2019年4月22日月曜日

幼い頃の“もう一頑張り”

一つのエピソードとして聞いてください。
もちろん、個人が前面に出ないように、改変もしています。


就学前から関わっているお子さんがいました。
その子は、単語レベルの会話で、かつ、文字を書いたり、計算したりするのも難しいお子さんでした。
しかし、離席や他害行動がなかったため、一応、言っていることの意味は理解できていたため、普通級へ進学しました。
この辺りは、小さな学校、親御さんの強い希望があったことも影響したと考えられます。


普通級に進学しましたが、ノートをとるのも一苦労、テストは常に半分以下の点数。
こういった様子でしたので、学期ごとに面談があり、支援級を幾度となく勧められました。
でも、本人が「みんなと一緒に勉強がしたい」と意思表示をし、また親御さんも、その想いに応えたいと、家庭学習や身体アプローチを一生懸命頑張られていました。


3年生くらいから、表現の幅が出て、言葉のキャッチボールもできるようになりました。
学力の面も、コツコツと積み上げてきたものがつながり始め、テストでも50点を超えるようになりました。
そして、高学年になる頃には、テストで100点も取るようになり、友達と放課後遊びに行くような子に成長しました。
この春より、真新しい制服を着て、中学校に進学。
その姿を見て、親御さんは、「あのとき、我が子の声に耳を傾けて、私自身も頑張れて、本当によかった」と涙を浮かべながらおっしゃっていました。


その親御さんの涙は、同世代の子ども達と共に、普通の子として進学できた喜びだけではないのです。
実は、この親御さんには、よく知る幼馴染の子がいました。
その子は、保育園から脱走したり、すぐに手が出たりする子でした。
でも、知的障害はなく、むしろ、賢いお子さんで、普段は明るい子どもらしいお子さんだった。
少しやんちゃな子として、同じように小学校普通級へ進学しました。


進学後、勉強はできるものの、時折、トラブルを起こすことがあり、学校から一度、発達障害専門の病院で診てもらっては、という話がありました。
病院に行くと、すぐにADHDの診断がつき、「落ち着いて勉強できる薬がある」と処方を受けます。
親御さんも、精神科の薬を飲ませるのに抵抗がありましたが、「治らない」「薬でサポート」「またトラブルを起こしても?」という言葉を受け入れ、服薬を開始しました。


服薬後は、以前のようなトラブルはなくなり、落ち着いて授業を受けられるようになりました。
しかし、学力の面で遅れが見られるようになり、元気で、健康そのものだった子が、学校へも行けない日が出てきました。
学校からは、「普通級の授業が負担になっているのでは」「お薬も飲んでますし」と支援級を勧められ、親御さんも応じます。
で、今春からは中学校の支援級へ。
ずっと身体が大きかったお子さんでしたが、服薬後から成長がピタッと止まってしまい、どうみても中学生には見えない身体に。
背も小さく、やせ細ってしまったのです。


中学校の普通級に進学した子の親御さんも、幼馴染の親御さんに身体アプローチの話、発達のヌケは育て直せる話を、何度もしたそうです。
でも、その親御さんは、興味を示すものの、実際の行動までには至らなかった。
あとから聞いた話では、処方を受けている医師から、「そんなんで治るわけがない」と言われたとのこと。
ですから結局、「あなたの子が、普通級に進学したのはできる子だったから」となり、「うちの子は、そういう障害を持った子だから」となって、疎遠になってしまったそうです。


我が子の制服姿を見て流した涙には、喜びの他に、「もしかしたら、一歩間違えば、うちの子も」「幼馴染のあの子も、一緒に制服を着て中学に行けたはず」という複雑な思いもあったと感じました。
あとから振り返れば、「あのとき」「あの選択を」ということは、よくある話ではないでしょうか。


この仕事をしていると、「あのときの選択が」「あのとき、頑張ったから」、反対に「頑張れなかったから」「諦めてしまったから」というエピソードが少なくありません。
今の苦しみが、しなくてよかった苦労が、幼いときの選択と繋がっていると、切ない想いがするのです。
今から振り返れば、当時の課題、問題の芽はまだ小さく、対処も、育てることもできたはず。
でも、あのときのもう少しの頑張りができなかった。
その頑張りをしようとしていたのに、支援者がその手を掴み、「頑張らなくて良いよ、お母さん、お父さん」と、耳元で囁いた。


小さな芽は、いつしか大きな花となり、実をつけるくらいまでになった。
その実をみて、「それが障害だから」と周囲は納得した。
小さな発達のヌケは、その後の発達に影響を与え続け、大きな凸凹を生んだ。
その凸凹をみて、「それが障害だから」と周囲は納得した。
でも、その苦しみ、しなくてよかった苦労を背負い続けるのは、本人。
幼いときの選択が、まだ自分自身にその選択権を持たない時期の選択が、後々の人生に影響を与える。


親も年を取る。
若いとき、頑張れたことが頑張れなくもなる。
子どもが小さいときにはなかった親の介護、仕事での責任、健康、体力の問題、そういったものが乗りかかってくることもある。
だから、子どものことに集中できる時期、特に我が子が小さいときに頑張らなくてどうする、と思います。
そして支援者が、その若い親御さんの頑張りを後押しするのではなく、真逆の「頑張らなくて良いよ」というその無責任さに憤りを感じるのです。


上記のエピソードは、まさに親御さんの頑張りの違いが、子どもの将来の可能性に影響を与えた典型的な例だと思います。
知的障害の程度も、発達のヌケの多さ、大きさも、中学普通級に進学した子の方が大変だった。
でも、親御さんは、我が子の言葉と可能性を信じ、コツコツ積みあげていった。
その結果が、真新しい制服姿になって表れた。
一方で、元気でやんちゃだった子は、確かに問題を起こさず、落ち着いた中学生に成長した。
いろんなものと引き換えにしながら。


その子の明るく元気な資質は、どこに行ってしまったのでしょうか。
必要な子が、支援級へ行くのは悪いことではない、と思います。
ただ幼き頃の輝いていた資質が消えていくのが悲しい。
発達障害を治すというのは、資質を失うことではありません。
むしろ、資質を輝かせるために、発達障害を治すのです。
持って生まれた資質を磨き、活かしていくためにも、我が子が幼き頃の、親御さん自身が若い頃の“もう一頑張り”がとても重要になってくるといえます。

2019年4月19日金曜日

遅れが遅れのままになっているから、発達に遅れが生じてくる

その発達の遅れが、いつから始まり、どうして生じたのか、誰も確認することができない。
何故なら、生きている限り、ヒトは常に変化し続けているから。
一秒たりとも、同じ状態にはならない。


ある時点で、発達の遅れが生じたとします。
でも、次の瞬間、環境側からの刺激によって、自ら持つ発達の力によって、再び自然な発達の流れに戻る可能性も考えられます。


私は、「これだから発達障害」「あれがあったから発達障害」というような単純明快な感じで、発達障害が生じているとは思っていません。
もちろん、仕事の上では、相手にわかってもらうことが最優先なので、よりシンプルな説明にしていますが。
発達障害とは、本来の発達の流れに戻りたいけれども、戻れず、その揺らぎ、もがきが、時間の経過とともに表面化したもの、と捉えています。


もし、発達の遅れとなる一つの原因があって、それ以降の発達すべてに遅れが出るとしたら、世の中は、発達障害だらけになっているでしょう。
当然、発達の仕方は、一人ひとり異なり、全員が全員、きれいな発達過程、曲線を描くものではありません。
そういった意味では、みんな、何かしらの発達障害を持って生きている。
でも、世の中の大多数は、自分の発達障害を意識することなく、足を引っ張られることなく生き、そして人生を終える。
それが700万年続いてきた。


このように考えると、「発達の遅れが生じる要因がなかった人が、いわゆる普通の人で、要因があった人が発達障害の人である」とは言えません。
みんな、受精した瞬間から現在に至るどこかで、発達の遅れが生じる要因と出会ってきただろうし、実際、遅れも生じたはずです。
でも、多くの人達は、普通の生活の中で、学校や職場、地域、社会の中で、その遅れを育んでいった。


遅れが遅れのままだったら、その後の発達、生活、心身に大きな影響が表れるのだと思います。
ですから私は、その遅れをどうにかしたいと考えるし、本来の発達の流れに戻るような後押しがしたいと思っています。
世の中の多くの人達が、発達障害という診断を受けるまでにならないということは、それだけヒトの持つ発達の力が素晴らしいということ。
そりゃそうです、内なる発達の力が優れていなければ、700万年も人類は続いていません。
人類の歴史のほとんどは、文字も、言語も、持たず、命の糸を紡いできたのだから。


ヒトは、自然の中で、生きる営みの中で、自分自身の発達の遅れを育み、治していったのだと思います。
本来、発達に遅れが出れば、内なる発達の力が、その人の自然な発達の流れまで戻していたのでしょう。
ですから、現在、発達障害がこれほどまでに問題になっているのは、環境の変化や文化の影響により、その人の持つ発達の力が躍動できていないから。
確かにリスク要因は、ここ数十年の間に増えましたが、それ以上に伸びやかな発達が見られなくなった、少なくなったことの方が重大な影響を与えていると思うのです。


私は、発達と向き合えば向き合うほど、支援ありきの支援が、その人の発達の躍動を阻害しているような気がするようになりました。
本人たちが求めていることは、また自分自身が果たす役割は、発達の声を聞くこと。
そして、戻りたがっている本来の発達の流れに乗せられるよう阻害しているものを取り除き、ヌケているところを埋めていく。
揺らぎ、もがいている状態に、そっと背中を押すような雰囲気で。
だって、ヒトは発達の遅れを自ら育み、治す力を持っているはずだから。
何らかの理由で、遅れが遅れのままになっているのなら、それを手伝うのが支援者としての役割だと思います。

2019年4月15日月曜日

発達は常に前に進むからこそ、凸凹が生じる

20代の頃、一時期、論文ばかり集めて読んでいる時期がありました。
そんな中で、確かアメリカの研究だったのですが、共同注視を後天的に教え、身に付けさせる、という内容の論文を読んだ覚えがあります。
自閉症の人達は、幼少期、共同注視(お母さんが空の飛行機を見たら、自分もお母さんの視線の方向に気がつき、同じ飛行機を見る、など)がみられない、発達が遅れる、と言われています。
ですから、その共同注視をトレーニングして身に付けさせれば、それ以降の発達過程である共感、社会性の発達、改善につながる、という研究報告でした。


その論文を読んだとき、世界には、こんなことを考える人がいるのか、また実践しているのか、と思ったものです。
ヒトが自然と発達させ、身に付けていくことを、あとから教えて身に付けさせようとする。
その不自然さを感じるとともに、もし、こういったトレーニングに効果があり、あとからでも身についていくのなら、当時、不可能だと言われていた自閉症の障害特性に関する改善、治療ができるかもしれない、と思いました。
それから、同じような研究がないか調べたところ、物事を一対一対応させてしまう思考に対し、同じものを使って、与えられた要素ごとに、いろんなカテゴライズの仕方を行っていき、柔軟な思考へと改善していく、という実践もありました。


多分、マイナーな研究、実践だったと思いますが、「やらなかったり、遅れてたりするんだったら、そこを後からやりなおそう」みたいな考え方に、特に若い頃、触れられたのはラッキーだったと思います。
実際、いくつかのアイディアを実践したことがありますが、確かに、その部分に関しては良い変化、発達がありました。
ですから、あとから育てられることも不思議には思いませんし、抜かしていた発達課題をクリアすれば、それ以降の発達に影響が出てくるのは当然だと思います。


「発達障害が治る」ということに関して、「それは“治った”ではなく、適応しただけ、改善しただけ」というような人がいます。
多分、それは、日頃、表面的なアプローチ、対処療法、対症療法しかやっていない人が考えることなんだと思います。
そりゃあ、目に見える症状、言動に対してのみ、いじくったり、抑え込もうとコントロールしたりしても、治るわけはありません。
治るためには、今を見ていてもできっこないのですから。
その子の人生、発達の歩みをトータルで見る、辿っていくことが必要です。


発達に遅れが出ている子がいれば、どの時点で発達の遅れが生じたか、それを見つける必要があります。
発達とは、受精した瞬間からの連続体です。
ですから、ある時点で、ある発達過程で、課題が生じれば、それ以降の発達に影響がでます。
そのために、できるだけ発達の遅れと繋がっている課題の根っこを掴むことが大事です。
掴んだ部分が根っこに近ければ近いほど、それ以降の発達にも関わってくる。
当然、根っこが育てば、その次の発達、その次の発達という具合に、どんどんポジティブな変化が生じてきます。


私も、100人いれば、100人とも、発達障害が治るとは考えていません。
それは、全員が全員、発達の遅れが生じた根っこがわかり、そこから完全に治していけるとは限らないから。
たとえ、根っこを掴んだとしても、時間と労力と環境の影響も受けますし、何より本人と家族の力、行動、選択にかかっているから。
また、現時点での診断レベルでは、「どうして発達に遅れが生じたか」その原因までわからないため、生物学的な原因から神経発達が阻害されている子もいると考えられるためです。


しかし、現時点での主観が入る余地ありありの診断では、生物学的な阻害などではなく、たまたま、いろんな要因が重なって、そのとき、必要だった発達刺激が受けられなかった、それで発達の遅れが生じてしまった、という子ども達が大勢いると考えられます。
もし生物学的ですとか、遺伝的な変異ばかりだとしたら、それこそ、世界規模で、人類史上、大変な問題となるはずです。
人類の歴史から見て、10年とか、100年とか、1000年単位で、生物としてのヒトそのものが変わるわけはありません。


発達の課題の根っこに近ければ近いほど、そこを育て治していければ、それ以降の発達過程が大きく変わってくるのは当然だといえます。
そうなれば、ガラッと変わることもあるでしょうし、「本当に、発達障害だったの??」と言われるくらいまで治る子も出てきます。
だって、発達の遅れの始まりから育て直しちゃうのですから。
逆に言えば、その根っこを育て直さずして、いくら表面的な対処をしようとも、発達障がいそのものは変わっていきようがないのです。


もし、発達障害が改善だったり、適応しただけだったりしたら、様々な刺激と変化に影響を受け、揺り戻しが起こります。
でも、発達課題の根っこ、元の元を育て直せば、そんな揺らぎなど起きるはずはありません。
一度、発達したものが、一度、クリアした発達課題が振出しに戻ることはあり得ないのです。
もし、そんな状態が起きたとしたら、それは老化のみ。
何故なら、発達とは後戻りしないから。


発達とは、生を受けた瞬間から死を迎えるまで、前にしか進めないもの。
発達障害は、『発達』の障害だからこそ、いつからでもやりなおせるし、そこから前に進むことができる。
ただ前にしか進むことができない特徴が、発達が抜けたら抜けっぱなしで、そのまま前に進んでしまう、次の発達段階へ進んでしまう、という発達障害が生じやすい理由にもなっていると思いますが。
結局、それが発達の凸凹になるんでしょう。
発達が、常に前に進むという特徴を持っていなかったとしたら、発達障害という概念は存在しなくなり、みんな、知的障害になったと思います。


私が論文を読むことに集中していた時期は、すでに10年以上前。
でも、その時点で、世界に目を向ければ、抜かしていた発達課題をトレーニングと指導によって、あとから育てよう、そこから改善していこうとしていた人達がいたということになります。
障害をそのままにするのではなく、ヘンにすべてを受け入れましょう、みたいな精神世界に向かうのではなく、現実的に目の前の人の困難をどう改善していけるか、治していけるか、と励んでいる人達も大勢いますし、それ自体、自然な考え方だといえます。
「治すなんてトンデモだ」という人もいますが、世界的な視点で見れば、「治そうとしないなんてトンデモだ」と言えるかもしれませんね。

2019年4月12日金曜日

発達障害という軸、定型発達という軸

フィギアの選手を見ていると、「よくもあれだけ高速で回転して目が回らず、演技ができるな!」と思います。
ああやって回転しても目が回らないのも、練習の成果ですね。
最初から目が回らなかったわけではありません。
ちゃんと目が回るという発達を遂げたあと、長年の練習の結果として目が回らない段階になった、ということ。
目が回らない→目が回る、からの再び「目が回らない」です。
目が回らない子が、フィギアの選手になったわけじゃないのです。


お金を貰って発達障害の人達と関わるようになって、もう15年以上が経ちます。
その中で、いろんな支援者と出会ってきましたが、専門家というか、発達障害の専門的になると、どんどん腕が悪くなってくる人が多いような印象を受けます。
若手の頃は、30代くらいのイケイケのときは、「あの人はよい支援者になるな」「この人が上に立つようになれば、素晴らしい変化が起きそうだな」と感じていたのに、肩書が付き、キャリアが積み重なってくると、ただの凡人になり、腕の可もなく不可もなしになる。
治せたはずの支援者が、40代過ぎて、ただの支援者の一人になっている。
そんな期待外れな支援者の顔を思い浮かべる方も、いらっしゃるのではないでしょうか。


肩書や組織ができれば、いろんな縛りが出てきて、それで腕が悪くなる、治せなくなる、という要因も考えられるでしょう。
でも私は、「軸がずれるから下手くそになる」と考えています。
「軸がずれる」というのは、発達障害の中に軸が移動するということです。
つまり、日頃、発達障害と関われば関わるほど、そういった中での経験が増していけばいくほど、自分が見てきた、経験してきた発達障害という軸の中で、「この人は軽い」「この人は特異的だ」「この人は典型的」という具合になる、ということです。


私も、20代の頃は、キャリアとしての経験数が乏しいため、のめりこむように発達障害について勉強したものです。
しかし、あるとき、気が付いたのです。
期待されていた先輩たち、支援者達は、40代になると凡人になる、ということに。
ですから、私は、そういった人達の姿から理由を探ろうとしました。
そこで行きついたのが、軸のズレ。
そういった先輩たちと話をしても、いつも発達障害中心の話で面白味がない。
結局、終始、発達障害の内側の基準で話をしているから、良くなるというような発想は出ないし、それ以上のワクワクするような話がでないのだと感じました。


それに気が付いてから私は、軸はあくまで定型発達に置いておかなければならない、と思うようになりました。
ですから、赤ちゃんの発達やヒトの進化、言葉や遊びの発達段階など、定型発達とはどういうものか、その勉強をするようになりました。
もちろん、始めの頃は、「治そう!」と思って勉強していたわけではありませんが、結果的に今の仕事に繋がっていると思います。


定型発達という軸があるからこそ、そこからのズレで、発達障害を捉えることができる。
だからこそ、どこが遅れ、何が抜けているかに気が付くことができます。
そして、どうすれば、どこを後押ししていけば、定型発達という流れに乗ることができるか、より良く発達していけるかに気が付くことができます。
これが発達障害という軸で捉えようとしていたのなら、ある意味、発達障害の内側のみで解釈、完結しようとしていたら、こういった発達の後押しはできなかったと思います。
そして私も、今頃、凡支援者の一人として、どう支援していこう、どうやって発達障害者の中で、この子を良い部類にしていこう、などと考えていたかもしれません。


私は、我が子の子育てを通して、定型発達を教わっています。
また幼稚園や保育園、学校との関わりを通して、同世代の子ども達の発達を教わっています。
すべて、自分の軸を定型発達に置き続けられるための学びです。
定型発達を知らずして、発達障害を治すことはできないのです。


若手の支援者や幼稚園、保育園の先生、特別支援と関係のない分野の専門家、親御さんがパッと治せたり、治すための育み、アイディアが出たりするのは、普通の子を通して、発達障害の子を見ることができるからだと思います。
反対にキャリアを積み、肩書を身にまとい、「私は専門家です」と恥ずかしげもなく公言できちゃうくらいまでくると、まあ、腕が悪い、そして治せないし、治そうという発想すら一ミリも湧いてこない。
それは定型発達という軸を見失い、発達障害の世界、内側、そこの価値観のみで完結しようとするから。
もちろん、本人は意識していないのでしょうが、発達障害の世界に限って言えば、専門家、専門的になればなるほど、腕が悪くなるのは、特別支援あるあるだと思います。


支援者や若手の人からも、相談や助言を求められることが増えました。
そんなとき、私は上記のような話をします。
軸が発達障害に移ると下手くそになる。
うまい支援者、治せる支援者は、軸が常に定型発達にある人。
だから、ヒトについて知識、理解、知見を深めていかれると良いですよ、と。


発達障害の人は、別の世界からやってきた人ではなく、みんな同じ人間。
ただ定型発達からズレてしまった結果、いろんな支障が出ているだけ。
だったら、課題の根っこはそのズレであり、本来の自然な流れに乗れるよう後押しするのが、支援者としての役目。
だから私達は、ヒトについて学び、深めていく必要があるのです。
発達障害、特別支援の世界には、治すための答えはないですね。

2019年4月11日木曜日

発達の逸脱に気づいた時点での「治す」

「治す」と耳にすると、苦しんでいる状況、状態があって、そこから救うための「治す」を連想します。
睡眠障害を治す。
自傷行為を治す。
激しいこだわりを治す。


偏食や他害だって、結局は、自分自身を苦しめる結果になるのですから、これもネガティブな状態からの脱却という意味での「治す」になると思います。
目の前に苦しんでいる人がいて、特にそれが我が子だったら、この苦しみから、どんなことをしてでも救ってあげたい、少しでもラクにしてあげたい、と想い、願い、行動するのが自然な親心というものでしょう。


一方で、ネガティブな状況からの脱却という意味ではない「治す」もあると思います。
その子が本来持っている力、発達の流れが妨げられている状態からの脱却。
喃語は出ているけれども、それ以降の言語発達がみられない。
立って歩くようにはなったけれども、なんだか身体の使い方がぎこちない。
一人遊びをするんだけれども、友達と遊ぶ段階に進んでいかない。


本人の視点に立てば、必ずしも苦しんでいるわけではない。
でも、本来、辿っていただろうその子の発達の流れに乗れていない状況を、どうにかしてあげたい、もっと伸びやかな発達、成長を遂げてほしい。
そんな願いから出てくる「治す」もあるのだと思います。


「発達障害を治す」と聞くと、性格や資質を矯正でもして変えさせよう、と連想する人がいます。
そういった人は、発達障害を固定されたもの、生来的なもので変化しないもの、と捉えているのだと思います。
中には、古い時代の「脳の機能障害」「生まれつきの障害」と言われていたのを、自らで考えることなく、信じてしまった結果の人もいるかもしれません。
しかし、発達障害とは、簡単に言えば、「いま、発達の遅れがある状態」と言っているだけ。
だから、その遅れた状態を治すのは、当然ですし、何よりも本人のためになるのです。


「遅れたままでいなさい。それがあなたの個性だから」
そんな残酷なメッセージを、子ども達に送ることができるのでしょうか。
子どもが苦しんでいる状態を目の前にしていて、ただ指をくわえてみているだけ。
病気で苦しんでいたら、病院に連れていくでしょう。
それがすぐにできないのなら、汗を拭き、頭を冷やし、栄養のあるもの、食べられるものを少しでも、と思うし、そっと手を握る、背中をさするのが、自然な姿。
病気で苦しんでいる子をそのままにしておくのは、ネグレクト。
私は、発達の遅れに対し、そのままを求め、行動をしないのは、育児放棄と言われても、支援者なら職責放棄と言われても仕方ないと思います。


以前は、「我が子の苦しみをラクにしたい」という「治す」を求め、相談される方が多かったように感じます。
しかし、年々、「この子の本来の姿、発達の流れに乗せてあげたい」という「治す」の相談、依頼が増えてきました。
これは、幼い子の親御さんからの相談が増えたことが大きいと思います。


睡眠障害や自傷、パニックなど、苦しみが表面化して、「明らかに辛いよね」となる前に、親御さんが気づくようになった。
「あれ、おかしいな」と感じた瞬間に、すぐにネットで情報を集める。
そうすると、治った声が聞こえてくる。


幼い子の親御さんは、「発達の逸脱」から入ってきます。
ですから、本来の発達の流れに乗せよう、つまり、子育てのアイディアを求め、入ってくるのです。
「より良く育てたい」という前向きな「治す」が増えてきました。
実際の治った声が、辛い症状として表れる前に、職責を果たさない特別支援の世界に入る前に、「発達の遅れは家庭の中で、子育ての中で、育む」という自然の姿のままに留まらせるのだと感じています。


これから益々、「この子の持っている本来の発達の流れに乗せてあげたい」というような「治す」が増えていけばいいと思います。
そうすれば、辛い症状が表れる前に、治っていける子ども達が増えるから。
そうすれば、一旦、子育ての放棄という異様な世界を通り、親子共々、味わう必要のない苦しみを感じることがなくなるから。


「発達の逸脱に気づいた時点で治す」
これこそが、本当の意味での「早期発見、早期療育」ではないでしょうか。
早く見つけておいて、その遅れをそのままにしておくのは、ただの『青田買い』ですね。
子ども達は、支援者を食わせるための稲じゃない。

2019年4月5日金曜日

「生まれつき」と言うけれども、うちの子が生まれたとき、あなたはそこにいたのか?

