2019年8月22日木曜日

言葉、雰囲気

この仕事をしていて思うのが、雰囲気を感じることの大切さです。
なぜなら、言語化できないものと向き合うのが、仕事だから。
まだ十分に説明できるだけの言葉を持っていない子もいます。
言葉を持っていたとしても、しっかり捉えられるだけの感覚を持っていない人もいます。
そして何よりも、援助の中心である発達とは、言葉でいい表すことができないものです。


たとえば「問題行動」というのは、言葉です。
言葉だから、それは道具。
道具になると、使い方の幅は狭まり、みんなが似たような使い方をするようになります。
だから、特別支援が学問になり、専門になっていくと、個人が薄まり、道具に使用される人という具合な主従逆転現象が起きるのです。


今の特別支援を見ていると、どんどん新しい言葉が生まれ、その新しい言葉をどう使いこなそうか、四苦八苦している支援者たちの姿を感じます。
懸命に言葉を使いこなそうとすればするほど、いつの間にか、言葉に行動が規定されていく。
だから、養護学校と呼ばれていた時代の方が、まだ個人があり、自由があり、治るがあった。


言葉によって支援が展開されていくと、パターン化、マニュアル化が起きます。
なので、少しでも困った行動が見られれば、「止めなきゃ」「無視しなきゃ」「別のところへ意識を向けなきゃ」となってしまいます。
その行動の背景には、個人があるはずなのに。
個人よりも、言葉が優先されてしまう。
誤学習、自己防衛、純粋な発達では、それぞれの姿から漂っている雰囲気が全然違うのに。


本人からの相談で多いのは、「なんだか困っている」「なんだか生きづらい」というものです。
その“なんだか”は言葉にできない何かです。
つまり、雰囲気。
その雰囲気を感じられるか、共有できるかが、その人の支援者になれるかどうかの判定になります。


親御さんからの相談でも、「周りは大丈夫って言うけれども」「その行動は無視してください、と言われるけれども」「障害だから受け入れましょう、と言われるけれども」、やっぱりこのままじゃいけないと思うから、相談します、という場合が少なくありません。
なんだか胸騒ぎがするから相談する。
なんだか、こうやったら良いかな、と思うからそうやってみる。
それが結果的に功をなすことが多いのです。


親御さんは、子どもの生きている流れを常に感じながら、共に生活しています。
だから、子の雰囲気を誰よりも早く気が付き、共有することができる。
普通の子育てをしている親御さんが、特別支援という言葉と距離を置いている親御さんが、子どもの発達を上手に促し、後押しし、治しているのは当然だといえます。
雰囲気という言葉にならないものを大切にするということは、その子、個人を中心にすることだから。


その子の生きてきた流れ、内なる力、発達、資質…。
これらは、言葉に表せないものです。
ですから当然、パターン化、マニュアル化できないもの。
つまり、支援しようなどと身構えた時点で、支援の対象から除外されてしまうのです。


発達という、個人という、言葉に表せないものをどう支援していけばよいか。
そのためには、雰囲気を感じるしかないのです。
なんだか良さそうだな、良い方向へ進んでいるな。
そういう雰囲気を頼りに、後押しするか、引き返すか、方向を変えるか、選択していく。
だから、子どもを治せるのは、常に雰囲気を共有している家族であり、親御さん。


治せる支援者、発達を掴み、後押しできる支援者というのは、言葉に頼っていない人であったり、言葉をちゃんと道具として使いこなせていたりする人のような気がします。
多分、子どもが部屋に入ってくる瞬間、課題を見抜き、「じゃあ、セッションを始めましょうか」と言う頃には、すでに援助の方向性が定まっているはずです。
別の言い方をすれば、「目が合うかな」「受け答えはどうかな」「言葉はあるかな」と考えないといけないようでは、個人に合わせた支援、より良い発達への援助はできないといえます。


言葉や説明は、後付け。
大事なのは、本人がラクになるか、心地良いか、より良い発達が生じるか。
エビデンスのある方法の効果が、限定的で表面的なのは、エビデンス自体が言葉だから。
言葉によってエビデンスを証明するということ自体が、個人を切り捨て、発達や資質という言葉に表せないものを切り捨て、ほんの少しだけ残ったものを対象にせざるを得ない、というジレンマを抱える。


子どもを見て、「なんとなく調子よさそうだな」「これをやってみて大丈夫そうだな」と感じられるかどうか。
そして、感じたものを素直に実行できるか、信じて選択することができるか。
「子どものことを良く見て援助してください」と言うのは、子どもから漂っている雰囲気を感じてください、重視してください、ということです。
「何秒以上できたら、どうだ」「腕の角度がどうだ」というのは、パターンを覚えさせているだけで、発達は促されていきませんので。

2019年8月21日水曜日

問題行動というズレ

「問題行動」という言葉は、支援者によって造られ、支援者のために存在する、といえます。
それに対応するだけのアイディアを持ち併せていないとき。
その言動の内側に流れる意味を捉えるだけの感性を持っていないとき。
支援者は、「問題行動」という言葉を借りて、自らの逃げ道を作るのです。


「問題行動」と称されるものには、3つの流れがあります。
誤学習と、自己防衛と、純粋な発達。


「誤学習」は、その名の通り、時間をかけて培ってきたズレた学習です。
本人的には、ズレた意識はないのですが、結果的に周囲や環境と折り合いがつかなくなった学習パターン。
ですから、気づいていないズレを教えることが必要。
そのためには、まず培ってきた学習パターンを一度、壊す必要があります。


支援にあたる者は、身体的な体力と言語的な体力が求められます。
それに、まずおのれの愛着の土台に脆さを持つ者は、対応不可能。
徹底的な否定ができなければ、中途半端な否定と肯定に揺れ動くのなら、一度形成された学習パターンを壊すことができないから。


自立できていない人達の中には、多かれ少なかれ、誤学習が存在している。
なので、支援者は誤学習と向き合う場面が多い。
そして、愛着障害と親和性の高い支援者という存在が、中途半端な否定と肯定を繰り返す。
特別支援の世界に誤学習が溢れているのは、元来、誤学習と対処することを一番苦手としている者たちが、その任務を担っているからでしょう。
驚くのは、誤学習すら、障害特性と捉えるような支援者の存在。


「自己防衛」は、ある意味、本人の資質の開花でもあります。
ヒトは追い詰められ、生きるか死ぬかのギリギリのラインに立たされたとき、意識を飛び超えた次元の反応が表れます。
どうして思いついたか分からない。
でも、それをすることで、なんとか今、私は生きている、生き続けることができている。
周囲からは理解されないけれども、自分にも害を被るけれども、自らを助けるがために発動された行動には躍動感をも感じます。


自己防衛は、そうせざるを得ない状況、状態があります。
刺激に圧倒される状況、心身の状態。
孤独な状況や心理的、身体的に他者から侵略されそうな状況。
ですから、まずはその状況、状態から解放できるかが支援の一歩になります。


そして、自己防衛自体は、本人からしたら正しいことをしているので、否定ではなく、その方向性を少しズラす。
本人の心地良さを害さず、また侵略という雰囲気を感じない範囲で、「ちょっとだけズラしてみては」と提案する感じ。
筋肉を使った自己防衛なら、同じ筋肉を使う、より周囲や自分の命と調和しやすいような行動へと誘ってみる。
心理的なバリアなら物理的なバリアへ。
家にこもるのなら内へこもるへ。


誤学習は開き直りで、自己防衛は悲しみの雰囲気を感じます。
しかし、純粋な発達には伸びやかな雰囲気を感じます。
特に、子どもさんを育てている親御さんから、支援者、学校の先生から相談を受けますが、「困った行動」と聞き、確認してみると、ただ自ら必要な発達段階を歩んでいるだけ、ということが少なくありません。
ズレで言えば、時間軸のズレ。


小学生の子が、お母さんに身体接触を求めてくる。
身体も大きくなっているし、同世代の子は、そんなことをしない。
どうしたもんか、と親御さんは悩む。
もしかしたら、中学生になっても、成人しても、他者に向かったら。
でも、本人からしたら、口周辺の感覚を育てたいだけだったりもする。


学校の校庭で、いつも泥をいじって困っている、という。
泥を口の中に入れようとすることもある。
よく聞けば、幼少期、泥遊びはしなかった、触りもしなかったとのこと。
大きくなった子が泥遊びをするのは不適切に思えるかもしれませんが、発達のヌケを育て直しているだけ。


誰にでも声を掛けてしまうのは、やっと言葉が出るようになって、その楽しみを感じているからかもしれません。
友達に触ろうとするのは、幼少期に霧の中にいたからかもしれません。
友達に触れようとするのは、1歳、2歳の子ども達の遊びかた、関わり方。
その当時できなかったから、発達の遅れがあって準備ができていなかったから、今になってやっとやれるようになったのです。


作業所のスタッフから、仕事中に急にクルクル回って困っている、という相談が。
学校からの引き継ぎでも、「止めてください」「やるべき活動へ促してください」と言われてきたとのこと。
でも、それでは一向に収まらない。
それはそうです、耳の内側を育てているのだから。
中途半端に止めるから、やりきらせてあげないから、18以降も残っているのです。
回転する椅子を用意してもらい、家でグルグル回っていたら、1ヶ月くらいで行動が見られなくなりました。


定型発達という軸を持たない支援者が、未発達を問題行動と見間違える。
同世代の子はやらない行動が、すべて問題行動なわけはありません。
その背景を読み解いていくと、ただ未発達を育てているだけ、ということが少なくないのです。
1、2歳の子がやる行動、発達課題を、小学生、中学生、大人がやるから違和感を感じるだけ。
でも、本人からしたら、発達のヌケを育て直している。


「当時はできなかったから、今やっているの」
そういう声が聞こえるようになれば、「問題行動」などという陳腐な造語が消えてなくなると思います。
本当の問題行動とは、本人の視点と支援者の視点のズレなのかもしれませんね。

2019年8月20日火曜日

原始的なレベルでしか埋められない発達段階

思いっきり水遊びをした子ども、できた子どもは、泥遊び、砂遊びに興味が移っていきます。
ヒトが辿ってきた道を振り返れば、それは当たり前のこと。
夏が始まる前、「とにかく思いっきり水遊びを」とお伝えした数家族の親御さん達から、「急に砂場で遊ぶようになった」「泥が平気になった、自ら進んで触るようになった」というお話を聞きました。
一生懸命、来る日も来る日も、水をテーマに遊び、子育てを頑張られた結果だと思います。


水の段階を完了するのは、とても重要なことです。
何故なら、皮膚とその感覚を育てるから。
そして、次の段階である泥、砂の段階へ進めるから。
ヒトは、泥遊び、砂遊びを通して、人になる。


触っただけで、物事を判別できるようになる土台は、泥遊び、砂遊び。
ひとまとまりだった手を、親指と4本指に分けるのも、そのあと、5本、それぞれの指に分けるのも、泥遊び、砂遊び。
夢中になって、泥や砂と戯れているうちに、自然と手で情報を得られるように育ち、指の分化が完了していく。
だから、泥遊び、砂遊びは、とても大事な発達刺激。


水の段階を卒業していない子に、いくら促しても、泥や砂で遊ぼうとしません。
遊んでいる風に見える子は、みんな、スコップや木の枝など、道具を介して泥、砂と関わっているもの。
手で、足で、直接戯れる姿が、真の姿。


水の段階を完了していないから、泥や砂で遊ばない子もいるし、環境的に水で思いっきり遊べなかった、泥や砂で思いっきり遊べなかった子もいます。
いずれにしろ、それは手先の不器用となって表れます。
手先が不器用な子の中には、首の問題の子もいますが、結構、水遊び、泥遊びが足りなかったから、という子も少なくないように感じます。
原因、アプローチの方法は異なりますが、どちらも未発達が背景にあります。
だから、治る。


しかし、治るけれども、不器用だからといって、細かい作業をさせたり、指を動かす訓練をしたりしても、なかなか育っていきません。
養護学校で、手先が不器用な子ども達にネジ回しなどの指先を使う作業をひたすらやらせる姿を見てきました。
12年間やったのに、卒業時も、手先は不器用なまま。
結局、不器用だから指を動かす活動、では育たないということ。
ネジ回しはうまくなっても、指は自由に動かない。


近頃、つくづく思うのは、発達には、それに応じたレベルがある、ということです。
やっぱり泥遊び、砂遊びで育つ発達段階の刺激は、泥や砂以外ない。
今は、いろんなグッズやアイディア、プログラムに溢れているけれども、代替できるものはほとんどない、と思います。
進化の過程の中にある発達課題、段階は、どうしても自然を通してしか育てられない。
高度なものでは代替できない、どうしても原始的なものが必要な発達段階がある。


成人した方の中にも、同じような悩みを抱えている人がいます。
親御さんに尋ねると、やはり幼少期、泥遊び、砂遊びをした記憶がないといいます。
ですから、ある人には、土いじりを提案しました。
庭の小さな場所で野菜を育てる。
おのずと土、泥と関わるようになる。
気が付いたら、以前よりも、ラクに指が動かせるようになった、手で触ってわかるようになった、と言っていました。
他の方には、陶芸をお勧めしたこともあります。
成人してからの泥遊び、砂遊びは難しくても、泥や砂と戯れることはできます。


時代が進めば、より高度で、効率的なモノ、アイディア、プログラムへと、特別支援の世界も進んでいくはずです。
でも、発達のヌケ、特に言葉以前の発達段階、2歳までの発達段階のヌケ、遅れに対しては、ある意味、非効率的で時代にそぐわない方法でしか、育てられないと私は思うのです。


100年後、200年後の未来は、今の社会とはまったく違った文化、テクノロジーに溢れた世界だと思います。
人間の生き方も、当然、違っている。
しかし、人間の本質、発達は変わることがない。
人類の歴史から見れば、そんな100年、200年という単位で、遺伝子も、性質も、本質も変わるわけはないから。
ということは、100年後の子ども達も、水で戯れ、泥や砂で遊び、発達を遂げていく。


水でビシャビシャになって困るのは、泥で服が汚れて困るのは、大人の都合。
子どもの視点に立てば、重要な発達段階を歩んでいる証拠です。
どこかの療育機関に行かなくても、なんとかプログラムをやらなくても、子どもの発達を促すことはできるし、自然の中でしか育たない発達段階、レベルもある。
ある親御さんは、「久しぶりに、私も子どもと一緒になって泥遊だらけになって気持ちが良かった」と言っていました。
どこか懐かしい感じがするのは、泥だらけになってすがすがしかったのは、私達、大人も辿ってきた道だから。
子どもの発達を保障するとは、子ども時代を子どもらしく過ごせる自由を守ることかもしれませんね。

2019年8月18日日曜日

若い頃の子育て、年を重ねてからの子育て

子どもは、いつまでも子どもではありません。
子どもも、年を取ります。
同じように、親も年を取る。
そして、親の親も年を取る。
月日が流れると、そのとき、想像していなかったことが起きるものです。


子どもの年齢が幼い頃は、親も体力があり、意欲も満ち溢れているものです。
ですから、子育ても、発達の後押しも、じっくり時間をかけて取り組むことができます。
しかし、子どもの年齢が上がり、そして自分は年をとっていくと、なかなか腰を据えて、時間をかけてじっくりと、ができなくなります。
自分の健康上の話も出てくるし、親の介護等、そっちの話も出てきます。
そうすると、子どもが幼いときのように、子ども中心でいられなくなる。


大学から私は函館にいますので、長い人では20年近くの付き合いがあるご家族がいます。
学生時代はもちろんのこと、施設で働いていたとき、学校で働いていたとき、そして今の事業を起ち上げてからも、治るとは思っていませんでしたし、治るアイディアも持っていませんでした。
しかし、今は違います。
多くの治った人、治したご家族とご縁がありましたし、治す知見を持った実践家の人達からも教えをいただくことができています。
なので、当時の私とは異なり、「治る」と自信を持って言うことができます。


ある意味、未発達の集合体が「神経発達障害」という状態だといえます。
その一つ一つの未発達を育てていけば、全体的な発達が進み、障害というラインを飛び越えることができる。
また、それができなくとも、一つの発達課題がクリアされると、それだけで生きやすくもなるし、脳みそにも余裕が生まれる。
当然、適応力だって上がっていきますので、障害という範囲の中にいるかもしれないが、社会に適応し、自立的に生きていけるようにもなれる可能性がある。
だから、いくつになっても、たとえ一つの未発達だとしても、それを育て直し、クリアしていくことがとても意味のあることだと思います。


ただ、それが伝わらない、長年、治らない前提で子育てをされてきた親御さん達に。
学生時代からの仲であるご家族も。
興味があるけれども、途中までやるけれども、若い世代の親御さんのように続かないし、やろうろともしない。
この親御さん達の10年前、20年前も知っているけれども、決して柔軟性のない人、意欲のない人、コツコツできない人、支援者の顔色を伺う人でもなかったのです。
ただ“遅かった”。
それは、子どもさん(もう皆さん、成人されていますが)の発達という意味ではなく、親御さんにとっての。


もし、10年前、20年前に、今の治るアイディア、未発達を育てる知見があり、それがわかれば、どの親御さんも、今の親御さんのように、熱心に取り組み、同じように治していったと思います。
どの子も、「重い」と言われていたけれども、それは未発達の部分を育てず、そのままにしていただけで、決して特別に重い人達だとは感じません。
ですから、どの子も、治る可能性は持っていた。
小さい頃を知っていただけに、今のように児童デイもなく、一生懸命育てられていた親御さん達の姿を知っていただけに、私自身、とても寂しい気持ちになります。


今、仕事で関わっているご家族の中心は、就学前の子ども達。
子どもさんは、神経発達が最も盛んな時期を過ごしていますし、親御さんも体力、気力ともに満ち溢れています。
おじいちゃん、おばあちゃんの世代も、まだ若いですので、介護等の心配もない。
十二分に、子ども中心に生活が回せる、子どもの発達に力を注げる。


発達とは、お金で解決できないし、基本的に子育てなので、外注できるような次元でもない。
だから、子ども自身が発達課題をやり切れるよう、とことん腰を据えて付き合える身体を親御さん自身がもっていなければなりません。
親御さん自身が我慢できるだけの筋力がないといけませんし、動けるだけの身体が整ってなければなりません。
試行錯誤する脳みそだって必要。
そう考えると、子どもの年齢が幼い頃から、発達のヌケや遅れを育て直すことは、親御さんにとっても意義のあることだといえます。


一生懸命我が子のことを愛し、動いてきた親御さんも、時が経てば、「今、親の調子が悪くて、あまりうちの子に構ってられないわ」「今さら、もう聴覚過敏は治らないと思う」「もう自分のことでやっとだから」「施設で問題なく過ごしているみたいだから、もうそれでいいのよ」という言葉が出てしまう。
どんな人だって、年はとるし、年代年代によって、若いときに想像しなかった悩みが出てくる。
そういった意味でも、子ども時代の治す中心は親御さんであり、成人後は自分自身なのかもしれません。


いつの間にか、私と同世代の親御さん、そして私よりも若い親御さんと仕事で関わることが増えています。
子育ては、とにかく親も体力、気力が必要。
うちの子も、ひたすら同じ遊びをエンドレスで行う時期です。
滑り台、1時間連続で一緒に滑って、私のズボンが破れてしまったくらいです。
発達とは、やりきること。
ですから、遊びに行くときは、我が子が根を上げるまで勝負、という気合を入れて、私も遊んでいます(笑)
そんな夏休みも今日でおしまい。
我が家の発達援助は、海、山、キャンプ、公園。
ちょうど私の背中の皮が剥け始めた頃です。

2019年8月16日金曜日

対人職の過ちを最小限にするためにも

この夏、一人の若者が仕事に就き、そして家を出て一人暮らしを始めました。
仕事を探し、自分で面接を申し込み、採用までをやり切ったのです。
一人暮らしも、本人の意思です。


支援者の力を借りることなく、就職できたのですから、もともと力のあった人と思われるでしょう。
確かに、最初にお会いしたときから、働くだけの能力をもった方だと、私も思いました。
しかし、就職する上でも、生きていく上でも、とても重要な「主体」がなかったのです。


何を尋ねても、「わかりません」と言い、どんな仕事がしたいか、答えられませんでした。
印象ではありますが、困っているのは感じているんだけれども、何がどう困っているか、自分でもわからない感じでした。
ただ年齢的にも、仕事をしなければならないと思っていて、でも、仕事ができなくて、そもそも、どうしたら良いか分からなくて、という中での相談でした。


若者からの相談では、こういった主体性の乏しさからの悩みが少なくありません。
「大久保さん、私はどうしたら良いですか?」
このような発言をたくさん聞きます。
しかし、こういったとき、本人に代わって私が選択肢を選んではならないと考えています。
だって、私が選んだものをそのまま受け取ってしまう可能性が大きいから。
これは、私が嫌う、他人様の主体性を侵すような行為でもあります。


「私はあなたではない。ゆえに、私は誤解するし、誤った判断、選択をする」
このように思って、対人援助という仕事をしています。
私は、一般の人よりも、多くの発達障害の人達と関わり、生活を共にしてきたかもしれません。
でも、私が彼らの代弁ができるとは思っていませんし、そもそも他人の気持ちがわかったも、理解できたも、幻想であり、不可能なことだと思っています。


私には、他人様の人生を決める権利も、能力も、ありません。
ですから、主体性が乏しい方からの相談に対しては、言葉を慎重にし、そして、まずはその主体性を育てる方向性へ後押ししたいと考えています。
ある意味、ちゃんと相談ができるための準備です。
主体性を持ち併せていない方からの相談は、相談ではなく、宗教になると、私は思っています。
私が言ったことが、そのまま、答えになってしまう危険性。
主体性を持たないまま、相談員でも、専門家でも、医師でも、先生でも、相談し続けると、いつしか、その人が教祖様になり、言われるがままの信者となる。


この夏に就職、自活を始めた若者とは、主体性を育てるためのワーク、援助を行いました。
発達のヌケが埋まり、自分の身体が掴めるようになったあたりから、自分の意思を表出できるようになりました。
そこまでくれば、私の援助はおしまいです。
私は、その若者が、自分自身で選択できるようになるところまでの役割。


障害と聞くと、周囲の人間、相談員は一生懸命相談に乗ろうとします。
しかし、発達障害の人達の相談においては、ただ単に一生懸命話を聞いて、進路を選択することが良いことだとは言い切れないと思います。
「福祉に繋げられたからOK」「サービスの申請が完了できたからOK」ということにはならない。
何故なら、主体性という未発達があるかもしれないからです。


