2019年10月17日木曜日

受け継いだ自閉脳、作られた自閉脳

「自閉症とは、脳のタイプの違いである」
若い頃、このようにトレーニングの中で教わりましたし、15年ほど経った今でも、そう思っています。
一言で言えば、情報処理の仕方に特徴がある、ということ。
ですから、それ自体、良いも、悪いも、ありませんし、障害とは違う話だと思います。
自閉症のままで自立し、幸せな生活を送っている人達がいますので。
自閉症自体が障害だとしたら、すべての自閉症者が自立できず、生きづらさを抱えることになります。


自閉症が脳のタイプ、情報処理の仕方の一つだとしたら、障害の部分、生きづらさの根っこは、別のところにあるのだといえます。
多くの自閉症者が苦しむところは、情報処理の仕方というよりも、感覚の違いであり、自律神経の乱れであり、内臓や運動機能の不具合です。
こういった不調、不具合は、自閉症の人だけに生じるものではありません。
なので、同じ悩みを持つ人達が改善し、治していったアイディアが、その自閉症の人にも当てはまる場合が大いにあります。
同じ不調、不具合なのに、自閉症以外の人は治り、自閉症という脳のタイプを持つ人だけが治らない、ということは考えにくいのです。
不調が治った自閉症の人と、治らない自閉症の人がいるのが、何よりの証拠です。


感覚も、自律神経も、内臓も、運動機能も、育てられることがわかっていますし、そういった育て方のアイディアを持っている実践家の人達は、特別支援の世界の外にたくさんいます。
自閉症ではなく、人としての悩みなのですから、その悩みに応えられる専門家、実践家を頼るのが一番です。
自閉症という脳のタイプ、情報処理の仕方に合わせた子育て、教育をしたいのなら、特別支援という括りにこだわる必要があるかもしれませんが。


自閉症が脳のタイプの一つだとしたら、その多くが親やその上の世代の人達から受け継いだものだと考えられます。
実際、発達のヌケや未発達の部分が育ったあとも、自閉症が残り続ける子ども達がいます。
同じ自閉症という診断名を受けた子どもさんでも、未発達ゆえの自閉症っぽい情報処理の仕方か、もともと持っているタイプとしての情報処理の仕方か、は全然違いますし、すぐにわかります。


子どもさんから感じる雰囲気、空気感、佇まいが違いますし、そういった雰囲気を感じた際は確認の意味で、親族に似たような方がいらっしゃらないかを尋ねます。
だいたい親御さんのどちらかが、世の中の切り取り方、捉え方に特徴があります。
その場合は、未発達の部分を育て切ったあとでも、いわゆる自閉症らしさは残り続けますし、その特徴にあった学び方、生き方をしていけば良いですね、というお話をします。


未発達ゆえの自閉症っぽさと、本来の資質として、脳のタイプとしての自閉症らしさは、まったく異なります。
しかし、今の診断方法では、また特別支援の世界では、一緒くたにされてしまっているのが現状です。
私のところに相談にみえるお子さんで、「自閉症」と言われてきた子の多くは、ヌケや未発達の部分が育つと、同世代と変わらない普通の子になります。
イメージとしては、発達が進んでいくと、それに合わせて自閉症っぽさが薄れていき、本来の資質が表に出てくる感じです。
治ってくると、ガラッと性格、表出、表現、表情、雰囲気が変わってくるのが特徴だといえます。
ようやく、その子らしさが出るようになったね、というお話は良くしますし、治り具合を確かめる指標にもなります。


ただ最近、自閉症の雰囲気は感じないんだけれども、親御さんや親類にもそういった特徴を持った人がいないんだけれども…。
何よりも原始反射が残っていたり、運動発達にヌケがあったり、感覚等に未発達があったりしないんだけれども、自閉症のような世の中の切り取り方、処理の仕方をする子がいます。
どう考えても定型発達だし、そういった発達を進んできた子なのに、自閉症らしい。


そういった子ども達と関わる機会が増えていく中で、やっぱりテレビやタブレット、ゲームからの影響を感じます。
赤ちゃんのときから、スマホで動画を見せていた。
幼稚園から帰ってきたら、ずっとタブレットで動画を観ている。
ゲームを始めたのは、就学前…。


脳が作られる時期、環境に合わせて脳を作り上げている時期というのは、その分、脳が柔らかい時期だといえます。
聴覚等の発達の遅れのために、偏って視覚に頼らざるを得ないゆえの自閉症っぽさ。
持って生まれた脳のタイプとしての自閉症らしさ。
そうではなく、強烈な視覚刺激と非現実的なスピードの場面展開に脳が合わせていった結果、視覚処理に、時間の流れよりも早い情報処理に特化した脳が作られた子ども達。
自然な流れに合わせられなくて、生きづらさを感じている子ども達が増えてきたように感じます。


こういった話をすると、「今の子ども達は、みんな、ネットも、ゲームも、動画も、観ている。もし、その影響で自閉症になるのなら、みんな、自閉症、発達障害のはずだ」と言う人もいます。
しかし、ポイントは、脳が作られる時期、8歳までに、どのくらい触れたか、またどれくらい早い時期から触れ始めたか、ということです。
始まりが幼ければ、幼いほど、時間が長ければ長くなるほど、自然の刺激と人工的な刺激のバランスが崩れてしまいます。
当然、ヒトは生まれた環境により良く適応する戦略をとった種ですので、早くからの刺激に、長くいる環境に脳は馴染んでいくのです。


自閉症の子ども達の多くがタブレットやゲームを好むのは、脳のタイプとして心地良いから。
でも、環境、刺激に合わせて脳を作ったから、タブレットやゲームが心地良くなった子ども達もいます。
自然な流れとのズレ、違和感ですので、実際は、それが当たり前だと思い、生活している子ども達もいるはずです。
子どもに見せているわけではないけれども、テレビがずっとついていたり、親御さん、兄弟がゲーム、タブレットを使用していたりすると、幼い子もそれを見ている場合があります。
実際、相談でもありました。
0~8歳までのお子さんがいるご家庭は、お気をつけください。

2019年10月16日水曜日

身体性を伴わない言葉

「言語訓練を受けています」というお話は、実際、親御さんの口から聞かなくても、お子さんを見ればわかるものです。
単語レベルで止まっていたり、2語文、3語文を話したとしても、その文章が1つのパターンになっていたりします。
そして何よりも、コミュニケーションとしての言葉ではなく、「音をそのまま覚えました」「言いました」というような発し方が特徴的だといえます。


動物としての発声から発語という発達の流れとは異なり、知能でカバーし、暗記した言葉。
そういった言葉からは、どうしても感情が伝わってきません。
その雰囲気を感じると、言語訓練を連想するのです。


驚くことに、未だに具体物や絵、写真を見せて、それに答えさせるような言語訓練が、専門家の療育として行われているようです。
それは、小学生の英語の授業と同じレベルです。
りんごの絵を見せて、「アップル」と言うみたいな。
発声から発語、会話、コミュニケーションというような発達の流れを進んだ子、また話すための脳と身体を培ってきた子なら、そういった覚え方でも効果があるでしょう。


でも、発達障害の子どもにおける言葉の遅れは、外国に行った子が初めてその地の言葉に触れる、覚えるといったものではありません。
言葉を知らないのではなく、言葉を発する準備が整っていない、ということ。
同世代の子ども達と同じように、周囲に言葉があるのだけれども、それが意味ある言葉として捉えられない、耳にした言葉を声に出すことができない、という部分に課題があるといえます。


言葉を聞く準備が整っていない子に、言語訓練をしたら、どうなるでしょうか。
真面目な子どもほど、相手の口元に注目し、必死にその口の形にしようとするでしょう。
言葉を話す準備が整っていな子に、言語訓練をしたら、どうなるでしょうか。
素直な子どもほど、聞いた音をそのままの調子で、リピートするでしょう。


こういった覚え方をしてきた子ども達は、場面と一緒に言葉を覚えてしまいます。
実態を伴わない、意味を伴わない言葉ですから、どうしても場面をフックにしなければ、覚えられないし、思いだせないのです。
ですから、彼らの会話は般化が難しいし、文章丸ごと、一つの型として覚えている。
文章の一文字でも変われば、理解できなくなるのは、そもそも理解を伴った言葉ではないから。


そのような姿を見て、支援者達は「それが自閉症だ。特性だ」と捉えます。
でも、ヒトの発達の流れに逆らった療育がなされた結果、こういった丸暗記の言葉が生まれることもあります。
成人した方達ともお会いしますが、このような言葉の使い方をされる人達が少なくありません。
どう見ても、知的な問題は大きく感じないような人でも、意味を伴わずに言葉を使っているような人もいます。


驚いたことに、大学生の若者は、言葉を数式のように当てはめながら会話をしている、と言っていました。
思ったことがすぐに言葉になる私からしたら、ひと手間も、ふた手間も、多く労力を使っている感じがします。
それでは、会話すること自体に苦手意識を持ちますし、相当な疲労感があるのだと思います。
当然、その場の空気を読んだり、他者支点の想像したりすることに手が回らない、回ったとしても、おろそかになってしまいます。


「言葉が出ないのなら、言葉を覚えさせたらいい」
そういったヒトの発達を無視した療育は、とっくの昔に終わっているものだと思っていました。
定型発達の子どもは、そういった覚え方はしませんし、それは外国語を学問として学ぶやり方です。
言語発達とは似て非なるものです。


強弱のない特徴的なしゃべり方は、自閉症、発達障害特有のものではなく、学習によって身に付けた部分だといえます。
だって、言葉の習得自体が学習だから。
赤ちゃんは、周囲に溢れる言葉を聞いて、内側の言葉のストックをしていきます。
同時に、舌を動かし、いろんなものを嘗めたり、食べたり、空気を出したり吸ったりしながら、発語の準備をしていきます。
そうやって一年以上かけて準備を整え、発声から言葉へ発達させていくのです。
赤ちゃんは、発達と同時進行で、母国語を学習している。


この発達の部分に課題があるのが発達障害の子ども達であって、学習の部分には問題ない子がいます。
そういった子が、型にはまった訓練を受けると、学習の脳力を使って音を覚える。
意味の伴わない、身体性を持たない言葉、しゃべり方はこうやって造られていくのです。


訓練的な、身体性を伴わない言葉の学習は控えた方が良いと思います。
やるとしても、発達のヌケ、未発達の部分を育て、発声から発語への準備が整った後にやられた方が良いといえます。
親心として言葉を教えたいし、早く言葉が豊かになってほしいと願うのもわかりますが、言葉には発達の順序、進化の流れがありますので、それに従って育んでいく方が良いのです。


言葉には、発達の側面と学習の側面があります。
脳の表面にだけ働きかけるのが、学習であり、ひと昔前、ふた昔前の療育だといえます。
この両側面から、子どもの言葉を育んでいく。
言葉も道具の一つですから、使いこなすための身体性も重要なのです。
身体を通して、五感を通して、言葉を発達させていくイメージを持たれると、より良い育みへと繋がっていくと思います。

2019年10月15日火曜日

LDと言われている子ども達の中に

発達障害の“引き金”である環境リスク要因を見ると、現代社会において、それらを避けて通ることはできないと感じます。
山にこもるか、無人島に行くか。
いや、山は空でつながっていて、島は海でつながっている。
そうなると、この地球上、どこに居ても、違いは「リスクの程度の違い」だといえます。


相談の中には、「LDという診断を受けた」「読み(書き)で課題がある」といったケースもあります。
小学校低学年くらいは、本人の認知の部分でカバーできたり、同級生との違いが大きくなかったりすることがあります。
しかし、3年生くらいから学習内容も、求められる処理スピードも、グンとレベルアップしますし、同級生との違いも目立つようになります。
そうなると、親御さんも、周囲も、見て見ぬふりができなくなり、当然、本人がだんだんしんどく感じるようになってきます。


今は、だいぶ合理的な配慮が認められるようになり、タブレット等の学習をサポートする機器を使って学習する子ども達が多くなりました。
当然、勉強の目的は知識や技能を獲得すること、考える力を養うことですので、どんな道具を利用しようとも、その子に力がつけば良いわけです。
なのに、親御さんの中には、単にタブレットを利用すれば良いとは感じない人達がいて、私みたいなのに相談に来るわけです。


相談に来る親御さん達は、我が子のしんどさに目を向けています。
タブレットを使えば、学習面は大丈夫かもしれない。
でも、本人のしんどさは、タブレットでは改善できない。
文字を読むのにも、書くのにも、相当な苦労があるとしたら、それは生活すること自体、もっと言えば、見ること、手を動かすこと、そういった一つ一つの動作に生きづらさを抱えているということになる。
その生きづらさをどうにかしたい、改善したい、治したい、というのが親御さん達の願いです。


LDも、神経発達障害ですので、発達のヌケや未発達の部分、原始反射や脳のバランス等を確認し、神経発達を後押ししていくのが基本となります。
発達のヌケ等が育ってくれば、見ること、聞くこと、身体を動かすことがラクになってきます。
それが結果的に、読み書き計算などの学習面へつながっていくのです。
学習スタイルとしてタブレット学習を続けていく子もいますし、そういった機器を使わなくても学習できるようになる子もいます。


しかし、相談に来る子の中に、上記のような子ども達と雰囲気が異なる子がいます。
発達のヌケ、未発達も、ほとんどない。
原始反射が残っているわけでもないし、定型発達そのもの。
でも、学習面で課題がある、LDを指摘されている…。


こういった子ども達に共通して感じるのは、眼の違和感です。
表情は自然で豊かなのに、眼が止まっている感じ。
目だけ表情がないと言えばいいでしょうか。


眼が止まっている感じのお子さんには、他にも共通点があります。
ひらがなや漢字は読めるんだけれども、文章も読めるには読めるんだけれども、文字を飛ばして読んでしまう。
そして、幼少期からテレビやタブレットで動画を長時間観ていた、ということ。


脳がいろんな刺激を受け、形作られている乳幼児期。
その時期に、自然界と異なるスピード、光刺激を受け続けると、それに脳が適応してしまいます。
そうなると、自然な時間の流れよりも早く脳が反応し、処理しようする。
文字を読む、物体を見るスピードと、脳のスピードのバランスの崩れ。
脳にリードされるように文字を読もうとすると、文字が飛んでしまいます。
ですから、一つ一つの文字は読めても、流れで読もうとしたら、脳との間でバグが生じるのです。


大人たちが忙し過ぎると、子どもにしわ寄せがいくものです。
テレビを観ている間に食事の準備。
良くないとは分かっていても、静かにしていてもらうためにスマホやタブレットで動画、ゲーム。
やりたくてやっている親はいないでしょうが、少なからず、いや、大いに影響を与えるのが自然界にはないスピード展開と強い光刺激。
頭の柔らかい乳幼児期の子ども達の脳は、今この瞬間も環境に適応しようと躍動しているのです。
600万年の人類の歴史から見れば、ヒトはタブレットに対応できるほどの身体を持ってはいないといえます。


「見せていたのは教育テレビだけです。子どものアニメだけです」とおっしゃる親御さんもいます。
しかし、非自然界の刺激には変わりありません。
ですから、脳が柔らかい時期、特に8歳までのお子さんには、親が配慮する必要があると思います。
コントロールできる環境リスク要因は減らしたり、避けたりするべきです。


上記のような文字が飛んでしまう子ども達、背景に早い時期からの長時間のメディアがあった子ども達は、改善、治すまでに、とても時間がかかります。
私の印象では、発達のヌケ、未発達の子の方が早く治る。
何故なら、気づくのが小学校中学年くらいからだから。
ヌケや未発達は育てれば良いけれども、脳が適応しちゃった、その刺激に合わせて作り上げられたあとから、もう一度、どうにかしようとするのは、とても難しいし、時間がかかるのです。
脳の可塑性もあるけれども、育っていないのを埋めるのと、育ったのを変えるのは、また違った意味あいになります。


それに脳が適応しているということは、メディアがある生活が、その子にとって普通だということです。
改善の方向としては、まずメディアを制限することですが、本人からの激しい抵抗があるのが一般的です。
メディアを取り上げようもんなら、発狂するような子どももいるくらいです。
ですから、相談に来られた方で、ある程度、大きくなったお子さんの場合は、習い事など、別の楽しい活動を生活の中に取り入れていくことで、メディアに触れる時間を減らしていく、というのが現実的な話になります。


そういった点で、まだ脳が作られる段階で、親御さんがリードしやすい乳幼児期に気を付けていく、治していくのがベターだといえます。
もちろん、ベストはまったく触れないことです。
でも、どうしてもメディアの力を借りないといけない生活場面があるときは、限定的に、1時間を超えない範囲で利用するように配慮する。


かつて、「自閉症=構造化、視覚支援」だったように、「LD=タブレット」みたいな図式ができてきているのが、私の心配しているところです。
支援者としてもラクだし、本人にも効果が見られる。
そうなると、そういった単純な図式が一般化し、子ども自身の内的な世界が見捨てられていく。
LDの子ども達が勉強できるようになることは素晴らしいこと。
でも、内的なしんどさを抱えながら生きていくことに対する援助と治療は忘れてはいけません。
もしかしたら、背景に発達のヌケや未発達があるかもしれない。
もしかしたら、メディアからの刺激による影響があるかもしれない。


環境リスク要因を無くすことはできなくても、減らすことはできます。
親のラクだけではなく、子の生きるラクに目を向けていくこと。
それが文明、科学の恩恵を受けながら生きている私達の責任でもあります。

2019年10月11日金曜日

退行することで発達のヌケは埋まる

「わかりました。自然の中で思いっきり遊ぶようにします!」
相談やセッションのあと、山や海、川、公園の中で遊ぶようになるご家族が多くいらっしゃいます。
それまで室内で療育的なことを行っていた方も、休みのたびに遠出したり、キャンプを行ったり、できるだけ自然の中で刺激を受けながら過ごすように、と変わっていかれます。


発達障害を持つ子ども達は、言語を獲得する以前、2歳までの発達過程の中にヌケがあることが多いです。
なので、多様な刺激を全身で浴びることで感覚系を育てる、複雑で揺らぎのある自然の中で身のこなし方、基本的な運動機能を養う。
そういったことが、発達のヌケ、未発達な部分を育むことに繋がります。


それまでの生活とは異なり、できるだけ自然の中で遊ぶようにしているのに、順調に発達する子どもさんと、そうではない子どもさんがいることがわかります。
見立てでは、「もうその発達課題はクリアしていてもいいのに」「もう治っている頃では」という具合なのに、イメージよりもゆっくり進んでいる感じです。


実際に確認したり、状況を伺う中で、なんとなく、その違いがわかるようになりました。
「遊ぶ」と「遊ばせる」の違いです。
その子の持つ発達の流れどおりに進んでいるご家庭は、とにかく一緒に遊んでいます、親御さんが。
親御さんも泥んこになり、びちょぬれになり、とにかく思いっきり遊んでいる。
その姿からは、子どもと大人が遊んでいるのではなく、子どもと子どもが遊んでいる雰囲気を感じます。
どちらかといえば、親御さんの方が楽しんじゃってるって思うこともあるくらいです。


一方で、自然の中で遊ぶようにしたんだけれども、本人の発達の流れからしたら、ゆっくりだなと感じるご家庭は、子どもを遊ばせているような気がします。
子どもが遊ぶ様子を傍で見ている感じ。
「今、我が子に必要な発達刺激は“揺れる”だから」と頭で考え、ブランコや吊り橋に誘うような、準備したよ、さあ遊べ、みたいな雰囲気があります。


「遊ぶ子どもと、それを観察する大人」では、同じ発達刺激でも、同じ遊び、運動でも、発達するスピード、刺激の伸びやかさは変わってきます。
何故なら、子どもが子どもに戻り切れないから。
もっと言えば、動物であるヒトに戻り切れないから。
大人の目は、指示は、誘導は、文化に染まっていて、少なからず、頭が主導で動いています。
ですから、子どもとしても、そういった雰囲気を感じ、影響を受けるのです。
遊ばせている大人と、遊んでいる子ども、という関係性が成り立っているとき、子は期待された動きをするようになります。


発達のヌケを育て直す、言葉以前の段階を育てるには、その時期のヒトに戻る必要があります。
7歳児のまま、2歳児の発達のヌケは育てられない。
同じように大人も、大人のままでは、言葉以前の段階を埋めることはできません。
つまり、発達のヌケを育て直すキーワードは退行です。
子どもも、成人も、そして育てる親も、退行する必要があるのです。


「天気が悪い日以外は、必ず外で遊ぶようにしているのですが…」
そういった報告、相談を受けることがあります。
そのとき、私は「〇〇くんを遊ばせているんじゃないですか?」と返します。
そうすると、みなさん、ハッとされるのです。
毎日、外で遊んでいたけれども、遊ばせているだけだった、自分はそばで守っているだけだった、と。


どこか良い遊び場がないか、とネットで探す。
この遊びが、今、必要な遊びだろうと、遊具へ誘う。
スマホで時間を確認しながら、遊んでいる様子を見守る。
変化があれば、ネットに上げようと、スマホのカメラを構える。
すべて大人が、頭主導で行っていること。
これでは、遊ばせる関係性を脱することはできません。
ですから、大事なことは、親御さんも退行すること。


もちろん、事情があって一緒に遊べない親御さんもいるでしょう。
でも、気持ちだけでも、心構えだけでも、退行することはできます。
「ああ、汚してしまって」
「同じことを繰り返しても、あまり意味がないのでは」
「別の遊びに促そう」
「このアングルで、動画が撮れたら最高だな」
そういった大人の考え方、そういった雰囲気の視線を止めることは大事です。
言葉以前の段階を育て直したいのなら、親御さん自体も、2歳以前の子どもの心に戻る。


2歳以前の子ども達は、見たもの、聞いたもの、触れたもの、すべてが興味関心の対象であり、想いのまま、存分に味わおうとします。
好きな動き、心地良い動きなら、何度も何度も繰り返す。
親御さんも、そういった興味関心のまま、心地良いを中心に置いた子ども時代へ、ヒトの時代へ退行するのです。
すると、子どもさんは安心して、自身も退行することができる、自分の発達のヌケの段階に戻り、そこからやりなおすことができる。


子どもと一緒になって遊んでいるご家族は、退行がうまくいっているので、発達のヌケを育てるのがスムーズです。
「どれくらいヌケているか」よりも、「思いっきり遊びきれるか」が育ちのスピードの違いとなって表れるような気がします。
また、親御さん自身も退行することによって、ご自身の発達のヌケを埋めたり、退行自体が日頃の文化、脳みそ主導の習性から解放されるので、心身共に元気になられたりします。
大人から子どもへ、人間からヒトへ、退行するのは、より良い発達援助のコツともいえます。


