投稿

1月, 2018の投稿を表示しています

愚痴から不快への発達

愚痴ばかり言っていた人が、ある日を境に雰囲気が変わってくる。 愚痴から不快への変化。 愚痴は湿っぽいが、不快には湿っぽさがない。 言葉に湿り気が取れてくると、耳を傾けている方も、発している本人も快へと向かい始める。 本人でも、親御さんでも、支援者でも、愚痴を言っている人は治らないし、治せません。 愚痴を言っている段階は、まだ発達の階段を上り始める準備ができていないと感じます。 ですから、具体的な発達援助の前に、その愚痴を言わざるを得ない状態と状況の解決を目指します。 それまで愚痴だったのが、「これこれが嫌だ」という風に、はっきり不快なことを言えるようになると、発達援助開始の合図になります。 私は自分の中で、このことを「愚痴から不快への発達」と呼んでいます。 愚痴は、その状況、状態から始まる受け身であって、垂れ流し。 でも、不快には、自分が何を不快に思うかという内側からの始まりで、そこに主体性があります。 だから、私はきちんと自分の不快を表明できる人を見ると、主体性を感じ、ヒトが持っている発達、成長へ向かう快に歩んでいけると思うのです。 発達と成長は、ヒトの本能的な快だと考えています。 よって、不快に感じるのは、その発達と成長を妨げられた状況と状態に対してだと思います。 伸びやかに発達、成長していきたいのに、それが叶わないから不快だと感じる。 妨げているものが明確に見えている人ほど、カラッとした表現で不快を述べます。 不快の対象をはっきり掴んでいる人は、快へ向かうエネルギーが満ちている。 一方で、愚痴の段階を抜け出せない人は、不快の対象を掴み切れていない。 だから、治る方向へと進めないのです。 「愚痴ばかりだった人が、ちょっと雰囲気が変わった」 それは状況、状態が改善したのかもしれないし、主体性が育ってきたからかもしれない。 そんな視点で見ていくと、私達の援助の仕方も変わってくるかもしれません。 愚痴と不快の表明は、分けて考える必要があります。 何々が不快だとはっきり述べることは、問題行動ではなく、「快へ向かいます」というその人の主体的な行動の表れなのですから。

不快も大事な感覚の一つ

確かに今年の冬の寒さは厳しい。 しかし、着ぐるみのような完全防備の格好でいる幼子を見かけると、勿体なく思えてくる。 数年に1度、数十年に1度の寒さを味わわなくて良いのだろうか。 あなたたちの神経は、今まさに体内でダイナミックな動きをし、きっと様々な刺激を味わいたいと思っているはずなのに。 寒さ、冷たさは、不快な刺激であり、不快な感覚として刻まれるかもしれない。 でも、不快な感覚も、大事な感覚ではないだろうか。 不快を知ることで、快を知ることもあると私は思う。 近頃、「自分の快がわからない」という人が増えたような気がする。 これは、ヒトが環境をコントロールし続けた顛末であり、ヒトが不快を忌み嫌い過ぎた結果でもある。 快を求め過ぎた結果、自分にとって何が快なのか、わからなくなってしまっているようにも見える。 幼い頃より、快の感覚と同じように、不快の感覚も育てる必要があると思う。 感覚に幅ができる。 幅のある感覚は、同じ刺激を何倍も味わわせてくれる。 幅広い刺激は、その人を土台から持ち上げ、底の方から発達、成長させる。 不快も、ヒトを育てる。 不快の刺激を肌身で受け取り、不快の感覚を育むと、快がより立体的になってくる。 不快は、快を求める源であり、自分の快を深く知る始まりである。 だからこそ、幼い子は選択せず、自然のまま全身で受け止めるのが良い。 不快を十分に味わえなかった大人は、不快な状況に「不快だ」とはっきり述べることが、自分の中にある快を知る近道となる。 感覚として掴めなかったとしても、状況として掴める人は多い。 不快な状況を頭で処理しようとすると、いつまで経っても、自分の快がわからない。 不快を知ることで、快を知る。 不快を味わうことで、快を求める。 快を求める動きこそ、能動的で、主体的な動きである。 不快を知り、快を知っているからこそ、選ぶことができる。 自分の内側にある感覚で選択していけるから、主体的で味わい深い人生となる。 外から借りてきたものでしか選択できないとしたら、それこそ、借り物の人生。 不快も大事な感覚の一つである。 子ども達、寒いから外で遊ぼう。

