2019年9月29日日曜日

『発達障害でも働けますか?』を読んで

就職に関する相談では、ほとんどの方が「発達障害、アスペでも働けますか?」「コミュニケーションが苦手なんですけど、働けますか?」というようなことをおっしゃいます。
中には「まだ一回も働いたことがないのですが、働けますか?」という相談もあります。
さらに、こういった言動は、本人からだけではなく、一緒に相談に来られた親御さんからも聞かれるのです。


こういった発言が、本人、親御さんから多くあるというのは、それだけ否定されることが多かったのだと想像します。
「発達障害があれば、一般就労は無理」
「自閉症は、コミュニケーション力が求められる仕事はできない」
「一般就労で無理すると、二次障害になる」
「働くことだけが人生じゃない」
社会に出ようとすると、急に“ないない”だらけの支援になる。


学校を卒業するまでの間は、本人ができるように、本人が失敗しないように、支援という名の接待のもとで、やれること、やりたいことをやり、一方でやれないこと、やりたくないことは「やらなくていい」と言われたり、やる機会さえ貰えなかったりした。
ですから、一般の人が就職活動する以上に、仕事、働くこと、社会が怖く見えてしまう。


経験、体験していないことを想像するのが苦手。
そのため、どうしても近しい人の情報をそのまま受け取り、偏ったイメージを持ちやすい。
だからこそ、「発達障害でも働けますか?」というような相談を受けると、近しい人から「発達障害を持つ人は働くのが難しい」と言われたのだと思います。


支援ミーティングなどに参加すると、学校の先生や相談員、カウンセラーなどの人達から、「その仕事は難しい」「一般就労は無理だろう」などという発言が聞かれます。
本人が一般就労を希望しているのに、採用試験すら受けさせるのを止めさせようなんてザラです。
一般就労できるかどうか、は先生や医師、支援者、専門家が決めることではありません。
採用を決めるのは、その企業の人。
こういった専門性を謳った非常識なやり取りが、今日もどこかでなされているのでしょう。


支援者の中には、福祉的就労に持っていくことで評価を得たり、次年度の運営費を得られたりするために、一般就労を阻む人達もいるのは確かです。
でも、ほとんどの支援者、学校の先生たちは、良かれと思って、一般就労を止めているように感じます。
就職して、仕事場で不適応を起こし、二次障害になったという話から、想像を膨らませて。
本人に辛い想いをさせないために、福祉的就労を勧める人達がほとんどだといえます。


教育も、福祉も、医療も、民間の要素よりも、公務員的な要素が強く出る仕事だと思います。
営業してお客さん、契約をとってくるような仕事ではありません。
毎年、一定人数のお客さんが来るのは決まっているので、それに対して、一つずつ対処していく。
民間ほど、質や量にこだわらない。
だとすると、どうしても大多数の民間企業の働き方、空気感に実感が伴わず、疎くなってしまいます。
意地悪な言い方をすれば、民間企業のような働き方が合っていない人、好まない、馴染まない人が、当事者の周りを固めているので、ネガティブな情報に偏りやすいというのもあると思います。
福祉系の大学、専門学校を出て、すぐに就労支援、相談窓口をしている人もいるくらいですし。


私が相談を受ける中でも多く聞かれる「発達障害でも働けますか?」という質問。
まさに、そのまま、それに答えてくれる本が、花風社さんから出版されました。
もちろん、これは「Yes」「No」といった単純な回答という意味ではなく。


就職に関する相談は、まず誤学習や偏った認識を崩すことから始まります。
「コミュニケーションが苦手なんですけど」「体力的に不安なんですけど」「ちゃんと働ける自信がないんですけど」
そういった本人の発言一つ一つに対して…
「どんなコミュニケーション、人との関わりが苦手なの?」
「その苦手さは、発達障害だから。それとも経験不足?失敗した経験があるから?」
「希望している仕事は、どの程度、コミュニケーション力が求められるの?」
など、とにかくツッコミを入れながら、どこが事実で、どこが想像か、思い込みかを明確にしていきます。
「〇〇さんは、その企業を背負って立つような立場ですか?」
「新人の内から失敗しないことを求める企業はないですよ」
「そのレベルは、仕事に必要なレベルではなく、お笑い芸人のようなコミュニケーションレベル」
ときに、妄想ぐらいに膨らんだ仕事感を否定するのも必要になります。


『発達障害でも働けますか?』の中では、元営業マンで、現臨床心理士として働く人達の支援に携わっている座波淳氏が、明瞭に「仕事で求められることは」「働くために必要なことは」を説明してくださっています。
多分、この本があれば、就職に関する相談の一回目は省くことができます。
誤学習、偏った認識も座波さんの説明を読めば、一発で理解でき、自ら軌道修正することができるはずです。
支援者に相談するより、自らで改善できる方が、何百倍もその人の未来に繋がる素晴らしいことですので、どんどん本を勧めて、相談の回数を減らそうと思っています。
それくらい「働く」をど真ん中に持ってきた自己解決に繋がる著書だといえます。


同時に、子育て中の親御さんにとっても、その方向性を定める際に、必要な“子の未来”を見せてくれる貴重な著書だと思います。
我が子を見ると、まだまだ働くのは先に見えますし、そもそも働く姿すら想像できない親御さんが多いはずです。
だけれども、この毎日の子育てが、将来の仕事、自立へと繋がっているとわかると、より一層前向きな気持ちで、お子さんと関われるようになると思います。


親御さんの多くは、働いた経験がある人、今も働きながら子育てをされている人。
だけれども、初めての子育ての上に、「発達障害」がプラスされると、どうしても自分が経験してきた育ち、学校生活、仕事と分離して捉えがちです。
「そんなこと、普通の会社では許されないよな」と思えるようなことでも、発達障害という冠がつくと、浮世離れした支援者の話が正しいように思えてくる。


「支援者は、なんでも知っているわけじゃない。だって、民間で働いたことが“ない”し。学校で教えたこと“ない”し。この子の子育てをしたことが“ない”し。この子の家での生活を見たこと“ない”し」
いざ、社会の中に飛びだしていこうとすると、決まって聞かれる“ないない”の支援者達の声。
でも、本当に一般企業で働け“ない”のは、発達障害の当事者ではなくて、支援者なのかもしれない。
そんな連想を助けてくれる著者の座波さんのお話。


発達障害がある人達も、一般企業の中で活き活きと働き、成長し、キャリアを積み重ねていく人達が多くいます。
そういった姿、エピソードを、座波さんが理論を通して説明されています。
エピソードを裏付けする理論、情報に溢れた『発達障害でも働けますか?』
若者、成人した人たちにとっては、自己プロデュース、自分で軌道修正するために。
子育て中の親御さんにとっては、子の将来からみた今をより良いものにするために。
仕事、自立を真剣に考えている方達に是非、手に取っていただきたい書籍だと思いました。


 
 

2019年9月25日水曜日

分をわきまえる

事業を始めて、一年、二年が経つと、徐々に仕事が増え、相談メールも届くようになりました。
短い文面、限られた情報から、いかに的確に返事ができるか、アドバイスができるか。
そういったことを意識しながら、せっせと返事を書いていました。


私が返信すると、すぐにまたメールを送ってくださる方がほとんどでした。
援助、子育ては、その子どもに合わせて作り上げていくものですので、そういったやりとりが生まれるのは自然なことだといえます。
ですから、私はなんの違和感を持つことなく、メールが返ってくるたびに、また連想したことを書き、返信していました。


しかし、あるとき、私のやり方は間違っていたと思うことがありました。
度々、メールが来る人の相談内容が変化したのです、同時期にやりとりしていた方達、皆さんに共通して。
一言で言えば、最初は「〇〇に困っています。アドバイスを」という内容から、「次はどうしたらいいのですか?」「どこに発達のヌケ、未発達がありますか?」という内容に変わったのです。
メールの文面から伝わってくる雰囲気に“寄りかかり”を感じたので、私は大いに反省したのでした。


限られた情報から的確なアドバイス、見立てを行う。
そんなことに意識が向いていたため、いつしか私は、その正答率に心を奪われるようになっていました。
ですから、当然、アドバイス、見立ての内容が、具体的なものになります。
具体的になればなるほど、受け手の思考、考え、工夫の入る余地はなくなっていき、自然と指示する者と指示される者という関係性が出来上がってしまうのです。
メールがたくさん届くのは、私に腕があるからではなく、本人や家族の力を引き出せずにいた自分の至らなさが招いた負の結果だと、そのとき、気づいたのです。


そこから、改めて自分の仕事を見直しました。
メールの文面に、本人や親御さんの想像力、発達する力をかきたてるような想いを乗せるように心がけました。
実際に対面で行う相談、発達援助も、基本的に一発勝負ということにし、自らで考え、試行錯誤していけるような、「流れ」「続いていく」というイメージを持って関わるようにしました。
「後方支援」「後押し」という言葉が、今、自分の仕事にしっくりきています。


私がいくら一生懸命アドバイスしようとも、いくら一生懸命関わろうとも、発達させるのは本人です。
本人がやらなければ発達は生じませんし、そもそも続けていかなければ変化は起きません。
そして何よりも、その発達の凸凹、神経発達の表現は、他の誰のものでもなく、本人のもの。
生涯付き合っていくのは、本人だけ。
そこの意識が薄れた結果、私は独りよがりなメールをせっせと書いていたのだと思います。


対人援助に関わる者は、関わっている瞬間、自分とその人しか見えなくなるものです。
その人にとって自分であり、自分にとってその人。
ですから、あらゆる職業の、あらゆる場面で、対人職同士の越権行為というものが生まれるのだと思います。


学校の先生が、「お子さん、発達障害では」「診断を受けられたら」「薬は飲まないんですか」と、医療が担う部分に手を出していく。
本来、学校の先生は、教え育てるのが仕事のはず。
与えられた環境の中で、ベストを尽くし、一人ひとりの子どもにとって、良い学びを提供するのが役割だと思います。
そこに、発達障害の有無は関係ありません。
発達障害があったら、自分は教えないのでしょうか、支援や薬を求める前に、自分の指導方法を変える気はないのでしょうか。