近頃、ずっと年齢の低いお子さんの相談が続いていましたが、相変わらず、「生まれつきの障害です」と言われるようですね。
そして、これまた相変わらず、2歳とか、3歳とかの子を前にして、「治らない」「この子は生涯支援が必要」と言われるのです。


“今”、発達に遅れがあるということが、どうして、これから長い人生の間ずっと発達が起きず、遅れ続け、生涯支援を受けて生きていく、と言い切れるのでしょうか。
この診断では、脳の画像を撮って、その根本的なダメージを確認したのでしょうか。
血液や遺伝子などを調べ、生物として、これ以上、発達は難しいという何かを発見したというのでしょうか。


訊けば、行動観察と家庭での状況、成育歴から告げられたとのこと。
それでは、今の状態は分かるけれども、何故、発達に遅れが出ているか、はわかりません。
だったら、なおのこと、今後の子ども達の歩み、成長、発達について分かるはずはないし、客観的な根拠のないまま、ただ親御さんを苦しめている、親御さんの子育ての力を奪っているとしか思えません。


「生まれつきの障害」というのなら、おぎゃと生まれた瞬間には、発達障害である確認が取れていないといけないことになります。
生まれつき、生まれつき、というけれども、実際、出産時に発達障害が確認された子はいないのです。
それなのになぜ、「あなたの子は、生まれつきの障害です」と言い切ることができるのでしょうか。
反対に、「先生は、うちの子が生まれたとき、発達障害があると確認したのですか?」と尋ねたらよいのです。


生まれたときに確認した人がいない、確認ができていないのなら、その子の発達の遅れは、生まれたときにあったのか、それ以降の発達過程の中で起きたのか、わかりません。
第一、これだけ同じ『発達障害』と言われる人の中でも、その状態像はバラエティに富んでいますので、発達障害の始まりが胎児期の子もいれば、出生時、出生後の子もいると考えるのが自然です。
まさに、発達期に起きるのが発達障害。
その子が、どの時点で発達障害が起きたかは、現時点で誰も確認も、証明もできないのです。


「生まれつき」と言っておきながら、10代以降に診断を受ける子ども達も少なくありません。
実際、そういった子ども達からの相談もあります。
親御さんに、成育歴を尋ねますと、乳幼児健診でひっかかったことがない、就学時健診でも「問題なし、普通級」だった、でも、不登校や学業不振、他人とのトラブルなどをきっかけに診断を受けたら、「自閉症でした」「発達障害でした」という経緯です。


もし「生まれつき」だったら、もっと早い段階で発達の遅れが生じ、生活の中で支障が出ていたはずです。
それが見られなかったということは、子育ての中で治せる部分を治していたか、生まれつきではない段階で発達障害が生じたか。
はたまた「支援を受けさせたい」「責任を別のところに持っていきたい」というような周囲の思惑の結果なのか。


決まって言われる「この子は、生まれつきの障害を持っていたけれども、なんとか本人や周囲が頑張ってきたから問題が表れてこなかっただけ」という説明は、ちょっと無理があり過ぎるのではないか、と個人的に思います。
頑張ってうまくいくのなら、そのまま、頑張る方向で行けばいいのでは。
そんなことを言っちゃうと、今までの特別支援が全否定されてしまいます。
「頑張らせてはなりません」「本人が頑張るより、周囲の支援」と言っていたのに。
個人、家庭の頑張りが予後を変える、発達&成長を変える、という真実に触れないようにしていたギョーカイの姿勢を。


まだ幼い子の親御さんに向けて、生まれつきかどうか確認していなのに、今、発達の遅れが出ているその原因が明らかにされていないのに、「生まれつきだ」「生涯支援だ」と言い放つ専門家の存在。
その子と家族と真摯に向き合う専門家なら、客観的な事実、わかっていること、わからないことを伝えるべきだと思うのです。
そして何よりも、子どもも、親御さんも、より良く生きていける方向へと導くのが、その道のプロの仕事、役割ではないでしょうか。


発達障害については、まだまだ行動観察と問診、成育歴でしか診断名をつけられませんし、何よりも、その子個人で見たときに、何がどうしてどうなったが全然わからない状態なのです。
だったら、目の前の子と真剣に向き合い、その子に合った育み方をしていけば、良いのだと思います。
同じ発達に遅れがあると言われた子のご家庭でも、子育てを通して、その遅れを取り戻したり、苦しんでいた症状がまったく出ないまでにしたり、ちゃんと自立して生きていけたりするところまで育て上げられた先輩たちが多くいらっしゃいます。


結局のところ、発達に遅れがあるのだから、その遅れを取り戻せばよい話です。
つまり、これは子育ての範疇。
だから、診察室で切り取った接し方しかしていない人よりも、家族が大事で、治した先輩たちの子育てのアイディアが貴重な意見であり、学びになると思います。
根拠のない専門家より、実際に治した親御さんの言葉です!

2019年4月3日水曜日

新たな喜びへと紡いでいく

神経発達障害ということは、神経の発達に何らかの障害が起きている状態だといえます。
ですから私は、その人の神経発達を妨げている“何か”に思いをはせます。
その何かに気づければ、本来歩んでいただろう発達の流れに解き放つお手伝いができるから。
妨げていたものは、育みの大元を教えてくれる。


「論文を書いたら」「成果をまとめて、発表したら」という話をしてくる人がいます。
しかし、私の仕事、役割、したいことは違うのです。
私は、目の前の人が自分の成長に喜ぶ姿を見て喜ぶのが仕事。
私は、目の前の人が少しでも辛さから解放され、より自由に、より自立的に、より主体的に、自分の人生を歩む出す姿を見て嬉しくなるのが仕事。


研究し、論文を執筆することが役割であり、仕事の人もいます。
その人達は、そういった成果を示すことで評価されます。
でも、私は目の前にいる人のために、自分の力、時間を注ぎたいと思うのです。
それに私に対する評価は、利用する人がいるか、いないか、その一点につきます。
昨日で7年目に突入しましたが、その歩みの一日一日が私に対する評価の日々だったといえます。


神経の発達に何らかの障害があり、今、発達に遅れが出ている状態である。
しかし、その何らかの妨げ、原因も、発達に遅れが出ている程度、どのあたりに発達の遅れがあるのかは、一人ひとり違うはずです。
呼び方、括り方は一緒でも、その状態像は一人として同じ人はいない。
だからこそ、私は、目の前の人と真摯に、真剣に向かい合ってきました。


状態像が一人ひとり異なるのですから、その育み方も、一人ひとり異なるはずです。
この人でうまくいったことが、あの人ではうまくいかない。
そんなことは多々あります。
でも、その一方で、この人でうまくいったことが、あの人でもうまくいくこともあります。


私が向き合うのは、目の前の一人です。
だけれども、向き合う前には、大勢の人達との出会いと気づきと教えが存在します。
多くの方達から頂いた知見と、目の前にいる人の育みは繋がっているのです。
7年目を迎えた今、私の仕事は、役割は、したいことは、この成長した喜び、辛さから解放された喜びを、新たな人へと繋いでいく、新たな喜びへと紡いでいくことのような気がしています。


全国には、我が子を、目の前の人を治す親御さん、実践家の方たちがいらっしゃいます。
私は、その方達の育み、知見から多くのことを学ばせていただいています。
治している人達の目の前にいるのは一人かもしれませんが、その一人と出会う前には、大勢の人達の存在があるはずです。
私が、治している人達から学ぶということは、その人達の背景にある大勢の人達と繋がりを持つことだといえます。


発達障害は、状態像に名前を付けたようなものです。
でも、具体的に、どこに障害、妨げがあって、どの程度、発達が遅れているか、どこの部分に発達の遅れがあるかを示しているわけではありません。
ですから、人によっては、栄養面を改善したら治っても不思議ではありません。
赤ちゃんの運動発達をやり直したら治ることもあるでしょう。
機械音を減らしたり、自然の中で遊んだりしたら治る子もいるはずです。
だって、栄養が、運動発達のヌケが、機械音が、遊びの乏しさが、神経発達の妨げになっていた人もいるはずですから。
神経の発達を妨げたものがあるのなら、そこからやりなおせば、育っていくはずです。


妨げが発達の凸凹を生んだのなら、その妨げを見つけ、そこから丁寧にもう一度、育て直せばよいのだと思います。
神経発達障害は、「現時点で発達が遅れているよ」と言っているだけで、その人の未来、可能性まで否定しているわけではないのですから。
もしかしたら、「現時点で発達が遅れているよ」と言われる人の中には、その妨げの原因が普遍的なものであり、その結果として元には戻らない、という人もいるかもしれません。
しかし、それだって、現在の科学では証明することができません。
だったら、治った者同士で手をつなぎ合い、その人に合った治す方法を、より良い育み方を目指し、試行錯誤して歩んでいけば良いのだと思います。


「この子は、一生しゃべることはないから」と告げられた子が、今では普通に話しをしてコミュニケーションをとっています。
「この子は、一生福祉だから」と告げられた子が、今では普通の人として一般就労しています。
確かに、医師や支援者から告げられた通りの人生を歩む人もいるでしょう。
でも、目の前の人が、大事な我が子が、そういった人達と同じ人生を歩むとは言えないのです。
だって、発達に遅れが出ているのは同じだけれども、その原因も、程度も、治し方も、育み方も、一人ひとり違うから。


私は、今まで出会ってきた人達が喜ぶ姿を、今目の前にいる人と繋いでいきたいと思います。
慌ただしくも、7年目を迎えることができました。
利用してくださった皆さま、いつも応援してくださっている皆さま、心より感謝申し上げます。
ニーズがある限り、日々精進し、頑張っていきます。
本当にありがとうございました。

2019年3月29日金曜日

AIまでの中継ぎ

自分の仕事、専門を極めるために、日夜、学び、精進するのは当たり前の話。
すごいとか、すごくないとか、えらい、えらくない、とかじゃなくて、お金を貰ってやることなんだから、それが普通で、息をするみたにやれていなきゃ、問題外。
ただこなしていくような姿勢は、その仕事と共にその人間までをも、AIに、外国人に取って代わられるでしょう。


将来的に、生物学的マーカーが見つかれば、発達障害の診断はAIが行うようになると思います。
AIの方が正確に判断できるでしょうし、何より忖度しないですし。
薬を処方したいがための診断ですとか、支援を利用するための診断ですとか、なくなります。
もし、そういった生物学的マーカーが見つからなくても、どうせ今も、行動観察と問診で診断しているくらいなのですから、成育歴とか、発達障害に関わる因子を答えていけば、AIが判定!みたいにしても大差はない、むしろ、忖度分だけ正確度が増して良いかもしれません。


生物学的マーカーなら、その部分を経過観察することで、症状の変化がわかるようになるでしょう。
これまた人為的な意図が入る余地を消すことができます。
「治ったんじゃなくて、一時的に症状が薄れただけ」
「完治じゃなくて、寛解です」
こういった言葉遊びをする意味がなくなりますので、治ったか、治っていないか、になる。
そうなると、社会全体として一気に見る方向、進む方向が決まっていきます。
治るんだったら、治す方向へ動いていく。
経過が良くなることがわかれば、良くなるためのアプローチが明確になり、様々な情報が精査されていく。


今のように、治せないし、できることは限られているけれども、「専門家」を名乗れる時代は、近い将来終わりを迎えると思います。
診断はAIが行って、それを見て、医師が処方する。
環境調整だって、「ヒトも刺激になるんです!」と、その道の専門家たちが言っているくらいですから、タブレットが予定や指示を出すようにしたり、本人の生活の様子を見て、AIが刺激をコントロールしたりする。
行動療法は、何かうまくできたら、ロボットがおやつを運んでくるようにする。
SSTも、どうせ知識獲得、パターン学習でしかないので、学習プログラムのアプリで十分。


結局、こうやって考えると、治そうとしない、治すアイディアを持たない支援者、専門家というのは、技術革新とともに消えていく存在だといえます。
というか、それまでの中継ぎのような存在。
反対に言えば、子育て自体は、AIなどの技術に取って代わられることはできないので、これからどんな時代、世の中になろうとも、子どもを育むアイディアを持った人達の仕事、ニーズはなくならないと思います。


いま、エビデンスだ、論文だ、と言っているような人達も、これから5年、10年後の社会がどうなっているかはわからないはずです。
現時点で、どの人が発達障害で、どの人が自閉症か、といった客観的な指標、違いの見分け方すらないのです。
「そのアプローチの効果のエビデンスを出せ」「治ったという証拠を出せ」と言う前に、そもそもその人が発達障害であるというエビデンスも、証拠もないのですから。
そんなレベルの、曖昧なもので展開されている特別支援の世界が唯一絶対なわけはありません。


だからこそ、私達は、一人ひとりとちゃんと向き合う必要があるのです。
エビデンスだ、論文だと言う前に、目の前にいる子をちゃんと見ているか、感じられているか、が重要なのです。
ちゃんと一人ひとりと向き合えている人なら、目の前の子の変化を感じることができます。
より良い変化があるならば、どっかの誰かが書いた論文や、その地域のメジャー支援者のお墨付きなんかなくとも、信じてやりきることができます。
そもそもが発達障害であるというエビデンスが曖昧で、主観的なものなのですから、唯一絶対なのは、目の前の子がより良く変化すること以外あり得ません。


論文の多くは、まだ世の中の人が知らないこと。
ということは、証明されていない真実がいっぱいあるということです。
「論文がないから信じない」というのは、笑い話、滑稽話。
だったら、求めている論文が出るまで、指をくわえて待ってな、という感じです。
でも、子どもの時間は戻ってきませんがね。
治る治らない以前の問題として、子どもとちゃんと向き合えない大人というのは、ただ給料をもらいに出社しているような仕事人のようであり、それだったら仕事も、子育ても、AIに任せた方が良いなと思われるような人のように感じてしまいます。
まあ、まだそういった論文は出ていませんが(笑)

2019年3月28日木曜日

向上心を発揮する場があるのか

久しぶりに当地のデパートに行きました。
すると、店員さんは私語ばかり。
お客さんが近くに来ても、お構いなくペチャクチャ。
私には、売る気もなければ、仕事人としての意欲も、プライドもないように映りました。
もう一つあった老舗のデパートは今年の一月で閉店。
「数少ない地元のデパートだから、開けときゃお客は来るだろう」みたいな雰囲気は、閉店したところと同じ雰囲気を感じます。


「デパートで買うのがステータス」世代がいなくなれば、潰れるのは必至。
何だか、「療育受けるのがステータス」に似ていますね。
特に治すわけでもなく、何年経っても同じ支援に、誰が来ても同じアドバイス。
「開けときゃ来るでしょう」という態度の支援者と「療育受けるのがステータス」の親御さん達が、地元の支援機関を支えてます、みたいな。


以前、相談に乗っていた若者が、「公務員は、年齢が上がると、給料も上がるから就きたい」と言ったのを、私が叱ったことを思い出しました。
確かに公務員は、年齢給みたいなものがあるから、年齢、勤続年数が上がれば、給料も上がります。
でも、その給料の上りは、ただの年数の上がりではない。
働いた時間の中での技能向上、経験や責任が増えたことが給料にも反映されている、というような話をさせてもらいました。


こういったのはうわべの情報だけで判断してしまうこともあるでしょうし、身近な大人たちがそんな話を子どもにしていたのが影響しているのだと思います。
結構、働いている大人たちの中にも、プロとしての向上心に欠けるような人が少なくないように感じます。
独立するまで、2つの職場を経験しましたが、給料をもらいに出社しているみたいな空気感がとても嫌だったですね。
父親は「働いてからも勉強。生涯勉強」と言っていましたし、実際、その姿を見て育ちましたので、それが当たり前だと思って働いていますし、それができない人を見ると、ドン引きします。


特に私は自営業ですから、技術向上と知識の更新は当たり前ですし、それが事業としての命に直結すると考えています。
もし自営業の私が、一年前と同じレベルの助言、発達援助しかできないとしたら、即刻廃業になります。
公的な補助は貰っていない100%利用してくれた方のお金だけで事業を行っていますので、利用者がいなくなれば終わりです。
常に利用してくれる人に対して、相手の希望よりも上の返しができなければ、自営業はできません。


よく「奇を衒って“治る”なんて言ってやがる」と揶揄されましたが、奇を衒うだけでは事業が続けれるわけはありません。
もし私が詐欺やインチキをやろうもんなら、即刻、通報されますし、第一、お客さんが来なくなります。
今月で6年目も終わり、来月からは7年目に突入しますが、逆に奇を衒う作戦で「治る」と言い、6年も公的な補助もなく、事業を続けられたとしたら、それこそ、すごいこと、才能があるといえるでしょう。
私の奇を衒った作戦が功をなしたのなら、そちらの方の才能を活かした商売をしますね。


人間と動物の違い、境目は、向上心の有無だと考えています。
動物は獲物を捕るために全力を尽くしますが、獲ってしまえば、変わらず獲り続けられるのなら、技能向上は目指しません。
でも、人間は、想像力を働かせ、試行錯誤を繰り返しながら、そして事前に知識や技能を得て準備することで、自分自身を高めようとします。
結果のみに注目するのが動物であり、プロセスも含むのが人間。


「見えないものは、ない」という本人の想像性と、形を教え込もうとする療育が合わさると、プロセス、向上心の大切さに気づけないまま、大人になる人が少なくないように日々、感じています。
若者たちと話していても、どうも職業観が狭すぎるというか、幼い。
「お給料をもらうため」「生活するため」「自立するため」
どれもすべて合っています。
でも、それだけだったら、必ずしも一般就労で、フルタイムで働かなくてもいい。
というか、働かなくても、できちゃうのが現在の日本の福祉制度。
しかも、ギョーカイは、発達障害の人達に、診断がついていない人に診断名をもらうように勧めてまでも、結果的にお金が貰えて、生活でき、自立できる(もれなく支援者付き)道へと導いていく。


こういった現状と若者たちの相談を通して、私は思います。
子ども時代から学ぶこと、自分自身を成長させること、向上心を持つことの大切さを伝えていくべきだと。
そのためには、想像力が育っていくような援助をしていくのと同時に、見えない部分をはっきり教えていくことを心掛けています。
そして、子どもにとって重要な環境でもある親御さんが、向上心を持って、自分自身が学び、成長していく姿を見せることが重要です。
そういった意味で、実際に試行錯誤して治していくことだけでなく、その試行錯誤する親御さんの姿自体も、子どもにとっては良い影響と成長に繋がるのだと思います。


親御さん達も、支援する我々も、子どもが治ることが目的ではないのはわかっていると思います。
あくまで、より良い人生を歩んでほしい、自由な生活を謳歌してほしい、その子の資質を活かして生きていってほしいというのが願いであり、そちらが目的だといえます。
そういった軸がブレなければ、「一般就労して二次障害になるくらいなら、福祉を利用すればいい。お金ももらえるし、親がいなくなっても生活できるから」という支援者の甘言に惑わされないはずです。


今まで、どれくらい多くの人達が、その甘言に引きづられていったのか。
確かに、彼らはお金ももらえているし、生活もできている。
でも、向上心を発揮する必要のない仕事、生活、人生の中に、人間としての喜び、生きている実感があるのでしょうか。
私語を続けるデパートの店員。
大型バスに乗せられ通勤している成人した人達。
そこに向上心を発揮する場があるのか、と思うのです。

2019年3月21日木曜日

会話に発達が表れる

自閉症の人の話は、「長い」と言われることがあります。
要点を掻い摘んで話すのが苦手だから。
どうしても、詳細に、順を追ってすべて話そうとするから、クドクド長くなってしまいます。


自閉症の人から相談を受けるときは、時間に余裕を持たせるようにしています。
上記のように、話が長くなる傾向がありますし、途中で割り込むと、話が飛んだり、見失ってしまうことがあるので。
そして、こちら側も、ニュアンスや前提条件など、通常の会話で端折っている部分についても言葉に表す必要があるため、どうしても時間が長くなります。


しかし、そんな話の長さ、クドクドした説明も、自閉症の人の特性だとは思いません。
だって、発達のヌケ、遅れが育ってくれば、段々、会話がシンプルになってくるから。
つまり、自閉症の特性なんかじゃなくても、ただ単に発達の問題。
だから、あとからでも治るし、変わってくる部分。