指示通りに動く人を育てているのは誰か?

昨日、訪問したお宅でおばあちゃんがこんなことをおっしゃっていました。 「若い子たちを見ていると、言われたことはちゃんとできるんだけど、それ以上がないよね」 「私が小さい頃は、“同じ仕事だとしても、どうしたらより早くできるようになるか考えなさい”って親から厳しく言われたもんだよ」 そういえば、私も子どもの頃は同じことを言われて育ちました。 だから当たり前のように、仕事でも、趣味でも、生活面でも、「どうすれば、より効率的にできるか」「どうすれば、もっと上達できるか」を考える癖がついているのだと思います。 と言いますか、昨日お話しするまで意識することはありませんでしたし、社会人は、仕事人は当たり前の姿勢だと思っていました。 ですから、我が子にも、発達援助で関わっている子ども達、若者たちにも、「どうすれば、もっと早くできるようになるだろうか?」「どうすれば、もっと上手にできるようになるだろうか?」と考えてもらうようにしています。 また少しでも上達しようとする姿勢が他人から魅力的な姿に見えること、そして、そういう姿勢が自分自身を成長させ、同じ場にいる人達の良い刺激になることも伝えるようにしています。 親御さんからの相談の中に、「言われたことしかできない」というものが少なくありません。 中には、「自閉症の特性だから仕方がないかもしれないんですが…」と言われる方もいます。 でも、自閉症だから言われたことしかできない、わけではないと思いますね。 上記のように、よりうまくできるようになるために考えることを学んだ子達は、きちんと自分で考えるようになるし、試行錯誤だってするようになります。 なので、できないのではなく、知らないというのが真実だと思います。 「言われたことしかできない」という親御さんに、私はいつもこう返しています。 「言われた通りに動くことを教わってきたのではないですか?」 「言われたこと以外をしないように教わってきたのではないですか?」 「だとしたら、彼は大人たちが求めるように成長されたんじゃないでしょうか」 「曖昧な表現や指示が、自閉症の人達を混乱させる」 私もそう感じることがあります。 だからこそ、多くの人は曖昧な言葉を使わないようにし、混乱が生じないような支援グッズへと進んでいったのだと思います。 自閉症支

自分のものさし、他人のものさし

私は子どもの頃から「頑張ってるね」と言われるのが嫌でした。 なんだか、自分の力の範囲を他人に決められているような気がしたからです。 「頑張ってる」は、言った人のものさしであり、見え方でしかありません。 実際、自分では頑張っているつもりはなくても、そう言われることがありました。 だから私は、「頑張ってるね」と言われると、「まだまだこんなものじゃない」と次へと進むエネルギーに変えていました。 大人になって私も落ち着いてくると、「頑張ってるね」と言う人を深く見るようになりました。 社交辞令のように言っている人もいれば、「こういえば相手は喜ぶだろう」と思って言っている人もいました。 自分のものさしで言っている人もいて、そういった人は自分自身の上限を決めているような人に見えてきました。 「頑張ってるね」と言う人の多くに悪意はなく、むしろ善意で言っていることが多いと感じます。 でも、この仕事をするようになって、「頑張ってるね」は注意して使わなければならない言葉だと思うようになりました。 私のように、「頑張ってるね」と言われて反発できるような人は良いと思います。 しかし、主体性が育っていない人、他人軸で生きている人、内部感覚に乏しい人は、「頑張ってるね」が自己規定になってしまう危険性があります。 「私からあなたは頑張っているように見える」という意味が、「これがあなたが頑張っている状態です」と変換されることもあるのです。 もしかしたら、その人の可能性はまだ先にあるかもしれないのに、もう一歩頑張れれば、一回り大きくなった自分に会えたかもしれないのに、他人のものさしを自分のものさしにしてしまう危険性…。 子ども達には、頑張ることの大切さと、頑張れる自分を誇りに思える心を育んでほしいと思っています。 他人から「頑張ってるね」と言われて頑張るのではなく、頑張る自分が好きだから頑張れる人です。 ですから、私は上記のような成長途中の子には注意して言葉を使います。 ただ「頑張ってるね」ではなく、「私には、〇〇くんが頑張っているように見える」と言います。 そして、「〇〇くんはどう思う?」と、自分自身の感覚に注意を向けるよう導きます。 まだできそうな気がするのか、もういっぱいいっぱいの状態なのか、そういった自分の感覚が主体的に生きていくには必要だ