医師が学校に、家庭に、「褒めて伸ばしましょう」「普通級は難しい。支援級で」「頑張らせてはいけない」などと言うのも、越権行為だと思います。
その医師は、教員免許を持っているのでしょうか、学校のカリキュラムを実際に見たのでしょうか、自分は教えられるのでしょうか。
実際に、子どものことを褒めて伸ばしているのでしょうか、そういった子育てをやっているのでしょうか。


対人援助職の越権行為は、想像力の弱さからくる勘違いです。
自分が関わっているときは、その人と自分だけ。
しかし、その人の周りには、多くの人達が関わり、影響し合っています。
その人の生活が、教室、診察室が中心なのではなく、生活の一部が教室であり、診察室。
対人援助職は、どう頑張っても、主にはなれず、従のまま。
陰である存在が、光を浴びるために前面に出だすと、本人の主体性を奪うことになる。
越権行為は勘違いであると同時に、本人や家族の主体性を奪うことだといえます。


対人援助職に必要なのは、「分をわきまえる」こと。
他人様の人生にできることなど、ほんの僅かなことくらいです。
「教師との出会いが、その子の人生を変えた」というのは、ドラマの世界。
「私が治した」というのは、本人の自然治癒力、成長する力が現れただけだから勘違い。
どんな専門家でも、どんなに我が子を愛する親でも、本人の発達障害を代わってあげることはできない。


発達の凸凹も、その神経発達の表れも、本人のものであり、生涯付き合っていくものです。
ですから、必要な援助とは、本人がより良く付き合っていける、育てていけるための後押しです。
悪い部分を取り除く、異物を取り除く、という類の話なら、対症にあたる専門家が必要。
でも、本人の内側にある本人のものなのですから、他者の行為、想いが入る余地はない。


「生涯に渡る支援を」と対人職は言ってきました。
でも、実際、生涯に渡って関わる人はいません、生涯お金を出して養ってくれる人はいません。
自分の持ち周りが終わったら、それでおしまい。
自立していくだけの賃金が得られる場所を勧めていないのに、就職したら、あとは知らん顔。
自立するだけの教育が受けられる場所を勧めていないのに、卒業したら、あとは知らん顔。
だけれども、自分が関わっているときは、他の人が担う部分にまで手を出す。
どうせ手を出すのなら、その人の人生全部に手を出せばよい、と思います。


私達は、他人は、どう頑張っても、本人の人生全部に関わることはできません、責任を持つことはできません。
人生の主役は本人であり、発達の凸凹も本人のもの。
仲間内の評価と、受けた援助に対する本人の評価は異なります。
専門家なんて言われても、他人様の人生への影響は微々たるもの。
ですから、対人援助職は分をわきまえ、主体である本人がより良く自分の特性と付き合い、自分の凸凹を育てていけるような後押し、後方支援を行う。


「ひと様の人生に、他業種の人達に口出しできるほどのことをやったのか、何か結果を残したのか」
そんな言葉を自分に投げかけられる人は、勘違いを起こしません。
分をわきまえた支援者であり続けるための自戒の言葉です。

2019年9月24日火曜日

個性、異物、ヌケ

個人的なお付き合いは、なるべく控えるようにしています。
支援者とは、親族でなければ、友だちでもない赤の他人です。
その赤の他人が、家族の思い出の中に残ってしまうのは、違和感としか言いようがありません。
発達の主体は、子どもさん本人であり、それを後押しするのは家庭であり、家族です。
あくまで支援者は、本人や家族の発達する力を引き出すのが役目。
支援者の「やってあげた感」「やってもらった感」が残るようなサポートの仕方は、その場しのぎになってしまいますので、長い目で見れば、結果的に支援者との関わりがマイナスになることもあるように感じます。


基本的には、「便りがないことのは良い便り」のスタンスです。
家庭での試行錯誤の姿が連想されるので。
「支援者が答えを持っているのではなく、試行錯誤を通して答え合わせしていく」
子どもがより良く成長し、自分の人生を豊かに生きらているのなら、それが正解です。
その子が幸せなら、どんな道を辿ろうとも、誰が何を言おうとも、それで良いのです。


一年以上前に関わったご家庭から久しぶりに連絡がありました。
「今、問題なく、学校に通えています」「感覚の過敏さも、怖がりも、全部治りました」と。
その様子を教えていただいただけで満足だったのですが、どうしても本人が成長した自分、治った自分を見せたい、ということでお会いすることになったのでした。


初めてお会いしたときは、感覚面の過敏さを持っていましたし、姿勢の保持も難しい状態でした。
そして何よりも、強い不安、世の中に対する言い表せないような怖さを持っていました。
授業中はノートをとることができず、一斉指示も半分ぐらいは理解できず…。
おとなしい性格、説明する力が弱かったことも加わり、度々、人との間でトラブルが生じ、学校から呼び出しが続いていたのでした。


学校からは、「発達障害かもしれない」「早く診断を」と言われ、診断を受けたあとは、「薬は飲まないんですか」と再三のアプローチ。
医師からは、「この子は普通級の子じゃない」「相当、しんどいはず」「無理してはいけません」と、別室対応と、ノートが取れなくても、授業に参加できなくても、指摘&頑張らせるはダメで、とにかく褒めましょう、という提案(?)。
学校が医療面の指示を出し、医師が学校のカリキュラムに指示を出すという越権行為のマリアージュ。
そんなむちゃくちゃな状況の中、「藁をも縋る」の藁の一本としてご縁がありました。


ご両親は、「治らなくても良いから、何よりも、この子が少しでも生きやすくなってもらいたい」と仰っていました。
でも、本人は「治りたい」と明確に言葉にしていました。
本人の想いに引っ張られるように、親御さんも一生懸命発達の後押しをされ、栄養や遊び、運動という原点に戻り、土台から育て直しをされていきました。
本人から「もう自分一人でできそう」、親御さんからも「私達で治してみせます」という言葉が出たので、そこで私の援助は終了となりました。
それから1年以上が経ち、今は学校からの呼び出しもなくなり、普通級の中で同じように学び、放課後は友達と遊んだり、クラブ活動に打ち込んだりと、健やかに成長しているとのことでした。


ご両親とお話をした際、つくづく感じたのですが、1つの選択が子どもの人生そのものを変えてしまいかねないという恐ろしさです。
このご家族も、途中までは学校の指示で診断を受け、医師からの指示で特別な配慮を受けていたわけです。
そして、精神科薬を処方してもらう一歩手前まで行っていた。
でも、どうしてもまだ幼い我が子に精神科薬を飲ませたくない、他に方法はないか、ということで、未発達を育て、発達のヌケを埋める、というアプローチ、自然な子育てと出会ったのです。
もし言われるがまま、精神科薬を飲んでいたら、一年以上たった今でも、未発達は未発達のまま、ヌケは抜けたままで、生きづらさの根っこの部分は変わっていなかったと思います。
当然、支援級への転籍も決まっていたと思います。


本人がみるみる発達し、変わっていったとき、ご両親は「うちの子は、治ってきている」という話をしたそうです。
すると、学校からも、医師からも、「治るわけはない」という言葉が返ってきたそうです。
変わったのは認めるけれども、治ったわけではない、と。
学校は「受容ができていない」と言い、医師は「科学的にありえない」と言った。


こういった話は、よくある話です。
一言で言えば、学校は「個性」であり、医療は「異物」という捉え。


「個性を伸ばす教育」「個性を活かした教育」
個性個性と言い続けるうちに、個性に教育が侵食される。
結果的に、一人ひとりを見る目が衰えていく。
未発達も、発達のヌケも、性格も、環境からの影響も、家庭環境も、全部ひっくるめて「個性」となっちゃう。
だって、学校でできること、教師ができることは、その中で限られているから。
「そうだよね、個性だよね」と言うことで、教育の限界から目を背け、自らを納得させているだけ。


医療の目的は病気を治すこと。
つまり、病因、正常の状態と対する異物を取り除くのが治療。
とすれば、発達障害の障害は取り除けるか、治療できるのか、という問いになる。
発達障害という異物を取り除く方法はない、ゆえに、治療できない→治らない、という立場のように感じます。


私達は、学校の教師でなければ、医師でもない。
ですから、一般的な言葉として「治った」を使います。
お会いした子も、一年前の自分と比べて、あの辛かったときと比べて、今、「私は治った」と言っているのです。
親御さんも、その姿を見て、「治った」「治って嬉しい」と思っている。
これは親子の自然な会話であり、喜びです。


「治った」という言葉を使うと、「治るなんて嘘だ、間違いだ」と言う人達がいます。
きっと、その人達は、発達障害を個性か、異物だと捉えているのでしょう。
でも、私は、治そうと頑張っている人達は、そのどちらとも考えていません。
発達障害は、神経発達の遅れであって、個性ではありません。
発達障害は、神経発達の表れ、状態ですので、その人にとっての異物でもありません。
ゆえに、刺激と栄養、身体アプローチ、言葉以前へのアプローチによって、大いに変わっていく部分であり、診断基準を飛び越えていくような、社会に適応していくような子ども達が出るのは自然なことでもあります。


神経発達障害を身体障害と同じように「変わらないもの」と捉える人。
神経発達の表現の一つなのに「異物」として捉える人。
こういった人達から見れば、発達障害は受け入れるものであり、周囲がサポートするものであり、取り除くことができない治療不可で治らないものになるのでしょう。
このように出発地点から違っているのですから、子育てを通して、末梢神経からの刺激を通して、より良い栄養を通して、治していこうと考えている人達とは、生涯分かり合えないのです。