支援者の中には、あたかも、こういったしゃべりが特性であるかのごとく、対応する人がいます。
もちろん、私も、相談時にはそのしゃべりに合わせますが、それは本人の発達のヌケ、遅れの具合を確認するという意味あいもあります。
決して、そのしゃべりのままで良いとは思っていませんし、聞いてて「もっと端的にしゃべって」と思うことも多々あります。
この長いしゃべりは、聞いている方も疲れるし、本人の脳だって疲れるのを感じます。
だから、治した方が良くて、そのために、育てた方が良いと思います。


端的に言えば、論理的に偏って話そうとするから長くなる。
つまり、左脳と右脳のバランスが悪いだけ。
ヒトは、言葉を介して会話をしつつも、肌感覚など、察することでやりとりしている部分もあります。
同じ共有した経験、感覚があれば、そこは端折る。
空気感で、「この話はもう良いかな」「これ以上、言わなくても、その先は察してくれた」などわかれば、端折る。
そして、臨機応変に話の内容に濃淡をつけていく。
これができるのは、感覚も使って会話しているから。


感覚面に発達のヌケや遅れがあれば、当然、ほかの部分に頼るしかなくなります。
それが論理的な部分、左脳です。
右脳<左脳の働き。
脳は右から左に発達していきますので、右脳を育てる時期に何かあったのかな、と推測できます。
右脳を育てるのは、2歳前後、言葉を獲得する前まで。
だから、身体アプローチで治っていく、感覚が育つから、言葉以前の発達段階のヌケが埋まるから。


「自閉的な思考」などと言われることもあります。
でも、それだって、本当に特性なのか、脳のタイプの違いなのか、変わらない部分なのか、怪しいと思います。
所謂、こだわりだって、情報キャッチがうまくいかないから、感覚面の育ちの偏り、バランスが悪いから、結果的にこだわる、とも考えられる。
全体ではなく、部分に注意が向くのも、そういう脳のタイプとも考えられる一方で、全体を感覚的に掴む脳力に弱さがあるから、どうしても部分にしか注意が向かない、とも考えられる。
こういったステレオタイプの自閉っぽさだって、発達のヌケが埋まっていった人たちは、薄まっていくし、柔軟さも出てきます。
ですから、「ただ感覚面で未発達、ヌケがあるだけでしょ」「右脳が育つ前に、左脳が育ち始めたのね」と思うのです。


脳の中を見ることはできませんが、脳の育ち、働き、状態は、その人のしゃべりに表れると思います。
会話の長さ、一文の長さ、声の抑揚&ピッチ、内容の濃淡、表現の仕方、同じ言葉を応用して使うか、表現の豊かさ&幅、会話の組み立てのパターン、割り込みへの対応…他多数。
こうして文字にして挙げてみると、会話の中身以外から感じている部分が多いことに気づきました(私の場合)。
でも、誤学習、誤認識、妄想を崩すときには、チャットみたいな感じで、とにかく文字にこだわり、論破を目指しますが。


自閉っぽさって、姿勢だけではなく、会話や思考にも表れますし、そのように紹介、表現されることが多いと言えます。
しかし、発達のヌケ、遅れが育ってくれば、そういった自閉っぽさも薄まってくるし、目立たなくなるし、治ったり、柔軟さが出てくる人だっています。
だから、久しぶりにかかってきた電話の声で、発達の進み具合がわかります。
治っていっている人は、会話が短くなるし、話がわかりやすくなる。
それに冗談が出たり、気づいたりするスピードが早くなる。
ヘンな四字熟語じゃなくて、わざとらしくない自然なたとえが出てきたりもします。


自閉症の特性と捉えると、そこで発達が止まってしまいます。
それが自閉っぽさと捉えると、そこで育もうとする手が止まってしまいます。
クドクド話すのを、ただ聞いているだけじゃ変わらない。
何が言いたいか分からない説明に対し、「要点よく話す会話術」みたいな自己啓発本を読んでも、ソーシャルストーリーで「どういう会話が望ましいか」みたいな文章を見せても、変わらない。
長いしゃべりを治す方法はなくても、感覚、右脳を育てる方法はありますね!

2019年3月15日金曜日

「重度」とは、何を持って重度というのか

「対象は、軽度の人でしょうか?」「知的障害が重い子は利用できませんか?」などと、問い合わせを頂くことがあります。
特に障害の程度でお受けするしないは決めていませんし、実際、知的障害がある人も、知的障害が重度と判定を受けている人も利用されています。
だけれども、この仕事をしてから、「この人は重いな」「発達していくのも難しいな」と感じる人とは出会っていません。


私は、この仕事を始める前、いろんな方たちと関わってきました。
自分で立ったり、移動したりすることができない人。
自力で息をするのも難しい人。
食事を摂ることができない人、その食事だって、口からではなく、胃から直接。
「この子は、〇歳を迎えることはできないだろう」というようなことを言われた人もいました。
実際、悲しいお別れもしました。


そして強度行動障害を持つ人達。
自分の身体が変形してしまうくらいの自傷、自らの命を危険にさらすくらいの行動がある人もいましたし、知能検査が受けられない人、他人と接触できない人もいました。
知能検査を受けて、「重度」「最重度」と付くならまだよくて、「測定不能」という人達とも関わってきました。


ですから、今、この仕事をしていて、「知的障害が重度です」「言葉が全く出ません」などと言われても、正直、過去出会ってきた人達と比べれば、圧倒的に軽いですし、「どんどん治るじゃん」「可能性いっぱいじゃん」と思うのです。
あと、ちょっと話はズレますが、普通に電話やメールで相談や依頼してくる人で、「支援者から『あなたは自立できない。よくて障害者枠。本当は就労支援B型だね』なんて言われました」という若者たちの存在に、最初、衝撃を受けまくっていました。


普通に大学出ているような若者に、福祉的就労を勧めるバカがどこにいるって感じです。
しかも、その理由が「あなたは重いから」
この若者たちが重いんだったら…以下、上記と同じ。
「障害が“重い”」の重いという言葉に重さを感じません。
だから、「重い」というのは、支援する側の無力さを隠すための造語だと思うのです。


施設では、軽々しく「重い」なんて言えない人達、そういった言葉で言い表せないような人達の支援に携わっていました。
そのときは、治る方法も、治るということも知りませんでしたし、必死にギョーカイ本、ギョーカイ研修で学んでいました。
でも、快食、快眠、快便は整えると思っていたし、治せると思って仕事をしていました。
だって、自閉症の診断基準、3つ組の特性に、食事、睡眠、排便の障害は載っていなかったから。
つまり、ここは障害と関係ないところだから、変えられる部分という認識でした。


実際、快食、快眠、快便が整う人達がほとんどでした。
そして代々、経験則的に、この3つが整いだすと、本人の理解や学習が進むこと、心身共に安定していくことも知られていましたし、そう教わり続けていました。
いま、振り返ると、このヒトとして、動物としての基本、土台が整うと、心身、脳に余裕が生まれ、結果として理解、学習が進んでいくのだと思います。
心身&脳の余裕→理解が高まる→情報がキャッチできる→学習→適応力が上がる→ストレスが減る→心身&脳の余裕の好循環。


よく「発達の多様性」「症状、特性の表れ方も個性である」などと言われます。
だから、「治すなんて、おかしい」と主張する人もいます。
じゃあ、偏食は個性ですか?寝られないのは、その人の特性ですか?うんちが出ないのは発達の多様性?


安っぽく、一色単になんでもかんでも、「障害特性だ」「多様性だ」「それが資質だ」という人達がいます。
聞いてみると、「いやいや、それってただ未発達なだけ」「特性とか、個性とか、資質とかじゃなくて、そういう状態なだけでしょ」ということがほとんど。
HSP??
ただ感覚の発達に遅れやヌケ、未発達があるだけじゃないの。
「寝られないのも、理解してください!」????
夜遅くまで起きて寝られないのは、ただ寝られない身体の状態ということじゃないの。


ナントカの一つ覚えみたいに、すべてその人の資質や個性、特性にしてしまう。
「子どもの個性を大切にします」という人ほど、本人の視点が抜けている。
食べられないこと、寝られないこと、排泄がうまくいかないこと、そういったヒトとして、生きるものとして基礎基本の部分に生じている苦しさを、「それも、あなたの個性ね」と言われる子の気持ちを想像したことがあるのか、と疑問に思います。


本人が苦しんでいる状態が「その子の個性」だといえるのでしょうか。
その子の未発達な部分も、「その子の個性」だといえるのでしょうか。
苦しみ続ける個性、資質など、あり得ないし、本人以外が勝手に諦めるなよ、と言いたい。
少なからず、身体的な問題がない限り、快食快眠快便は整えることはできる。
そして、快食快眠快便が整えば、理解と学習が進み、適応力が上がっていく。
ということは、DSM-5で語られているように、知的障害の状態だって改善していく。
これは、私が施設で見てきた実態と合致するのです。


私が関わってきた、私が本当に重いと感じる人達が、適応力を上げ、知的の状態を改善していった姿。
その姿をそばで見てきたからこそ、今の仕事で関わる子ども達、若者たちは、みんなに可能性があると思いますし、どんどん発達し、治っていくと感じています。
医療機関や支援機関から「重い障害」と告げられ、悲壮感を漂わせて連絡をくださる親御さんもいますが、実際にその子とお会いすれば、育つ可能性、伸びる可能性に満ちた子、まだ持っている素晴らしい資質が表に出るまでに至っていない子と思うことばかりです。
そんな「重度」と言われた子ども達も、今では普通級で勉強、今では大学生、今では一般就労ってことになっています。


「重度」とは、何を持って重度というのか。
また、重度=発達しない、自立しない、良くならない、という意味になるというのか。
そして、他人が言った「重度」という言葉で、育む手を止め、支援と理解の世界に、我が子を委ねてしまっていいのか。
目の前の子が、自分で身体が動かせ、口から食事が摂れ、自ら息ができている。
その子の身体に、躍動する神経がある限り、どの子にも可能性があると思い、私は仕事をしています。

2019年3月14日木曜日

プロテイン治療!

なんてあったら、それこそ、ヤバいでしょ。
「プロテインを飲んだら、発達障害の症状が治ります」なんて(笑)
治そうとしている親御さん達がプロテインを用意するのは、子どもの神経を育てたいから。
神経の大元であるアミノ酸が十分満たされるアイディア、方法の一つとして、プロテインを選択しているだけ。
プロテインも、サプリも、薬じゃないんだし、より良い神経発達のための条件の一つ。
「食事のメニューをどうするか」「おやつをどうするか」と同じ話。


どうも、「治療」と「子育て」を混同している人がいるようです。
治そうと頑張っている子ども達、親御さん達、支援者達は、治療をしようとしているわけでも、治療によって治そうとしているわけでもありません。
だって、神経発達に遅れがある子ども達ですよ。
発達に遅れがあるのなら、取り戻せば良いだけ。
そのアイディアとして、発達のヌケを育てなおしたり、身体アプローチをしたり、栄養面から後押ししているのです。
これらは治療でなく、すべて神経発達を促すための子育て。


「脳の機能障害」から脱せられない人が、いつまで経っても治療だと勘違いをする。
自閉症の特性があって、ADHDの特性があって、LD、知的障害の特性がある。
それはすべて生まれつきで、脳の機能障害。
だから、金魚体操も、プロテインも、身体アプローチも、一色単に「そんなんで、生まれつきの脳の機能が変わるわけない。症状がなくなって、治るわけがない」と見誤るのです。


定期的に出てくる「エビデンスガー」もそうです。
治った人が、治療によって治ったと思っている。
だから、親御さんや支援者を捕まえて「医療では~」「医学会では~」「お医者さんが~」「医師法が~」と的外れなことを言い続ける。
「私、お医者さんではありません」
「一般の主婦です」「支援者です」
なんて言っても、ピンとこないのは、「発達障害=医療、治療」という頭が切り替えられないせいです。


どこの世の中に、胎児期から2歳前後の発達を、「エビデンスが必要だ」「専門家、専門機関じゃないとやってはいけない」という人がいるのでしょうか。
赤ちゃんの発達って、専門機関で行うもの?
どの子も、みんな、お母さんのお腹の中と家庭、自然の中で発達させていくでしょ。
「その寝返りの仕方に、エビデンスがない」「寝返りが完了としたという科学的根拠は?」と赤ちゃんに言うのですか(笑)


どれくらいの回数、強度、距離をズリバイしたらクリアになり、次のハイハイへ移行するか、なんてデータの取りようがないし、個々によって違うもの。
だから、「エビデンス」「エビデンス」というけれども、最初から胎児が、赤ちゃんが、幼児が、どのような流れで発達していくかは、エビデンスとは別次元のお話なのです。
治るには、エピソードで十分。
というか、エビソード以外出てくるわけはないのです。
だって、子育てだから、自然なヒトの発達だから。


胎児期の発達は、誰が行うのですか?
お医者さんじゃないですよね。
そして環境も医療機関、専門機関ではない。
胎児期の発達の主は、胎児自身であり、母体が育つ環境。
同じように、出生後だって、赤ちゃん自ら刺激を感じ、刺激に反応し、自分の神経を育てていく。
育つ環境は、普通の家庭であり、親子、家族の関係性の中で。


私達は、最初から治療しようなんて思っていない。
特性を治療によって、「治そう」なんてしていない。
いろんな理由から、特に胎児期から言語を獲得する前の2歳前後の発達の中にヌケや遅れが出ている。
だったら、そこに戻って、今から育て直そうよ、子どもが育てる神経を後押ししようよ、ということ。


育ってない神経、未発達の神経を育てたい。
そして、そういった神経が育っていけば、その人の持つ自然治癒力と発達する力によって、心身共にバランスが取れてくる。
症状が症状として表れる前に、症状が出ていたとしても、神経発達と新たな神経回路の接続が状態を変化させる。
未発達の神経が育てば、症状が消え、治っていくのは、自然な流れだといえます。


神経が未発達の部分を、治療しますか?育てますか?
胎児も、赤ちゃんも、未発達な部分があって、それを育てていくじゃありませんか。
未発達だからといって、薬を飲ませたり、治療したりしないでしょ。
未発達な神経は治療対象ではなく、育む対象だから。
そうやって人類は、700万年もの間、育み、命のバトンを渡してきたのです。


親が、支援者が、いつまで経っても、発達障害が治療対象だと考えている限り、治りはしないし、障害は残ったまま。
むしろ、未発達をそのままにして積み上げていくもんだから、歪み、凸凹は大きくなるばかり。


子は親を選べない。
親が選べるのなら、痛ましい虐待を受けた子ども達は、その親を選んだということになるから。
そんなわけはないに決まっています。
多くの子ども達と出会ってきましたが、誰ひとりとして治療してほしいなんて望んではいません。
ただ、みんなと同じように、伸びやかな発達、成長がしたいだけ。
その願いが聞けるのは、親御さんだけ。
ですから私は、親御さんに子育てをしていただきたい。
子育てこそが、子どもの願いであり、その流れの中に「発達」と「治る」があるから。

2019年3月13日水曜日

発達は文化ではない

親が美味しそうに食べるのを、子どもに見せる。
大人が一生懸命働く姿を、子どもに見せる。
まずは大人がやってみて、それが刺激になって、子どもの成長に繋がることもあるでしょう。
でも、それは文化の伝承において。
やっぱり発達に関しては、子どもが主体であり、先行しなければならないと思うのです。


では、どうして発達は“子ども先行”なのか。
それは、発達が本能であり、遺伝子レベルのお話だから。
進化の歴史の中で、脈々と受け継がれてきたものが発達そのもの。
どの時代の、どの文化圏に生を受けようとも、ヒトは一定の発達過程を辿ります。
言葉を獲得する前の発達は、時代や文化が手出しできるものではない。


発達障害の子ども達というのは、主に言葉を獲得する前の発達段階に、やり残しやヌケがあります。
胎児期からだいたい2歳前後までのヌケであり、遅れです。
そのヌケを埋めるのに、言葉は役には立ちません。
文化の伝承とも違う。
となると、そもそも大人が、他人が手を出せるものでもないのです。


子どもは、自分に足りない発達刺激を自然と求めます。
子どもは、抜かした発達課題を、自ら埋めようと動きます。
何故なら、発達のヌケ、遅れは自分の内側にあるから。
「あなたには、発達の遅れがあります」
これは推測の域を出ることはないのです。
発達に関して言えば、その子、本人しか知る由もありません。
いいえ、本人の意識レベルにすら上がってこないものですので、その子すらわかっていないのかもしれません。
子どもの目を通してみれば、その時々で、内側から突き動かされるエネルギーをぶつけた先が、自分自身に必要な発達だった、という感じなのでしょう。


この時期になりますと、大人は揺らぎます。
学年末の振り返りがあり、すぐそこに次の学年が待っているから。
でも、これは文化的なお話。
子どもの発達とは関係ないことなのです。


産休後、入園する赤ちゃんが、「そろそろ四月になるから、いっちょ、ハイハイの段階クリアしとくかな」なんて思わないはずです。
発達課題は、あくまで本人がやり切ることでクリアされるもの。
「育児休暇が終わる」とか、「新年度が始まる」とか、「担任が変わる」とか、「今年度、思ったよりも伸びなかった」とか、そんなの全部、その子の発達とは直接的な関係はありません。


よく「この子の発達のスピードを尊重します」「一人ひとりに合った歩み方がある」と言う人がいますが、呪文のように自分自身に言い聞かせている人が少なくないような気がします。
だって、年度末に焦るから。
そして、言葉に出す出さないにせよ、自分の中では「ここまでできている」といった発達の道筋を描いてしまっているから。
本当に、その子の発達ペース、歩みを尊重するのなら、年度で区切らないし、子どものペース、波長に合わせていくものです。
それが「子どもがリードする」ということ。
学校の先生から何か言われても、「それは学級経営上の話ね」「発達の話と別次元の話ね」と受け流せるかどうか、です。


私のところに来る相談、依頼で、「何をしたらいいか分からない」という内容があります。
「自分自身でやってみたけれども、どうもうまくいかない」「いろいろやって伸びてはいるけれども、もっとより良い子育てがしたい」というような依頼には応えますが、上記のような方からの依頼はお断りしています。
「お金なら出します」というようなお話もありましたが、結局、受けることはありませんでした。
それは、私が「治したい」と思って仕事をしているからです。


もし私が、「何をしたらいいか分からない」というような人の依頼を受けたら、どうなるでしょうか?
きっとその人は、子どもではなく、私を見るようになります。
私が提案したことをやり、課題がクリアされれば、再び「次は何をしたら?」となる。
こうなれば、発達援助ではないし、子育てでもない、宗教です。
そして何よりも、子どもが治っていかない。
子どもの発達を感じ、求めていることに目を向け、気が付かなければ、発達の後押しはできません。


私が基本的に一回だけの訪問にこだわるのは、私の方ではなく、子どもさん、そして子どもさんの内側に流れる発達の息吹を見て欲しいからです。
私はあくまでも、伺ったその日、そのときの発達を感じ、お伝えしているだけ。
端的に言えば、一緒に発達の息吹を感じることを通して、子どもさんとの波長合わせのお手伝い。


文化や時代、大人の話、都合に揺らいではいけません。
だって、私達は、言葉を獲得する前の発達のヌケを育てたいから。
赤ちゃんが自由気ままにハイハイするように、それを一緒に楽しむように。
これこそが自然な発達の姿であり、発達を後押しする姿。
子どもの発達を感じ、常に波長を合わせていれば、揺らがないし、自然と発達のヌケは育っていくはずですね。

2019年3月12日火曜日

リードするのは親でも、支援者でもなく、子ども自身

プロテインを飲ませたいのは親御さんであり、飲むのはお子さん。
このことを忘れてはいけませんね。
もし、お子さんがプロティンを飲まないのでしたら、親ができることは二つだけ。
どうしたら、心地良く飲んでくれるか、試行錯誤することと、プロティンが飲める身体に育てること。
たとえ、本人に必要な栄養素だとしても、嫌がるのを無視して無理やり飲ませるのなら、私はそれも一つの虐待だと思います。


子どもは、自分に必要な発達刺激がわかります。
自ら能動的に、また時間を忘れるように熱中する遊び、活動というのは、“今”その子にとって必要な刺激であり、今まさに発達課題をクリアしようとしている瞬間なのです。
同じように、自分に必要な食べ物もわかります。
言葉がまだはっきり出ていないような子でも、「これが食べたい」「もっとほしい」と主張することがあります。
「一時期、〇〇ばっかり食べていた」なんていうお話も、いろんなご家族からお聞きします。


子どもが欲する食べ物、栄養素は、本能レベルで自分に必要だと気がついているのだと思います。
ですから、発達に関して言えば、子どもの声に耳を傾けるべきだと思います。
親がリードするのではなく、子どものリードに親がついていく、または横について伴走する感じです。
もちろん、学習や躾、心身を育むことに関して言えば、親がリードする方が良いこともありますが、発達はあくまで子の前に出ない、子の気づき、本能、伸びる力を信じてついていくことだと思います。


私は訪問型の仕事をしていますので、すぐに感じます、親子の距離感が。
子どもが前にいるか、親が前にいるか。
親が子どもにちゃんとついていけているか、子どものペースを無視して、親が前を走っていないか。
理想的な親子、「ああ、この調子で行けば、ドカンという発達が来るな」「治って、ちゃんと自立していくね」と感じる親子というのは、子が前を一生懸命走り、それ後ろからついていって後押ししている親御さん。
あくまで、発達のリードは子どもさんで、「私は、我が子の伸びる力を信じます」という姿勢があるご家庭では治っていくし、子どもさんが成長とと共に自ら手と足で治し、自立していくように感じます。


犬の曲芸みたいな療法とは、「ここまで来たら、ご褒美をやるぞ」「これができたら、お菓子をあげるぞ」、そんな大人がリードし、それに子がついていくという流れです。
これでは芸は身につくかもしれませんが、発達のヌケが埋まっていくことも、治っていくこともないでしょう。
そして何よりも、自らの足で立とうとする意思と力が身につきません。
療育を受けた子ども達が一向に自立しないのは、こういった大人、支援者が常にリードする育て方をされ続けたから。
芸をする動物が自立して野生に戻らないのと同じ。
芸を身に付けさせるには、意思はいらない、むしろ邪魔なので、その余白を作らないように常にリードする者と、それについていくだけの者という関係性を作るのです。


神経発達に栄養は重要な要素になります。
しかし、その重要な栄養も、吸収できるだけの内臓、口に入れ、咀嚼し、飲みこめるだけの力、育ちが必要です。
また、「この食べ物は安全だ」「食べてみたいな」と感じられる嗅覚も。
そういった発達、育ちはできているのか。
ちゃんと食べ、吸収できる身体に育っているのか。
もし、まだ育っていない部分があるのなら、そこを育てていこう。
そのように思えることが、子どもの発達を後押しすることであり、意思を尊重することだと思います。