渡る特別支援は鬼ばかり

冬の時期は朝起きると、窓に水滴がたくさんついています。 その水滴をきれいにとるのが、一日の始まりです。 今朝は、そんな水滴が凍っていました。 近頃は「南の島で暮らしたい」「雪のない土地に移住したい」が口癖になっています。 早く春が来てほしいものです。 げんなりするような氷点下の毎日に耐えられるのは、春が訪れることを知っているからです。 もし年によって春が来たり、こなかったりしたら、私は耐えられないと思います。 九州生まれの私にとって、冬の唯一の楽しみは次に春が訪れることです。 子ども達の発達というのは、直線的ではありません。 それまであまり変化のないように見えていたのに「急にグッと成長した」なんてことはよくあります。 私も実際に接していると、「子どもの内側でじわじわと神経がつながり始め、つながった瞬間パッとできるようになる」そんな感じに見えることが多々あります。 ですから、変化がないように見えても、効果がないように見えても、子ども自身がその発達課題をやりきるまで、神経をつなげ広げるまで、信じて待つことが大切だといえます。 子どもの発達、成長を信じて待つのは、親御さんも一緒です。 しかし、我が子との一対一の関係になりますと、どうしても不安に思ってしまいます。 外から見て成長が感じられない時間が続きますと、「やりかたがまずいのかもしれない」「このまま成長しないのかもしれない」と頭の中で不安な感情がグルグルしてしまう。 暖かくなり、雪が解け、植物たちが芽を出し始めることがわからなければ、不安がつのっていくのは自然なことです。 だからこそ、支援者は春の訪れを伝えられる人でなくてはならないのです。 初めて障害と向き合い、どのように発達、成長していくかが想像しづらい中を歩く親御さん。 しかも発達が直線的ではなく、ある日突然、急激なカーブで表れますので、なおのこと、変化が見られない時間は長く感じます。 さらに、本来はその不安を和らげる立場である支援者が、弱った時期を嗅ぎ分け、甘い言葉を囁いできます。 「頑張らなくて良いんですよ~」 「一生涯の支援がこの子達には必要なんですよ~」 そして時には「無理させたら、二次障害になりますよ!」「障害を受容できていないよ、母さん!」と厳しい言葉を投げかけ、DVのように洗脳し、逃げられな