子どもは、そばにいる親御さんの雰囲気から、少なからず影響を受けるものです。
ですから、発達援助以外でも、「勉強をさせると、勉強をする」関係性、「サプリを飲ませると、飲む」関係性など、改める必要があると思います。
自分の子ども時代を思いだしましょう。
させられる勉強はやりたくなかったし、おもしろくなかったし、大人になった今、内容は覚えていないはずです。
させる勉強ではなく、共に学ぶ勉強の方が身につきます。
特に、勉強する意図、目的が想像しにくい子ども達にとっては。


同じように、飲ませられるサプリは、同じサプリでも、飲む際の心地良さが違います。
親御さんが「飲ませよう」と思えば、真面目な子ほど、「飲まなきゃ」という義務感が生じます。
他人のために飲むサプリは、心地良いものではありません。
ですから、一緒に飲もう、元気になろう、という雰囲気を出すことが大事。
「サプリを飲まないんですけど」という相談の背景には、親御さんの「飲ませなきゃ」が隠れていることが多々あります。
本人のための栄養なので、本人が飲みたくなければ飲まなくていい。
そういった共に考える、歩む姿勢は、子どもの安心感へつながります。


遊ばされている子どもの心は、どこか自由になれないものです。
「アセスメントでは、ハイハイの段階のヌケがあり、平衡感覚に未発達があり…」と頭主導で考えるのを一度止めてみる。
うちの子は、今、何を観ているのか、どのように感じているのか、本人の目の前には、どのような世界が広がっているのか。
そういったことを想像してみる。
それが退行への入り口です。
そして、本人が見て聞いて感じている世界を心地良く感じたなら、退行できている証。


「ヌケている発達段階に必要な刺激を与えればいいんでしょ」というのは、大人の考え。
本当にヌケを育て直そうと思えば、もう一度、その時代に戻るしかありません。
その方法は、退行。
「やり切ると、発達課題はクリアされ、次の段階へ進む」というのは、やり切り方も重要。
ですから、発達が生まれる家庭、親子間での雰囲気も大事になってきます。
「遊ばせる」から「共に遊ぶ、遊び切る」へ。

2019年10月9日水曜日

引き継がれないのが普通です

担任の先生が代わると、それまでの指導がガラッと変わるなんてことは、よくある話です。
相談にいらっしゃる親御さんの中にも、「せっかく支援ミーティングしたのに」「引き継ぎ資料を作ったのに」と言い、前年度のような指導、学習がそのまま引き継がれないことに不満を述べられる方もいます。


特別支援が始まって15年くらい経ちますので、全国どこでも引き継ぎは行われます。
同じ学校内でも、年度末には引き継ぎ資料を作成するものです。
しかし、「引き継ぎ資料を作る」「引き継ぎの会議を行う」というのと、「引き継ぐ」は異なります。


学校の先生も多様ですから、考え方の違いによって、前年通りの指導を引き継がない、という場合もあります。
でも、ほとんどの場合は、「中途半端なものを引き継がない」のだと思います。
たとえば、「箸を使って一人で食事ができる」ですとか、「大便の拭きとりは一人でできる」ですとか、自己完結できるようなスキル、活動は、そのまま、引き継がれます。
敢えて、一人でできていることをやらせない、なんてことはないからです。


一方で、「平仮名は書けるが、漢字は1年生のものを練習中」「足し算、引き算はできるが、2桁以上になると難しい」「プリント学習は、大人がそばにいないとできない」「時々、言葉が不明瞭で伝わらないことがある」など、完全にできないわけではないんだけれども、まだ指導、支援、介助が必要みたいなものは、だったら、「平仮名の練習だけやればいいのでは」「プリント学習やらなくていいのでは」「不明瞭な言葉なら、カードを使えば」という具合になりやすいといえます。

もちろん、指導途中のものを、そのまま引き継いで指導していこうという先生もいますが、人が代わるので完全に同じような指導はできません。
また、厳しいことを言うようですが、一年間、同じ先生が指導しても身につかなかったという子は、できているように見えることでも、その先生自体がきっかけ、ヒントになっていることが多いものです。
そういった子は、先生との関係性の中で再現している行動であることが多々ありますので、代わった先生が同じようにしようとしてもできないし、できていたこともできなくなることもあるのです。


同じ学校内でも、なかなか前年度のまま、引き継ぎができない現状があります。
じゃあ、他の学校へ転校する場合、進学する場合、さらに福祉から学校、学校から福祉の場合はどうでしょうか。
当然、人が異なりますし、教育に携わる人と福祉に携わる人ではバックボーンも、考え方の核となる部分も、まったくもって異なります。
同じなのは、障害を持った子に携わっている、その一点だけです。


私も福祉の世界にいましたので、学校と同じようにやれ、と言われても不可能なのはわかります。
そもそも環境も、資源も、違いますし。
学校は学ぶ場所ですので、できないこともやれるようにしていきます。
でも、福祉は生活の場であり、自立、一人で完結できることが最も重視されるところ。
ですから、できないことはやらせない、が基本です。


福祉の中にも、「できないことをできるように」という場面もありますが、それはそういった目標を立てるように決められているから、公的なお金を貰うために。
あとは、職員がやった方が早ければ、職員がやっちゃう。
だって、すべてにおいて余裕がないのが福祉の世界だから。
福祉施設へ見学、コンサルで行くこともありますが、だいたい活動にのれない人は、全国どこでもほっとかれていますね。
「来てくれさえすれば、お金になるんです」
いくら「支援」という言葉を使っても、介護の名残は消えないものです。


私が学生だった頃、療育施設の職員さん達が、「引き継ぎ資料を作っても、支援ミーティングに時間を割いても、学校へ引き継がれない」と教えてくれました。
実際、学校に入学すると、それまでやっていたことがなかったかのように、まっさらな状態から教育が始まります。
学校の先生の机の中には、封がされたままの引き継ぎ資料がそのまま入っている、なんてことも見てきました。
「なんで、教員免許を持っていない人の指導を引き継がなきゃならないんだ」という発言を耳にするたびに、先進地域と呼ばれていた教育も下っていくだけだな、と思いました。


就学時は学校がイニシアチブを取りますが、卒業間近となると、立場は逆転します。
「単独でできないんだったら、ダメ」「施設ではやらせない」「施設で過ごしやすいように、別の形に変えてくれ」
「だったら、うちは受け入れないから」という懐刀をちらつかせ、中途半端な指導はバッサリ切り捨てられるのです。
就学の恨みを卒業で晴らす、みたいな。
「今年度できなければ、来年度もやってもらえばいいや」みたいな考えが通用しない現実を突き付けられる3年生と担任、家族といったところでしょうか。


結局、引き継ぎなんてされないのが現実です。
同じ学校内でも、担任が代われば、それまでとはガラッと変わるなんてことがあるのですから、まったく文化も、環境も、考え方も異なる他業種との引き継ぎなんて、期待する方が間違っています。
ですから、引き継ぎはされない前提で手を打っておくことが大事。
と言いますか、昨日と繋がるのですが、先生、支援者、環境が変わったくらいで左右されない土台作りが必要だということです。


あとは、年度内、その機関に通っている間に、完結しておくこと。
よく言われる「芽生え」の段階ではなく、一人でその活動の最初から最後までできるようにしておく。
どんな小さなことでも、誰からの支援、見守りも必要なく、単独でできるスキル、活動を増やしていく。
一人でできるようになったことは、引き継ぎがされようがされまいがおかまいなしに、人生いつでもどこでも行い続けられます。


「自立できる人に育てる」
それは、どんな環境でも、自分の足で立ち続ける、倒れても起き上がれる、ということなのかもしれません。
未発達な部分が育てば、それ以降、どんな環境でも育ったまま。
同じように、一つ治れば、そこはずっと治ったまま、一つできるようになれば、できるようになったまま。


特別支援の方向性は、いかに本人ではなく、環境、周囲を変えていくか、ですが、本人が発達しちゃえば、治しちゃえば、できるようになっちゃえば、環境に左右されることなく、生きていける。
多様で、不確定なものばかりの環境が社会なら、そういった力をコツコツ身につけ、治し、育てていった子ども達の方が、社会の中で自立していけるのだと思います。
不確定な世界だからこそ、確実なものを増やしていく。
それこそが、子育ての方向性ではないでしょうか。

2019年10月8日火曜日

親御さんにとっての就学相談

例年、この時期は、就学に関わる相談が増えます。
就学時健康診断で指摘があった。
普通級と支援級、支援級と支援学校、どちらにしようか。
我が子の発達障害を認識して子育てをされてきた親御さんも、そういった認識を持つことなく子育てをされてきた親御さんも、悩まれるのは当然だといえます。


答えのない答えを出さなければならない。
しかも、日々、来年の4月が近づいてきている中で。
就学が子の一生を決めるわけではないけれども、成長と将来の選択肢に大きな影響があるのはわかる。
他のおうちは参考になるけれども、我が子が同じようにいくわけではない。
就学や進路選択においては、どう頑張っても「n=1」から逃れられることはできないのです。
どういった選択が、我が子にとってベストになるか、には答えをくれるエビデンスはありません。


今まで多くの方達の相談にのらせていただきましたし、有難いことに選択後のお子さんの様子も教えてくださる親御さん達がいます。
子ども達は、どこに行こうとも、皆さん、その場に適応しようとしますし、その場できちんと学んでいこうとするものです。
就学時、「ああ、僕には他の選択肢があった。他にも学ぶ環境があった」とは思わないもの。


いろんな子ども達を見てきて感じるのは、土台が育っている子は、どんな環境でも成長していけるということです。
「学校の担任ガー」「交流学習ガー」「カリキュラムガー」「同級生ガー」
「普通級だから」「支援級だから」「支援学校だから」
環境はコントロールできないものですし、不満を挙げればきりがないものです。
学校だって、いろんな人がいるわけですし、それぞれのシステムがあり、文化があります。
予測不能で、常に自分に都合の良いことばかり起きるわけではない。
そういった環境の中で、何を学ぶか、どう学んでいくか。
まさに、子ども自身の姿勢、行動が問われているのであって、もっと言えば、家庭の姿勢、行動が問われているといえるのです。


土台が育ち、主体的に学び、成長していく子は、時期が来たら、自らの意思で学ぶ場所を変えていくものです。
最初、支援級で学んでいた子も、感覚的にそこが合わなくなったと感じれば、普通級へと意識が向くようになります。
反対に、普通級で学んでいた子が支援級を希望し、そこで伸びやかに学び、成長していける場合もあります。
支援学校の場合は、本人の問題というよりも、システム、文化の話で、途中から支援級、普通級へ転籍することは難しいですが、それでも義務教育が終わるタイミングで、卒業するタイミングで、別の学び舎に、一般企業への就職に、向かっていく若者たちも出てきます。


「特別支援教育」という言葉が、なにか優しく寄り添ってくれるような雰囲気を醸し出します。
しかし、学校も多様な文化が織りなす社会であり、自分の方へ環境がすり寄ってくれるような場所ではないということです。
「特別支援を受ければ大丈夫」
そういった主体性の乏しさが、先生によって、学校によって、子どもが左右されてしまう結果を生みます。


担任が誰であろうとも、学校がどこであろうとも、そういった環境に左右されることなく、学んでいける子。
そういった子を育てるのが、自立への道になります。
私が見てきた現実として、担任に左右される、翻弄されるような子ども達は、社会の中で自立していけない。
支援学校から一般就労した若者の親御さんは、「担任が変わっても、それに影響されなくなった我が子を見て、一般就職も大丈夫だと思った」と仰っていました。
環境に揺れるということは、地に足がついていない証拠。


子育ての大きな目標の一つとして、環境に左右されない土台作りがあります。
誰が担任だろうとも、どこで学ぼうとも、その中でしっかり学び、成長していける。
そういう子は、就学時に希望を述べなくても、途中でより自分に合った場所を目指し、訴えてくるものです。
そのとき、親御さんは全力で、子どもが出した答えに応えれば良いのだと思います。


就学時の相談は、子どものためというよりも、親御さんのためである、と私は感じています。
答えのない答えを出す際、大事なのはその答えではなく、答えの出し方だといえます。
つまり、子どもが自らの意思を表明するまでの間、責任を持つという決心をすること。
子の代弁者として選択したからには、その環境でより良く学んでいけるような後押しをしていく。
そのために腹を決める。


腹が決まった親御さんは、「担任ガー」「学校ガー」「同級生ガー」などと言いませんし、そもそもそんなことに捉われている暇がありません。
むしろ、「学校の中で、きちんと学び、成長していく姿勢を養うことは、社会に出てから役に立つ」と、前向きに考え、将来の自立を意識した本当の学び、生きた教育をすることに繋がります。


同じような障害、症状を抱える子が、ある地域では普通級、別の地域では支援級、支援学校、なんてことはよくありますし、同じ地域でも年度によって違うこともあります。
親御さんの希望を重視する地域もあれば、親御さんの希望よりも、検査の数値で判断されるという地域もあります。
第一、たまたま同じ時期、同じ地域にいただけの子ども達が、同じ学校で学ぶように決められる。
ある意味、最初から理不尽といえば、理不尽なわけです。
よって、「どんな環境でも、自らの足で立ち、成長し、進んでいける子に育てなきゃ」と、改めて決心するのが、親御さんにとっての就学。


この秋、初めて発達障害を指摘された子の親御さんには、腹を決めるだけの時間が少なすぎます。
言われるままに、診断を受け、特別支援の手続きをし、気が付いたらずっと支援級、支援学校、なんていうご家庭も実際に少なくないのです。
ですから、そういった親御さんには、普通級にするか、支援級にするかの選択、意思表明の最終期限はいつなのかを確認するようアドバイスしています。
結構、2月までとか、3月初旬まで大丈夫、と言ってくれる地域もあります。


たとえ、限られた時間であったとしても、発達の後押しをすることはできますし、そういった子育てを通して、徐々に親御さんの心づもりができてくることもあります。
過去には、発達のヌケと未発達の部分を集中して育み、普通級に入学した子もいます。
一斉指示がわかり、離席がほとんどなく座っていられる。
そして他害等の問題がないこと。
小学校低学年くらいの学力は、短期間で一気に学び、追いつけるくらいのものですから。
それに普通級の中にも、高学年になる頃まで落ち着かない子もいますし。


少しでも前向きな気持ちで、入学式を迎えられますよう願っています。

2019年10月4日金曜日

支援者はサービス業

遺伝的な要因が基盤であり、引き金が環境要因。
それが発達障害発症のメカニズムだと言われています。
膨大な数の遺伝子の中で、どれが関わり、どういった組み合わせなのか。
そして、その遺伝子に影響を与えた環境要因は、何で、どのくらいなのか。
その発症パターンを明確にするには、まだまだ時間がかかりそうです。


言葉の遅れや感覚の異常、特異的な行動や不適応行動。
そういった姿を見ると、人はその原因を明らかにしようという心の動きが生じます。
因果関係をはっきりさせたいのは、未知の環境が命の危険と隣り合わせだった頃の名残かもしれません。
分からない状況、先の読めない真っ暗な環境は、不安を喚起する。
同時に、認知の部分を異常に発達させた人は、なんでもすぐに答えを求めてしまう文化に慣れた人は、曖昧な状態が脳への大きな負荷となり、それに耐えられなくなっているのだと思います。


我が子に発達障害が発症したメカニズムも、表面化した課題に対する因果関係も、本来、それ自体は価値のないことであり、「労多くて得るものなし」といったものです。
何故なら、因果関係がシンプルにまとめられるようなことは、ほとんどないからです。
しかも、その答え合わせはできません。
「一つの要因があって、一つの結果になる」ということはなく、中心となる複数の要因とそれに影響を及ぼした無数の要因が合わさり、ある状態を表面化するというのが真実に近いといえます。


「どうして我が子に発達障害が発症したのでしょうか?」
そういった質問をされるご家族は少なくありません。
「どこに発達のヌケがありますか?未発達の部分がありますか?」
こちらの質問は、ほとんどのご家族がされます。
当然、これらの質問に対し、正確な答えを返すことはできません、と言いますか、言葉で表せるほど、単純な表現はできないのです。
しかし、実際は「〇〇が理由だと考えられます」「〇〇が育っていないですね、ヌケていますね」という具合に、単純明快な言葉を使って返答します。


本当は、誰にも確かめることのできない複雑系なものを、あたかも因果関係がはっきりしているようなことを言う。
その理由は、あくまでサービス業だからです。
子どもさんにとって、家族にとって、より良い変化、利益が生じる方法を選択するのは当然です。
相談して、利用して、支援を受けて、何も状況が変わらない、状態にポジティブな変化が見られない。
それは、本人、家族を裏切る行為であり、公的、私的に関わらずお金が生じているのなら詐欺と言われても仕方がありません。


親御さんの心をより苦しめるのは、我が子に発達障害があったことよりも、どうしたらよいかわからない、何が正しくて間違っているか分からない、といった分からないことだらけの状況と、それに伴う無力感の方だと思います。
ですから、何か一つでも理由がわかれば、どこに未発達、ヌケがあり、育てていく部分がわかれば、心が晴れ、子どものために行動することができるようになります。
わからない環境と、動けない状態は、動物としてのヒトがもっとも恐れる状況。
命は自由自在に動くからこそ、輝いていく。
相談が終わったあと、パッと表情が明るくなる様子を見て、今日その瞬間から育みを始められる様子を見て、「私は最低限の仕事はできた」と実感するのです。


発達には順番があるということは、前後でつながっているといえます。
行動、能力、知能は、ボタンのスイッチの関係ではなく、複雑な機能、身体、細胞、神経が複雑に絡み合う連係プレイによって成り立っています。
とすれば、「〇〇が未発達ですね。そこを育てましょう」という言葉は、あながち間違えではないということになります。
つまり、何か一つでも育てば、必ずそこと繋がっている神経、細胞、機能、感覚、身体が影響を受けるのです。
「治しやすいところから治す」というのは、とてもシンプルな表現ではありますが、まさに発達援助における真理を表した言葉だといえます。


当然、発達援助に関わる者は、それを仕事にしている者は、未発達な部分、ヌケている部分を見たてられなければなりません。
ただし、常に「私が見たてたものは、答えではなく、答えの一部である」という意識は持ち続ける必要があります。
完全な答えを述べられないという事実が、自分の発した言葉、仕事、関わった本人、家族の出した答えに、責任を持つ姿勢へと繋がるからです。


未発達な部分、ヌケている部分が分かれば、その育て方は、本人が心地良い方法、親御さんの資質にあった方法で行えば良いのです。
「こうしなければならない」「この方法しかない」というようなことはありません。
むしろ、特定の方法を勧める人の方が怪しく、一つの方法にこだわる方が部分的な発達だけに留まってしまう可能性があります。
とにかく育てばいい、どんな方法でも。
それが真実です。


因果関係があるように説明するのは、支援者もサービス業だから。
曖昧な状況よりも、たとえ答えの一部であっても、なにか明確になる方が、子どもにも、家族にも、利益があると考えられるため、そうしているのです。
ただし、100点満点な答えではなく、「1点くらいだな」の意識は持つ。
それが仕事への責任、結果への責任を持つことに繋がる。
1点をとれなければ、2点、3点と上がっていかない。
同時に、1点取るお手伝いは支援者がやっても、残り100点を目指して積み上げていくのは、本人、家族である、と意識する。


未発達な部分、発達のヌケを確認してもらうのは、治すための入り口を開いてもらうくらいなもの。
あまり支援者、専門家を過大評価してはいけません。
そもそも自分で未発達、ヌケが分かるのなら、頼る必要はないのです。
どっちにしろ、育てるのは本人であり、家族ですから。
「勝てば官軍」のように、育てばOK、自立できればOK。
「どうやって育てたか」は家庭によって違うもの。
だって、原因も、根っこも、遺伝子も、環境も、神経も、身体も、一人ひとり異なるから。
まさに「発達障害、治るが勝ち!」なのです。

2019年10月3日木曜日

子育てが親自身の発達援助になる

大きな変化、成長が起きるのは、子どもだけではありません。
子育てをされている親御さんにも、大きな変化、成長が起きることがあります。
久しぶりにお会いすると、ガラッと変わった親御さんが立っていることも少なくありません。
親が子どもを育て、子どもが親を育てる。
子育て自体が、親の発達援助になっているのかもしれません。


相談に来られる親御さんの中には、ご自身でも発達障害、自閉症やADHDなどを持っている方がいらっしゃいます。
そういった親御さん達のお話を伺うと、ただでも大変な子育てがより一層苦労に感じられているような印象を受けます。
資質でもある真面目さ、一生懸命さが、子育てに向かう。
それ自体は素晴らしいことだといえるのですが、限度を超えて頑張ってしまうことがある。
子どもさんの発達援助よりも、まずはお母さん、お父さんが元気にならなければ、というようなご家庭も少なくありません。


子どもは育てたいようには、育たないものです。
たとえ赤ちゃんでも、自分とは異なる別人格の人間だからです。
どう動くか分からない、どう育つか分からない、変化に富んだコントロールできない存在。
その先の読めない曖昧さ、不規則性、そして何よりも「子育てには正解がない」という真理が、親御さんによっては人一倍脳に負荷をかけているように感じることがあります。


しかし、この負荷は、親御さんの脳を育てる負荷にもなります。
もちろん、心身が疲弊する状態では、過度な負荷、有害な負荷といえますが、心身が整った状態で向き合うと、それが発達につながるような気がします。
駆け込み寺のような状態でいらっしゃった親御さんでも、心身が整ってくると、「自分ではどうにもならないことがある」という具合に受け入れられるようになります。
すると、子育ての一つ一つにどう対処していくかを考え、行動するようになる。
行動して出た結果に対し、また自分で考え、工夫し、さらなる行動へ移していく。
こういった繰り返しが、脳に柔軟性を持たせ、脳を育てることに繋がる。
いろいろなアイディアが浮かぶようになったり、不測の事態に対応できるようになったり…。
親御さんの変化に「脳の余白の広がり」を連想します。


他にも「一緒に自然の中で、思いっきり全身を使って遊んでください」と提案させてもらった親御さんが、その通り、ご自身も泥だらけになって遊び切った結果、発達のヌケが埋まることもあります。
同時に、自然とご自身が子ども時代に心地良かった遊びをすることが多いですので、退行にもなって心身が解放され、ラクになるようなこともあります。
「隠れていた資質が表に出た」というような雰囲気を感じたとき、こういった育ちがあると思います。


私の仕事は、家庭支援です。
本人だけが変わればいいという話ではありません。
何かしら子育てに悩むというのは、親御さんの現状では対処できない、適応できない何かがあるということです。
我が子に発達障害があるから悩むのではなく、家庭、子育てという環境への不適応が生じているからだと考えています。


その不適応から脱するには、親御さんも変わる必要があります。
子ばかり、「あれができるように」「これができるように」というのは虫が良すぎる話です。
私が関わるご家庭には、子の成長だけではなく、親子、家族そろって成長していってもらいたいと願っています。
子どもの育ちにとって、親は、家庭は、もっとも影響のある環境です。
その環境がより良く変化、成長していかなければ、子の成長の限界が先にやってきてしまいます。