その食べ物を食べるのは誰か?
その遊びをするのは誰か?
発達のヌケを埋め、育てていくのは誰か?
この答えは、すべて目の前にいる“子ども”自身。
ですから、発達に関して言えば、先頭を走るのは、常に子どもなのです。

2019年3月9日土曜日

子どもが治った姿は、子育ての延長上に

治している親御さんと、その子どもさんの間には、自由で心地良い雰囲気が流れているものです。
今まで、多くの治している、治そうとしている親御さんとお会いしてきましたが、誰ひとりとして強制も、矯正もしていませんでした。
主は常に子ども。
子どもさんがやりたいことを、育てたいことを、一生懸命後押しする姿。
それは自然な親子の関係であり、「治す」と言っても子育てに変わりはないのです。


「治す」という言葉に対し、過剰に反応する人達がいます。
で、治している親御さん達というのは、そういった人達を見て、理解ができなくなります。
治している親御さんというのは、我が子に「少しでもラクになってほしい」「より良く育ってほしい」と願い、子育てをしているだけだから。
嫌がる子どもをよそに、無理やり訓練したり、食べたくないものを食べさせているわけではないから。


治している親御さんと、治るに過剰反応する人達。
その違いは、「治る」の捉え方。
過剰反応する人達というのは、一見すると普通の人達。
普通の家庭で、普通に育ち、普通に学校に行き、普通に就職する。
でも、その歩みの中で、常に親から、周囲から“普通になれない自分”を責められた経験を持つ。
みんなができることが、できない。
みんなと違った行動をとる。
それがいじめや、親からの叱責、学業や仕事の失敗となる。


過剰反応する人達は、「治る」と聞いて思いだすのだろう。
「どうして、あんたは“普通に”できないの!?」という叱責の声が。
自分も、親も、学校の先生も、職場の人達も、発達障害という概念がなかった。
だから、怠けているように見えたし、自分はダメな人間だと思っていた。
親から、先生から、何度も何度も、繰り返し叱責され、できるようになるまで指導されていた。
そんな歴史が、先着一名様の思考とあいなって、治る=普通になる=矯正&強制となっているのでしょう。


治している親御さんで、我が子に「普通になれ」と言う人も、普通を目指して訓練するような人もいません。
ただただ、我が子に治ってほしい、より良く育ってほしいと願っているだけ。
あくまで、より良い子育てのアイディアを求め、発達と成長の後押しをしているのです。


栄養療法も、毎日の食事の延長。
我が子に合ったより良い食事を目指し、試行錯誤しているのです。
身体アプローチだって、言葉以前のアプローチだって、子ども自身がやりたがらないことはやらせません。
すべて遊びの延長、すべて親子のコミュニケーションの延長。
第一、本人がやりたがらないことは、発達課題とリンクしていないのですから、治したい人ほど、そんな方法は選びません。
本人が主体的に、自らやり切ろうとする活動こそ、食べようとする栄養素こそ、本人の発達に必要なものなのですから。


私は思います。
「治す」が強制、矯正といえるのなら、標準療法、療育のほとんどが虐待ではないか、と。
就学前の子どもに、精神科薬を飲ませる。
やりたい行動を止め、ボーロ一つで釣る。
自分の親に甘えたい、コミュニケーションしたいと思っている子に、「それは年齢にそぐわない行動だから」と言って、親が反応せず、無視し続ける。
刺激を統制することが大事だからと、何も置かれない部屋で、狭い衝立の中で一日中過ごす。
自分の意思が入る余地がないスケジュールを朝から淡々とこなすように求められる生活。
「これが適切な振る舞いだから」とマニュアルを暗記させられ、支援者が支援しやすいような行動を身に付けさせられるSST…。


治している親御さんというのは、怒っていることが多い。
それは、根拠なく「治らない」と嘘をつくことに対して。
そして、我が子のために日々、一生懸命子育てをしているだけなのに、「それはおかしい」「かわいそうだ」と、我が子ではない他人が茶々入れてくることに対して。
治している親御さんにとっては、自分の親との間での不完全な想い、愛着障害、先着一名様思考で治すこと=普通になることの矯正、強制だと連想しパニックになっている他人など、関係ないし、どうでもよいこと。
我が子ならまだしも、他人の子まで「甘えてくんじゃね~」といった感じでしょう。
知らない他人の甘えに応じられるほど、世の中の大人は暇じゃない。


「我が子を治したい」というのは、親御さん自身の心で叫んでいることであって、それを子どもに強要しているわけじゃないですね。
「普通になれなきゃ、愛されない。親から、社会から捨てられる」
そういった想いになるのは、その人個人の問題であって、治している親御さんの問題ではありません。


治すに、強制や矯正の要素が少しでもはいれば、子どもは応じないし、治っていかないのは、「治そう」と頑張る親御さん達が一番分かっていることです。
支援者の立場だって、「私が治そう」なんていう想いがちょっとでもあれば、子どもは見向きもしてくれないし、近づかせてもくれないことは、何度も経験していることです。
子ども自身が育てたいこと、治したいこと、心地良いと感じることを後押しするのが、発達援助。
子どもが治った姿とは、子育ての延長上に見えるのですから。

2019年3月8日金曜日

「治るか、治らないか」ではなく、「やるか、やらないか」

「発達障害が治るか、治らないか」
私の中では、前から結論が出ていました。
実際に治っている人達を見てきたからです。
そして同じように、全国にも結論が出ている人達がいます。
神経の発達障害なのだから、治るに決まっています。
治らないとしたら、神経がないか、すでに神経を発達させられる状態にない、つまり、生きていないか、になります。
ですから、「発達障害が治るか、治らないか」ではなく、「治すか、治さないか」。
いや、もっとシンプルに、「やるか、やらないか」、ただそれだけだと思っています。


世の中に、しかも同じ時代を生き、同じ日本に住む人達の中に、治っている人達がいるのです。
しかも、世界的な診断基準にも、「治らない」なんて書かれていない。
むしろ、介入によって、診断名が適さなくなることも、知的障害の状態が変わっていくことも、記されている。
ここまでくれば、「治らない」と主張する人のその言葉が、単に「やりたくない」「やれない」という風に聞こえてきます。


当事者の人は、先着一名様の思考のために、支援者、親の言っていた「治らない」が頭の中から出ていかないのでしょう。
治らないことで得られていた生活、小さな小さな自尊心、言い訳にできる理由を手放したくないがために、「治らない」と言い続ける人もいるでしょう。
途中から特別支援の枠に入った20代、30代の当事者の人達の中に、治ってラクになるよりも、自分の過去の後悔、辛かった歩みに押しつぶれないようにするために、「治らない」に必死にしがみついている人が少なくないようにも感じます。


親御さんで言えば、「治らないから!」のではなくて、「今さら、治ると言われても…」が真実のように感じます。
「治りません」という絶望の言葉を送られ、しかも、普通の子育てすらできないと、我が子も、親である自分自身も否定される。
そんな否定し続けてきた専門家の言う通りにしてきてしまった自分がいて、さらに今、その選択すら木っ端みじんに否定される。
それに耐えられないからこそ、「治らない」にこだわる、いや、「治らないでくれ」というような悲痛な叫びにすら聞こえてくるのです。


親御さんの中には、「軽度の子は治るんでしょ。でも、うちの子は、重いから」というような人もいます。
しかし、これは言い訳。
しかも、とても卑怯な言い訳。
だって、自分ができないのではなく、「この子が重いから」と我が子のせいにしているのです。
私は、この言葉を聞くと、とても悲しくなります。
自分の親に、「あなたが重い障害だから」と言われる子の気持ちを想像すると。
私が子どもなら、「僕のせいにしないで、少しでもラクになる方法を探してやってみてよ」と思うはずです。


ずっと言葉が出なくて、重度の知的障害と言われていた子。
実際に診断も受け、支援学校にも行った。
この親御さんの涙は幾度となく見た。
でも、この親御さんは「我が子が重度で言葉がなくても、学校から、支援者から見放されていたとしても、私がしっかり育てていく。だって、私がこの子を信じなければ、誰が信じてあげるの。この子の可能性と明るい未来を」
そうやって、コツコツ育てられた結果、まだ知的障害はあるものの、一人の社会人として働く若者に育った。


こういった親御さんの姿を見るたびに、治るか治らないかの議論はクダラナイと思うのです。
だって、治るから。
「治らない」と言っている人は、やりたくないだけ、治らない方が良い理由があるだけ。
だったら最初から、「私はやりたくない」「できません」と堂々と言えば良いと思います。
やりたくない人、治りたくない人にまで、治ってほしいと願う人はいない。
少なくとも、私は1ミリもそう思わない。
我が子の発達の違いに気づいた親御さんと、その子どもの未来にとって迷惑だから、「治らない」という嘘を言うのだけは止めてくれ、と率直に思います。


私の事業の指針は、社会です。
社会にとっては、やれない個人を慰めるより、治る人が増えていく方が良いのです。
そのためには、やろうとする人、治ろうとする人を後押しするのが正しい道。
ですから、私は治す人、治りたい人と共に歩んでいきます。
治りたくない人に使える程、私は多くの時間も、気持ちも、志も持ちあわせていませんので。




2019年3月7日木曜日

『NEURO 神経発達障害という突破口』(花風社)を読んで

今週、ある若者から連絡を頂きました。
「アルバイトを始めました!」という連絡です。
この若者は、長年、支援センターに通い、病院にも通い、そしてひきこもっていたのです。
昨年12月にお会いし、脳のバランス、発達のヌケの確認をし、その育て方のアイディアを紹介。
また花風社さんの本と、藤川徳美医師の本を紹介し、あとはご自身で本を見て実践したり、プロティンやサプリを飲んだりしたそうです。
そして長年、変わらなかった状態を、専門家、医師がどうにもできなかった状態を、ご自身で突破されたのです。
本人も、家族も、涙を流して喜ばれていました。


この仕事を始めてから、多くの涙を見てきました。
上記の若者、家族のようなうれし涙だけではありません。
「本当は、みんなに理解してほしいんじゃなくて、その辛さを分かってほしいんだよね。そして少しでもその苦しさを取ってほしいんだよね」
そんな言葉を聞いて、泣き崩れる若者に何人も、何十人も会いました。
「障害者枠で働いていることが辛いんだよね。障害者として生きることが辛いんだよね。一人の人間として生きていきたい。自由になりたいんだよね」


このように本人たちは、理解よりも、保護される中で生きることよりも、少しでもこの苦しみから逃れられてラクになること、同世代の人達と同じような自由で、成功も、挫折もあるような人生を送ることを望んでいる。
若者たちと話すと、いや、小学生の子ども達ですら、治りたいと思い、治る方法を知りたがっている。
ある小学生の子は、治ることを知り、「学校の先生も、病院の先生も、みんな『治らない』っていうけれども、治るんだって。僕だって、普通になれるんだ!僕は頑張りたい!」と言って行動し、今は普通の生徒として学校生活を送っています。


当然、本人たちが治りたいと思うように、親御さん達も治ってほしいと願っています。
だからこそ、「治る」という言葉を聞いて、治すアイディアを聞いて、実際に治っていく様子を見て、涙を流されるのだと思います。
「普通の子育てはできない」「家庭でできることはない」というメッセージを専門家から送られ、ずっと「治ってほしい」という想いに蓋をしてきた。
「治らない」という絶望的な言葉の上に、普通の子育てすらできないという親としての否定すら受け続ける。
親御さんが流す涙は、うれし涙よりも、悲しみで溢れています。


私自身、二人の子を育てる親、子育て世代です。
私は近頃、同世代の親御さん、治している親御さんにこう言います。
「私たちの世代で、悲しみの涙を流すのは終わりにしましょう」と。
当然、子育てをしていれば、生きていれば、楽しいことだけではなく、辛いこと、苦しむことがあります。
でも、私が見てきた親御さん達の涙は、必要な涙だといえるのでしょうか。
治すために今、頑張っている親御さん達も、最初は絶望の涙を流したこともあるでしょう。
その絶望の涙は、流す必要がある涙だったのでしょうか。


先週の日曜日、3月3日に花風社さんの講演会に出席してきました。
今まで花風社さんの講演会には二度行ったことがあります。
一度目が浅見さんと南雲さんの講演と、栗本さんの実践の会。
ここで私は、本気で治したい、本気で子ども達の未来を良くしたい、という想いを強くし、また社会性の土台が身体から育っていくことを肌身で感じました。
二度目は、栗本さんのコンディショニング講座。
支援者としての、子どもと向き合う人としての心構え、身体の使い方を教わりました。
どちらも、その講演会が、私の支援者として、事業として転機になったと思っています。


そして今回の講演『神経発達障害という突破口』
私は、浅見さんの講演を聞き、やっぱり私たちの世代でケリをつけないといけない、終わりにしないといけないという想いを強くしました。
子ども達の人生よりも、親御さんの願いよりも、支援者側の都合で展開されてきた特別支援の世界。
しかも、絶望の涙の大元の「治りません」は事実ではなく、嘘であった。
浅見さんの講演は、会場にいた私達に向けられていたようで、違うような気もしました。
浅見さんの言葉、想いは、もしかしたら、未来の子ども達、これから親になる人達に向けられているのではないか、そんな風に私は感じたのです。


私は、このブログで紹介させていただく花風社さんの新刊『NEURO 神経発達障害という突破口』を読んで、これこそが最初に読むべき本だと思いました。
最初に読むとは、我が子の発達が気になったとき、診断を受けたとき、これからどうしようと思ったとき、最初に読んでほしい、という意味です。
この本は、今までの親御さん達が流した絶望の涙を、これからの親御さんに流させないための本。
そして神経だからこそ、「あのとき、私がああすればよかった」などと後悔するところから一歩踏み出す希望を与えてくれる。
神経だからこそ、やりようがある、育てようがある…治るんだ!!


本が届いたとき、仕事に出る前でしたので、郵便局にまず振り込みに行き、そしてチラチラッと最初の方のページをめくりました。
巻頭に出てきたマンガを見て、感情が揺さぶられました。
絵を描くプロというのは、絵がうまい下手だけではなく、人の心を動かす絵、人の心が宿った絵が描ける人のことをいうのだと私は初めて知りました。
あのマンガは、著者である浅見さんの想いと、全国の当事者の方達、親御さん達の想いが宿り、表現されていた絵だと感じました。


私も、この仕事をあとどれくらい続けるかはわかりません。
でも、これから出会う親御さん達に、この本を紹介し続けると思います。
また私自身も発達障害の人達と関わっている限り、そのとき、そのときで読み返し続けると思います。
もう絶望の涙を流すのは、私たちの世代で最後にしましょう。
これからは、どうやって治していくか、どうやってより良く子どもを育てていくかに涙と汗を流していくのです。


今回の講演会、新刊を読んで私は思います。
私たちの世代は、浅見さんから宿題とエールを送られた、と。
今の子ども達、親御さん達、そして未来の子ども達、親御さん達のために、一人ひとりができることを行っていく。
それは治った者同士で手をつないでいくこと。
治ったエピソードが積み重なっていけば、未来の子ども達、親御さん達の希望になることができるのですから。




2019年2月25日月曜日

やるだけのことはやってから

発達障害の人達と関わるようになってからの最初の10年間くらいは、ギョーカイが推進する標準療法を学んでいました。
良い先生がいれば、全国どこでも出かけて行って学び、トレーニングを受けてきました。
一度はこの目で見てみたいと、NC州へも行きました。
今となっては、どこにあるかわからないような資格や認定書もあります。


たった10年くらいですが、標準療法を学んで気が付いたことは、どの方法も、発達障害を持つ人の根っこには届かないこと。
最先端で、エビデンスのある療法だとしても、課題の根本を解決するわけではありません。
その課題が表に出ないように対処しているのみ。
限られた場面、環境、人との間で課題が見えなくなることはありますが、あくまでその条件がそろっていないいけない。
「良くなった」「改善した」と思えるようなことがあったとしても、よく良く見れば、ただ適応力が上がっただけ。
だから、少しでも条件が変われば、同じ課題が表面化しますし、支援を受け続ける必要が出てくるのです。


いろんな場面で、私も構造化された支援、ABAのアイディア、SSTなどを使いました。
確かに、環境を整えれば、混乱は減り、理解は促進されます。
でも、そこから先が見えてこないのです。
刺激が減れば、構造化で外付けすれば、脳内の余裕が生まれます。
その生まれたスペースに、ABAでスキルを教えても、SSTでスキルを教えても、結局は適応するための知識を増やしているのみでした。
変化に富んだ実践の場面で役に立たないスキルを教えても、本人の生きづらさは改善していきません。
というか、そもそも本人が持つ根本的な課題には触れてはいないのです。


施設でいろんな方たちを見てきましたが、彼らの生きづらさの根っこは、適応できないことではないと感じます。
夜寝られないこと、十分な食事がとれないこと、感覚の過敏性によって刺激に圧倒されること、うまく掴めない感覚によって勘違いや失敗をすること。
刺激を統制することによって、刺激自体を減らすことはできる。
しかし、それは感覚という課題の根っこを解決したとはいえません。
視覚的なアイディアで予定を伝えたり、食事で栄養を摂る大切さを伝えたりすることはできる。
しかし、寝られない身体、食べられない身体、消化できない身体を解決したとはいえません。


多くの行動障害を持った方達と出会ってきましたが、必ず最初に行うのは、彼らの快食快眠快便を整えることでした。
まずここが整わない限り、支援云々とはなりません。
またほとんどの方達は、この快食快眠快便が整うと、行動障害の程度はグッと落ち着いていくのです。
偏食が治ってから、落ち着いた。
夜寝られるようになってから、問題行動が収まった。
そういったことがほとんどです。
中には、虫歯を治したら、行動障害が見られなくなった人もいます。
ですから、強度行動障害の人への支援方法を指導する立場の人が、「標準療法が大事」なんて言っていると、現場を知らない人なんだと思うのです。
強度行動障害の人に対して、いきなり標準療法、支援なんてできませんから。


こういった経験をしていましたので、花風社さんが提言されている「言語以前へのアプローチ」との出会いは、「これこそ、私が、本人たちが求めていたアイディアだ」と思いました。
標準療法が上っ面の対処療法だっただけに、根本的な、課題の根っこからへのアプローチ、そして何よりも育んでいこうという考え方、知見の素晴らしさがすぐにわかりました。
上っ面で、蕎麦屋の言い訳のような特別支援では、障害の程度に関わらず、ずっと自立なんかできない。
でも、根本から育て、解決できれば、支援者の手の中から離れ、自由に社会人として生きていける。
本来自立とは、自らの足で立ち、自分の意思と選択によって人生を歩んでいけること。


私は、10年間、一生懸命対処療法を学び、実践し、これでは課題の根っこは解決しないこと、本当の意味で自立できる人はいないこと、そして治らないことを証明してきました。
ですから、「言語以前へのアプローチ」を核にして歩んでいるこれからで、課題の根っこを解決し、社会の中で自立し、治ることを証明していきたいと思います。
有難いことに、いろんな方達が治り、自立していく姿を見ることができています。
よって、これからは「治らない」と言っている人達が証明する番だと思います。


言語以前へのアプローチをやってみた。
発達のヌケを育て直し、栄養面を改善し、快食快眠快便を整えた。
それでも、「治らない」のでしたら、治らないことを証明できるはずです。
私は、治らない方法を実践してきました。
だからこそ、標準療法、ギョーカイの推進する方法では「治らない」と言うことができます。
「治る」と言っているアイディアを試すことなく、ただ単に「治るわけがない」というのは根拠があるわけでもなく、ただの妄想です。


ADHDに対する新薬承認のニュースに、『覚せい剤の原料含む』という文字がありました。
就学前の子ども達が、日常的に精神科薬を飲んでいる現実があります。
子どもに、こういった精神科薬は飲ませるのに、ドラッグストアに売っているサプリやプロティンを飲ますことは否定する。
幼稚園、保育園に通う年代の子どもに、精神科の薬を飲ませたいと思いますか。
それだったら、精神科薬の前に、サプリやプロティン、食事から変えてみようと思うのが、自然な感情だと思います。


やるだけのことはやって、それでも治らない、変わらない部分には配慮や支援が必要だと思います。
でも、家で簡単にできること、普通の子育てと変わらないアイディアすらやろうとしない。
それでは「治るなんてインチキだ」と証明することはできません。
以前の私のように、治すことを何にもしないで、ただその日、その日の対処を続けていれば、治るわけも、自立するわけもないのです。
治らないのは障害特性ではなく、治さず対処に明け暮れているから。
周囲の人間の課題まで、ギョーカイの障害者を食い物にする卑しい心まで、障害特性に乗っけるなよ、と思います。


建物を青くして、それで生きづらさが減るのなら、それこそ、トンデモです。
青い光に障害を癒す効果があるというのなら、それこそ、オカルトです。
治そうと思う人達が治っていく。
治そうと思わない人達が治っていかない。
相手の主張をやってみた上で否定するだけの根性がなければ、口を出さないのが社会人としての最低限のマナーですね。

2019年2月24日日曜日

「治らない」を証明したいのなら、刺激と栄養を満たしてから言ってくださいな

神経発達障害なのだから、神経を育てていけばいいのです。
神経が欠損しているわけではなく、その伸び方、スピードに課題があるのですから。
神経自体の問題じゃなくて、神経の育ち方の問題。
そう考えると、治っていくことが道理に合います。
いくら権威が言おうとも、真理は変えることができません。


神経が育つための条件は、刺激と栄養です。
いくら良い刺激を受けていたとしても、神経の基であるタンパク質、育つための栄養が足りなければ、育っていきません。
反対に、栄養が満ち足りていたとしても、刺激が限られていたり、バリエーションの乏しい単一の刺激だったりすると、育っていきません。


「快食快眠快便が整うと、発達が加速する」
今のように、栄養について情報を得る前も、こういったヒトとしての生活が発達、成長のための前提になることは知られていました。
ですから、いまだに偏食をそのままにしておく人の意味がわかりません。
偏食は障害特性なのか、脳の機能障害ゆえなのか。


施設で働いていたときも、どんなに重度で、激しい行動障害を持っていた人でも、成長していくにつれて偏食は治っていきました。
もちろん、どうしても食べられない物は一つや二つありましたが、思春期くらいになると、なんでも食べるようになります。
入所時、「激しい偏食」「〇〇しか食べません」という子ども達も大勢いましたが、形態や量、食べ方を工夫すると、他にも食べられるものがたくさんあるわけです。
つまり、偏食のほとんどは経験不足。
結局、同じものしか食べさせてこなかったから、大人の方が「これしか食べない」と思いこんでいるから、食べないだけ。