支援者間に溢れる動きを止めようとする言葉

今朝のNHKあさイチは、どちらの方の言葉に熱があり、心を動かす力があったかといえば、一目瞭然でしたね。 質問されたことに対して、ギョーカイの論理を述べるだけしかできず、まったく噛みあっていなかった方と、目の前にいる一人ひとりに語り掛けるように真摯に答えていた方。 私は南雲さんの講演会に一度行ったことがあるのですが、やはり南雲さんの言葉はLIVEで感じるのが良いと思いました。 全国を飛び回り、講演をされている方ですので、是非、皆さまもお話を聞きに行かれたらよろしいかと思います。 南雲さんのように、子ども達や親御さん達を励まし、勇気づけ、次の一歩へと動き出すのを後押しする支援者が、どの地域にもいて欲しいと思います。 しかし、聞こえてくる話では、子ども達、親御さん達の自発的な動きを止める支援者ばかりです。 支援者に相談しに行ったら… 「心配し過ぎですよ、お母さん」 「成長していけば、きっと良くなりますよ」 「今は温かく見守ってあげることが大事です」 「頑張りすぎるのも、よくありませんよ」 などと言われた、というのはよく聞く話です。 こういった話を聞くたびに、私は「どうして親御さんを信じないのか、親御さんの力を活かさないのか」と疑問に、いや、憤りを感じるのです。 昨日のブログのように、私は親御さんの直感を信じ、頼っています。 共に暮らし、共に歩んできた親御さんが「気になる」ということは、そこに重要な何かがあるのだと思います。 支援者はよく根拠のない「大丈夫」を発しますが、親御さんが直感的に大丈夫ではないと感じるから、相談に来るのです。 支援者の目には見えなくても、親御さんの目には、「このままいけば、まずいぞ」と感じる将来の我が子の姿が見えているといったこともあるのです。 焦る親御さんを見て、せせら笑う支援者の姿を腐るほど、私は見てきました。 「心配しなくても大丈夫ですよ~」 「頑張るお母さんの姿に、私達の方が頭が下がる思いですぅ~」 などと、親御さんに寄り添っているような“セリフ”を言う支援者。 しかし、親御さんが焦るのは、自然な親心があるからであり、直感が働いている証拠。 親として「このままではまずい」と感じるけれども、どうやって我が子を援助していけばよいかわからず、もがいている姿。 その姿が、周囲から焦ってい

親御さんの直感に勝るアセスメントはない

近頃は、「本業よりも、メール相談の方が多いんじゃないかw」と思うくらい毎日、せっせと返信の文章を書いています。 我が子のために、自分自身が担当している子のために、「利用できるものは利用しよう!」 そんな主体的で、積極的な姿勢、想いに対し、私は一番の喜びを感じますし、本気で応援しよう、後押ししようという気持ちが湧いてくるのです。 時々、「どうして会ったこともないのに、息子のことがわかるんですか!?」「まるで実際に見たかのようですね!」と驚かれることがあります。 キャリアの始まりであり、土台が、特性的にも、知的にも重い方達の支援であったことも関係しているかもしれません。 認知の面で、環境の面で、コミュニケーションが難しい方が多かったので、言語以外の雰囲気等で読みとる力は、仕事の中で養われていったのだと思います。 また特に行動上の困難を抱えている方は、その生きてきた流れ、ストーリーを感じとることができなければ、支援することはできませんでしたので、そういったことも私の今の仕事につながっているのかもしれません。 まあ、「見えないものを見る力がある」というある程度の自信がなければ、起業もしませんでしたし、「相談もお受けしています」とHPに載せていないですね。 限られた情報から雰囲気を感じるというのは、このように仕事を通して培ったものだと思います。 でも、メールの文面から子どもさんの様子が見えるのは、違う理由が大きいと考えています。 それは「親御さんの直感に勝るアセスメントはない」という信念があるからだと思います。 子どもと過ごす時間が長いのは、過ごした時間が長かったのは、親御さんです。 また寝食を共にしているのも、親御さんです。 過ごしてきた時間が長いというのと同じくらい、寝食を共にするというのは、とても大きなことだと思います。 それは入所施設の職員として寝食を共にした経験から言えることです。 我が子の生きてきた流れ、生命の営みを一番傍で見ていて、一番知っているのは親御さんをおいて他にはいません。 どう頑張っても、他人である支援者が親御さんより鼓動を感じるくらい素晴らしいアセスメントなどできっこないのです。 ですから、親御さんの内側からパッと飛びだしてくる直感に、どんな高度で専門的なアセスメントも勝てません。 アセスメントシートは

年齢軸の支援者、ただダメ出しするだけの支援者(?)