まだ子どもさんが幼いのに、子育てを丸投げしている家庭を見かけると、子どもだけではなく、親御さんにとっても、最大の発達する機会を放棄してしまっているように感じます。
「専門家に任せた方が良いから」という言葉をよく耳にしますが、それは表であって、本心である裏ではないような気がします。
心身に、脳みそに余裕がない人が、脳の表面で体裁を整え着飾り言っているだけ。
身体、感覚からの声が聞こえる人は、いくら余裕がなくても、決してそのような判断はしないものです。
それこそ、本能のまま、想いのまま、たとえ自分の身が滅んでも、一生懸命子どもを育てようとする。


社会に出たら答えが一つではないのは、いろんな答えをもった多様な人々が存在しているから。
そのフラクタルが家庭であり、仕事であり、子育て。
ご自身でも発達のヌケを埋めながら、一生懸命子育てされていた親御さんが、一息つき、苦手だった「働く」に挑戦される方もいます。
まさに子育てを通して、発達、成長された現れ。
また仕事を一生懸命している人、してきた人、仕事で評価されている人は、子を治す後押しも上手だと感じます。


結局、家庭も、仕事も、学校も、自分自身が育つ場であり、同じ社会なので、すべてが繋がっているということ。
ですから…
「放課後、土曜日は児童デイに丸投げでいいの?」
「就労は目指さなくていいの?」
「作業所に通い続けることは成長に繋がるの?」
「学校に行かなくていいの?」
「お母さん、専門家の私達にまかせてください、でいいの?」
「問題が起きれば、服薬で対処でいいの?」


発達の機会は、社会の中に、身近なところに、溢れています。
「大人になっても治る」というのなら、まずは大人である私達も発達し、成長し、治っていくことが必要だと思います。
発達障害という診断を受けた子ども、人達にだけ、「治る」を求めるのは失礼だと言われても仕方がありませんね。

2019年10月1日火曜日

生き物である発達に委ねる

土台が育っていない人、整っていない人が苦手とする季節の変わり目。
その季節の変わり目を自然と迎え、翻弄されることなく、過ごせる人というのは、それだけで発達、成長しているのが分かります。
さらに、「大きな変化がありました!」「ドカンが来ました!」というようなお話を聞くと、「知」を超えた「生」の姿、ヒトの持つ力に、感動を覚えるのです。


夏、思いっきり遊んだ子ども達は、秋を迎える頃に、大きな変化を見せます。
9月に入ってから、そのような素晴らしい発達、成長を遂げた子ども達、親子のエピソードをたくさんお聞きしました。
喃語や単語が出るようになった子、普通級に転籍後、友達ができた子、一斉授業を理解し、学力を積み重ねていけるようになった子、IQがボーダーを超え、正常域に入った子、不登校から学校に通い始めた子…。
若者たちの中にも、アルバイトが決まり、休むことなく働いている人、正社員として働き始めた人などもいました。


まさに「実りの秋」という表現がピッタリな方達です。
しかし、この「実りの秋」は、養分を蓄え、陽を浴び、根や葉を伸ばしていくという準備段階の育み、培う時期をちゃんと過ごしたからこそ、迎えられたものです。
何かをやったから、パッと実ができた、大きな変化があった、などではありません。
小さな積み重ね、目に見えないような変化を積み重ねていった結果、土台がしっかりし、一気に開花したのだといえます。


いろんなご家庭を拝見してきましたが、大きな変化、ドカンが来る子の親御さんは、どちらかといえば、粘り強い人が多い気がします。
「ドカン」という表現になるのですから、それまでほとんど変化が見られない、見られても小さな部分で、というのがほとんどです。
ですから、そういった変化がない時期を、ブレずに育み続けられるか、一つ信じた道を結果が出るまで待てるか、ということがポイントだといえます。


今日から下半期が始まりますが、これは世の中が決めたことであって、子どもが決めたことではありません。
特に年少の子ども達は、その生まれ月で、同じ学年とはいえ、発達&成長が大きく異なります。
世の中の流れの影響を受ける親御さんが、子どもの歩むスピードを見て、余計に遅く感じてしまう、焦ってしまう。
こういったことは多々あることで、特別なことではありません。


子どもを愛するがゆえに、親御さんは焦ります。
でも、焦ったからといって、急激な発達、成長が起きるわけではありません。
何故なら、発達も生き物だから。
とにかく走りまくれば、足が速くなるかと言ったら、そうではありません。
一日でも早く、タイムを縮めたいと、走ったり、筋トレしたり、別のスポーツをやったり…。
そんなことをしていたら、結局、一番大事な走力が育ちませんし、怪我だってします。
脳も、神経も、生きているので、生命としてのリズムがあるのです。


脳、神経の発達には刺激が必要です。
でも、同時に、休息も大事なのです。
刺激のシャワーから解き放たれて、ゆっくり休み、整理し、次の発達に備える時間。
やったらやっただけ伸びるわけではないのは、生き物としての宿命だといえます。


「ドカン」が来る子の親御さんは、一つのことを、信じた道をコツコツと積み重ねていける人です。
たとえ、変化が見られない時期が長かったとしても、待つことができる。
いや、待つことができるというよりは、委ねられる、という表現の方が実態に合っていると思います。


待っているような親御さんでも、内心焦っている人は多いはずです。
でも、どこかで、発達は本人のもの、という意識があるのだと思います。
その本人の持つ発達する力、それこそ、生命体としての発達に、その可能性に委ねている。
「この子は、きっと治ると思う」「大丈夫だと思う」という親御さんの言葉を後押ししているのは、子の発達する力を信じ、それに委ねることができているからだと思うのです。


親子とは言え、資質は異なっていて、同じ波長で育めない親御さんもいます。
焦ると、余計にあれこれと動きたくなる、という親御さんもいます。
それが単に、焦りからくるのでしたら、その焦りを緩めていけばいいのですが、資質として生きているスピードが異なっている人もいます。
そういった人をADHDの器質というのかもしれませんが、どうしても子の発達する力、スピードに委ねられない人、自分の方の身体が先に動いてしまう人だといえます。


このような親御さんは、何も変化の見られない準備の時期がとても苦痛に感じるようです。
すると、余計に焦って行動してしまい、あれもこれもとなって、子が、脳や神経が休息の時期を味わえません。
結果的に、さらにストレスが溜まり、お互い負のスパイラルに入ってしまうことも。
ですから、こういった資質の親御さんは、気を散らすことが大事だといえます。


子どもだけのことに、あれこれ手を出すのではなく、生活全般、人生全般にあれこれ手を出す。
趣味を始めたり、仕事で新しいことに挑戦したり、動物を飼ったり、旅行に行ったり…。
親御さんのエネルギーに、子が負けてしまっている、参ってしまっている場合もあるように感じます。
「委ねる」という静的な動作ができない親御さん、資質に合わない親御さんもいるので、そういった場合は、エネルギーを分散する、注意を分散するのがコツです。
子は、自分にエネルギーが向けられていない時間に、休むことができますので。


「ドカン」が来たというのは、それまで変化がない時期が長かったという話でもあります。
その変化のない時期をどう後押しできるか、親として子育てをコツコツ続けられるか。
土台作りは、本人がやりきるまで待つ必要があります。
しかも、脳も、神経も、生き物ですので、休息の時期も必要。


生き物である発達と向き合うとき、それに委ねられることができるか。
発達の環境を用意する、発達を後押しするのは親ですが、実際、発達させるのは子ども自身です。
ですから、どの道、委ねるしかないのです。
子どもの成長を信じ、発達する力に委ねる。
それが「ドカン」への一番の近道のような気がします。

2019年9月29日日曜日

『発達障害でも働けますか?』を読んで

就職に関する相談では、ほとんどの方が「発達障害、アスペでも働けますか?」「コミュニケーションが苦手なんですけど、働けますか?」というようなことをおっしゃいます。
中には「まだ一回も働いたことがないのですが、働けますか?」という相談もあります。
さらに、こういった言動は、本人からだけではなく、一緒に相談に来られた親御さんからも聞かれるのです。


こういった発言が、本人、親御さんから多くあるというのは、それだけ否定されることが多かったのだと想像します。
「発達障害があれば、一般就労は無理」
「自閉症は、コミュニケーション力が求められる仕事はできない」
「一般就労で無理すると、二次障害になる」
「働くことだけが人生じゃない」
社会に出ようとすると、急に“ないない”だらけの支援になる。


学校を卒業するまでの間は、本人ができるように、本人が失敗しないように、支援という名の接待のもとで、やれること、やりたいことをやり、一方でやれないこと、やりたくないことは「やらなくていい」と言われたり、やる機会さえ貰えなかったりした。
ですから、一般の人が就職活動する以上に、仕事、働くこと、社会が怖く見えてしまう。


経験、体験していないことを想像するのが苦手。
そのため、どうしても近しい人の情報をそのまま受け取り、偏ったイメージを持ちやすい。
だからこそ、「発達障害でも働けますか?」というような相談を受けると、近しい人から「発達障害を持つ人は働くのが難しい」と言われたのだと思います。


支援ミーティングなどに参加すると、学校の先生や相談員、カウンセラーなどの人達から、「その仕事は難しい」「一般就労は無理だろう」などという発言が聞かれます。
本人が一般就労を希望しているのに、採用試験すら受けさせるのを止めさせようなんてザラです。
一般就労できるかどうか、は先生や医師、支援者、専門家が決めることではありません。
採用を決めるのは、その企業の人。
こういった専門性を謳った非常識なやり取りが、今日もどこかでなされているのでしょう。


支援者の中には、福祉的就労に持っていくことで評価を得たり、次年度の運営費を得られたりするために、一般就労を阻む人達もいるのは確かです。
でも、ほとんどの支援者、学校の先生たちは、良かれと思って、一般就労を止めているように感じます。
就職して、仕事場で不適応を起こし、二次障害になったという話から、想像を膨らませて。
本人に辛い想いをさせないために、福祉的就労を勧める人達がほとんどだといえます。


教育も、福祉も、医療も、民間の要素よりも、公務員的な要素が強く出る仕事だと思います。
営業してお客さん、契約をとってくるような仕事ではありません。
毎年、一定人数のお客さんが来るのは決まっているので、それに対して、一つずつ対処していく。
民間ほど、質や量にこだわらない。
だとすると、どうしても大多数の民間企業の働き方、空気感に実感が伴わず、疎くなってしまいます。
意地悪な言い方をすれば、民間企業のような働き方が合っていない人、好まない、馴染まない人が、当事者の周りを固めているので、ネガティブな情報に偏りやすいというのもあると思います。
福祉系の大学、専門学校を出て、すぐに就労支援、相談窓口をしている人もいるくらいですし。


私が相談を受ける中でも多く聞かれる「発達障害でも働けますか?」という質問。
まさに、そのまま、それに答えてくれる本が、花風社さんから出版されました。
もちろん、これは「Yes」「No」といった単純な回答という意味ではなく。


就職に関する相談は、まず誤学習や偏った認識を崩すことから始まります。
「コミュニケーションが苦手なんですけど」「体力的に不安なんですけど」「ちゃんと働ける自信がないんですけど」
そういった本人の発言一つ一つに対して…
「どんなコミュニケーション、人との関わりが苦手なの?」
「その苦手さは、発達障害だから。それとも経験不足?失敗した経験があるから?」
「希望している仕事は、どの程度、コミュニケーション力が求められるの?」
など、とにかくツッコミを入れながら、どこが事実で、どこが想像か、思い込みかを明確にしていきます。
「〇〇さんは、その企業を背負って立つような立場ですか?」
「新人の内から失敗しないことを求める企業はないですよ」
「そのレベルは、仕事に必要なレベルではなく、お笑い芸人のようなコミュニケーションレベル」
ときに、妄想ぐらいに膨らんだ仕事感を否定するのも必要になります。


『発達障害でも働けますか?』の中では、元営業マンで、現臨床心理士として働く人達の支援に携わっている座波淳氏が、明瞭に「仕事で求められることは」「働くために必要なことは」を説明してくださっています。
多分、この本があれば、就職に関する相談の一回目は省くことができます。
誤学習、偏った認識も座波さんの説明を読めば、一発で理解でき、自ら軌道修正することができるはずです。
支援者に相談するより、自らで改善できる方が、何百倍もその人の未来に繋がる素晴らしいことですので、どんどん本を勧めて、相談の回数を減らそうと思っています。
それくらい「働く」をど真ん中に持ってきた自己解決に繋がる著書だといえます。


同時に、子育て中の親御さんにとっても、その方向性を定める際に、必要な“子の未来”を見せてくれる貴重な著書だと思います。
我が子を見ると、まだまだ働くのは先に見えますし、そもそも働く姿すら想像できない親御さんが多いはずです。
だけれども、この毎日の子育てが、将来の仕事、自立へと繋がっているとわかると、より一層前向きな気持ちで、お子さんと関われるようになると思います。


親御さんの多くは、働いた経験がある人、今も働きながら子育てをされている人。
だけれども、初めての子育ての上に、「発達障害」がプラスされると、どうしても自分が経験してきた育ち、学校生活、仕事と分離して捉えがちです。
「そんなこと、普通の会社では許されないよな」と思えるようなことでも、発達障害という冠がつくと、浮世離れした支援者の話が正しいように思えてくる。


「支援者は、なんでも知っているわけじゃない。だって、民間で働いたことが“ない”し。学校で教えたこと“ない”し。この子の子育てをしたことが“ない”し。この子の家での生活を見たこと“ない”し」
いざ、社会の中に飛びだしていこうとすると、決まって聞かれる“ないない”の支援者達の声。
でも、本当に一般企業で働け“ない”のは、発達障害の当事者ではなくて、支援者なのかもしれない。
そんな連想を助けてくれる著者の座波さんのお話。


発達障害がある人達も、一般企業の中で活き活きと働き、成長し、キャリアを積み重ねていく人達が多くいます。
そういった姿、エピソードを、座波さんが理論を通して説明されています。
エピソードを裏付けする理論、情報に溢れた『発達障害でも働けますか?』
若者、成人した人たちにとっては、自己プロデュース、自分で軌道修正するために。
子育て中の親御さんにとっては、子の将来からみた今をより良いものにするために。
仕事、自立を真剣に考えている方達に是非、手に取っていただきたい書籍だと思いました。


 
 

2019年9月25日水曜日

分をわきまえる

事業を始めて、一年、二年が経つと、徐々に仕事が増え、相談メールも届くようになりました。
短い文面、限られた情報から、いかに的確に返事ができるか、アドバイスができるか。
そういったことを意識しながら、せっせと返事を書いていました。


私が返信すると、すぐにまたメールを送ってくださる方がほとんどでした。
援助、子育ては、その子どもに合わせて作り上げていくものですので、そういったやりとりが生まれるのは自然なことだといえます。
ですから、私はなんの違和感を持つことなく、メールが返ってくるたびに、また連想したことを書き、返信していました。


しかし、あるとき、私のやり方は間違っていたと思うことがありました。
度々、メールが来る人の相談内容が変化したのです、同時期にやりとりしていた方達、皆さんに共通して。
一言で言えば、最初は「〇〇に困っています。アドバイスを」という内容から、「次はどうしたらいいのですか?」「どこに発達のヌケ、未発達がありますか?」という内容に変わったのです。
メールの文面から伝わってくる雰囲気に“寄りかかり”を感じたので、私は大いに反省したのでした。


限られた情報から的確なアドバイス、見立てを行う。
そんなことに意識が向いていたため、いつしか私は、その正答率に心を奪われるようになっていました。
ですから、当然、アドバイス、見立ての内容が、具体的なものになります。
具体的になればなるほど、受け手の思考、考え、工夫の入る余地はなくなっていき、自然と指示する者と指示される者という関係性が出来上がってしまうのです。
メールがたくさん届くのは、私に腕があるからではなく、本人や家族の力を引き出せずにいた自分の至らなさが招いた負の結果だと、そのとき、気づいたのです。


そこから、改めて自分の仕事を見直しました。
メールの文面に、本人や親御さんの想像力、発達する力をかきたてるような想いを乗せるように心がけました。
実際に対面で行う相談、発達援助も、基本的に一発勝負ということにし、自らで考え、試行錯誤していけるような、「流れ」「続いていく」というイメージを持って関わるようにしました。
「後方支援」「後押し」という言葉が、今、自分の仕事にしっくりきています。


私がいくら一生懸命アドバイスしようとも、いくら一生懸命関わろうとも、発達させるのは本人です。
本人がやらなければ発達は生じませんし、そもそも続けていかなければ変化は起きません。
そして何よりも、その発達の凸凹、神経発達の表現は、他の誰のものでもなく、本人のもの。
生涯付き合っていくのは、本人だけ。
そこの意識が薄れた結果、私は独りよがりなメールをせっせと書いていたのだと思います。


対人援助に関わる者は、関わっている瞬間、自分とその人しか見えなくなるものです。
その人にとって自分であり、自分にとってその人。
ですから、あらゆる職業の、あらゆる場面で、対人職同士の越権行為というものが生まれるのだと思います。


学校の先生が、「お子さん、発達障害では」「診断を受けられたら」「薬は飲まないんですか」と、医療が担う部分に手を出していく。
本来、学校の先生は、教え育てるのが仕事のはず。
与えられた環境の中で、ベストを尽くし、一人ひとりの子どもにとって、良い学びを提供するのが役割だと思います。
そこに、発達障害の有無は関係ありません。
発達障害があったら、自分は教えないのでしょうか、支援や薬を求める前に、自分の指導方法を変える気はないのでしょうか。


医師が学校に、家庭に、「褒めて伸ばしましょう」「普通級は難しい。支援級で」「頑張らせてはいけない」などと言うのも、越権行為だと思います。
その医師は、教員免許を持っているのでしょうか、学校のカリキュラムを実際に見たのでしょうか、自分は教えられるのでしょうか。
実際に、子どものことを褒めて伸ばしているのでしょうか、そういった子育てをやっているのでしょうか。


対人援助職の越権行為は、想像力の弱さからくる勘違いです。
自分が関わっているときは、その人と自分だけ。
しかし、その人の周りには、多くの人達が関わり、影響し合っています。
その人の生活が、教室、診察室が中心なのではなく、生活の一部が教室であり、診察室。
対人援助職は、どう頑張っても、主にはなれず、従のまま。
陰である存在が、光を浴びるために前面に出だすと、本人の主体性を奪うことになる。
越権行為は勘違いであると同時に、本人や家族の主体性を奪うことだといえます。


対人援助職に必要なのは、「分をわきまえる」こと。
他人様の人生にできることなど、ほんの僅かなことくらいです。
「教師との出会いが、その子の人生を変えた」というのは、ドラマの世界。
「私が治した」というのは、本人の自然治癒力、成長する力が現れただけだから勘違い。
どんな専門家でも、どんなに我が子を愛する親でも、本人の発達障害を代わってあげることはできない。


発達の凸凹も、その神経発達の表れも、本人のものであり、生涯付き合っていくものです。
ですから、必要な援助とは、本人がより良く付き合っていける、育てていけるための後押しです。
悪い部分を取り除く、異物を取り除く、という類の話なら、対症にあたる専門家が必要。
でも、本人の内側にある本人のものなのですから、他者の行為、想いが入る余地はない。


「生涯に渡る支援を」と対人職は言ってきました。
でも、実際、生涯に渡って関わる人はいません、生涯お金を出して養ってくれる人はいません。
自分の持ち周りが終わったら、それでおしまい。
自立していくだけの賃金が得られる場所を勧めていないのに、就職したら、あとは知らん顔。
自立するだけの教育が受けられる場所を勧めていないのに、卒業したら、あとは知らん顔。
だけれども、自分が関わっているときは、他の人が担う部分にまで手を出す。
どうせ手を出すのなら、その人の人生全部に手を出せばよい、と思います。


私達は、他人は、どう頑張っても、本人の人生全部に関わることはできません、責任を持つことはできません。
人生の主役は本人であり、発達の凸凹も本人のもの。
仲間内の評価と、受けた援助に対する本人の評価は異なります。
専門家なんて言われても、他人様の人生への影響は微々たるもの。
ですから、対人援助職は分をわきまえ、主体である本人がより良く自分の特性と付き合い、自分の凸凹を育てていけるような後押し、後方支援を行う。


「ひと様の人生に、他業種の人達に口出しできるほどのことをやったのか、何か結果を残したのか」
そんな言葉を自分に投げかけられる人は、勘違いを起こしません。
分をわきまえた支援者であり続けるための自戒の言葉です。

2019年9月24日火曜日

個性、異物、ヌケ

個人的なお付き合いは、なるべく控えるようにしています。
支援者とは、親族でなければ、友だちでもない赤の他人です。
その赤の他人が、家族の思い出の中に残ってしまうのは、違和感としか言いようがありません。
発達の主体は、子どもさん本人であり、それを後押しするのは家庭であり、家族です。
あくまで支援者は、本人や家族の発達する力を引き出すのが役目。
支援者の「やってあげた感」「やってもらった感」が残るようなサポートの仕方は、その場しのぎになってしまいますので、長い目で見れば、結果的に支援者との関わりがマイナスになることもあるように感じます。


基本的には、「便りがないことのは良い便り」のスタンスです。
家庭での試行錯誤の姿が連想されるので。
「支援者が答えを持っているのではなく、試行錯誤を通して答え合わせしていく」
子どもがより良く成長し、自分の人生を豊かに生きらているのなら、それが正解です。
その子が幸せなら、どんな道を辿ろうとも、誰が何を言おうとも、それで良いのです。


一年以上前に関わったご家庭から久しぶりに連絡がありました。
「今、問題なく、学校に通えています」「感覚の過敏さも、怖がりも、全部治りました」と。
その様子を教えていただいただけで満足だったのですが、どうしても本人が成長した自分、治った自分を見せたい、ということでお会いすることになったのでした。


初めてお会いしたときは、感覚面の過敏さを持っていましたし、姿勢の保持も難しい状態でした。
そして何よりも、強い不安、世の中に対する言い表せないような怖さを持っていました。
授業中はノートをとることができず、一斉指示も半分ぐらいは理解できず…。
おとなしい性格、説明する力が弱かったことも加わり、度々、人との間でトラブルが生じ、学校から呼び出しが続いていたのでした。


学校からは、「発達障害かもしれない」「早く診断を」と言われ、診断を受けたあとは、「薬は飲まないんですか」と再三のアプローチ。
医師からは、「この子は普通級の子じゃない」「相当、しんどいはず」「無理してはいけません」と、別室対応と、ノートが取れなくても、授業に参加できなくても、指摘&頑張らせるはダメで、とにかく褒めましょう、という提案(?)。
学校が医療面の指示を出し、医師が学校のカリキュラムに指示を出すという越権行為のマリアージュ。
そんなむちゃくちゃな状況の中、「藁をも縋る」の藁の一本としてご縁がありました。