「偏食を治すのは可哀想だ」「偏食も自閉症ゆえだ」
と言われることもありました。
でも、その子の人生を考えたとき、食べられるものが限られている方が、ずっと可哀想です。
しかも、栄養の偏りが心身の傾向と、発達、成長に影響を及ぼすのは当たり前。
特に、内臓系にも発達の遅れが出る子ども達なのですから、私達が想像している以上に、偏食のある子ども達の栄養状態は悪いと考えられます。
吸収率が悪いのなら、同世代の子ども達以上に、たくさんの栄養素を摂り入れる必要があると思いませんかね。


だいたい「発達障害は治らない」という人に限って、子どもを見れば偏食持ち。
食事、食べるという生命の根源に関わる部分すら、試行錯誤をしないのですから、治るわけはないのです。
第一、栄養が足りないのだから、神経発達が鈍くなるのは当然の結果。
栄養素が乏しければ、生命を維持する働きに使うだけで終わってしまう。
神経発達よりも、生命維持が優先されれば、変化は起きない。
変化は起きないから「治らない」
からの配慮と支援で、変化は起きずの無限ループ。


偏食を治さないのは、どうぞご自由に、と思います。
でも、不思議なのは、偏食を治さない上に、プロティンやサプリを否定する人達。
えっ、子ども大丈夫?障害云々の前に、成長期の子どもが栄養不足だとマズくない??
偏食ゆえに、食べられるものが限られているからこそ、プロティンやサプリに頼るんじゃないの。
プロティンやサプリを積極的に活用する人は、偏食もそのままにしておかないし、日頃の食事もとても気を使っている。
反対に、プロティンやサプリを否定する人は、偏食そのまま、食べられるものだけを食べさせるだけ。


こうして考えると、「治る」と言う人が治って、「治らない」と言う人が治らないのは当然なのです。
「治らない」と言う人は、刺激と栄養が乏しいのですから。
偏食だけではなく、全般的に刺激を統制。
神経発達に必要な刺激と栄養を与えていないのですから、治るわけがないのです。
だから、こういった人が「治らないぞ~」と言っても、「そりゃそうですね」としか言いようがない。
本当に「治らない」を証明するのなら、刺激も、栄養も、たっぷり与えた上で治らないを見せるしかありませんね。


支援や療育、発達援助は、それなりの知識と試行錯誤が必要だと思います。
でも、偏食、つまり、食事は、どの親でも行う最初で、基本的な試行錯誤だと思うのです。
赤ちゃんが母乳、ミルクから離乳食へと移行していく。
その際、温度や固さ、見た目を工夫して、少しずつ食べられるものを増やしていく。
そういった親として最初に行う試行錯誤。
そこを省いて、そこを「障害だからね」という言葉で片づけて良いのだろうかと思います。
まあ、「治らない」と言いたいのなら、まずは刺激と栄養を整えてから、快食快眠快便を整えてからお越しください、と言いたいですね。

2019年2月23日土曜日

意図的に刺激の量をアンバランスに

「長所を伸ばすか、短所を無くすか」というのは、よく話題になります。
もちろん、その子の持つ長所を活かし、伸ばし、育んでいくことは大事だと思います。
じゃあ、短所はどうするのか、そのままで良いのでしょうか。
長所を伸ばす一辺倒の育み方で良いのでしょうか。


私は、初めて子どもさんとお会いするとき、「バランスが悪いな」と感じることがあります。
それは、表面に見える身体的なバランス、左右差だけではなく、認知や能力、育ち方全般についてのバランスの悪さです。
「このままの状態で成長していくと、ますますバランスが崩れてしまう」
そんな風に感じるとき、私は長所を伸ばすことよりも、短所を無くしていく、弱い部分を育んでいく方の大切さを伝えるようにしています。


発達障害の子どもに対し、「能(脳)力の凸凹」という表現がなされます。
そして、今までの特別支援教育は、ずっと凸の部分をどう活かしていくか、伸ばしていくか、だったような気がします。
別の言い方をすれば、凹の部分は配慮と支援、教育の対象ではなかったような感じです。
しかし、この既存の長所を活かす特別支援では、なかなか自立できない、仕事ができない、続かない、という現実があるように思えます。


ハナから凹の部分は配慮と支援前提で教育がなされているので、当然、自立するのは難しくなります。
でも、それ以上に、凹の部分をそのままにしておくのは、大きくバランスを崩す結果になると思うのです。
認知は高いけれども、社会性が乏しい。
十分働くだけの能力はあるのに、継続性、コツコツ積み重ねていくことが難しい。
多彩な表現、語彙力をもっているのに、相手の視点を想像できない。
こういったアンバランスさは、ある一面を見れば、「働けるのに」「一人で生活できそうなのに」となりますが、「でも…」があとに続いてしまいます。
こういう若者、成人は少なくないと思います。


私は、長所を伸ばすのは、大事な育みだと思います。
しかし、タイミングによっては、それよりも、短所を無くしていく方に重点を置く時期があると考えています。
「いまの時期は、凸の部分は刺激せず、凹の部分のみを刺激する」というようなこともあり得ます。


結局、凸凹がある子ども達は、その凸凹、バランスの悪さが生きづらさの原因になっているように思えます。
もし、能力が高くても、低くても、全体的に揃っていれば、本人的にはそこまで生きづらさにはならないと思います。
そして何よりも、同じペースで、どの能力も共に成長していける感じがします。
大学に行けるような能力を持った人でも働くことが難しい人が大勢います。
一方で、能力的には大学に行けるような力はないけれども、こつこつと地道に働き、自立している若者たちがいます。
私も、若者、成人した人達と関わることがありますが、能力云々よりも、バランスの良さ、全体的な発達、成長、積み重ねがある人の方が、仕事も、生活も、安定し、うまくいっている印象を受けるのが正直なところです。


学生時代の講義では、「障害を持った人の長所を伸ばし、活かす教育と社会」というような内容を散々教わりました。
でも、今思い返してみると、結局、短所に切り込むだけのアイディアも、知見もなかっただけのことのような気がします。
長所を活かせる社会とは、社会が、本人以外が相当カバーしないといけない社会だといえます。
それに、本人の側でも短所が残り続ければ、それが足を引っ張り続けることになるはずです。
短所、凹の部分は、社会、他人が担うには大き過ぎ、自分で担うにはリスクがあり過ぎる。


そして第一、ここが一番の問題ですが、「長所」「長所」と騒ぐわりには、身を立てるだけの武器まで磨かれていない。
結局、絶対評価ではなく、相対評価。
その人の中で、「ここは良いよね。マシだね」というようなところが、「素晴らしい長所」「活かすべき長所」ともてはやされているような場合も少なくないと思います。
申し訳ないですが、色と色のマッチングできる力で就職できるような場所はありません。
ネジ回しがいくら早くても、正確に箱折ができたとしても、独創的な絵が描けたとしても、それだけでは仕事に活かせる能力だとはいえません。
なんだか、そういった部分までも、親を喜ばすための接待の道具にされているような感じがして、個人的には嫌な気持ちになります。


発達の凸凹で苦しんでいる子ども達に対し、凸の部分だけに注目した育みとは、どうなんだろうと思います。
発達のヌケは埋め直した方がラクになり、根本からの全体的な成長に繋がるのと同じように、能力の凸凹も、凹を重点的に育み、バランスの良い全体的な成長を目指した方が良いと考えています。
敢えて、凸には触れず、刺激せず、重点的にヌケや凹を刺激し、育むという視点があって良いはずです。
実際、意図的に刺激の量をアンバランスにした結果、凸凹がなだらかになり、そこから一気に育っていった子どもさんもいます。


「なんだか、バランスが悪いな」「このままいくと、バランスがもっと崩れるな」と感じた方に対しては、敢えて刺激をアンバランスにする。
凸凹の凸、長所だけではなく、凹、短所を刺激し、育んでいくことが、時期によっては最優先すべきこともあると私は考えています。

2019年2月19日火曜日

『脳の機能障害』の時代でも治していた人

食事で、栄養で、「発達障害が良くなるわけはない」「治るはずはない」と言う人もいます。
当然、捉え方、考え方は、人それぞれで、こういう人は、食事をただのエネルギー補給にくらいしか考えていないのだろう、と思います。
ガソリンと車、電気と電子機械のような関係性ですかね。
栄養は、人を動かすエネルギーにすぎない。
そういった直線的で、シンプルな考えしか浮かばない人には、生命、発達、ヒトという流動的で複雑系なものとは相性が悪いのでしょう。


「発達障害」とは、一言で言い表すことのできない概念です。
同じ障害名だろうとも、一人ひとりが異なっていて、また、同じ人の中でも日々変化を続けています。
常に流動的で変化が起きている状態、まったく同じ状態が人と人との間にも、その個人の内側においても起こり得ない状態。
まさに、その状態こそが、神経発達障害と言われる所以だろうと思うのです。


発達障害は、複雑な神経の状態像です。
ある意味、掴みどころのないものだといえます。
だからこそ、なおのこと、その掴みどころのないものを「どう掴むか」が問われるのだと思います。
その複雑な概念に対し、掴もうと手を伸ばせるかどうかで、見え方と行動、そして未来が変わってくるのです。


「神経発達障害」と聞いて、『神経』に手を伸ばすか、『発達障害』に手を伸ばすか。
神経は複雑で、掴まえづらいもの。
でも、その複雑な状態の中には、変化があります。
変化、つまり、変わる可能性、息吹を感じられる人が、より良く育んでいこう、治っていくはずだと信じて疑わない人だといえます。


一方で、シンプルにしか物事を捉えれない人、複雑なものに手を出す余白がない人は、変化のない固定したものへ意識が向いていきます。
障害=変わらないもの、という捉え方は、省エネ。
いや、そもそも複雑で、常に変化が生じている生命、発達、ヒトに対して、シンプルな概念を持ってこないと対処できないくらい心身共に枯渇している人ともいえます。
ですから、「発達障害は障害だから治らない」のではなくて、その人の変化、可能性に目を向けられるだけの力がない、結果として治らない、のだと思います。


「神経発達障害」と言われる前は、脳の機能障害と言われていました。
でも、そのときだって、「脳」に注目し、手を伸ばしていた人達がいました。
脳には可塑性がある。
事故や病気で不随になった人だって、リハビリによって機能が回復したじゃないか。
だったら、“脳”の機能障害なんだから、刺激や行動によって改善したり、治ったりすることがあって当然だ。
そんな風に、変化する力に注目し、大切にしてきた人は、時代に関わらず、治ったし、治したのです。


発達障害を、変化のない一つの固定した状態だと捉えている人は、いつまで経っても治らないし、治る意味を理解できないでしょう。
神経細胞は、タンパク質でできていて、その合成、代謝には、様々な栄養素が関わっています。
だったら、食事、栄養がまったく影響ががない、改善、発達につながらないなんて、その考え方自体が反対に「トンデモ」だといえます。
感覚過敏というのは、脳に機能障害があるから生じているのでしょうか。
夜寝られないのは、脳に機能障害があるから生じているのでしょうか。
冬から春に変わるとき、崩れてしまうのは、脳に機能障害があるから生じているのでしょうか。


感覚過敏も、睡眠障害も、季節の変化に弱いのも、全部、機能障害であって、固定されたもの??
細かく見れば、受け入れられる感覚、刺激だってある。
いつも寝られないんじゃなくて、生まれたときから今までずっと寝られないんじゃなくて、寝られたときもあったはず。
赤ちゃんのとき、季節が変わるたびに崩れていたでしょうか。
このように状態像が変わるということは、それ自体が固定されたものではないという証明になります。


「障害は、個人に存在するのではなく、個人と社会、環境の間に存在する」というようなことが言われます。
しかし、発達障害に関して言えば、障害はその人の内側に存在し、障害という壁を作っているのは、障害が固定されたものであると捉えている周囲の人間だと、私は思います。
障害、つまり、神経に何らかの原因が存在する。
でも、神経だからこそ、変化を促したり、後押ししたりすることができる。
だって、神経は流動的で変化するものだから。
その変化に気づけない、理解できない人間が、「あなたは障害だから」と言って、目の前にいる人の変化、発達、成長の芽を摘み、その人自体を固定化させてしまうのです。
そういった意味で、固定された概念でしか考えられない周囲の人間が、発達障害の人と社会との間に壁を築いてしまっているのだと思うのです。

2019年2月18日月曜日

施設利用の待機中

施設利用の「待機中」という言葉を聞くと、今でも悲しみの感情が溢れてきます。
それは施設を利用しなければならない事実に対してではなく、健気に待機しているその姿勢に。


学生時代、高校年代くらいになると、「どの施設にしようか」「そろそろ利用希望を出して、待機者名簿に載せてもらおうか」なんていう話を、親御さんの口からよく聞いたものです。
私は、15歳そこらで生活の場、もしかしたら、生涯そこにいるかもしれない施設を決めなくてはならないということに衝撃を受けました。
「この子達には、生涯の支援が必要だ」と、私も信じていた頃です。


成人した方の親御さん達は、「あと何人待ち」「あと何十人待ち」などと言っていました。
入所できずに待機している時間が長くなると、親御さんも不安になります。
ですから、みなさん、定期的に施設に電話し、「今、何番目でしょうか?」と確認していました。
中には、一向に順番が変わらない人もいて、その親御さんは「新しい施設ができたら、優先して入れてくれるって約束を取り付けた」というような方もいらっしゃいました。


学生時代に、こういった話を見聞きしていましたので、施設の待機者名簿に載せる=順番待ちをしている、と私も思っていました。
しかし、その順番待ちに落とし穴があったのです。
確かに、順番は待っているのですが、その順番は、利用希望を出した順ではない。
つまり、施設利用を希望し、待機している人の名簿に載るが、空きが出たら、上から順に「利用どうですか?」と声がかかるのではなくて、その待機者名簿の中から施設側が声を掛けるということ。
あくまで待機者名簿に載るだけであり、早ければ早いほうが先に入れる、長く待てばいつか入れるというものではないのです。


措置制度から契約制度に変わり、本人(家族)と施設は対等な関係になりました。
でも、実際は、選べるだけの施設があれば、「対等」になれるのでしょうが、利用したい人が多くて、施設が少ない状態ですので、力関係ができるのです。
いくら本人、家族が「利用したい」と言っても、それに応えれるだけの施設数も、支援者もいません。
措置時代は、行政が決め、それに従うだけの施設に「断る」という選択肢ができたのです。
そして、「断る」だけではなく、「選ぶ」という選択肢も。


学生時代から知っている方達が、まだ施設に入れず、待機中です。
親御さん達は、まだか、まだか、と今も待ち続けている。
当時、支援者たちが言っていた「この子達には、生涯の支援が必要です」「支援を受け続けることが、生活の質、人生を豊かにするのです」と言葉を信じ、支援を受けることを求め、そのために尽力されてきた親御さん達。
泣く泣く高校年代の我が子の人生を「施設での生活」と決めたのに、まだ待機者名簿の中。


こういった方達がいるのに、施設に空きが出れば、すぐに入所者は決まります。
しかも、若い世代の人が選ばれる。
何故なら、長く利用してくれるから。
そして、今の若い世代の人達は、知的障害を伴わない人でも、「障害者」として利用できるから。
端的に言えば、若くて、より軽度の人が選ばれる。


福祉で働いていた人間だからこそ、私は思うのです。
本当に必要な人にこそ、福祉の手を。
本当に困っている人が、安心して利用できる福祉を。
だけれども、措置から契約制度に変わり、福祉がサービス、事業の一つになったのです。


私が経験したこと、見てきた世界は、特殊で狭い世界だと思います。
でも、今を生きる子ども達、親御さん達の中に、同じような思いをする人が出ないとも限りません。
そして何よりも、こういった制度の変化、社会の変化、他人の意思や意向が入る余地のものを無条件に信じ続けるより、確実なもの、大切なものがあるのです。
それは、その子自身をしっかり育てること。
どんな変化が起きようとも、どんな未来がやってこようとも、踏みとどまれる土台と、何度も起き上がることのできる身体です。


「治るって言ったって、軽度の人達の話でしょ」などという人もいます。
でも、「軽度だから治る」というわけではありませんし、重度なら発達のヌケを埋めることも、自立を目指して発達、成長の後押しをすることも無駄だということはありません。
たとえ、福祉を利用することがあったとしても、主導権を奪われず、主体的に選択することができるのです。
「この子は福祉しかない、入所施設しかない」というような考え方ではなく、将来の可能性、選択肢を広げるために、またそれらを主体的に選んでいけるように、子育てを、子どもの発達の後押しをしてもらいたいと願っています。
支援者は、その子の人生まで、責任を持たないのですから。

2019年2月17日日曜日

私達は未来を生きている

「支援があればー」と言っていた人達から見れば、各都道府県に発達支援センターができましたし、政令指定都市、市町村の中にも、相談できる機関ができました。
それに「放課後の過ごし方がー」と、つい15年前くらいまでは言われていたのに、今は知的障害を伴わなくても、児童デイが利用できます。
しかも、学校まで迎えに来てくれて、帰りは送ってもくれる。
「支援者の専門性がー」というのだって、各団体や欧米の大学から資格や認定を受けている支援者が多くなり、明らかに養護学校時代の支援者、教員よりも質も、専門性も向上しているといえます。


情報だって、今、書店に行けば、特別支援コーナーが大々的に設けられているだけでなく、発達障害単独の棚ができ、そこに何百冊もの本が並んでいます。
私が学生時代は、学ぼうと思っても、手に入る書籍は、決められた出版社の決められた顔ぶれが書いたものばかりでした。
今で言えば、ギョーカイ大本営からの声明文みたいな。
そういった限られた情報、専門書を何度も読み直し、日々の実践、関わりの中の答え、アイディアを得ようとしたものです。


当時は、発達障害、自閉症の診断がつけば、親御さんのほとんどは、協会や親の会に入ったものです。
そうやって入ることでしか、情報を得る機会がなかったから。
圧倒的な情報差が、支援者(ギョーカイ)と親御さんにはありました。
だから、平日も、土日も関係なく、無償の奉仕もしたし、講演会のサクラにもなった。
お金も、時間も、労力も、捧げることで、支援者が持っている情報と交換しようとした。
また支援機関、支援者も限られていたため、つながっていること、気にいられることが情報と支援を受けることとイコールになっていたような気がします。


こうやって特別支援の前後を生きていた世代、そのとき、懸命に子育てをされていた親御さん達からすれば、今は、当時の人たちが目指していた未来であり、望んでいた未来だといえます。
そこを私達は生きているのです。
今は、親の会に入らなくても、支援者に気にいられようとしなくても、自らの行動と選択で情報を得ることができます。
大本営以外の書籍もたくさん出ていますし、ネットを使えば、先輩たちや同世代で子育てをしている親御さん達とつながれますし、ブログやツイッターだって読むことができます。
特別支援の世界の外にある有益な情報、知見、非組合員の専門家、実践家ともつながることができます。


圧倒的な情報さと限られた支援の時代は、主が支援者であり、従が本人、家族でありました。
でも、今は違います。
誰でも情報にアクセスできるようになり、支援だって公的、民間関わらず、自由に求められるようになったのです。
私は今の当事者、家族を見て思います。
支援者への従からの脱却、つまり、支援者が奪っていた主体性を取り戻し、いびつな関係性をぶっ壊せたことこそが、特別支援が始まって20年弱で得た一番の成果ではないか、と。


せっかく主体的に情報と支援を選べる時代になり、そこを今、生きているのです。
しかも、冷蔵庫マザー、脳の機能障害の時代を経て、神経発達障害の時代になったのです。
機能に対しては、支援と配慮が中心。
でも、神経だったら、支援と配慮の前に、『育む』がきます。


支援や配慮、理解を求める時代から、育んでいける時代への変化。
求める対象は、常に外側にありました。
しかし、今は内側にある。
神経は、その人の内側に存在します。
その神経を育てるのは、誰でしょうか。
そうです、本人であり、本人が生活している環境、生きてきた道です。
支援者でも、専門家でも、療育機関でもないのです。


このような主体性を発揮できる時代を生きているのに、いまだに支援者、専門家の顔色を伺うのなら、それは愛着形成に課題があるといえるでしょう。
子ども時代、常に親の顔色を伺って生きてきた人が、親と専門家、権威を重ね合わせて顔色を伺う。
専門家との圧倒的な差があった時代は止むを得ず顔色を伺っていた。
でも、今は愛着という土台に弱さがある人のみが、専門家の顔を伺うのです。


未来を生きる私達は、今を謳歌しないといけません。
主体的に、自分の選択と行動によって、子どもを育み、神経発達を促し治していける時代。
治せない専門家、養護学校時代の機能障害を未だに使い続けている専門家に、「バカ野郎~」「必要なし!」と思いっきり言えるのです。
ちゃんと結果と成果で判断できる。
だったら、ちゃんと断捨離をする。
使えない支援、いらない支援には、はっきり「No」をつきつける。
負の遺産を未来の子ども達、親御さん達に残さないのが、今を生きる私たちの役目。


支援を求め、勝ち取る前世代。
負の遺産をきちんと処分する現世代。
治すことと、「No」と明確に表明することが、より良い未来を築く原動力になるのだと私は思います。

2019年2月16日土曜日

そんなに良い方法と、エビデンスがあるというのなら、実際にやっておくんなまし

強度行動障害に対する支援について講演したり、指導したりする人の中で、どれくらいの人間が実際に支援したことがあるのでしょうかね。
私も、研修としてそういった類の講演会やワークショップに参加したことがありますが、「だったら、うちの施設に来て、同じことやってみればいいじゃん」「それで問題行動が収まり、安定するなら、是非やってみてくださいよ」と思うことばかりでした。


人が側を通っただけで、手足、噛みつきが出る人に対して、攻撃が出なかったら、おやつをあげる!?(いやいや、おやつを持っていくだけで、攻撃されるから)
壊せるものはすべて破壊する人に対して、構造化して刺激を減らす!?(いやいや、すでにモノは置けない状況で、部屋には何もないよ)
夜寝れなくて一晩中興奮状態の人に対して、寝る時間をスケジュールで提示する!?(いやいや、寝る時間が分からないんじゃなくて、寝れないことが問題だから)


コンサルテーションで有名支援者が来ることもありましたが、すべて教科書通りの机上の空論。
だって、実際に本人を見ないから、怖いからって。
ていうか、実際に指導しているところを見たことがない。
まあ、そんなもんです。
口では何とでも言えます。
だから、現場にいた職員はみんな、コンサルも、研修も、冷めまくっていました。
自分たち以上に、強度行動障害の人と関わっている人間がいない、って。


こういった経験をしてきましたので、私は実践できる人、結果を出せる人しか、信じません。
ね、エラソーに講演している人、資格を与える立場の人が、現場経験がなかったり、問題に対処できなかったりするんですから。
そんなに素晴らしい技法で、エビデンスがあるのなら、目の前の人で、その素晴らしさ、エビデンスを見せてくれって思うのです。