各地から届く相談メールを拝見していると、発達障害を持つ子ども達と相性の悪い支援者というのは、どこも似たり寄ったりなんだなと思います。 ずばり「年齢軸で支援、指導を行う支援者」ですね。 支援するかどうか、指導するかどうかの判断が、その子の年齢を軸に決めている。 そんな支援者というのは、発達障害を持つ子どもたちにとって、ただの迷惑な人、ただのおせっかいな人。 「この年齢なんだから、これくらいできなきゃダメ」 反対に「この年齢なら、目をつぶろう、やらなくていい、できなくていい」 自分自身の発達過程、状態が中心ではなく、年齢によって指導内容も、言っていることも変わっていくなんて、子ども達からしたら「勘弁してくれよ」ですね。 発達、そのプロセスが凸凹しているから発達障害と呼ばれるのであって、年齢や学年が1つ上がれば、同世代と同じように1つ発達、成長するのなら、それは定型発達でしょ。 こういった支援者を一言で言えば、「向いていない人」 もっと優しい言葉で言えば、ヒトとしての発達、人間としての成長が分からない人だと思います。 だからこそ、なんとなく想像できる年齢という軸を使って、仕事をしているのでしょう。 年齢軸はインスタントですからね。 滑り台を下から上る子を見て、「そんな年齢になっても、ルールが分からない子」と見るか、「小さいとき、ハイハイを飛ばしたのかな」「ずりばいを育てているのかな」と見るかは、大きな違いがあるといえます。 年齢軸の支援者が、下から上る子を注意し、WHATとHOWの支援者が「下からはバッテンです」と絵カードを見せて教えようとする。 でも、子ども自身は、自分の発達のヌケを育て直そうとしているのですから、発達を軸にした支援、指導、療育をしてくれる人を望みますね。 年齢軸の支援者の話の次に多いのが、ただダメ出しだけする支援者。 もうそれは「支援者」と呼ぶのもどうかなと思います。 ただダメ出しするだけだったら、誰でもできますね。 「〇〇ちゃん、こんなことができなかったんですよ~」 「〇〇くん、園で友だちに手をあげてしまったんです。すぐに手を出すのは直りませんね~」 これって一般の人の言葉です。 じゃあ、どうするか。 じゃあ、どうやって育てていくか。 どんなところに発達の遅れやヌケがあるのか。 そういっ

「元刑事が見た発達障害」(花風社)を読んで

イメージ
できることなら、14年前の自分に渡したい本だと思いました。 14年前の今頃、配属先が決まり、私は社会人の第一歩を入所施設の支援員として踏みだすのです。 私が働いた7年間は、障害者福祉の転換期だったと思います。 戦後から長らく続いていた措置制度から支援費制度への転換。 ノーマライゼーション、障害者の権利擁護、サービス提供者と利用者の対等な関係…。 急激な変化の波にのみこまれ、どうにか海面から顔を出そう、みんながもがいていたように見えました。 それまでずっと愛称で呼んでいた入所者の人達が、「利用者さん」という呼び名に変わりました。 とにかく利用者さんには、「怪我をさせてはいけない」「身体に触れるのは必要最小限にし、誤解を招かないようにしなければならない」「言葉使いも丁寧な言葉にするように」と、何度も、何度も言われました。 強度行動障害を持った人達がいた施設でしたので、「利用者さんを怪我させないで、自傷、他害、パニックを制止する方法」などという研修会もありました。 しかし、それを主催する管理職が本を片手に、しどろもどろに説明する姿を見ていると、社会の変化に福祉が追い付くのは、まだまだ先だと感じました。 私が働いた7年間は、旧来の福祉と新しい福祉が同居し、混ざり合おうとするけれども、混ざり合えない、そんな風に見えました。 現場に「ケガせず、ケガさせず」の方法を教えられる人も、実践できる人もいませんでした。 上司からは、「とにかく利用者に何かがあってはいけない」と言われます。 その言動から「支援者がどうなろうとも」という音のない言葉が、いつも聞こえてきました。 職員一人で15名、20名の利用者をみなければいけない環境。 そんな中で、上司からは「利用者だけは怪我させてはいけない」とプレッシャーを掛けられる毎日。 職員はただでも厳しい労働環境の上に神経をとがらせ続けないといけなくなる。 そして著者の榎本氏の言葉をお借りすれば、施設全体で「エネルギー戦争」に突入していたのだと思います。 職員が慢性的なエネルギー不足になり、利用者からエネルギーを奪う。 奪われた利用者は、自傷、他害という自己治療を始める。 その場にいた職員は、上司から責任を問われ、注意を受け、さらなるプレッシャーを掛けられる。 だから、「ケガせず、ケガさせ