身体や機能に障害を持った人は、それに応じたサービスとつながり、社会の中で生活していけることが必要なサポートだと思います。
でも、発達障害の人達は、発達に課題がある人達だといえます。
ですから、相談員がサービスに繋げることだけを主に動いてしまうと、意識しないまま、発達障害の人達の人生や進路を決めてしまいかねないのです。
相談とは、あくまで本人の意思、主体性があって、初めて成り立つもの。


発達のヌケがあるゆえに、皮膚や平衡平衡感覚が育ってないがゆえに、自分自身の身体、空間との境目が捉えられず、結果として主体性が乏しい、ということもあります。
決して、主体性が乏しい障害ではないのです、発達障害は。
未発達が重なっていくと、主体性の育ちに影響が出る。
なので、必要な援助は、未発達の部分を育て、主体性を養うこと。


対人職は、誤解し、常に独りよがりの支援、助言をする可能性があり、そして本人の主体性を侵す危険性を持っている。
だからこそ、確実な部分にアプローチすることが大事だと考えています。
その確実なことの一つが、発達のヌケ、遅れを育て直すこと。
600万年の人類の歩みが詰まった運動発達。
動物としての呼吸、感覚、動きの発達。
そして生活のリズムを整え、快食快眠快便、きちんと疲れ、回復する身体を培っていくこと。
これらは、唯一、確実なことだといえます。
確実なことを追及し続けることが、対人職の過ちを最小限にするための姿勢なのです。

2019年8月15日木曜日

「何を学び、どう生きるか」は私達の権利です

私は施設職員として、利用者さんの主体性、選択、自由の権利を奪っていました。
朝起きてから寝るまでの日課、スケジュールを決めていました。
起きる時間、寝る時間、食事の時間、お風呂に入る時間…週末の過ごし方まで。
すべて職員である私達に決定権がありました。
入所していた人達には、何を食べるかさえも決められず、出されたものを食べ、嫌だったら“食べない”という選択肢しかなかったのです。


限られた人数、資源の中で、多くの利用者さんを見なければなりません。
ですから、どうしても管理の意識、傾向が強くなります。
「もっと選択肢を」「日課に自由を」とは思い、できる改善は行っていたものの、やはり限界があるのです。
一日、無事に終えることが、どれほど、大変だったか…。


いくら業務であり、施設の意向だったとしても、私が多くの人達の主体性、選択、自由の権利を奪っていたのは変わりがありません。
もし私が支援される側だったら、こんな支援は受け入れられなかったはずです。
そのように自分自身で感じるくらいのことを、私はやってきたからこそ、今の仕事では「主体性」「選択」「自由」の権利を侵さないように、と強く意識するのだと思います。


私が発達の準備、後押しにこだわるのは、こういった経緯があるからだといえます。
何か指導しようとすると、うまくいかないことが多いというのもありますが、「指導する」自体に、本人の主体性を侵略するような雰囲気を感じるのです。


何かを指導してほしいという本人からの要望があれば、それは主体性を侵すような指導にはならないでしょう。
むしろ、「何かしたい」「こうなりたい」という本人の意思が明確にあるので、主体性を尊重している対応だといえます。
でも、そこに本人からの発信、要望がなければ、もしかしたら、良かれと思っている指導が、本人の主体性、選択、自由を奪う結果につながらないともいえません。
特に私は、重い障害、症状を持つ人達の施設で働いていましたので、本人からの発信、要望がない場合、慎重になる必要性を強く感じるのです。


幼い子どもや知的障害がある人達、ASDの人達は、自分たちの意思よりも先に、指示されたこと、指導されたことに従順してしまう傾向があると思います。
「自分がやりたいから」「楽しいから」ではなく、「わかるからやる」といった感じです。
周囲の状況や環境の意味が混とんとして掴めていない人ほど、「わかる」に飛びついてしまいます。
でも、「わかること」が自分のやりたいことではない、学びたいことではない、ということも。


私も、実際、施設や学校で個別指導計画を立てていましたのでわかるのですが、本人の意思よりも、できること、できそうなことを目標に立てがちだといえます。
本来は、本人の意思やニーズに基づいて、どういった学びをしていくか決めていくのが、個別指導計画になるのですが、幼い子ども達や障害の重い人達になればなるほど、本人の意思が代弁という名の解釈によって決められ、どちらかといえば、支援しやすいような、親御さんが喜びそうな目標になっていくこともあります。


しかし、これは致し方ない面もあると思います。
本人からの発信を受け止められない限り、周囲が解釈するしかありません。
また、個別指導計画は、保護者と協働することが決められていますので、親御さんの意向に沿う形になるのは自然な流れだといえます。
ですから、普通にやっていれば、知らず知らずのうちに、私達は障害を持った子ども達、人たちの「主体性」「選択」「自由」を侵略していることもあるのです。


爬虫類の脳、哺乳類の脳までは、2歳までの発達段階、言葉を獲得する前の発達段階は、周囲も力を合わせて丁寧に育てていく。
でも、それ以降の成長は、本人の主体性、選択に委ねていく。
その辺のバランス、線引きを誤らないことが、本人の権利を侵略しない、尊重することにつながるのだと考えています。


子どもであるとか、障害があるとか、でいつまでも、どこまでも教えようとするし、支援しようとする。
振り返れば、施設職員、学校の教員だった私は、障害を持った子ども達のことを信じていなかったのだと思います。
しかし、発達援助、発達のヌケ、遅れを育て直していく道と出会い、その中で自ら発達、成長していく子ども達の姿を見続けるうちに、もっと彼らの内なる力を信じて良いと思うようになりました。
特に発達障害の子ども達の場合は、発達のヌケ、遅れをどうにかしてもらいたけであって、一から十まで支援してほしい、教えてほしいと思っていないと感じます。


「わからない」が課題の根っこではなく、発達のヌケ、遅れが根っこ。
「わからない」は結果であって、自然と分からないような状態である感覚、身体、内臓などの発達をどうにかしてほしい、と思っている。
それらが解決すれば、「何を学び、どう生きるか」は私達の権利である、といっているように感じるのです。


周囲がリードする部分は、発達のヌケ、遅れを育てるところまで。
それ以降は、いくら子どもであっても、障害があっても、本人の権利だし、自由が認められるところ。
たとえ我が子であったとしても、別人格。
本人の「主体性」「選択」「自由」を尊重していくためにも、発達のヌケ、遅れを育てることが大事です。
それ以降も、関わることがあれば、本人の意思、発信を聞いてから応えようと思っています。

2019年8月11日日曜日

「どうやって教えよう」から「どんな準備をしたらよいかな」

施設で働いていたときも、学校で働いていたときも、私は「教えよう」としていたと思います。
できないことがあれば、補助具を作ったり、教え方を工夫したりして…。
わからないことがあれば、言葉を簡潔にしたり、視覚的な方法で伝えたりして…。
「学習に集中できるように」と刺激の少ない環境にしたり、スモールステップで教えたり、個別指導で徹底的に教えたりもしました。


こういった教える側の工夫、配慮によって、子ども達はできないことができるように、わからないことがわかるようになりました。
しかし、それは“その場限り”。
学んだ場所、学んだ人から一歩離れれば、できなくなり、わからなくなる。


ですから結局のところ、「家に帰ったらできない」→「学校だから、施設だからできるのね」と親御さんに受け取られ、連携がうまくいかなかったり、養育の意欲の低下を招いたりする。
私達、支援する側、教える側も、外に出れば、できなくなるので、「やっぱり障害が重いから」「それ(般化の難しさ)が自閉症の特性だから」と勝手に諦め、社会の中での実践から子ども達を遠ざけてしまう。


今の事業を起ち上げてからも、できないもの、わからないものは、教え方の工夫によって身についていくと考えていました。
でも、その考え方を改めるきっかけがあったのです。
普通級在籍の小学生の子。
この子は、授業についていけず、また言葉や対人面でも課題があったため、担任、管理職、コーディネーターから再三、「支援級へ」と伝えられていました。
だけれども、親御さんが頑として首を縦に振りませんでした。
今はわかっていないけれども、この子には理解する力がある、と親御さんが感じていたから。
そこで、私との関わりが生まれました。


親御さんからの依頼内容は、「学校の授業についていけるように勉強を教えてほしい」というものでした。
ですから、私はこの子にわかるような教え方、工夫をして、勉強の後押しをしようとしました。
一対一の学習で、この子のペースに合わせて進めていましたので、私との学習のときには理解ができていました。
でも、学校に行けば、わからないし、テストでも点数がとれずにいました。


最初は、「一斉授業だから」「刺激が多いから」などと、私も捉えていましたが、ふと、それまでの「その場限り」のことを思いだし、その姿と重なりました。
もしかしたら、私の考え方、援助の方向性が間違っているのではないか、と思うようになり、一斉授業でも勉強ができる、先生の言っていることが理解できるように援助することの方が必要だと考えるようになりました。
そこから援助の方向性を変え、鉛筆がちゃんと持てることや足を床にきちんとつけて座れること、教科学習の始まりである概念、数の勉強、遊びを徹底的に行いました。
すると、メキメキと力をつけていき、いつしかテストで100点をとるくらいまで成長されたのでした。
そんな子から久しぶりに連絡があり、今は受験生として頑張っています、と教えてもらいました。


この子との出会いは、私にとって大きかったと思います。
どうしても、支援者は、先生は、大人は、子どもに教えようとします。
特に、発達に遅れがある子に対しては、必要以上に教えようとする。
でも、それじゃあ、あまり意味がないんですね。
結局のところ、神経発達にヌケや遅れがある子は、「知識や技能が身につかない」のではなく、知識や技能を身に付けるための「準備が整っていない」ということ。


教え方云々ではなくて、たとえば、教科学習だったら、ちゃんと学習できるだけの手が、目が、足が、姿勢が、軸ができているか。
一斉指示を聞き取れるだけの聴覚が育っているか、その手前のバランス感覚、重力との付き合い方ができているか。
脳みそにちゃんと新しい学習ができるだけの余裕があるか、つまり、快食快眠快便が整っているか、など。
発達のヌケ、遅れは、2歳以前、言葉獲得以前の発達段階にあることが多いので、やっぱりそこを育てなければ、根本的な解決には至らない、ということです。


ある意味、それは当然なことかもしれません。
学習の準備ができていない子、感覚、動き、身体に未発達な部分がある子に、いくら工夫して教えても、徹底的に教えても、身体の底からの理解にはつながるわけがないのです。
ですから、結局、熱心な大人に付き合い、その場“だけ”できるように、パターンとして身に付けてしまう。
私も今までに、多くの子ども達を付き合わせてしまったな、と反省しています。
だから彼らは、一歩外に出るとできなくなった。
それは、本質的な理解ではなく、表面的な理解しかできない状態で、教え込まれたから。


教科学習だけではなく、身の回りのことやお手伝い、コミュニケーションや対人スキルなど、いろんな面で、「できない」「わからない」状態の子ども達がいると思います。
そんなときには、「できない」「わからない」のではなく、「準備が整っていない」という視点で捉えると、育むアイディア、必要な援助が見えてくるかもしれません。
「トイレでうんちができない」ではなく、「トイレでうんちができるためには、あと、どんな準備が必要だろうか」と考えてみる。
もしかしたら、内臓の感覚の育ちかもしれない。
もしかしたら、水分摂取と排出かもしれない。
もしかしたら、体温調節や姿勢かもしれない。


「ハイハイを飛ばした。だから、ハイハイをやらせよう。でも、ハイハイをやりたがらない」
だったら、その子がラクにハイハイができる準備には、「何があるかな?」と考えてみる。
ちゃんと指が分化している?
手首が育っている?
足の親指はどう?
重力とのお付き合いができてる?
反射が残ってない?
ハイハイは、動物としての進化の過程ですので、ハイハイが楽しめる身体に育てば、自ら進んで育て直しを行うものです。
こうやって、「どうやって教えよう」から、「どんな準備をしたらよいかな」と考え方を転換してみる。


私の想い、考えの中には、「子どもは自ら育つもの、学ぶもの」というのがあります。
本来、子どもは新しいことを学ぶのは、とても楽しいことだと感じるし、身体を動かして思いっきり遊びたいと欲している。
だから、勉強が楽しくない、新しいことを身に付けようとしない、身体全身で思いっきり遊ぼうとしない、というのは、その想いまで至らない原因がある、と考えます。
未発達やヌケ、遅れがあると、やっぱり楽しめないし、心の底から、身体の内側から喜び、意欲が生まれない。
なので、今日も私は、「どんな準備をしたら、ラクに学べるか、より楽しく遊べるか」と考えています。

2019年8月6日火曜日

発達は、自然科学であり、ヒトの、動物の自然な営み

保育園一年目は、あらゆる病気を貰ってきます。
春夏秋冬、それぞれの季節で流行するもの、したものは、すべてもらい病気になるわけです。
年がら年中、鼻水を垂らしています。
ときに、発熱しながら、体内に入ってきた初めてのモノと対決する。
そうやって、一年が経ち、二年が経つと、ほとんど症状が出ない身体になっていきます。
子どもが貰ってくる病気のほとんどは、「経過観察」と「対処療法」と説明されるのです。


私自身は、もう10年以上、病院にかかることはありません。
ほとんど風邪などひきませんし、「なんかくすぶってるな」と感じれば、手足を温めたり、ランニングの距離を調整→汗の調整をして治します。
もう30年以上、生きているわけですから、自分でどうすれば、治るか、自然治癒力が発揮できるかわかるわけです。
結局、病院に行っても、直接作用するような特効薬がもらえるわけではありません。


喉が痛ければ、「喉が痛いです」という。
そうしたら、ドクターが喉を見て、「ああ、喉が腫れていますね」という。
頭がボーとすれば、体温を測り、その値を伝える。
そうしたら、ドクターが「熱が出てますね。風邪でしょう」という。
これが一般的な内科の診察。
症状に合わせた薬が出て、とりあえず抗生物質が処方される。


内科のドクターは、風邪に対する特効薬はなく、対処療法しかないこと前提で診察にあたります。
患者の方も、ドクターが直接治してくれるわけではないけれども、一応、通院する。
それは、他の病気だと困るから。
「ああ、普通の風邪ね」と安心し、あとはゆっくり養生するために通院する。


こうしてみると、風邪を発達障害に変えても、意味は通ります。
「こんな症状があるんです」といえば、「じゃあ、こんな薬があるよ」という。
「言葉の遅れがあって、目が合わなくて…」といえば、「じゃあ、発達障害かもね。検査してみよう」という。
そして診断名が出て、診断書が記入され、「あとは福祉へ、療育へ」となる。
ここでも、ドクターが直接治すわけでもないし、神経発達を促してくれるわけでもない。


発達障害専門の医師の多くは、「治らない」という。
それはそうなのかもしれません。
発達障害が治ってから、わざわざ通院する人はほとんどいないでしょうから。
どちらかといえば、診断名が欲しいときと、薬が欲しいとき、に通院するもの。
それ以降の話は、各家庭、個人の出来事。


私は、医療をディスっているわけではありません。
医療だけが特別で、崇高なものではなく、医療だって限界があるといいたいのです。
医療の限界とは、診断と処方、そこまで。
それ以降は、どう頑張っても、各個人の自然治癒力、何を学び、成長するか、どのような選択をし、行動するか、にかかっている。


私達は、病気になれば、病院に行きます。
でも、ほとんどの病気は、医師が直接治してくれるわけではありません。
手術をするのは、医師かもしれないが、その傷口を元に戻し、身体を回復させるのは、本人の自然治癒力であり、患者自身の行動と選択にかかっています。
病院に行けば、100%病気や傷が治るわけではない。
そういったことはわかって、患者だって病院にかかる。


だから、発達障害の専門医とはいえ、同じこと。
治してくれるのは、医師ではなく、患者自身。
本人が何を選択し、どう行動するかにかかっています。
薬を処方してもらうことによって、症状は抑えられるかもしれないが、一時的にラクになるかもしれないが、結局のところ、神経発達障害の“神経”を育て、整えていかなければ、根本的な解決には至らない。


私達は、医療や専門家に頼りたい気持ちになることがあります。
私だって、子どもの調子が悪くなれば、「ただの風邪だろう」「ゆっくり休めば治るだろう」と思うものの、やっぱり心配になれば、医療を頼る。
そこで、「ただの風邪ですね」「二、三日安静にすれば治るでしょう」と言われれば、安心できる。
なので、発達障害の専門医にも、こういった安心できる方向性で話をしてもらいたいと願うのです。


障害名(仮)だって、本当は最初に診断した医師から伝えてもらえれば、どれだけ多くの親御さん達が救われるかと思います。
しかし、現実は、障害名(仮)の話をされないことが多い。
そればかりか、1歳、2歳、3歳というような子ども達を目の前にしても、「治らないから」「この子は、一生福祉」「支援を受けて生きていくのが良い」と言ってしまう。
医療に限界があるからこそ、誠意をもって、親御さんに、そして子どもにも向き合ってほしい、と私は思います。


風邪と同じように、本人の自然治癒力が治すのです。
発達に関しても同じこと。
本人が求める刺激、環境、学びを存分にやり切ることが、神経発達を豊かに育てます。
こういった前向きな話がもっと溢れるようになってもらいたい。


一部の親御さんが、診断名欲しさに、できるだけ重く、重症度を強調して書いてもらいたく、医療にすり寄っていくことがあります。
そうすれば、公的な支援が多く、長くもらえるから。
だからこそ、待合室でも聞こえるくらいに、「重く書いときましたから、お母さん」なんて言葉が聴こえてくる。
だからこそ、そんなつもりがない親御さんにまで、「重く書きましょうか?」なんて言葉が投げかけられる。
「重いことが良い」「軽くならないのが良い」などという曲がった価値観が、「治る」を真剣に考えない専門医療へと留めている要因にもなっていると感じます。


医療に限界があるように、専門家にも、支援者にも、エビデンスがあるアプローチにも、限界があります。
ですから、そういった者たちを絶対視しないこと。
あくまで、治していくのは、本人の自然治癒力であり、発達する力。
上手に使わなければ、選択できなければ、主体性がどんどん奪われていくだけ。
必要なときに頼り、それ以外はちゃんと距離を取る、ときにスパッと切り捨てる。


自然治癒力、発達する力は、主体性がないと発揮されないもの。
専門家を適度に諦める、期待しない姿勢が肝要です。
医療を、専門家を、宗教にしてはなりません。
発達は、自然科学であり、ヒトの、動物の自然な営み。

2019年8月5日月曜日

その人達は、神経の専門家じゃない

ひと昔前は、生まれつきの障害で、それも脳の機能障害。
生まれつきで脳が違うのなら、なんだか普通の人とは別の存在のようなイメージがありました。
だから、そういった自分たちとは異なる人達のことを努めて理解しようとした。
治らないんだったら、制度を整え、あらゆる面でサポートすることが大事だと思った。


だけれども、時は流れ、従来想像していたのとは異なる人達の存在が明らかになりました。
2000年以降、それまで知的障害を伴う人達ばかりだと思っていたのですが、知的障害を伴わない、同世代の人達と同じような道を歩んでいながらも、自閉症やADHD、LDなどを持っている人達が多くいることがわかりました。
さらに2010年代には、自閉症と診断された人達の中に、成長と共に、その診断名が外れる人達の存在も明らかになりました。
国内外を問わず、 診断基準、発達障害というラインを飛び越え、治っていく人達の存在です。


状態像は発達とともに変化していく。
今、思えば、しごく当たり前の話ですが、ひと昔前の「生まれつき」「脳の機能障害」という捉え方を崩すには、多くの人達の姿と、長い月日が必要だったといえるわけです。
結局、生まれつきって言ってたけれども、発達過程のどこかで発症するという話だったのね。
“脳の”って言っていたけれども、神経の問題だったのね。
ですから、発達障害は神経発達障害になったのです。


脳の話から、神経の話に変わったのにも関わらず、どうも旧来の捉え方で支援が展開されているようです。
日本の支援者、隅々まで“神経”が認知されているとは思いませんが、診断に携わっている医師や専門家と呼ばれるような人達は当然知っているはず。
じゃあ、なぜ、もっと「神経だよー」と言わないのか。
むしろ、ひた隠すような素振りすら見られます。
未だに「NC州のような地域プログラムを作ろう」「ご褒美を使って、パターン学習をさせよう」「社会性はマニュアルで教えよう」というような、なんだか、旧来の「生まれつき+脳」前提と思われる療育、支援がはびこっています。


神経の発達障害なのですから、その神経へのアプローチが肝心なわけです。
神経が育ってしまえば、地域をまるまる構造化する必要はありませんし、パターン学習も、マニュアル暗記も、むしろ効率が悪い学習法になります。
なので、これらのアイディアは、一時的な対処療法。


神経が主役になれば、発達の場は、生活すべてになります。
バリエーションの豊かな刺激は、自然な環境、遊びに勝るものはなくなるのです。
一箇所に集め、プログラムされたものをこなすのは、旧来のパターン学習、マニュアル暗記を効率的に行うために作られたものですから。
親子の自由で自然な関わり合い、育ちあいは、究極の個別指導なのです。


専門家たちが、“神経”を黙殺しているのは、神経発達障害へシフトチェンジできないのは、しないのは、おのれ自身を守っているからに過ぎないのだと思います。
新しい知見が広まること、しかも、診断が外れる人達、可能性があることは、それに携わる者としても喜びのはずです。
当事者、家族の人達の喜び、幸せに寄与したいからこそ、その仕事をしているわけですから。


当事者、家族の喜びを喜びだと感じられないのは、その支援者自身に愛着の問題があるからなのでしょう。
ですから、専門領域を守りたいわけです。
しかし、もうその専門領域は消滅したも同然。
だって、神経を育てる場所は、生活の場すべてだから。
むしろ、高度に構造化され、プログラムで設定されたものは、刺激を単一化へ向かわせ、神経発達を阻害しかねません。


家族はもちろんのこと、学校、職場、地域に、神経発達を促す刺激、アイディアがあります。
療育の専門家よりも、地域の習い事の方が、神経発達に繋がることがあります。
環境の統制された部屋で一日過ごすよりも、自然の中に、公園などの遊び場に、必要な刺激は溢れています。
子どもは、自分自身で、今、必要な発達刺激がわかるわけです。
それにいつでも応えてくれるのは、自然であり、家庭です。
人工的なプログラム、専門家のやりたい療育は、どんなに頑張っても、先回りで用意されたもの。
子どもに主導権があり、初めて発達が生じる。


神経が主役になり、発達の場が生活すべて、その人の人生すべてに変わりました。
でも、「生まれつき+脳」で生きてきた人間、それで生かされてきた専門家たちは、これからも変化に抵抗し続けるでしょう。
だって、神経の専門家じゃないから、特別支援の専門家たち、支援者たちは。
わかるのは、「生まれつき+脳」前提で築き上げられた知見とアプローチだから。


なので、親御さん達がしっかり学び、主体性を持って育てていくことが重要になります。
もう一度言います、専門家はいないのです。
頼るのでしたら、我が子の神経を豊かに刺激してくれる人。
それは、学校の先生かもしれないし、地域の習い事の先生、職場の同僚、上司かもしれない。
我が子に必要な人を探す、地域の中から。
そして何よりも、我が子の主体性を奪わず、その育ちに寄り添え続けられるのは、親御さんであり、家族です。
神経を育てるのは、本人であり、自然であり、家族であり、その人の生活すべて。




2019年8月2日金曜日

ベルトコンベヤー

「この地域は、ママ友は、みなさん、視覚支援なので、身体アプローチはちょっと…」というような人もいます。
その一方で、早期診断、早期療育、就学後は相談機関の人と連携して学校生活を送り…みたいな人が、「やっぱりおかしい」といって、治す道へと歩みだすこともあります。


そういった親御さんの一人から連絡がありました。
「他人の気持ちを察することができるようになったんです」
「会話がスムーズになって、雑談ができるようになったんです」
長年の課題、「ここが育てば」と思っていたところが育ち、ご家族皆さん、とても喜ばれていました。


察すること、雑談…。
こういった部分は、発達障害の人、特に自閉症の人達に共通してみられる課題でもあります。
だから、療育でも、熱心なアプローチが展開されます。
なんとか会話や、なんとかストーリー、輸入物のアプローチの数々。
一通りやってみて、結果が出なければ、「それが障害特性だから」という典型的なパターン。
何年もかけて、SSTをやったのに、「だって、障害特性だもん」と言われた日にゃあ、どうすりゃいいの、私達の時間を返せ、となるわけです。


そこで、「これだけ時間かけて、頑張ってきたんだから、仕方ないよね」と納得するか、「仕方がないんじゃなくて、やりかたが悪かったんじゃないの」と思うか。
そこが分かれ道だと思います。
冒頭で紹介した親御さんは、それから自分でいろんなことを調べ、辿りついたわけです、身体アプローチに。


長年、療育に通い、児童デイにも通い、定期的に相談機関、医療機関と頼ってきた。
最初は、「早期療育を行えば、この療法をやって続けていけば、コミュニケーション面も改善しますよ」と言っていたのに、「薬を飲めば、集中力も上がってくるから、療育の効果も高まるから」と言われて飲ませたくなかった精神科薬も飲んだのに、挙句の果てに障害特性で、はい、終了となる。
こういった話は、全国どこにでもある話ではないでしょうか。


結局、上辺だけの知識、技能では、問題解決などするわけないのです。
だって、発達障害は、知識や技能を覚えれない障害ではないから。
発達期に生じた神経発達の遅れ、です。
「神経発達の遅れ」=「知能や技能を覚えられない」???
現在行われている療育、特別支援教育の多くは、知能や技能を覚えられない人向けのアプローチ。
というか、神経発達のヌケが埋まった人、育った人が前提で展開されています。


知識や技能が習得できないのは、課題の表面。
根っこは、あくまで神経発達。
神経発達にアプローチできなければ、エビデンスがあろうが、免許が必要な輸入物の方法だろうが、身になることはありません。
結局、そういった上辺だけのアプローチで学んだことは、真の意味が掴めて身についたものではないので、パターン学習となる。
そろそろ、日本の特別支援も、パターン学習のコレクション(通称『パタコレ』)から脱皮しなければならないと思います。


冒頭の若者、親御さんへのアドバイスは、たった2つだけ。
栄養が吸収できていない雰囲気があったので、藤川ドクターの本を紹介と、背面を優しくマッサージすること。
まずは、それだけとことんやってみてください、と提案。
栄養が満たされれば、神経発達は加速するし、脳みそにも余裕が生まれてくる。
だから、会話にも余裕が。
皮膚の感覚が乏しければ、空気を読むなんてできるわけがない。
だから、皮膚からの刺激を充分に味わい、育ててもらう。
10年以上、悩んでいたことが、たった数か月で解決。
根っこを育てれば、あとは早いんですね。


栄養を整えて、発達のヌケを、未発達の部分を育てる。
何も特別なことではなく、子育ての範疇です。
ですから、気づくかどうか。
「障害を持った子だから、専門的な支援、療育」と思うか、「発達が遅れている子だから、そこを丁寧に育てていこう」と思うか、の違い。


この親御さんのように、いつからでも気が付いたら、その瞬間から育てられるのが、言葉以前のアプローチ、身体アプローチの良いところ。
ただそのためには、一つだけ条件があります。
動ける身体があること。
世の中、「おかしいな」と思っても、それが言いだせない、行動に移せない人が少なくありません。
「おかしいな」と直感が働いたとき、その内なる声に耳を傾け、手や足を動かせるかどうか。
待っていれば、特別支援のベルトコンベヤーは前に進んでいくだけ。
一度、乗ったなら、自らの手や足で降りる必要があるのです。


本人自ら降りられるならベスト。
でも、子ども時代に、それを子ども自身でやるのは難しい。
となると、やっぱり子どもの手を引いて、ベルトコンベヤーから「降りよう」という人が必要。
それが親御さんであり、家族だと思うんです。


「大久保さんとのご縁が」と仰っていたけれども、それは関係ありません。
私と縁がなければ、他の人と繋がっているだけ。
他にも治すアイディア、未発達を育てるアイディアを持っている人はいます。
だから、ベルトコンベヤーから降りた、親御さんが素晴らしいのです。
「おかしい」と気づき、行動に移せる親御さんは、必ず最後には、ふさわしい人と縁ができるわけです。


だって、親御さんは我が子のことで妥協しないものだから。
親が子の手を離すときは、子が自立したときです。

2019年8月1日木曜日

社会は働ける人を求めている

函館も連日、30度超え。
今まさに、北海道の短い夏の真っ只中。
せっかくの暑さなので、楽しまなければなりません。


夏を楽しむといえば、唯一、この時期の早番は苦ではありませんでした。
施設職員だった頃、ほとんど車が通っていない道路を、輝く海を見ながら走る。
風も気持ちが良くて、ぜいたくな気分を味わいながらの通勤でした。
でも、この時期以外の早番は、外はまだ暗いし、寒いし、冬なんか凍結した道路を早朝から走る。
通勤だけでもテンションガタ落ちだったわけです。


夜も明けぬうちから、掃除、洗濯、生活援助、食事を用意し、学校に子ども達を送りだします。
なんたって、人がいないのですから、止まっている時間など、私達にはないのです。
ようやく登校の準備ができた頃に、外を見れば、学校の先生たちの通勤時間。
子ども達が学校に行っている間に、また掃除をして、支援の準備をして、会議、打ち合わせをして気が付いたら下校時間。
そこから個別指導をして、余暇の支援をして、夕食の準備をして…ちょっとホッと息をついたときに、窓の外を見れば、先生たちの退勤時間。
そうです、私達は、先生たちの出勤と退勤を仕事をしながら見るのです。


昨日、埼玉県で「支援学校に通う生徒が急増している」というニュースを目にしました。
それで学級を増やしても、受け入れ施設が足りずに、学校建設が始まっている様子も紹介されていました。
埼玉県のように人口が多く、財政的にも余裕があるところは、学校新設ができるのでしょう。
地方は、子どもの数の減少により空いた教室や、統廃合でまるまる空いた校舎があるので、そういったところに、支援級や支援学校が入ります。
北海道は、人口がどんどん減り続けていますし、当然、子どもの数も減っています。
それにもかかわらず、北海道でも、支援級、学校に通う生徒は増え続けている。


全国的に支援級、支援学校に通う人が増えたということは、卒業生もその分、増えるわけです。
ごく一部の専門的な高等支援学校以外は、一般企業への就職は難しい現状です。
じゃあ、その卒業生たちがどこに行くかといったら、メインは福祉。


その福祉が、卒業生が増えた分だけ、利用箇所が増えているのか、といったら、そんなわけはありません。
学校は、文部科学省、福祉は厚生労働省。
わざわざ調べる必要はありませんが、その予算の差は歴然としています。


分かりやすい例で言えば、一番の支出である人件費を見れば、すぐにわかります。
私達、施設職員は、15名を1人、または2人で支援しています。
隣接していた支援学校は、子ども1人に対して、先生1人(臨時や補助を含む)。
先生1人を一年間雇えば、400~500万。
それに比べて、施設職員は、半分とは言わないまでも、3~4割減くらいでしょう。
しかも、学校の先生は、一度本採用になれば、定年まで働けます。
一方施設は、中堅くらいになると、キツイ仕事へ異動が始まります。
つまり、中堅、ベテランはいらない、というか、雇えない。
だから、お給料の安い若手ばかりか、パートで空き時間に、という職員ばかりになるのです。


こういった世界で働いていましたから、同じ特別支援で、障害を持った子ども達と関わる仕事をしていたとしても、教育と福祉では別次元の話だと思っていました。
ですから、今から慌てて支援学校が増やそうとも、空き教室に支援級ができようとも、それは学校の中の話。
「じゃあ、これから福祉予算を増やし、事業所をバンバン作ろう」なんてなるわけがないのです。
しかも、いくら予算が増えたとしても、働く人が集まるわけもない。
どこもかしこも、どんな業種も、「職員募集」となっているのですから、福祉はなおのこと、人がくるわけはないのです。


私が学生だった頃、もう15年以上前から、卒業後、福祉事業所に申請したけれども、「何十人待ち」「通えて週に1回」などと言われていました。
結局、今、利用している人達のほとんどは、そこから巣立って一般就労をするわけではありません。
ということは、椅子取りゲームなわけです。
椅子が空くのは、当人が働けなくなったとき、通えなくなったとき。
そうなると、一人の席が空くまで、20年も、30年も、かかる。
支援学校を卒業した若い人達が、そういった福祉事業所に入るには、事業所が新設されたときか、利用者が辞めたときしかありません。


さらにさらに、今は普通の高校、大卒、一般企業で働いていた人も診断を受けて、福祉事業所の列に並ぶ時代です。
そうなったとき、重度の知的障害がある人、他害等の問題行動がある人と、大卒、一般企業で働いたことがある人、どちらを利用させたいですか、となるわけです。


ここからは、私の創作話。
このままいけば、支援学校の卒業生たちの行き場がなくなるのは必然です。
自宅待機が大多数になるでしょう。
一般企業で働いたとしても、そもそも支援学校の中で、働く姿勢、土台は養えないので、すぐに辞めていくでしょうし。
働く姿勢、土台は、家庭生活の中で培われます。
家でチャランポラン、やりたい放題、基本的な生活習慣が身についていない子に、先生たちがどんなに頑張っても、働き続けることは無理。


福祉事業所は、大幅に増えることはないでしょうし、職員の意識、質の低下は免れませんので、利用した人は利用しっぱなし、卒業や企業への就職はほぼゼロ。
新設できたところがあれば、大卒、一般企業で働いていた人を優先的に採用するでしょう。
または、「重い人だけを集めて、とにかくのんびり」というような事業所によって、極端な色が出ると思います。


一つ言えるのは、福祉も選ばれる時代。
その選ぶ人は、利用者ではなく、施設側。
福祉を利用することが本人の能力、ニーズと合っていたとしても、より真面目にきちんと働ける人、毎日、休まず働ける人、というような今まで福祉が「まあまあ、障害もあるし、いいよね」といって曖昧にしていた部分も、ちゃんと労働者として見られることになるでしょう。
行政の方も、「在籍していたら、来ても、こなくても、同じお金出すね」というようなふざけたルールのままではいかなくなると思いますし。


「特別支援学校が新設されてラッキー」
「うちの地域では、支援級がどんどん増えてる」
と喜んでいるのは、子ども時代まで。
その間に、きちんと働ける力、働く姿勢を養っていなければ、18以降の椅子取りゲームには勝つことができません。
そもそも、福祉のサービスの質は低下する一方だと思いますし、一度、福祉に入ってから抜け出すには、相当本人の意思と努力が求められます。
つまり、「就労支援」なんていうのは、今以上にただの看板だけになり、そこに通ったから、一般就労が近づく、その準備ができる、というのは、ほぼ「ツチノコを見た」くらいのレベルに。
もちろん、本来の目的である就労支援をきちんとやっている事業所もあるでしょうが、そこだって人材難はずっとついてまわります。


私は、学校の先生の通勤と退勤を、福祉の世界から働きながら見ていたわけです。
ですから、行政がひっくり返るくらい大きく変わらない限り、現状の福祉の有り様は変わらないと思います。
ですから、子ども時代がとても大事。
更に言えば、子育てが大事。
言葉以前の発達段階にあるヌケや遅れをそのままにしてはいけないのです。
何故なら、頼れるのは親である自分しかいないから。


どこの世の中に、親以上の情熱を持って育んでくれる人がいますか。
そして現状を見ても、学校の先生だって、いくら予算や人員が増えようとも、学ぶ土台、働く土台ができていない子に、教えようがないのです。
結局、上辺だけの知識、テクニックにしかならない。
土台があって初めて、学校での学びが実践に繋がる生きたものになる。
福祉は…長くなったので、略。


学校は、発達のヌケを育て直す場所ではありません。
学校は、基本的な生活習慣、身辺スキルを教える場所ではありません。
より良く学べるために、家庭で土台をしっかり養う、発達のヌケ、遅れがあれば、育てていく。
そうやって家庭が主体的な子育てをやっていかなければ、自立も、一般就労も、さらに福祉的就労であったとしても、道が狭まってしまうのです。


私は福祉に全く期待してません。
現状の特別支援教育にだって、限界があると思っています。
ですから、治せるところは治す、未発達な部分は育てる。
これは家庭の中で、親子の育み合いの中で行えること。
そして、皆さん、一般就労を目指す。
今でさえ、働き手が足りずに、困っている社会です。
ある意味、福祉的就労を目指すよりも、一般就労を目指す方が、選択肢も、可能性も大きいといえます。


社会は、働ける人達を求めている。
発達障害云々ではなく、働けるかどうか、働き続けられるかどうか、が大事なのです。
そのための言葉以前のアプローチ、発達のヌケを育て直す、です。

2019年7月31日水曜日

中途半端にではなく、きちんと嫌う

メールでの相談がくるようになってから何年も経ちますが、返信を受け取った人から「こんなにズバッと言われたのは初めてです」と言われることがあります。
問題があれば、それが問題であると指摘するのは当然のことです。
だって、今まで通りで、うまくいかないから、わざわざ相談しているわけです。
これは、メール相談でも、実際にお会いしての相談でも、一緒。


カウンセラーなら、共感するとか、否定せず受け入れるとかが大事なのかもしれません。
でも、私の仕事は、子どもさんがより良く発達、成長するための後押し。
親御さんが、主体的に子育てができる後押し。
ですから、具体的な行動として現れるくらいまでの後押しができなければ、意味がないと思っています。


中には、接待慣れしている当事者の人や親御さんからの相談もあります。
「あなたは悪くないよ、頑張っている。周囲の理解がないよね」
「お母さんの子育ての方向性は間違っていないですよ、今は結果が出ていないですが」
という私からの言葉が欲しいのがありありで、の人もいます。
そういった場合には、その問題点を指摘して、やりとりを終了します。


接待慣れしている人に、「誰それ構わず、接待を求めるのは間違いである」と指摘するのは、本人のためであり、社会のため。
接待はその場しのぎで合って、何も解決はしません。
接待しても、発達のヌケは埋まっていかない。
ただただ周りの人に迷惑をかけるだけであり、挙句の果てに、接待に応じてくれない一般の人に対して、抱く必要のない嫌悪感まで抱いてしまう危険性があります。
恨まれた一般の人は迷惑。
恨まなくていい人まで恨み、余計な社会への恨みを持つのは、自立を自ら遠ざけているようなもの。


ですから、嫌うときも、しっかり嫌います。
中途半端に嫌いません。
何が嫌だったか、問題だったかを具体的に言葉にして伝え、あとは拒否。
嫌いな人達にヘコヘコしたくないし、自分の時間を使いたくもない。
何より、そういった中途半端な対応が、誤った人間関係を学習させ、どれだけ多くの迷惑な人達を育ててきたのかって感じです。


支援者というのは、直言する人がほとんどいない。
それは、当事者、保護者をお客様だと思っているから。
それもあるけれども、根本的なところでいえば、愛着の土台が育っていないからだと思います。
しっかり嫌わないのは、嫌えないのは、相手のことを思っているのではありません。
もし、本気で相手のことを考えているのなら、耳の痛いことでも、ダメなものはダメというもの。
それが支援者の仕事であり、相談者の役割。
都合の良いときだけ、カウンセラーになってはダメ。


結局、相手を嫌えない人というのは、自分が嫌われたくない人。
支援者同士、とても仲が悪いのに、陰で悪口言いまくりなのに、表では仲の良いふりをする。
だって、みんな仲良く愛着障害で、嫌われることを何よりも恐れているから。
そういったいびつな人間関係を築いている支援者達に、そういったもので成り立っているギョーカイに、そもそも社会の常識、自然な人間関係を教えるのは、無理なことなのかもしれません。


親御さんの中にも、愛着の問題を抱える人達がいます。
親族でも、友だちでもない見ず知らずの私に接待を求めてくるのは、どちらかといえば、地方の人達が多い気がします。
個人情報が筒抜けの地域で、抜け駆けは許さない、みたいな文化。
私は、そういった世界で生きてきませんでしたので想像になりますが、個よりも大事なものがあると言われて育つのでしょうから、その文化自体が愛着障害作成機。


愛着の発達の流れは、無条件の愛で個がしっかり育つ。
内面が育ち、身体、感覚が育つ。
そうやって個が確立された人が、初めて他人を尊重できるようになる。
ですから、愛着の土台、個が育っていない人に、いくら処世術のようなマニュアルの人間関係を教えたとしても、それではうまくいくわけがない。


発達障害の人はどちらかといえば、身体性、感覚の未発達がゆえに、個が確立できていないことが多いといえます。
ですが、理由はなんにせよ、個が確立できていない人に、中途半端な対応をしてしまうと、それが誤学習のもとになってしまいます。
ですから、ダメなものはダメと伝えること、嫌なことをされた場合は、きちんと嫌うことが重要だと考えています。


一人に嫌われると、それだけで自分の生きる価値がない、世の中全ての人に嫌われている、と捉えてしまうのは、長い接待の歴史と愛着の土台の脆さの表れです。
私には、愛着の土台を直接的に育てることはできません。
でも、長い接待の歴史を否定し、誤学習をぶっ壊すことはできる。
そう思って、どなたとも接しています。
ですから、ズバッと切ってもらいたい方がいれば、私にご相談を。
接待を受けたければ、お住まいの地域の支援者をお訪ねください(笑)
しかし、問題の根本、根っこは、自ら行動しなければ変わっていきません。


未発達、発達の遅れ、ヌケは、接待では育っていかない。
言葉以前の発達段階を育てようとするならば、言葉での接待ではなく、身体を通した育みしかありません。
選択するのは、他の誰でもなく、あなたご自身です。
地域も、ママ友も、関係ない。

2019年7月30日火曜日

我が子を授かったときの想い

以前、面談した親御さんから連絡をいただきました。
あれから毎日、コツコツ育て直しをやっています、と。
目が回るようになったし、背中の過敏さが落ち着いてきた、とのことでした。
本人も前向きに取り組んでいるようですが、何よりもお母さん自体が、とっても前向きで、元気になったような印象を受けました。


面談の際、何度も、「私が子育てをしていたとき、この子の子ども時代は、そんな話を誰もしてくれなかった」とおっしゃっていました。
とにかく支援が大切なんですと「支援」「支援」「支援」の子育てだったそうです。
問題が起きるのは、「事前の準備が足りないからだ」と言われ、事前に先回りし、問題が起きそうなものは取り除き、そういった場所には行かず、周囲に配慮を求め続けた。
自分の中でも理解しきれないままに、「家庭でも視覚支援を」と言われ、見よう見まねで作ったカードの数々。


先回りに、視覚支援、挙句の果てに、我が子のパニックは、無視をする…。
生まれつきで、脳の障害だから、特別な支援が必要。
問題が起きれば、配慮が、支援が、知識が、足りなかっただからと自分自身を責める。
そんな月日を、成人した我が子の年齢の分だけ経験してきた親御さんは、このご家族以外にも多くいるのだと思います。


我が子を授かったとき、親は「あんなことがしたい、こんなことがしたい」と思うもの。
どこの世の中に、最初から「我が子の支援がしたい、療育がしたい」と考える親がいるのでしょうか。
きっとこの親御さんも、そうだったはず。
でも、我が子の障害がわかり、必死に専門家、支援者、先生の言うことを聞いて、今日まできたのです。


この親御さんは、きっと動きたいタイプの人。
他人のために何かをすることが喜びで、それでご自身がますます元気になる、という雰囲気がありました。
ですから、本人が一人で育てていく方法よりも、育み合って育てていくような方向でお話をしました。
すると、お母さんはみるみるうちに顔が明るくなっていき、最後には「成人した我が子だけれども、この子のためにまだできることがあるってわかって本当にうれしい」と涙を流されていました。
その涙の中には、したかった子育てができなかった、という想いも含まれているような感じがしたのです。


実は、世代に関わらず、未発達の部分、ヌケている部分の育てる方法を提案や紹介しますと、同じように涙を流される親御さんが少なくありません。
その様子をそばで拝見していますと、「治る」という希望が見えたこと以上に、普通の子育てができる、していいんだ、という安堵感の方が強いような気がします。
どの親御さんも、療育や支援が良いと言われるからやっているのであって、本心では葛藤があり、自分の気持ちに正直になれていない部分があるのだと思います。
たとえ、同年齢の子ども達と比べて発達の遅れがあったとしても、普通の子育て、自然な子育て、そして何よりも自分が思い描いていた子育てがしたい、というのが皆さんの本心ではないでしょうか。


昭和は、「親の育て方、しつけが」と言われていた時代です。
その揺り戻しで、「親のせいではありません」が強調された平成。
確かに、発達障害になるのは、親のせいではないかもしれません。
でも、出生後の発達の仕方、その歩み方には、大きな影響を与えるのが親であり、家族です。
育て方では発達障害にはならないけれども、未発達な部分を親が育てようとしなければ、発達のヌケや遅れは残り続け、同世代の子ども達の差は広がるばかり。


なんでもかんでもが「親のせいではない」になってしまった結果、親は責められることが減ったと思います。
でも、いつしか、普通の子育て、しつけの部分まで、「親のせいじゃないよ」と言われるようになってしまった。
そうやっていくうちに、「いいよ、母さん、私達、専門家がやるから」と、普通の子育ての部分にまで支援者が入り込んでいき、その主体性まで奪ってしまった。
それが私の見てきた平成の特別支援の世界。


日本の特別支援の創成期に活躍した有名支援者が、私の上司だったとき、こんなことを良く言っていました。
「入所施設に入ってくるとき、排泄が未自立、一人で食事が摂れない、ってどういうことなんだ。これは、障害云々ではなく、家庭でのしつけ、子育ての範疇だろう。でも、それをいいよいいよ、という支援者がいて、学校の中で教えますよ、なんていう教師がいる。そんなことをしていたら、この国の障害児者は、どんどん何もできなくなっていくんだ」
まさに予想通りの未来がやってきています。
支援者が、子育ての主導権を奪ってから、障害を持った人達の自立は遠のいていっています。


私の事業の目的も、私のライフワークも、『親御さんが伸びやかに、楽しみながら行える子育て』です。
なので、本来は、どうやったら、より良い子育てができるか、子どもの資質だけではなく、親御さんの、家族の資質と併せて、考えていくことが仕事だと思っています。
でも、それ以前に、奪われた子育ての主体性を取り戻す、ということも仕事の一つになっています。
令和の時代になって、超早期診断を受けるような親御さんであっても、未だに「普通の子育てではダメ。それはできない」というようなメッセージを受け取り、悩み苦しんでいる人達がいます。
早期診断は、より良い子育てのための一歩であるはずなのに、特別支援という枠へ組み込まれるための通過儀礼になってしまっている。
時代が変わっても、支援者はまだ親御さんから子育ての主導権を奪おうとするのだろうか。
そんなにも、支援者でいること、支援することが大事なのだろうか。


冒頭で紹介した親御さんは、育て直し、いや、子育てを楽しんでいるような雰囲気を感じました。
ずっと抑えてきた感情、エネルギーがやっと解放できた感じです。
本人もよく「気持ちいい」というそうですし、その姿を見て、お母さんも嬉しい気持ちでいっぱいだということです。
「うちの子を、もう一度、育て直して、ラクな身体に育ててあげることが、私の目標です」とおっしゃっていた親御さん。
その言葉には、喜びと前向きな感情がにじみ出ていました。
子どもを授かったときの想いと繋がるお手伝いができて、私自身も嬉しかったです。


言葉以前の発達段階へのアプローチなのですから、本人にとって名も無い遊びが大事なように、自然な親子の育みが大事なのは当たり前なのです。
子育ての主導権を奪われてはいけませんし、誘導されて渡してもいけません。
ごく自然に流れる親子の歩みの中に、発達がある。
普通のことはしないで、特別なことをしようとするから、特別な子になってしまうのです。

2019年7月28日日曜日

動物的な感覚を研ぎ澄ます

出張の楽しみは、その土地の名物、食事です。
でも、思いっきり食べるのは、すべての仕事が終わったあと。
何故なら、満腹になると、仕事の質が下がるから。


以前は、セッション中にエネルギー不足になってしまったら大変と、仕事の前には多く食べるようにしていたのですが、どうも、勘が鈍くなる感じがしました。
反対に、空腹になるくらいの方が、直感が働き、いつも以上に見えるような気がしたのです。
それ以降、仕事の前は、なるべく少量にしています。


発達のヌケ、遅れの根っこは、言葉以前の発達段階にある場合がほとんどです。
ですから、それは確認するのではなく、感じなければなりません。
「マニュアルを見て、1つずつ確認」みたいな方法では、言葉や文字を使った思考になりますので、本当の意味で確認することはできないと思います。
ある人から、一切メモを取らないことを驚かれましたが、メモは文字ですし、雰囲気を掴むには、その作業が邪魔になります。


声なき声のように、言葉なき身体、発達のメッセージを受け取る。
そのためにも、自分自身が動物に近くならないといけない。
その入り口として、腹いっぱいでも、腹八分目でもなく、腹五分目くらい。
断食している人が、「感覚が鋭くなった」と言うことがあるので、あながち間違った方法ではないと思っています。


「言葉以前のアプローチ」と出会い、ますます私は直感、雰囲気を大切にするようになりました。
なので、知識や勉強などは、確かめに近いです。
「なんだか気になった」「違和感を感じた」「ここが踏ん張りどこだと思った」
その理由を探すために、後付けの勉強をしています。


先日、親子での相談をお受けしました。
子どもさんは、すでに成人されていた方でしたが、部屋に入ってきた瞬間、なんだかしんどそうな雰囲気を感じました。
ですから、椅子に座った瞬間、「ここに来るということ自体が、相当しんどかったんじゃない?」と私は言いました。
すると、すぐに顔をあげ、私に足の指を見せてきたのです。
足の指の爪が極端に短くなっていました。
自分でやったようです。
親御さんも知らなかったことでした。


ノンバーバルの方でしたが、私の言葉や、自分のしんどさに気が付いたということは分かってくれたようでした。
ですから、日頃、関わっている支援者にも見せなかった足の指を見せてくれた。
本人からの訴えもあったのだと思います。
結局、自分のしんどさを訴える手段もなかったし、それに気が付いてくれる人が側にいなかったということです。
しんどさの根っこは、発達のヌケと脳の左右差の大きさでしたが、人知れず、辛い想いをぶつけていた自傷行為を見せたかったのかもしれません。
ちなみに、セッション以降、自傷はなくなったとのこと。


ノンバーバルの人は特に、誤解されやすいですね。
重い障害で、こちらの言っていることが分からないだろう、と思われがちだし、本人の意思もはっきりしていない、と捉えられてしまう。
周囲の人からも、本人はしんどさを抱えているのはわかるんだけれども、それが障害ゆえ、障害が重いがゆえ、と見られてしまうことが多い気がします。
そういった関係性が長く続いてしまうと、訴えること、伝えようとすることすら、やめようとしてしまう。
でも、障害者の前に、同じヒトなのですから、しんどければ、それをどうにかしてほしい、と願うのは当然のこと。


ノンバーバルの人、知的障害が重い人以外にも、コミュニケーションが苦手な人もいますし、自己認知、身体感覚に気づきづらい人もいます。
だからといって、相談を受けることが難しい、支援することが難しい、とはならないと私は思います。
繰り返しになりますが、発達のヌケ、遅れの根っこは、言葉以前の発達段階にある場合が多いのです。
ということは、本人からの言葉がなくても、訴えが明確じゃなかったとしても、アセスメントはできるし、育てることもできる。
何故なら、その人の身体、発達がメッセージを発しているから。
それが雰囲気となって、伝わってくる。
それを感じられるかどうかが、支援者としての分岐点になると思います。


そういった意味で、親御さんが一番治せる人になるのです。
だって、言葉にならないような小さな変化、些細な出来事に最初に気が付くのは親御さんだから。
よく相談で、「なんとなくおかしいと思う」ですとか、「今、私が頑張らなければいけない時期だと思うんです」とか、「適当にやってみたら、バッチリはまった」ですとか、こういった抽象的なことを言われる親御さんが多くいらっしゃいます。
それ自体に、エビデンスも、アセスメントシートも、何もない。
でも、気がついたし、察したし、やったことが素晴らしい発達の後押し、導きになっている。
専門家が「治らない」「受け入れろ」といっていたことが、親御さんには治せているのが何よりの証拠。


いろんな親御さん達とお会いしてきましたが、親子の雰囲気がいいのは、やっぱり動物的な子育てをされているご家族。
「気持ちいい」「心地良い」「なんとなく良いと思う、避けた方が良いと思う」
そういった知識や言葉ではなく、感情や雰囲気を大切にされているご家庭は、伸びやかな子育てができているし、発達も豊か。
まあ、それは当然なことだといえます。
だって、言葉以前の発達段階にヌケと遅れがある子ども達なのですから。


「ノンバーバルの子は、難しい」
「知的障害がある子の支援は、難しい」
そういう支援者は、言葉を獲得した以降の発達しか見れていない人。
脳の表面にはアプローチできるけれども、脳の深い部分にはアプローチできない。
反対に、「言葉がある人は」「知的がない人は」というような支援者もいるけれども、それも同じこと。
そういった発言が出ること自体、同じように脳の表面しかアプローチできない証拠。
言葉があっても、知的障害がなくても、しっかり身体、発達からのメッセージを受け取らなければなりません。
そこが課題、生きづらさの根っこだから。

2019年7月26日金曜日

その空間は、地域に、社会に馴染んでいるのか?

都市部では借家や間借りが一般的なのに、地方に行くと、まあ、立派な建物を一から作り、福祉事業を展開している姿を見かけます。
ほとんど人が歩いていないような場所に、最新の設備が整えられた施設。
どうして、ここに最新の設備が必要なのだろうと思うと、「他人の金(税金)だからね」という答えが返ってきます。


田舎では、未だに個人的な権力、権威、業績の証として、その地域一番の建物を建てようとする傾向があるようです。
それくらい立派な建物を、障害を持った方達のために作ったのですから、よほどの福祉への想いがあると思いきや、まったく関係ない人がトップだったりします。
福祉って、建前としては、とっても使いやすい分野。
結局、本音のところは、「この地域で俺はすごいんだ」「こんな立派な建物を建てられたんだ」というちっぽけな私心。


一方で、それを認可する行政の方も、できるだけ大きなモノを、できるだけ工期がかかり、地元にお金が落ちるように、という思惑が感じられます。
そもそも空き家だらけなんだから、それを活用すれば良いのです。
どうして、わざわざ時間と金がかかる方法を選択するのでしょうか。


本当に、障害を持った方達の生活を考えるのなら、できるだけ早く利用できる方が良いに決まっています。
大きな変化を嫌がる人も少なくないのに、本人が、というか、スタッフも含めて初めて見て、びっくりするような環境にしてしまう。
一番大切なのは、なじむこと。
その人の生活に、その地域に。


そういった場違いな施設に限って、「見学はご自由に」「いつでも歓迎」というような心のこもっていないA4の紙が玄関に貼られています。
どうして、その地域に馴染んでいないような建物が、さらにただでも障害を持った人の施設として敷居が高いのに、地域の人達が気軽に訪ねてくるといえるのでしょうか。


私が思うのは、結局、障害を持った人、本人の意思や気持ちが一番最後になっているということ。
立派な建物を一から作ることは、その地域にとっては、ありがたいことなのかもしれない。
建てようと思った中心の人達だって、いくら「借金をする」といっても、自分で営業して、試行錯誤して、質を高めて、投資して…というようなことはせず、利用すれば、お金が降り込まれる仕組みになっているから、自分の腹が痛むわけでもなんでもなく、自分の功績を示せるわけです。
スタッフも、「こんなきれいな施設で働けてラッキー」
親御さんも、「こんな立派な設備の整ったところに預けられてラッキー」
じゃあ、そこを利用している人達の安心はあるのか、生活の質は保たれているのか、他の人達と同じような失敗や成功、試行錯誤からの成長はあるのか、できるのか。


相談の電話やメールは、全国各地からいただきます。
その際、「私の住む地域、県に、治った人はいますか?紹介していただけませんか?」というようなことを言われることもあります。
もちろん、治った人を知らないわけではありません。
でも、勝手に教えてはいけませんし、そもそも治った人達は、その地域にすでに馴染み、一般の人として生きているわけです。
ですから、治りたい人にとっては、治った人やそのご家族と繋がることは大きな意義があると思いますが、すでに馴染んで生活している人からしたら、「どうかな」と思うのです。


治った人達、親御さん達を見ていますと、徐々に特別支援の世界から遠ざかっていくような印象を受けます。
といいますか、興味関心、考えること、悩みが、同世代の人達と同じようなものに移り変わっていくような気がします。
でも、そういった変化も、「治る」なんだと思います。
なので、私が面談するときも、そういった話題が増えたかどうか、が発達状況を確認する以外に、重要な部分として捉えています。
精神状態の確認は、今と過去と未来の話の割合。
脳の状態の確認は、表情のバリエーション。
治っている状態の確認は、興味関心の幅。


発達障害が治った人達に対して、「もともと発達障害じゃなかったんだ」と負け惜しみを言う人がいます。
本人や家族のそれまでの歩み、気持ちを想像すると、それ自体、とても腹立たしいことなのですが、一方でそれくらい社会に馴染んでいるのだと思うのです。
「もともと違った」と言わせてしまうくらい、自然な発達、治り、馴染み。
究極は、本人が気づく前に成長と共に治ってしまうことが理想ですが、他人から「もともと違った」と思わせるくらい発達し、治しちゃうのも、とても素晴らしいことだと思います。


スペクトラムなのですから、発達を続けていれば、いつか発達障害という域を飛び越える瞬間があります。
それに発達とは、ある一つの要素ではなく、様々な要素の発達が折り重なった総和です。
なので、より良く学ぶための空間、快適に切るための空間は分けても、生きる世界までは分ける必要はありません。
今の特別支援は、社会に馴染むのではなく、遠ざかっていくような印象を受けます。
そもそも社会には多様性があり、学びも、発達成長させてくれる機会も、溢れています。
社会に馴染むのは、マイノリティの敗北とは言わない。

2019年7月25日木曜日

エビデンスは見えないけれども、治った人は見ることができる

昨日のブログ『障害名(仮)』には、多くの反響がありました。
その反応は、私が実際にお話しした親御さん達の反応と似ていましたので、それだけ大前提を抜かされた説明、支援に囲まているのだと思います。


一方で、「私が診断を受けたときは、ちゃんと“障害名は変わることがある”と説明があった」という話を教えてくださった親御さん達がいました。
そういった親御さん達に共通していたのが、実際、お子さんの診断名が変わり、というか、診断名が外れ、治っていった方達でした。
最初に説明してくれたお医者さんの説明は正しかったですし、お子さんもそのように成長していったのです。


もちろん、親御さんの力もあると思います。
しかし、じゃあ、診断された当時、我が子が幼く、突然の「障害」と出会ったときに、「障害名は変わることがあるよ、お母さん」と言われていなかったら…。
もしかしたら、今、治って、社会の中で同世代の人達と同じように生きている子ども達の未来が変わっていたかもしれません。
その障害名をそのまま丸飲みし、思いっきり療育、支援、理解の世界へと突き進んでいた可能性もあるのではないでしょうか。
医師、専門家の一言は、家族のあり方、子どもの未来を変えてしまう。


現在の知見、科学では、発達障害かどうかの根拠を誰も示すことができません。
だったら、その無力さをまず自分たちが受け入れた上で、アドバイスなり、サポートなりすべきだと、私は思うのです。
診断基準に照らし合わし、スコアを付けることはできても、何故、発達障害なのか、その原因と理由を説明できません。
それなら、そのようにちゃんと話をするべきです。


「スコアをつけたら、自閉症の診断基準に該当していた。だけれども、これは今日見た中での結果であって、明日、1年後、将来、どのようになるかまでを示したものではありません。知的障害があると判定された子も、成長と共に正常域になっていったなんて珍しくないんですよ」
そういった一言が添えられていれば、どれだけ多くの親御さん達が、子育てを諦めず、我が子がより良く成長できるように頑張ろう、と前向きになれたか。
同時に、子どもは基本的に親を選べないし、育てられ方の選択肢もないのです。
ということは、極端なことを言えば、1歳とか、2歳とか、人生が決まるかもしれない、本人の意思表明ができるようになる前に。
何も分からないまま、少なくとも子ども時代は、障害児として生きる道が用意されてしまう。


実は、発達障害が治るも、治らないも、その根拠はどちらにもないのです。
ただ分かっているのは、発達とともに障害名は変わっていくこと。
そして揺るぎがない現実として、幼少期に障害名が付いた子の中に、診断基準を満たさなくなった子がいること、社会の中で、学校の中で、同世代の人達と同じように生きていること。
研究や論文では、肯定も、否定もできますが、実際に治った人の存在まで否定することはできません。
だって、その人がそこにいるから。
エビデンスは見えないけれども、治った人は、この目で見ることができる。


真面目な話として、最初にどういった専門家と出会うか、がとても重要だと思います。
未だに(昭和じゃなくて令和ですよ、令和!一年後は東京オリンピックなのに!!)、「一度付いた障害名は変わることがない」と本気で思っている専門家たちがいるのですから。
また中には、こういった大前提を知っていても、敢えて説明しない人もいるのです。
だって、支援したいから、僕の存在意義を確認するために、私が食べていくために。
発達障害は、“発達期”に生じるのですから、発達の仕方によって変わっていくのは当たり前でしょ。
治った人と治らなかった人の違いは、些細なきっかけなのかもしれない。
だからこそ、治った人達がいることを発信していくのは、今の子ども達のためにも、社会のためにも必要なことなのです。


根拠のないインチキ占いよりも、治った人の生の声。
「治った人がいるんだ」
「一生涯の支援ではなくて、自立できた人がいるんだ」
それがわかるだけで、どれだけの親御さん達が前向きに歩んでいけるか、子ども達の可能性が広がっていけるか。
たとえ、診断時に(仮)の説明がなかったとしても、自分が住んでいる地域に、そういった考えの人、治った人がいなかったとしても、全国には大勢の治った人達と、治ってほしいと願っている人達がいます。


お会いした人達にはお伝えしていますが、まだブログでは紹介できていませんでした。
【治そう!発達障害どっとこむ】
会員登録が必要なわけでも、料金がかかるわけでもありません。
同じ志を持つ人達が、ただただ心から治ってほしいと願い、交流しているサイトです。
自由に覗けて、いろんな方達の物語が見られます。
インチキ臭い私のブログですが、このサイトをご覧いただければ、(仮)が本当だったんだと分かって頂けると思います(笑)

2019年7月24日水曜日

障害名(仮)

幼少期についた診断名には、(仮)がつくのは当たり前のこと。
特に、自閉症、ADHD、LD、知的障害というような診断に関しては、“現時点で”、“検査、診断したとき”は、「〇〇障害だよね」「〇〇障害の診断項目に該当するね」って感じです。
今まさに人生の中で一番盛んな発達期を過ごす子ども達なのですから、これからの発達によって、どのようにも変わっていくのです。


現在、いかに早く診断名が付けられるかが、世界的なトレンド、専門家の同士の腕比べになっているようですが、本来、そんなことはどう~でもよいこと。
大事なことは、その子がより良く発達していけるにはどうしたら良いか、という未来のお話なのですから。
いくら1歳で診断ができるようになったとしても、「じゃあ、その1歳までの発達のヌケをどう育てるか?」という視点がなければ、意味がないのです。
まさに、昆虫採集と一緒。
それは、本人、家族のためではなくて、診断する者の趣味嗜好のレベル。


診断名が変わっていくのは、当たり前。
ですから、本当は診断名によって、「支援級だ」「支援学校だ」と決められるのはおかしなことなのです。
さらにいえば、一度支援級に入った子が、普通級に転籍するのに相当な労力がいるのもおかしい話。
何故、就学前についた(仮)の障害名をそのまま、6年間、引き継ぐのでしょうか。
挙句の果てに、中学まで引き継ごうとする。


いやいや、就学前と今を比べれば、大きく変わるに決まっているでしょ。
就学前に知的障害があったって、その後の発達によって、知的障害が軽度化していくし、標準域に入ることも普通にあります。
自閉症という診断だって、未発達な部分が育てば、治ります。
ですから、支援級の場合は特に、同じ学校内に普通級もあるのですから、そのときの発達段階、状態によって、柔軟に行き来できれば、と思いますし、それが本来の個別支援、インクルーシブ教育だったのではないのでしょうかね。
どうも、教育という名のお役所仕事のように思えることが多々あります。


私のところに相談をくださる方達の年齢が、本当に低くなったと感じます。
事業を始めた当初は、就学前の子どもさんからの相談があれば、早いなと思ったのですが、今は1歳、2歳、3歳くらいの子どもさん達が多くなっています。
明らかに利用される方達の年齢の中心が低い年齢へ、低い年齢へと移ってきています。


そんな年齢の低い子の親御さんに対して、最初に尋ねるのが、「診断を受けたときに、ちゃんと(仮)の説明がありましたか?」ということです。
皆さん、「そんな話は聞いたことがない」と口をそろえて言われます。
それどころか、「風邪のように治らない障害」「生涯、支援が必要になります」「早期に療育を受ければ、その子らしく成長することができますよ」というような平成初期から続く定型文ばかり。
超早期診断に熱を上げ、それが一般的になるのは良いけれども、説明は平成のままってやめてくれよな、って思います。


1歳で診断がついたけれども、向かった先が、「治りません」というギョーカイ団体。
いくら治る時代になっても、いくら診断名は(仮)であるという前提になっても、運用する先が、行き着く先が、旧来のままなら、なんも意味がない。
ただ支援が早く始まり、支援期間が伸びるだけ。
就学前後の診断だったら、その間に治ってしまう子もいただろうに、その可能性、機会すら奪ってしまいかねない現状。
1歳、2歳で診断しても良いけれども、そのとき、ちゃんと「(仮)だからね、お母さん」「発達していく中で、診断名は変わっていくし、外れていくこともあるからね」と説明してもらわなきゃ困ります。


どこの世界に、1歳、2歳の子どもの未来がわかる人がいますか。
DNAが、その子の人生のすべてを決定づけているわけではないし、そもそも発達障害の診断で遺伝子検査は行われていない。
超早期診断だって、表情とか、視線とか、共同注視があるか、指さしがあるか、といった行動観察。
1歳児に指さししなかった子が、あとから指さしするようになることなんて珍しくもなんともないですし、反対に目が合って、指さしもあった子が、2歳以降、急にやらなくなることもあります。


そんなのは当然なんです。
ヒトが、どのように発達していくのか、遺伝的な面を発現させていくか、なんか予測はできません。
この子が、どんな環境、刺激の中で育っていくかがわかったら、それこそ、オカルトの世界です。
超早期診断も、普通(?)の診断も、血液型占いか、星座占いかの違いみたいなものです。
ですから、せめても「これは占いですよ。信じる信じないかはあなた次第」くらいは言ってほしい。
それが(仮)の説明だと思うのです。


1歳とか、2歳とか、3歳の子の親御さんが、(仮)を知らなかったばかりに、「この子には、たくさん支援を受けさせることが幸せになる」と思い込み、未発達な部分を育てるよりも、我が子の子育ての時間を楽しむよりも、幼い子を連れて、何時間もかけて、何か月も待って、蕎麦屋の出前みたいな療育、支援を受けに行く姿を見るたびに、私は悲しくなります。
何百回も言いましたが、早期診断早期療育で突き進んでいった先進地域の元子ども達は、バスに揺られて、今日も明日も明後日も変わらぬ日々を過ごしているのです。
早期診断、早期療育は、「自立して生きていくために」と言われてたのですよ。
これだったら、先進地域以外の障害を持った人達の方が、自由な子ども時代を過ごし、ガチガチな脳、身体にならずに、作業所に通えています。
先進地域で早期療育を受けてきた高機能の人達までも、作業所に行く現実を見た方が良いのです。


「診断名(仮)」を流行らそうと、私は思っています。
だって、せっかく授かった命、我が子ですから。
子ども時代で一番かわいい時期、愛しい時期を、とにかく必死で療育に通ったという思い出だけで埋めて欲しくなのです。
「泣いている我が子を抱きかかえて、療育に通っていました」というお話は、親にとっても、子どもにとっても、不憫で仕方がありません。


朝のテレビの占いで12位だったとしても、明日は1位かもしれない。
そんな感じでいいんじゃないですかね。
だって、どんな明日が来るかは、誰にも分からないのですから。
(仮)だからこそ、治る可能性だってありますし、治っていく子がいるのも自然なのです。

2019年7月23日火曜日

生涯をかけて治していく

「完璧な発達」というのは、ないと思います。
大なり小なり、みんな、発達の偏りはあるでしょうし、凸凹しているでしょう。
でも、それでいいんです。
それが自然な姿だと思います。
ヒトは、生涯かけて発達していくもの。
人生の途中を切り取って、「発達が整っていない」と指摘するのは、意味のあることなのか、という思いもあります。


人生の始まりの頃に、発達の遅れがあると、今の世の中では「発達障害」となります。
しかし、早期療育を受けた結果、発達の遅れには手をつけず、刺激を与えず、グレーがグレーのまま、むしろ、色が濃くなっていく若者たちを見ますと、早期に診断されるということが果たして良いことなのだろうか、と思うのです。
発達障害保存の会・・・。


発達の遅れを指摘することが、その子の発達につながらない。
ただの言いっぱなしになっている現在。
本来、生涯かけて発達するものが、幼少期にストップがかけられているような現状。
だったら、発達の遅れを、わざわざ指摘してくれるなよ、と思います。


親御さんの中にも、発達の凸凹を感じることがあります、その名残を、雰囲気を感じることがあります。
「子ども時代の私もそうだった、同じだった」という話は、よくあることです。
お子さんと同じように、お父さん、お母さんも、子ども時代、発達の遅れがあった。
じゃあ、何が違うのか。


今、仕事をし、結婚をし、子どもを授かり、生きている親御さんと子は何が違うのか。
発達障害が産業の一つ、子育てが商売の一つになってしまった社会の違いもあるでしょう。
自由自在に遊べた環境の違いもあるでしょう。
でも、一番の違いは、生涯かけて発達するという前提が保障されているかどうか。
私は、この世界に入ってつくづく思うのが、発達が急かされ、余白がどんどん失われていく窮屈さ。


できるだけ早く発達し、小さな"大人"になることが求められる。
元発達障害を持っていた親御さん達が、自由な人生を謳歌している一方で、1歳、2歳、3歳で「発達障害です」と告げられ、相談に来られる子ども達の「生き苦しさ」ではなく、息苦しさ。
私は、親御さんが自分自身を育て、治してきたように、子どもも同じような子ども時代、人生を歩めばよいと思うのです。
野山を駆け巡り、呼吸を育て、感覚を育て、動きを育てたように。
でも、今は時代が許そうとしない。


ヒトは、生涯をかけて発達するのだから、人生のある時点で発達の遅れがあろうとも、本当はどうでもよいことなのでしょう。
それなのに、就学前の子どもに、「字が書けるか?」「計算ができるか?」と尋ね、それで普通級、支援級の判断をするような教育者がいる。
これからの社会、日本も、いろんなバックグランドを持った多様な人達と共に生きていく時代になっていくのに、それに抗うような下校時、校門の前にずらっと並ぶ車の数々。
早期療育だなんだといって、同世代の子ども達が体験することが体験できず、受けれる刺激が受けられず、人工的な環境へと隔離されていく。
挙句の果てに、「発達障害を持った人が住みやすい社会を」という意味不明な主張さえ展開される。
私には、発達の機会から敢えて離れることで、発達障害というマイノリティを保持し続けようとしているようにさえ見える。


私は、お会いした人には、よく言います。
「発達に遅れがあることが問題なのではなく、発達する機会、猶予、自由が与えられないことが問題なんだ」と。
元発達障害の親御さん達も、生まれる時代が遅ければ、診断名が付き、早期療育という名の分断の中に組み込まれてしまっていたかもしれません。
そうなれば、今の自由な生活があったかどうか。
今、共に歩むパートナーと出会えたかどうか、我が子と出会えたかどうか。


発達とは長距離走です。
自分のペースで、足を前に出し続ければいいのです。
途中で歩いたっていいし、走ったっていい。
でも、今は短距離走のような雰囲気になっています。
就学というゴールテープに向かって、みんなが脇目も振れず、全速力で走っている感じ。
しかし、人生100年時代の子ども達でいえば、たった6年間の話であり、発達する時間はまだ十二分に残っています。


20歳を過ぎてからも、発達のヌケを育て直し、どんどん治っている若者たちがいます。
元発達障害の親御さん達だって、今もなお、発達の途中であり、治している最中だといえますし、そのように感じることもあります。
そうやって人生をかけて、治していく人がいても良いのではないでしょうか。


神田橋先生のお言葉を借りれば、「あなたも、私も、みんな発達障害」
だからこそ、生涯かけて発達し、治していく。
「治るなんてインチキだ」という人もいますが、私はそうは思いません。
だって、あなたも、私も、生涯かけて治しているのだから。
どうせ治すのなら、自分で試行錯誤しながら、楽しくいこうじゃありませんか!

2019年7月22日月曜日

この夏のテーマは?一つに絞るとして

基本的に一発勝負ですので、伝えられることはすべて、お教えできることはすべて、という気持ちで仕事をしています。
さらに、私は早口ですし、頭の中に浮かんだこと、連想したことを次々にしゃべるので、どうしても情報量が多くなってしまいます。
ここが私の課題でもあります。


ですから、情報を受け取った親御さんが、「これもやろう」「あれもやろう」と思いがちになります。
これは、メール相談でも同じでし、ブログを読んでくださっている方からも言われることがあります。
だからこそ、私は必ず次のことを伝えるようにしています。
「どれか一つをやってください」「全部を一気にやる必要はないです」と。


どれもこれもではなく、一つを、というのには理由があります。
別に親御さんが大変だから、プレッシャーになるから、という理由ではなく。
あくまで、子どもさんを中心に考えたとき、一つに絞って、やり切る方が重要だと考えるのです。


よくたとえに出すのが、赤ちゃんの発達の様子です。
赤ちゃんは、寝ても覚めても、一つのことをやり続ける時期があります。
起きている間はずっとハイハイして動きまわっている。
疲れたら寝て、また起きたらハイハイをする。
そうやって、一つの発達課題をやりきったあと、ある日突然、ハイハイをやらなくなり、次の発達課題へと向かっていく。
そうやって、一つのことを寝ても覚めてもやりきるのが、自然な発達の姿だといえるのです。
ですから、あれもこれもではなく、本人が今、やりたいこと、育てたいことを樹分にやり切らせてあげる。
それこそが、自然な発達の姿ですし、言葉以前の発達段階をクリアするポイントだと、私は考えています。


一方で、親御さんにとっても、一つのことに絞って、十分にやり切らせてあげるのは、とても意義のあることだと考えています。
何故なら、バリエーションが生じてくるからです。


例えば、呼吸を育てようと決めます。
そうすると、自然と意識が「呼吸」に集まってきます。
「普通のとき、ちゃんと息が吸えているだろうか?」
「走っているときはどうだろう?」
「寝ているときは?」
「もしかしたら、思いっきり吸うことができていないかも」
「そういえば、飲みこみも弱い」
「じゃあ、噛む回数が多くなるような食事を徐々に入れていくかな」
「放課後、一緒にシャボン玉で遊ぼうかな」
「ストローの太さを大きくしたらどうだろう」
「タピオカが流行っているから、それを飲んだら、吸う練習になるかも」


親御さんが、我が子の一つの発達に目を向けるようになりますと、そこがよく見えてくるようになります。
日常的にも、気になるようになってくる。
親御さん同士で、その一点に関して話題が多くなり、そこから新たな発想が生まれることもあります。
それこそが、バリエーションが生じる、という意味です。


ここでは、一つのことに絞っているように見えますが、実は一つのことにバリエーションをつけているのです。
呼吸を中心に、吸うこと、吐くこと、そのいろんな育て方、という具合に、刺激に幅をもたらしています。
それが、子どもの豊かな発達につながります。
だって、同じハイハイでも、その動きは微妙に異なっているので。
床をハイハイしたり、段差をハイハイしたり、逆走ハイハイをしたり、早くハイハイしたり、ゆっくりハイハイしたり…。
そうやって、赤ちゃんは自分自身でバリエーションをつけながら、存分に一つの発達課題を味わい、育てていくのです。
それは呼吸でも、感覚でも、運動発達でも、同じです。


福岡、広島、ここ1ヶ月くらいに出会ったご家族には、このようなことを提案しています。
「夏休み、一つのテーマに絞って、それを存分に味わい、楽しんでみたらどうでしょうか」と。
私の仕事は、発達の物語を読み解くことであり、どうやったら本来の発達の流れに戻っていくか、をお伝えすること。
それには、ここを育て、あそこを育て、というお話する必要があります。
ですから、それを聞いた親御さんは、「あれもこれも」と思ってしまいます。
でも、実際は、私が挙げた育てた方が良いところよりも、子どもさん自身が育てたいところの方が、何百倍も正しいですし、優先すべき発達だといえます。
子どもは、自分自身で必要な育ちがわかるものですから。


夏休みは、学校がお休みになるからというよりも、夏という季節だからこそ、存分に味わえることがあるのだと思います。
出張して各地に訪問させていただければ、そこの土地土地の環境があり、文化があるのを感じます。
夏祭りの伝統的な太鼓があるのなら、その太鼓を思いっきり練習する夏休みでも良いと思います。
呼吸や感覚、背中を育てるために、とにかく毎日、近くの海で遊ぶ、というのも良いと思います。
子どもの意向、今まさに育てたいと思っている部分と合致すれば、時間を忘れて、時間という概念から解き放たれて、子どもは存分に遊んだり、活動したりするものです。


やりきってから、次の発達段階へ進む。
同じ動き、発達課題であったとしても、そこにはバリエーションがあり、そのバリエーションの豊かさが発達の豊かさに繋がる。
そういった視点で、夏休みを過ごされると、良い時間が過ごせると思います。
この夏のテーマは、なんですか?
子どもさんが、今、育てたい、やりきりたい、存分に味わいたいのはなんでしょうか?

2019年7月21日日曜日

就学前の6年間が、生涯学習の土台作り

闇営業はしていないけれども、私も謝らないといけないことがあります。
私はブログ等で、再三「小学校4年生の学力を身につける」と発言しています。
ですから、それを見た親御さんの中には、一生懸命文字を書くことや計算することに取り組まれている方達がいます。


もちろん、勉強すること、教科学習に力を入れることは、とても大事です。
長い間、知的障害があったり、支援級、支援学校に通っていたりしたら、教科学習は二の次、三の次になって、身辺自立と職業訓練が中心となっていました。
まあ、それが中心だったからといって、卒業後、自立する子はほとんどいませんが…。
義務教育の9年間、ずっとひらがなの練習、足し算引き算で終わっていた子ども達も多い時代があったのです。


「自立した生活を送る」「就職して、仕事を続ける」には、ただ身辺スキルを身につければ良いわけでも、働くための体力をつければ良いわけでもありません。
それだけでは不十分。
やはり自立した生活と仕事には、自らの頭で考える力が必要です。
そのためにも、世の中の原理原則を学び、考える為の道具である文字や計算、教科の内容を学ぶ必要があります。
その最低ラインが、小学校4年生の学力ということになるのです。


私のところに相談、依頼をくださる親御さんの中には、「教科学習を頑張っています」と言われる方達がいます。
ですが、お子さんが就学前の場合もあります。
焦る気持ちもわかりますし、きちんと学力をつけさせてあげたいと思うのもわかります。
でも、就学前から教科学習を焦って行う必要はないと思います。


学校に見学に行くこともありますが、そこで感じるのは、学習の土台が育っていない子が多いということです。
今は、幼稚園などで英語や国語、算数の勉強をしている子が多く、小学校入学時で、ある程度の学力を先取りしています。
そういった子ども達は、当然、小学校の授業はわかりますし、テストも100点ばかりです。
でも、きちんと椅子に座れていなかったり、鉛筆が持てなかったり、4教科とその他の教科の差が大きかったりするのです。
集中できる時間が短かったり、午後は疲れてしまって、ボーとしている子もいます。


小学校4年生の学力とは、目安としての表現です。
大事なことは、自分の頭で考えられる力を持つことと、学び続ける姿勢を養うことだと思います。
ですから、そのためにも、教科学習ができる土台の育ちが重要だといえます。


文字の読み書き、計算はできるけれども、文章問題になった途端、まったくできなくなる。
暗記科目は得意だけれども、考える問題、自分の意見をまとめる問題は苦手。
このような子どもさんは、少なくありません。
そして皆さんに共通してみられるのが、数の概念が育っていないこと、右脳&2歳前&言葉を獲得する前の発達にヌケや遅れがあることだといえます。


こういった育ちのヌケや遅れがあると、小学校低学年くらいまでは、授業についていけますが、学年が上がるごとに理解が難しくなっていきます。
授業数が多くなる、授業の内容が多くなる。
そうなれば、基本となる身体が育っていない子は、授業を受け続けること、集中し続けることがしんどくなります。
学校に通う、椅子に座る、授業を受けるに多くのエネルギーを使わざるを得ない子、もともとのエネルギーが不足している子は、学習の方に振り分けができなくなるのです。


同じように、教科学習の土台と言いますか、考えることの土台、基礎は、概念理解です。
その概念を養っていくのは、就学前。
まずは、モノを数えることを通しての概念学習。
身の回りにあるいろんな概念を体験を通して理解していく。
そして、友達と遊びながら、ルールや人間関係等、さらに高度な概念を養っていく。
そういった積み重ねが、就学後の教科学習とつながり、真の意味での学びが始まるのです。


自由で、自立した生活、人生を送るためには、生涯を通して、学び続ける姿勢、考える力が必要だといえます。
そのためには学校生活の中で、教科学習を通して、培っていく必要があります。
で、その前段階として、就学前までに概念と土台である身体を育てておくのです。
概念と身体を育てる方法は、ただ一つ。
思いっきり身体全体を使って遊び、いろんなことを体験することです。
やはり子ども時代に思いっきり遊んだ子は、高校生、大学生、大人になっても、学び続けるし、成長し続けます。
だって、生涯に渡って学び続ける土台を子ども時代にしっかり培っているから。


本来、教科学習は就学後から始めて遅くないといいますか、それが自然な発達だといえます。
それなのに、これから秋にかけて行われる就学相談では、「文字が書けますか?」「計算できますか?」なんて質問がされるのです。
それで、「できません」と答えれば、「じゃあ、支援級」となってしまうことすらある。
まったくもって、ナンセンスだといえます。
就学前に字が書けて、計算ができる前提なら、小学校1年生の授業はまるまる必要なくなるわけです。
だって、普通級では、一年間かけて、ひらがなとカタカナ、漢字、足し算引き算を学ぶのですから。


こういった話、情報が、親御さん達を必要以上に焦らすのだと感じます。
生涯を通して、学び続ける人に育ってもらうためには、子ども時代の遊びと体験が必要です。
だからこそ、親子で、家族で、思いっきり全身を使って遊んでほしい、と思うのです。
言葉以前の発達が育つ→思いっきり遊ぶ→教科学習→考える力→学び続ける姿勢が自然な流れ。
発達の遅れがある子、ない子に関わらず、いきなり「教科学習」が、土台が育つ前の「教科学習」が多いような気がします。


今、自立して生活している若者たちを見ますと、就学時、まったく国語も、算数もできなかった人もいますし、小学校高学年、中学生くらいから急に勉強が分かるようになり、4年生の学力を身に付けた人もいます。
発達の土台がしっかりすると、ヌケや遅れが埋まってくると、いつからでも教科学習は身についていく印象です。
ですから、就学前の子ども達は特に、言葉以前の発達を育て直し、発達のヌケを埋めていくこと。
思いっきり遊び、いろんな体験をしていくことが大事だと思います。


就学は、学び始めるスタートです。
ゴールは死ぬとき。
ヒトは、生涯学び続け、発達、成長し続けるもの。
今の子ども達は、100年時代の人達。
学び続ける土台作りは、たった6年しかありません。
あとの94年間、ずっと学び続ける。
小学校4年生の学力は、年齢がいくつになろうとも、身に付ければ良いのです。

2019年7月19日金曜日

志を共にする支援者さんと

共働きの子育て世代ですから、子どものことに、家のことに、仕事のことに、てんやわんやの毎日を送っております。
ですから、私が出張するのにも、妻の理解と協力が必要です。
福岡→函館マラソン→広島という週末を快く送りだしてもらいました。
そんな妻が、広島から帰ってきた私に一言。
「あなたの仕事は、必要とされなくなるのが目的だもんね。また一歩、目標に近づけたね」と。


基本的に、私は支援者という人達を信じていません。
だって、支援することで成り立つ仕事でしょ。
支援される人がいるから支援者でい続けられる。
そして何よりも、「私には支援する人がいる」と思いたがっている。
つまり、弱い立場の人を使って、「必要とされる自分」を感じ、自分の存在意義を確かめたり、愛着障害を癒そうとしたりしている。
ですから、口では自立だ、なんだ、と言っているけれども、本気で自立を望んでいる支援者はほとんどいません。
というか、それを心から望めないのが支援者の性なのです。


じゃあ、お前はどうなんだ、支援者だろう、と言われそうですが、私は出発地点から異なります。
私が支援したいのは、親御さんであり、もっといえば、子育てです。
あくまで、私の仕事の中心は家庭支援。
それは、学生時代からずっと思い描いていたことです。
だからこそ、「24時間の生活を知らなければならない」と思い、大学卒業後は24時間型の入所施設に就職したのです。


支援者、学校の先生からも、「勉強させてほしい」「うちの施設に来て、アドバイスが欲しい」「一緒に連携して活動を」などというお話をいただくことがあります。
しかし、だいたいそういった依頼は上辺だけで、私が関わった家庭を紹介してほしい、ですとか、名前や人脈を頂戴したい、ですとかばかりです。
勉強したいという気持ちが伝わってくる人でも、なぜ、スキルアップしたいかが、私の考えと違います。
私は、支援者という職業を無くすために仕事をしてます。
でも、スキルアップすることで、「自分のとこにお客さんがたくさん来てほしい」「良い支援、助言ができる自分を見て欲しい」というように、支援を止める気がない、むしろ、支援し続けるためにスキルアップを目指す、というのは、私と考え方、方向性が異なるのです。


親御さんから求められれば、私は自分の持っている視点、技術、アイディア、あらゆるものをすべて差し出します。
だって、親御さんは心から自立してほしいと願っているから。
目の前の我が子をラクにしたい、治ってほしい、とただそれだけを願い、真っ直ぐな目で私を見つめてくれるから。


そんな真っ直ぐな眼差しを向けてくれる支援者さんがいます。
私は、この人だったら、すべてをお渡ししたいと思えるような支援者さんです。
広島での出張では、この支援者さんと3泊4日、朝8時半くらいから夜は22時くらいまで、トイレ以外の時間はほぼ一緒という具合に過ごしました。
移動中の車内でも、「どうして、あのようなアドバイスになったのか?」「これから、どうすれば、ラクになってもらえるだろうか?より良く育っていくか、治っていくか?」と途切れることなく投げかけてくださいました。


この支援者さんは、心から子ども達に、親御さん達に「ラクになってもらいたい」「治ってほしい」と思っていることが伝わってきます。
私よりも、キャリアも、経験も、ずっと上の方です。
でも、「私には力がないから」と言いながら、だからこそ、「この地域のために、子ども達、家族のために」と私に声をかけてくださいました。
しかも、自腹を切って呼んでくださった。


だいたい支援者というのは、自腹を切らないものです。
というか、自分を磨くことに自腹が切れない人、金の出し渋りをする人は、どの職業でも大成しません。
自分を磨くのに、お金をかけずに、何に出すんだ、と思います。
自慢じゃないけれども、組織に所属していたときだって、研修に行くときは全部自腹でした。
あるけれども、見たこともない有休をどうにかお願いして使い、貯めたお金で、全国に研修に行っていました。
自分を磨くには、自分でお金を出さなければ、身につかない。


「勉強させてくださ~い」というメールや電話がきますが、タダで教えてもらおうとする人が多すぎです。
冒頭で述べたように、私は支援者を信用していないし、考え方も違うから、支援者を育てようと思うこともないですし、興味もない。
というか、同じ時間を使うのなら、我が子のことを一生懸命に想う親御さんのために使いたい。
私だって、いつまで生きるか分からない。
だったら、与えられた時間を、自分の家族のために、そして同じ志を持つ全国の人達と共に使いたいと思うのです。


実は、広島のこの支援者さんも、昨年呼んでくださったときには、「本当に治るん?」「改善とか、成長なんじゃないの」という半信半疑の気持ちだったのです。
しかし、昨年も同じように地域を周り、そして、一年間、身体アプローチ、言葉以前のアプローチについて本や研修、講座で学ばれたそうです。
子ども達、親御さん達が変わっていく様子を見て、気持ちや考えが変わっていきました。
何よりも、「治るという方向性は、子ども達、親御さん達に前向きな話と歩みができるから、本当にうれしい」と仰っていました。


出張するときは、私一人ですし、お会いするご家族とは、ほとんどがその日、一回限りの面会になります。
「初めまして」と「さようなら」が同じ日。
ですから、自分自身の変化には気づきづらい状況です。
支援者さんから、「一年前よりも、見たてと方向性を出すスピードが早くなった」と最後に感想をいただきました。
もしかしたら、一年前よりも、自分自身も成長できたかもしれない、と思い、嬉しかったです。
しかし、早くなった分、雑になる危険性もありますので、より質の高い見立て、アドバイスができるようになることが、これからの目標だと思います。


3泊4日で、講演会と9家族の訪問支援を行いました。
帰りの飛行機の中で、最初に思ったのが、「もっと勉強したい」ということです。
ということは、この4日間で、自分の持っているものを出しきれたということ。
空っぽになったから、新たなものを入れたくなる。
全力を出しきったから、また一段階、次に進むことができる。
これは、子育て、発達援助でも、同じこと。
子ども達は、一つのことをやり切ると、次の発達段階へ進んでいく。
この支援者さんと過ごした4日間は、私にとっても、幸せな時間でした。


地元の人達から人気のあるお店に連れていってもらいました♪
他にも美味しい連れていってもらったのですが、写メできませんでした( ;∀;)


2019年7月10日水曜日

「一貫性のある支援」の意味

ジョギングの記録をスマホのアプリで行っていましたので、「古いままでいいや、どうせ汚れるし」と思っていたのですが、そろそろ新しいものに換えなきゃならないくらい不具合が出てきました。
仕事が一段落したら、機種変しに行こうと思います。
そんなことを考えていたら、今の通信会社に変えてから、だいぶ時間が経ったのに気が付きました。


高校、大学くらいは、通信会社を変えるのはそんなに大変じゃなかったのですが、それ以降、長らく「ナントカ縛りだ」「高額な解約料だ」「データ移行がー」と言って、他社に変えづらい時期が続きました。
でも、最近は他社への移行もスムーズです。
一つの通信会社のままなら、ラクは楽かもしれませんが、それによって選択できないサービスも生まれてしまいます。
本来、もっと自由で選択肢があるものが。
自分の生活、ニーズに合わせて、カスタママイズするものが。


特別支援の世界では、「一貫性のある支援」などと言われます。
私も、若いときには、そのように教わりました。
「一貫性がないと、自閉症の人達は混乱してしまう」と。


しかし、年齢と経験を重ね、いろんな研修やトレーニング、文献から学び続けていると、「一貫性のある支援」という意味の使われ方に違いがあることがわかりました。
特に、欧米と日本の間で。
欧米では、「一貫性のある支援」を、それぞれの組織、療法の理念という意味で使っていました。
たとえば、「アセスメントから始めましょう」「その人に合った最適なものを作るために、絶え間なく工夫や見直しをしましょう」など。
でも、日本は、特定の療法、方法、宗派、はたまた支援者までをも、「一貫性」にしてしまう。
「一貫性=最初に決めた療法、方法、宗派を貫こう」という意味で使われている場合が少なくありません。


世の中には、いろんなアイディアがあるわけです。
それぞれ、療法には組織があって、推奨し、専門にしている支援者たちがいます。
どちらかといえば、その支援者達に向けて、支援者達の方向性を統一させるために、「掲げた理念に一貫性を持たせて支援にあたるように」という意図だと思います。
決して、ある療法を選んだら、「その療法を生涯、ずっと選択し続けるように」「他の療法には手を出さないように」という本人や親御さんに対するメッセージではないはずです。


アメリカのある療法のトレーニングを受けていたとき、そこのトップの人に質問したら明快な答えが返ってきました。
「私達の療法は、私達の理念と整合性のあるものだったら、他の療法、考え方を積極的に取り入れていく。そうやって今までも、進化させてきました」と。
つまり、一貫性のある支援とは、「私達の支援方法を生涯選択し続けなさい」という意味ではないのです。


人間の発達は多様ですし、ひと時も同じ状態だということはありません。
常に揺らぎ、変化しています。
ですから、特定の療法、方法、支援者にこだわるのは、賢い選択だとはいえません。
幼少期、必要だった支援が、就学後にはマイナスになることもあり得るのです。
同じ自閉症といわれた子どもであっても、うちの子と〇〇くんは、必要な支援、アイディアは違うのです。
支援者だって同じこと。
ある時期、大変お世話になった支援者だとしても、本人の状態、生活、発達が変われば、足を引っ張るような存在にもなる。
だからこそ、その時々で、本人の状態、ニーズを見極め、ベストな選択をしていかなければなりません。


それなのに、日本では、一部(?)のギョーカイでは、親御さんに対して「一貫性のある支援」を、特定の療法に絞るように、という誤ったメッセージを与えてしまっています。
一時期の「ケータイ2年縛り」みたいなものです。
他社に、他療法に、お客さんを奪われないために、という意味で使っている。


マジメな親御さんは、「そうか、いろんなアイディアのいいとこどりではなく、一貫してやり続けなければ、効果が出ないのか」なんて思い、必死に特定の療法に傾倒していくわけです。
ですから、地域ごとに色が出てしまう。
当地なら、視覚支援一本。
だって、最初に支援者が取り入れたのが、視覚支援だから。
それぞれの地域で、誤った「一貫性のある支援」ができてしまうのです。
自分の子に合うか合わないかではなく、その地域で最初に提供された支援をやり続ける。
大人になっても、幼児期に使っていた視覚支援を使い続けている人達を見ると、誰のための支援なのか、と思ってしまいます。


最初に入った通信会社のスマホを使い続けているように、幼少期に勧められた支援をいくつになってもやり続ける。
もちろん、それによって、本人も、家族も、助かる部分はあると思います。
でも、特に発達に関しては、失った選択肢が多いように思えます。
「うちは、視覚支援しかやりません」などと言っている親御さんがいます。
ずっと視覚的な手立てを使い、活動をするときは、個別で、パーティションの中。
もしかしたら、幼少期は、頭の中が混乱していた時期は、それがベストな支援だったかもしれません。
だけれども、成長と共に、他の刺激も必要だったかもしれません。
情報や刺激を統制するよりも、バリエーションのある刺激が、その子の発達を促したかもしれません。
支援よりも、発達のヌケを育て治す方が、その子の未来の選択肢を増やしたかもしれません。


意図的かどうかはわかりませんが、未だに「一貫性のある支援」を、一つの療法を幼児期から大人まで使い続けましょう、という意味で使っている人達がいます。
支援する側としたら、一度勧誘に成功すれば、営業活動はしなくていいし、自分たちの支援の質をせっせと向上させる必要もありません。
自由競争が機能しているのなら、支援者は選ばれなくてはならないので、常に進化し続ける必要がありますので。


同時に親御さんとしては、一つの療法に決めたら、それだけを見ていけばいいので、ある意味、その支援者を信じさえすればいいので、ラクです。
本当は、日々変化する子どもの状態によって、選択し続ける必要があるのに。
そこを「一貫性のある支援」という言葉が免除してくれる。
「12年間、放課後、児童デイでトランポリンを跳んでて大丈夫??」と思ってしまう。


ある程度、大きくなれば、言葉による表現ができる子なら、自分のニーズを表明することができます。
でも、それができない子もいるわけです。
本当は、その支援は今の僕には必要ない、と思っていても、そういった選択肢が目の前に現れないこともあるのです。
だからこそ、こういった子ども達のそばにいる大人は、子どもの状態、発達、ニーズの変化に敏感になる必要があるのです。


私がトレーニングを受けた療法の指導者たちは、毎朝、始まる前に、私達に自分たちの理念を暗唱させていました。
その一つが、「アセスメントから始める」
何か、新しい指導、支援を始めるときだけではなく、問題が起きたときだけではなく、常に子どもと顔を合わせたらアセスメントを行う。
朝、おはようと顔を合わせたその瞬間から、その子の状態は、変化はないか、と見る姿勢。
そうやって常にアセスメントを意識し、支援者の思い上がりで支援を組み立ててはならない、と教わりました。
もし、親御さん達に伝える「一貫性のある支援」を挙げるとすれば、しっかり子どものことを見て、そこから支援や援助を考えましょう、ということになりますね。


同じ療法、方法、考え方、支援者に縛られるのは、ラクを手に入れると同時に、子どもの可能性と選択肢を失うことでもあります。
子どもの発達、可能性、ニーズは、一つの療法でカバーできないのですから。

2019年7月1日月曜日

敢えて「未発達」を言葉に

「どれが障害で、どれがこの子の個性だかわからない」
そんな風におっしゃる親御さんは少なくありません。
確かに、わかりませんね。
ここが発達障害で、ここからが個性などと明確な線などは引けるわけがないのですから。
もっと人間は複雑ですし、一つの言葉、行動をとっても、その背景には複数の要因が影響し合っているのです。
単純に線が引きたいのは、複雑な人間、生物というものを便宜上、区別したい人達がいるからです。
線を引くことは、グループに括るということは、ニーズを新しく作ることでもあります。


医師から、専門家から、「あなたの子は、発達障害ですね」「自閉症ですね」と言われてしまうと、子どもの言動全てが発達障害ゆえ、自閉症ゆえに見えてしまいます。
そうなると、「障害故に配慮せよ」というメッセージが迫ってきて、その子を教え育てるよりも、私が変わり耐えるへシフトチェンジしてしまいます。
そうなると、親子共々、ネガティブな方向へと歯車が回りだすことに。


当然、子どもは未発達な存在です。
これからまさに、未発達な部分を育てていこうとしている時期です。
そんな時期に、周囲から「仕方がない」「教えるよりも、配慮支援」と思われたりすることが、発達の機会を奪われることにもなります。
それでは、発達の機会が乏しいために、同世代の子ども達が経験することが経験できずに、ますます発達の差、遅れが大きくなるばかりです。
ある意味、発達の差を広げるのは、本人の能力の問題ではなく、環境、つまり、周囲の姿勢、考え方による、といえます。


また、親御さんにとっても、「私が変わればいい」「私が耐えればいい、受け入れればいい」と考えるのは、マイナスが多いといえます。
我が子の自立と幸せを願わない親などいません。
というか、我が子を自立させようとするのは本能だと思います。
そのために、自分が身に付けたこと、学んだことを、我が子に伝えようとするのは自然な流れ。
そういった本能があるのにも関わらず、頭で無理やりストップをかけるようなものです。
教え育てたいのに、知識と言葉で、「いやいや、配慮が、支援が、理解が必要な子」「変わるのは、この子ではなく、親である私であり、社会の方」などと、自分自身を否定し、洗脳していく。
ですから、「育てていこう!」と思っている親御さんは明るく前向きであり、「理解だ」「配慮だ」と言っている親御さんは、いつまで経っても、子どもだけじゃなくてご自身も生きづらそうなのです。


もし「未発達」という視点がなければ、幼稚園や保育園に行けば、どの子もみんな発達障害であり、ADHDです。
先生が話をしても聞いていないし、走り回っているし、あちこちで喧嘩をしている。
でも、それでいいのです、それが自然なのです。
偉そうにしている大人たちだって、みんな、子ども時代は未発達だった。
いろんな未発達な部分を、発達が凸凹している部分を、家庭生活や遊びを通して、育てていったのです。
ですから、大事なのは、未発達な部分があるかないかではなくて、育てるか育てないか、ということ。
その「育てる」視点を持つためにも、大人が責任をもって子ども達を育てていくためにも、幼少期のレッテル貼りも、「生涯変わらない」といったエビデンスのない予言も、百害あって一利なしです。


「どこが障害で、どこが個性で」と訊かれたとき、私は「未発達だと捉えましょう」というお話をします。
「ここが自閉症で、ここがその子の個性」などと区別する必要性はないですし、そもそもそんなことができるわけがありません。
だったら、「この子の未発達な部分を育てていく」という想いをもって、お子さん達と接した方が、お互いにとって幸せなことだと思います。
特に、子ども時代なんて、未発達だらけです。
その未発達な部分をより良く育てようとするのが、子育ての中心ではないでしょうか。


と言いますか、本来、「未発達だと捉えましょう」なんて、敢えて言葉にするまでもないことです。
だけれども、早期に診断するのに熱中している人達がいて、どれだけ早期に診断できるかをお互いに競っている。
そういった人達が、「幼少期の診断とは、現時点のものであり、(仮)のものであり、発達とともに変わっていくのが自然なこと」という説明を怠っている。
そして多数の専門家、支援者達が、一度付いた診断名をベースに支援をしていく。
ほら、もともと線引きできるような次元じゃないものを敢えて線引きするのは、新しいニーズを作るためのもの、つまり、新しいお客さんを作るということに過ぎないのです。
本来、診断とは、その人がより良く変わるためのもの、より良い治療を始めるためのものなのに。
ですから、敢えて「未発達」を言葉にする必要があるのです。


子どもが未発達なのは当然。
親が、周囲の大人たちが、その未発達な部分を育てていくのは当然。
未発達な部分がたくさんあれば、全体像として発達が遅れるのは当然。
だから、未発達な部分がたくさんある子を目の前にして、「これは障害だ」「これは生涯変わることがない」と言い切るのが異常。
どこが障害で、未発達かはわからないから。
というか、未発達な部分が育ち、身体が整っていけば、全体像も、全体的な発達もガラッと変わるのは当然なこと。
未発達な部分が育ち、ガラッと変わったのが、大人の姿。
大人のニーズを満たすために、まさに今、発達しようとしている子ども達がお付き合いする必要など、まったくありませんね。

2019年6月28日金曜日

『断薬の決意』(花風社)を読んで

福岡出張の報告書を郵便局に出しに行こうとしたら、ちょうど配達員さんが届けてくれました。
著者の藤家さんは、九州にお住まいの方ですので、九州に送ろうとしたら、九州から贈り物がきた感じがして面白かったです。
でも、レターパックを開け、本の題名、帯から、そして手に持った感じから、著者の方と出版に携わった方達の真剣な想い、なんだか手を通して迫ってくるような気迫を感じました。


私が講演会等でお会いした藤家さんは、すでに治っていましたし、お会いする度に輝きや前向きに進もうとするエネルギーが増しているような印象を受けていました。
ですから、同世代ということもあり、「自閉症の」ですとか、「当事者の」ですとか、そういったことを感じたことはなく、勝手にではありますが、同じ風景を見ながら育ってきた同世代の一人というような気持ちでおります。
しかし、藤家さんが執筆される本は、今のお姿からは想像できないような歴史を、そしてその辛さ、苦労のほんの一部を垣間見させてくれます。


今回の新刊のテーマは、精神科薬です。
個人的なつながりの中で、断薬に向けて励まれていることは知っていました。
ただ、それでも、本に書かれている様子、藤家さんが体験した内面の感覚と副作用の記述には、相当なインパクトがありました。


藤家さんがもがき苦しみながらも、薬に頼り、生活していたとき、私は施設職員として働いていました。
働いている中で、新薬が出てきて、その移り変わりも、実際に服薬の援助も行っていました。
本の中に出てきた精神科薬は、私が利用者さん達に飲ませていたものばかりです。
だからこそ、なおのこと、衝撃を受けるのです。
私が働いていたのは、知的障害も、自閉症の症状もとても重い方達ばかり。
しかも、強度行動障害の方たちへの支援も行っていました。


藤家さんは、自分の身に起きたこと、内面で生じたこと、感じたことを詳細に言葉や文字で伝えることができます。
だからこそ、今回、私達は、服薬が及ぼす変化、影響を実感に近い状態で想像することができました。
では、一方で、そういった伝える方法を持っていない方は、まだ伝えられるだけの年齢に達していない子ども達は、どうだろうかと思うのです。


彼らの内面の変化、彼らの訴えに耳を傾けることができているだろうか。
内面で生じたことに対する苦しさの表れに対し、「それが障害だから」と一方的な解釈をしていないだろうか。
気になっていた行動が収まり、「薬のお蔭」「薬は必要な支援」などとポジティブな解釈はしていないだろうか。
問題行動が収まったのではなく、もしかしたら、気持ちが悪いだけ、何か行動を起こすだけの力がでないくらいぐったりしているだけかもしれないのに…。


私の経験からは、断薬は信じられないこと。
長年服用している方ほど、ちょっとでも服薬のタイミングがずれたり、一回でも忘れようもんなら、激しい苦痛、行動をしていたのを見てきたからです。
当然、「薬を減らす」などとは、主治医から受け入れてもらえるわけはなかったのです。
薬は増えても、減ることはない、というのが私の認識でした。


藤家さんの薬の量を減らしていく様子を拝見していると、想像した以上の辛さ、苦痛が生じることがわかりました。
主治医の先生の理解と協力、家族や友人の支え、そして何よりも、一度決心したことをやりぬこうとする藤家さんの心と、それに耐えるだけの身体があったからこそ、断薬に向かって進むことができたのだと思います。
その一つでも欠けていたら、また異なる文章になっていたと思います。


だからこそ、率直に思います。
知的障害を持つ人、多くの発達のヌケを抱えている人は、一度飲み始めた精神科薬を止めることは難しい、と。
まず、その内なる変化、内なる声に、誰も耳を貸してはくれないでしょう。
たとえ、親御さんが本人の苦しみ、訴えを感じることができても、「もし、やめて、心身の安定が崩れたら」という想いを完全に払しょくすることは不可能だと思います。
ましてや、藤家さんがやられていたような体験を、最後までサポートし、やりきるまで支えきれる家族はそうそういません。
子どもの頃から、長期にわたって服薬を続けてきた人は、断薬後の喜びよりも、今、服薬を止めることの、減らすことのこの瞬間の苦しさに耐えることは難しい。


私達は、必要のない精神科薬を飲むことはできません。
ましてや、薬の出方、副作用は、一人ひとり異なりますので、どう頑張っても、理解することはできません。
だからこそ、藤家さんが記されたことから、想像を膨らますことが必要なのだと思います。


飲んだことのない薬だからこそ、一生懸命想像することが大事。
親御さんだったら、我が子の体内に人工的なものを入れるかどうかの判断をしなければなりません。
決して、服薬する、しないに正解はないと思います。
でも、正解はないかもしれませんが、服薬する前にできることはあるかもしれません。
そのできることは何か?
私達は、藤家さんの執筆された『断薬の決意』という書籍を通して、その“できること”を考えることができる。
服薬から断薬の物語、内面の変化がわかるものは、ほとんどありません。
読むことができ、良かったです。


2019年6月27日木曜日

「私の地域は遅れています」のそのあと

6月21日~24日まで福岡県に出張していました。
なんせ北海道から九州ですし、福岡県内も広いですので、今回は移動に時間がかかってしまいました。
それでも「1分でも長く」という想いから、電車の乗り換えは常に早歩き、時々、ダッシュ。
日頃のジョギングの成果を発揮(笑)
食事は、買いこんでいったプロテインバーを頬張りながら、4日間を過ごしました。
チャンポン、水炊き、鹿児島の黒豚は食べられたのですが、豚骨ラーメンは食べられず…。
食事に関しては心残りがありましたが、それでもより良い子育て、成長に関する話し合いについては、私の持っている力をすべて出しきれたと思っています。


福岡は私の生まれ育った土地でもあり、大好きな土地でもあります。
私の新しもの好きで飽きっぽい性格も、福岡の血かなと思います(笑)
福岡は常に新しいものを生みだす地域であり、ファッションや流行などは全国をリードするような土地でもあります。
しかし、特別支援に関しては、どうでしょう。
今回お会いしたご家族以外にも、相談でのやりとりをさせてもらっている方達がいらっしゃいますが、「今、それですか??」というのが正直なところ。
「中央から流されてくる地域」という想いがあるのかないのか、どうも中央に憧れているようなところも感じます。


率直に言って、時代遅れ。
それは先進地域と呼ばれていたところが、10年も、20年も前にやっていたこと。
それを必死にマネして、「ほら、療育やってる、支援やってる、すごいだろ」って感じ。
利用している親御さん達も、「うちは療育受けられたサイコー」と喜んでいる感じ。
言っちゃ悪いが、先進地域の惨状はすでに知るところ。
当時、「進んだ療育」「世界的な支援」と言われ、それを必死に受けてきた子ども達がどうなったのでしょうか。


「療育を受けることが、この子の幸せになる。自立になる」
それから10年、20年。
結局、今も「社会の理解ガー」とやっている。
自閉症、発達障害が治らないからじゃない。
療育も、支援も、対処療法であり、その子の生涯を支え、自立へ後押しするものではないということ。
連絡が取れなくなった若者、大型バスに揺られて一点を見つめている若者。
彼らは、彼らの家族は、必死に療育を、支援を受けていなかっただろうか。
自分たちで種を撒き、結局、自分たちで刈っている先進地域の支援とやらに、私は辟易しているのです。


「私の地域は遅れています」
そのようにおっしゃる親御さんは少なくありません、
これは福岡のような大きな都市でも言われますし、東京や神奈川、愛知のような場所でも言われます。
それはどういうことなのでしょうか。


私は思うのです、地域の支援が、療育が遅れているのではなく、すでに親御さんの意識、情報量、考えが、既存の支援を超えているということ。
親御さんの真剣な想い、願いに応えられるくらいのもの、希望を叶えてくれるようなものはないのです。
私もありがたいことに、各地から出張の依頼や相談がくるようになりました。
そこで感じるのが、公的な組織、機関というのは、失敗を恐れる。
だからこそ、既存の、権威や肩書があるようなものを取り入れたがる、責任をとりたくないから。
そして地方あるあるが、かつての先進地域の落ち武者がリーダーになるケース。
「俺は、私は、先進地域にいましたけど」という顔をして、そのまま、過去の栄光をコピーする簡単なお仕事。
また都会のちょっと外れに、寄せ集めの知識や支援者なんだけれども、「〇〇式療育!」なんてのをコソッと起ち上げる、みたいな。
とにかく模倣と、落ち武者に溢れている。
どうせなら模倣じゃなくて、今、時代に求められているものをやればいいのに、と私は思います。


これからの時代、「満足する療育」なんていうのはあり得ないと思います。
あったとしても、その子の部分的に役に立つ、効果があるだけであって、根本から発達させるような、課題を解決するような、長年に渡って受ける必要があるようなものは、自分ちの近くにできないし、そもそもそんなものは存在しません。
やっぱり発達は、家庭で、子育てで、遊びの中で育まれるもの。
どうしても基本は、家庭であり、家族なのです。


「私の地域は遅れていて…」
そんなことを言っている人は、子どもの発達を後押しすることはできないでしょう。
そもそも主体性がないですし、だったらどうするか、という動きが出る身体を持っていませんので。
今回、福岡でお会いしたご家族は、みなさん、「子育ての中で、この子をより良く育てていきたい、発達を後押ししていきたい」と考えていた親御さん達です。
確かに、「遅れていて」「地域の支援に疑問を持って」とは言っていたけれども、そこで止まることなく、ご自身でいろんな情報を集め、そして、少しでも良いものを吸収したい、ヒントを得たいと呼んでくださった。
どのご家族も真剣そのもの。
私の行動、言葉、雰囲気から、ちょっとでも発達の後押しになるものを、より良い子育てに繋がるものを、という主体性があり、また迫ってくるような気迫すら感じました。
それくらい真剣だし、それくらいご家族で、ご自身で、この子を育てるんだ、自立させるんだ、という想いが強いということです。


お会いしたご家族の中には、2度目という方もいらっしゃいました。
お会いしたのが、一年半前。
そのときは、まだたくさんの発達のヌケがありました。
でも、今回お会いしてビックリ。
この短期間の中で、前回お話しした発達のヌケをほぼ育て上げられていました。
運動面で言えば、基本的な部分でヌケがあったのにも関わらず、今では同世代の子ども達と比べても同じか、それ以上の身のこなし、動き、遊び方をされていました。
このご家族から私は、改めて子どもの持つ発達する力の素晴らしさと、親御さん、家族での育む力の素晴らしさを教えていただいたのです。
もし、このご家族が「うちの地域は遅れていて…」と言っているだけの時間を過ごされていたら、このようなお子さんの輝く発達はなかったと思います。
自由自在に動かせる身体は、挑戦する力、学習する力、何よりも自分自身を大切にすることができます。
家族での育みを大切にされていたからこそ、大きな発達の後押しができたのだと思います。


先ほど、レポートを郵送いたしました。
きっとどのご家庭も、家族で、子育てを通して、より良く育んでいかれるのだと思います。
もう「遅れている」とすら言わなくなるはずです。
だって、主体的な子育てで忙しいから。
どこが未発達な部分で、「未発達な部分は育てていけばいい」と分かったはずですから。


どんな地域に住んでいようとも、未発達な部分は育てていけます。
家族の育みによって、主体的で自由な人生を歩めるような子育てはできます。
特別な器具も、高価な教科書、資格もいりません。
あるのは、そのご家族にあった、その子にあった子育てであり、発達援助。
地域が関与することがあるとすれば、その土地土地の環境を活かした遊び、身体育てです。
福岡は海もあるし、山もある。
美味しいものもたくさんあるし、明るく気さくな土地柄でもある。
その家庭、地域、環境を活かした子育てを。


私のルーツでもあり、大好きな土地でもある九州、福岡の子ども達のために働くことができ、大変うれしかったです。
出張の際、全国にいる志を共にする方達からの応援も頂戴しました。
素晴らしいご縁を結んでいただき、感謝申し上げます。
皆様、本当にありがとうございました。
これからマラソンモードに入ります(笑)


 


2019年6月19日水曜日

誰のため?何のため?早期診断

つい数年前までは、就学前の子どもさんの相談がくれば、「早いな~」と思っていたのですが、近頃は、2歳、3歳の子からの相談も珍しくなくなりました。
中には、1歳代の子の親御さん達からも相談があります。


私が若手の頃から「早期診断、早期療育」と叫ばれていましたが、3歳くらいの子の診断は一般的ではありませんでした。
どちらかといえば、そういった幼児期から診断を受ける子は、症状や知的障害が重い子だったと思います。
でも、今は同世代の子の発達と比べて、少しでも言葉や運動が遅れていたら、少しでも特異的な行動が見られていれば、1歳でも、2歳でも、3歳でも、診断名が付き、療育、支援への道へ誘導されていくような印象です。
日本でも、早期診断を熱心に推し進めている人物、集団がありますので、そういった人達の影響もあるのだと思います。


本来、早期診断というのは、とても意義のあることだと思います。
私も早期診断は、その子、家族にとって、良い方向へ進むきっかけだと考えています。
実際、私のところに相談にいらっしゃる幼いお子さん達は、親御さんの育て方によって大きな発達、成長を見せることが多いです。
神経発達がとても盛んな時期だということもありますし、いろんな学習をする前ですので、発達のヌケも見つけやすいですし、課題の根っこが近い分、そこが埋まれば、それ以降の発達が整いやすいといえます。
ですから、発達の遅れがあるのなら、すぐに軌道修正、発達のヌケに立ち返って育て直すことができるので、とても意義のあることだと考えています。


しかし、早期診断が意義のあることになるためには、その子と家族にとって、より良い未来へ進むためのきっかけになるためには、大事な前提があると思います。
それは、幼少期の診断名は仮のものであり、今現在を表すもので、その子の未来までを決定づけるものではない、ということです。
さらに、早期に発達の遅れがわかることは、その子に合った育て方をするために必要なのであって、より早く、より多く支援や療育、服薬を始められるためではない、ということです。


実際、相談にいらっしゃる親御さんの話や、いろんな方達の話、様子を見聞きしますと、早期診断の目的をはき違えている人達が多い印象を受けます。
早期診断の方向性としては、「その子の予後を良くする」だと思うのですが、その良くする方法が、支援をたくさん受けること、早期から療育を受けること、問題が大きくなる前に服薬を始めることに偏っているのです。
それって、育てられるところをすべて育てたあと、それでも残る困難、課題、特性に対して行うサポートではないでしょうか。


年端もいかない子ども達が、療育機関に通う。
いやいや、その子達に大切なのは、まずやらないといけないのは、「未発達な部分を育てることでしょ!」「快食快眠快便、生活のリズムを整えることでしょ!」と私は思うことがあります。
だって、同じ年齢の子ども達も、それを育み、整え、身に付けている最中だから。
どうして、発達に遅れがある子は、「家庭で育てる部分、ヒトとして土台になる部分を育てるのは、“置いておいて”」になるのでしょう。
そんなことをしていたら、同世代の子との発達の差は、どんどん広がっていくばかりです。


基本的な生活習慣、生きる上で土台となる発達と快食快眠快便。
そこが育っていないし、育もうとしなければ、たとえ療育が意味のある内容だったとしても、身につくわけはありません。
身についたとしても、それは形をコピーしているだけ。
特定の施設の中だけ、特定の支援者の前だけ、すること、やれることがあるのは、皆さん、よく見る姿だと思います。
結局、土台が育っていなければ、本当の意味での実生活に繋がる学習はできないし、そもそも身につく可能性、効果がある可能性も低くなります。


「昨晩も寝られなかったんですよ」という親御さんに、「それはお母さん大変でしたね」「少しずつ寝られるようになると思いますよ」なんて言うだけで、「さあ、療育の時間、始めましょう」とやっちゃう支援者。
療育機関は、決められたプログラムを進めていく必要があるのはわかります。
でも、それとは別に、寝られないことの重大さに気が付き、親御さんと共にどうしたらよいかを考えていく姿勢が大事だと思います。
寝られないことは家族にとっても大変なことですし、何より本人が一番苦しんでいます。
寝られないのは、発達への影響ももちろんですが、命、生きると関わる重要な部分でもあります。
早期に分かり、早期に子ども、家族と向き合うからこそ、形だけのソーシャルスキルを教え込むよりも、こういった土台に対する子育てを支援してほしい、と思うのです。


相談を受けながら、私はいつも思います。
現在の早期診断、早期療育は、親御さんを苦しめているだけではないか、と。
何故なら、家庭が担っている生活のリズムを整えること、快食快眠快便を整えること、そして未発達の部分を育んでいくことに対するサポートがなされていないから。
「それは障害特性でもありますので…」と表向きの言葉で慰めておいて、心の中では「それは、私達の仕事じゃないし、家庭の問題でしょ」と呟く姿。
そしていそいそと、今日も決められたプログラムを進めていく。


言葉の遅れがある子に、絵カードの使い方を教えるのは意義のあることでしょう。
落ち着いて座れない子に、静かに座っていられる時間を増やす指導も意義のあることでしょう。
他人と、うまく関係性を築けない子に、ソーシャルスキルに関する指導をするのも意義のあることでしょう。
でも、それを年端もいかない子ども達にするんかい!?
言葉が出ないのは、その土台の準備ができていないからかもしれません。
落ち着いて座れないなら、落ち着いて座れる身体が育っていないのかもしれません。
他人と関係が築けないのは、そもそも自分自身が捉えられていないからかもしれません。
そこに気づけるからこそ、早期に関わる支援者だといえるのではないでしょうか。


早期診断は、確定診断ではありません。
その子の未来を決定づけるものでもありません。
早期に気づくということは、早い段階で「未発達の部分を育てていこう!」というポジティブな動きだと思います。
1歳、2歳、3歳の子どものどれが障害で、どれが未発達かなんか、明確に区別することはできません。
だからこそ、育てやすいところから、育てていく。
治しやすいところから、治していく。
生活のリズムを整えることと、快食快眠快便は、生きるための土台です。
それらを育てていったあと、それでも残るものがあれば、そこは支援や配慮が必要な部分。


育て切る前に、未発達の部分ばかりなのに、最初から支援と配慮が提供されるというのは、早期診断の意義を見失っている証拠だと思います。
早期診断は、その子にあった子育てに向かって歩みだすきっかけ。
早期療育に求められるのは、より良い子育てに向けたサポートであり、アドバイスだと私は考えています。
幼少期の親御さんが知りたいのは、支援の仕方ではなく、子育ての仕方です。
1歳、2歳、3歳の我が子に対して、「より良い支援をしたい」と一番に思う親御さんは、ほとんどいないはずですから。

2019年6月16日日曜日

25%の涙

海外では、発達障害を診断するのは医師だけと決まっていません。
医師免許を持っていない心理士、支援者も、自閉症やADHD、LDなどの診断を行います。
日本では、診断できるのは医師だけですので、不思議に思われる方もいるかもしれません。
でも、視点を変えれば、「医師だけにしか認められていない診断」というのも不思議だといえます。


そもそも、どうして医師にしか診断が認められないのでしょうか。
脳波を取るわけでも、血液を採るわけでもありません。
発達障害は病気ではなく、成育歴&生活の様子の問診と行動観察によって診断されるのです。
医療行為はしないのに、医師にしか認められない診断。
それって不思議じゃありませんか。


問診と行動観察でしたら、数多くの発達障害の人達と関わっている人、より生活に近い状態をたくさん見ている人の方が、的確な診断ができると思います。
診察室で見せる姿は、その人の一部です。
それに診察室で困っているから診断を受けに来たわけではなく、日常生活の中に課題があるからこそ、診断に来ているのです。
その課題を見なければ、本当の診断、判断はできないと思います。


「診察室で補えない部分を問診で確認しているじゃないか」と言われるかもしれません。
でも、それだって親御さんの主観が入ります。
どう頑張っても、我が子の内側の様子をすべて伝えることはできません。
そうすると、やっぱり目に見える行動を、親御さんの表現を使って伝えるしかありません。
診察室で見えない部分は、言葉によって説明される。
その説明を聞いて、診断の根拠にもするわけですから、親御さんの表現の仕方、またそれを聞いた医師の捉え方、解釈の仕方によって診断名が変わる可能性もあるのです。


結局、数値ではなく、言葉で説明されている診断基準というのがあり、その状態像に当てはまるかどうかを見るわけです。
ある行動を見て、それを自閉症の特性か否かと判断する。
その判断には当然、判断を下す人の意思が入るわけです。


自閉症も、ADHDも、LDも、別次元の人間で普通の人とは異なる脳みそ、神経を持って生まれてきたわけではありません。
定型発達と呼ばれる人と同じ人間であり、発達の軸で見れば、定型発達と連続して繋がっている存在です。
ですから、明確に「これが自閉症の行動で、これが定型発達の行動」とは分けることができません。
行動も、状態も、当然、日によって、場面によって変わりますし、子どもなら尚更、日々の発達は目まぐるしく変化しています。


「日本で医師しか診断できないのは、それが利権になっていて、医師会が渡そうとしないからだ」と言うギョーカイメジャーの大学教授がいます。
確かにそのような理由もあるかもしれません。
ただ私は、医師にしかできないようにすることによって、診断名の正当性を担保しているのだと思います。
だって、そもそもの根拠が乏しいから。


「どうして、自閉症なのですか」と尋ねれば、「診断基準に当てはまったから」
「じゃあ、どうして診断基準、その行動が自閉症の特性、様相と判断できたのか」と尋ねれば、「診断基準に書かれた状態像と同じ、近いと判断したから(私が)」としか言えないと思います。
何故、その行動、様相が表れているのか、原因を答えられる人はいませんし、それ自体を示す必要はないのです、現在の診断には。


このように考えると、「診断名ってなんだろう?」と私は思います。
診断を受けることは、療育や支援、行政サービスを受けるための入り口だといえます。
でも、その個人の、その個人の家族の想い、願いとしては、日常生活の困難が解消され、心身がラクになり、より良く発達、成長していけることだと思います。
じゃあ、その想い、願いに寄り添うような形に、現在の診断がなっているのか?


本人や家族が本当に知りたいのは、診断基準に当てはまるかどうかではないと思います。
それよりも、どうしてその行動が表れているか、どうして発達に遅れているか、だと思います。
でも、現在の科学では答えることができない。
だったら、実際により良い方向へと変わった人から、その人と携わっていた実践家から話を聞いたり、アイディアをもらったりするのが自然な流れです。
原因がわからないからこそ、いろんな方法を試し、子育てをしていく。


将来、バイオマーカーが発見され、客観的で科学的な診断ができるようになると思います。
そうなれば、現在、診断を受けている多くの人が、障害者にはならないと思います。
何故なら、未発達ゆえに、発達の遅れが出ている、課題が表れている子ども達までひっくるめて、自閉症等の診断名が付けられているから。


栄養面や刺激、環境面をどう頑張っても、定型発達と呼ばれる状態、ラインまで届かない人もいるはずです。
でも、脳の欠損でも、神経の欠損でもない発達障害なら、まったく発達していかない、ということは考えられません。
そういった意味で、生涯変わることのない障害者である人は限られてくると思います。
発達に遅れがある子の多くは、栄養と環境と育ち方によって、より良く発達することができるし、定型発達のラインを超える子もいるのは当然です。


このような現状の診断にも関わらず、「治らない」と声高々に言い続ける人達がいます。
でも、アメリカのコネチカット大学の研究では、25%くらいの人がASDの診断を受けたにもかかわらず、その診断が外れるくらい状態が変わったと報告されています。
日本では、誤診も、未発達のチャンポンも含まれるので、50%くらいの人は診断基準を満たさないくらいに発達するし、治ると思いますね(真顔)。


だったら、「治らない」と言うことは、「治る」を認めようとしないことは、25%くらいの子ども達の未来を潰していることにもなります。
また、その25%に入らなくても、今よりもより良く育つ可能性がある子の育ちの機会、可能性を奪ってしまう危険性もあります。
因果関係がはっきりしない診断名と共に、医師や専門家が言っているからというだけの「治らない」という言葉と共に、我が子の、将来の社会を担っていく子ども達の可能性を奪ってもいいのでしょうか。


治りたくない人は治らなければいいのです。
でも、その人達に付き合うために、25%の子ども達を犠牲にして良いわけがありません。
今よりも、より良く発達、成長できる子達は100%。

2019年6月14日金曜日

「治った」主観と「治らない」主観

自閉症、発達障害は、DSM-5にて神経発達障害になりました。
でも、未だに「脳の機能障害」「生来的な障害」と言われています。
また、それが「生涯、治らない」という根拠にもなっているようです。


脳の機能障害で、生まれつきの障害ということに疑問を持たず、信じている人達が大勢いるのはわかります。
しかし、世の中に、「この子の障害は、脳の機能の問題からである」と確認できた人はいないのです。


現在の診断は、行動観察と問診で行われています。
診察室や検査室で、自閉症の子どもに見られる行動が確認できた。
しかも、診断基準に当てはまる行動が複数確認できた。
親御さんからの成育歴、生活の様子からも、自閉症のようだ。
じゃあ、あなたは自閉症ね、年齢が幼かったり、はっきり確認できなければ、自閉傾向ね、軽度の発達障害ね、となる。


でも、ここで気を付けないといけないのは、自閉症に見られる行動があった=自閉症だと言い切れるのか?
はたまた、自閉症に見られる行動があった=脳の機能障害だと言い切れるのか?
ということです。
脳内の機能を調べたわけではないのです。
自閉症に見られる行動が確認できた、というだけなのに。
子どもが見せたその行動が、脳内を確認したわけではないのに、どうして「脳の機能障害」と言い切れるのでしょうか。
立ち合い出産をしたわけではない人が、どうして「生まれつき」と判断でしょうか。
つまり、それくらい今の診断というのは、曖昧なものであり、主観が入る余地があるといえるのです。


ヒトは、受精した瞬間から発達を始めます。
そして死ぬその瞬間まで。
しかも、その発達の仕方は、個人の資質によって、また環境からの影響を大きく受けるのです。
そんな複雑で、一瞬たりとも同じ状態が生じない発達を、人為的に捉えようなどというのは無理な話です。
だからこそ、行動観察と問診というざっくりした大枠でしか捉えることができていないのです。


こういったざっくりとした診断しかできていない現状です。
なのに、表れる行動のすべての原因が、「脳の機能障害」と結論付けられています。
そのことに、どうしてもっと多くの人が気づかないのか、疑問に思わないのか、がギモンです。
唯一の根拠が、「医師がそういったから」
でも、その医師だって、脳内を調べたわけでも、受精した瞬間からのすべてを見ていたわけではない。
見たのは、その診察室での行動と、親御さんからの話。


極端なことを言えば、診断を受けなければ、自閉症にも、発達障害にもならないのが現状です。
昨日の「困り感」じゃないですが、本人が困っていなければ、医療や相談機関にかかることはありません。
ということは、自閉症か、発達障害かを決めるのは医師ですが、結局のところ、本人次第、家族次第ということになります。
いくら発達に凸凹があろうとも、本人が問題なく生活できていれば良いわけです。
いくら出生段階で発達の遅れがあろうとも、その後の生活の中で遅れている部分を育てていければ良いわけです。


こんなことを書くと、「療育機関に通わせないのはダメな親だ」「診断を受けないというのは、受容できていない証拠だ」などという人がいます。
でも、じゃあ、その療育機関に行って、診断を受けて、現状の子ども達、大人たちは発達が加速しているのか、いわゆる問題行動が解決できているのか、将来、自立できているのか、と問いたいと思います。
目に見える行動が、本当に脳の機能障害から来ているものなのかを調べることなく、「はい、脳の機能障害ですね」「はい、生まれつきで治りませんから」「はい、この子は療育、支援を受けてください」というファミレスのマニュアル対応みたいなことでいいのでしょうか。


もしかしたら、生まれつきでも、脳の機能の問題ではないかもしれません。
ただの未発達、未経験ということも考えられます。
発達マーカーの中で、抜かしたものがあり、そのため、うまく発達が繋がっていないのかもしれません。
栄養だって、刺激だって、愛着だって、環境面からの影響だって考えられます。
それなのに、専門家が言うから、言ったから、「脳の機能障害」じゃんじゃん、で良いのでしょうか。


支援者の一人として思うのは、本人の主観に寄り添うことの大切さです。
結局のところ、障害を確定するものは何もないのです。
だったら、本人の訴えであり、願いに応えていくのが支援者としての役目だと思います。
つまり、本人の主観が何よりも大切であるということ。
本人が「治った」「良くなった」というのなら、それが正解であり、すべてだと思います。


当然、「治った」も主観です。
でも、「治らない」「あなたは自閉症、発達障害」というのも、ある意味、主観です。
違いがあるとすれば、本人の主観か、他人の主観か、という点。
だったら、本人が以前よりも良くなったと感じ、「生きやすくなったな」「心地良くなったな」「成長できたな」と思えればいいのです。
支援者の主観を満足させることが、支援の目的、特別支援教育の目的ではないのですから。


一方で親御さんは、子どもに対し、「こうなってほしい」と願いを持つことは当然だといえます。
それを後押しするのも、支援者の役目です。
ただし、ここでも大事なのは、本人の主観です。
本人が心地良いと感じること、発達の力が向かいたい方向へ後押しすることが大事です。
後々のことを考えて、先回りして教えるのは、発達ではなく、適応を促しているといえます。
もちろん、それ自体は悪いことではありませんが。


親御さんは、世の中で一番我が子の主観に近づける人だと思います。
その親御さんが、子どもさんが感じている「治った」「ラクになった」「成長できた」という主観、想いを感じて、一緒になって「治って嬉しい」「成長を感じれて嬉しい」と言っている。
そのことを否定できる人は、どこにもいないのです。
いるとしたら、その子の障害の理由を客観的に確認し、示すことができる人だけ。
他人の主観が、本人の主観に、家族の主観に勝るわけはないのですから。


「治った」が主観で結構。
家族が「治った」と喜んでいるのなら、それはその家族にとって幸せなこと。
「治ったなんてインチキだ」というのも主観です、しかも、どこの誰だか分からない、その家族の生活、人生にとってはどうでも良い赤の他人の。
「治る」も、「治らない」も同じ主観。
だったら、本人と家族のために尽くすのが、支援者の役割。
主観に優劣はありません。


でも、一つだけ確実に言えるのは、「治った」と言っている人がいること。
「自分は治ったなあ~」「我が子は治ったなあ~」と感じた人がいる、その事実。
専門家やエビデンスは、時代とともに消えていきますが、「治った」人がいた事実は消すことができません。
その「治った」と感じることができて人が見せてくれた背中は、未来の子ども達、これから子育てを行っていく親御さん達の希望になります。
私の人生の時間は、こういった希望のために使いたいと思っています。

2019年6月13日木曜日

困り感を持っているのは、誰?

施設職員だった頃の仕事の一つとして、学校の連絡帳への記入がありました。
毎日、15名ほどの学校の様子を見て、それに返事をしたり、寮での様子を伝えたりします。
あるとき、突然、連絡帳に「困り感」という言葉が現れ、連日のようにその言葉が並ぶようになりました。
それまでは、見たことも、聞いたこともなかった言葉です。


後からわかったのですが、特別支援教育系の雑誌に載った言葉ということでした。
研修や講演会でも、当時、頻繁に使われていたようです。
学んだことをすぐに担任している子ども達に使いたがるのは、学校あるあるです。
長期休みが明けるたびに、言っていること、支援の方向性が変わるのは勘弁してほしい、とよく思ったものです。
子どもはモルモットじゃありませんね。


「困り感」という言葉が現れてから、子ども達は「困り感」を持つ人達になりました。
その当時の担任の先生も、「この子達は、困り感を持っているんです」「学校では、この困り感に対して、〇〇といった支援、教育をしています」「寮では、どのように考えているのですか」などと、困り感前提で話が進んでいました。
「困り感」という言葉が出てくるまでと、出てきた後で、子ども達は変わっていません。
でも、その「困り感」に対する支援、教育が計画され、なされていくようになる。


このように、本人ではなく、他人の考え方、捉え方、もっといえば、主観で物事が決められ、進んでいくことに恐ろしさを感じました。
確かに、知的にも、発達的にも、障害を持っている子ども達ですので、何らかの困難や困っていることがあるのは想像できます。
しかし、それはあくまで私の想像であって、本人からの訴えではありません。
私達が「困難だ」「困っているんだ」と捉えていることでも、本人からしたら困っていないかもしれません。
私達が「困っているはずだ」と思っているところではない部分で、本当は困っているかもしれません。


困っていることのズレは、当然だといえます。
他人がリードする捉え方が、本人の捉え方とピッタリ合うなんてことは不可能です。
本人が感じている世界、捉えている世界は、本人しかわかり得ないのです。
私もよく口頭や連絡帳を通して、「どうして困っているか、わかるのですか?」と尋ねたものです。
もちろん、明確な答えは返ってきませんでしたが。


私は支援者の立場として、意味付けすることの危険性を感じています。
特に、幼いお子さんや言葉の発達に遅れがある方に対しては。
幼いお子さんの場合は、私が行った意味付けによって、行動や成長が引っ張られてしまう危険性があります。
言葉の発達に遅れのある方の場合、本人の意思や尊厳を侵害してしまう危険性があります。
ですから、解釈はしても、意味付けはしてはいけないと考えています。


困っていることは、往々にして本人ではなく、周囲の人が「困っている」という場合があります。
もちろん、一人で学び、生活しているわけではないのですから、周囲が困っていることに対処することも必要です。
しかし、そういった周囲の困り感を出発としたものには根本的な解決、発達が含まれません。
何故なら、主体と一致していないことがほとんどだからです。


主体である本人が、治したいと思っている、発達したいと思っている。
そういった主体があるからこそ、変化が生じるのだと感じています。
周囲がいくら「問題を解決しよう」「発達させよう」と思っても、本人、主体と一致していなければ、実現するのは難しいといえます。
主体のない変化とは、発達ではなく、適応であり、対処であります。
だから、発達援助とは難しいのです。


親御さん、学校の先生、支援者の悩みは、主体とのズレ。
「私は、ここを伸ばしたいと思っている」「ここを育て、発達させたいと思っている」「この行動は、どうしてもやめさせたい」
でも、その想いが、主体の意思と一致しているとは限りません。
発達の順序、流れから言って、“今”じゃないのかもしれません。
私達は、人の中で、時間の中で、文化の中で生きていますが、発達とはそういった概念から解き放たれた次元で生じているのです。
発達には意思があり、自由な存在です。


当時、「困り感」なるものが流行ったのは、それだけ支援や教育で困っている大人たちが多かったということなのでしょう。
本人の「困り感」という名で、自分たちの困難を代弁させていたのだと思います。
そうやって振り返ると、構造化だ、ABAだ、SSTだ、と言われてきたけれども、どれも対処のみで根本解決に至るものは出てきませんでした。
結局、本人の「困った」も、周囲の「困った」も、それを解決するには、発達のヌケを育て直していくしかないのです。


子どもが幼くても、言葉が出ていなくても、発達の声は発していると思います。
どこを育てたいか、今、なにを発達させようとしているのか。
その声を、目や耳、感覚を通して、聞くことが大事です。
私は支援者であり、赤の他人ですので、特にこの声を大切にすることが、本人の尊厳と、本人の発達を保障することにつながると考えています。


困っている主体は誰か?
それを育てたい、発達させたいと考えている主体は誰か?
本人と周囲の人間の発達に対する波長が合ったとき、歯車は勢いよく回り始めます。

2019年6月6日木曜日

発達に人を介する理由

支援は、人以外でも行うことができます。
たとえば、教室や部屋をわかりやすいように、刺激に圧倒されないように、物を配置したり、情報を整理したりするのは、環境側からの支援だといえます。
また、読み書きや学習に困難がある人に対する電子機器、タブレットも支援ですし、身辺面や移動、運動面をサポートする器具、道具も支援だといえます。


このように人を介さない支援は様々ありますし、それらを利用し、より快適に、より自立的に学び、生活している発達障害の方達は多くいます。
これからも、こういったアイディア、モノの発展は続いていくでしょう。
そうなると、今以上に、支援者が行う支援は狭まっていき、その存在意義は問い直されることになると思います。


高齢者の支援には、すでに介護ロボットというようなものが導入されてきています。
近い将来、障害者支援の世界にも、介助ロボが導入されるのは想像に難しくありません。
ロボットならば、虐待やセクハラ、金銭着服などの心配はなくなりますし、支援者の数も今よりも減らせるので、財政的にも良い話だと思います。
わざわざ建物を青くしなくても、社会に理解を求めなくとも、優秀なロボットが生活の質を守ってくれる未来。


私は支援者をやってきたからこそ、 支援者が行える支援の限界と、支援者という役割、価値、意義が薄れていく流れを感じます。
今のような支援しているんだか介護しているんだかわからないようなものは、発達を促しているんだか適応を促しているんだからわからないものは、人以外のモノに取って代わられるはずです。
支援者の多くが外国人になる前に、ロボットになるかもしれません。


そういった流れ、未来が見えているのに、支援者が必死に支援の方法を身に付けようとするのも、親御さんを親ではなく、支援者にさせようとするのも、私は違うと思います。
それこそ、人にしかできない、親御さんにしかできない発達障害を持つ人達との関わり方があるはずです。
まさに、それこそが子育てであり、発達援助。


もちろん、子ども自身、自分に必要な刺激、遊びを知っていて、自ら発達させていくことがほとんどだといえます。
子どもの内側には、自らを発達させる力、自らで発達する力が存在している。
でも、より良い発達、より早い発達には、人との交流、対話が必要なこともあります。
私達は、子ども達により良く育ってほしい、と願うからこそ、懸命に子育てをし、発達の後押しをしているのです。


子どもさんの場合、自ら選択し、環境にアクセスできる機会が限られています。
また発達に遅れがある子やASDの特性を強く持つ子の場合、見たり、聞いたり、体験した利していないものを想像し、自ら求めることが難しいこともあります。
そうなると、同じ刺激を、環境を求め続けることになります。
最初は、発達のための刺激だったものが、いつしか単一的な刺激になり、『発達』ではなく『適応』になってしまう。
発達障害、ASDの子ども達と接する者にとって、この点は十分に配慮しなければなりません。


発達に人を介する理由は、まさにここにあります。
私が、親御さんに「対話が大事」というのも同じです。
我が子に発達を促す遊び、エクササイズを行っている。
そのとき、対話がなければ、一つの心地良い状態で留まってしまう可能性があるのです。


本人が心地良いと言っている。
じゃあ、その心地良い刺激を与え続ける。
それだと、時がくれば、発達から適応に変わってしまいます。
本人が心地良いと言っている。
そのあとに、「じゃあ、こういった遊び方はどう?」「もっといい心地良さがあるかもよ」と誘ってみる。
そうやって対話をしながら、試行錯誤をしながら、その時その時のベストな心地良さ、発達刺激を探っていくことが、子どもさんをより良く育て、発達を促していく方法だと思うのです。


将来、いくら技術や文明が発展しようとも、子育ては人が担い続けるのだと思います。
何故なら、子育ての中にも発達があるから。
発達は生き物であり、対話です。
ただ栄養を与え、ただ刺激を与えていれば、人は育ち、成長するかもしれないが、より良く発達していくことにはならないと思います。


より良い発達には、自発性と好奇心、興味関心が必要です。
つまり、本人の気持ち、心が重要だということ。
そのために、人が人を育てるのです。
心と心の対話が、その子の発達を後押ししていく。
親御さんが心地良いと感じているからこそ、援助を受けている子どもさんも、より心地良さを感じることができる。
そういった相乗効果もあると、私は考えています。


ですから、親御さん自身が健康で元気であること。
前向きで、主体性を持っていること。
なんにでもチャレンジし、試行錯誤できる身体があること。
そして何よりも、我が子を愛し、我が子の幸せを本気で願う気持ちが重要なのです。
心があるからこそ、発達を後押しすることができる。
気を介さない援助は、ただの支援であり、介助であり、人じゃなくて良いのです。

2019年6月5日水曜日

『発達』と『適応』は、まったく異なるもの

私が学生だったときですから、もう20年近く前の話になります。
なので、まだ今の特別支援学校で行われているかはわかりませんが、当時、サーキットという授業が盛んに行われていました。
部屋にマットとか、トランポリンとかを置いて、そのコースを子ども達がグルグル回って、回転やジャンプなど、いろんな動きをするやつです。
学生時代、授業の補助として入っていましたので、よく見ていました。


傍目から見れば、子ども達が主体的にコースを周り、いろんな動き、活動をしますので、なんだか良い効果があるように感じました。
実際、学校の先生もそう言っていましたし、大学の教授もそう言っていました。
療育機関でも、盛んにやられていたくらいです。
でも、授業に入り、その子ども達の様子を見ていると、「これで大丈夫かな」と思うようになりました。
まあ、第一、子ども達がサーキットを始めると、先生は部屋を出て、5分くらいしてからタバコの匂いをまとって戻ってきてたくらいですし。


結局、サーキットを始めた数回はいいんです。
しかし、同じコース、動きばかりしていると、子どもの達の意欲というか、姿勢というか、躍動感が段々と失われていくのです。
最初は、自分で動きや体勢などを工夫している様子も見られたのですが、「ただやってます」「こなしてます」みたいな感じになってくる。
つまり、最初は学習だったり、成長だったりするのに、ただの適応になってしまう。
だから、それ以上、発達、発展がない。


昨日のブログで、発達援助とは、親子の対話であり、育み合いというようなことを書きました。
ただ単に、発達に必要な刺激だけを与えておけば良いのなら、親子でやる必要はなく、支援者が存在する意義もありません。
ヒトの定型発達の順序、データを入れておいて、それに応じた刺激を子どもに自動的に与え続ける機械で十分なのです。
でも、実際は、そういった機械的な刺激では、より良い発達は見られないでしょう。
何故なら、それこそ、発達ではなく、刺激への適応になってしまうから。


いろんな人達とお話ししていますと、発達の捉え方が違うような気がします。
「刺激→反応→発達」というようなシンプルなものではなく、もっと複雑で、揺らぎがあり、個別的なものだと私は思うのです。
確かに、「定型発達」などという言葉もありますし、支援者としては、ヒトの発達の定型、流れはしっかり捉えておく必要があります。
しかし、その定型だって、大まかなもの。
一人ひとりの発達を細かく見ていけば、そこにその人特有の発達というものがあります。
大まかな定型、流れはあるけれども、発達にだって個性があるのだと思います。
もちろん、「障害が個性」などと訳のわからないことを言っているわけではありません。
発達の道筋、物語のことです。


結局、私達は、子ども達に適応させようとしているのではなく、発達してもらおうと考えているのです。
少なからず、「発達援助」「治る」を目指している人達は。
そうなると、やっぱり単一的な刺激のやりとりではいけないのだといえます。
同じ身体を揺らすにしても、「こうしたら、どう?」「このくらいの強さなら、どう?」「もっとやろうか、やめようか」といった対話が重要になってくる。


何故なら、発達とは揺らぎ、常に変化があるものだから。
そして何よりも、個別的なもの。
昨日の心地良さ、発達に必要な刺激が、今日も、今この瞬間も同じだとはいえません。
生きていない者は、発達しない。
生きている限り、発達する。
つまり、発達も生きている。
そうなると当然、刺激自体も生きている必要がある。
どっかの養護学校みたいに、同じコースをただ回らせておいて、そのうちにちょっと休憩みたいなのでは、発達は生じないのです。
刺激自体が死んでいるから。
刺激に息吹を感じられないから。


私が子育て支援にこだわるのは、まさにこういった理由からです。
親御さんには、子育てを通して、子どもさんの発達を後押ししてもらいたい。
ただ単に、第三者が作った枠に当てはめるような適応を目指すのではなく。
適応と発達は、明確に違うと私は考えています。


親子だからこそ、支援者なんかよりも、丁寧に、ゆっくり、その子に合わせた発達の促し方ができるはずです。
そのための対話であり、育み合いです。
発達刺激に想いを込められるし、想いを汲められるのが、親子の強み。
イキイキとした刺激が、子どものイキイキとした発達に繋がるのだと思います。
発達は生き物なのですから、刺激も生きていなければなりません。

2019年6月4日火曜日

子どもの「心地良い」が感じられない理由

発達の主体は、子どもさん自身。
ですから、「どれくらいやったらいいですか?」「どのくらいの加減でやればいいですか?」というご質問には、子どもさんが「満足するまで」「心地良く感じている加減で」とお答えするしかできません。


このような説明をしますと、ほとんどの親御さん達は、「子どもの様子をしっかり見ようと思います!」「子どもに合わせてやってみようと思います!」と返ってきます。
そうやって、子どもの反応、様子に目や耳を傾けることで、子どもの、子どもの内側にある発達の声を聞くようになります。
聞こえてきたメッセージに対し、親御さんも発達の後押しで返していく。
このようなやりとりが、試行錯誤を生み、より良い発達、伸びやかな発達へと繋がっていくのです。


「子どもの反応、様子を見る」というのは、ただ単に、その反応、動きのみを見ているわけではありません。
生き物の観察のように、「しっかり見て、それを記録する」というよりも、親子の対話だといえます。
本当に見るのは、発達の動き、息吹、息づかいであり、言葉ではなく、発達を介した会話なのです。


時々、「しっかり見たけれども、何が良いか、心地良いか、がわからない」とおっしゃる方もいます。
多分、こういった親御さんは、誰よりも、しっかり子どもさんのことを見ているのだと思います。
子どもさんの表情、身体の反応、動き、言葉の変化までも、しっかり見ている。
そのちょっとした変化、反応も、見落とさないくらいに。
逆に言うと、それくらい見ているからこそ、「わからない」のだと思います。


「わからない」とおっしゃる親御さんの多くは、見てはいるけれども、対話していないのです。
別の言い方をすれば、ご自身がどう感じたか、どうメッセージを受け取ったか、を見ていない。
とにかく、子どもの反応、子どもの動き、子どもの表情を、という具合に、子ども、子ども、子どもとなっている。
そうなると、対話にはなっていきません。
対話にならないから、試行錯誤に発展していけないのです。
発達の後押しとは、キャッチボールでもあるので、子どもからのメッセージを受け取るだけではなく、ご自身の感覚、感じたものを返す必要もあるはずです。


発達援助が育み合いだとしたら、親御さんご自身も、その発達援助、後押しをやってみて、どう感じたか、なにが伝わってきたか、という感覚も大事になります。
その感覚があるからこそ、より良い方向へと試行錯誤が生まれてきます。


たとえば、金魚体操でも、同じ揺れるのなら、同じ身体の弛みを目指すのなら、人が必ずしもしなくてもよいといえます。
揺れるマシーンを使い、本人が気の済むまで揺れていればいい。
でも、それだと単に刺激を得ているだけ。


発達とは、心地良いからこそ、生じるもの。
本人が心地良いと感じることが一番。
でも、発達を後押ししている者、育み合いをしている相手も、心地良く感じれることが大事だと思います。
何故なら、その心地良さは、後押し、育み合いを通して、子ども自身にも伝わっていくから。
そういった発達援助をしている者の心地良さが、子ども自身の心地良さをさらに大きくすることもあります。
そういった発達援助をしている者の心地良さが伝わってくることで、子ども自身も「自分の心地良さ」を感じることもあります。


子どもさんの反応を見ても、心地良さがわからないとしたら、それは援助する側の感覚が抜け落ちているからかもしれません。
「今のやり方、私自身も心地良かった」
そういった「心地良かった」という感覚は繋がり合い、子どもの「心地良い」を感じる一歩だといえます。


自分自身が、心地良いも悪いもなく、ただ単に援助しているだけでは、子どもの「心地良い」は見えてこないでしょう。
また対話は起きず、育み合いも生じない。
案外、子どもさんが心地良く感じられていないのは、その刺激、やり方が悪い、合っていないのではなく、やっている側の人間が、単に身体を動かしているだけ、感情が伴っていないため、と感じることは少なくないのです。
子育ても、発達援助も、タスクではありません。
親子の対話であり、育み合いだと、私は考えています。

2019年5月23日木曜日

手づかみ食べは、単に手先の使い方の練習のみならず

以前にもブログに書いたような気がしますが、とても重要なことなので、私はそう考えているので、改めて「手づかみ食べ」について書こうと思います。
実際、私とのセッションを行ったご家族の中には、「手づかみ食べしていましたか?」ですとか、「手づかみ食べが足りなかったようですね」「今からでも、手づかみ食べを」という具合にお話しさせていただいた方達がいらっしゃると思います。
必ず確認するわけではありませんが、特に口や手で情報を得たがっている、味わいたがっている雰囲気を感じた場合に、そんな話をさせてもらっています。
(*このあたりの話は『口の時期、手の時期、足の時期』をご覧ください)


では、何故、手づかみ食べが重要なのか。
いきなり結論ですが、手づかみ食べは、口の時期と手の時期を結ぶ懸け橋だからです。
胎児期2ヶ月から口の周りの触覚を発達させていきます。
それ以降、お母さんのお腹の中で、羊水を飲んだり、自分の手や指をしゃぶったりして育てていく。
誕生後も引き続き、おっぱいを吸い、自分の手足指をしゃぶり、いろんなものを口の中に入れて感覚、機能を育てていきます。


そうやって自分の口で、いろんな刺激、情報を味わい尽くし、探索しつくしたあと、今度は手でいろんな刺激、情報を味わい、探索する時期に移行していくのです。
その移行を助けるのが、いや、口で得た情報と手で得た情報を連結させるのが、手づかみ食べだといえます。
イメージで記せば、「刺激→口→脳」から「刺激→『口↔脳↔手』」という感じです。


食べるという行為は、本能的な行動ですので、大いに脳を刺激し、育てます。
1歳半前後まで、主に口周辺の触覚や口の中の感覚で、食べ物の形状や状態などを捉えていました。
しかし、手足が動かせるようになり、自分で食べ物を口に運ぶことができるようになると、本能的な行動ですので、自らどんどん行うようになります。
これが手づかみ食べ。


自分の手で触ったり、掴んだりすると、その情報、刺激が手を通して脳に運ばれます。
グチャッとする感覚や固い感覚、大きい、滑りやすい、掴みやすいなど、とにかく多様で複雑な感覚。
同時に、その食べ物を口に運ぶと、手で感じた情報、感覚が、口の中でも生じるのです。
手で感じた刺激と口で感じた刺激の結びつき。
そうなると、脳内でネットワークができ、ものごとをより立体的に捉えられるようになります。


口で情報を得る時期が完了すれば、次は手で情報を得る時期に移行します。
でも、それはそれぞれ単独で、そういった発達段階があるわけではなく、また脳的にも、それぞれ別個に機能を育てているわけではなく、やっぱり口→手の発達の流れがあるのです。
口の時期が卒業したから、手の時期に入る。
つまり、口の発達の上に、次の手の時期が乗っかる感じ。
ですから、口で得た情報と手で得た情報を感覚的に、脳内的に繋げる、ネットワークを作ることがヒトとして重要なことだといえます。


爬虫類は、口のみで食物を食べます。
哺乳類になると、手を使って食べるようにもなる。
ヒトは、道具を使って食べる。
ということは、手を使って食べることが発達的にも、脳的にも、必要だし、重要なことだと考えられます。


そもそも口以前の段階に、発達のヌケがあると、食べること自体に困難がある子もいます。
また、口の段階は完了したとしても、運動発達の関係で、うまく掴めない、食べられないという子もいます。
しかし、中にはこういった発達のヌケ、遅れからくる「手づかみ食べをしない、足りない」ではなく、周囲の大人の考え方、環境的な要因から、手づかみ食べをしない、しなかったということもあります。


確かに、忙しい日常生活の中、できるだけ子どもにはスムーズに食事を摂ってもらいたいし、後片付けもラクな方が良い気持ちもわかります。
家の、環境側の要因として、なかなか汚せない環境というのもあるでしょう。
食べ物をこぼしても、さっと拭けば綺麗になる床だけではない家庭の事情。
さらに遺伝的な要素もあって、家族が汚れること、ランダムな家事、不測の事態に対応できない、苦手だということもあると感じます。


そうなると、なるべく手づかみ食べはさせずに、という方向へ行きがちです。
汚れるくらいなら、食べさせる。
早めに、スプーンやフォークを使わせる。
手で掴んで食べたとしても、さっと手を拭いてしまう。
そうなると、動物本来の食事、捕食の発達段階、発達刺激を味わえないことも出てきます。
それも一種の発達のヌケだと私は捉えます。


口だけで刺激、感覚、情報を味わっていた段階から、手でも同じように味わう段階になる。
「口で感じた刺激が、手でも同じように感じる!」
この気づきは、脳を大変喜ばせるのだと思います。
特に、食べるは本能的な活動なのですから。
口で感じた刺激と手で感じた刺激が、脳内でつながり、新たなネットワークとなる。


同様に、手で感じた刺激が、足でも同じように感じることができる。
そうなると、『口↔手↔足』の繋がりができる。
そうやって、同じ刺激なんだけれども、いろんな感覚器で感じる、刺激を味わうことが新たなネットワークを作り、さらに脳や感覚を育てることに繋がるのだと思います。


手づかみ食べは、単に手先の使い方、機能の練習のみにならずです。
ただ手先を器用にするだけだったら、自立課題などでネジとナットを回しておけばよいのです。
でも、そういった教育では、感覚同士の結びつきは起きません。
むしろ、発達障害の子ども達の不器用さの背景には、動かし方以前の問題として、感覚同士の結びつき、中枢神経と末端神経の結びつきの課題がある、と私は考えています。
どう見ても、機能の問題じゃなくて、そもそも感覚が繋がっていないのでは、はっきりしていなのでは、と思う子の方が多いです。


現在社会、家庭環境では、敬遠されがちな手づかみ食べ。
しかし、その手づかみ食べが、発達には大きな意味があると思います。
手づかみ食べのアドバイスをしたご家族から、「いろんなことがわかるようになった」「まさに“掴める”ようになった」という報告を受けることが少なくありません。
是非、手づかみ食べを。
道具を使って食べるのは、手づかみ食べをやりきったあとからでも遅くはありません。


【福岡出張に関して】
おかげさまで、福岡出張の調整、手配が完了しました。
6月、3泊4日の日程ではありますが、4家族の皆様と一緒に、時間が許す限り、お子さん達のより良い発達と子育てについて考えさせて頂きます。
日程の都合上、今回、他県にはお伺いできませんでした。
またの機会に、別の機会にお会いできることを楽しみにしております。
情報を拡散してくださった皆様にも感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。