分をわきまえる

事業を始めて、一年、二年が経つと、徐々に仕事が増え、相談メールも届くようになりました。
短い文面、限られた情報から、いかに的確に返事ができるか、アドバイスができるか。
そういったことを意識しながら、せっせと返事を書いていました。


私が返信すると、すぐにまたメールを送ってくださる方がほとんどでした。
援助、子育ては、その子どもに合わせて作り上げていくものですので、そういったやりとりが生まれるのは自然なことだといえます。
ですから、私はなんの違和感を持つことなく、メールが返ってくるたびに、また連想したことを書き、返信していました。


しかし、あるとき、私のやり方は間違っていたと思うことがありました。
度々、メールが来る人の相談内容が変化したのです、同時期にやりとりしていた方達、皆さんに共通して。
一言で言えば、最初は「〇〇に困っています。アドバイスを」という内容から、「次はどうしたらいいのですか?」「どこに発達のヌケ、未発達がありますか?」という内容に変わったのです。
メールの文面から伝わってくる雰囲気に“寄りかかり”を感じたので、私は大いに反省したのでした。


限られた情報から的確なアドバイス、見立てを行う。
そんなことに意識が向いていたため、いつしか私は、その正答率に心を奪われるようになっていました。
ですから、当然、アドバイス、見立ての内容が、具体的なものになります。
具体的になればなるほど、受け手の思考、考え、工夫の入る余地はなくなっていき、自然と指示する者と指示される者という関係性が出来上がってしまうのです。
メールがたくさん届くのは、私に腕があるからではなく、本人や家族の力を引き出せずにいた自分の至らなさが招いた負の結果だと、そのとき、気づいたのです。


そこから、改めて自分の仕事を見直しました。
メールの文面に、本人や親御さんの想像力、発達する力をかきたてるような想いを乗せるように心がけました。
実際に対面で行う相談、発達援助も、基本的に一発勝負ということにし、自らで考え、試行錯誤していけるような、「流れ」「続いていく」というイメージを持って関わるようにしました。
「後方支援」「後押し」という言葉が、今、自分の仕事にしっくりきています。


私がいくら一生懸命アドバイスしようとも、いくら一生懸命関わろうとも、発達させるのは本人です。
本人がやらなければ発達は生じませんし、そもそも続けていかなければ変化は起きません。
そして何よりも、その発達の凸凹、神経発達の表現は、他の誰のものでもなく、本人のもの。
生涯付き合っていくのは、本人だけ。
そこの意識が薄れた結果、私は独りよがりなメールをせっせと書いていたのだと思います。


対人援助に関わる者は、関わっている瞬間、自分とその人しか見えなくなるものです。
その人にとって自分であり、自分にとってその人。
ですから、あらゆる職業の、あらゆる場面で、対人職同士の越権行為というものが生まれるのだと思います。


学校の先生が、「お子さん、発達障害では」「診断を受けられたら」「薬は飲まないんですか」と、医療が担う部分に手を出していく。
本来、学校の先生は、教え育てるのが仕事のはず。
与えられた環境の中で、ベストを尽くし、一人ひとりの子どもにとって、良い学びを提供するのが役割だと思います。
そこに、発達障害の有無は関係ありません。
発達障害があったら、自分は教えないのでしょうか、支援や薬を求める前に、自分の指導方法を変える気はないのでしょうか。


医師が学校に、家庭に、「褒めて伸ばしましょう」「普通級は難しい。支援級で」「頑張らせてはいけない」などと言うのも、越権行為だと思います。
その医師は、教員免許を持っているのでしょうか、学校のカリキュラムを実際に見たのでしょうか、自分は教えられるのでしょうか。
実際に、子どものことを褒めて伸ばしているのでしょうか、そういった子育てをやっているのでしょうか。


対人援助職の越権行為は、想像力の弱さからくる勘違いです。
自分が関わっているときは、その人と自分だけ。
しかし、その人の周りには、多くの人達が関わり、影響し合っています。
その人の生活が、教室、診察室が中心なのではなく、生活の一部が教室であり、診察室。
対人援助職は、どう頑張っても、主にはなれず、従のまま。
陰である存在が、光を浴びるために前面に出だすと、本人の主体性を奪うことになる。
越権行為は勘違いであると同時に、本人や家族の主体性を奪うことだといえます。


対人援助職に必要なのは、「分をわきまえる」こと。
他人様の人生にできることなど、ほんの僅かなことくらいです。
「教師との出会いが、その子の人生を変えた」というのは、ドラマの世界。
「私が治した」というのは、本人の自然治癒力、成長する力が現れただけだから勘違い。
どんな専門家でも、どんなに我が子を愛する親でも、本人の発達障害を代わってあげることはできない。


発達の凸凹も、その神経発達の表れも、本人のものであり、生涯付き合っていくものです。
ですから、必要な援助とは、本人がより良く付き合っていける、育てていけるための後押しです。
悪い部分を取り除く、異物を取り除く、という類の話なら、対症にあたる専門家が必要。
でも、本人の内側にある本人のものなのですから、他者の行為、想いが入る余地はない。


「生涯に渡る支援を」と対人職は言ってきました。
でも、実際、生涯に渡って関わる人はいません、生涯お金を出して養ってくれる人はいません。
自分の持ち周りが終わったら、それでおしまい。
自立していくだけの賃金が得られる場所を勧めていないのに、就職したら、あとは知らん顔。
自立するだけの教育が受けられる場所を勧めていないのに、卒業したら、あとは知らん顔。
だけれども、自分が関わっているときは、他の人が担う部分にまで手を出す。
どうせ手を出すのなら、その人の人生全部に手を出せばよい、と思います。


私達は、他人は、どう頑張っても、本人の人生全部に関わることはできません、責任を持つことはできません。
人生の主役は本人であり、発達の凸凹も本人のもの。
仲間内の評価と、受けた援助に対する本人の評価は異なります。
専門家なんて言われても、他人様の人生への影響は微々たるもの。
ですから、対人援助職は分をわきまえ、主体である本人がより良く自分の特性と付き合い、自分の凸凹を育てていけるような後押し、後方支援を行う。


「ひと様の人生に、他業種の人達に口出しできるほどのことをやったのか、何か結果を残したのか」
そんな言葉を自分に投げかけられる人は、勘違いを起こしません。
分をわきまえた支援者であり続けるための自戒の言葉です。

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