有名支援者の元で指導を受けている、発達障害専門医に定期的に通っている。
それで良くならないのなら、やり方が悪いか、その人に合っていないか、でしょ。
そんなところに通い続けるのは、別の方法、人を探すだけのエネルギーが脳みそ的にも、身体的にもない人だってこと。
つまり、子どもなら、そんなところに通わせ続けられること、より良い道を探してもらえないことが可哀想で仕方がない。
だって、自分の選択ではないから。
大人だったら、治らない支援者、事業所を頼るのは自己責任になる。


結果が出ないところに通うのは、趣味嗜好のレベル。
「何言ってるんだ、良くならないんじゃなくて、変わらないのが障害なんだ」と言う人もいますが、どうせ変わらないのに、通い続けている方が意味不明です。
結局、当事者の人なら自分を客観的に見る力や、身体の感覚が育っていなくて掴めていないだけ。
だから、結果や効果よりも、肩書やブランドで判断せざるを得ない。
親御さんなら、しっかり子どもを見ていない、その一言に尽きます。
良くならない、変わっていかない我が子を見て、「それが障害だから」と思えるのなら、親心を捨てたか、そう思い込もうと自分自身を騙し続けているのでしょう。
「うちの地域には、よい支援者、施設がない」
江戸時代で脱藩するわけじゃないんだから、ネットもあるし、それは別の選択肢を探すだけの力がない自分を隠すための言い訳。


強度行動障害の人へ支援について指導している人が、全国の施設や学校、家庭を巡って、片っ端から治していけばいいのです。
そしたら、全国からお金をかけて集まる必要もないし、資格の習得、更新に何万も、何十万も払わなくてもいいですね。
そんな伝わるかどうかわからない言葉や知識よりも、講師の先生方が全国を回って、その場で治していく方が、当事者、家族、施設共に救われます、でも、実際に治せたら、ですけれども。


私は、その人の肩書や所属よりも、その人が過去に何をしてきたか、そして今、どんなことをしているか、その行動のみを見て、判断するようにしています。
ですから、治せない医師、実践したところを見たことがない有名支援者よりも、子どもの発達のヌケを埋め、遅れを取り戻し、治している親御さんをリスペクトしますし、学ばせていただきたいと思っています。


肩書や権威が支援の質の保証にならないことは嫌と言うほど、見てきました。
でも、そういった経験だけではなく、自分にはそれに気づくだけの脳みその余裕と察する感覚が育っている。
逆に言えば、脳みそ、身体に余裕と育ちがなければ、肩書や権威などでしか判断できないのだと思います。


よく「トンデモだ」などと言う人がいますが、トンデモかどうかは、やってみないと実際はわからないのです。
やらずにそういった言葉が出てしまうというのは、「私には、新しい知見を試すだけの余裕がありません」と言っているようなもの。
だから、そんな人の意見は聞くだけ無駄。
やったことがないのに、その文字や情報だけで「トンデモ」と判断しちゃう人の方がトンデモ。


ちなみに私は、構造化も、ABAも、SSTも、勉強しましたし、研修も、トレーニングも受けて資格も持っています。
そうやって学び、トレーニングを受け、実践し続けてきたからこそ、今、言葉以前のアプローチがベストだと考えていますし、それを核に仕事をしています。
だって、実践し、成果を出すことが、支援者として唯一の存在意義なのですから。

2019年2月12日火曜日

発達過程に注目しないんだったら、そりゃあ、治せないよね

うちの上の子は、ハイハイをちょっとやっただけで、すぐにつかまり立ちをしました。
つかまり立ち以降も、立ったかと思ったら、すぐに歩き出しました。
そんな我が子の姿を見て、「この子は、運動神経が良いのかもしれない」なんて思い、親バカになったものです。


でも、その親バカ期間はすぐに終わりを迎えました。
歩いている様子が、どうもぎこちがない。
なんだか、無理して歩いているような気がしたんですね。
「ああ、この子は、運動神経が良いんじゃなくて、次々と発達の階段を駆け上っているだけ」
だから、こりゃあ、マズイなと思い、ハイハイや足の指を使う遊びをやったり、素足で公園や砂浜で遊んだり、運動発達を中心に置いた保育園に通わせたりもしました。
今思えば、ハイハイという発達段階が抜けていたのでしょうし、その前の寝返りの仕方、身体の使い方が違ったのでしょう。
そのヌケが埋まってからは、まさに足元、土台からしっかりしたように感じます。


私は発達に関わる仕事をしていましたし、人類の進化なども興味がありました。
ですから、直感的にマズイなと思ったのを、知識と経験が確信まで後押しできたように思えます。
でも、このマズさは、医師や保健師さんには、なかなか伝わらなかったのです。
むしろ、「ちゃんと立って、歩いているから問題ないでしょ」「近頃、ハイハイを飛ばす子が多いから、それもその子のペース、個性かもしれませんね」といった具合です。


たまたま私が上の子のときに出会った人たちが、そういった考えだったのかもしれません。
しかし、「歩ければ、問題ない」「言葉が出てれば、問題ない」といったように、その子の歩んだ発達のプロセスよりも、結果のみにしか注目していないような発言をする人は、少なくないように感じます。


確かに、歩けなかったら、言葉が出なかったら、障害や病気が疑われます。
だけれども、どの時代の、どの国の赤ちゃんも、胎児期と乳幼児期に進化の過程を辿るのです。
人類が始まって、700万年くらい。
その700万年間、脈々と続いていた進化の過程を辿るという発達の流れが、「近頃、多いのよ」「この子の個性かもね」などという軽い表現で当てはまるわけがありません。
人類の歴史から見れば、10年、20年で人に変化が起きるわけはないのですから。


赤ちゃんが歩けるようになるのは、素晴らしいことであり、成長の証だといえます。
でも、その歩き方こそ、注目すべき点だと思うのです。
ちゃんと指で地面を掴んで歩いているか。
ちゃんと身体の軸を中心に歩いているか。
ちゃんと腰が安定して歩いているか。
つまり、歩いている結果ではなく、歩くに至る過程こそ、注視すべきだということです。


私が上の子のときに出会い、感じたように、意外にも専門家と呼ばれる人は、過程を重視していないし、気にしていないこともあります。
そりゃあ、結果だけに注目して、「歩いているから問題ない」と言ってしまうような専門家には、発達障害を治せるわけがないのです。


神経が発達する、まさにそのプロセス、過程に何らかの課題が生じている。
だからこそ、発達障害の子ども達をよりよく育てていくには、そのプロセスに注目し、ヌケている過程があるのなら、そこをやりなおし、埋めていくことが必要になります。
そういった意味で、やっぱり発達障害を治すのは、家庭であり、親御さんだといえるのです。
家庭には過程があり、その過程を見ている親御さんがいるから。


週に1回、数か月に1回しか会わない人には、神経発達のプロセスを見ることができません。
見えるのは、歩いているか、言葉が出ているか、といったような結果のみ。
ですから、専門家を過度に頼る必要はなく、その言動に一喜一憂する必要などないのです。
だって、その診察室で、施設で見えた結果のみからの言動だから。
結果は見ればわかるのですから、むしろ、毎日、見ている親御さんの方が詳しいのですから。
親御さんには、「この子の発達のプロセスを一番見ているのは私です!」という想いで、主体的にどんどん治していってもらいたいと思っています。

2019年2月3日日曜日

子ども達の持つ発達する力を信じることから始める

先日の『カンブリア宮殿』では、インフルエンザの新薬が紹介されていました。
すでに耐性菌の話も出てはいますが、従来のタミフルと比べて効きがよく、しかも1回の服用のみで良いそうです。
この薬のおかげで、うなされる期間が短くなり、助かる人も大勢いるのだと思います。
こういった薬を研究し、世に送りだしている人達の努力の結晶が、私達の健康を後押ししているように感じます。


私は、親御さんに対して発達援助を説明する際、医療行為に例え、お伝えすることがあります。
たとえば、発熱があったとき、病院に行くとします。
そうすると、そこで問診や視診、触診などが行われ、「これは風邪だ」「インフルエンザが疑われる」「溶連菌だろう」と見たてが行われる。
そして、多くの場合、薬が処方され、「水分を小まめにとって、寝ていれば治ります」と助言がされます。
2,3日も安静にしていれば、自然と快方に向かい、元気になる。
じゃあ、この場合、治したのは医師なのでしょうか?


医師は、見たて、または検査を行い、原因を特定する。
薬を処方し、助言や注意事項を伝える。
でも、実際に病気を治したのは医師ではありません。
医師に病気を治す力はありません。
治したのは、他でもなく、自分自身。
自分の体内にある免疫細胞と自然治癒力の発露により、健康を取り戻したのです。


身体に傷ができたとき、その傷口を縫うことがあります。
人はぬいぐるみではありませんので、傷口を縫うのは、自然治癒力を発揮しやすいように後押しする行為だといえます。
傷口をくっつけるのは、自分の細胞です。


つまり、発達援助というのは、その子の内側にある自然治癒力、この場合で言えば、発達する力が発揮できるような後押しをすることです。
そのために、栄養面からサポートする、睡眠や生活を整える、伸び悩んでいる根っことなっている発達のヌケを育てる、学びやすい環境を準備する。
これらはすべて、子ども自身が持つ伸びる力を強めるための補助です。
いくら頑張っても、他人がその子の発達を行うことはできないのです。


親を含め、他人ができることは、上記のたとえに出てきた医師と同じです。
見立てと助言、技術転移です。
本当の医師には薬の処方もできます。
なので、子育てを行っていく中で、他人の力を借りる場合には、どの部分をサポートしてもらうか、という明確な意図が必要になります。
見たてなのか、助言なのか、技術転移なのか、薬なのか。
これは別の言い方をすれば、この4つ以外は、子どもの発達とは関係ない部分のサポートということです。


支援、介助は、発達を促しているわけではありません。
環境調整したり、SSTをしたり、建物を青くしたり、「理解ガー」と社会に訴えたりするのも。
本人の自然治癒力、発達する力を後押しするものではないからです。
本人の内側ではなく、外側からの、外側へのアプローチ。
ガンについて啓発することや、ガンと闘っている人も働けるような仕組みにしていくことは大事なサポートですが、直接、ガンを治すわけではないのと一緒です。


発達障害の子ども達は、病気をしているわけではありません。
彼らにこそ、必要なのは、彼らが持っている発達する力を十分に発揮できるような後押しだといえます。
ですから、彼らにとって、また親御さんにとっても、必要な存在とは、正しく、広い視点から見たてを行ってくれる人、具体的で、かつ、自分たちで実践できるアイディアを教えてくれる人だと思います。
そういった知見を持った人から学び、最終的には本人自ら発達する力を存分に発揮していけるようにすること。
それが自立につながっていき、主体的に、向上しながら自分の人生を歩んでいくことになるといえます。


発達障害の入り口が医療であったり、「専門家と私」というような図式を感じてしまいますと、どうしても受け身で、自分には何もできないような気がしてしまうものです。
しかし、発達障害は、神経発達の障害です。
神経に病気があって、そこを薬や手術で治療するわけではありません。
ましてや、神経の傷口を縫ったり、悪い部分を取ったりするなんてこともありません。
必要なのは、神経発達を促していくこと。
その神経を発達させる力は、その人自身に、内側に存在するのです。


だったら、発達を後押しする行為、人間に上下、優先順位などありません。
あるのは、本人の発達する力を後押しできているかどうか、ただ一点のみです。
でも、その前に、本人の内側にある発達する力、自然治癒力を信じている人かどうかは重要になります。
最初から、「治らない」なんて言っている人は、目の前にいる人の発達する力を信じていない証拠です。
信じていないからこそ、親御さんや社会、後付けの知識など、外からのアプローチに終始するわけです。


どんなに重い症状をもった子でも、たくさんの発達のヌケ、遅れを抱えた子でも、みんな、その子自身に伸びようとする力、発達しようとする力を持っているのです。
ですから、私達は、まず何よりも、子ども達の持つ発達する力を信じること。
そこから始めて、少しずつ必要な知見、人を集めていき、最終的には子ども自身で発達する力を発揮し、人生を主体的に成長して生きていけることを目指すのが重要だと思います。

2019年2月1日金曜日

「IQは変化しない」という迷信、言い伝え、民話?

知的障害の状態が変化するのは当たり前。
「IQが変わらない」というのは迷信であり、(子どもではなく)大人を慰めるためのもの。
幼児期に「知的障害あり」「重度です」なんていうのは、ああそうですか、今はまだ発達のヌケがあるもんね、くらいで良いのです。


発達のヌケが埋まれば、知的障害の状態が良い方に変わっていくのは自然なこと。
「快食、快眠、快便を整えた」「発達のヌケは、育て直した」「学習の土台、愛着の土台はしっかり育てることができた」「環境を整え、本人が学習できる体制を整えた上で、何年も学びを積み重ねてきた」、それでも、やっぱり知的に障害があるよね、やっぱり中度くらいだね、というのなら、「知的障害がある人」「その部分で配慮や支援が必要な人」となるでしょう。


言葉に遅れがあるから受診する。
そうすれば、知的障害が付くのは当たり前。
でも、それって、一生涯、この子は「知的障害である」ということにはなりませんね。
言葉が遅れて知的障害なら、言葉の遅れを取り戻せば、知的障害だって変わってくる。
結局、言葉の遅れ以外にも、遅れをそのままにしているから、最初についた知的障害のまま。


私が学生の頃は、講演会に行けば、「知的障害、IQは維持できていたら、儲けものと思わないといけませんよ、みなさん」と、よく聞きました。
発達のヌケを育てることなく、対処と啓発、お薬だけでは、知的に発達するわけはありませんからね。
そもそも、同世代の人達と比べれば、勉強の時間が圧倒的に少ない特殊学級に、養護学校。
ですから、年齢が上がっていけばいくほど、軽度は中度になり、中度は重度になる。


専門家が対処と啓発、学校が十分な学びの機会を与えられていない。
そりゃあ、なんのための支援、療育だ、学校だ、となる。
その不満を抑えるために、「IQは維持できて儲けもん」「年齢が上がれば、下がるのは当然」という宣伝をギョーカイ人たちはしていたんですね。


というか、「維持できない」「下がって当たり前」と自分たちで言うってことは、「私達は無力です」と言っているようなものです。
そんなグダグダな専門家が専門家ヅラできてたのが、私が学生時代。
あれから15年くらい経ちますが、その間に、何人も、何十人も、IQが変わっていく人達に会いました。
実際に知能検査の結果を見せてもらったこともあります。
私が直接、関わらせてもらったった子ども達、若者たちの中にも、一度、知的障害と診断を受けた子で、標準域に入った子も、手帳を返納した子も、何人もいます。


このように、現実の世界では治っている子ども達、若者たちはたくさんいるんですね。
IQが10、20上がるのだって珍しいことではありません。
就学時、発語なし、最重度だった子は、今、普通の人として一般企業で働いています。
だから、「維持ガー」「下がって当然」とか言っているのは、親御さんに不満を言わせないためのおまじないであり、自分たちが無能なのではなくて、「全部が全部、障害のせいだからね」「IQをあげようと頑張るのではなく、みんなで支援(ギョーカイ)の輪の中に入って暮らそうね」と言っているだけ。


IQが変化するのも、知的障害という診断が適さないくらい発達するのも、親御さん、非組合員(非ギョーカイとも言う)の現場の人達は知っていたわけです。
そして、DSM-5(2013)でも、その状態の変化が記述されるようになった。
ということは、この5年間は何だったのか、ということになります。


アメリカから太平洋を渡る際、この記述は落ちてしまったのでしょうか。
ハワイ辺りに、「知的障害、治るよー」「アスペルガーの人達は働いて暮らしていけるんだよー」というメッセージが落ちているかもしれません。
まあ、冗談ではありますが、この日本の中に嘘つきがいるということだといえます。
でも、私はまだ嘘をついている方が良いくらいだと思うのです。


端的に言えば、バカにされているんですよ、みなさん。
どうせ、一般人にはわからないだろう、親は素人だし、親にも問題があって子育ては難しいくらいなんだから。
そんな発言が、堂々と出版物の中に書かれている。
また、誰も原書なんて読まないだろう、原書より私が言ったことを信じるだろう、正しいと思うだろう、という同じ専門家に対する姿勢の中にも奢りすら感じます。


未だに、「IQは変わらない」「知的障害は治らない」「一度付いた障害が治って、なくなるわけはない」、そんなことを言っている人がいたら、平成という元号と共におさらばする時間となりました。
ギョーカイ内、医療界には上下関係、ムラ社会の掟があるのでしょう。
でも、一般人には、それは通用しません。
その掟を外に持ちだすから、わけがわからなくなる。
そして、そんなムラ社会の掟に従う一般人も、助長させる原因でもありますよ。


IQが変わるのは当たり前。
人は生きているんだし、子は日々発達し、神経発達盛んな時期を過ごしているから。
だから大事なのは、どうやってIQをあげていくか、治していくか、より良く学び、働ける姿を目指していくか。
治る、治らない議論は時間の無駄。
だって、治るんだから、アメリカでも、日本でも。


「治らない」という人は、治す腕のない人か、治った人を見たことがない人か、DSM-5を知らない人。
そして、治ると困る人か、治らないと嘘をついても大丈夫だろうと子ども達、親御さん達、他の支援者を下に見ている人間ですね。
だったら、そういう人とは関わる必要はありません。
治せない人、治す気のない人、子どもの発達する力と親御さんの子育ての力をバカにするような人に用はないのですから。


知的障害を治す知見は、治した親御さんと治せる実践家が持っていますね。
そういった方達の知見からアイディア、発想をもらって、どんどん治していきましょう。
治る可能性は、ギョーカイの外側にある!
だって自分たちで治す気がない、嘘をついてまでも治そうとしないのですから。

2019年1月28日月曜日

運動発達のヌケも世代をまたぐ

ハイハイをやらずに立った子。
実は、その子の親も、赤ちゃんのとき、ハイハイを飛ばしていた、なんてことはよくある話です。
親子2代で、ハイハイを飛ばす。
こういった運動発達に関しても、遺伝が疑われることもあります。
我が子が特徴的なハイハイをしているのを見て、「私もそんな感じだったって聞いたことがある」なんて思いだすことも。


なので、若者たちの相談に乗るときは、将来、親になったとき、自分が飛ばした発達のヌケを同じように子どもも飛ばす可能性があるということを伝えるようにしています。
また、こちらは主に子どもさんの場合ですが、兄弟がいる場合、その兄弟にも、発達援助を見てもらい、どういった理由で何を育てているのか、説明するようにしています。
すると、若者たちも、兄弟児たちも、真剣に聞いてくれます。


もちろん、遺伝的な観点から、お伝えした方が良いと思っている部分もあります。
しかし、それよりもまず知ってもらいたい、頭の片隅にでも治っていくんだ、あとからでも育つんだ、育てていけばいいんだ、ってことを残してもらいたい想いの方が強くあります。
そうすれば、将来、もし子どもが生まれたとき、早く立って歩くことよりも、発達段階を一つずつやりきることが大事だと分かったうえで、子育てをしてくれるかもしれません。
もし、運動発達を飛ばすようなことがあれば、「足りないかも」と感じるようなことがあれば、そこですぐに気づくことができ、発達の後押しができるかもしれません。
そうすれば、以前ブログに書いたように発現する前に治っている、治す時代がやってくるのだと思います。


若者は、自分の発達のヌケを育て直していく過程で、治るを実感し、変わっていく素晴らしさを実感しています。
また兄弟児たちも、間近で兄弟が変わっていく姿、発達、成長してく姿を感じることができています。
彼らが大人になったとき、親になったとき、治ること、育むことの素晴らしさを我が子に、同世代の親たちとその子達に伝えていってほしいと思います。


未来の大人、親たちをイメージしながら今の仕事をすることも、どういった振る舞い、発言をするかも、大事な姿勢であり、役割だと考えています。
それが結果的に、未来の子ども達の発達を後押しすることに繋がるからです。
私は直接、未来の子ども達の援助はできないけれども、今の若者たち、子ども達を通じて後押しすることは可能だと思っています。
今の若者たち、子ども達が、未来の社会を作っていく。
子どもの発達する力を信じ、育んでいける未来には、発達障害という診断名の価値はなくなっていると思いますね。

2019年1月27日日曜日

情報量で優位さを持てなくなった専門家

若い世代の人達とお話をすると、元気が出てきます。
自分の意見をちゃんと持っているし、「絶対に治してみせる」「自立してみせる」「幸せになってやる」、そんな強い気持ちがひしひしと伝わってくるからです。
自分で立てた目標のために、調べ、行動する姿からは、明るい未来、より良い社会を感じることができます。


「ゆとり世代」などと、どちらかといえば、ネガティブな感じで語られることが多い世代ですが、全然そんなことはなく、むしろ、その主体性と行動力は素晴らしく、見習わなければならないと思います。
だいたい、「ゆとり世代」などと言っている人間は、自分が社会からどんどん取り残されていくことを感じていて、その反動として、自分より下の世代を揶揄しているだけですね。
自分の不安を、下の者を想定することで安心しようとする、といった古典的な対処法。
自分が常に向上心を持って成長できているのなら、「〇〇世代」などとクダラナイことを言って、自分を慰める必要はないのです。


今の若者たちも、いずれ結婚し、家族を持つことでしょう。
そういった世代の人達に、発達に遅れのある子どもが生まれたとします。
そのとき、彼らはどういった行動をとるでしょうか。


今の若い親御さん達もそうですが、発達に遅れがあるなしに関わらず、子どもの発達、子育てについてネットで小まめに調べています。
保健師さんが気づく前に、発達障害に気が付いていた親御さんが多くいます。
健診を待たずとも、手元で情報を得られますし、それが当然の環境で育ってきた親御さん達。
情報量だって、ベテラン保健師さんよりも多い可能性だってあるのです。


以前ですと、持っている情報量は、圧倒的に専門家の方が多かったといえます。
だから、論文、原書を平気で誤訳したり、意訳したり、自分の都合の良いように端折ったりしても、大丈夫だった。
だって、一般の人は自分で調べる手段がなかったから。
江戸や明治と一緒。
留学した人達が言ったことを、権威が言ったことを、御上が言ったことを、「ははぁ~」と聞いて、それに従うのが一般庶民であり、ムラ社会で生きる術だった。


しかし、現在は、調べようと思えば、誰だって調べられる社会です。
圧倒的、優位さを持って抑えられていた情報量において、専門家も、素人も、違いはなくなってきました。
むしろ、素人の方が、新しい情報を持っている可能性だってあるのです。
そうなれば、情報を持っているかどうか、つまり、専門的な勉強をした、免許や資格を持っている、だけでは、支持されないし、そこが評価対象、信頼とはつながらなくなったということです。
知識オタクが専門家を名乗れなくなったのです。
知識勝負ではなく、実力勝負。


発達障害に関して言えば、これからますます結果が求められるようになるでしょう。
つまり、行っても行かなくても変わらないところには、誰も通わなくなる。
ただ知識を持っているだけで、「様子を見ましょう」「成長と共によくなりますよ」としか言えない専門家は淘汰されていくはずです。


自分が立てた目標、願いをとことん、どこまでも果てしなく調べ、追及することが身についた人達には、「地元には、良い施設がないけれども、仕方ないから通います」「〇〇ちゃんちが通っているから、うちも」なんてことはあり得ません。
情報はボーダレスなので、地域にこだわる必要はありません。
それに、得た知識を元に行動できる人達ですので、自分で色々やってみようとする。
すると、専門家に頼らずとも、地元の支援機関とつながらずとも、自分たちで治していく人が増えていくでしょう。


みなさんの地域で、でかい顔をしている専門家の姿を思い浮かべてみてください。
その人達は、5年後、10年後、そのままトップでい続けることができるでしょうか。
年齢的なものもそうですし、今の10代、20代の若者たちが親となったとき、その人達のニーズに応えられるようなものを提供できているでしょうか。
その世代の親御さん達に対し、堂々と「治りません」と言えるのか、対処法だけで満足させられるのか、「一緒に建物を青くしましょう」と言えるのか…。


どこの地域とは言いませんが、相変わらず、「治るなんてインチキだ」「あそこを利用したら、うちを利用させないぞ」「文句があるなら、仕事(利用者)を回さないぞ」など言っている。
昭和の任侠映画ですかって感じ。
それにおびえて、「この地域で生きていくなら」「将来的にお世話になるから」と顔色を伺い、同時に親御さん同士で飛び抜けないようにけん制し合っている。
「私も辛いけれども、あなたのうちも辛いのね。だったら、私は安心」


だから私は、若い世代の親御さん達、これからの世代の人達の方を見て、そしてその人達のニーズに応えられることを目指していこうと思っています。
昨年あたりから、2歳、3歳の親御さん達からの相談、援助が増えました。
地域だって、道外ばかり。
自分で良いと思ったものに、どんどん飛び込んでいける親御さん達です。
ですから、若い世代の親御さん達に、家庭での発達の後押しの仕方、育み方をお伝えすることで、どんどん治していく、それこそ、DSM-5で記されているように、『diagnosis is no longer appropriate』な状態にまで育っていくことを目指していくのです。


その地域で治した人がいても、「もともと違った」「軽かった」といえば、一応、抑えられていた時代があったわけです。
でも、今は、一家族が治せば、同じ時代を生きる、いや、未来の子ども達、家族たちの希望にもなれる時代です。
ブログやツイッターなどのSNSで、どんどん発信していけるから。


これから10年も経てば、治った子ども達、大人たちの情報は、今よりもずっとすぐに見つけられる、検索に引っかかるようになるでしょう。
そうなれば、治った子ども達、治した家族たちの間で、情報交換がなされ、より良いものが作り上げられていくはずです。
だって、自分で目標をたて、それに必要な情報を集め、そこから行動や創造をしていける世代の人達だから。
なので、私の賞味期限も、残すところ10年なわけです。
治ることが、家庭で、子育ての中で治っていくのが自然になれば、知識量でも、技術の質でも、専門家のニーズはなくなるのです、私は待ちどおしい!

