【No.1390】20年間、この世界に身を投じてきた私の結論
20年前、私が学生だった頃、「地域の中核となる支援機関ができてほしい」と親御さん達が願い、行動していました。
そして発達障害者支援センターができました。
ここが中心となって、学校や事業所のコンサルテーションを行い、全国また海外から有名支援者を呼び、講演会や研修会を開催。
この地にいても、いろんな資格がとれるようになったのです。
親御さん達が常々口にしていた「支援者の質が」「専門性が」もクリアされると、みんな、期待していました。
またそれから5年、10年が経ち、親御さん達が「大変だ」「大変だ」と言っていた放課後の余暇活動、夏休み、冬休みのサポートをしてくれる児童デイサービスができました。
最初は数名の親御さん達が立ち上げた児童デイがちょこちょこと。
そのあと、福祉法人が参入し、今ではよくわからない民間企業が参入。
学生ボランティアに頼っていた放課後、長期休みも、選べるくらい児童デイが増えました。
「診断できる専門医を増やすべきだ」という声がありました。
上記のようにサービスが増えても、それを利用するための診断が必要だからです。
半年、1年待ちでは「困る」と言うのです。
でも、親御さん達がイメージしていた「発達障害専門病院」は増えませんでした。
そのかわり、地域に精神科が増え、そこで診断、処方してくれるケースが増えたのです。
養護学校は特別支援学校に変わりました。
でも中身は変わりませんでした。
「知的障害のない発達障害者にも支援を」という新たなニーズも声が上がってきました。
それまで支援対象ではなかった普通級にいるような子ども達も、どんどん支援対象になり、また支援対象になるから先生も病院を勧める、服薬を勧める、というサイクルができあがりました。
「知的障害がある子ども」から「知的障害のない子ども」になり、「知的障害のない若者」になり、「知的障害のない大人」へと対象は拡大。
今では「なにかこまった」といえば、すぐに『発達障害児・者』になることができます。
支援が充実してくると、「できるだけ早期に診断。早期に療育」と言うようになってきました。
もちろん、これは提供する側のセールストークでしたが、親御さん達の焦燥感、不安感に着火し、あたかもそれが善であり、それが唯一の方法、救いであるかの如く、我先にと病院に駆け込む。
で、見事に0歳から診断を受けることができるようになったのです。
そして親子教室に始まり、幼稚園に行くような年代になれば、療育に通うのが標準のパターンに。
0歳で診断を受けれるようになった。
3歳ごろには療育に通えるようになった。
特別支援級も、支援校も選択できるし、児童デイも、支援機関の相談も利用できるようになった。
企業に求められる障害者雇用率は上がり続け、大人の発達障害における医療も、就労支援サービスも、グループホームなどの生活支援も、20年前と比べれば雲泥の差。
20年前の親御さん達が求めていた社会になったのです。
じゃあ、子ども達はどうなった?
さぞかし、症状が改善し、課題が解決し、二次障害が避けられ、投薬の量が減り、自立し社会に出ていく子が増えたことでしょう。
でも実際は違います。
20年前の福祉事業所は知的障害を持つ人ばかりだったのに、今では軽度や知的障害のない発達障害者でいっぱいになっている。
事業所のほうも、理由をつけて、重度や課題を持つ人ではなく、軽度でおとなしい人を選んで利用させている。
過疎の地域に建てられた入所施設も同様で、以前なら一般就労できるくらいの人も、どんどん入れられていく。
発達障害を対象とした向精神薬も年々、増える一方。
就学前の子ども達も飲んでいるのが普通になった。
早期診断、早期療育、支援センターに、児童デイ、特別支援教育で、みんな、自立して社会に飛び立つはずじゃなかったの?
「〇〇さえあれば」が叶ったのが今でしょ。
結局、親御さん達はギョーカイに利用されただけ。
医療は発達障害という新たな利権を手に入れ、福祉は新たな産業を得た。
もちろん、親御さん達はいろんなサービスが受けられるようになり、ラクになりましたよ。
社会の偏見だって、診断のハードルだって、だいぶなくなった。
でも当時から言っていたでしょ、「生まれつきの障害で治るようなものじゃない」って。
ここが変わらなければ、支援はただギョーカイ、医者、支援者を太らせるだけ。
どうせ生涯支援を受け続けないといけない存在なら、自立じゃなくて、介護しやすい人間をどう作っていくか、コントロールしやすい方向に進んでいくでしょ。
ギョーカイが「生まれつきの障害で治らない」に固くなにこだわるのは、それが彼らの利益につながるから、それが彼らにとって一番楽な方法だから。
このギョーカイの歴史を見てきた私たちからすれば、「どうして、そんなにも有難がる?」
みんな、わかったでしょ、ギョーカイに頼れば頼るほど、彼らが敷いたレールを歩けば歩くほど、子ども達本人は自立から遠ざかっていく。
挙句の果てに、ただ「発達が遅れた状態」の子ども達までをも、「発達障害」にし、支援の網にかけていく。
診断を見逃すリスクよりも、誤った診断してしまうリスクのほうが格段に大きい。
だから、発達障害は医療でもなくて、福祉や支援でもない。
これは発達の問題なので、子育て、家庭の話なのです。
それが20年間、この世界に身を投じてきた私の結論。
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