ご両親は、「治らなくても良いから、何よりも、この子が少しでも生きやすくなってもらいたい」と仰っていました。
でも、本人は「治りたい」と明確に言葉にしていました。
本人の想いに引っ張られるように、親御さんも一生懸命発達の後押しをされ、栄養や遊び、運動という原点に戻り、土台から育て直しをされていきました。
本人から「もう自分一人でできそう」、親御さんからも「私達で治してみせます」という言葉が出たので、そこで私の援助は終了となりました。
それから1年以上が経ち、今は学校からの呼び出しもなくなり、普通級の中で同じように学び、放課後は友達と遊んだり、クラブ活動に打ち込んだりと、健やかに成長しているとのことでした。


ご両親とお話をした際、つくづく感じたのですが、1つの選択が子どもの人生そのものを変えてしまいかねないという恐ろしさです。
このご家族も、途中までは学校の指示で診断を受け、医師からの指示で特別な配慮を受けていたわけです。
そして、精神科薬を処方してもらう一歩手前まで行っていた。
でも、どうしてもまだ幼い我が子に精神科薬を飲ませたくない、他に方法はないか、ということで、未発達を育て、発達のヌケを埋める、というアプローチ、自然な子育てと出会ったのです。
もし言われるがまま、精神科薬を飲んでいたら、一年以上たった今でも、未発達は未発達のまま、ヌケは抜けたままで、生きづらさの根っこの部分は変わっていなかったと思います。
当然、支援級への転籍も決まっていたと思います。


本人がみるみる発達し、変わっていったとき、ご両親は「うちの子は、治ってきている」という話をしたそうです。
すると、学校からも、医師からも、「治るわけはない」という言葉が返ってきたそうです。
変わったのは認めるけれども、治ったわけではない、と。
学校は「受容ができていない」と言い、医師は「科学的にありえない」と言った。


こういった話は、よくある話です。
一言で言えば、学校は「個性」であり、医療は「異物」という捉え。


「個性を伸ばす教育」「個性を活かした教育」
個性個性と言い続けるうちに、個性に教育が侵食される。
結果的に、一人ひとりを見る目が衰えていく。
未発達も、発達のヌケも、性格も、環境からの影響も、家庭環境も、全部ひっくるめて「個性」となっちゃう。
だって、学校でできること、教師ができることは、その中で限られているから。
「そうだよね、個性だよね」と言うことで、教育の限界から目を背け、自らを納得させているだけ。


医療の目的は病気を治すこと。
つまり、病因、正常の状態と対する異物を取り除くのが治療。
とすれば、発達障害の障害は取り除けるか、治療できるのか、という問いになる。
発達障害という異物を取り除く方法はない、ゆえに、治療できない→治らない、という立場のように感じます。


私達は、学校の教師でなければ、医師でもない。
ですから、一般的な言葉として「治った」を使います。
お会いした子も、一年前の自分と比べて、あの辛かったときと比べて、今、「私は治った」と言っているのです。
親御さんも、その姿を見て、「治った」「治って嬉しい」と思っている。
これは親子の自然な会話であり、喜びです。


「治った」という言葉を使うと、「治るなんて嘘だ、間違いだ」と言う人達がいます。
きっと、その人達は、発達障害を個性か、異物だと捉えているのでしょう。
でも、私は、治そうと頑張っている人達は、そのどちらとも考えていません。
発達障害は、神経発達の遅れであって、個性ではありません。
発達障害は、神経発達の表れ、状態ですので、その人にとっての異物でもありません。
ゆえに、刺激と栄養、身体アプローチ、言葉以前へのアプローチによって、大いに変わっていく部分であり、診断基準を飛び越えていくような、社会に適応していくような子ども達が出るのは自然なことでもあります。


神経発達障害を身体障害と同じように「変わらないもの」と捉える人。
神経発達の表現の一つなのに「異物」として捉える人。
こういった人達から見れば、発達障害は受け入れるものであり、周囲がサポートするものであり、取り除くことができない治療不可で治らないものになるのでしょう。
このように出発地点から違っているのですから、子育てを通して、末梢神経からの刺激を通して、より良い栄養を通して、治していこうと考えている人達とは、生涯分かり合えないのです。


そもそもお互いに分かり合う必要はありませんし、どれが正しい道かは、子どもの人生を長い目で見なければわかりません。
ある意味、発達障害の診断も主観なので、正しいかどうかは、本人の主観で良いのだと思います。
今回紹介したお子さんは、「治って良かった」「今は学校が楽しい」と言っていました。
ですから、ご両親が「子育てを通して」という選択は間違えじゃなかったということ。
本人が幸せなら、本人が治ったというのなら、それで良いのです。


支援者はサービス業。
ですから、評価は満足度であり、結果です。
結果が出ないのに、「それでいい」「それしかない」というのは詐欺と言います。
医師も、先生も、支援者も、それぞれの視点があり、それぞれのサービスがあります。
ですから、消費者である本人、家族が主体的に考え、選択しなければなりません。
そば屋に行って、「どうしてピザがメニューにないんだ!」という人は、ただのクレーマー、入る場所を間違えたその人が悪い。
地域にある値段の安い、いつも同じなのり弁を食べ続けるか、自分で食べたいものを材料を集めて作るか、はその人次第。
みんなのお金で乗り弁を食べておきながら、「まずい」と文句を言うのはいけませんね。
美味しいご飯を食べたいのなら、自分で動かなければ。

2019年9月20日金曜日

発達段階に応じた親子の位置

自閉症や発達障害の子どもさんの中には、まるで「霧の中にいるみたい」というような雰囲気の子もいます。
同じ空間に居るんだけれども、私達のことが見えていないような。
他に子ども達が一緒に遊んでいるんだけれども、一人で黙々と遊んでいるような。
見ているようで見ていない。
聞いているようで聞いていない。
そんな様子から、その子の周りに霧がかかっているような印象を受けます。


目が見えないわけでも、耳が聞こえないわけでもない。
それに興味がある言葉や物があれば、自ら注意を向けることができる。
となると、「人に意識を向けさせよう」という想いが出てきます。
声がけしたり、身体を触ったりして、まずは自分の方に意識を向けてもらおうとする。
そんなとき、自然と子どもの正面に、自分の身体があると思います。


ドラマでもそうですし、実際の療育場面、家庭生活でも、子どもさんの前に立って、何度も名前を呼んだり、肩をゆすったりする姿を見かけます。
相手の正面に位置することが、一番視界に入りやすいという考えもあるでしょうし、「話をするときは正面で」という沁み込んだ教えもあると思います。
でも、子どもは、正面に立った相手のことを見ようとしない。
遊んでいる最中などは、そんな相手をどかそうとすることすらある。
それを見て、親御さんは悲しみ、支援者は更なる促しを展開していく。


結論から言えば、無理やり霧の中から出そうとしてもダメ。
霧の中にいたとしても、まったく周囲の状況が分からないわけではありません。
ですから、霧の外が「怖いもの」だというイメージを植え付けることにもなりかねないのです。
過去に強い促しを受けてきた子どもさん、若者は、周囲の状況がはっきりわかるようになったあとでも、環境や人に対する不安を抱えていることがあります。
良かれと思った行為が、心の傷として残り続けることも。


やはり大事なのは、未発達の部分、発達のヌケを育てていくこと。
まだ周囲の状況、環境、情報を自然とキャッチできない状態ですので、それらがラクに捉えられるようになるくらいまで、身体、感覚を育てていく必要があります。
イメージとしては、空間の一部であった自分を切り離していく感じ。
未発達やヌケが育つと、自分という存在がはっきりしてきて、環境との位置取りがうまくできるようになります。
同時に、掴まえれる情報が自分を中心に広がっていきますので、自然と周囲に、人にも意識が向けられるようになるのです。
霧の中から出すのではなく、霧が晴れていくのを育てながら待つ。


そうはいっても、共に暮らす親御さんなら、愛する我が子だからこそ、親子の交流、伝えあい、分かり合えるその瞬間を想い、味わいたいと願うのは当然だといえます。
ですから、私は「親子の位置を工夫されてみては」と提案しています。


正面というのは、一番分かりやすい関係性のように感じます。
でも、正面で、しかも、“やりとり”となりますと、発達段階からいえば、後半になります。
対面してやりとりができるようになるのは、1歳から2歳にかけてくらいでしょう。
もちろん、子どもさんによって異なりますが、霧の中にいるような雰囲気を持つお子さんは、それよりも前の段階に発達のヌケがあることが多いです。
よって、子どもさんの発達の準備から言えば、まだ準備が整っていない段階の関わりであり、両者のバランスが悪い、といえます。
となると、お互いにとってストレスになります。
ちなみに、どんな活動、能力にしろ、「促す」という雰囲気が出る時点で、発達段階に合っていないことをやっている、と考えられます。


子どもさんの状態、発達段階によって、心地良い位置も変わると思います。
「正面がダメだから、何をやってもダメだ」などと思う必要はなく、意外に、横に並んだら意識が向くようになった、交流が生まれた、なんてこともあります。
当然、後ろから関わるのが良い子もいますし、親御さんが子どもさんを背中から抱きしめ関わると、意識がはっきりするような子もいます。
背中へのアプローチは安心とつながりますし、何より母子一体の胎児期を連想させますので。


この位置取りの話は、親子の遊び方に繋がります。
たとえば、砂場で遊んでいるとき、その一人遊びをどう発展させていくか、次の発達段階へと育んでいくか。
正面で、斜め前で、横に並んで、後ろから。
積み上げている砂の山に、自分も砂を盛っていくか、子どもと同じような山も自分も作るか、スコップを共有するか、子どもが使っているスコップを手で一緒に持つか。
同じジャンプをするにしろ、手を持って正面で跳ぶか、横で跳ぶか、抱えて跳ぶか、では意味合いが違ってきますし、刺激を受け取る子どもさんの感じ方も違ってきます。


発達とともに、親子の関係性だけではなく、位置関係も変わってきます。
上手な親御さんは、その時々で、我が子が心地良い位置、分かりやすい位置へ、自然と身体をずらしています。
同じく支援者も、発達段階に応じて位置は変えますし、考えていないようでも「位置取り」に注意し、こだわり関わっています。
会話をするとき、遊ぶとき、勉強を教えるときなどに応用できる視点ですので、子どもにとって心地良い位置を探ってみると良いかもしれませんね。

2019年9月19日木曜日

共感も、発達の一つ

面談の際、家族みんなが同じタイミングで頷いたり、笑ったりする様子を見ると、私は安心します。
何故なら、家族団らんを連想するから。
テーブルを囲んで、みんなで食事をする。
同じ食べ物を分けあいながら食するのは、原始的な、動物としての共感を育む。


人がヒトだった頃、獲ってきた食べ物は、命の綱であり、リスクでもあった。
もし毒をはらんだものであったのなら、その家族、集団は同じ運命を辿ることになる。
とすれば、同じものを食べるというのは、家族を信じ合う行動であり、運命共同体をそれぞれの内側に宿すことになる。
だから、「夕食は、家族みんなで食べるようにしています」「休日だけでも、家族そろって」というような家族は、同じタイミングで頷き、同じタイミングで笑う。


「言葉の遅れがあって…」「他人と関わろうとしなくて…」といった相談も多いです。
しかし、家族みんなと同じタイミングで笑う姿がある、お母さんとだったら、波長を合わせるような行動が見られる、そのようなお子さんも少なくありません。
こういった姿からは、共感の芽生え、息吹を感じます。


言葉が出たら、他人に意識が向くようになったら、お友達や他人と関わったり、遊んだりできるようになるわけではありません。
対人面、社会性の土台は、やはり共感する力。
この共感する力が育っていなければ、たとえ言葉が出たとしても、それは道具を得ただけ。
たとえ、他人に意識や興味が出ても、それは物体としての興味の対象が増えただけ。
言葉も、社会性、それこそ、ソーシャルスキルなども、道具にすぎず、人間として生きるには、ヒトの時代に培われただろう共感、共同がベースになるといえます。


人間関係でトラブルを抱える人は、道具の問題ではなく、適切な使い方を知らない、わからない、という場合がほとんどです。
何故、適切さがわからないかといえば、その人の視点の中に他者がいないから。
まるで一人で生きているかのごとく、道具を使い、振る舞うから、他人との間でトラブルが生じるのです。
こういった部分は、自閉症の特性などと関連付けられて語られることが多い。


「ミラーニューロンだ」「それが脳の特性だ」「視覚的に伝えればわかるんだ」
あたかも、それが障害そのものであり、それ自体は変わらず、どうしようもないものだといわんばかり。
でも、私はそうは思いません。
だって、ノンバーバルの子どもの中にも、共感力のある人達がいるから。
母親が涙を流せば、一緒に泣く子もいるし、ティッシュを持ってきて涙を拭く子もいる。
美味しいご飯を食べれば、家族の顔を見て、微笑み合う子もいる。
公園に行けば、両親の手を取り、キャッキャ、キャッキャと、走り回る子もいる。


言葉豊かな人、学業でも優秀な成績を収めるような人の中にも、人間関係で悩み、トラブルを起こしてしまう人もいます。
このような人達の多くは、感覚の未発達、発達のヌケを抱えているものです。
しかし、感覚の未発達=共感できない、他者の視点を想像できない、ではないと感じます。
課題の根っこは確かに、感覚系の未発達、発達のヌケと繋がっていると言えますが、それにプラスして他者と息を合わせる、共に行動する体験の乏しさがあると思うのです。


相談者、本人の話を聞くと、「家族一緒にごはんは食べなかった」「それぞれが好きなものを食べていた」「家族みんなで旅行に行った記憶がない。遊んだ記憶もない」という言葉が返ってきます。
幼少期から一人の世界を好んでいたために、体験が積み重なっていかなかったというのもあるでしょう。
忙しい世の中ですので、なかなか家族の時間がもてなかったのもあるでしょう。
また少なからず、「社会性=対人スキルの獲得」といった認識のずれが、意味を理解することなく、道具を振り回す結果になった場合もあるように感じます。


共感する力も、発達の一つだと考えています。
人間だけが共感する力を持っているとはいえず、やはり他の機能同様に、長い進化の過程の中で培われ、獲得した能力だと考えられるから。
なので、「それが障害だから。特性だから」とは言わずに、育んでいってもらいたいと思うのです。


息を合わせる遊びを親子で続けた結果、それまで霧の中にいたような雰囲気だった子が、親御さんに意識が向くようになり、発信が出るようになった。
できるだけ家族一緒に、同じものを食べるようにしたら、偏食が治まっていき、同じ食事ができるようになった。
感情表現が乏しかった子が、家族で思いっきり遊ぶ体験を通して、自分の感情に気づき、表現するようになった。
こういった変化が見られた子ども達も大勢います。
これはまさに、家族で共感する力を育んでいったといえるでしょう。


「言葉が出れば」「未発達の部分が育てば」「発達のヌケが埋まれば」
そういった部分が育つと、対人面でも変わっていくのは大いにあることです。
でも、それだけじゃない。
やはりヒトとしての、動物としての育み、体験も必要なんだと思います、特に共感の部分で。


家族が共に過ごし、活動し、共感し合う心を育んでいる家庭のお子さんは、言葉が出れば、他人との間で心地良い言葉の使い方をします。
また、言葉が出ない段階でも、ノンバーバルな方法を使い、他者との心地良い雰囲気の交流を行います。
言葉は道具だから、心地良く使うための心を育んでいく。
そのために、家族や信頼している人との息を合わせる行動、体験の積み重ねが大事になります。


「子どもは教えたように育つのではなく、親のように育つ」という言葉があります。
綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、やはり夫婦が共感し合っている姿を見ることで、子の共感する力も育っていくように思えます。
家庭に訪問すると、顔かたち、使う言葉は違えども、夫婦が同じタイミングで頷き、笑い、悲しみ、怒り、驚くような家庭、「なんでも家族一緒」と決めているような家庭のお子さんは、共感する力がちゃんと育っているものです。


共感も、一つの発達と捉えることができれば、今日からできることはあります。
それこそ、家族だからできる、親子だからできることです。
子どもとの時間があまり持てないのなら、持てたときに思いっきりやりきる。
ここは愛着の土台と重なり合う部分でもあります。

2019年9月18日水曜日

それは藁か、希望か

発達障害の治療、教育、支援において、万人に効くものなどはありません。
たとえ、エビデンスがあるとされる介入方法だって、その原文、論文を読めば、「対象の6割に効果があった」ですとか、「介入前後で、20%の改善が見られた」という程度のもの。
どの論文を読んでも、「100%効果あり」と言われていないのです。
それは、多くの遺伝子が関わり、無数の環境要因が影響し、発達期に生じる神経発達障害なのですから、当然だといえます。


「鬼の首を取ったように」、いえ、ナントカの一つ覚えのごとく、エビデンスがどうのこうのという人達がいます(とにかく「エビデンス」といえば、それで方が付くと安易に思っている??)。
しかし、エビデンスにこだわるわりには、状態に変化が起きない。
それは「治らない障害だから!?」
だったら、最初からエビデンスがあるかどうかなんて関係ないのでは、と思います。


エビデンスのある介入方法で大きな改善が見られないのなら、効果があった対照群に、あなたの目の前の子が入っていないからか、その介入方法の効果の限界がそこにあるということ。
いずれにしろ、そこにこだわり続ける意味がわかりません。
だって、子ども時代の一年、一か月、一日は、その子の人生全体で見れば、とても貴重な神経発達が盛んな時期。
期待するほどの効果がないのなら、そもそも効果を感じないのなら、別の介入方法を探す一歩を踏みだす必要があります。
「どうしようかな」「どうするかな」と思っている間も、子どもの時間は平等に過ぎていきます。
成人期の子の親御さんとお話しすると、皆さん、「願いが叶うとすれば、この子の子ども時代に戻って、未発達、ヌケを育て直したい」とおっしゃるのですから。


神経発達の多様性を考えると、一つの介入方法、同じ介入方法では、必ず限界がきます。
特に神経発達が盛んな時期を過ごす幼少期、子ども時代は、常に刺激の変化が求められます。
お子さんによって異なりますが、一週間単位、二週間単位、1ヶ月単位、季節単位で「振り返りを行いましょう」と、私は伝えています。
それくらい変化が大きいのが、子どもさんの発達。
なので、何年も同じ介入方法を続けている場合は、発達援助というよりも、パターン学習?日課?ルーティンワーク?かなと思います。


発達障害が生じた理由、要因が、一人ひとり異なりますし、そもそも神経発達はその子、固有のものです。
ですから、介入方法はできるだけ多い方が良いのです。
とりわけ、「効果があった」「改善した」というようなポジティブなものは。
ネガティブなもの、変化がないものは、ある意味、他の方で検証済みなので、敢えて手を出す必要はありません。
再三言うようですが、子ども時代の時間はとても貴重ですから。


ポジティブな結果が得られた介入方法の中から、その時々で、選択し、我が子に合わせてカスタマイズしていくのがベストだといえます。
そう考えると、「良くなったよ」「改善したよ」「治ったよ」「自立できたよ」というエピソードは、一つ一つがとても貴重な情報であり、そういった声は一つでも多い方が良いのがわかります。
我が子の子育て、目の前の人への介入方法を作り上げていく際、アイディア、材料が多い方が、よりその子に合ったものを作れるからです。


それなのに、そういったポジティブな声を上げると、「藁にもすがる想いの親御さんに…」というようなことを言う人がいます。
我が子に100%合うことはないと思いますが、考えるヒントにはなるはずです。
決してネガティブな影響は及ぼさない。
だって、「子が育つ」という人類にとって望ましく、ポジティブな情報だから。
限られた子育ての時間を過ごしている親御さんにとっては、藁などではなく、貴重な子育てのアイディアです。
なので、そういったことを言う支援者がいれば、「私が信じるもの、専門とするもの以外は、藁であってほしい」という願望を言っているだけ。
藁人形を木に打ち付ける人を連想すれば、聴く耳を持たず、聴く時間の無駄が省けます。


しかし、親御さんの中にも、「藁にも縋る」と表現する人がいます。
ポジティブな話、他の親御さんの子育てのアイディアが「藁」に見えてしまうのは、それだけ専門家や支援、周囲の人間に希望を打ち崩されてきたからでしょう。


療育を受けたのに、専門家を頼ったのに、地域で評判の施設、支援者に支援を受けているのに、効果や変化を感じない…。
私は一生懸命やったのに、良いと言われているところはすべて行ったのに、変わらない…。
それだけ発達障害は難しい障害なんだ、変わらない障害なんだ…。
そう思うことでしか、そうやって折り合いを付けることでしか、今の自分を保つことはできない…。
だから、「良くなった」「改善した」「治った」「自立した」なんてのは、“藁”なんだ…。


幸せを感じられなかったり、欠乏や絶望を感じていたりする人は、わずかな光が大いなる希望かのように受け取ってしまうものです。
「藁にも縋る」というような強い言葉で否定する人というのは、それだけ強く希望を感じている裏返しだともいえます。
しかし、私もそうですし、発達のヌケを育て直し、治ること、自立することを目指して子育てをされている親御さん、支援者達というのは、良くなった話を聞いても、大袈裟な反応、評価はしないものです。
何故なら、診断基準から外れた人、一生涯支援と告げられた人が普通に高校、大学に行っているし、一般人として働いている姿を見ているから。
そういった人たちにとって、良くなった話は、一つの希望であり、一つのアイディア。


良くなる人、改善する人、治る人、自立する人の周りには、同じような人達が集まるものです。
それは、そういった一人ひとりの歩み、生活の中に、ヒントがあるから。
反対に、変化がない人、ずっと生きづらいままの人の周りには、そういった人達が集まる。
ですから、本人にしろ、親御さんにしろ、そこから抜け出す行動を起こさない限り、未来も同じことが続いていく。


「良くなった」という話を聞いて、「どんな方法だろう、子育てだろう」と思うか、「どうせ、藁に違いない」とハナから聞こうとしないか、たったこれだけの違いが、未来を大きく左右するのです。
子どもの場合は、親の意向が優先されるので、ある意味、運次第。
成人の方達からの相談も受けると、自分の意思が尊重される、意思通りにいける年齢になってからの取りかえしには、相当な努力と時間、強い意思が必要なのを感じます。


しかし、そうとはいえ、「どうせ、藁に違いない」と思う人が、どうやった子育て、介入をするかは、他人様のおうちの話です。
「知り合いの子のおうちもやれば」「同級生の子も、身体アプローチやればいいのに」などということも聞きますが、私は「それはどうしようもないことです」と言います。
本当にどうしようもないことですし、ぶっちゃけ他人のおうちを気にしているだけの余分な時間はないと思うことの方が多いですから。