2019年1月26日土曜日

興奮→抑制の順番で育つ

幼児期から、座る練習をしたり、指示通りに動ける練習をしたりするのを見ると、悲しくなります。
だって、子どもは小さな大人ではないのですから。
大人と同じ基準で、大人と同じ視点で、子どもが育てられている。
「小学生になったら、ちゃんと座っていられる子の方が良いから、今のうちに練習しておこう」
「文字は少しでも早く理解している方が、後々、勉強でも有利になる」
そんな風に、早く早くと急かされ、「大人になって必要はことは今のうちに」と先に先にと背中を押される。


こんな雰囲気は、発達障害の子ども達が受けているソーシャルスキルトレーニングでも感じます。
「この子が話を聞けないのは、話を聞くことの大切さ、意図がわかっていないからだ」
「先生が話をしているときは、どのような振る舞い方が良いのか、教えてあげよう」
そんな風に、教える人間が考える望ましい生徒像に近づけようと指導がなされる。


巷のSSTがうまくいかないのは、子どもの視点、発達の視点が抜け落ちていることが大きな理由として考えられます。
でも、もう一つ、「興奮ではなく、抑制ばかり」という育ちも関係していると私は思います。


幼児教育を見てもそうですし、特別支援の中で行われているSSTもそうですが、どうも抑制することばかり求め、教えているような気がします。
自分の本能、欲求、思いよりも、それを律することばかり。
しかし、それは本来の子どもの発達とは逆だと思うのです。


確かに、成長と共に、自分を律する力、コントロールできる力を身に付けていくことは必要なことです。
でも、だからといって、抑制することだけを教え、訓練しても、そういった力は身についていきません。
何故なら、発達の順番から言えば、大いに興奮する体験をやりきることで、思いっきり力を出せるようになったあとで、抑制の力が育っていくからです。


興奮→抑制という流れがあるのに、その流れを切って、抑制ばかり訓練する。
これもある意味、興奮という発達段階のヌケを人工的に作っているということ。
だから、幼少期から抑制ばかり教わり、しっかり興奮がやりきれなかった子どもは、大きくなっても自分を律する力が育っていかない。
お行儀の良い幼稚園に行っていた子が、小学校で暴れる、家ではわがまま放題という話は珍しくありません。
これも、ある意味、発達のヌケを自ら育てようとしている行動ですね。


抑制系のSSTは、発達のヌケを持った子ども達との相性は最悪だといえます。
発達の順番で言えば、自分を律する脳の部位は、最後の最後で育つからです。
つまり、発達のヌケがあるため、脳の前頭葉(自分を律する働き)がまだ十分に育っていない。
それなのに、律すること、抑制することを指導される。
例えるなら、まだジョギングすらままならないのに、マラソンを走れと言っているようなもの。
できないのは当然なのに、それでいて指導者からは、「どうしてできないんだ」「それも障害特性か」「結局、“重い”からね」「家庭での過ごし方に問題でも」なんて言われてしまう。


発達のヌケ、特に言葉以前の段階にそれがある場合、まずそこをしっかり育て直し、埋めていかないと、脳の前頭葉は十分に発達していけません。
ですから、発達にヌケがある子は、同世代の子ども達と比べて「幼い」と言われたり、そういった印象を持たれたり、実際に幼かったりするのです。
抑制は最後に育つ部分で、それよりも先に発達のヌケを育てる必要があるのに、SSTで抑制ばかりが指導される、また学校教育も抑制に重きが置かれる。
だから、いつまで経っても、いくらSSTをやろうとも、自分を律する力が育っていかない。


運動発達だけではなく、興奮→抑制ですとか、数の概念→言葉の概念ですとか、親指の発達→言語の発達ですとか、いろんな順番、繋がり、関連性があるわけです、発達には。
ですから、「これができないから、これをとことん教えよう、訓練しよう」というような考え方では、うまくいかないことが多いのです。
それがうまくいくのは、ある程度、全体的な発達が完了した人の場合。
発達にヌケのある子や、大人の都合で十分に子ども時代、発達課題、遊びをやりきれなかった子、もちろん、小学校低学年くらいの子ども達は、一人ひとりに合った発達、土台作りが何よりも大事です。


子どもは子どもの発達があります。
そして、その発達にも順番があります。
その発達を一つひとつやりきることが、より良い成長、自立への道とつながっていくのです。
子ども達は、小さな大人ではありません。


 

2019年1月25日金曜日

「〇〇“だけ”で」という言葉が漂わす寒々しさ

「遊ぶ“だけ”で」「運動“だけ”で」「栄養“だけ”で」
「治るはずがない!」「良くなるはずがない!」と言う人がいます。
こういう言葉が出てしまう背景には、「自分はいろんなことをやったけれども、ダメだった」という無念さや喪失感、敗北感などの思いがあって、「そんなはずはない」と言わなきゃやってられない、言うことで何とか過去と現在と向き合えている、自分自身のバランスが取れている。
そんな風に捉えていました。
でも、そういう思いだけの問題ではない人もいるような気がしてきました。


私は、この“だけ”という言葉に引っかかりがありました。
“だけ”と聞くと、無機質で、血の通っていない冷たさを感じるのです。
どうして、そこに冷たさが漂うのか。
子どもの発達、成長を諦めている感じがするための冷たさ…。
でも、それよりも、もっと底冷えするような冷たさなのです。


“だけ”という言葉には、その大人の子育て感、子ども感がにじみ出ていると感じます。
「プロテイン飲むだけで、治るわけないだろ」
もちろん、素晴らしい発達、成長をみせているご家族、治っていくご本人たちは、いくらプロテインが発達の後押しになったとしても、それだけを飲んでいるわけではありません。
栄養面からも、運動面からも、遊びや学習面からも、いろんな試行錯誤をし、より良い子育て、育みを日々実践され、積み重ねられています。
それに発達に関わることだけやっているわけでもありませんし、むしろ、発達の後押しに一生懸命なご家族ほど、日々の生活や家族での思い出作り、自分たちの趣味、楽しみを味わっていられるように思えます。


「〇〇が良かった、効果があった」という発言を、「〇〇“だけ”で治った」という風に変換してしまうのは、その人自身の脳内において。
つまり、子育てに効率性を求めているわけです。
少ない労力で、大きな成果。
そんな論理を、子育てに、子どもの姿に当てはめようとしてしまっていること自体、寒々しさを感じてしまいます。
そういえば、こういった「だけ」と言ってしまう人は、一つの療育や療法、特定の医師や専門家にこだわっている場合が多いですね。


子育てに、“だけ”は存在しません。
子どもも、大人も、たくさん試行錯誤していく過程に、発達があり、成長があり、自立があるからです。
「〇〇療法だけやっていれば、子どもは良くなる」
そこには子育てではなく、子どもが伸びやかに成長してほしいという願いではなく、あるのは、ただ大人のエゴのみ。
まるで、子どもを投資かなにかと捉えているのか、自分自身をより良く見せるためのアクセサリーの一つなのか、はたまた自分が仕事や家庭、人生でうまくいかない理由、言い訳に使っているのか。


「だけ」には、血の通っていない関係性が表れていると思います。
そして、冷たさの本質とは、その言葉が出てしまう人にある。
そうです、自然と使ってしまっている人、違和感すら覚えない人というのは、自分自身が親から、大人からモノとして見られた、育てられた原体験があるのです。
親の見栄のために、受験勉強を頑張った、大きな会社に入った。
親の世間体のために、自分がやりたいことを抑えてきた、親の願いが自分の願いと、自分自身を騙し生きてきた。
そういった人間としての悲しさが、いつしか、子どもを見る目となって表れてしまっている。
だから、「〇〇だけで」と言う人を見ると、底冷えするような寒々しさを感じてしまうのだと思います。


ずっと私は、一つの療法や支援、支援者、支援機関にこだわる人達の意味がわかりませんでした。
子育てとは、いいとこどりですし、子どもは日々変化するものなので、それに合わせてカスタマイズしていく必要があるからです。
機械を組み立てているのではないのですから、同じ手順、同じ環境で、黙々と淡々と、では子育てができるわけがありません。
でも、モノのように育てられた人というのは、我が子にも、それを当てはめてしまう。
モノなら、少ない労力で、良いものができる方に価値が生まれるから。


人とモノの関係性では、治るが想像できないのも無理がありません。
自分の想像を超えて、親の意向を飛び越えて変わっていくことが理解できないからです。
医師や専門家など、権威は親の象徴。
親を疑うという視点を持たずに、持てずに生きてきたわけです。
親の言う通り、親のために、歩んできた人生。
ある意味、モノとして自分の価値を高めることに心血を注ぎ、親に気にいられることが愛情だとしてきたのです。
だからこそ、医師などの権威が言った「治らない」は絶対であり、人と人との関係性で育まれる子育てがイメージできないのだと思います。


血の通った人と人との営み。
一方向ではなく、双方に刺激し合い、育み合うのが、子育て。
子どもや子育てに関することなのに、「〇〇だけで」という言葉が出てしまう人を見ると、子だけではなく、親に対しても、悲しみを感じてしまいます。

2019年1月23日水曜日

発達とは、「気持ち良い」の探索

せっかくお問い合わせいただいたのに、せっかく出張のご依頼をしてくださったのに、断らざるを得ない状況が続いています、申し訳ございません。
本当に生意気だし、自分でも嫌になってしまいます。
私一人の個人経営ですし、共働きで子どももいますし、函館からどこかに行くにしても、一度羽田をバウンドさせないと行けませんし…。


このように物理的に難しいケースもありますし、何よりもお金の負担が大きくなってしまうことが気になってしまいます。
正規の旅客券に、宿泊場所もどこでも、となれば、良いのかもしれません。
でも、皆さんが働いて得た大事なお金ですし、「我が子のために」という想いの詰まったお金ですので、そういった計算はできません。
一番安いチケットで、一番安いホテル。
物事には妥当な値段というのがあります。
依頼してくださったご家族が納得してくれる金額があり、私自身、仕事をする上で気持ちよく仕事ができる金額があると思っています。


私が訪問し、直接的な関わりをすれば、その子の発達のヌケが忽ちに埋まってしまう、言葉が出なかった子がしゃべるようになる、長年抱えていた生きづらさから解放される。
そんなことができるのなら、金額で悩むことはなくなるでしょう。
でも、実際、私が行っているのは、直接的なかかわりというよりも、後方支援。
自分自身で課題の根っこを掴み、そこを自ら育んでいけるような後押し。
親御さんが手繰り寄せられなかった課題の根っこを一緒に見つけ、我が子に必要な育み方を提案、伝授することで、より良い子育てを作り上げていくための後押し。
本人、親御さんに主体があり、育てる力があるのですから、私は補助であり、考えるきっかけ、アイディアの一つでしかないのです。
ですから、その役割には、適正価格が存在します。


親御さんが変わり、それによって子どもが変わっていく。
子どもがより良く変わっていく、発達、成長する姿を見せてくれる。
それがまた親御さんのエネルギーとなり、より良い育みにつながっていく。
そういったポジティブな循環が家族の中に生まれると、私は自分の役割が果たせたと感じます。
こういったポジティブで、お互いを高め合えるような空気感が生まれると、自然と治る道を進むことになり、その先には自立が待っているからです。


訪問すると、なんらかの要因で、親御さんが一歩を踏み出せていないこともあります。
親御さんも、子どもが変わる様子が見られれば、頑張っていけるのに、もう一歩、もう一歩と進んでいけるのに、それができない。
発達の根っこを掴み損ねている場合もあるし、手前の部分、言葉以前の段階にあるヌケが埋まっていないために、後押しが実を結んでいない場合もあります。
そうなると、子どもは変わらないし、親御さんも試行錯誤の手が徐々に止まってしまいだす。


だからこそ、自分みたいな仕事があるのだと思います。
発達の根っこを掴み損ねているのなら、一緒に掴んで、お渡しすれば良い。
発達のヌケがあるために伸びていけないのなら、そこを埋め、育て直す方法をお伝えすれば良い。
そうやって親御さんが一歩を踏み出す、変わっていく後押しができれば、自然と子どもさんも変わっていきます。
親御さんが行った育みで、子どもさんがちょっと変わった、少し成長がみられた。
それが何よりも、親御さんのエネルギーとなる。
私みたいな他人が、いくら言葉で励ましても、気持ちよくさせようと接待しても意味はないのです。


親が変わるから、子も変わる。
子が変わるから、親も変わる。
こういったお互いを高め、成長し、喜びを感じ合える家族の歯車が回っていくことこそ、理想的な形だと思います。
最初からバチッと我が子の発達のヌケを掴める親御さんはそんなにいないはずです。
なので、その最初の一歩の背中を押す。
そして一歩踏み出し、歩き始めたら、そこからはその家族が主役の物語が始まるのです。
よって、私の訪問は、その日が最初で最後。


私自身も、最初で最後の訪問だと考えているからこそ、すべての依頼にお応えしたいと思っています。
ですから、これからは今までの反省をもとに、出張の依頼があった場合は、HPやTwitterなどでアナウンスするようにしますし、過去にお断りしたご家族には移動できる範囲の場合、ご連絡するようにします。
複数のご家族で割れば、みんなが気持ちよく、その日を迎えることができるからです。
こういった気持ちよい雰囲気、空気感を作るのも、大事な発達援助。
気持ちよく始められないと、子どもさんの“気持ち良い”が掴めなくなってしまいます。
発達とは、「気持ち良い」の探索なのですから。

2019年1月21日月曜日

発達のヌケを育てることに、どんな副作用があると言うのだろうか

タンパク質の量を増やしたり、鉄を意識的に摂ったり、食事+サプリで栄養素を補助したり…。
食事の面から子どもの発達を後押ししようとされている親御さん達がいます。
ヒトは生き物ですから、食べ物が必須なわけで、その食事の量と質が神経発達に関わるのは、当然だといえます。
それなのに、「栄養面からのアプローチのエビデンスは?」と言ってしまう人もいます。
家庭での食事にエビデンス(笑)
どっかの誰かが出したエビデンスとやらがなければ、食事も作れない人がいるのかと思うと、それはもうギャグでしかありませんね。


家庭での食事にエビデンスが必要ないように、家庭での子育てにだってエビデンスが必要なわけはありません。
「専門家の指示通りに、療育機関と同じように、家庭でもやらなければならない」
「家庭での取り組みは、一度、専門家に相談してからじゃないと、やっていはいけない」
こういった類のことを信じている人は、少なくないように感じます。
人生で最も揺れ動く時期に、「専門家」という既存のイメージから、冷静な判断ができず信じてしまう人がいるのも分かります。
でも、普通に考えれば、親御さん達の願いは、この子に合った子育てがしたい、より良い子育てができるようになりたい、というもの。
決して我が子の支援者になる方法を知りたいのではありません。
我が子の支援が上手になる方法を知りたいのではありません。


支援者というのは、利用してもらうことで成り立つ仕事です。
子どもが自立できたとか、親御さんが主体的に子育てができるようになったとか、そこは評価になりません。
シンプルに回数が大事。
1回で終わる人より、10回利用してくれる方が良いお客さん。
10回よりも定期的に一生涯、せめて自分が仕事をしている間は利用し続ける人が何と有難いことか、といった感じです。
だから、土足でズカズカと、家庭の子育てに踏みこんでくるのです。


たとえば、普通の子の家庭に、「あなたのおうちの夕食にエビデンスはあるのですか?」と言う人がいますか。
「あなたの子が、タンパク質を多く摂るのは間違っている!」
「ちゃんと専門家に確認してから、トイレットトレーニングしているの!?」
「その勉強の教え方、資格でもお持ちですか~」
そんなことを言ってくる人がいたら、怒るのは当然ですし、いちいち聞く耳など持たないでしょう。
それが、子に発達の遅れがあると分かった瞬間から、同等のことを支援者がしてくるのです。


親御さんにとって大事なのは、評価すべき部分は、子どもの発達のスピードです。
ある取り組みをしたあと、子どもの発達のスピードが加速したと感じれば、それは良いアプローチ。
子どもは、何もしなくても発達するエネルギーを持っていますので、普通にその子のペースで発達していたら、それは効果がないアプローチか、子の発達を邪魔しないアプローチということ。
で、最悪なのが、子どもの発達のスピードが止まった、逆に悪い方に進んだというアプローチ。


「ずっと同じ課題を抱えている」というようなご家族がいますが、「それは発達障害だから仕方がない」でも、「進歩も、後退もしていない」でも、「現状維持ができています」でも、ありません。
睡眠障害とか、感覚過敏とか、問題行動とか、何年も同じ状態が続くということは、普通のアプローチではなく、悪いアプローチということです。
だって、子の持つ発達する力、自然治癒力、環境との適応力が発揮できていないのだから。
足を引っ張っているのなら、別の方法、アプローチへ転換すべきです。
その転換ができないとしたら、周囲の大人に問題があるということ。


「発達のヌケを育て直す」「発達の遅れを育んでいく」というのは、普通の子育てです。
発達のヌケを育て治すために、運動面からアプローチしたり、食事を工夫したり、遊びや刺激を試行錯誤したり。
それらを行うのに、どうして専門家の指示、確認が必要なのでしょうか。
精神科薬のような副作用はないのです。
刺激が統制された環境への適応も、指示なしでは動けないようになることも、介護しやすくなるためのSSTを身に付けてしまうこともないのです。


やったらやっただけ、子どもの成長の糧になる。
やったことが子に悪影響を及ぼすとしたら、それは子どもの成長を止めてしまうような状態、アプローチを続けること。
完璧な子育てなどないのですから、子どもの発達が加速しないものはやめる、加速したら、その状態が続く限り続ける。
とてもシンプルな話です。


運動面からのアプローチに対し批判する人間に限って、子どもに精神科薬を飲ませ続けたりしています。
運動を通して、発達のヌケ、未発達の部分を育てていくのと、精神科薬を飲ませ続けること。
どちらに悪影響があるといえるのでしょうか。
運動するのに、副作用は出ませんね。
親子で遊ぶのに、過食や便秘、不眠などの症状は出ませんね。
副作用を受け入れつつ、薬の力で神経伝達物質をコントロールするよりも、神経伝達物質の元であるタンパク質と、生成に必要なビタミンを摂る方が、子も、親も、安心じゃないですかね。


我が子の発達するスピードが加速するアプローチ。
それが唯一の評価です。
加速できるアプローチを見つけるまで、探し続けることができるか、試行錯誤することができるか。
スピードが変化しない、むしろ、減速する、後退するアプローチにこだわるのは、盲目的に信じる宗教と一緒。
救われるのは、親の一時的な感情のみです。

2019年1月20日日曜日

発達が子育ての中に存在するからこそ

一般的なお父さんよりは、ヒトの発達について知っていると思います。
発達のヌケを見つける眼も、育て直すアイディアも、少しは多く持っていると思います。
でも、じゃあ、自分の息子たちに良い子育てができているか、自信を持って父親をやれているか、と言ったら、ぜんぜんそんなことはなく、みなさんと同じように、悩み、考え、試行錯誤し、一喜一憂する親の一人です。


自分の中の父親像のベースは、私の父でしょう。
だって、私は、自分の父以外に育てられたことも、一緒に暮らしたこともないから。
でも、私と父の関係と、私と息子の関係はまた違いますし、育つ環境、時代、社会も異なっています。
ですから、私自身も学び、試行錯誤しながら、同時に、主に仕事を通して関わったご家族、お父さんの姿から学ばせてもらっています。
私がいくら教員免許を持ち、発達に関わる仕事をしていたとしても、父親になるのは初めてのこと。
子どもが生まれてから成長を続けているように、私自身も成長しなければなりません。


私の仕事は、直接的な発達援助というよりも、親御さんがより良い子育て、育みができることを目指す後方支援になります。
ですから、話題の中心は、子育てです。
子育ての話になると、どうしても後悔の感情に触れてしまうことになります。
「より良い子育て」について話せば話すほど、「もう少し早く、それが分かっていれば、もっと良い育みをしてあげられたのに」という後悔。
でも、この後悔は、我が子を愛するが故。
自然な親心がもたらす後悔です。


相談の最中、涙を流される親御さんは少なくありません。
でも、涙を流すことは、決して悪いことではないと思います。
むしろ涙は、身体を弛ませ、心を弛ませる。
涙を流された親御さんは、その瞬間からずっと背負っていた緊張を解かれていく。
完璧な親がないように、完璧な子育てなどありません。
弛んだ身体は、完璧な親を演じていた自分自身を気づかせてくれる。
弛んだ心は、完璧な親から、より良い子育てへと、視点を変えさせてくれる。


より良い子育てなら、いつからでも、我が子がいくつになっても、大丈夫。
子どもが自立するまでが子育て。
「もっと良いものを」と、親自身が歩み続けるからこそ、子どもも成長し続けられる。
「子どもが変わらない」「子どもが成長しない」と嘆いている親ほど、親自身が変化を拒んでいる。


「発達のヌケを育てる」というのは、特別支援でなければ、療育でも、支援でもありません。
自然な親子の子育ての中に、それがあるのです。
ですから、支援者や専門的な知識、技法、施設などは必要ありません。
必要なのは、子どもと共に、子どもの成長と共に、自らが動くこと。


「発達障害が治るなんてインチキだ」
そうやって信じない、拒否するのは、問題ありません。
でも、それに替わるアイディアを持っているのか、より良い子育てを目指し、歩み続けているのか。
ただ批判し、拒否しているだけでは、子どもは変わっていきません。
大人が固く、視野が狭いと、それだけで子の可能性は狭まっていきます。
何故なら、親も、子どもが育つための大事な要因、環境の一つだからです。


一方で、「少しでも子どものためになるのなら」と思い、いろんな情報、人を尋ねる親御さん達がいます。
こういった親御さん達は柔軟であり、常に子育てがアップデートされています。
親御さん自身が、子どもの成長と一緒に歩み、変化するからこそ、子ども自身が自立まで歩み続けることができているのだと感じます。


子どもが発達、成長するために、なにをしているのか。
より良い子育てのために、なにをしているのか。
支援や配慮、理解や啓発は、直接的な発達、成長の後押しにはなりません。
それは子育てではありません。
子どもが求めているのは、自分自身の発達、成長の後押しです。


「発達のヌケは、いつからでも育て直していける」
「より良い子育ては、いつからでも目指していける」
発達が子育ての中に存在するからこそ、どちらの言葉も同じ雰囲気が漂っています。


「発達障害の子どもに対して、親ができることといえば、支援と環境調整、社会の理解を促すこと」
そんなはずはありません。
より良い子育てのために行動することができます。
子どもの横に立って、一緒に成長することができます。
そこには、専門家の了解なんて必要はない。
必要なのは、自分自身の心ひとつ。
さあ、今日も、より良い子育てを目指して、手と足を動かしましょう!