動きを生む言葉

セッションの報告書、引き継ぎ資料を作成する際、「受け取った人に自然と動きが出るようなものを書こう!」と強く意識したのは、2016年に出版された花風社さんの『人間脳を育てる』という本を読んだからなんです。 いや、厳密に言えば、2つの言葉に出会ったから。 その言葉とは、「発達のヌケ」「回数券を使い切っていない子」です。 この言葉を目にしたとき、私は動きを感じました。 そして、この言葉は、本人や親御さん達に動きを生みだすと思ったのです。 それから、ずっとこの言葉を好んで使うようにしています。 自閉症や発達障害は、「先天性の障害」「風邪のように治らない」「一生涯の支援」などという無機質な言葉で表現されることがあります。 また、その言葉をそのまま丸飲みにしている本人、家族は多いです。 こういった方達は、皆さん、動きが失われています。 でも、「発達のヌケ」「回数券を使い切っていない子」という言葉を見聞きした瞬間、私が感じたのと同じように、自然と身体が動き始めるのです。 「発達のヌケ」と聞けば、「じゃあ、ヌケを育て直そう」と動きが出ます。 「回数券を使い切っていない子」と聞けば、「じゃあ、使い切れるよう後押ししよう」と動きが出ます。 私がこの言葉をお伝えすると、ぱっと顔が明るくなり、動き出そうとする親御さん、動きたくて仕方がなくなる本人たちの姿をたくさん見ました。 言葉には、動きを持った言葉が、人を動かす力を持った言葉があるのだと思います。 花風社さんは、自閉症、発達障害に関する書籍を多数出版されています。 「治す」という道を探り、求め、進まれていること。 次々に魅力的な人達を見つけ、その方達の知見を世に送りだしていること。 これが他の出版社さんとの違いであり、花風社さんの特徴だと思います。 しかし、一番の魅力であり、私が花風社さんから出版される本を買い続けている理由は、上記のような「動きのある言葉」「自然と動きの出る言葉」を多数届けてくれるからだと思っています。 花風社さんの本を読んで気がつくのは、つくづくギョーカイの届ける言葉というのは、自分たちを着飾る言葉であり、まったく動きを生まない言葉だということ。 「先天性の障害です」 「風邪のように治りませんから」 「一生涯支援が必要なんですよ」 これらの言葉は、「だ

