2019年9月12日木曜日

社会の一員として育つ

「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」なんていう本が売れているらしい。
当然、子どもの方から、こういった類の本を買ってほしい、読んでほしい、参考にしてほしいなどというリクエストはないのでしょうから、これは親に向けた親のための本といえます。
こういったタイトルの本に惹かれてしまうのは、それだけちゃんと子を叱れない、向き合えない親、大人が増えた証拠。


子ども時代、叱られてばかりで自信なく育った私が親になる。
「こんな親だったら良かったのに」という姿をイメージすることで、自分自身の傷を癒していこうとする。
また、幼少期から放っておかれた子、真剣に叱られたことがなかった子、まるでペットのごとく、親の所有物として育った子は、「叱らない子育て」などを肯定することによって、自分自身の生い立ちを肯定する。
「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」は、ある意味、親の自己治療なんだと思います。


「問題行動は無視」というのも、そんな大人たちとの間に親和性があったため、令和になっても、いまだに消えていかないのだと思います。
「問題行動は無視」なんて、コンマ数秒で気づく、まずさ。
問題をそのままにしておけば、無視し続けていけば、問題はエスカレートしていくだけ。
もし、真剣に「問題行動は無視」をやろうとすれば、本人か、周囲が、破滅するまで続けるしかありません。
結局、叱れない大人が、真剣に向き合うことのできない大人が、「問題行動は無視」という言葉に救いを求めただけなのでしょう。


「うちは、叱らない子育ての方針なんです」「褒めて伸ばす方針なんです」という親御さんがいます。
それは、各家庭のお話なので、他人がとやかく言うことではありません。
しかし、実際、とやかく言わざるを得ないことがある。
それは、叱らない子育てが、教えない子育てになっているとき。


悪いことは悪いと教える。
ダメなものはダメと教える。
それは、人間として生きていくために必要なことです。
その家族の中だけで生きていくのなら、叱らず、教えず、褒めるだけ、で良いのかもしれません。
飼い主を噛まずに、尻尾をふりふりしてくれる子に育てば、それでよい。
しかし、子どもでも、社会の一員です。
公園も社会の一部ですし、幼稚園や保育園、学校だって、小さいですが社会。


社会で生きていくためには、他人の権利を侵害しない、危害を加えない、という最低限のルールは守らなければなりません。
反対に言えば、これさえ守れていれば、社会の中で生きていける。
コミュニケーションが苦手でも、人付き合いができなくても、強いこだわりがあったとしても、生きていける。
発達障害の人が、一般の人達からネガティブな印象を持たれるとき、それは特性を持っているからでも、発達に凸凹があるからでもありません。
ただ単に、他人に対し、他人をまきこんで、他人の権利を侵害してくるから。


昨日からの続きになりますが、「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」というのは、人生の中で、特に子ども時代、思いっきり遊び切った経験がある人達であり、「ダメなものはダメ」ときちんと教えられてきた人達だということ。


他人の権利を侵害するような子ども、大人からの相談もあります。
そういう人達というのは、根っこに未発達、発達のヌケがあるものです。
しかし、それ以上に、「ダメなものはダメ」と教えられてこなかったという部分が大きいのです。
結局、「問題行動は無視」「叱ってはなりません」「長所を褒めて」「二次障害にならないように」と言う愛着障害を持った支援者が、愛着の土台に弱さを持った親御さんが、人間として生きるための大事な部分を教えられずにきた、というパターン。


人間がペットを飼うのは、寂しさを埋めるため、というのは有名な話。
それは古来からやってきたことであり、それ自体はより良く生きるための方法。
でも、それを子どもにやってはいけないのです。
支援者が完全なる自立に積極的になれないのは、自立しそうになると妨害してしまうのは、利用者のペット化です。
同じように、「子どもを叱れない」「子どもを叱ると、自分が苦しくなる」という親御さんも、無意識のうちに子どもをペット化してしまっている。
そういった意味で、自立を後押しするのも、妨げるのも、親といえます。


発達の凸凹があって、社会の中で自立し、馴染んでいる人というのは、他人の権利を侵害しない人です。
そういった人達と言うのは、子ども時代、子どもとして過ごせただけではなく、親から、先生から、周囲の大人たちから、一人の子どもとして見られていた人であり、社会の一員として育てられた人。
「ダメなものはダメ」と叱ってくれる大人、真剣に向き合い、教えてくれる大人。
そういった人達の存在が、社会の中で自立し、馴染む姿に繋がっている。


何かトラブルが起きると、「障害があるから」と言う人がいます。
しかし、一般の人達からしたら、障害の有無は関係ない。
だって、社会の一員として苦言や抗議、問題提起をしているのですから。
「うちは褒めて育てる方針で…」なんて、聞いていないし、どうでもよいこと。
大事なのは、あなたのお子さん、社会の一員として問題ありますよ、他人の権利を侵害していますよ、ということなのです。


ヒトは、人になり、人間になる。
ヒトは動物。
人は知恵を持つ者。
人間は人の間で生きる者。
子どもをペット化してはならない。
何故なら、人の間で生きることを学べないから。
そういった子ども達が大人になると、社会に適応できず、自立が難しくなる。


「診断を受けずに大人になったから、二次障害になった、自立できない」というのは、支援者の方便。
早期から診断を受け、早期療育を受け続けた大人も、自立できていないし、併存症を持っているから。
つまり、診断の有無ではなく、育ちの問題。


障害児ではなく、一人の子どもとして、ヒトの部分を育て切ったか、切れるか。
障害児ではなく、一人の子どもとして、社会の一員として接してもらったか。
障害児ではなく、一人の子どもとして、将来、人の間で生きるために必要な「ダメなものはダメ」を教えてもらったか。


発達に凸凹があるから、「自立できない」はウソ。
発達に凸凹があるから、「問題を起こしてもしょうがない」は甘え。
発達に凸凹があろうがなかろうが、動物としての土台の部分、人と人の間で生きるための土台の部分が育っているかどうかが、重要なのです。
つまるところ、子育ての話。
それを障害の話にすり替えてしまってはならないのです。


未発達なところは育てる。
人間として生きていくために必要なところは教えていく。
その育て方、教え方の部分で、特性という概念、視点が出てくるだけ。
「障害があるから、教えなくていい」というのは、子を一人の人として見ていない表れ。
障害児である前に、一人の子であり、人間です。
その基本的な考えがブレなければ、「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」に育っていくと、私は考えています。

0 件のコメント:

コメントを投稿