識のために、子どもの貴重な時間を消費しているのです。


あらゆることに複雑から単純へは当てはまります。
素晴らしい専門家、実践家ほど、子どもの発達を後押しできている親御さんほど、言っていることがシンプル。
ややこしい物言いをしているのは、本質が見えていない人の特徴ですね。
権威や専門家、専門知識と用語を求めるのは、不安だから。
不安な人は複雑を求めます。




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【業務連絡】
9月22日・23日に訪問させていただいたご家庭の皆様、昨日、報告書を郵送いたしました。目を通されて質問したいこと、さらに相談したいことがございましたら、メールください。お返事いたします。どうもありがとうございました!


2020年9月18日金曜日

【No.1102】どの本にも書かれている「家庭のような自然な環境を作る」という配慮事項

多くの支援者と同じように、私も最初から身体アプローチを中心に据えていたわけではありません。
私が学生時代には、既に日本におけるTEACCHの先進地域として突っ走っていた当地です。
TEACCHは、何度もトレーニングを受け、いくつかのレベルの認定証を貰っています。
ソーシャルストーリーも、コミック会話も、PECSも、同じような認定証を貰っていますので、その認定証をもとに支援者の指導はできませんが、私自身が実践するにはお墨付きがあるわけです。


それくらい勉強してきた私ですから、標準療法に関する書籍や論文はある程度、読んできました。
そこで面白いのが、環境設定に関する記述です。
いろんな療法、アプローチがあり、診断やアセスメントの種類がありますが、共通して主張されていることがあります。
それは、「家庭のような自然な環境を作ること」です。
今、私が家庭支援を中心に行っていますので、改めて見ると、笑ってしまいますし、私の仕事の方向性は間違っていないのだと思います。


「診察室は、子どもたちにとって慣れない場所なので、検査者の準備と環境設定、提示の仕方が重要になる」
「診察室では、普段、見せない姿が出ることがあるので、注意して観察する必要がある」
「子ども達が家庭のように自然な姿、動きが出るように、療育部屋は家にあるようなものを配置する」
だったら、家でアセスメントすればいいじゃん。
だったら、家で療育すればいいじゃん。
そうは思いませんか??


自閉症の子ども達は、場所によって見せる姿が異なる、と言われています。
ですから、診察室で見せる姿と家で見せる姿が異なっていてもいいはずです。
というか、幼い子どもなら、いつもと違う場所に行けば、テンションが変わるのが普通です。
でも、診察した医師に、「いや、家だと〇〇ができるんです」と訴えても、「それは違う」と全否定されるなんて話はよく聞く話です。
片方では、自閉症の子ども達は場所によって能力が異なると言いつつ、家でのアセスメントは行っていないし、情報としても医師の所見と対等には扱ってくれない。
始まりは家庭生活の中で困ったことが起きていての診察になるのですから、本来なら家に専門家がいってアセスメントするべきだと思います。


療育に関しても、どうして、わざわざ施設に出向いて受けなければならないのでしょう。
幼い子にとっては、移動も負担になります。
親子共々、電車を乗り継ぎ、ヘトヘトになって療育機関に向かう。
幼稚園や保育園の時間を削って。
夕食や掃除など家事の時間を削って。
兄弟との時間を削って。
それでいて、トランポリン??バランスボール??やっているのかやらされているのかわからないカードゲーム??
家のトランポリンのほうが、思う存分、跳び続けられると思いますが…。
バランスボールで揺れているのなら、近所の公園に行ってブランコに乗っていたほうが早いと思いますが…。


施設側も「家庭のような雰囲気づくり」を謳っていて、やっていることも家でできることばかり。
結局、診断も、療育も、家でできることをわざわざ来てもらってやっているんですね。
それじゃなきゃ、お金にならないし。
あと、どの専門書を読んでも、根底に流れているのは、専門家たちの「専門家じゃなきゃできない」「家では、つまり、親は無理」という傲慢さだと感じます。
TEACCHでいえば、初期の頃は専門施設に来てもらって、そこでアセスメントをやり、指導の仕方を見極め、その後、支援者が家に行き、親御さんにレクチャーするという流れがあったのですが、いつの間にか、特に日本ではそんなことをやっているところはありませんね。


診断も、検査も、療育も、いろんな考え方、流派がありますが、みなさん、「家庭的な雰囲気」を環境づくりのポイントとして挙げています。
わざわざ家庭的な雰囲気を作らなくても、家庭ならその必要はありません。
そして、子どもからしたら、どこの誰かも知らないおじさん、おばさんにあれこれされるよりも、親御さんからアプローチされたほうが受け入れやすいに決まっています。
「最初の数回は、無理にセッションを行おうとせず、子どもとのラポートを築くように努める」なんてことも言っているくらいですから、だいたい1年くらいの付き合いにあるおじ&おばさんと信頼関係を築く必要はないでしょう。
というか、その時間、保育園や幼稚園、公園や家で過ごしていたほうが、よっぽど発達、成長に繋がります。


こうして見ると、既に診断、検査、療育は、産業の一つになっているんですね。
同じ効果があるのなら、家庭で、それも親御さんができたほうが良いに決まっています。
それなのに、そこをやろうとしない。
相変わらず、人工的な空間に親子を呼び、そこでなんか特別なことをやっている感を出しているだけ。
本来、ペアレントメンターが、そういった役割を果たすべきですが、結局、支援の勧誘、専門家の下請け機関にしかなっていません。
標準療法も、創始者の考え、アプローチは素晴らしいのですが、どうも太平洋を渡る間に、人為的な変異が起きてしまうんですね。


家庭で、子育ての中で、親子の関わりの中で、子ども達の課題が解決し、よりよく育っていくのが理想だとは思いませんか。
というか、それが自然な話だと思います。
発達に遅れがあるのは病気ではないので、どう考えても、子育ての話なのです。
その子育てを、より良いものになるように、それこそ、親御さん自身も成長していけるように後押しするのが、専門家の本来の役割だと思います。


この前も、年端もいかない子に、「ここに通う回数を増やした方が良い」なんていう支援者がいました。
療育の前に、子どもの健康だろ、安心できる時間と環境だろ、親子の愛着形成だろ、と私は思います。
本当に子どもの発達を考えている人は、頻繁に診察室、検査室、療育施設に呼ばないものです。
むしろ、減らしていき、負担が軽くなるように努めるものです。
支援者である前に、親子の時間、家庭での時間、家族での育みを一番に考える人でありたいと私は思っています。




2020年9月17日木曜日

【No.1101】療育はずっと前からマスク姿だった

大人の私達だって、マスク姿の人間を見れば、異様に感じるのですから、子ども達はさらにその異様さを感じていると思います。
特に、言葉を獲得する前の段階にいる乳幼児さんからすれば、顔は大事な情報源です。
生きるための情報を得るための顔、言語&コミュニケーション&社会性を育むための顔が、半分隠れている。
その影響は、新型コロナが終息したあとも、子ども達の発達の中に残り続けるでしょう。


幼少期の養育環境が、自閉症やADHDなどに見られる症状を作る、というのは有名な話です。
海外でも、日本でも、そういった研究結果がとっくの前に出ています。
研究対象が養護施設の子ども達ではありましたが、母子間の濃密な時間の欠如が発達を歪ませていくのだと思います。
何故なら、養護施設を出て、里親の元で育てられた子ども達には、そういった症状が消えていく子が多いからです。


コロナ禍でググッと育った子ども達が多かったのは、親子間の濃密な時間が過ごせた、という点が大きいと考えています。
やはり人間には、1対1という関係性の中で育つ部分があるのだと思います。
というか、そういった原始的な、動物的な育ちが必要なのでしょう。


以前、相談があったご家庭は、とても熱心に幼少期から療育機関にあれこれと通っていました。
月曜日はここに行って、火曜日はこの先生のところで、水曜日は…という具合に、我が子の発達にプラスになることを、と頑張っておられました。
お子さんの発達を確認しますと、確かに最初の頃よりは育っていると感じました。
でも、大事な愛着関係が育っていません。
療育施設では順応しているのに、家に、親御さんに順応していない感じです。
それをみて、専門家は「自閉症ゆえの対人スキルの欠如」というかもしれません。
でも、私にはそうは見えませんでした。


0歳から3歳くらいまでは、親御さんと濃密な1対1の時間が必要です。
さらに強すぎる刺激も、発達に繋がるどころか脳、神経へのダメージにつながります。
今でも妊娠中の母親教室などでは、「誕生後、1年間は静かな環境を作ってください」と指導されますので、それくらい赤ちゃんの脳や神経は影響を受けやすいのです。
それなのに、一度、発達の遅れのラインに乗ると、「早期療育」が最優先となり、母子の濃厚な時間よりも、乳幼児の脳を守る静かな環境も、どこかに行ってしまう。
はっきり言って、定型発達の一番後ろのほうを歩いている子を、個性の範囲での発達の遅れの子を、一時的な発達の遅れが出ている子を、障害児にしているのは早期診断、早期療育を進める人間だということが少なくないのです。
療育機関に通う回数を減らし、親子でゆっくり過ごすようになったら、発達の遅れを取り戻し、一般的な幼稚園、保育園に通えるようになった、なんてことはよくあることなのです。


2000年代以降、早期診断、早期療育が押し進められてきました。
今では1歳代のお子さんも、療育に通っています。
でも、最初の頃に早期診断、早期療育を受けた今の若者たちはどうでしょうか。
将来の自立のための早期診断、早期療育だったのに、どのくらいの若者が自立できているのでしょうか。
未だに福祉を利用し続けている若者たちをみると、むしろ、彼らは気づかれなかった方が自立できたのではないか、将来の可能性の幅があったのではないかと思うのです。
世の中を見渡せば、発達の凸凹を抱えつつも、自立している大人たちがたくさんいるのですから。


療育というのは、受けている子ども達の目からみれば、顔の半分がマスクに覆われているようなものなのでしょう。
濃密な1対1の関係性での育ちが得られるわけではなく、原始的な、動物としての発達刺激が得られるわけでもない。
子どもの発達全体を育んでいるのではなく、「ここを見なさい」と部分を見せられ、切り取った刺激を渡され続ける。
それじゃあ、ただでも凸凹がある子が、さらに凸凹が大きくなってしまいます。


私は思うのです。
やはり原始的な刺激でしか埋まらない発達段階というのがあるのではないか、と。
あるご家族は、自粛期間中、近所の海に毎日、出かけたそうです。
何をするわけでもなく、とにかく子どもと一緒に過ごし、遊んだ。
子どもさんは、砂を触ったり、海の水を触ったりするだけだったけれども、その後、ドカンという発達が起きたそうです。
いろいろ発達援助をしているけれども、それにしては伸びていかない、というご相談があったご家庭。
たぶん、進化の過程での魚類、海との時間、戯れ、信頼関係が築けていなかったことが、発達のストッパーになっていたのだと思います。


療育や支援を利用するにしても、原始的な育ちの時間は保障してあげなければなりません。
海、泥、砂、植物、虫、太陽。
これらは700万年、ヒトにとって重要な発達刺激でした。
同時に、未熟なままの脳・神経・身体をもって生まれてくるヒトにとって、1対1の濃密な関係性と時間が生きるためにも、人間として生きるためにも、必要でした。
1対1の濃密な関係性と時間が保障されていない子に、社会性が育つわけはありません。
養護施設で育てられた子のように、自閉症やADHDの症状は環境によって作られることがあるのです。


まさに今、社会性を育み始めようとしている子ども達がいる親御さんには、よく考えてもらいたいと思います。
マスクをつけて子育てを続けるのか、子ども達はマスクが当たり前の社会を生き続けていくのか。
「他人の表情が読めない」「他人に対する意識が乏しい」「言葉の遅れ」「一方的な関わり方」という子ども達が、今後数年、増えていくでしょう。
子どもの発達を奪うのも、守るのも、大人たちなのです。




2020年9月16日水曜日

【No.1100】雰囲気の言語化

施設で働き始めた1年目。
先輩職員たちは、利用者さんの未来を次々に当てていました。
「ああ、30分後くらいにパニックになるかもね」
「今晩は寝ないと思うよ、〇〇さん」
「週末は荒れるから気を付けてね」
「発作がそろそろくるよ」
ビックリするくらい、よく当たりました。