2019年1月18日金曜日

いくつになっても、専門家に頼らずとも、今この瞬間からできることはある

私のキャリアは、自閉症児施設、入所施設が始まりです。
たった7年間ではありましたが、濃密で、強烈な時間を過ごさせてもらったといえます。
ですから、当時、関わっていた子ども達、若者たちの姿。
そして、私が感じ、考えたことは、常に頭の中にあります。
「あのとき、今の知識と経験があれば、彼らにどんなことができただろうか」
時々、私はその当時に呼び戻させることがあるのです。


もし、今の私が当時に戻り、彼らの支援をしたとしたら、同じように治す後押しができるだろうか、と想像します。
できることは多々あるだろうし、中には薬を飲まなくてよくなる子も、入所施設のような24時間型のサポートが必要なくなり、家庭やグループホームなどに移行できる子もいたと思います。
でも、正直、私が今、関わっている子ども達、大人たちのように、ドカンと発達したり、就職、自立までいけたりするような子は、ほとんどいないとも思います。
中には、同じような姿を思い描くことができる子ども達もいますが、施設にいた大部分の子は、若者、成人した人達は描くことができません。


何故なら、彼らは、今、生きているだけで精一杯で、苦しみや混乱の世界を歩いているから。
成人した人もいましたが、とても重い症状と知的障害を持った方達がほとんどでした。
いま、自分が何者であり、どこを生きているのかすら、わからないと感じる人達がいたのも事実です。
彼らに、発達する力がまったくないということではなく、その力は限定されているし、伸ばす方へエネルギーが向けられない、それよりも今、生きるだけで大変だということ。
長年の投薬、誤学習、恵まれない環境…。


生きる上で基本となる食べる、寝る、排泄する。
それすら、ままならない、それを保つことで精一杯。
支援や発達援助を受け入れる余地がない子ども達、そういった人生を何十年と歩んできた大人たちを想像すると、当時に私が戻ったとして、今、関わっている人たちのような姿は望めないと思うのが正直なところです。


なので、私は思うのです。
知的障害を持つ子も、発達障害に気づかず、また生きづらいままの人生を送ってきた大人たちも、やれることはたくさんあるし、いつからでも、自分一人の力でも、発達のヌケは埋められるし、育んでいける、ということを。
知的障害の有無や年齢が、治ることを諦める理由にはなりません。
あらゆるものが治り、みんながみんな、一般就労して自立するとまでは思いませんが、当時、私が施設で関わっていた子ども達、若者たち、大人たちよりは、ずっと可能性はあると思います。


早い段階から、幼いうちから親御さんが我が子の発達のヌケに注目し、そこを育て直しているじゃないですか。
長年生きづらさを抱えていたとしても、普通級で学んできたじゃないですか、途中で辞めたりたり、転職したりしたとしても、仕事だってできたじゃないですか。
何よりも、家で生活できている。
24時間のサポートがなければ、生きることができないわけじゃない。


ある若者から、相談を受けていました。
その若者のメールは、電話での声は、絶対に変わってみせる、これから幸せになってみせる、という想いで溢れていました。
ですから、実際にお会いもした。
発達のヌケの育て方、自分一人でできる自分自身を育む方法をお伝えしました。
この若者は涙を流し、「今まで〇年間、ずっと辛くて、消えたいと思っていたけれども、人生で始めて希望が持てた」と言ってくれました。
実際、取り組みを始めてから、心身共に変化が見られ、改めて今まで自分自身がどれほど大変な身体だったのか、そうじゃない人はどれほど楽だったのか、というのに気づかされたとも言っていました。


いくつになっても、支援者や専門家に頼らずとも、今日から自分の力でできることはある。
一つ良くなれば、発達すれば、芋づる式に変わっていくのは、子どもも、大人も、みんな同じ。
違いがあるとすれば、やるか、やらないか、のただ一点のみ。
私が仕事で関わった方の最年長の人は、50代の方。
年齢は関係ありません。
住んでいる地域も関係ありません。
できない理由を探すより、発達のヌケ、生きづらさの根っこの育み方を探す方が、ずっとハッピーになれる。
さあ、やらない理由を探す暇があるのなら、手と足を動かしましょう!

2019年1月17日木曜日

発達課題を飛ばすのは個性じゃない

ハイハイをすっ飛ばして足ったり、言葉の発達が遅れたりするのを、「それがその子の個性だから」と言われました、というお話はよく耳にします。
ある親御さんは、「初めての子だったので、発達が遅いのも、この子の個性だと思っていました。マイペースで、のんびり屋さんみたいな」とおっしゃっていました。


幼い子ども達と関わる人の中には、その場しのぎで、あまり深く考えることなく、いや、お母さんを傷つけないことがあたかも役割であるという認識からか、「個性」という言葉を簡単に使う人がいます。
私はよくわからないのですが、どうも「個性的」というのをポジティブな意味で使っている人達がいます。
個性的なファッションなら、人によっては褒め言葉になるでしょうが、個性的な発達は褒め言葉にはならないでしょう。
でも、過去にビックリしたことがあって、「言葉が遅いのも、うちの子の個性です」と言い放たれたことがありましたね。


言葉が遅いのは、個性でもなんでもなく、発達が遅れているということ。
「これがこの子の個性だ」と言って、第三者が慰めるのも、親御さんが心のバランスを取るのも自由です。
でも、視点を切り替え、子どもの視点に立てば、「ポジティブな感じで個性と言ってくれるな」「個性で止まってしまうんじゃなくて、どうにかしてよ」と言いたいはずです。


言葉が遅れていれば、必然的に知能検査の結果は、「知的障害あり」となります。
その結果を見れば、特別支援の方向へ流れていくのが、今の社会であり、現実。
もちろん、本人にとっても、そのまま状態が変わらなければ、学ぶこと自体難しくなりますし、選択肢だって狭まってしまいます。
ですから、「言葉の遅れ」は、「個性ですね」と一言で終わらせられるような問題ではありません。


定型発達の子どもで言えば、2歳前後で言葉が出てきます。
ということは、2歳半を過ぎても、3歳になっても、言葉の発達が遅いから、親も、仕事で携わる人も「おやっ」となる。
ですから、その時点で「個性」という言葉で先送りにするんじゃなくて、今までを振り返ることが大事になります。
誕生後から今までの間で、何か気になるなるところはなかっただろうか?
定型の子どもが辿る発達過程で抜かしたり、足りなかったり、できなかったことはなかっただろうか?


2歳半や3歳くらいで振り返れば、明確に覚えていることも多いはずです。
そして何よりも、そこから育て直し、やり直しを始めれば、遅れを取り戻すのも早い。
今まさに、これから神経を作り、神経同士の結びついていこうとしている真っ最中であり、人生の中で神経発達が一番盛んな時期なのですから。
その時期の子ども達、親御さん達と関わるとき、それが個性なんかじゃなくて、「今の時点で発達のやり残しが生まれていますよ」と伝えることこそ、真摯に向き合うことだと私は考えています。
ちゃんと問題だと認識することが、治るための一歩です。


「どこからが個性で、どこからが障害か、特性か、わからない」と言われる親御さんは少なくありません。
そして実際に尋ねられることもあります。
しかし、どこからが個性で、どこからが障害か、なんてわかりません。
ただ一つ言えることは、治せる部分、育て直せる部分、発達を促せる部分を残した状態で、「個性だ」「障害だ」とは言えないということ。
治せるところは治し、育て直せる部分は直し、未発達や遅れている部分はすべて発達を促した。
それでも残る部分が、その子の個性だと、私は考えています。


だいたい、まだ育める部分があるのに、「これがこの子の個性です」なんていうのは、子どもにとって失礼なこと。
「個性」「個性」という人に限って、その子の個性、いや、その子自身を見ていないわけです。
個性なんて、本人以外の他人がやすやすと言うものでも、言えるものでもないでしょう。
結局、「個性」という言葉を使って、思考停止しているだけです。
本当に、その子の個性を考えるのなら、本人の生きづらさをどうにかしようとするもの。
生きづらさの中にいる子は、生きることで精一杯。
個性など発揮できる状態であるわけがないのですから。


言葉が遅れているのなら、その時点から過去を振り返る。
どんな国や気候、生活スタイルに関わらず、人類すべての赤ちゃん、子どもが教わることなく辿る発達過程です。
その過程の中に、ヌケや遅れがあったのなら、そこはそのままにしておけないでしょう。
ヌケや遅れをそのままにしつつ、「これが個性だ」「我が子はマイペースちゃん」と言っている日本人が何と多いことか。


発達過程のヌケや遅れはすべて育て直した、やりなおした。
それでも残るのなら、そこで初めて「個性」という言葉が連想されます。
「個性」と決め付けるのではなく、スルーするのではなく、「なんか、やり残しがあったかも」
そう思えるかどうか。
発達に課題を持つ子ども達は、「障害児」という別の個体じゃないのです。
だったら、辿ってきた発達の道に違いがあっただけ。
違いがあったのなら、そこをやりなおせば良いというシンプルなお話です。

2019年1月16日水曜日

知能検査は、子どもの“未来”を切り取っているわけじゃない

「IQは変わらない」
「知的障害の子は、ずっと知的障害だ」
そんな風に捉えている人がいるなんて驚きです。
まあ、以前から、そういった人もいるのは、なんとなく知ってはいましたが、あくまで“勘違い”だと思っていました。


「IQは変わらない」というのは、“本人の”IQが変わらないのではなく、書面上、検査結果で出たIQが変わらないという意味でしょう。
そりゃそうですね、検査を受けたあと、「この検査結果は、うちの子をちゃんと表していない!」などと言われたら困りますから。
IQが変わらないのは、次の知能検査を受けるまでの間でしょ。
IQが変わらないんだったら、一度受ければ済むわけですから。


定期的にIQを確認するのは、本人の発達、成長を客観的に見るため。
あとは、いろんな公的なサービスを受けるための根拠を得たいがため。
「希望者全員」とならない有限の社会資源なのですから、本人の変化を見たいのです。
つまり、前提として“変化”がある。
特に、年齢が低ければ低いほど、子どもの変化は大きいものです。


ですから、「IQが変わらない」「一度付いた知的障害という診断は変わることがない」というのは珍説でしかありません。
最初の検査で「知的障害中度」と出た。
その子が成長していく中で、当然、できることも増えるし、認知面、身体面で発達がみられる。
でも、中度の範囲を超え、ぎりぎり軽度のラインをまたぎそうになると、ピタッと発達が止まる…??


言葉の遅れから、相談→受診→知能検査という流れが多いですね。
言葉の遅れがあれば、当然、検査結果は低く出ますし、知的障害の範囲に入ることもあるでしょう。
でも、この子が言葉が出るようになったら、どうなるのか。
当然、検査結果は変化します。
言語以外にも、未発達だった部分が育てば、最初に知的障害と言われていた子が、正常の範囲に入ることなんて当たり前にあるのです。


そもそも小さい子どもが、落ち着いて検査なんか受けれるわけがありません。
子どもは特に、その日の体調や機嫌に左右されるもの。
家でできていたことが、いきなりの場面で戸惑い、実力が出せないことだってあります。
だから、検査前日にあまり寝させないようにして、当日を迎えさせようとする親がいるのです(ブ)
環境側から検査に影響を与えられるようなことができちゃうので、つまり、そういった条件で左右してしまう値なのですから、必要以上にIQにこだわったり、一喜一憂したりすることはないのです。
知能検査は、提出書類の一つくらいなもの。


確かに、我が子に知的障害があるとわかれば、親御さんのショックは経験した人しかわからないくらい大きなものだと想像します。
でも、あくまで、そのとき、その時点での結果、値でしかありません。
一度、知的障害と出たら、その状態が一生変わらない、知的障害の子は大人になっても知的障害という意味ではないことだけ押さえておかれると良いと思います。
ほとんどの子どもさんの場合、発達の途中、未発達の部分が多いことが背景にあるはずです。


以前、関わっていた若者が高校生のとき、「今回の検査でIQが15上がりました♪」と言うことがありました。
この若者は、就学前の検査で、「重度の知的障害」。
そこから年齢が上がり、本人と親御さんが育っていない部分、苦手な部分をコツコツと積み重ねていき、重度から中度、そして高校の時点で軽度の範囲に入りました。
今、この若者は、普通の人として一般企業で働いています。
極端な話になるかもしれませんが、もし親御さんが就学前の検査結果をもとに、「この子はずっと重度の知的障害のまま」と捉えてしまっていたら、子育ての仕方も、この若者の今も大きく変わっていたかもしれません。
本人の能力よりも先に、周囲の考えが未来を決定づけてしまう恐ろしさ…です。


IQは変わりません。
次の知能検査を受けるまでは(笑)
でも、子どもは日々、発達し、成長しています。
子どもの“今”を切り取る検査はあっても、“未来”を切り取ってこれる検査は存在しないのです。

2019年1月15日火曜日

治したいから。いや、より良い子育てがしたいから

帰省→出張→帰省→函館→通常業務→報告書作成→発送という1月の前半を過ごしていました。
今朝、お正月に訪問させていただいたご家庭、すべてのところに発送が完了しました。
本来なら昨日までの三連休でお届けできれば、休日の過ごし方、遊び方のアイディアの一つになれたのと思うのですが…ごめんなさい。
函館は穏やかな日々が続いていますので、順調にいけば、明日、明後日で届くと思います。
もうしばらくお待ちください。


お正月の出張では、4家族の皆様と共に、子どもさんのより良い発達、子育てについて考える時間をもつことができました。
皆様、メールや電話でのやりとりはありましたが、実際にお会いするのは、そのときが初めてです。
初めてお会いし、その日、一日をかけて考える。
そして別れるときには、「では、また」ではなく、「さようなら」
出張でお伺いする場合、ほとんどのご家族とは、その日初めてお会いし、その日が顔を合わせる最後となります。


帰りの新幹線の中で、改めて「初対面が最後の日」とは面白い仕事だなと思いました。
しかし、たった一日、その日はとことん子どもさんのこと、より良い発達と子育てについて考えぬくことができるなんて、私にとってありがたいことですし、親御さん、ご家族にとっても貴重な一日になると感じました。
貴重というのは、私の訪問のことではなく、我が子について、子育てについて、とことん考えられる機会がもてることに対してです。
日頃から子どもさんのこと、子育てについて真剣に考えられていると思いますが、流れている生活の中にその時間があるはずです。
ですから、一歩立ち止まり、改めて子どもを見てみる、子育てについて振り返ってみることは、より良い明日に向かうためのきっかけになると思います。


訪問したご家庭の親御さん達は、すでにたくさん治していて、このままの流れで行けば、いずれ治っていく子どもさん達だと感じました。
ですから、治る、治らないに関して言えば、私の訪問は関係ないのだと思います。
では、どこに意義があるのでしょうか。
それは、より良い子育てを目指すための「客観的な視点」「アイディア」「後押し」だと思います。


「治す」という言葉を使うと、実態を知らない人達は、治った人を見たことがない人達は、治すこと自体が目的であるように捉えがちです。
「さあ、私の指導を受ければ、セッションを受ければ、療育を受ければ、障害や生きづらさがなくなりますよ」みたいなイメージでしょう。
しかし、実際に治している親御さん達のほとんどは、治すことを目的としていませんし、それがゴールだとも思っていないのです。
「治る」は、ゴールではなく、途中経過。
中には、「日々の子育てを頑張り、試行錯誤していった結果、気が付いたら“治っていた”」とおっしゃる親御さんもいます。


親というのは、我が子のことを障害名で見ないものです。
「〇〇くん」「〇〇ちゃん」という雰囲気の前に、障害名が浮かんでいるとしたら、それは親ではなく、支援者ということ。
親と子ではなく、支援する側とされる側の関係なのです。
そういった関係性を築いてしまった人ほど、「治る」に対し、大きな勘違いをし、妄想を膨らませます。
支援する側とされる側という視点が固定され、関係性が確固なものになり、本来の自然な親子に戻れないところまで行ってしまった人ほど、「治る」という本当の意味、そこに流れる親心と深い愛情に触れることができなくなっていくもの。


親御さんの中には、「治る」という言葉を使い、そういった依頼、相談をされてくることがあります。
でも、親御さんの言葉の奥には、「少しでも、ラクに生きられるようになってほしい」「今よりも、もっと良く発達、成長してほしい」「将来の自立や本人の幸せのためにできることは何でもやりたい」という想いが流れているのです。
ですから、治している親御さんからも依頼、相談がくるのだと思います。
子育てのゴールは、感覚過敏を治すことではなく、我が子が自立すること。
自立するまでが子育てなのですから、1つ治ったから、「はい、おしまい」にはなりませんので。


「治っていないから、利用し続ける」というのは、大きな誤解であり、勘違いです。
子どもが治るからこそ、日々、発達と成長を見せてくれるからこそ、もっと知りたい、もっとやりたいという想い、願い、エネルギーが増していくのです。
何故なら、親が目指すのは、より良い子育てだから。
「治る」は、療育ではなく、支援でもありません。
「治る」は、日々の子育ての中にあり、より良い子育て、より良い発達、成長の後押しを続けていった結果なのですから。
そういった意味で、親子の関係性が崩れてしまっていると、「治る」は存在しなくなります。


私が訪問して最初に見るのは、親子の関係性です。
親御さんと子どもさん、そのご家庭の中に自然な家族の空気が漂っているか、それが一番気になるのです。
親御さんが我が子の発達、成長の後押しをする。
私は、そんな親御さんの子育てを後押しできる仕事がしたい。
今年も、どんな出会い、ご縁があるか、ワクワクしています。




2019年1月3日木曜日

2019年のスタートを切ることができました

新年あけましておめでとうございますm(__)m


1日、2日は、朝からお肉を食べ、お昼は軽く、そして、また夜はお肉というような生活を送っていました。
ご飯やお餅などは、お付き合い程度で、ちょぼっと食べるのみ。
とにかく「食事でたんぱく質!」のお正月。


3日の今日は、ありがたいことに、仕事始め。
昨日、お問い合わせをいただき、「では、明日伺います!」というすごいタイミング。
子どもさんやご家族にとって、「今」というタイミングでは、こうしてあっという間に予定が決まっていくものだと改めて感じました。


明日は朝から西に向かいます。
こうして、新年早々、お仕事をいただけるということは、本当にありがたいことです。
それだけ多くの方たちが、「本当に、私達にできることは、支援を求めるだけなのだろうか」「我が子の可能性を広げるための育みはできないのだろうか」と疑問に感じ、世の中には、子どもの発達を促していくアイディア、知見があるはずだという親としての嗅覚、直感が、行動に表れているのだと思います。


「遺伝」「環境」「愛着」と、一つひとつ見ていけば、まだまだやれることはあるはずです。
発達のヌケの育てなおしをせず、栄養面、生活のリズムを整えるなど、見直せる部分、育める部分がまだ残っているのにもかかわらず、「発達障害は治りません」という一言で片づけてしまっている日本人が、なんと多いことか…。


「できることをやる」
「育めることは、全部やる」
「治せるところは、全部治した」
それで最後まで残るものがあるとすれば、そこは工夫や配慮が必要な部分だといえます。
ですから、私は、育める部分、治せる部分を、親御さんがすべてやりきれるお手伝い、「やりきったぞ」という思いが持てるような後押しを行っていきたいと思います。


毎年、今年が最後でも悔いはないような仕事がしたい、やりきりたい、出し切りたいと思って、初仕事に臨んでいます。
今朝も、その決心のもと、依頼してくださったお宅へ伺いました。
この気持ちを忘れず、今年一年も頑張ります。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします!