すべての感覚、機能を総動員する遊び

近頃、私の意識は「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」に向いています。
これは偉人や天才などと言われる人達のことではなく、社会の一員として馴染み、生活している人達のことです。
神経発達の遅れだけでは、障害にはなりません。
そこに不適応が重なるから障害になる。
では、神経発達に遅れはあったけれども、不適応を起こさなかった人には何があったのだろうか。
不適応を起こさないばかりか、社会や生活環境に適応し、馴染んでいる人達もいます。
そういった人達の歩んできた道の中に、より良い子育て、発達援助のヒントがあるのだと思います。


自閉症の特性があることや発達に凸凹があることは、良い悪いといった次元の話ではないといえます。
ただそこに、その人がいる、というだけ。
しかし、そこに「適応できない」という要素が加わると、問題になり、障害となる。
結局のところ、特性があるとかないとか、どのくらいあるとか、は大きなことではないのでしょう。
自閉症の特性バリバリでも、ADHDそのものでも、社会に適応できていたら、問題ありません。
病院に行かなければ、発達障害にはならない。


ヒトは、高度な社会生活を営む動物です。
もし、ヒトが途中で進化をやめていたら、自閉症やADHDなどは、その個人、個体の生き方の違いだったでしょう。
学生時代、お付き合いのあった親御さん達は口々に、「この子と一緒に無人島に行きたい」と言っていました。
その言葉の意味するところは、「今の状況、生活から脱したい」という悲痛の叫びだったように思いますが、「障害という概念から離れたい」という欲求もあったように感じます。
無人島で暮らせば、ヒトは動物に戻れますので、障害から解放されます。


ヒトとヒトの間で生きるから、適応する者と適応できない者が生まれてくる。
だから、「みんな、無人島へ行こう!」とは、思いません。
でも、その無人島という環境にこそ、発達の凸凹が障害にならない生き方があるように思えてきます。


直感的に、無人島で生きていける人は、社会の中でも生きていけると思います。
つまり、動物としての生き方ができること、動物としての土台が社会性の土台になるということです。
ヒトは社会性の動物だからと言って、人付き合いのノウハウなんて覚えても、一向に社会性などは培われていかないのです。
大事なのは、社会性の部分ではなく、動物という部分。
動物として、どんな環境でも生き抜けるくらいの自由自在に動かせる身体があるか、生きていくための土台が培われているか。
社会性はノウハウでも、スキルでもなく、進化の先に辿りついたもの。


このような空想、連想をしていると、「障害からの解放」がより良い子育て、発達援助とつながり、結果的に“治る”になるのだと思いました。
目の前の子どもに、「障害」という響きを感じれば、自然と保護する態勢が出来上がります。
それは社会の中で培われたというよりも、学習されたパターンです。
「弱い者は助けましょう」「手を差し伸べましょう」
学校適応の産物。


しかし、私達は人間である前に、動物であります。
目の前の子が、「このままでは、一人で生きていけない」、それこそ、「無人島に行ったら生きていけないだろう」という動物としての感性が発揮されると、どうしなきゃいけないのかがわかります。
動物は、「一生は、この子を守り切れない」という定めに従い、子育てを行う。
だから、必死になって餌の取り方を教える。
そして、その前に、子どもに思いっきり野山で遊ばせる。
自然の中で思いっきり遊ぶのは、自立のための準備。


障害にならなかった発達の凸凹があった人達を見ていて、私は今、こう結論付けています。
発達の凸凹があった人、ある人で、社会の中で自立し、適応できている人というのは、人生の中で、特に子ども時代、思いっきり遊び切った経験がある人達。


脳は、爬虫類の脳があって、哺乳類の脳があって、人間の脳があります。
それぞれの脳の育ちは、もちろん、大切です。
でも、それぞれが完璧に育たなくても、そのどこかに、部分的に未発達やヌケがあったとしても、3つが連結、連動できていれば、適応することができると考えています。
何故なら、社会性とは進化プロセスの最終形だから。


適切な振る舞い方を覚えたとしても、空気が読めなければ、本当の意味で社会性があるとはいえないし、社会の中での適応も難しいといえます。
空気を読むとは、知識、学習ではなく、土台である動物としての育ちの部分。
本来、社会性とは爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳の連携作業です。
つまり、個々の脳の育ちも大事だけれども、連携し合っていないと機能として発揮できません。


思いっきり自然の中で遊んだ子が「治る」というのは、理に適っています。
自然の中で遊ぶというのは、爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳が総動員されるから。
たとえば、木に登る。
木の匂いや感触といった五感だけではなく、どの枝をどの順で掴むかといった計画性、自分の身体の傾きはといった重力との付き合い方、そして「あの高いところまで登れた」という達成感、胸の高鳴り。
すべての感覚、機能を総動員するからこそ、それぞれの連携が生まれる。


連携の素晴らしさは、補えること。
たとえ、未発達な部分、抜けた部分、弱い部分があったとしても、連携し合ったもの同士で補い合える。
それが結局のところ、適応する力となり、自立へと繋がる。
適応して、自立できていれば、障害にはならない。


私の意識が向いている「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」には共通して、好奇心、想いのまま、自由に遊んでいる姿があります。
障害児ではなく、子ども時代をちゃんと子どもとして過ごせた人。
動物としての土台をきちんと培える時間、猶予が持てた人。
感覚、身体機能、3層の脳を総動員して遊んだ経験が、豊かな神経ネットワークを築いていく。
豊かな神経ネットワークとは、補い合えるネットワークのことだと、私は考えています。

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