じゃあ、私達にはなにもできることがないのか。
いいえ、一つだけあって、それは我が子を、目の前の子をより良く育てること。
つまり、それぞれの「n=1」を輝かせるのです。
「n=1」が輝けば、その光が誰かに届き、希望になるかもしれません。
全部が全部とは言えなくても、部分的に、何か一つでも、他の子の子育てのヒントになるかもしれません。
ですから、堂々と「n=1」を発信していけばいいのです。


「n=1」で、何が悪い。
我が子がより良く育ったのなら、生きづらさがなくなっていったのなら、「一生涯支援」と告げられた子が自立して生きていったら、親にとってそれ以上の喜びはないでしょう。
支援者だって同じこと。
対人職の究極の目的は、目の前の人が幸せになる、そのための後押しをすることですから。
合うものを待つのではなく、合うものを探していく、掴みに行く。
合うものが見つからないのなら、合うまで動き続ける。


一人として同じ人がいないのは、発達障害を持つ子も一緒。
その発達の仕方だって、バラエティーに富んでいるのですから。
100%の人に効果があるエビデンスのある介入方法は存在しない。
だったら、「n=〇」の〇の数が増えていくよりも、素晴らしい「n=1」が増えていく方が良い。
そんな風に私は考え、今日も「n=1」が少しでも輝けるような後押しを行っています。

2019年9月17日火曜日

「n=1」の声

専門家も、医師も、先生も、支援者も、どう頑張っても、どんなに学び、資格を取ろうとも、不可能なことが一つだけあります。
それは、当事者になること。
この“当事者”とは、ざっくりした「発達障害」ですとか、「ASD」ですとか、「ADHD」といった括りのことではありません。
当事者とは、その人その者になること。


「私は私であり、あなたはあなたである」
ですから、専門家は当事者から学ぶのです。
それができない人は、ただのオタク。
オタクと実践家は、そもそもの出発点が異なっています。


「支援者は、当事者から学ばなければならない」
これは、どこの職場でも、研修でも、最初に言われることです。
そのために、目の前にいる人と真剣に向き合い、そこからヒントをもらわなければなりません。
支援のニーズは、当事者から生まれるものであるから、当事者がいて支援者がいる。
当事者の視点を抜かした支援とは、独りよがりとしか言いようがないのです。


どの支援者も、「当事者から学べ」と耳に胼胝ができるくらい言われます。
しかし、どうしたもんか、良くなった人、治った人からは、学ぼうとしない。
苦しんでいる当事者を見ると萌えるのに、治った当事者を見ると萎えてしまう。
「目の前の人を少しでも良くしたい」「ラクにしたい」「自立させたい」というのが、対人職が対人職である唯一の証。
そういった感情を持ち併せていない人間が、対自分職でやっている支援者。
良くならない方ばかりに、苦しんでいる人の方ばかりに意識が向いてしまうのは、自らを助けるために支援者になったという証。


ASDも、ADHDも、LDも、症候群です。
共通の行動が確認できるから、その診断名が付いているだけ、同じグループに括られているだけ。
同じ症候群でも、行動の出方は人それぞれ違いますし、同じ人だって、時間や状態、環境によって現れる行動、その強弱は違います。
そして何よりも、同じグループに属していたとしても、現れる行動の原因、背景は問われていないのです。
そう考えると、『n=1』にしかならない。


論文を読む際、「n=100」「n=200」「n=300」と対象の人数が増えていくたびに、私は違和感を持ちます。
これだけ多くの遺伝子が関わると言われているのに、これだけ多くの環境要因が影響すると言われているのに、発症のタイミング、どの神経に課題が生じているか明確に示すことができないのに、「n=100」の中の1つになっていることの違和感。
いろんなその人らしさが切り捨てられ、同じ行動様式が確認できたというだけで集められる。
しかも、そのほとんどが、治らない前提で集められた人であり、治すことを目的としない研究。


「当事者の声を聞け」「当事者に学べ」と言われているのに、良くなった人、自立した人、治った人の声を無視し、挙句の果てには、「偽物だ」「誤診だ」とまで言い放つ特別支援の世界。
こういった声を聞くたびに、当事者をないがしろにしているのは、支援者その人達だと思うのです。
どうして良くなった人の声を聞こうとしないのか。
どうして自立した人の生き方に学ぼうとしないのか。
どうして治そうを目指さないのか、目指すと「トンデモ」と言われるのか。


どこの世界に、業界に、良くなった人から学ぼうとしない職業集団がいるのでしょう。
認知症や脳の疾患者に対し、「良くなってほしい」とリハビリをしたら、トンデモになるのでしょうか。
神経の発達障害の子ども達に、「良くなってほしい」と、神経ネットワークを育てるための運動や遊びをしたら、いけないのでしょうか。
他人から、また支援するものと表現される支援者から、批判の声が上がる意味がわかりません。
医療行為をするわけでもなく、何か特別なものを体内にいれるわけでもなく、子育てや運動、遊びを通して、神経発達を促していく。
こうなると、「神経発達に支援者が必要ない」という真実を否定したいがための行為にしか見えないのです。


本人にとって、家族にとって、必要なのは「n=〇」の数の多さではありません。
「n=1」まさに、自分という「1」がより良く育ち、より良く生きていけるための方法なのです。
論文を書く必要のない、その論文で評価され、キャリアや予算等に影響がない人は。


「n=1」を輝かせるには、「n=1」から学ぶ以外、方法はありません。
しかも、その「n=1」は、良くなった人である必要があります。
良くならない人から学んでも、よくはなりません。
そういった人に意識が向くのは、学びたいからではなく、安心を得たいがため。
「私だけじゃないんだ」「うちだけじゃないんだ」というその一瞬の安心のためにすり寄っているだけだといえます。


療育とは、治療(Treatment)と教育(Education)。
治療の目的は、よくすること、治すこと。
治すためには、治った人から学ぶ以外ありません。
本人が「治った」と言っている、一度付いた診断名が外れている、生涯支援と言われていた人が自立して生活できている、「どうしてだろう?」
この「どうしてだろう?」が治療の一歩。
そういった疑問が浮かばないのなら、支援者やめた方が良い。
当事者から学び、当事者を救うものでなければ、支援者とは言えないから。
「あなたは苦しいまま。でも、私はそばにいるよ」は、自己治療、愛着障害の。


発達障害に関わる遺伝子は、500以上あると言われています。
そして神経発達に影響を及ぼす環境要因は無数。
ですから、治療の方法は一つであるわけがないのです。
原因が特定されていないので、ピンポイントで治療ができないのです。
ということは、目の前にいる人に合わせて、オーダーメイド、テイラーメイドで、治療していくしかありません。
そのためには、良くなったという「n=1」から学び、ヒントを得ること。
良くなった「n=1」を集めていき、その中から試行錯誤を通し最適化を目指していく。


「n=1」のために生きるのが支援者。
同じ診断名だからといって、同じ方法しか提供できないのは、当事者の声に耳を傾けていないので、そもそも支援者とはいえません。
良くなったという人の声を聞き、治ったという人の生き方から学ぶ。
その積み重ねが、目の前の人の未来に活かされ、治療法の確立のための一歩となります。


神経細胞が欠損している、無くなっていく病気、障害なら、治療という言葉は適さないのかもしれません。
でも、神経細胞は同じ。
違いは、そのネットワークの築き方。
だったら、治療する道はある。
実際、良くなった人、治った人、診断基準から外れた人が存在しているから。
目指すは「n=1」の成長、自立、幸せ。
「n=2」になった途端、個は消え、症候群の括りの中の1つになってしまいますので。

2019年9月12日木曜日

社会の一員として育つ

「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」なんていう本が売れているらしい。
当然、子どもの方から、こういった類の本を買ってほしい、読んでほしい、参考にしてほしいなどというリクエストはないのでしょうから、これは親に向けた親のための本といえます。
こういったタイトルの本に惹かれてしまうのは、それだけちゃんと子を叱れない、向き合えない親、大人が増えた証拠。


子ども時代、叱られてばかりで自信なく育った私が親になる。
「こんな親だったら良かったのに」という姿をイメージすることで、自分自身の傷を癒していこうとする。
また、幼少期から放っておかれた子、真剣に叱られたことがなかった子、まるでペットのごとく、親の所有物として育った子は、「叱らない子育て」などを肯定することによって、自分自身の生い立ちを肯定する。
「叱らない子育て」「褒めて伸ばす子育て」は、ある意味、親の自己治療なんだと思います。


「問題行動は無視」というのも、そんな大人たちとの間に親和性があったため、令和になっても、いまだに消えていかないのだと思います。
「問題行動は無視」なんて、コンマ数秒で気づく、まずさ。
問題をそのままにしておけば、無視し続けていけば、問題はエスカレートしていくだけ。
もし、真剣に「問題行動は無視」をやろうとすれば、本人か、周囲が、破滅するまで続けるしかありません。
結局、叱れない大人が、真剣に向き合うことのできない大人が、「問題行動は無視」という言葉に救いを求めただけなのでしょう。


「うちは、叱らない子育ての方針なんです」「褒めて伸ばす方針なんです」という親御さんがいます。
それは、各家庭のお話なので、他人がとやかく言うことではありません。
しかし、実際、とやかく言わざるを得ないことがある。
それは、叱らない子育てが、教えない子育てになっているとき。


悪いことは悪いと教える。
ダメなものはダメと教える。
それは、人間として生きていくために必要なことです。
その家族の中だけで生きていくのなら、叱らず、教えず、褒めるだけ、で良いのかもしれません。
飼い主を噛まずに、尻尾をふりふりしてくれる子に育てば、それでよい。
しかし、子どもでも、社会の一員です。
公園も社会の一部ですし、幼稚園や保育園、学校だって、小さいですが社会。


社会で生きていくためには、他人の権利を侵害しない、危害を加えない、という最低限のルールは守らなければなりません。
反対に言えば、これさえ守れていれば、社会の中で生きていける。
コミュニケーションが苦手でも、人付き合いができなくても、強いこだわりがあったとしても、生きていける。
発達障害の人が、一般の人達からネガティブな印象を持たれるとき、それは特性を持っているからでも、発達に凸凹があるからでもありません。
ただ単に、他人に対し、他人をまきこんで、他人の権利を侵害してくるから。


昨日からの続きになりますが、「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」というのは、人生の中で、特に子ども時代、思いっきり遊び切った経験がある人達であり、「ダメなものはダメ」ときちんと教えられてきた人達だということ。


他人の権利を侵害するような子ども、大人からの相談もあります。
そういう人達というのは、根っこに未発達、発達のヌケがあるものです。
しかし、それ以上に、「ダメなものはダメ」と教えられてこなかったという部分が大きいのです。
結局、「問題行動は無視」「叱ってはなりません」「長所を褒めて」「二次障害にならないように」と言う愛着障害を持った支援者が、愛着の土台に弱さを持った親御さんが、人間として生きるための大事な部分を教えられずにきた、というパターン。


人間がペットを飼うのは、寂しさを埋めるため、というのは有名な話。
それは古来からやってきたことであり、それ自体はより良く生きるための方法。
でも、それを子どもにやってはいけないのです。
支援者が完全なる自立に積極的になれないのは、自立しそうになると妨害してしまうのは、利用者のペット化です。
同じように、「子どもを叱れない」「子どもを叱ると、自分が苦しくなる」という親御さんも、無意識のうちに子どもをペット化してしまっている。
そういった意味で、自立を後押しするのも、妨げるのも、親といえます。


発達の凸凹があって、社会の中で自立し、馴染んでいる人というのは、他人の権利を侵害しない人です。
そういった人達と言うのは、子ども時代、子どもとして過ごせただけではなく、親から、先生から、周囲の大人たちから、一人の子どもとして見られていた人であり、社会の一員として育てられた人。
「ダメなものはダメ」と叱ってくれる大人、真剣に向き合い、教えてくれる大人。
そういった人達の存在が、社会の中で自立し、馴染む姿に繋がっている。


何かトラブルが起きると、「障害があるから」と言う人がいます。
しかし、一般の人達からしたら、障害の有無は関係ない。
だって、社会の一員として苦言や抗議、問題提起をしているのですから。
「うちは褒めて育てる方針で…」なんて、聞いていないし、どうでもよいこと。
大事なのは、あなたのお子さん、社会の一員として問題ありますよ、他人の権利を侵害していますよ、ということなのです。


ヒトは、人になり、人間になる。
ヒトは動物。
人は知恵を持つ者。
人間は人の間で生きる者。
子どもをペット化してはならない。
何故なら、人の間で生きることを学べないから。
そういった子ども達が大人になると、社会に適応できず、自立が難しくなる。


「診断を受けずに大人になったから、二次障害になった、自立できない」というのは、支援者の方便。
早期から診断を受け、早期療育を受け続けた大人も、自立できていないし、併存症を持っているから。
つまり、診断の有無ではなく、育ちの問題。


障害児ではなく、一人の子どもとして、ヒトの部分を育て切ったか、切れるか。
障害児ではなく、一人の子どもとして、社会の一員として接してもらったか。
障害児ではなく、一人の子どもとして、将来、人の間で生きるために必要な「ダメなものはダメ」を教えてもらったか。


発達に凸凹があるから、「自立できない」はウソ。
発達に凸凹があるから、「問題を起こしてもしょうがない」は甘え。
発達に凸凹があろうがなかろうが、動物としての土台の部分、人と人の間で生きるための土台の部分が育っているかどうかが、重要なのです。
つまるところ、子育ての話。
それを障害の話にすり替えてしまってはならないのです。


未発達なところは育てる。
人間として生きていくために必要なところは教えていく。
その育て方、教え方の部分で、特性という概念、視点が出てくるだけ。
「障害があるから、教えなくていい」というのは、子を一人の人として見ていない表れ。
障害児である前に、一人の子であり、人間です。
その基本的な考えがブレなければ、「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」に育っていくと、私は考えています。

2019年9月11日水曜日

すべての感覚、機能を総動員する遊び

近頃、私の意識は「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」に向いています。
これは偉人や天才などと言われる人達のことではなく、社会の一員として馴染み、生活している人達のことです。
神経発達の遅れだけでは、障害にはなりません。
そこに不適応が重なるから障害になる。
では、神経発達に遅れはあったけれども、不適応を起こさなかった人には何があったのだろうか。
不適応を起こさないばかりか、社会や生活環境に適応し、馴染んでいる人達もいます。
そういった人達の歩んできた道の中に、より良い子育て、発達援助のヒントがあるのだと思います。


自閉症の特性があることや発達に凸凹があることは、良い悪いといった次元の話ではないといえます。
ただそこに、その人がいる、というだけ。
しかし、そこに「適応できない」という要素が加わると、問題になり、障害となる。
結局のところ、特性があるとかないとか、どのくらいあるとか、は大きなことではないのでしょう。
自閉症の特性バリバリでも、ADHDそのものでも、社会に適応できていたら、問題ありません。
病院に行かなければ、発達障害にはならない。


ヒトは、高度な社会生活を営む動物です。
もし、ヒトが途中で進化をやめていたら、自閉症やADHDなどは、その個人、個体の生き方の違いだったでしょう。
学生時代、お付き合いのあった親御さん達は口々に、「この子と一緒に無人島に行きたい」と言っていました。
その言葉の意味するところは、「今の状況、生活から脱したい」という悲痛の叫びだったように思いますが、「障害という概念から離れたい」という欲求もあったように感じます。
無人島で暮らせば、ヒトは動物に戻れますので、障害から解放されます。


ヒトとヒトの間で生きるから、適応する者と適応できない者が生まれてくる。
だから、「みんな、無人島へ行こう!」とは、思いません。
でも、その無人島という環境にこそ、発達の凸凹が障害にならない生き方があるように思えてきます。


直感的に、無人島で生きていける人は、社会の中でも生きていけると思います。
つまり、動物としての生き方ができること、動物としての土台が社会性の土台になるということです。
ヒトは社会性の動物だからと言って、人付き合いのノウハウなんて覚えても、一向に社会性などは培われていかないのです。
大事なのは、社会性の部分ではなく、動物という部分。
動物として、どんな環境でも生き抜けるくらいの自由自在に動かせる身体があるか、生きていくための土台が培われているか。
社会性はノウハウでも、スキルでもなく、進化の先に辿りついたもの。


このような空想、連想をしていると、「障害からの解放」がより良い子育て、発達援助とつながり、結果的に“治る”になるのだと思いました。
目の前の子どもに、「障害」という響きを感じれば、自然と保護する態勢が出来上がります。
それは社会の中で培われたというよりも、学習されたパターンです。
「弱い者は助けましょう」「手を差し伸べましょう」
学校適応の産物。


しかし、私達は人間である前に、動物であります。
目の前の子が、「このままでは、一人で生きていけない」、それこそ、「無人島に行ったら生きていけないだろう」という動物としての感性が発揮されると、どうしなきゃいけないのかがわかります。
動物は、「一生は、この子を守り切れない」という定めに従い、子育てを行う。
だから、必死になって餌の取り方を教える。
そして、その前に、子どもに思いっきり野山で遊ばせる。
自然の中で思いっきり遊ぶのは、自立のための準備。


障害にならなかった発達の凸凹があった人達を見ていて、私は今、こう結論付けています。
発達の凸凹があった人、ある人で、社会の中で自立し、適応できている人というのは、人生の中で、特に子ども時代、思いっきり遊び切った経験がある人達。


脳は、爬虫類の脳があって、哺乳類の脳があって、人間の脳があります。
それぞれの脳の育ちは、もちろん、大切です。
でも、それぞれが完璧に育たなくても、そのどこかに、部分的に未発達やヌケがあったとしても、3つが連結、連動できていれば、適応することができると考えています。
何故なら、社会性とは進化プロセスの最終形だから。


適切な振る舞い方を覚えたとしても、空気が読めなければ、本当の意味で社会性があるとはいえないし、社会の中での適応も難しいといえます。
空気を読むとは、知識、学習ではなく、土台である動物としての育ちの部分。
本来、社会性とは爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳の連携作業です。
つまり、個々の脳の育ちも大事だけれども、連携し合っていないと機能として発揮できません。


思いっきり自然の中で遊んだ子が「治る」というのは、理に適っています。
自然の中で遊ぶというのは、爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳が総動員されるから。
たとえば、木に登る。
木の匂いや感触といった五感だけではなく、どの枝をどの順で掴むかといった計画性、自分の身体の傾きはといった重力との付き合い方、そして「あの高いところまで登れた」という達成感、胸の高鳴り。
すべての感覚、機能を総動員するからこそ、それぞれの連携が生まれる。


連携の素晴らしさは、補えること。
たとえ、未発達な部分、抜けた部分、弱い部分があったとしても、連携し合ったもの同士で補い合える。
それが結局のところ、適応する力となり、自立へと繋がる。
適応して、自立できていれば、障害にはならない。


私の意識が向いている「発達障害にならなかった凸凹のある人、あった人」には共通して、好奇心、想いのまま、自由に遊んでいる姿があります。
障害児ではなく、子ども時代をちゃんと子どもとして過ごせた人。
動物としての土台をきちんと培える時間、猶予が持てた人。
感覚、身体機能、3層の脳を総動員して遊んだ経験が、豊かな神経ネットワークを築いていく。
豊かな神経ネットワークとは、補い合えるネットワークのことだと、私は考えています。

2019年9月6日金曜日

「心地良い」は、親子を結びつける

訪問すると、多くのご家族は、両親揃って相談を受けられます。
当然、夫婦も最初は他人ですので、お子さんに対する捉え方、子育ての姿勢、想いの強さは異なるわけです。
一生懸命話をし、感情が高まっているお母さんの横で、静かに座って聞いているお父さんがいる。
でも、「ずっとしゃべらないし、奥さんに言われて座らされているのかな」と思いきや、突然、堰を切ったように話だす方も少なくありません。
どんなときに、話し始めるか。
それは、我が子と自分が繋がったとき。


発達障害は遺伝100%の障害ではないけれども、少なからず、ご両親から受け継いでいる部分もあります。
ですから、親御さんの子ども時代の姿と、目の前の我が子が部分的に重なるわけです。
途中から会話に参加してくるお父さんというのは、「そういえば、私も子どものとき、同じことがあったんです」と言われます。
それは親子ですから、自然なこと。


ある意味、「私も子どもの頃…」という言葉が出れば、私の仕事は終わったも同然です。
実際、そういった共通する特徴があったけれども、こうして社会の中で自立し、家庭生活を営んでいるからです。
歩んできた道の中に、我が子を育むヒントがあります。


皆さん、ご存じだとは思いますが、発達の凸凹がある=障害ではありません。
脳や神経発達の凸凹にプラスして、環境への適応に問題がなければ、障害にはならないのです。
凸凹がある人がみんな、発達障害だとしたら、有病率は100%。
まったく脳の、発達の凸凹がない人なんていないのです。


親御さん達とお話をしていると、「子ども時代、こんなことばっかりしていました」「大学卒業するまで、ずっと〇〇を続けていました」ということをよく耳にします。
実は、それがお子さんの発達のヌケを育てるために必要な刺激、活動だったりするわけなんです。
つまり、同じような特徴があったとしても、ご自身で育ててきた。
そして社会に適応し、今、幸せな家庭を築いている。


再三、子どもは自分自身で必要な遊び、発達刺激がわかり、それに没頭するもの、と言ってきました。
でも、それは子どもに限らない、と私は思うようになりました。
親御さんの中に、「近頃、こんな趣味を始めたら、身体の調子が良くなって」「突然、急に〇〇という趣味がやりたくなって始めたら、頭がすっきりしていいんですよ」と言われる方が少なくないからです。
もちろん、親御さんは発達障害なわけではありません。
でも、感覚的に自分に必要な刺激を求め、それを日常の中に組み入れ、より良い生活をカスタマイズしているのです。


自分も大人になって時間が経ちましたし、いろんな大人の方達と接する中で、「より良い人生」「より良い生活」を考えるようになりました。
そのとき、思ったのが、やっぱり自分自身の生活をカスタマイズできる人、より良いものへと常に作り変えていける人が、豊かな毎日、人生を送っているのではないか、ということです。


脳や発達に凸凹があることは、悪いことではありません。
ですから、その凸凹をそのまま受け入れて生きていく人がいても、なんの問題もありません。
その人の人生の話ですから。
しかし、自分自身の人生をより豊かなものにしていこうと思うのなら、やはり自分自身を育てていく必要があります、大人になっても。
未発達な部分があれば、そこを育てる。
未発達な部分が育ちきったのなら、より良く生きるために凸を磨き、凹を整え、なだらかにしていく。
その繰り返しが、ヒトとしての成長となり、自分の人生を豊かに変えていくのだと思います。


私も、30代になってから、子どものときよりも、学生時代よりも、20代のときよりも、「丸くなったね」と言われます(爆)
人間、丸くなるということは、角が取れることであり、凸凹が整ってきた表れなのかもしれません。
ですから、成熟するというのは、発達した証拠であり、大人になっても発達を止めなかった証なのだと思います。


