2018年1月30日火曜日

不快も大事な感覚の一つ

確かに今年の冬の寒さは厳しい。
しかし、着ぐるみのような完全防備の格好でいる幼子を見かけると、勿体なく思えてくる。
数年に1度、数十年に1度の寒さを味わわなくて良いのだろうか。
あなたたちの神経は、今まさに体内でダイナミックな動きをし、きっと様々な刺激を味わいたいと思っているはずなのに。


寒さ、冷たさは、不快な刺激であり、不快な感覚として刻まれるかもしれない。
でも、不快な感覚も、大事な感覚ではないだろうか。
不快を知ることで、快を知ることもあると私は思う。


近頃、「自分の快がわからない」という人が増えたような気がする。
これは、ヒトが環境をコントロールし続けた顛末であり、ヒトが不快を忌み嫌い過ぎた結果でもある。
快を求め過ぎた結果、自分にとって何が快なのか、わからなくなってしまっているようにも見える。


幼い頃より、快の感覚と同じように、不快の感覚も育てる必要があると思う。
感覚に幅ができる。
幅のある感覚は、同じ刺激を何倍も味わわせてくれる。
幅広い刺激は、その人を土台から持ち上げ、底の方から発達、成長させる。
不快も、ヒトを育てる。


不快の刺激を肌身で受け取り、不快の感覚を育むと、快がより立体的になってくる。
不快は、快を求める源であり、自分の快を深く知る始まりである。
だからこそ、幼い子は選択せず、自然のまま全身で受け止めるのが良い。


不快を十分に味わえなかった大人は、不快な状況に「不快だ」とはっきり述べることが、自分の中にある快を知る近道となる。
感覚として掴めなかったとしても、状況として掴める人は多い。
不快な状況を頭で処理しようとすると、いつまで経っても、自分の快がわからない。


不快を知ることで、快を知る。
不快を味わうことで、快を求める。
快を求める動きこそ、能動的で、主体的な動きである。


不快を知り、快を知っているからこそ、選ぶことができる。
自分の内側にある感覚で選択していけるから、主体的で味わい深い人生となる。
外から借りてきたものでしか選択できないとしたら、それこそ、借り物の人生。


不快も大事な感覚の一つである。
子ども達、寒いから外で遊ぼう。

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