知的障害や行動障害が重く、ノンバーバルな利用者さんが多かった施設です。
本人たちから訴えることはほとんどなく、私から見れば、どの変化も突然のように見えました。
ですから、先輩職員にその前兆はどこから見えるのか、何に注目しているのか、尋ねました。
当然、マニュアルのようなものがあるわけではなく、その職員の経験とカンが主であり、教えてくれた内容も人それぞれ違いました。
排泄や睡眠の状態、特定の行動の頻度、水を飲む量、こだわりの強さ、余暇の過ごし方など、本当に様々でした。


これらは、私達、他人が外部から見て確認できることです。
なので、私も年数が経てば、この前兆に気づくことができるようになりました。
でも、やはり先輩たちのようにはいきません。
きっと目に見えること以外でも、察しているんだ、先輩たちは、と私は思いました。
そして私は気づいたのです。
本人たちの声を聞いているんだ、と。


声というのは、言葉ではありません。
リズムだったり、発し方だったり、大きさだったり、音程だったり…。
今振り返れば、動物の発声の部分だったと思います。
どういった響きをしているかに意識を向ければ、なんだか本人たちが訴えていることがわかるような気がしてきました。
たぶん、言葉の段階では伝えられなかったとしても、発声という言葉以前の段階では訴えていたのだと思います。


私達、支援者は、『雰囲気』という言葉をよく使います。
それは、こういった発声の響きであったり、表情であったり、動きであったり、佇まいであたったり。
「今日、〇〇さんの雰囲気良くないね」
「そうですね。雰囲気がまずいですね」
なんていう会話もしょっちゅうしていましたので、目に見える変化と目に見えない雰囲気を私達職員は感じて判断していたんだと思います。


私のベースは、施設職員として働いた7年間です。
ですから、発達相談においても、本人の声、響きに注目しています。
言葉は文化ですので、どういった環境にいたかに大きく左右されます。
なので、どんな言葉を知っているか、どんな言葉で表現しているかは、ほとんど注目していません。
それよりも、言葉のあるなしに関わらず、声の響きに注目しています。


今はあの時とは異なり、人間の発達や身体の勉強もしましたので、どういった感情が乗っているか以外にも、発達の観点で見るようにしています。
声が細ければ、呼吸の遅れを。
詰まったような声ならば、首の課題を。
唸るような声ならば、内耳の未発達を。
混じった声ならば、舌の未発達を。
言葉に間があれば、脳の未分化、脳梁の課題を。
もちろん、これらは例えですし、発達はこんなにスッキリ因果関係が明確になりませんのでお間違えなく。


施設で働いていた頃、「あの職員だから、寮内が落ち着いている。誰々さんが問題を起こさない」という話が嫌いでした。
私は、そういった職員には、言語化できない何か雰囲気みたいなものがわかっている、察することができているから、事前に対処できているんだと思っていました。
ですから、支援者の言う「雰囲気」という言葉を言語化することが大事だと考えています。


私の今の仕事もそうです。
大久保を呼んで、アセスメントや援助をしてもらったから、「良くなった」とは思ってほしくありません。
私が見ている雰囲気を言語化しなければ、「大久保だからできる」「専門家だからできる」「(素人の)私にはできない」と勘違いさせてしまうからです。
ですから、実際の発達相談では、私が感じている雰囲気を言語化するように努めています。
その1つが言葉ではなく、発声、声の部分です。


耳にタコができる話になりますが、神経発達症の人達の課題の根っこは、言葉以前の段階にあります。
つまり、文化が侵入していない部分。
どんな言葉を話し、どんな文字を書き、どんな知識を持っているか、は発達援助で見るべきポイントではありません。
文化の影響を排除した部分を見なければなりません。
それが食べ物であり、排泄物であり、睡眠、顔色、動き、身体のバランス、筋肉の張りとなっていきます。
さらに目に見えない声の響きなどの雰囲気も見る必要があります。


私が施設で学んだこと、培ったことを社会に貢献することが重要だと思っています。
現代社会において施設は負の側面が大きくなりました。
しかし、このような職員の中で脈々と受け継がれていったことは、とても貴重な知見だと思っています。
「雰囲気の言語化」
これは私の仕事のテーマでもあります。