封筒に想いを乗せて

イメージ
元日のブログ更新からだいぶ時間が経ってしまいました。 「おっ、とうとうネタ切れか」とほくそ笑まれた方もいらっしゃるかとは思いますが、別のことを優先して行っていたのでした。 私は、あるお子さんに向けて、あるご家族に向けて、レポートを書いていました。 これから家族が中心となって進めていく発達援助を後押しするためのレポートです。 私はこのレポートを書く際、2つのことを心に決め、作成していきました。 それは「ご家族が試行錯誤できる文章にすること」と「心を込めて文章を書くこと」です。 日頃から、受け取った人に自然と動きが出てくるような報告書を書こうと思っています。 文章を読んでいて、その人の頭の中に着想や試行錯誤が生まれない報告書は意味がないとも考えています。 定期的にお会いできない方ですし、今回が最初で最後の直接的な発達援助になる可能性が高いですから、なおのこと、私の書いたレポートがバイブルにならないように、私の書いたレポートがご家族のアイディアの範囲を決める枠にならないように気を付けました。 枠ではなく、自由で活発な試行錯誤を生むための踏み台というイメージです。 最初にこのご家族から依頼が来たとき、私はお断りしようと考えていました。 しかし、やりとりを行わせていただいている中、その言葉からご両親の想いが伝わってきたのです。 「我が子には、自分の人生を自分自身で選び、決めて、歩んでいく人になってほしい」 「そのためには、親ができることは何でもしたい」 そういった我が子を想う純粋な親心を見ました。 このご家族の元に伺う前日、私は花風社さんが主宰する栗本さんのコンディショニング講座『自発性・やる気は育ちますか?』に参加しました。 栗本さんの講演と実技、会場の方達の言葉と反応を感じている中で、私はこのご家族によって心も、身体も動かされたのだと思いました。 距離は離れていても、面と向かってお話ができなくても、想いは伝わるし、その想いは人を動かすことができる。 振り返れば、年末の私は、自らの意思で学び、やる気に溢れていました。 このご家族の想いが、私の自発性とやる気を引き出し、成長させてくれたのです。 当日は長い時間のセッションとなりましたが、私の感覚ではあっという間の一日だったように感じました。 そして何度も、自分の頭の

2018年も一人ひとりの命と真剣に向き合う発達援助!

イメージ
私は、どの親御さんにも、お子さんがお腹にいたころの様子、出産時の様子を必ずお聞きします。 この時期の話の内容は、とてもプライベートなことです。 親御さんによっては話すことに抵抗があったり、「もしかしたら自分のせいで」と傷つかれることも多々あると思います。 でも、私は敢えてお尋ねします。 それは親御さんを責めるわけではなく、発達に遅れが出た原因を探したいわけでもありません。 目的はただ一つ。 発達のヌケを育てなおすためです。 ギョーカイの支援者にとって、妊娠中の話、出産の話に触れることはタブーとなっています。 それは「発達障害は親のせいではありません」という戒律があるからです。 発達障害は生まれつきの障害であり、親の育て方でなるものではない。 古くは、親の愛情不足が自閉症の原因だと言われ、親御さんが責められていた時代がありましたので、その揺り戻しとして決して親御さんを責めるようなことは触れてはいけないと頑なになっているのです。 また職業支援者は、親御さんがお客様ですので、少しでも気分を害されるようなことには触れないのです。 目の前の子と真剣に向き合おうとしたら、生を受けた瞬間から今までのその子の物語を見る必要があります。 生を受けた瞬間とは、出産時ではなく、受精したその瞬間のことです。 その子の生きてきた物語の流れを知らずして、今の発達援助も、未来の予測もできるはずがありません。 ある一部分を切り取ったら、それは流れのない、生を感じない支援になるのです。 ですから、ギョーカイの支援とは、過去と未来とのつながりのないその場限りのものになっています。 定型発達と呼ばれている子ども達だって、順風満帆な順序通りの発達をしているわけではありません。 発達の凸凹は誰にだってある。 だからこそ、一人ひとりの発達の物語を見て、どこから、何から育てなおすかを知る必要があります。 医療が進歩し、以前だと生まれてくることができなかった子ども達がこの世に飛び出すことができるようになっています。 医療の進歩の歴史と人類の進化の歴史を比べると、とてつもない時間の差があります。 ですから、遺伝子レベルで変化に追いつけていないこともあるでしょう。 しかし、この世に生まれてきたことは素晴らしいことであり、一人ひとりがこの社会、未来を築い