そもそもお互いに分かり合う必要はありませんし、どれが正しい道かは、子どもの人生を長い目で見なければわかりません。
ある意味、発達障害の診断も主観なので、正しいかどうかは、本人の主観で良いのだと思います。
今回紹介したお子さんは、「治って良かった」「今は学校が楽しい」と言っていました。
ですから、ご両親が「子育てを通して」という選択は間違えじゃなかったということ。
本人が幸せなら、本人が治ったというのなら、それで良いのです。


支援者はサービス業。
ですから、評価は満足度であり、結果です。
結果が出ないのに、「それでいい」「それしかない」というのは詐欺と言います。
医師も、先生も、支援者も、それぞれの視点があり、それぞれのサービスがあります。
ですから、消費者である本人、家族が主体的に考え、選択しなければなりません。
そば屋に行って、「どうしてピザがメニューにないんだ!」という人は、ただのクレーマー、入る場所を間違えたその人が悪い。
地域にある値段の安い、いつも同じなのり弁を食べ続けるか、自分で食べたいものを材料を集めて作るか、はその人次第。
みんなのお金で乗り弁を食べておきながら、「まずい」と文句を言うのはいけませんね。
美味しいご飯を食べたいのなら、自分で動かなければ。

2019年9月20日金曜日

発達段階に応じた親子の位置

自閉症や発達障害の子どもさんの中には、まるで「霧の中にいるみたい」というような雰囲気の子もいます。
同じ空間に居るんだけれども、私達のことが見えていないような。
他に子ども達が一緒に遊んでいるんだけれども、一人で黙々と遊んでいるような。
見ているようで見ていない。
聞いているようで聞いていない。
そんな様子から、その子の周りに霧がかかっているような印象を受けます。


目が見えないわけでも、耳が聞こえないわけでもない。
それに興味がある言葉や物があれば、自ら注意を向けることができる。
となると、「人に意識を向けさせよう」という想いが出てきます。
声がけしたり、身体を触ったりして、まずは自分の方に意識を向けてもらおうとする。
そんなとき、自然と子どもの正面に、自分の身体があると思います。


ドラマでもそうですし、実際の療育場面、家庭生活でも、子どもさんの前に立って、何度も名前を呼んだり、肩をゆすったりする姿を見かけます。
相手の正面に位置することが、一番視界に入りやすいという考えもあるでしょうし、「話をするときは正面で」という沁み込んだ教えもあると思います。
でも、子どもは、正面に立った相手のことを見ようとしない。
遊んでいる最中などは、そんな相手をどかそうとすることすらある。
それを見て、親御さんは悲しみ、支援者は更なる促しを展開していく。


結論から言えば、無理やり霧の中から出そうとしてもダメ。
霧の中にいたとしても、まったく周囲の状況が分からないわけではありません。
ですから、霧の外が「怖いもの」だというイメージを植え付けることにもなりかねないのです。
過去に強い促しを受けてきた子どもさん、若者は、周囲の状況がはっきりわかるようになったあとでも、環境や人に対する不安を抱えていることがあります。
良かれと思った行為が、心の傷として残り続けることも。


やはり大事なのは、未発達の部分、発達のヌケを育てていくこと。
まだ周囲の状況、環境、情報を自然とキャッチできない状態ですので、それらがラクに捉えられるようになるくらいまで、身体、感覚を育てていく必要があります。
イメージとしては、空間の一部であった自分を切り離していく感じ。
未発達やヌケが育つと、自分という存在がはっきりしてきて、環境との位置取りがうまくできるようになります。
同時に、掴まえれる情報が自分を中心に広がっていきますので、自然と周囲に、人にも意識が向けられるようになるのです。
霧の中から出すのではなく、霧が晴れていくのを育てながら待つ。


そうはいっても、共に暮らす親御さんなら、愛する我が子だからこそ、親子の交流、伝えあい、分かり合えるその瞬間を想い、味わいたいと願うのは当然だといえます。
ですから、私は「親子の位置を工夫されてみては」と提案しています。


正面というのは、一番分かりやすい関係性のように感じます。
でも、正面で、しかも、“やりとり”となりますと、発達段階からいえば、後半になります。
対面してやりとりができるようになるのは、1歳から2歳にかけてくらいでしょう。
もちろん、子どもさんによって異なりますが、霧の中にいるような雰囲気を持つお子さんは、それよりも前の段階に発達のヌケがあることが多いです。
よって、子どもさんの発達の準備から言えば、まだ準備が整っていない段階の関わりであり、両者のバランスが悪い、といえます。
となると、お互いにとってストレスになります。
ちなみに、どんな活動、能力にしろ、「促す」という雰囲気が出る時点で、発達段階に合っていないことをやっている、と考えられます。


子どもさんの状態、発達段階によって、心地良い位置も変わると思います。
「正面がダメだから、何をやってもダメだ」などと思う必要はなく、意外に、横に並んだら意識が向くようになった、交流が生まれた、なんてこともあります。
当然、後ろから関わるのが良い子もいますし、親御さんが子どもさんを背中から抱きしめ関わると、意識がはっきりするような子もいます。
背中へのアプローチは安心とつながりますし、何より母子一体の胎児期を連想させますので。


この位置取りの話は、親子の遊び方に繋がります。
たとえば、砂場で遊んでいるとき、その一人遊びをどう発展させていくか、次の発達段階へと育んでいくか。
正面で、斜め前で、横に並んで、後ろから。
積み上げている砂の山に、自分も砂を盛っていくか、子どもと同じような山も自分も作るか、スコップを共有するか、子どもが使っているスコップを手で一緒に持つか。
同じジャンプをするにしろ、手を持って正面で跳ぶか、横で跳ぶか、抱えて跳ぶか、では意味合いが違ってきますし、刺激を受け取る子どもさんの感じ方も違ってきます。


発達とともに、親子の関係性だけではなく、位置関係も変わってきます。
上手な親御さんは、その時々で、我が子が心地良い位置、分かりやすい位置へ、自然と身体をずらしています。
同じく支援者も、発達段階に応じて位置は変えますし、考えていないようでも「位置取り」に注意し、こだわり関わっています。
会話をするとき、遊ぶとき、勉強を教えるときなどに応用できる視点ですので、子どもにとって心地良い位置を探ってみると良いかもしれませんね。

2019年9月19日木曜日

共感も、発達の一つ

面談の際、家族みんなが同じタイミングで頷いたり、笑ったりする様子を見ると、私は安心します。
何故なら、家族団らんを連想するから。
テーブルを囲んで、みんなで食事をする。
同じ食べ物を分けあいながら食するのは、原始的な、動物としての共感を育む。


人がヒトだった頃、獲ってきた食べ物は、命の綱であり、リスクでもあった。
もし毒をはらんだものであったのなら、その家族、集団は同じ運命を辿ることになる。
とすれば、同じものを食べるというのは、家族を信じ合う行動であり、運命共同体をそれぞれの内側に宿すことになる。
だから、「夕食は、家族みんなで食べるようにしています」「休日だけでも、家族そろって」というような家族は、同じタイミングで頷き、同じタイミングで笑う。


「言葉の遅れがあって…」「他人と関わろうとしなくて…」といった相談も多いです。
しかし、家族みんなと同じタイミングで笑う姿がある、お母さんとだったら、波長を合わせるような行動が見られる、そのようなお子さんも少なくありません。
こういった姿からは、共感の芽生え、息吹を感じます。


言葉が出たら、他人に意識が向くようになったら、お友達や他人と関わったり、遊んだりできるようになるわけではありません。
対人面、社会性の土台は、やはり共感する力。
この共感する力が育っていなければ、たとえ言葉が出たとしても、それは道具を得ただけ。
たとえ、他人に意識や興味が出ても、それは物体としての興味の対象が増えただけ。
言葉も、社会性、それこそ、ソーシャルスキルなども、道具にすぎず、人間として生きるには、ヒトの時代に培われただろう共感、共同がベースになるといえます。


人間関係でトラブルを抱える人は、道具の問題ではなく、適切な使い方を知らない、わからない、という場合がほとんどです。
何故、適切さがわからないかといえば、その人の視点の中に他者がいないから。
まるで一人で生きているかのごとく、道具を使い、振る舞うから、他人との間でトラブルが生じるのです。
こういった部分は、自閉症の特性などと関連付けられて語られることが多い。


「ミラーニューロンだ」「それが脳の特性だ」「視覚的に伝えればわかるんだ」
あたかも、それが障害そのものであり、それ自体は変わらず、どうしようもないものだといわんばかり。
でも、私はそうは思いません。
だって、ノンバーバルの子どもの中にも、共感力のある人達がいるから。
母親が涙を流せば、一緒に泣く子もいるし、ティッシュを持ってきて涙を拭く子もいる。
美味しいご飯を食べれば、家族の顔を見て、微笑み合う子もいる。
公園に行けば、両親の手を取り、キャッキャ、キャッキャと、走り回る子もいる。


言葉豊かな人、学業でも優秀な成績を収めるような人の中にも、人間関係で悩み、トラブルを起こしてしまう人もいます。
このような人達の多くは、感覚の未発達、発達のヌケを抱えているものです。
しかし、感覚の未発達=共感できない、他者の視点を想像できない、ではないと感じます。
課題の根っこは確かに、感覚系の未発達、発達のヌケと繋がっていると言えますが、それにプラスして他者と息を合わせる、共に行動する体験の乏しさがあると思うのです。


相談者、本人の話を聞くと、「家族一緒にごはんは食べなかった」「それぞれが好きなものを食べていた」「家族みんなで旅行に行った記憶がない。遊んだ記憶もない」という言葉が返ってきます。
幼少期から一人の世界を好んでいたために、体験が積み重なっていかなかったというのもあるでしょう。
忙しい世の中ですので、なかなか家族の時間がもてなかったのもあるでしょう。
また少なからず、「社会性=対人スキルの獲得」といった認識のずれが、意味を理解することなく、道具を振り回す結果になった場合もあるように感じます。


共感する力も、発達の一つだと考えています。
人間だけが共感する力を持っているとはいえず、やはり他の機能同様に、長い進化の過程の中で培われ、獲得した能力だと考えられるから。
なので、「それが障害だから。特性だから」とは言わずに、育んでいってもらいたいと思うのです。


息を合わせる遊びを親子で続けた結果、それまで霧の中にいたような雰囲気だった子が、親御さんに意識が向くようになり、発信が出るようになった。
できるだけ家族一緒に、同じものを食べるようにしたら、偏食が治まっていき、同じ食事ができるようになった。
感情表現が乏しかった子が、家族で思いっきり遊ぶ体験を通して、自分の感情に気づき、表現するようになった。
こういった変化が見られた子ども達も大勢います。
これはまさに、家族で共感する力を育んでいったといえるでしょう。


「言葉が出れば」「未発達の部分が育てば」「発達のヌケが埋まれば」
そういった部分が育つと、対人面でも変わっていくのは大いにあることです。
でも、それだけじゃない。
やはりヒトとしての、動物としての育み、体験も必要なんだと思います、特に共感の部分で。


家族が共に過ごし、活動し、共感し合う心を育んでいる家庭のお子さんは、言葉が出れば、他人との間で心地良い言葉の使い方をします。
また、言葉が出ない段階でも、ノンバーバルな方法を使い、他者との心地良い雰囲気の交流を行います。
言葉は道具だから、心地良く使うための心を育んでいく。
そのために、家族や信頼している人との息を合わせる行動、体験の積み重ねが大事になります。


「子どもは教えたように育つのではなく、親のように育つ」という言葉があります。
綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、やはり夫婦が共感し合っている姿を見ることで、子の共感する力も育っていくように思えます。
家庭に訪問すると、顔かたち、使う言葉は違えども、夫婦が同じタイミングで頷き、笑い、悲しみ、怒り、驚くような家庭、「なんでも家族一緒」と決めているような家庭のお子さんは、共感する力がちゃんと育っているものです。


共感も、一つの発達と捉えることができれば、今日からできることはあります。
それこそ、家族だからできる、親子だからできることです。
子どもとの時間があまり持てないのなら、持てたときに思いっきりやりきる。
ここは愛着の土台と重なり合う部分でもあります。

2019年9月18日水曜日

それは藁か、希望か

発達障害の治療、教育、支援において、万人に効くものなどはありません。
たとえ、エビデンスがあるとされる介入方法だって、その原文、論文を読めば、「対象の6割に効果があった」ですとか、「介入前後で、20%の改善が見られた」という程度のもの。
どの論文を読んでも、「100%効果あり」と言われていないのです。
それは、多くの遺伝子が関わり、無数の環境要因が影響し、発達期に生じる神経発達障害なのですから、当然だといえます。


「鬼の首を取ったように」、いえ、ナントカの一つ覚えのごとく、エビデンスがどうのこうのという人達がいます(とにかく「エビデンス」といえば、それで方が付くと安易に思っている??)。
しかし、エビデンスにこだわるわりには、状態に変化が起きない。
それは「治らない障害だから!?」
だったら、最初からエビデンスがあるかどうかなんて関係ないのでは、と思います。


エビデンスのある介入方法で大きな改善が見られないのなら、効果があった対照群に、あなたの目の前の子が入っていないからか、その介入方法の効果の限界がそこにあるということ。
いずれにしろ、そこにこだわり続ける意味がわかりません。
だって、子ども時代の一年、一か月、一日は、その子の人生全体で見れば、とても貴重な神経発達が盛んな時期。
期待するほどの効果がないのなら、そもそも効果を感じないのなら、別の介入方法を探す一歩を踏みだす必要があります。
「どうしようかな」「どうするかな」と思っている間も、子どもの時間は平等に過ぎていきます。
成人期の子の親御さんとお話しすると、皆さん、「願いが叶うとすれば、この子の子ども時代に戻って、未発達、ヌケを育て直したい」とおっしゃるのですから。


神経発達の多様性を考えると、一つの介入方法、同じ介入方法では、必ず限界がきます。
特に神経発達が盛んな時期を過ごす幼少期、子ども時代は、常に刺激の変化が求められます。
お子さんによって異なりますが、一週間単位、二週間単位、1ヶ月単位、季節単位で「振り返りを行いましょう」と、私は伝えています。
それくらい変化が大きいのが、子どもさんの発達。
なので、何年も同じ介入方法を続けている場合は、発達援助というよりも、パターン学習?日課?ルーティンワーク?かなと思います。


発達障害が生じた理由、要因が、一人ひとり異なりますし、そもそも神経発達はその子、固有のものです。
ですから、介入方法はできるだけ多い方が良いのです。
とりわけ、「効果があった」「改善した」というようなポジティブなものは。
ネガティブなもの、変化がないものは、ある意味、他の方で検証済みなので、敢えて手を出す必要はありません。
再三言うようですが、子ども時代の時間はとても貴重ですから。


ポジティブな結果が得られた介入方法の中から、その時々で、選択し、我が子に合わせてカスタマイズしていくのがベストだといえます。
そう考えると、「良くなったよ」「改善したよ」「治ったよ」「自立できたよ」というエピソードは、一つ一つがとても貴重な情報であり、そういった声は一つでも多い方が良いのがわかります。
我が子の子育て、目の前の人への介入方法を作り上げていく際、アイディア、材料が多い方が、よりその子に合ったものを作れるからです。


それなのに、そういったポジティブな声を上げると、「藁にもすがる想いの親御さんに…」というようなことを言う人がいます。
我が子に100%合うことはないと思いますが、考えるヒントにはなるはずです。
決してネガティブな影響は及ぼさない。
だって、「子が育つ」という人類にとって望ましく、ポジティブな情報だから。
限られた子育ての時間を過ごしている親御さんにとっては、藁などではなく、貴重な子育てのアイディアです。
なので、そういったことを言う支援者がいれば、「私が信じるもの、専門とするもの以外は、藁であってほしい」という願望を言っているだけ。
藁人形を木に打ち付ける人を連想すれば、聴く耳を持たず、聴く時間の無駄が省けます。


しかし、親御さんの中にも、「藁にも縋る」と表現する人がいます。
ポジティブな話、他の親御さんの子育てのアイディアが「藁」に見えてしまうのは、それだけ専門家や支援、周囲の人間に希望を打ち崩されてきたからでしょう。


療育を受けたのに、専門家を頼ったのに、地域で評判の施設、支援者に支援を受けているのに、効果や変化を感じない…。
私は一生懸命やったのに、良いと言われているところはすべて行ったのに、変わらない…。
それだけ発達障害は難しい障害なんだ、変わらない障害なんだ…。
そう思うことでしか、そうやって折り合いを付けることでしか、今の自分を保つことはできない…。
だから、「良くなった」「改善した」「治った」「自立した」なんてのは、“藁”なんだ…。


幸せを感じられなかったり、欠乏や絶望を感じていたりする人は、わずかな光が大いなる希望かのように受け取ってしまうものです。
「藁にも縋る」というような強い言葉で否定する人というのは、それだけ強く希望を感じている裏返しだともいえます。
しかし、私もそうですし、発達のヌケを育て直し、治ること、自立することを目指して子育てをされている親御さん、支援者達というのは、良くなった話を聞いても、大袈裟な反応、評価はしないものです。
何故なら、診断基準から外れた人、一生涯支援と告げられた人が普通に高校、大学に行っているし、一般人として働いている姿を見ているから。
そういった人たちにとって、良くなった話は、一つの希望であり、一つのアイディア。


良くなる人、改善する人、治る人、自立する人の周りには、同じような人達が集まるものです。
それは、そういった一人ひとりの歩み、生活の中に、ヒントがあるから。
反対に、変化がない人、ずっと生きづらいままの人の周りには、そういった人達が集まる。
ですから、本人にしろ、親御さんにしろ、そこから抜け出す行動を起こさない限り、未来も同じことが続いていく。


「良くなった」という話を聞いて、「どんな方法だろう、子育てだろう」と思うか、「どうせ、藁に違いない」とハナから聞こうとしないか、たったこれだけの違いが、未来を大きく左右するのです。
子どもの場合は、親の意向が優先されるので、ある意味、運次第。
成人の方達からの相談も受けると、自分の意思が尊重される、意思通りにいける年齢になってからの取りかえしには、相当な努力と時間、強い意思が必要なのを感じます。


しかし、そうとはいえ、「どうせ、藁に違いない」と思う人が、どうやった子育て、介入をするかは、他人様のおうちの話です。
「知り合いの子のおうちもやれば」「同級生の子も、身体アプローチやればいいのに」などということも聞きますが、私は「それはどうしようもないことです」と言います。
本当にどうしようもないことですし、ぶっちゃけ他人のおうちを気にしているだけの余分な時間はないと思うことの方が多いですから。


じゃあ、私達にはなにもできることがないのか。
いいえ、一つだけあって、それは我が子を、目の前の子をより良く育てること。
つまり、それぞれの「n=1」を輝かせるのです。
「n=1」が輝けば、その光が誰かに届き、希望になるかもしれません。
全部が全部とは言えなくても、部分的に、何か一つでも、他の子の子育てのヒントになるかもしれません。
ですから、堂々と「n=1」を発信していけばいいのです。


「n=1」で、何が悪い。
我が子がより良く育ったのなら、生きづらさがなくなっていったのなら、「一生涯支援」と告げられた子が自立して生きていったら、親にとってそれ以上の喜びはないでしょう。
支援者だって同じこと。
対人職の究極の目的は、目の前の人が幸せになる、そのための後押しをすることですから。
合うものを待つのではなく、合うものを探していく、掴みに行く。
合うものが見つからないのなら、合うまで動き続ける。


一人として同じ人がいないのは、発達障害を持つ子も一緒。
その発達の仕方だって、バラエティーに富んでいるのですから。
100%の人に効果があるエビデンスのある介入方法は存在しない。
だったら、「n=〇」の〇の数が増えていくよりも、素晴らしい「n=1」が増えていく方が良い。
そんな風に私は考え、今日も「n=1」が少しでも輝けるような後押しを行っています。

2019年9月17日火曜日

「n=1」の声

専門家も、医師も、先生も、支援者も、どう頑張っても、どんなに学び、資格を取ろうとも、不可能なことが一つだけあります。
それは、当事者になること。
この“当事者”とは、ざっくりした「発達障害」ですとか、「ASD」ですとか、「ADHD」といった括りのことではありません。
当事者とは、その人その者になること。


「私は私であり、あなたはあなたである」
ですから、専門家は当事者から学ぶのです。
それができない人は、ただのオタク。
オタクと実践家は、そもそもの出発点が異なっています。


「支援者は、当事者から学ばなければならない」
これは、どこの職場でも、研修でも、最初に言われることです。
そのために、目の前にいる人と真剣に向き合い、そこからヒントをもらわなければなりません。
支援のニーズは、当事者から生まれるものであるから、当事者がいて支援者がいる。
当事者の視点を抜かした支援とは、独りよがりとしか言いようがないのです。


どの支援者も、「当事者から学べ」と耳に胼胝ができるくらい言われます。
しかし、どうしたもんか、良くなった人、治った人からは、学ぼうとしない。
苦しんでいる当事者を見ると萌えるのに、治った当事者を見ると萎えてしまう。
「目の前の人を少しでも良くしたい」「ラクにしたい」「自立させたい」というのが、対人職が対人職である唯一の証。
そういった感情を持ち併せていない人間が、対自分職でやっている支援者。
良くならない方ばかりに、苦しんでいる人の方ばかりに意識が向いてしまうのは、自らを助けるために支援者になったという証。


ASDも、ADHDも、LDも、症候群です。
共通の行動が確認できるから、その診断名が付いているだけ、同じグループに括られているだけ。
同じ症候群でも、行動の出方は人それぞれ違いますし、同じ人だって、時間や状態、環境によって現れる行動、その強弱は違います。
そして何よりも、同じグループに属していたとしても、現れる行動の原因、背景は問われていないのです。
そう考えると、『n=1』にしかならない。


論文を読む際、「n=100」「n=200」「n=300」と対象の人数が増えていくたびに、私は違和感を持ちます。
これだけ多くの遺伝子が関わると言われているのに、これだけ多くの環境要因が影響すると言われているのに、発症のタイミング、どの神経に課題が生じているか明確に示すことができないのに、「n=100」の中の1つになっていることの違和感。
いろんなその人らしさが切り捨てられ、同じ行動様式が確認できたというだけで集められる。
しかも、そのほとんどが、治らない前提で集められた人であり、治すことを目的としない研究。


「当事者の声を聞け」「当事者に学べ」と言われているのに、良くなった人、自立した人、治った人の声を無視し、挙句の果てには、「偽物だ」「誤診だ」とまで言い放つ特別支援の世界。
こういった声を聞くたびに、当事者をないがしろにしているのは、支援者その人達だと思うのです。
どうして良くなった人の声を聞こうとしないのか。
どうして自立した人の生き方に学ぼうとしないのか。
どうして治そうを目指さないのか、目指すと「トンデモ」と言われるのか。


どこの世界に、業界に、良くなった人から学ぼうとしない職業集団がいるのでしょう。
認知症や脳の疾患者に対し、「良くなってほしい」とリハビリをしたら、トンデモになるのでしょうか。
神経の発達障害の子ども達に、「良くなってほしい」と、神経ネットワークを育てるための運動や遊びをしたら、いけないのでしょうか。
他人から、また支援するものと表現される支援者から、批判の声が上がる意味がわかりません。
医療行為をするわけでもなく、何か特別なものを体内にいれるわけでもなく、子育てや運動、遊びを通して、神経発達を促していく。
こうなると、「神経発達に支援者が必要ない」という真実を否定したいがための行為にしか見えないのです。


本人にとって、家族にとって、必要なのは「n=〇」の数の多さではありません。
「n=1」まさに、自分という「1」がより良く育ち、より良く生きていけるための方法なのです。
論文を書く必要のない、その論文で評価され、キャリアや予算等に影響がない人は。


「n=1」を輝かせるには、「n=1」から学ぶ以外、方法はありません。
しかも、その「n=1」は、良くなった人である必要があります。
良くならない人から学んでも、よくはなりません。
そういった人に意識が向くのは、学びたいからではなく、安心を得たいがため。
「私だけじゃないんだ」「うちだけじゃないんだ」というその一瞬の安心のためにすり寄っているだけだといえます。


療育とは、治療(Treatment)と教育(Education)。
治療の目的は、よくすること、治すこと。
治すためには、治った人から学ぶ以外ありません。
本人が「治った」と言っている、一度付いた診断名が外れている、生涯支援と言われていた人が自立して生活できている、「どうしてだろう?」
この「どうしてだろう?」が治療の一歩。
そういった疑問が浮かばないのなら、支援者やめた方が良い。
当事者から学び、当事者を救うものでなければ、支援者とは言えないから。
「あなたは苦しいまま。でも、私はそばにいるよ」は、自己治療、愛着障害の。


発達障害に関わる遺伝子は、500以上あると言われています。
そして神経発達に影響を及ぼす環境要因は無数。
ですから、治療の方法は一つであるわけがないのです。
原因が特定されていないので、ピンポイントで治療ができないのです。
ということは、目の前にいる人に合わせて、オーダーメイド、テイラーメイドで、治療していくしかありません。
そのためには、良くなったという「n=1」から学び、ヒントを得ること。
良くなった「n=1」を集めていき、その中から試行錯誤を通し最適化を目指していく。


「n=1」のために生きるのが支援者。
同じ診断名だからといって、同じ方法しか提供できないのは、当事者の声に耳を傾けていないので、そもそも支援者とはいえません。
良くなったという人の声を聞き、治ったという人の生き方から学ぶ。
その積み重ねが、目の前の人の未来に活かされ、治療法の確立のための一歩となります。


神経細胞が欠損している、無くなっていく病気、障害なら、治療という言葉は適さないのかもしれません。
でも、神経細胞は同じ。
違いは、そのネットワークの築き方。
だったら、治療する道はある。
実際、良くなった人、治った人、診断基準から外れた人が存在しているから。
目指すは「n=1」の成長、自立、幸せ。
「n=2」になった途端、個は消え、症候群の括りの中の1つになってしまいますので。

2019年9月12日木曜日

社会の一員として育つ

「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」なんていう本が売れているらしい。
当然、子どもの方から、こういった類の本を買ってほしい、読んでほしい、参考にしてほしいなどというリクエストはないのでしょうから、これは親に向けた親のための本といえます。
こういったタイトルの本に惹かれてしまうのは、それだけちゃんと子を叱れない、向き合えない親、大人が増えた証拠。


子ども時代、叱られてばかりで自信なく育った私が親になる。
「こんな親だったら良かったのに」という姿をイメージすることで、自分自身の傷を癒していこうとする。
また、幼少期から放っておかれた子、真剣に叱られたことがなかった子、まるでペットのごとく、親の所有物として育った子は、「叱らない子育て」などを肯定することによって、自分自身の生い立ちを肯定する。
「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」は、ある意味、親の自己治療なんだと思います。


「問題行動は無視」というのも、そんな大人たちとの間に親和性があったため、令和になっても、いまだに消えていかないのだと思います。
「問題行動は無視」なんて、コンマ数秒で気づく、まずさ。
問題をそのままにしておけば、無視し続けていけば、問題はエスカレートしていくだけ。
もし、真剣に「問題行動は無視」をやろうとすれば、本人か、周囲が、破滅するまで続けるしかありません。
結局、叱れない大人が、真剣に向き合うことのできない大人が、「問題行動は無視」という言葉に救いを求めただけなのでしょう。


「うちは、叱らない子育ての方針なんです」「褒めて伸ばす方針なんです」という親御さんがいます。
それは、各家庭のお話なので、他人がとやかく言うことではありません。
しかし、実際、とやかく言わざるを得ないことがある。
それは、叱らない子育てが、教えない子育てになっているとき。


悪いことは悪いと教える。
ダメなものはダメと教える。
それは、人間として生きていくために必要なことです。
その家族の中だけで生きていくのなら、叱らず、教えず、褒めるだけ、で良いのかもしれません。
飼い主を噛まずに、尻尾をふりふりしてくれる子に育てば、それでよい。
しかし、子どもでも、社会の一員です。
公園も社会の一部ですし、幼稚園や保育園、学校だって、小さいですが社会。


社会で生きていくためには、他人の権利を侵害しない、危害を加えない、という最低限のルールは守らなければなりません。
反対に言えば、これさえ守れていれば、社会の中で生きていける。
コミュニケーションが苦手でも、人付き合いができなくても、強いこだわりがあったとしても、生きていける。
発達障害の人が、一般の人達からネガティブな印象を持たれるとき、それは特性を持っているからでも、発達に凸凹があるからでもありません。
ただ単に、他人に対し、他人をまきこんで、他人の権利を侵害してくるから。


昨日からの続きになりますが、「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」というのは、人生の中で、特に子ども時代、思いっきり遊び切った経験がある人達であり、「ダメなものはダメ」ときちんと教えられてきた人達だということ。


他人の権利を侵害するような子ども、大人からの相談もあります。
そういう人達というのは、根っこに未発達、発達のヌケがあるものです。
しかし、それ以上に、「ダメなものはダメ」と教えられてこなかったという部分が大きいのです。
結局、「問題行動は無視」「叱ってはなりません」「長所を褒めて」「二次障害にならないように」と言う愛着障害を持った支援者が、愛着の土台に弱さを持った親御さんが、人間として生きるための大事な部分を教えられずにきた、というパターン。


人間がペットを飼うのは、寂しさを埋めるため、というのは有名な話。
それは古来からやってきたことであり、それ自体はより良く生きるための方法。
でも、それを子どもにやってはいけないのです。
支援者が完全なる自立に積極的になれないのは、自立しそうになると妨害してしまうのは、利用者のペット化です。
同じように、「子どもを叱れない」「子どもを叱ると、自分が苦しくなる」という親御さんも、無意識のうちに子どもをペット化してしまっている。
そういった意味で、自立を後押しするのも、妨げるのも、親といえます。


発達の凸凹があって、社会の中で自立し、馴染んでいる人というのは、他人の権利を侵害しない人です。
そういった人達と言うのは、子ども時代、子どもとして過ごせただけではなく、親から、先生から、周囲の大人たちから、一人の子どもとして見られていた人であり、社会の一員として育てられた人。
「ダメなものはダメ」と叱ってくれる大人、真剣に向き合い、教えてくれる大人。
そういった人達の存在が、社会の中で自立し、馴染む姿に繋がっている。


何かトラブルが起きると、「障害があるから」と言う人がいます。
しかし、一般の人達からしたら、障害の有無は関係ない。
だって、社会の一員として苦言や抗議、問題提起をしているのですから。
「うちは褒めて育てる方針で…」なんて、聞いていないし、どうでもよいこと。
大事なのは、あなたのお子さん、社会の一員として問題ありますよ、他人の権利を侵害していますよ、ということなのです。


ヒトは、人になり、人間になる。
ヒトは動物。
人は知恵を持つ者。
人間は人の間で生きる者。
子どもをペット化してはならない。
何故なら、人の間で生きることを学べないから。
そういった子ども達が大人になると、社会に適応できず、自立が難しくなる。


「診断を受けずに大人になったから、二次障害になった、自立できない」というのは、支援者の方便。
早期から診断を受け、早期療育を受け続けた大人も、自立できていないし、併存症を持っているから。
つまり、診断の有無ではなく、育ちの問題。


障害児ではなく、一人の子どもとして、ヒトの部分を育て切ったか、切れるか。
障害児ではなく、一人の子どもとして、社会の一員として接してもらったか。
障害児ではなく、一人の子どもとして、将来、人の間で生きるために必要な「ダメなものはダメ」を教えてもらったか。


発達に凸凹があるから、「自立できない」はウソ。
発達に凸凹があるから、「問題を起こしてもしょうがない」は甘え。
発達に凸凹があろうがなかろうが、動物としての土台の部分、人と人の間で生きるための土台の部分が育っているかどうかが、重要なのです。
つまるところ、子育ての話。
それを障害の話にすり替えてしまってはならないのです。


未発達なところは育てる。
人間として生きていくために必要なところは教えていく。
その育て方、教え方の部分で、特性という概念、視点が出てくるだけ。
「障害があるから、教えなくていい」というのは、子を一人の人として見ていない表れ。
障害児である前に、一人の子であり、人間です。
その基本的な考えがブレなければ、「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」に育っていくと、私は考えています。

2019年9月11日水曜日

すべての感覚、機能を総動員する遊び

近頃、私の意識は「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」に向いています。
これは偉人や天才などと言われる人達のことではなく、社会の一員として馴染み、生活している人達のことです。
神経発達の遅れだけでは、障害にはなりません。
そこに不適応が重なるから障害になる。
では、神経発達に遅れはあったけれども、不適応を起こさなかった人には何があったのだろうか。
不適応を起こさないばかりか、社会や生活環境に適応し、馴染んでいる人達もいます。
そういった人達の歩んできた道の中に、より良い子育て、発達援助のヒントがあるのだと思います。


自閉症の特性があることや発達に凸凹があることは、良い悪いといった次元の話ではないといえます。
ただそこに、その人がいる、というだけ。
しかし、そこに「適応できない」という要素が加わると、問題になり、障害となる。
結局のところ、特性があるとかないとか、どのくらいあるとか、は大きなことではないのでしょう。
自閉症の特性バリバリでも、ADHDそのものでも、社会に適応できていたら、問題ありません。
病院に行かなければ、発達障害にはならない。


ヒトは、高度な社会生活を営む動物です。
もし、ヒトが途中で進化をやめていたら、自閉症やADHDなどは、その個人、個体の生き方の違いだったでしょう。
学生時代、お付き合いのあった親御さん達は口々に、「この子と一緒に無人島に行きたい」と言っていました。
その言葉の意味するところは、「今の状況、生活から脱したい」という悲痛の叫びだったように思いますが、「障害という概念から離れたい」という欲求もあったように感じます。
無人島で暮らせば、ヒトは動物に戻れますので、障害から解放されます。


ヒトとヒトの間で生きるから、適応する者と適応できない者が生まれてくる。
だから、「みんな、無人島へ行こう!」とは、思いません。
でも、その無人島という環境にこそ、発達の凸凹が障害にならない生き方があるように思えてきます。


直感的に、無人島で生きていける人は、社会の中でも生きていけると思います。
つまり、動物としての生き方ができること、動物としての土台が社会性の土台になるということです。
ヒトは社会性の動物だからと言って、人付き合いのノウハウなんて覚えても、一向に社会性などは培われていかないのです。
大事なのは、社会性の部分ではなく、動物という部分。
動物として、どんな環境でも生き抜けるくらいの自由自在に動かせる身体があるか、生きていくための土台が培われているか。
社会性はノウハウでも、スキルでもなく、進化の先に辿りついたもの。


このような空想、連想をしていると、「障害からの解放」がより良い子育て、発達援助とつながり、結果的に“治る”になるのだと思いました。
目の前の子どもに、「障害」という響きを感じれば、自然と保護する態勢が出来上がります。
それは社会の中で培われたというよりも、学習されたパターンです。
「弱い者は助けましょう」「手を差し伸べましょう」
学校適応の産物。


しかし、私達は人間である前に、動物であります。
目の前の子が、「このままでは、一人で生きていけない」、それこそ、「無人島に行ったら生きていけないだろう」という動物としての感性が発揮されると、どうしなきゃいけないのかがわかります。
動物は、「一生は、この子を守り切れない」という定めに従い、子育てを行う。
だから、必死になって餌の取り方を教える。
そして、その前に、子どもに思いっきり野山で遊ばせる。
自然の中で思いっきり遊ぶのは、自立のための準備。


障害にならなかった発達の凸凹があった人達を見ていて、私は今、こう結論付けています。
発達の凸凹があった人、ある人で、社会の中で自立し、適応できている人というのは、人生の中で、特に子ども時代、思いっきり遊び切った経験がある人達。


脳は、爬虫類の脳があって、哺乳類の脳があって、人間の脳があります。
それぞれの脳の育ちは、もちろん、大切です。
でも、それぞれが完璧に育たなくても、そのどこかに、部分的に未発達やヌケがあったとしても、3つが連結、連動できていれば、適応することができると考えています。
何故なら、社会性とは進化プロセスの最終形だから。


適切な振る舞い方を覚えたとしても、空気が読めなければ、本当の意味で社会性があるとはいえないし、社会の中での適応も難しいといえます。
空気を読むとは、知識、学習ではなく、土台である動物としての育ちの部分。
本来、社会性とは爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳の連携作業です。
つまり、個々の脳の育ちも大事だけれども、連携し合っていないと機能として発揮できません。


思いっきり自然の中で遊んだ子が「治る」というのは、理に適っています。
自然の中で遊ぶというのは、爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳が総動員されるから。
たとえば、木に登る。
木の匂いや感触といった五感だけではなく、どの枝をどの順で掴むかといった計画性、自分の身体の傾きはといった重力との付き合い方、そして「あの高いところまで登れた」という達成感、胸の高鳴り。
すべての感覚、機能を総動員するからこそ、それぞれの連携が生まれる。


連携の素晴らしさは、補えること。
たとえ、未発達な部分、抜けた部分、弱い部分があったとしても、連携し合ったもの同士で補い合える。
それが結局のところ、適応する力となり、自立へと繋がる。
適応して、自立できていれば、障害にはならない。


私の意識が向いている「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」には共通して、好奇心、想いのまま、自由に遊んでいる姿があります。
障害児ではなく、子ども時代をちゃんと子どもとして過ごせた人。
動物としての土台をきちんと培える時間、猶予が持てた人。
感覚、身体機能、3層の脳を総動員して遊んだ経験が、豊かな神経ネットワークを築いていく。
豊かな神経ネットワークとは、補い合えるネットワークのことだと、私は考えています。

2019年9月6日金曜日

「心地良い」は、親子を結びつける

訪問すると、多くのご家族は、両親揃って相談を受けられます。
当然、夫婦も最初は他人ですので、お子さんに対する捉え方、子育ての姿勢、想いの強さは異なるわけです。
一生懸命話をし、感情が高まっているお母さんの横で、静かに座って聞いているお父さんがいる。
でも、「ずっとしゃべらないし、奥さんに言われて座らされているのかな」と思いきや、突然、堰を切ったように話だす方も少なくありません。
どんなときに、話し始めるか。
それは、我が子と自分が繋がったとき。


発達障害は遺伝100%の障害ではないけれども、少なからず、ご両親から受け継いでいる部分もあります。
ですから、親御さんの子ども時代の姿と、目の前の我が子が部分的に重なるわけです。
途中から会話に参加してくるお父さんというのは、「そういえば、私も子どものとき、同じことがあったんです」と言われます。
それは親子ですから、自然なこと。


ある意味、「私も子どもの頃…」という言葉が出れば、私の仕事は終わったも同然です。
実際、そういった共通する特徴があったけれども、こうして社会の中で自立し、家庭生活を営んでいるからです。
歩んできた道の中に、我が子を育むヒントがあります。


皆さん、ご存じだとは思いますが、発達の凸凹がある=障害ではありません。
脳や神経発達の凸凹にプラスして、環境への適応に問題がなければ、障害にはならないのです。
凸凹がある人がみんな、発達障害だとしたら、有病率は100%。
まったく脳の、発達の凸凹がない人なんていないのです。


親御さん達とお話をしていると、「子ども時代、こんなことばっかりしていました」「大学卒業するまで、ずっと〇〇を続けていました」ということをよく耳にします。
実は、それがお子さんの発達のヌケを育てるために必要な刺激、活動だったりするわけなんです。
つまり、同じような特徴があったとしても、ご自身で育ててきた。
そして社会に適応し、今、幸せな家庭を築いている。


再三、子どもは自分自身で必要な遊び、発達刺激がわかり、それに没頭するもの、と言ってきました。
でも、それは子どもに限らない、と私は思うようになりました。
親御さんの中に、「近頃、こんな趣味を始めたら、身体の調子が良くなって」「突然、急に〇〇という趣味がやりたくなって始めたら、頭がすっきりしていいんですよ」と言われる方が少なくないからです。
もちろん、親御さんは発達障害なわけではありません。
でも、感覚的に自分に必要な刺激を求め、それを日常の中に組み入れ、より良い生活をカスタマイズしているのです。


自分も大人になって時間が経ちましたし、いろんな大人の方達と接する中で、「より良い人生」「より良い生活」を考えるようになりました。
そのとき、思ったのが、やっぱり自分自身の生活をカスタマイズできる人、より良いものへと常に作り変えていける人が、豊かな毎日、人生を送っているのではないか、ということです。


脳や発達に凸凹があることは、悪いことではありません。
ですから、その凸凹をそのまま受け入れて生きていく人がいても、なんの問題もありません。
その人の人生の話ですから。
しかし、自分自身の人生をより豊かなものにしていこうと思うのなら、やはり自分自身を育てていく必要があります、大人になっても。
未発達な部分があれば、そこを育てる。
未発達な部分が育ちきったのなら、より良く生きるために凸を磨き、凹を整え、なだらかにしていく。
その繰り返しが、ヒトとしての成長となり、自分の人生を豊かに変えていくのだと思います。


私も、30代になってから、子どものときよりも、学生時代よりも、20代のときよりも、「丸くなったね」と言われます(爆)
人間、丸くなるということは、角が取れることであり、凸凹が整ってきた表れなのかもしれません。
ですから、成熟するというのは、発達した証拠であり、大人になっても発達を止めなかった証なのだと思います。


本来、動物としてのヒトは、生きている限り、発達するし、発達を求めていく存在なのではないか、と感じています。
そう考えると、不適応を起こしているわけではないのに、「発達障害」という診断名をつける意味はなんだろうかと思うのです。
診断名をつけることで、子育て、発達援助が、支援に替わってしまう弊害の方が大きいのではないか。


30代になって始めたマラソンも、「心地良い」から続いています。
「心地良い」ということは、私に必要な発達刺激であり、発達の機会なのだと思っています。
自分の「心地良い」という感情に耳を傾けることの意義、その大切さ。
今、私は「心地良い」というのは、発達の道標、声なき声なのだと捉えています。


お母さんやお父さんが、子ども時代、「心地良かった」遊び、環境、刺激は、お子さんの「心地良い」と繋がっているのかもしれません。
「何をしたら良いか、わからない」とおっしゃる親御さんには、「一緒になって心地良いと感じる遊び、活動を」と伝えています。
「心地良い」は、親子を結びつけてくれるのです。

2019年9月5日木曜日

定型発達の子で土台が育っていない子、発達障害の子で土台が育っている子

9月も、5日も過ぎると、不登校の話題がピタッと止まります。
不登校は、通年で生じているわけですから、そういった支援に携わっている人達は、時期を問わず、発信しているのでしょう。
ですが、どうしても一般の人達からしたら、この2学期が始まる前後だけに見えてしまいます。
敢えてアクセスしようとしなければ、目に見えないのは、自閉症、発達障害の啓発活動と一緒。
すでに下火になり、注目度が一気に下がった青いお祭りと、今、注目を集める不登校啓発といったところでしょうか。


個人的な意見としては、不登校を肯定も、否定もしません。
学校という形式の学びが合わない子も当然いるでしょうし、命をかけてまで行くべきところじゃないと思います。
それに、とてもプライベートな話で、個人の選択の話ですので、その子が、その家族が不登校を選択するのなら、それでよいのだと思います。
ですから、他人がとやかく言うべき話ではないわけで、ということは、他者がメディアを通して「学校に行かなくていい」と発信し続けることの意図に疑問を感じるわけです。
「学校に行かなくていい」と言うのなら、「学校に行った方がいい」という意見も並べ、各自で判断してもらうのが自然な形だと思います。


著名人やタレントの人達の発信も目立ちました。
タレントは、まさに個人の資質、才能を活かして身を立てている人達です。
そういった人達は、当然、学校という枠にとらわれない部分で、才能を活かし、磨いてきた人達。
なので、学校に行く、行かない、とは別次元の話も含まれています。
不登校になれば、その分、才能を磨く時間ができ、従来の教育ではできなかった学びができる、という面もあるかもしれません。
しかし、資質は磨いてナンボ。
空から降ってくるものでも、ある日、突然目が覚めたら手に入るものでもありません。


同世代の子ども達が、学校生活を通して学んだこと、身に付けたことは、人生のどこかでやっておく必要があります。
だって、そういった人達がベースで作られた社会だから。
自閉症、発達障害の世界でも同じですが、「そういった社会が間違っているから、社会を変えよう」なんていう人たちもいます。
でも、それには相当な時間がかかる。
今の子ども達は間に合わない。
第一、社会を変えていくには、社会に出て活動できなければなりません。
行動を起こさない限り、自分も変わらないし、他人も、さらに社会なんて、もっと変わるわけがない。


そうとはいえ、社会の方向性は不登校を受け入れるような感じで進んでいくと思います。
働き方だって、在宅ワークや、個人で、個人同士が繋がったビジネスだって増えていますし、こういった働き方が当たり前になる世代の人達が中心になる時代もやってきます。
ですから、一つの場所に通って…という価値観は、今までとは違ったものになるでしょう。


しかし、じゃあ、「一つの場所に通い続けること」「コツコツと続けていくこと」の価値がなくなるか、といったら、そうはならないと思います。
むしろ、そういった人達の姿勢は、今以上に評価される社会になると思います。
何故なら、未来の社会は、海外から様々な人と文化が入ってきて、共生する社会だから。
そして、「コツコツと続けていくこと」を子ども時代に培えず、その価値観に気づかない大人たちが子どもを教え、育てる立場になってくるから。


発達障害は、今後も増え続けるでしょう。
さらに、その中でも、運動面の発達の遅れがある子ども達が増えていくはずです。
それは遺伝と言うよりも、環境の影響をモロに受け、治す機会を失い。
遊びの貧困化、体験の貧困化、刺激の偏り、使う身体機能&感覚の偏り。
文化、科学が豊かになると、一番最初に影響を受けるのは原始的な部分。
つまり、身体から先に貧しくなるのです。


私は、若者たちの相談や援助に携わる際、「これからは、真面目にコツコツ働けること自体が、素晴らしい資質として評価される時代になるよ」という話をします。
まさに、自閉症の人達のまっすぐな姿勢、真面目にコツコツ積み上げていく姿勢が望まれているのです。
その資質を発揮するためにも、治せるところは治しておく。
また親御さんは、土台となる身体を子育てを通して丁寧に育んでいく。


昨年の障害者雇用の問題で、公官庁で大量採用が行われました。
でも、採用された人達が次々に退職しています。
これは障害を持った人に限らず、新卒採用の若者が1,2年で辞めていくのも同じ。
バイトだって、1ヶ月も経たずに、1日や2日行っただけで辞めていく若者が多くて困っている時代です。
みんな、続かない。
価値観が多様になったのもあるけれども、働き続ける、一つのことを続けるだけの身体、土台が育っていないから。


踏ん張る筋肉が育っていなければ、注意されたり、嫌だと思ったりした瞬間、続かない。
一つの場所に通い続けるには、同じ作業を繰り返すには、自然な二足歩行できる段階まで育っていることが必要。
発達のヌケを育てるための発達援助が、学ぶこと、働くことに直結している。


幼稚園、保育園、学校等に伺い子ども達、若者たちの様子を見ていると、定型発達と呼ばれる子達の中にも、土台が育っていない子、育ちきっていない子が大勢いるのがわかります。
ですから、将来、発達障害という診断名があるかどうか、そもそも発達障害か否か、はそれ自体に大きな意味はなくなると思います。


生涯、学び続け、成長し続ける人生を歩めるか。
社会の中で自立し、働き続けるか。
そこに大きくかかわってくるのは、障害の有無、幼少期に発達の遅れがあるかどうか、ではないのです。
きちんと、動物として、生き物として大事な身体という土台が培われているかどうか。
まさに問われるのは、子ども時代の過ごし方と、各家庭での子育てのあり方。


他人様に迷惑をかけるような“こだわり”じゃなければ、問題ない。
多少、空気が読めなくても、うまくしゃべることができなくても、問題ない。
何よりも、真面目にコツコツと続けられる姿勢、その姿が、凹の部分を凌駕する。
そういった人達は、職場から、社会から歓迎されるはずです。
他人から、社会から歓迎される人達が、口先だけではなく、実際に身体を動かし行動する人達が「社会を変えていく」と、私は思うのです。

2019年9月4日水曜日

子ども達の身体の中に何を入れるか、届けるか

「うちの子、サプリ、飲まないんですけれども、どうしたらよいでしょうか?」というような相談が増えてきています。
サプリが話題になる、ということは、栄養について意識し、勉強している証拠です。
そこら辺の支援者よりも、親御さん達は勉強熱心なのがわかります。


当然、サプリは自然な食べ物とは異なりますので、子どもさんの中には受け付けない子もいて当然です。
サプリが発達の後押しに繋がり、変わっていく人達もいますが、だからといって、みんながみんな、摂るものでも、摂ったから効果があるものでもありません。
むしろ、幼い子ども達は摂らないなら、摂らない方が良いと思います。


食べ物を口から入れ、体内を移動しながら、分解、吸収され、最後に排出される。
もちろん、これらは意識して行うものではありませんが、内臓の運動だといえます。
ある意味、食事を通して、内臓系を育てている。
内臓が動き、刺激を受ければ、それは中枢神経に伝わり、神経、脳を発達させる。
私達は、発達障害を持つ人達の内臓の育ちの大切さを「黄色本」「芋本」で教わりました。
食事も運動だし、子ども達はまさに今、内臓を育てている段階でもあります。


ですから、単純に栄養素だけではなく、どんなものを、どんな形態で、どれだけ摂るか、いつまで摂るか、も考えるポイントだと思います。
基本的には、特に子どもさんの場合には、食事で栄養素が満たされるのなら、それ以上、敢えてサプリを摂らせる必要はない、と私は考えています。
私も、栄養面の大切さを伝える際、サプリの紹介をすることもありますが、それは偏食が強く出ている子の場合や、もともとサプリを摂っている子の場合です。
あとは、親御さんがサプリを摂らせたい、という意思があり、尋ねられてこられた場合です。


実際、サプリを摂取するようになってガラッと変わった子がいるのも本当ですし、反対に変化がなかった子、発達を堰止めしているのはそこじゃなかった子がいるのも本当です。
薬ではありませんが、日々の食事とは異なって、必ず摂取するものでもありませんので、やはり実際に口の中に入れる子どもさん自身がどうなのか、が重要だといえます。
サプリに関しては、以上のように私は考えています。


一方で、日々の食事には、うちの子にもそうですし、相談に来られたご家族にも、無農薬なものをお勧めしたり、農薬や添加物の落とし方について紹介したりしています。
というのも、やはり農薬、添加物、化学物質は怖いからです。
詳しくはいえませんが、全国からの相談や地方への出張などに行きますと、気づくことがあるのです。
たとえば、ある地域に出張したとき、小さな町の一つの学校で、学年の50%が支援級なんてこともあるのです。
普通級の児童と支援級の児童の人数が、1対1の比率。
ここまで極端なことは数えるくらいしか知りませんが、それでも「う~ん」ということが多々ありますし、傾向、共通点があるように思えます。


無農薬野菜を続けるのは、難しい場合が多いと思います。
また、農家さんからお話を伺うと、「自分のところは無農薬、減農で頑張っているんだけれども、周りがバンバン農薬を撒くと…」ということがあるそうです。
ですから、家で調理するとき、農薬が落ちるようなひと手間をかければ良いと思います。
「農薬の落とし方」「添加物の落とし方」などの本も売っていますし、うちも実践していますが、そんなに難しい作業ではありません。
うちの場合は、下の子が10歳になるくらいまでは意識して続けようと思います。
函館近郊は農業が盛んですし、大規模なところばかりですからね。


近年の発達障害の急激な増加、重度ではなく、軽度の発達障害の人達が増えている、という現実。
食事は神経発達の土台であるのと同時に、それ自体が運動であり、発達刺激でもある。
発達刺激にはポジティブなものもあれば、ネガティブなものもあります。
「子ども達の身体の中に何を入れるか、届けるか」という点について、真剣に考えることも一つの発達援助であり、子どもの次の世代、その次の世代の未来を考えることでもある、と私は思っています。


エビデンスが出てからでは手遅れなんてこともありますね。
だから、エピソードから感じとれる心身が大事です。

2019年9月2日月曜日

支援や理解よりも、リハビリという視点

「脳の機能障害と言うよりも、神経の問題だよね」
「神経の発達障害とした方が、実際の人達の状態に合っているよね」
「神経と捉えなおすことで、より良い治療や教育に繋がっていけるね」
といった具合に、発達障害が神経発達障害に変わって6年が経ちます。
自閉症も、ADHDも、LDも、知的障害も、発達性協調運動障害も、神経発達障害になりました。


同じ発達障害でも、どういった機能に課題が生じるかによって、違いが出る。
これが従来の診断名の違い。
同じ自閉症でも、その状態、症状は、一人ひとりで全然異なる。
以上の2点から考えても、脳の機能障害ではザックリし過ぎであり(というか、何も具体的な実態を示していない)、もっと細部の問題であることがわかります。
症状の多様性と、個人の歴史を見ても症状が一定ではないこと。
それこそが、神経の問題、もっといえば、神経同士の繋がりの問題であることを示しているといえます。


しかし、こういった変化、従来の概念では捉えられない人達が多数いるのにもかかわらず、未だに「脳の機能障害」などという言葉が見受けられます。
当初、不勉強、ただ知らないだけ、と思っていたのですが、どうもそうではないようです。
6年も経ったのですから、みんな、知らないわけではないのです。
知らないのではなく、変えたくない、変わるのに時間がかかる、ということ。


親御さん達が、「そうだよね。神経だよね。だったら、やりようがあるよね。育てようがあるよね」という具合に、パッと切り替えられるの対し、専門家と呼ばれる人は、公的な機関、制度というものは、すぐには変わりません。
何故なら、「脳の機能障害」で10年、20年と積み重ねてしまったから。
「脳の機能障害」とは、つまり、治らないということ。
生涯変わらない、だから、「支援の充実」「周囲の努力」「支援を上手に使う」「支援されやすいように育てる」という方向性で、支援者は学び、それを伝えることで、専門家という地位を築いた。
学校も、福祉も、行政も、「治らないから」が出発地点となり、仕組みが作られていった。
だから、突然、「神経だから」「治るから」と言われても、そちらの方に舵を切ることができない。
また、できたとしても、相当な労力(既得権益を守ろうとする抵抗勢力がいるから)と時間がかかる。


近年、発達障害の人達が爆発的に増えています。
韓国、日本、アメリカの順番で増えている。
ヒトの遺伝子は、数十年、数百年単位では大きく変わりっこないので、つまり、遺伝よりも、環境の影響により、発達障害は増えている。
胎児期、いや、精子、卵子の段階から出生後の発達期を通して、様々な環境的な要因によって、神経同士の繋がりに不具合、影響が生じているといえます。


環境要因によって、神経の繋がりに問題が生じたのなら、私達は発達障害に対して、手も足も出ない、ということではありません。
環境によって変わるのなら、環境によって変わればいい。
末端神経を通して、必要な刺激を中枢神経に届け、新しい神経ネットワークを築いていく。
新しい神経ネットワークができれば、脳の機能だって変わってくる。
脳機能の不具合がなくなり、生活に支障がなくなれば、社会に適応できれば、治った以外、言いようがありません。


令和にも残り続けている従来の「脳の機能障害」という概念。
ある意味、移行期間だといえるから、欧米から日本は30年くらい遅れる、とよく言われているから、その概念が残り続けるのは仕方がないことなのかもしれません。
でも、私は即刻、否定する必要があると思います、たとえ、制度や支援、支援者の頭は変えられなくても。
何が一番の問題かと言ったら、支援や援助が、真逆の方向へと進んでしまうから。


神経の発達障害なので、必要なのは末端神経への刺激です。
簡単に言えば、リハビリこそが、支援の中心であるべき。
だけれども、不具合が生じている脳を基準に支援や教育がなされると、「どうしたら、刺激を抑えられるか」「どうしたら、今の状態で働いている脳機能のみを使って、学習できるか」という方向性に進んでしまいます。
そうすると、不具合が不具合のまま。
中には、その不具合が、制限された刺激、環境によって強化されることもある。
これこそが、脳の凸凹をさらに大きくさせ、結局、生きていける環境を狭めることに繋がります。


発達障害を治すためには、新しい神経ネットワークを築いていくしかありません。
ですから、治せる実践家というのは、日頃からリハビリと親和性のある仕事をしている人達なのです。
ガチガチの特別支援専門家ほど、障害を固定化することが上手。
だって、治らない前提で学び、実践し、支援者になった人達だから。
元を辿れば、リハビリを学ぶ機会も、リハビリを取り入れる考えもない人達。


親御さんとお話をすると、「わかりました。発達のヌケがあるのですね。だったら、これから今まで以上に丁寧に育てていこうと思います」と言われる方が多いです。
ゆっくり時間をかけて、ある部分を丁寧に丁寧に育てていく。
何度も何度も繰り返していくような子育ては、リハビリと通ずるところがあると思います。
子どもの様子を見ながら、「これはどう?」「こんな遊びは?やり方は?」というようなやりとりは、育てる主体がはっきりしています。


不具合を起こしている状態の脳に合わせていく環境調整。
今、かろうじて機能している部分に働きかける指導。
いくら大脳皮質に覚え込ませても、大脳皮質内でネットワークを築こうとしても、表面的な理解、マニュアル対応しかできません。
もっと根本的な感覚や運動の神経と繋がらなければ、真の意味で身体の内側から理解し、行動できたとはいえません。


過去に言われたように、欧米と30年の違いがあるのなら、あと24年後に神経発達障害がノーマルになり、OO群が当たり前の話として展開されていくのでしょう。
24年後は、今、就学前の子ども達も30歳くらい。
制度や福祉、教育が変わるのは時間がかかるけれども、自分の頭の中は、今日、この瞬間から変えることができます。
法律改正も、手続きも、「ああ、担任当たった、外れた」も必要なし。


70歳を超えた人の脳内でも、新しい神経ネットワークが作られていくのです。
今の子ども達は、5年前、10年前、影も形もなかった存在。
この前、世に出てきたばかりで、今まさに人生で一番神経発達が盛んな時期を過ごしている。
ご高齢の方が、脳に傷害や病気があった人が、懸命に新しい神経ネットワークを築くためリハビリに励んでいる。
神経ネットワークを築いていくという同じ方向性なのに、「発達障害」という診断名がついたら、たまたま移行期の30年間にいるから、「リハビリじゃなくて、支援を求めます。社会の理解を求めます」でいいのでしょうか。
それに、子ども自身がそれを求めているのでしょうか。


個人で制度や社会を変えるのには限界がありますが、自分自身の神経ネットワークを築くのには許可も、30年というときも、いりません。
動くかどうか、ただそれだけです。