本来、動物としてのヒトは、生きている限り、発達するし、発達を求めていく存在なのではないか、と感じています。
そう考えると、不適応を起こしているわけではないのに、「発達障害」という診断名をつける意味はなんだろうかと思うのです。
診断名をつけることで、子育て、発達援助が、支援に替わってしまう弊害の方が大きいのではないか。


30代になって始めたマラソンも、「心地良い」から続いています。
「心地良い」ということは、私に必要な発達刺激であり、発達の機会なのだと思っています。
自分の「心地良い」という感情に耳を傾けることの意義、その大切さ。
今、私は「心地良い」というのは、発達の道標、声なき声なのだと捉えています。


お母さんやお父さんが、子ども時代、「心地良かった」遊び、環境、刺激は、お子さんの「心地良い」と繋がっているのかもしれません。
「何をしたら良いか、わからない」とおっしゃる親御さんには、「一緒になって心地良いと感じる遊び、活動を」と伝えています。
「心地良い」は、親子を結びつけてくれるのです。

2019年9月5日木曜日

定型発達の子で土台が育っていない子、発達障害の子で土台が育っている子

9月も、5日も過ぎると、不登校の話題がピタッと止まります。
不登校は、通年で生じているわけですから、そういった支援に携わっている人達は、時期を問わず、発信しているのでしょう。
ですが、どうしても一般の人達からしたら、この2学期が始まる前後だけに見えてしまいます。
敢えてアクセスしようとしなければ、目に見えないのは、自閉症、発達障害の啓発活動と一緒。
すでに下火になり、注目度が一気に下がった青いお祭りと、今、注目を集める不登校啓発といったところでしょうか。


個人的な意見としては、不登校を肯定も、否定もしません。
学校という形式の学びが合わない子も当然いるでしょうし、命をかけてまで行くべきところじゃないと思います。
それに、とてもプライベートな話で、個人の選択の話ですので、その子が、その家族が不登校を選択するのなら、それでよいのだと思います。
ですから、他人がとやかく言うべき話ではないわけで、ということは、他者がメディアを通して「学校に行かなくていい」と発信し続けることの意図に疑問を感じるわけです。
「学校に行かなくていい」と言うのなら、「学校に行った方がいい」という意見も並べ、各自で判断してもらうのが自然な形だと思います。


著名人やタレントの人達の発信も目立ちました。
タレントは、まさに個人の資質、才能を活かして身を立てている人達です。
そういった人達は、当然、学校という枠にとらわれない部分で、才能を活かし、磨いてきた人達。
なので、学校に行く、行かない、とは別次元の話も含まれています。
不登校になれば、その分、才能を磨く時間ができ、従来の教育ではできなかった学びができる、という面もあるかもしれません。
しかし、資質は磨いてナンボ。
空から降ってくるものでも、ある日、突然目が覚めたら手に入るものでもありません。


同世代の子ども達が、学校生活を通して学んだこと、身に付けたことは、人生のどこかでやっておく必要があります。
だって、そういった人達がベースで作られた社会だから。
自閉症、発達障害の世界でも同じですが、「そういった社会が間違っているから、社会を変えよう」なんていう人たちもいます。
でも、それには相当な時間がかかる。
今の子ども達は間に合わない。
第一、社会を変えていくには、社会に出て活動できなければなりません。
行動を起こさない限り、自分も変わらないし、他人も、さらに社会なんて、もっと変わるわけがない。


そうとはいえ、社会の方向性は不登校を受け入れるような感じで進んでいくと思います。
働き方だって、在宅ワークや、個人で、個人同士が繋がったビジネスだって増えていますし、こういった働き方が当たり前になる世代の人達が中心になる時代もやってきます。
ですから、一つの場所に通って…という価値観は、今までとは違ったものになるでしょう。


しかし、じゃあ、「一つの場所に通い続けること」「コツコツと続けていくこと」の価値がなくなるか、といったら、そうはならないと思います。
むしろ、そういった人達の姿勢は、今以上に評価される社会になると思います。
何故なら、未来の社会は、海外から様々な人と文化が入ってきて、共生する社会だから。
そして、「コツコツと続けていくこと」を子ども時代に培えず、その価値観に気づかない大人たちが子どもを教え、育てる立場になってくるから。


発達障害は、今後も増え続けるでしょう。
さらに、その中でも、運動面の発達の遅れがある子ども達が増えていくはずです。
それは遺伝と言うよりも、環境の影響をモロに受け、治す機会を失い。
遊びの貧困化、体験の貧困化、刺激の偏り、使う身体機能&感覚の偏り。
文化、科学が豊かになると、一番最初に影響を受けるのは原始的な部分。
つまり、身体から先に貧しくなるのです。


私は、若者たちの相談や援助に携わる際、「これからは、真面目にコツコツ働けること自体が、素晴らしい資質として評価される時代になるよ」という話をします。
まさに、自閉症の人達のまっすぐな姿勢、真面目にコツコツ積み上げていく姿勢が望まれているのです。
その資質を発揮するためにも、治せるところは治しておく。
また親御さんは、土台となる身体を子育てを通して丁寧に育んでいく。


昨年の障害者雇用の問題で、公官庁で大量採用が行われました。
でも、採用された人達が次々に退職しています。
これは障害を持った人に限らず、新卒採用の若者が1,2年で辞めていくのも同じ。
バイトだって、1ヶ月も経たずに、1日や2日行っただけで辞めていく若者が多くて困っている時代です。
みんな、続かない。
価値観が多様になったのもあるけれども、働き続ける、一つのことを続けるだけの身体、土台が育っていないから。


踏ん張る筋肉が育っていなければ、注意されたり、嫌だと思ったりした瞬間、続かない。
一つの場所に通い続けるには、同じ作業を繰り返すには、自然な二足歩行できる段階まで育っていることが必要。
発達のヌケを育てるための発達援助が、学ぶこと、働くことに直結している。


幼稚園、保育園、学校等に伺い子ども達、若者たちの様子を見ていると、定型発達と呼ばれる子達の中にも、土台が育っていない子、育ちきっていない子が大勢いるのがわかります。
ですから、将来、発達障害という診断名があるかどうか、そもそも発達障害か否か、はそれ自体に大きな意味はなくなると思います。


生涯、学び続け、成長し続ける人生を歩めるか。
社会の中で自立し、働き続けるか。
そこに大きくかかわってくるのは、障害の有無、幼少期に発達の遅れがあるかどうか、ではないのです。
きちんと、動物として、生き物として大事な身体という土台が培われているかどうか。
まさに問われるのは、子ども時代の過ごし方と、各家庭での子育てのあり方。


他人様に迷惑をかけるような“こだわり”じゃなければ、問題ない。
多少、空気が読めなくても、うまくしゃべることができなくても、問題ない。
何よりも、真面目にコツコツと続けられる姿勢、その姿が、凹の部分を凌駕する。
そういった人達は、職場から、社会から歓迎されるはずです。
他人から、社会から歓迎される人達が、口先だけではなく、実際に身体を動かし行動する人達が「社会を変えていく」と、私は思うのです。

2019年9月4日水曜日

子ども達の身体の中に何を入れるか、届けるか

「うちの子、サプリ、飲まないんですけれども、どうしたらよいでしょうか?」というような相談が増えてきています。
サプリが話題になる、ということは、栄養について意識し、勉強している証拠です。
そこら辺の支援者よりも、親御さん達は勉強熱心なのがわかります。


当然、サプリは自然な食べ物とは異なりますので、子どもさんの中には受け付けない子もいて当然です。
サプリが発達の後押しに繋がり、変わっていく人達もいますが、だからといって、みんながみんな、摂るものでも、摂ったから効果があるものでもありません。
むしろ、幼い子ども達は摂らないなら、摂らない方が良いと思います。


食べ物を口から入れ、体内を移動しながら、分解、吸収され、最後に排出される。
もちろん、これらは意識して行うものではありませんが、内臓の運動だといえます。
ある意味、食事を通して、内臓系を育てている。
内臓が動き、刺激を受ければ、それは中枢神経に伝わり、神経、脳を発達させる。
私達は、発達障害を持つ人達の内臓の育ちの大切さを「黄色本」「芋本」で教わりました。
食事も運動だし、子ども達はまさに今、内臓を育てている段階でもあります。


ですから、単純に栄養素だけではなく、どんなものを、どんな形態で、どれだけ摂るか、いつまで摂るか、も考えるポイントだと思います。
基本的には、特に子どもさんの場合には、食事で栄養素が満たされるのなら、それ以上、敢えてサプリを摂らせる必要はない、と私は考えています。
私も、栄養面の大切さを伝える際、サプリの紹介をすることもありますが、それは偏食が強く出ている子の場合や、もともとサプリを摂っている子の場合です。
あとは、親御さんがサプリを摂らせたい、という意思があり、尋ねられてこられた場合です。


実際、サプリを摂取するようになってガラッと変わった子がいるのも本当ですし、反対に変化がなかった子、発達を堰止めしているのはそこじゃなかった子がいるのも本当です。
薬ではありませんが、日々の食事とは異なって、必ず摂取するものでもありませんので、やはり実際に口の中に入れる子どもさん自身がどうなのか、が重要だといえます。
サプリに関しては、以上のように私は考えています。


一方で、日々の食事には、うちの子にもそうですし、相談に来られたご家族にも、無農薬なものをお勧めしたり、農薬や添加物の落とし方について紹介したりしています。
というのも、やはり農薬、添加物、化学物質は怖いからです。
詳しくはいえませんが、全国からの相談や地方への出張などに行きますと、気づくことがあるのです。
たとえば、ある地域に出張したとき、小さな町の一つの学校で、学年の50%が支援級なんてこともあるのです。
普通級の児童と支援級の児童の人数が、1対1の比率。
ここまで極端なことは数えるくらいしか知りませんが、それでも「う~ん」ということが多々ありますし、傾向、共通点があるように思えます。


無農薬野菜を続けるのは、難しい場合が多いと思います。
また、農家さんからお話を伺うと、「自分のところは無農薬、減農で頑張っているんだけれども、周りがバンバン農薬を撒くと…」ということがあるそうです。
ですから、家で調理するとき、農薬が落ちるようなひと手間をかければ良いと思います。
「農薬の落とし方」「添加物の落とし方」などの本も売っていますし、うちも実践していますが、そんなに難しい作業ではありません。
うちの場合は、下の子が10歳になるくらいまでは意識して続けようと思います。
函館近郊は農業が盛んですし、大規模なところばかりですからね。


近年の発達障害の急激な増加、重度ではなく、軽度の発達障害の人達が増えている、という現実。
食事は神経発達の土台であるのと同時に、それ自体が運動であり、発達刺激でもある。
発達刺激にはポジティブなものもあれば、ネガティブなものもあります。
「子ども達の身体の中に何を入れるか、届けるか」という点について、真剣に考えることも一つの発達援助であり、子どもの次の世代、その次の世代の未来を考えることでもある、と私は思っています。


エビデンスが出てからでは手遅れなんてこともありますね。
だから、エピソードから感じとれる心身が大事です。

2019年9月2日月曜日

支援や理解よりも、リハビリという視点

「脳の機能障害と言うよりも、神経の問題だよね」
「神経の発達障害とした方が、実際の人達の状態に合っているよね」
「神経と捉えなおすことで、より良い治療や教育に繋がっていけるね」
といった具合に、発達障害が神経発達障害に変わって6年が経ちます。
自閉症も、ADHDも、LDも、知的障害も、発達性協調運動障害も、神経発達障害になりました。


同じ発達障害でも、どういった機能に課題が生じるかによって、違いが出る。
これが従来の診断名の違い。
同じ自閉症でも、その状態、症状は、一人ひとりで全然異なる。
以上の2点から考えても、脳の機能障害ではザックリし過ぎであり(というか、何も具体的な実態を示していない)、もっと細部の問題であることがわかります。
症状の多様性と、個人の歴史を見ても症状が一定ではないこと。
それこそが、神経の問題、もっといえば、神経同士の繋がりの問題であることを示しているといえます。


しかし、こういった変化、従来の概念では捉えられない人達が多数いるのにもかかわらず、未だに「脳の機能障害」などという言葉が見受けられます。
当初、不勉強、ただ知らないだけ、と思っていたのですが、どうもそうではないようです。
6年も経ったのですから、みんな、知らないわけではないのです。
知らないのではなく、変えたくない、変わるのに時間がかかる、ということ。


親御さん達が、「そうだよね。神経だよね。だったら、やりようがあるよね。育てようがあるよね」という具合に、パッと切り替えられるの対し、専門家と呼ばれる人は、公的な機関、制度というものは、すぐには変わりません。
何故なら、「脳の機能障害」で10年、20年と積み重ねてしまったから。
「脳の機能障害」とは、つまり、治らないということ。
生涯変わらない、だから、「支援の充実」「周囲の努力」「支援を上手に使う」「支援されやすいように育てる」という方向性で、支援者は学び、それを伝えることで、専門家という地位を築いた。
学校も、福祉も、行政も、「治らないから」が出発地点となり、仕組みが作られていった。
だから、突然、「神経だから」「治るから」と言われても、そちらの方に舵を切ることができない。
また、できたとしても、相当な労力(既得権益を守ろうとする抵抗勢力がいるから)と時間がかかる。


近年、発達障害の人達が爆発的に増えています。
韓国、日本、アメリカの順番で増えている。
ヒトの遺伝子は、数十年、数百年単位では大きく変わりっこないので、つまり、遺伝よりも、環境の影響により、発達障害は増えている。
胎児期、いや、精子、卵子の段階から出生後の発達期を通して、様々な環境的な要因によって、神経同士の繋がりに不具合、影響が生じているといえます。


環境要因によって、神経の繋がりに問題が生じたのなら、私達は発達障害に対して、手も足も出ない、ということではありません。
環境によって変わるのなら、環境によって変わればいい。
末端神経を通して、必要な刺激を中枢神経に届け、新しい神経ネットワークを築いていく。
新しい神経ネットワークができれば、脳の機能だって変わってくる。
脳機能の不具合がなくなり、生活に支障がなくなれば、社会に適応できれば、治った以外、言いようがありません。


令和にも残り続けている従来の「脳の機能障害」という概念。
ある意味、移行期間だといえるから、欧米から日本は30年くらい遅れる、とよく言われているから、その概念が残り続けるのは仕方がないことなのかもしれません。
でも、私は即刻、否定する必要があると思います、たとえ、制度や支援、支援者の頭は変えられなくても。
何が一番の問題かと言ったら、支援や援助が、真逆の方向へと進んでしまうから。


神経の発達障害なので、必要なのは末端神経への刺激です。
簡単に言えば、リハビリこそが、支援の中心であるべき。
だけれども、不具合が生じている脳を基準に支援や教育がなされると、「どうしたら、刺激を抑えられるか」「どうしたら、今の状態で働いている脳機能のみを使って、学習できるか」という方向性に進んでしまいます。
そうすると、不具合が不具合のまま。
中には、その不具合が、制限された刺激、環境によって強化されることもある。
これこそが、脳の凸凹をさらに大きくさせ、結局、生きていける環境を狭めることに繋がります。


発達障害を治すためには、新しい神経ネットワークを築いていくしかありません。
ですから、治せる実践家というのは、日頃からリハビリと親和性のある仕事をしている人達なのです。
ガチガチの特別支援専門家ほど、障害を固定化することが上手。
だって、治らない前提で学び、実践し、支援者になった人達だから。
元を辿れば、リハビリを学ぶ機会も、リハビリを取り入れる考えもない人達。


親御さんとお話をすると、「わかりました。発達のヌケがあるのですね。だったら、これから今まで以上に丁寧に育てていこうと思います」と言われる方が多いです。
ゆっくり時間をかけて、ある部分を丁寧に丁寧に育てていく。
何度も何度も繰り返していくような子育ては、リハビリと通ずるところがあると思います。
子どもの様子を見ながら、「これはどう?」「こんな遊びは?やり方は?」というようなやりとりは、育てる主体がはっきりしています。


不具合を起こしている状態の脳に合わせていく環境調整。
今、かろうじて機能している部分に働きかける指導。
いくら大脳皮質に覚え込ませても、大脳皮質内でネットワークを築こうとしても、表面的な理解、マニュアル対応しかできません。
もっと根本的な感覚や運動の神経と繋がらなければ、真の意味で身体の内側から理解し、行動できたとはいえません。


過去に言われたように、欧米と30年の違いがあるのなら、あと24年後に神経発達障害がノーマルになり、OO群が当たり前の話として展開されていくのでしょう。
24年後は、今、就学前の子ども達も30歳くらい。
制度や福祉、教育が変わるのは時間がかかるけれども、自分の頭の中は、今日、この瞬間から変えることができます。
法律改正も、手続きも、「ああ、担任当たった、外れた」も必要なし。


70歳を超えた人の脳内でも、新しい神経ネットワークが作られていくのです。
今の子ども達は、5年前、10年前、影も形もなかった存在。
この前、世に出てきたばかりで、今まさに人生で一番神経発達が盛んな時期を過ごしている。
ご高齢の方が、脳に傷害や病気があった人が、懸命に新しい神経ネットワークを築くためリハビリに励んでいる。
神経ネットワークを築いていくという同じ方向性なのに、「発達障害」という診断名がついたら、たまたま移行期の30年間にいるから、「リハビリじゃなくて、支援を求めます。社会の理解を求めます」でいいのでしょうか。
それに、子ども自身がそれを求めているのでしょうか。


個人で制度や社会を変えるのには限界がありますが、自分自身の神経ネットワークを築くのには許可も、30年というときも、いりません。
動くかどうか、ただそれだけです。

2019年8月29日木曜日

普通になるのは、怖いことではない

いつからか、「個性的」という言葉が、褒め言葉になりました。
「あなたは個性的ね」と言われると、「そうかな」と照れる感じ。
なんだか世の中的にも、個性的が一つの評価となり、それを求めているよう空気があります。
ですから、「自分は個性と言えるものがない」なんていう若者の悩みすら生まれてくるのでしょう。


「個性的」という言葉を聞くと、私は中学生になった途端、茶髪だ、ピアスだ、をしてくる同級生たちの姿を思いだします。
ついこないだまでは、放課後、一緒に鬼ごっことか、サッカーとかしてたのに。
小学校とは違い、いろんな学校から集まってくる生徒たち。
その中で、自分が埋もれてしまわないように、自分の存在が消えてなくならないように、インスタントな方法で、自分を表出しようとする。
あれは、個性ではなく、ただの悪目立ち。


今思えば、家庭に恵まれていない子が多かったような気がします。
こういった行動に向かわせるのも、一種の愛着障害なのでしょう。
話をすると、日頃の態度とは違い、人懐っこい面がありました。
彼らからは、いつも「私を見て」という雰囲気が漂っていた。


今の社会には、「私を見て」という人達が多いのだと思います。
端的に言えば、寂しい人達が増え、親からの、他人からの愛情に飢えているのでしょう。
個性なんてどの人も持っていて、にじみ出るようなものなのに、みんなで必死に自分の個性を探しに彷徨っている感じです。


「発達障害は、その子の個性だ」「不登校も、その子の個性だ」というような人もいます。
でも、発達障害は神経発達に遅れがある状態であり、不登校は学校に行けていない状態なだけ。
個性でも、なんでもない。
でも、それをポジティブな言葉として、当事者、家族に投げかける支援者達がいる。
多分、支援者達は、「私は、あなたのことを見ているよ」「側にいるよ」という意味で使っているんだと思います。
自身がしてもらいたいことが土台にあり、当事者の持つ根本的な悩みを解決するアイディアを持たない者は、ある意味、そういった言葉しか出てこないから。


このように、ふと考えると、発達障害を治すことに、異様な拒絶や恐怖を感じる人達というのは、結局のところ、見捨てられ不安が根っことしてあるのだと思います。
「発達障害が治ったら、私じゃなくなる」というようなことを言う人もいます。
その人達を接すると、身体性の乏しさ、感覚系の未発達があることがわかります。
ですから、私は最初、身体的に「自分」が掴めないから、そのようなあり得ないような不安感を持つのだと思っていました。
確かに、それもあると思いますが、併せて、いわゆる“かまってちゃん”が多いのです。
適切、不適切な方法、行動によって、注目を引こうとする。


自身の発達障害が明らかになった瞬間、家族、先生、支援者からの注目が集まります。
早期診断、早期療育を受けてきた子どもは、幼少期から同世代の子ども達が受けないような眼差し、注目を受けて育ちます。
大きくなってから診断を受けた若者も、それまでネガティブな出来事に溢れていた日常から、突然、手厚い眼差し、特別な眼差しが注がれるようになります。
そういったある意味、異質な環境の中に入ったとき、仕舞い込んでいた欲求が噴出します。
「私を見て」「見捨てないで」という想いが、支援を受ける対象になることで、表面的に満たされていく。


未発達な部分が育つこと、発達のヌケが埋まることは、本人の成長や生きやすさに繋がり、人生の質、選択肢を増やすことに繋がります。
どう考えても、発達障害が治る方が良いはずです。
でも、それを拒むということは、身体的なラクよりも、愛情を求めている証。


確かに、愛情は、ヒトにとって何よりも優先させるもの。
だって、この世に生まれ出た瞬間、愛がないこと=死を意味していたから。
私が、私達が、いくら治ることの素晴らしさ、治った人達の喜びを伝えたとて、愛情に飢えている人達に届かないのは、そういうこと。
愛情は、生きる始まり。
身体よりも、感覚よりも、愛を満たそうとする。
いや、愛が満たされないと、本当の意味で人間としての発達が生じないのかもしれません。


個性の話に戻れば、発達障害の人が治ると、目立った個性がなくなっていきます。
その場に、集団に、地域に、社会に、馴染んでいく感じです。
いい意味で、「普通になる」ということ。
発達障害を持つ人ではなく、一人の人として見られるようになるのです。
でも、だからといって、その人の個性が失われるわけではありません。
どの人も、そうやって働き、生活しているように、自分の持って生まれた資質で勝負できるようになる。


最初、「発達障害があります」ということで一般就労した若者が、店長や同僚が変わっていくうちに、誰もその若者が「障害がある」と言って入社した人だとは思われなくなる。
仕事もどんどん任されるようになり、同世代の人と同じような責任とキャリアが積み重なっていく。
以前、その若者と会ったとき、「自分に障害があること、忘れてました。みんな、同じように仕事を任せてくるから」と言っていました。
まさに、その職場に馴染んだということ。
そして、新しい仕事を任されるというのは、その若者の個性が発揮できているということ。


愛着の土台が育っているのなら、迷わず、治った方がいい。
普通になるのは、怖いことではなく、一人の人間として生きること。

2019年8月28日水曜日

発達のヌケを育てるベクトルと、経験・体験を積み重ねていくベクトル

療育機関へ一生懸命通わせるご家族がいる一方で、地域の習い事に通わせるご家族がいます。
言葉は出ていないけれども、まだまだ発達の遅れはあるけれども、「同世代の子ども達が体験するようなことをうちの子にもやらせたい」。
そのような想い、考えを持って、一般の習い事、活動に参加させています。


最初の頃は、一斉指示が分からないし、他の子とは違う動きをしてしまう。
でも、子どもというのは、大人が思っている以上にたくましいものです。
分からないながらも、必死についていこうとしたり、限られた情報から見よう見まねでやろうとしたりします。


半年、一年と、まったく活動ができなかった子が、ある日突然、みんなと同じように動けるようになることも。
一見すると、変化がない期間は「ムダ」に思えてきます。
しかし、目に見える変化がない期間も、子どもの内側では変化が起きています。
見ていないようで見ている。
聞いていないようで聞いている。
わからないようで分かっている。


発達のヌケ、遅れが育ってくると、理解できることが増え、掴める情報が増え、自由に動かせる身体が整ってきます。
そうすると、それまでの体験と結びつき、目に見える変化として成長を感じられるようになります。
これがいわゆる「ドカン」というやつです。
子どもの成長は、大人のような緩やかな直線を描きません。
主に新規の神経同士の繋がりになりますので、じわじわとあらゆる神経を伸ばしつつ、繋がった瞬間、一気に「ドカン」です。


ですから、大人の我慢力、忍耐力、ブレない姿勢が問われます。
「これこそが大事」と一度決めたのなら、子どもがやりきるまで、目に見える成長が現れるまで、腹を据えて、腰を据えて、待ち続ける必要があるのです。
一度、習い事を始めたら、ある程度の期間は、子どもの変化を信じて続けてみる。
この部分を育てようと思ったら、その部分が育ちきるまで、とことん付き合い続ける。
ほとんどが未経験で、新しい刺激になるのが子どもです。
だからこそ、子どもの体験にムダはないのです。


「地域の一般的な習い事に通わせたいけれども、まだ発達の遅れがあって…」というような相談を受けます。
それに対する私の基本的な考え方は、こうです。
他害等がなく、その場、その環境、その活動に自ら向かおうとするのなら、早いうちからやった方が良い、特に将来、社会の中で自立してもらいたいのなら。


同世代の子ども達が経験すること、体験することの「差」は、意外と後々の自立、成長、選択に影響を及ぼします。
「発達のヌケが埋まった。さあ、そこから同世代の子と同じように」というのでは、経験の差が大きく開き過ぎていることもあります。
典型的なのは、ずっと支援級、支援学校、放課後は児童デイで、社会に出る若者たち。
18まで、障害を持った仲間と、特別支援の先生、支援者の中で過ごす。
そうすると、同世代の人達が18年間で経験、体験してきたこと、その積み重ねとのギャップが生じ、新たな課題として立ちはだかるのです。


発達の課題と、経験不足は、分けて考える必要があると思います。
時々、ごっちゃにしている人がいます。
発達のヌケ、遅れを育てていくことと、同世代の子ども達が体験を通して学んでいくことは、別。


発達障害が治ったら、その瞬間から同世代の子と同じような学び、関わり、活動ができるというわけではありません。
よくあるのが、発達のヌケや遅れは育ったんだけれども、同世代の子と比べて“幼い”んです、ということ。
幼いから、なかなか同級生と遊べない。
それで、また経験、体験の差が生じてしまうケースも。


支援級の子が10分勉強している間に、同世代の子は、45分×5~6時間勉強している。
じゃあ、その差は、どう埋めていくか、ということ。
これは勉強面のたとえでしたが、社会性の面、人間関係の面、遊びの面、運動の面は?となる。
そういったことを考えると、地域の一般的な習い事、活動に参加することは、とても意義のあることだと思います。
発達のヌケを育てつつ、同世代の子ども達と同じような体験を積み重ねていけるから。
また、この二つは分けて考える必要がある一方で、体験が発達のヌケを育てる刺激になることもあります。


「一般の習い事の先生は、障害の理解が…」という方もいます。
でも、そこが反対に良いこともあります。
ヘンに接待したり、支援したりしないから。
純粋に、その時間、そこで技術、勉強を教えよう、その活動の楽しさを感じてもらおう、としている人がほとんど。
そういった自然なかかわりが、子どもにとっても良い経験、体験になる。
つまり、同世代の子ども達と同じように、経験、体験できる、ということです。
それに理解のある人たちに囲まれた療育を早期から受けても、社会性、身につかないでしょ。


よくお話しするのは、「今の子ども達が作る社会は、私達の時代以上に多様性のある社会になる」ということ。
いろんな文化、バックボーンを持った人と共に生きていく社会です。
ですから、障害を持った子が、幼いときから同じように地域の習い事、活動に参加するのは当たり前のこと。
何も特別なことではないのです。
地域も、社会も、多種多様な世界へと変わっていくのですから。
障害があるから、発達の遅れがあるから、同世代の子ども達が体験できるようなことが体験できない、というのはバカげています。
子どもが成長できる機会、選択肢を大人が狭めてはいけないのです。

2019年8月26日月曜日

発達援助とは、新たなネットワーク作り

文章や言葉で伝えるとき、私も「重い」という表現を使うことがあります。
でも、それはニュアンスを伝えるため。
そもそも何を持って症状が重いというのか、わかりません。


知的障害の重度、軽度などという表現だって、ある側面を切り取った検査結果に基づいてラベリングされているだけです。
知的障害の知的って何だろうか。
ヒトの知能を検査で表しきることができるのだろうか。
というか、知能って何?
DSM-5でも、知的障害に関してIQのみからの判定から適応状態からの判定に変わりました。


「重度」や「軽度」などの表現を目にしますと、私は「発達障害者の中で」「ASDの人の中で」という具合に捉えます。
時々、「私は重度なんだ」「うちの子は重度なんです」という具合にこだわるような人もいますが、発達障害の人達に重いも、軽いもない、と私は思っています。
正直、発達障害の人に重い人はいないと思います。
同じ発達障害という括りで見れば、それは状態の違いがあるのでしょうが、障害全体で見たらどうでしょうか。


脳の状態、神経の状態からみれば、決して重度に分類される障害だとは思いません。
何故なら、五体満足の身体があり、ほとんどの発達障害の人は自分で移動することができ、口から食事を摂ることができ、他人に伝えられる表現を持っているからです。
多くの発達障害の人は、勉強だってできるし、仕事だってできるし、恋愛だってできる。


私は今、発達障害の人とばかり関わっていますが、これまでの間には他の障害の人達とも多く関わってきました。
頻繁にてんかんを起こす子もいましたし、胃ろうの子、自分で筋肉を動かすことができない子、身体に不自由がある子、それこそ現代医療では治らない病気を持った子もいました。
病気のため、障害のため、天国に旅立った子ども達もいます。
そういった子ども達と関わると、自然と重さを感じます。
そして脳や神経、身体へのダメージの大きさ、根っこからの問題を感じるのです。


彼らと関わった時間がありましたので、発達障害の人達と関わっても、重さは感じません。
多分、彼らと比べれば、発達障害の人達の障害された箇所は、部分的であり、とても狭く小さな範囲の話だと思います。
それこそ、神経細胞のダメージではなく、神経細胞の繋がり、シナプスの部分の不具合なのでしょう。
「繋がるべきところが繋がっていない」というイメージ。


五体満足な身体があり、神経細胞自体の問題ではない。
その繋がりの問題だったら、繋げれば良いと思います。
末端神経から刺激を送って、他の神経細胞を辿って。
ある部分での繋がりが生じなかったのなら、その周辺の神経細胞、シナプスで繋げていけばいい。
そんなイメージで、仕事をしています。


遺伝的な要素に、環境がスイッチを入れる。
そのため、繋がるべきところの繋がりが生まれず、それが発達の遅れとなって表面化する。
そのままの状態でいれば、発達障害。
もし、神経発達が起きない障害だったら、ずっと発達障害。


でも、繋がっていない=神経細胞がダメ、新たな繋がりが生まれない、というわけではありません。
周囲の元気な神経細胞を使って、新たなネットワークを築いていけばいいと思うのです。
「ヒトは死ぬまで発達する」というのは、遺伝ですべてが決まるわけではない、ということ。
そして、環境からの刺激によって、生涯、新たなneuroネットワークを作り続ける、ということ。


脳に損傷があった人が、器質的なダメージを受けた人が、他の脳の部分を使って、繋げて、機能を回復することだってあります。
元気で若々しい神経細胞に満ち溢れた子ども達に、どうして新たなネットワークが生じない、と言い切れるのでしょうか。


「発達するけれども、治らない」というのは、すでにフィクションであり、非科学的であり、一部の人達の願いから生まれる妄想にすぎません。
同じ発達障害なのに、これだけ表現型が一人ひとり違うのは、それだけバリエーションのある部分に生じた問題だということ。
まさに神経の繋がりこそ、多種多様、一人ひとりで全然異なる部分です。
それだけバリエーションが出るということは、繋がり方によって治る、機能回復する、中にはより良い繋がりによって、本来持っていた以上の資質が開花する場合だって考えられるのです。


一箇所の繋がりが生じなければ、もうおしまい、生涯そのまま。
それこそ、ナンセンス。
繋がり方に自由と柔軟性を求めたから、ヒトはどんな環境にも適応し、600万年、生き延びられてきたのでしょ。
「発達障害が治らないでほしい」というのは、たかだか100年くらいのとっても、とっても個人的な想い。
一箇所つながらないのなら、別のところから繋げていけばいい。
そのために、神経の材料の食事、ネットワークを繋げるための睡眠、末端神経を通した刺激。


本来繋がるべきだった部分での神経同士の繋がりが生じるか、で言ったら、生じないと思います。
本来、繋がっているところが繋がらなきゃ、その状態こそが「治る」のでしたら、治らない。
でも、そんなこと観察できないし、評価できない。
本来とは異なる部分同士の繋がりであったとしても、同じような機能で、生きている環境で適応できていたら、それこそ、治った。
脳にダメージを受けて身体が動かせなかった人が、リハビリによって動けるようになっても、「それは治っていない」というのですかね。
発達障害の人達は、それよりももっと部分的で細部で、シナプスというもともと自由度の高い部分での繋がりの不具合なのに。


初めてお会いする人と関わるとき、「ああ、本当はここのところが繋がりたかったのね」とアセスメントを行い、「じゃあ、その周辺からアプローチしましょうね」「新たなネットワークを作りましょうね」と発達援助をしています。
重いと感じる時間があったから、私は今日もポジティブな発達援助ができるのだと思います。
本来の場所じゃないかもしれないけれども、ちょっと遠回りしちゃうかもしれないけれども、新たなネットワークを築き、治っちゃいましょう!

2019年8月22日木曜日

言葉、雰囲気

この仕事をしていて思うのが、雰囲気を感じることの大切さです。
なぜなら、言語化できないものと向き合うのが、仕事だから。
まだ十分に説明できるだけの言葉を持っていない子もいます。
言葉を持っていたとしても、しっかり捉えられるだけの感覚を持っていない人もいます。
そして何よりも、援助の中心である発達とは、言葉でいい表すことができないものです。


たとえば「問題行動」というのは、言葉です。
言葉だから、それは道具。
道具になると、使い方の幅は狭まり、みんなが似たような使い方をするようになります。
だから、特別支援が学問になり、専門になっていくと、個人が薄まり、道具に使用される人という具合な主従逆転現象が起きるのです。


今の特別支援を見ていると、どんどん新しい言葉が生まれ、その新しい言葉をどう使いこなそうか、四苦八苦している支援者たちの姿を感じます。
懸命に言葉を使いこなそうとすればするほど、いつの間にか、言葉に行動が規定されていく。
だから、養護学校と呼ばれていた時代の方が、まだ個人があり、自由があり、治るがあった。


言葉によって支援が展開されていくと、パターン化、マニュアル化が起きます。
なので、少しでも困った行動が見られれば、「止めなきゃ」「無視しなきゃ」「別のところへ意識を向けなきゃ」となってしまいます。
その行動の背景には、個人があるはずなのに。
個人よりも、言葉が優先されてしまう。
誤学習、自己防衛、純粋な発達では、それぞれの姿から漂っている雰囲気が全然違うのに。


本人からの相談で多いのは、「なんだか困っている」「なんだか生きづらい」というものです。
その“なんだか”は言葉にできない何かです。
つまり、雰囲気。
その雰囲気を感じられるか、共有できるかが、その人の支援者になれるかどうかの判定になります。


親御さんからの相談でも、「周りは大丈夫って言うけれども」「その行動は無視してください、と言われるけれども」「障害だから受け入れましょう、と言われるけれども」、やっぱりこのままじゃいけないと思うから、相談します、という場合が少なくありません。
なんだか胸騒ぎがするから相談する。
なんだか、こうやったら良いかな、と思うからそうやってみる。
それが結果的に功をなすことが多いのです。


親御さんは、子どもの生きている流れを常に感じながら、共に生活しています。
だから、子の雰囲気を誰よりも早く気が付き、共有することができる。
普通の子育てをしている親御さんが、特別支援という言葉と距離を置いている親御さんが、子どもの発達を上手に促し、後押しし、治しているのは当然だといえます。
雰囲気という言葉にならないものを大切にするということは、その子、個人を中心にすることだから。


その子の生きてきた流れ、内なる力、発達、資質…。
これらは、言葉に表せないものです。
ですから当然、パターン化、マニュアル化できないもの。
つまり、支援しようなどと身構えた時点で、支援の対象から除外されてしまうのです。


発達という、個人という、言葉に表せないものをどう支援していけばよいか。
そのためには、雰囲気を感じるしかないのです。
なんだか良さそうだな、良い方向へ進んでいるな。
そういう雰囲気を頼りに、後押しするか、引き返すか、方向を変えるか、選択していく。
だから、子どもを治せるのは、常に雰囲気を共有している家族であり、親御さん。


治せる支援者、発達を掴み、後押しできる支援者というのは、言葉に頼っていない人であったり、言葉をちゃんと道具として使いこなせていたりする人のような気がします。
多分、子どもが部屋に入ってくる瞬間、課題を見抜き、「じゃあ、セッションを始めましょうか」と言う頃には、すでに援助の方向性が定まっているはずです。
別の言い方をすれば、「目が合うかな」「受け答えはどうかな」「言葉はあるかな」と考えないといけないようでは、個人に合わせた支援、より良い発達への援助はできないといえます。


言葉や説明は、後付け。
大事なのは、本人がラクになるか、心地良いか、より良い発達が生じるか。
エビデンスのある方法の効果が、限定的で表面的なのは、エビデンス自体が言葉だから。
言葉によってエビデンスを証明するということ自体が、個人を切り捨て、発達や資質という言葉に表せないものを切り捨て、ほんの少しだけ残ったものを対象にせざるを得ない、というジレンマを抱える。


子どもを見て、「なんとなく調子よさそうだな」「これをやってみて大丈夫そうだな」と感じられるかどうか。
そして、感じたものを素直に実行できるか、信じて選択することができるか。
「子どものことを良く見て援助してください」と言うのは、子どもから漂っている雰囲気を感じてください、重視してください、ということです。
「何秒以上できたら、どうだ」「腕の角度がどうだ」というのは、パターンを覚えさせているだけで、発達は促されていきませんので。

2019年8月21日水曜日

問題行動というズレ

「問題行動」という言葉は、支援者によって造られ、支援者のために存在する、といえます。
それに対応するだけのアイディアを持ち併せていないとき。
その言動の内側に流れる意味を捉えるだけの感性を持っていないとき。
支援者は、「問題行動」という言葉を借りて、自らの逃げ道を作るのです。


「問題行動」と称されるものには、3つの流れがあります。
誤学習と、自己防衛と、純粋な発達。


「誤学習」は、その名の通り、時間をかけて培ってきたズレた学習です。
本人的には、ズレた意識はないのですが、結果的に周囲や環境と折り合いがつかなくなった学習パターン。
ですから、気づいていないズレを教えることが必要。
そのためには、まず培ってきた学習パターンを一度、壊す必要があります。


支援にあたる者は、身体的な体力と言語的な体力が求められます。
それに、まずおのれの愛着の土台に脆さを持つ者は、対応不可能。
徹底的な否定ができなければ、中途半端な否定と肯定に揺れ動くのなら、一度形成された学習パターンを壊すことができないから。


自立できていない人達の中には、多かれ少なかれ、誤学習が存在している。
なので、支援者は誤学習と向き合う場面が多い。
そして、愛着障害と親和性の高い支援者という存在が、中途半端な否定と肯定を繰り返す。
特別支援の世界に誤学習が溢れているのは、元来、誤学習と対処することを一番苦手としている者たちが、その任務を担っているからでしょう。
驚くのは、誤学習すら、障害特性と捉えるような支援者の存在。


「自己防衛」は、ある意味、本人の資質の開花でもあります。
ヒトは追い詰められ、生きるか死ぬかのギリギリのラインに立たされたとき、意識を飛び超えた次元の反応が表れます。
どうして思いついたか分からない。
でも、それをすることで、なんとか今、私は生きている、生き続けることができている。
周囲からは理解されないけれども、自分にも害を被るけれども、自らを助けるがために発動された行動には躍動感をも感じます。


自己防衛は、そうせざるを得ない状況、状態があります。
刺激に圧倒される状況、心身の状態。
孤独な状況や心理的、身体的に他者から侵略されそうな状況。
ですから、まずはその状況、状態から解放できるかが支援の一歩になります。


そして、自己防衛自体は、本人からしたら正しいことをしているので、否定ではなく、その方向性を少しズラす。
本人の心地良さを害さず、また侵略という雰囲気を感じない範囲で、「ちょっとだけズラしてみては」と提案する感じ。
筋肉を使った自己防衛なら、同じ筋肉を使う、より周囲や自分の命と調和しやすいような行動へと誘ってみる。
心理的なバリアなら物理的なバリアへ。
家にこもるのなら内へこもるへ。


誤学習は開き直りで、自己防衛は悲しみの雰囲気を感じます。
しかし、純粋な発達には伸びやかな雰囲気を感じます。
特に、子どもさんを育てている親御さんから、支援者、学校の先生から相談を受けますが、「困った行動」と聞き、確認してみると、ただ自ら必要な発達段階を歩んでいるだけ、ということが少なくありません。
ズレで言えば、時間軸のズレ。


小学生の子が、お母さんに身体接触を求めてくる。
身体も大きくなっているし、同世代の子は、そんなことをしない。
どうしたもんか、と親御さんは悩む。
もしかしたら、中学生になっても、成人しても、他者に向かったら。
でも、本人からしたら、口周辺の感覚を育てたいだけだったりもする。


学校の校庭で、いつも泥をいじって困っている、という。
泥を口の中に入れようとすることもある。
よく聞けば、幼少期、泥遊びはしなかった、触りもしなかったとのこと。
大きくなった子が泥遊びをするのは不適切に思えるかもしれませんが、発達のヌケを育て直しているだけ。


誰にでも声を掛けてしまうのは、やっと言葉が出るようになって、その楽しみを感じているからかもしれません。
友達に触ろうとするのは、幼少期に霧の中にいたからかもしれません。
友達に触れようとするのは、1歳、2歳の子ども達の遊びかた、関わり方。
その当時できなかったから、発達の遅れがあって準備ができていなかったから、今になってやっとやれるようになったのです。


作業所のスタッフから、仕事中に急にクルクル回って困っている、という相談が。
学校からの引き継ぎでも、「止めてください」「やるべき活動へ促してください」と言われてきたとのこと。
でも、それでは一向に収まらない。
それはそうです、耳の内側を育てているのだから。
中途半端に止めるから、やりきらせてあげないから、18以降も残っているのです。
回転する椅子を用意してもらい、家でグルグル回っていたら、1ヶ月くらいで行動が見られなくなりました。


定型発達という軸を持たない支援者が、未発達を問題行動と見間違える。
同世代の子はやらない行動が、すべて問題行動なわけはありません。
その背景を読み解いていくと、ただ未発達を育てているだけ、ということが少なくないのです。
1、2歳の子がやる行動、発達課題を、小学生、中学生、大人がやるから違和感を感じるだけ。
でも、本人からしたら、発達のヌケを育て直している。


「当時はできなかったから、今やっているの」
そういう声が聞こえるようになれば、「問題行動」などという陳腐な造語が消えてなくなると思います。
本当の問題行動とは、本人の視点と支援者の視点のズレなのかもしれませんね。

2019年8月20日火曜日

原始的なレベルでしか埋められない発達段階

思いっきり水遊びをした子ども、できた子どもは、泥遊び、砂遊びに興味が移っていきます。
ヒトが辿ってきた道を振り返れば、それは当たり前のこと。
夏が始まる前、「とにかく思いっきり水遊びを」とお伝えした数家族の親御さん達から、「急に砂場で遊ぶようになった」「泥が平気になった、自ら進んで触るようになった」というお話を聞きました。
一生懸命、来る日も来る日も、水をテーマに遊び、子育てを頑張られた結果だと思います。


水の段階を完了するのは、とても重要なことです。
何故なら、皮膚とその感覚を育てるから。
そして、次の段階である泥、砂の段階へ進めるから。
ヒトは、泥遊び、砂遊びを通して、人になる。


触っただけで、物事を判別できるようになる土台は、泥遊び、砂遊び。
ひとまとまりだった手を、親指と4本指に分けるのも、そのあと、5本、それぞれの指に分けるのも、泥遊び、砂遊び。
夢中になって、泥や砂と戯れているうちに、自然と手で情報を得られるように育ち、指の分化が完了していく。
だから、泥遊び、砂遊びは、とても大事な発達刺激。


水の段階を卒業していない子に、いくら促しても、泥や砂で遊ぼうとしません。
遊んでいる風に見える子は、みんな、スコップや木の枝など、道具を介して泥、砂と関わっているもの。
手で、足で、直接戯れる姿が、真の姿。


水の段階を完了していないから、泥や砂で遊ばない子もいるし、環境的に水で思いっきり遊べなかった、泥や砂で思いっきり遊べなかった子もいます。
いずれにしろ、それは手先の不器用となって表れます。
手先が不器用な子の中には、首の問題の子もいますが、結構、水遊び、泥遊びが足りなかったから、という子も少なくないように感じます。
原因、アプローチの方法は異なりますが、どちらも未発達が背景にあります。
だから、治る。


しかし、治るけれども、不器用だからといって、細かい作業をさせたり、指を動かす訓練をしたりしても、なかなか育っていきません。
養護学校で、手先が不器用な子ども達にネジ回しなどの指先を使う作業をひたすらやらせる姿を見てきました。
12年間やったのに、卒業時も、手先は不器用なまま。
結局、不器用だから指を動かす活動、では育たないということ。
ネジ回しはうまくなっても、指は自由に動かない。


近頃、つくづく思うのは、発達には、それに応じたレベルがある、ということです。
やっぱり泥遊び、砂遊びで育つ発達段階の刺激は、泥や砂以外ない。
今は、いろんなグッズやアイディア、プログラムに溢れているけれども、代替できるものはほとんどない、と思います。
進化の過程の中にある発達課題、段階は、どうしても自然を通してしか育てられない。
高度なものでは代替できない、どうしても原始的なものが必要な発達段階がある。


成人した方の中にも、同じような悩みを抱えている人がいます。
親御さんに尋ねると、やはり幼少期、泥遊び、砂遊びをした記憶がないといいます。
ですから、ある人には、土いじりを提案しました。
庭の小さな場所で野菜を育てる。
おのずと土、泥と関わるようになる。
気が付いたら、以前よりも、ラクに指が動かせるようになった、手で触ってわかるようになった、と言っていました。
他の方には、陶芸をお勧めしたこともあります。
成人してからの泥遊び、砂遊びは難しくても、泥や砂と戯れることはできます。


時代が進めば、より高度で、効率的なモノ、アイディア、プログラムへと、特別支援の世界も進んでいくはずです。
でも、発達のヌケ、特に言葉以前の発達段階、2歳までの発達段階のヌケ、遅れに対しては、ある意味、非効率的で時代にそぐわない方法でしか、育てられないと私は思うのです。


100年後、200年後の未来は、今の社会とはまったく違った文化、テクノロジーに溢れた世界だと思います。
人間の生き方も、当然、違っている。
しかし、人間の本質、発達は変わることがない。
人類の歴史から見れば、そんな100年、200年という単位で、遺伝子も、性質も、本質も変わるわけはないから。
ということは、100年後の子ども達も、水で戯れ、泥や砂で遊び、発達を遂げていく。


水でビシャビシャになって困るのは、泥で服が汚れて困るのは、大人の都合。
子どもの視点に立てば、重要な発達段階を歩んでいる証拠です。
どこかの療育機関に行かなくても、なんとかプログラムをやらなくても、子どもの発達を促すことはできるし、自然の中でしか育たない発達段階、レベルもある。
ある親御さんは、「久しぶりに、私も子どもと一緒になって泥遊だらけになって気持ちが良かった」と言っていました。
どこか懐かしい感じがするのは、泥だらけになってすがすがしかったのは、私達、大人も辿ってきた道だから。
子どもの発達を保障するとは、子ども時代を子どもらしく過ごせる自由を守ることかもしれませんね。

2019年8月18日日曜日

若い頃の子育て、年を重ねてからの子育て

子どもは、いつまでも子どもではありません。
子どもも、年を取ります。
同じように、親も年を取る。
そして、親の親も年を取る。
月日が流れると、そのとき、想像していなかったことが起きるものです。


子どもの年齢が幼い頃は、親も体力があり、意欲も満ち溢れているものです。
ですから、子育ても、発達の後押しも、じっくり時間をかけて取り組むことができます。
しかし、子どもの年齢が上がり、そして自分は年をとっていくと、なかなか腰を据えて、時間をかけてじっくりと、ができなくなります。
自分の健康上の話も出てくるし、親の介護等、そっちの話も出てきます。
そうすると、子どもが幼いときのように、子ども中心でいられなくなる。


大学から私は函館にいますので、長い人では20年近くの付き合いがあるご家族がいます。
学生時代はもちろんのこと、施設で働いていたとき、学校で働いていたとき、そして今の事業を起ち上げてからも、治るとは思っていませんでしたし、治るアイディアも持っていませんでした。
しかし、今は違います。
多くの治った人、治したご家族とご縁がありましたし、治す知見を持った実践家の人達からも教えをいただくことができています。
なので、当時の私とは異なり、「治る」と自信を持って言うことができます。


ある意味、未発達の集合体が「神経発達障害」という状態だといえます。
その一つ一つの未発達を育てていけば、全体的な発達が進み、障害というラインを飛び越えることができる。
また、それができなくとも、一つの発達課題がクリアされると、それだけで生きやすくもなるし、脳みそにも余裕が生まれる。
当然、適応力だって上がっていきますので、障害という範囲の中にいるかもしれないが、社会に適応し、自立的に生きていけるようにもなれる可能性がある。
だから、いくつになっても、たとえ一つの未発達だとしても、それを育て直し、クリアしていくことがとても意味のあることだと思います。


ただ、それが伝わらない、長年、治らない前提で子育てをされてきた親御さん達に。
学生時代からの仲であるご家族も。
興味があるけれども、途中までやるけれども、若い世代の親御さんのように続かないし、やろうろともしない。
この親御さん達の10年前、20年前も知っているけれども、決して柔軟性のない人、意欲のない人、コツコツできない人、支援者の顔色を伺う人でもなかったのです。
ただ“遅かった”。
それは、子どもさん(もう皆さん、成人されていますが)の発達という意味ではなく、親御さんにとっての。


もし、10年前、20年前に、今の治るアイディア、未発達を育てる知見があり、それがわかれば、どの親御さんも、今の親御さんのように、熱心に取り組み、同じように治していったと思います。
どの子も、「重い」と言われていたけれども、それは未発達の部分を育てず、そのままにしていただけで、決して特別に重い人達だとは感じません。
ですから、どの子も、治る可能性は持っていた。
小さい頃を知っていただけに、今のように児童デイもなく、一生懸命育てられていた親御さん達の姿を知っていただけに、私自身、とても寂しい気持ちになります。


今、仕事で関わっているご家族の中心は、就学前の子ども達。
子どもさんは、神経発達が最も盛んな時期を過ごしていますし、親御さんも体力、気力ともに満ち溢れています。
おじいちゃん、おばあちゃんの世代も、まだ若いですので、介護等の心配もない。
十二分に、子ども中心に生活が回せる、子どもの発達に力を注げる。


発達とは、お金で解決できないし、基本的に子育てなので、外注できるような次元でもない。
だから、子ども自身が発達課題をやり切れるよう、とことん腰を据えて付き合える身体を親御さん自身がもっていなければなりません。
親御さん自身が我慢できるだけの筋力がないといけませんし、動けるだけの身体が整ってなければなりません。
試行錯誤する脳みそだって必要。
そう考えると、子どもの年齢が幼い頃から、発達のヌケや遅れを育て直すことは、親御さんにとっても意義のあることだといえます。


一生懸命我が子のことを愛し、動いてきた親御さんも、時が経てば、「今、親の調子が悪くて、あまりうちの子に構ってられないわ」「今さら、もう聴覚過敏は治らないと思う」「もう自分のことでやっとだから」「施設で問題なく過ごしているみたいだから、もうそれでいいのよ」という言葉が出てしまう。
どんな人だって、年はとるし、年代年代によって、若いときに想像しなかった悩みが出てくる。
そういった意味でも、子ども時代の治す中心は親御さんであり、成人後は自分自身なのかもしれません。


いつの間にか、私と同世代の親御さん、そして私よりも若い親御さんと仕事で関わることが増えています。
子育ては、とにかく親も体力、気力が必要。
うちの子も、ひたすら同じ遊びをエンドレスで行う時期です。
滑り台、1時間連続で一緒に滑って、私のズボンが破れてしまったくらいです。
発達とは、やりきること。
ですから、遊びに行くときは、我が子が根を上げるまで勝負、という気合を入れて、私も遊んでいます(笑)
そんな夏休みも今日でおしまい。
我が家の発達援助は、海、山、キャンプ、公園。
ちょうど私の背中の皮が剥け始めた頃です。

2019年8月16日金曜日

対人職の過ちを最小限にするためにも

この夏、一人の若者が仕事に就き、そして家を出て一人暮らしを始めました。
仕事を探し、自分で面接を申し込み、採用までをやり切ったのです。
一人暮らしも、本人の意思です。


支援者の力を借りることなく、就職できたのですから、もともと力のあった人と思われるでしょう。
確かに、最初にお会いしたときから、働くだけの能力をもった方だと、私も思いました。
しかし、就職する上でも、生きていく上でも、とても重要な「主体」がなかったのです。


何を尋ねても、「わかりません」と言い、どんな仕事がしたいか、答えられませんでした。
印象ではありますが、困っているのは感じているんだけれども、何がどう困っているか、自分でもわからない感じでした。
ただ年齢的にも、仕事をしなければならないと思っていて、でも、仕事ができなくて、そもそも、どうしたら良いか分からなくて、という中での相談でした。


若者からの相談では、こういった主体性の乏しさからの悩みが少なくありません。
「大久保さん、私はどうしたら良いですか?」
このような発言をたくさん聞きます。
しかし、こういったとき、本人に代わって私が選択肢を選んではならないと考えています。
だって、私が選んだものをそのまま受け取ってしまう可能性が大きいから。
これは、私が嫌う、他人様の主体性を侵すような行為でもあります。


「私はあなたではない。ゆえに、私は誤解するし、誤った判断、選択をする」
このように思って、対人援助という仕事をしています。
私は、一般の人よりも、多くの発達障害の人達と関わり、生活を共にしてきたかもしれません。
でも、私が彼らの代弁ができるとは思っていませんし、そもそも他人の気持ちがわかったも、理解できたも、幻想であり、不可能なことだと思っています。


私には、他人様の人生を決める権利も、能力も、ありません。
ですから、主体性が乏しい方からの相談に対しては、言葉を慎重にし、そして、まずはその主体性を育てる方向性へ後押ししたいと考えています。
ある意味、ちゃんと相談ができるための準備です。
主体性を持ち併せていない方からの相談は、相談ではなく、宗教になると、私は思っています。
私が言ったことが、そのまま、答えになってしまう危険性。
主体性を持たないまま、相談員でも、専門家でも、医師でも、先生でも、相談し続けると、いつしか、その人が教祖様になり、言われるがままの信者となる。


この夏に就職、自活を始めた若者とは、主体性を育てるためのワーク、援助を行いました。
発達のヌケが埋まり、自分の身体が掴めるようになったあたりから、自分の意思を表出できるようになりました。
そこまでくれば、私の援助はおしまいです。
私は、その若者が、自分自身で選択できるようになるところまでの役割。


障害と聞くと、周囲の人間、相談員は一生懸命相談に乗ろうとします。
しかし、発達障害の人達の相談においては、ただ単に一生懸命話を聞いて、進路を選択することが良いことだとは言い切れないと思います。
「福祉に繋げられたからOK」「サービスの申請が完了できたからOK」ということにはならない。
何故なら、主体性という未発達があるかもしれないからです。


身体や機能に障害を持った人は、それに応じたサービスとつながり、社会の中で生活していけることが必要なサポートだと思います。
でも、発達障害の人達は、発達に課題がある人達だといえます。
ですから、相談員がサービスに繋げることだけを主に動いてしまうと、意識しないまま、発達障害の人達の人生や進路を決めてしまいかねないのです。
相談とは、あくまで本人の意思、主体性があって、初めて成り立つもの。


発達のヌケがあるゆえに、皮膚や平衡平衡感覚が育ってないがゆえに、自分自身の身体、空間との境目が捉えられず、結果として主体性が乏しい、ということもあります。
決して、主体性が乏しい障害ではないのです、発達障害は。
未発達が重なっていくと、主体性の育ちに影響が出る。
なので、必要な援助は、未発達の部分を育て、主体性を養うこと。


対人職は、誤解し、常に独りよがりの支援、助言をする可能性があり、そして本人の主体性を侵す危険性を持っている。
だからこそ、確実な部分にアプローチすることが大事だと考えています。
その確実なことの一つが、発達のヌケ、遅れを育て直すこと。
600万年の人類の歩みが詰まった運動発達。
動物としての呼吸、感覚、動きの発達。
そして生活のリズムを整え、快食快眠快便、きちんと疲れ、回復する身体を培っていくこと。
これらは、唯一、確実なことだといえます。
確実なことを追及し続けることが、対人職の過ちを最小限にするための姿勢なのです。

2019年8月15日木曜日

「何を学び、どう生きるか」は私達の権利です

私は施設職員として、利用者さんの主体性、選択、自由の権利を奪っていました。
朝起きてから寝るまでの日課、スケジュールを決めていました。
起きる時間、寝る時間、食事の時間、お風呂に入る時間…週末の過ごし方まで。
すべて職員である私達に決定権がありました。
入所していた人達には、何を食べるかさえも決められず、出されたものを食べ、嫌だったら“食べない”という選択肢しかなかったのです。


限られた人数、資源の中で、多くの利用者さんを見なければなりません。
ですから、どうしても管理の意識、傾向が強くなります。
「もっと選択肢を」「日課に自由を」とは思い、できる改善は行っていたものの、やはり限界があるのです。
一日、無事に終えることが、どれほど、大変だったか…。


いくら業務であり、施設の意向だったとしても、私が多くの人達の主体性、選択、自由の権利を奪っていたのは変わりがありません。
もし私が支援される側だったら、こんな支援は受け入れられなかったはずです。
そのように自分自身で感じるくらいのことを、私はやってきたからこそ、今の仕事では「主体性」「選択」「自由」の権利を侵さないように、と強く意識するのだと思います。


私が発達の準備、後押しにこだわるのは、こういった経緯があるからだといえます。
何か指導しようとすると、うまくいかないことが多いというのもありますが、「指導する」自体に、本人の主体性を侵略するような雰囲気を感じるのです。


何かを指導してほしいという本人からの要望があれば、それは主体性を侵すような指導にはならないでしょう。
むしろ、「何かしたい」「こうなりたい」という本人の意思が明確にあるので、主体性を尊重している対応だといえます。
でも、そこに本人からの発信、要望がなければ、もしかしたら、良かれと思っている指導が、本人の主体性、選択、自由を奪う結果につながらないともいえません。
特に私は、重い障害、症状を持つ人達の施設で働いていましたので、本人からの発信、要望がない場合、慎重になる必要性を強く感じるのです。


幼い子どもや知的障害がある人達、ASDの人達は、自分たちの意思よりも先に、指示されたこと、指導されたことに従順してしまう傾向があると思います。
「自分がやりたいから」「楽しいから」ではなく、「わかるからやる」といった感じです。
周囲の状況や環境の意味が混とんとして掴めていない人ほど、「わかる」に飛びついてしまいます。
でも、「わかること」が自分のやりたいことではない、学びたいことではない、ということも。


私も、実際、施設や学校で個別指導計画を立てていましたのでわかるのですが、本人の意思よりも、できること、できそうなことを目標に立てがちだといえます。
本来は、本人の意思やニーズに基づいて、どういった学びをしていくか決めていくのが、個別指導計画になるのですが、幼い子ども達や障害の重い人達になればなるほど、本人の意思が代弁という名の解釈によって決められ、どちらかといえば、支援しやすいような、親御さんが喜びそうな目標になっていくこともあります。


しかし、これは致し方ない面もあると思います。
本人からの発信を受け止められない限り、周囲が解釈するしかありません。
また、個別指導計画は、保護者と協働することが決められていますので、親御さんの意向に沿う形になるのは自然な流れだといえます。
ですから、普通にやっていれば、知らず知らずのうちに、私達は障害を持った子ども達、人たちの「主体性」「選択」「自由」を侵略していることもあるのです。


爬虫類の脳、哺乳類の脳までは、2歳までの発達段階、言葉を獲得する前の発達段階は、周囲も力を合わせて丁寧に育てていく。
でも、それ以降の成長は、本人の主体性、選択に委ねていく。
その辺のバランス、線引きを誤らないことが、本人の権利を侵略しない、尊重することにつながるのだと考えています。


子どもであるとか、障害があるとか、でいつまでも、どこまでも教えようとするし、支援しようとする。
振り返れば、施設職員、学校の教員だった私は、障害を持った子ども達のことを信じていなかったのだと思います。
しかし、発達援助、発達のヌケ、遅れを育て直していく道と出会い、その中で自ら発達、成長していく子ども達の姿を見続けるうちに、もっと彼らの内なる力を信じて良いと思うようになりました。
特に発達障害の子ども達の場合は、発達のヌケ、遅れをどうにかしてもらいたけであって、一から十まで支援してほしい、教えてほしいと思っていないと感じます。


「わからない」が課題の根っこではなく、発達のヌケ、遅れが根っこ。
「わからない」は結果であって、自然と分からないような状態である感覚、身体、内臓などの発達をどうにかしてほしい、と思っている。
それらが解決すれば、「何を学び、どう生きるか」は私達の権利である、といっているように感じるのです。


周囲がリードする部分は、発達のヌケ、遅れを育てるところまで。
それ以降は、いくら子どもであっても、障害があっても、本人の権利だし、自由が認められるところ。
たとえ我が子であったとしても、別人格。
本人の「主体性」「選択」「自由」を尊重していくためにも、発達のヌケ、遅れを育てることが大事です。
それ以降も、関わることがあれば、本人の意思、発信を聞いてから応えようと思っています。

2019年8月11日日曜日

「どうやって教えよう」から「どんな準備をしたらよいかな」

施設で働いていたときも、学校で働いていたときも、私は「教えよう」としていたと思います。
できないことがあれば、補助具を作ったり、教え方を工夫したりして…。
わからないことがあれば、言葉を簡潔にしたり、視覚的な方法で伝えたりして…。
「学習に集中できるように」と刺激の少ない環境にしたり、スモールステップで教えたり、個別指導で徹底的に教えたりもしました。


こういった教える側の工夫、配慮によって、子ども達はできないことができるように、わからないことがわかるようになりました。
しかし、それは“その場限り”。
学んだ場所、学んだ人から一歩離れれば、できなくなり、わからなくなる。


ですから結局のところ、「家に帰ったらできない」→「学校だから、施設だからできるのね」と親御さんに受け取られ、連携がうまくいかなかったり、養育の意欲の低下を招いたりする。
私達、支援する側、教える側も、外に出れば、できなくなるので、「やっぱり障害が重いから」「それ(般化の難しさ)が自閉症の特性だから」と勝手に諦め、社会の中での実践から子ども達を遠ざけてしまう。


今の事業を起ち上げてからも、できないもの、わからないものは、教え方の工夫によって身についていくと考えていました。
でも、その考え方を改めるきっかけがあったのです。
普通級在籍の小学生の子。
この子は、授業についていけず、また言葉や対人面でも課題があったため、担任、管理職、コーディネーターから再三、「支援級へ」と伝えられていました。
だけれども、親御さんが頑として首を縦に振りませんでした。
今はわかっていないけれども、この子には理解する力がある、と親御さんが感じていたから。
そこで、私との関わりが生まれました。


親御さんからの依頼内容は、「学校の授業についていけるように勉強を教えてほしい」というものでした。
ですから、私はこの子にわかるような教え方、工夫をして、勉強の後押しをしようとしました。
一対一の学習で、この子のペースに合わせて進めていましたので、私との学習のときには理解ができていました。
でも、学校に行けば、わからないし、テストでも点数がとれずにいました。


最初は、「一斉授業だから」「刺激が多いから」などと、私も捉えていましたが、ふと、それまでの「その場限り」のことを思いだし、その姿と重なりました。
もしかしたら、私の考え方、援助の方向性が間違っているのではないか、と思うようになり、一斉授業でも勉強ができる、先生の言っていることが理解できるように援助することの方が必要だと考えるようになりました。
そこから援助の方向性を変え、鉛筆がちゃんと持てることや足を床にきちんとつけて座れること、教科学習の始まりである概念、数の勉強、遊びを徹底的に行いました。
すると、メキメキと力をつけていき、いつしかテストで100点をとるくらいまで成長されたのでした。
そんな子から久しぶりに連絡があり、今は受験生として頑張っています、と教えてもらいました。


この子との出会いは、私にとって大きかったと思います。
どうしても、支援者は、先生は、大人は、子どもに教えようとします。
特に、発達に遅れがある子に対しては、必要以上に教えようとする。
でも、それじゃあ、あまり意味がないんですね。
結局のところ、神経発達にヌケや遅れがある子は、「知識や技能が身につかない」のではなく、知識や技能を身に付けるための「準備が整っていない」ということ。


教え方云々ではなくて、たとえば、教科学習だったら、ちゃんと学習できるだけの手が、目が、足が、姿勢が、軸ができているか。
一斉指示を聞き取れるだけの聴覚が育っているか、その手前のバランス感覚、重力との付き合い方ができているか。
脳みそにちゃんと新しい学習ができるだけの余裕があるか、つまり、快食快眠快便が整っているか、など。
発達のヌケ、遅れは、2歳以前、言葉獲得以前の発達段階にあることが多いので、やっぱりそこを育てなければ、根本的な解決には至らない、ということです。


ある意味、それは当然なことかもしれません。
学習の準備ができていない子、感覚、動き、身体に未発達な部分がある子に、いくら工夫して教えても、徹底的に教えても、身体の底からの理解にはつながるわけがないのです。
ですから、結局、熱心な大人に付き合い、その場“だけ”できるように、パターンとして身に付けてしまう。
私も今までに、多くの子ども達を付き合わせてしまったな、と反省しています。
だから彼らは、一歩外に出るとできなくなった。
それは、本質的な理解ではなく、表面的な理解しかできない状態で、教え込まれたから。


教科学習だけではなく、身の回りのことやお手伝い、コミュニケーションや対人スキルなど、いろんな面で、「できない」「わからない」状態の子ども達がいると思います。
そんなときには、「できない」「わからない」のではなく、「準備が整っていない」という視点で捉えると、育むアイディア、必要な援助が見えてくるかもしれません。
「トイレでうんちができない」ではなく、「トイレでうんちができるためには、あと、どんな準備が必要だろうか」と考えてみる。
もしかしたら、内臓の感覚の育ちかもしれない。
もしかしたら、水分摂取と排出かもしれない。
もしかしたら、体温調節や姿勢かもしれない。


「ハイハイを飛ばした。だから、ハイハイをやらせよう。でも、ハイハイをやりたがらない」
だったら、その子がラクにハイハイができる準備には、「何があるかな?」と考えてみる。
ちゃんと指が分化している?
手首が育っている?
足の親指はどう?
重力とのお付き合いができてる?
反射が残ってない?
ハイハイは、動物としての進化の過程ですので、ハイハイが楽しめる身体に育てば、自ら進んで育て直しを行うものです。
こうやって、「どうやって教えよう」から、「どんな準備をしたらよいかな」と考え方を転換してみる。


私の想い、考えの中には、「子どもは自ら育つもの、学ぶもの」というのがあります。
本来、子どもは新しいことを学ぶのは、とても楽しいことだと感じるし、身体を動かして思いっきり遊びたいと欲している。
だから、勉強が楽しくない、新しいことを身に付けようとしない、身体全身で思いっきり遊ぼうとしない、というのは、その想いまで至らない原因がある、と考えます。
未発達やヌケ、遅れがあると、やっぱり楽しめないし、心の底から、身体の内側から喜び、意欲が生まれない。
なので、今日も私は、「どんな準備をしたら、ラクに学べるか、より楽しく遊べるか」と考えています。