【No.1387】ハッタツの世界はトラップだらけ

ある人が「マスクで躓いているような人に、ワクチンとか、免疫とかの話できないっしょ」と言っていました。
だったら、うちの領域でいえば、「発達”障害”で躓いている人に、身体アプローチとか、原始反射とか、神経発達とかの話できないっしょ」になりますね(笑)


ハッタツの世界はトラップだらけです。
まず「発達”障害”」の罠。
そもそも「障害」としていることが間違いで、一言でいえば外れちゃっている状態。
「なにから外れちゃっているか?」
それは一般的な発達過程、定型発達と呼ばれるものではありますが、この一定の発達過程から外れると「問題なの?」「障害なの?」という疑問が出てきますね。


普通に考えればわかりますが、どの子もみんな同じ発達過程を通るわけじゃありませんし、その子の持っている資質や生活環境との関係でばらつきが出てくるものです。
百歩譲って「決められた枠からはみ出ると問題」だとしても、それが将来にわたって問題になるかは別問題。
小学校入学までしゃべらなかった子が、突然、しゃべるようになることもあるし、10歳くらいまで他人が何を言っているかわからなかったけれども、急に聞き取れるようになり、勉強ができるようになるってこともある。


もっといっちゃえば、発展途上国など学力が問われる社会にいれば、学習障害も、知的障害もないし、多民族国家に行けば自閉症も、ADHDもない。
むしろ、そういった世界では何か一つのスキルに没頭できる人間、動き回ってあれこれできる人間のほうが生き延びれたりもする。
つまり、診断も、定型発達という基準も、障害名も、人為的に作られたもので、それ自体がその人の人生を決定づけるものではないってこと。
年端もいかない子と親御さんを捕まえて、「あなたの子は発達障害です。一般的な子育てはムリです。支援が必要です」というのは不安商法で取っ捕まえても良いレベルですね。


「個別指導」という罠は、「この子に合わせた方法で指導すれば伸びる」と勘違いさせる。
問題の根っこは指導法じゃなくて、「どうして集団では学べないのか?」そっちでしょ。
幼稚園や保育園、就学後の小学校で、同年齢の子と同じような環境で学べないのは、その学ぶための準備、発達課題がクリアできていないから。
指導法に目を向けると、いつまでも「よい指導法探し」から抜け出すことができない。
よく見る専門家、療法、アプローチの「ウィンドーショッピング」がそれ。
新しいモノ、評判の良いモノに飛びついて、結局、一貫性がなくて子が伸びないってこと、多くないですか?


自立しない「自立支援」。
つきっきりで大人があれこれ手足を出すから、却って依存が増して自立して行動できなくなる。
「早期診断、早期療育」という罠に引っかかると、ギョーカイのエスカレーターに乗せられ、支援から抜け出せない子が出来上がる。
「支援なしでは生きられない子」を見て、支援者は「支援を受けながらの自立」などと言葉遊びをする。
「健常者だって、米や野菜は作っていないじゃないか。誰かの手を借りて生きているじゃないか」というアクロバティックな戯言で説得してくるのも、ギョーカイ名物ですね。


「就労支援」という罠は、一般の人にはわかりづらい。
「就労するための支援を受けているのだろう」と思うでしょうが、実態をみれば、「これじゃあ、いつまでも就労できないよな」って内容ばかり。
一般社会ではもうやらないだろうというような軽作業をしている。
もし今後の社会でもその仕事があり続けるとしても、自立して生活できるだけの賃金は得られないような仕事。
もちろん、認知的に、症状的に重い人がそういった内容で支援を受けるのはあっているかもしれませんが、同時に認知的な発達につながるような、症状を和らげ、軽減していくようなことをやっていく必要もありますよね。
福祉的作業所で働いている支援者、当事者、そしてその家族で本当に就労を目指している人はどのくらいいるのでしょうか。


「支援者」というのも、子どもさんは特に”発達”を支援してほしいのに、実態は介護しているような支援者が多い。
特別支援学校の先生もそうで、教えているよりも指示を出している、手を貸しているほうが多くない?って感じます。
児童発達支援、放課後児童デイも、敢えて一か所に集める必要がありますか?それって幼稚園や保育園で、学童保育でできませんか?親が、家庭がやればいいのでは?という内容もあって、「支援を受けているのは、その地域に住んでいる働きたいなぁ〜と思う人達では?」と感じることも。


「医療費がタダ」「3割負担でOK」というのも、それは無償化じゃなくて税金化。
少ない自己負担は、その分、利用していない誰かが支払ったお金ってこと。
重度加算が欲しくて、検査・判定の前日は子どもを寝させないことや、役所や病院でどれだけうちの子が大変かを訴え、より多くの補助と支援を得ようとすることもあるけれど、それは税金を搾取する行為にも見えちゃいますね。
まあ、「今回も、重く書いておきましたから」と言って行政に提出される医師の意見書も大問題ですが。
「税金や補助、支援を受けなくてもよい状態にしていく」を目指していない支援者、医師、家庭がいつまでも同じ問題で困るのは、ある意味、それを望んでいるからでしょう。
「無償化」は喜び、飛びつくものではないトラップの一つです。


このように素直に受け止めると、誤った方向、つまり、自立や課題解決、よりよい発達と成長から遠ざかっていくのが特別支援の世界です。
そもそも敢えて診断名をつけて、ギャーギャー大騒ぎする必要はないのです。
たとえ発達に遅れや凸凹があったとしても、その子がよりよく成長できればいい、自立できればいいわけです。
幼稚園や保育園で「うちでは無理です」「支援を受けることをお勧めします」なんて言われるのなら、別の園を探せばいいわけです。
「私たちが〇〇くんの成長を応援します」という園がなければ、おうちでよりよく育てちゃえばいい。
学校だって、そんなに期待する必要はなくて、地域資源を使ったり、家族の関りを通して学習面、運動面、対人面を育んでいけばいいのではないでしょうか。


「3歳までにこれができて、10歳までにこれができる」などと考える必要はなく、その子のペースで時間がかかったとしても成長していければいい。
子ども時代、知的障害を持っていると言われていた人たちも、20代、30代と付き合っていくと、「かなり認知面、コミュニケーションの面で伸びたな」「同年代と変わりないくらいまで成長したな」と感じることばかりです。
「〇歳までに△△ができる」というのは他人が勝手に決めた尺度であって、本人にすれば「そんなこと知ったこっちゃね~」って感じですね。


「発達に遅れや凸凹があるから自立できない」のではなくて、「自立できない人の中に発達に遅れや凸凹がある人がいる」っていうのが真実。
といいますか、私を含めて自立した生活を送っている人だってみんな発達に偏りや凸凹、課題もあるし、発達心理学者が決めた発達通りに進んだ人から順番に就職、自立するわけじゃないでしょ。
資質と環境との折り合いがつければ生きていけるのが社会。
「支援が必要な子(人)」というのが一番の罠かもしれませんね。
支援がなくても、一人ひとりの内側に発達する力を持っているのですから。
支援がなくても、傍に一番の理解者であり、発達の後押しができる家族がいるのですから。




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