「心理的な自立」で、すぐに思い浮かぶ子
自立には、主に3つの側面があると思います。
身の回りのことが自分でできる身辺的自立。
収入を得て、自分で生計を立てて生活する経済的自立。
そして、昨日、お話しした自分の意思と選択によって生き方を決める心理的自立です。
この3つの自立で順位をつけるとすれば、私は心理的な自立が最も大事なことだと考えています。
「心理的な自立」という言葉で、すぐに思い浮かぶお子さんがいます。
その子は、まだ発語がなく、知的障害で言えば、重度の判定が出るお子さんです。
まだ子ども年代ですので、これからの発達、成長によって、変化していく可能性はあるでしょうが、もしかしたら、完全な自立は難しいかな、と思うことがあります。
実際、ご家族も、そのように仰っていました。
将来、身辺面でも、経済面でも、支援が必要になる可能性が高い。
でも、この子と接していると、悲しげな成人後の姿が見えてこないのです。
それは、心理的な自立ができる子だと感じているからです。
この子は、「好きなものは好き」「嫌いなものは嫌い」というように、とても意思がはっきりしています。
その意思表示も、言葉ではありませんが、しっかり態度や行動で示します。
そして何よりも、その意思表示に対して、家族みんなで、しっかり目や耳、感覚を傾け、ちゃんと分かり合えるまで向き合い続けるのです。
当然、「ダメなものはダメ」ではありますが、叶えられるものなら、時間が許す限り、応えています。
そういった本人、家族の姿を拝見すると、自分の好き嫌い、意思をしっかり表明できる機会があり、それが保障されている。
日々の生活の中に、本人が選択できる機会が自然にあり、その結果を含めて味わえている。
もちろん、本人の持って生まれた資質もあるでしょうが、このような育みが幼少期から将来の心理的な自立に向けた準備になっていると分かります。
たとえ、将来、支援を受けながら生きていくにせよ、この子は、ちゃんと意思表示をし、自らの選択によって生活を決めていくはずです。
「自分の意思と選択によって、今日一日を生きていく」
何の変哲もない、多くの人が意識することなく、当たり前に行っていることであり、保障されていること。
しかし、そんな当たり前のことが、保障されていない人たちもいるのです。
限られた資源で効率的に行おうとすれば、言葉のあるなし、知能検査の数値が、意思表示の有無、選択ができるかどうか、の判断に使われてしまいます。
成人したとき、「難しい」「困難」と判断されてしまえば、本人の意思や選択を聞くことなく、またその場すら与えられることなく、自分以外の人間によって、その後の人生が決められてしまいます。
一旦、施設に入ることができれば、親としては安心かもしれませんが、本人からしたら失うものが多すぎると思います。
生活面、経済面で、本人は心配することはありませんが、心理的な自立が難しくなるのです。
施設こそ、限られた人員、予算、環境ですので、個人の選択は極力減らしていき、効率的に運営できる方向へと進みます。
毎日、決められた流れ、日課で、一律に行動できている状態が、支援する側としてもっとも効率的だから。
ですから、子ども時代、学校生活を送っている間に、自分の意思表明と選択ができる力が育っている必要があります。
そういった心理的な自立ができている人まで、支援者も選択の機会を減らそうとはしないものです。
別の言い方をすれば、支援慣れしている人から順に、選択の機会が減らされていく。
私は、現状の早期療育、また療育や支援自体に、否定的な意見、見解を持っています。
それは、「発達」や「治る」とはかけ離れたことをやっているからだけではありません。
それ以上に、現行の療育、支援が、子ども達から意思と選択の機会を取り上げ、支援しやすい子を育てるというシステムになっている点が、最も問題なのです。
構造化にしろ、ABAにしろ、SSTにしろ、その多くは、支援者の視点から展開されています。
どれもこれも、「支援しやすい子に育てる」という流れが見えますし、その根底には、いまだに「可愛がられる障害者を」という思想が見えるのです。
支援者が支援しやすい人。
支援者にかわいがられる人。
その2つに共通するのは、「指示通りに動いてくれる」ということです。
それには、本人の意思と選択が邪魔になることがある。
意思がなく、選択もしない。
そういう状態が、もっとも支援者の指示が入りやすい状態なのです。
施設で働いていたとき、私は彼らの意思に耳を傾けることなく、幾度となく選択の機会を奪ってきました。
ですから、今、こうやって家庭支援の仕事をやっていて、「心理的な自立」の大切さを伝えています。
いくら身の回りのことができ、経済的に自立できたとしても、他人に、支援者に、その人の生活が決められてしまっている状態は、幸せだとはいえません。
長い人生、ずっと他人が決めた生活をこなしていくだけ。
そこに選択、そして自由がないのです。
たとえ限られた選択肢であったとしても、自らの意思と選択によって得られた結果は、その人に自由の喜びを感じさせてくれるものです。
そうです、現行の支援には“自由”がないのです!
「心理的な自立」で思い浮かべたお子さんには、自由があります。
もちろん、発達の面では、不自由な面も、まだたくさんあると思います。
でも、生活の中に、家族の中に、自由が溢れている。
ですから、伸びやかな日々があり、心理的な自立に向けた育ちが進んでいるのだと思います。
きっとこの子は、どこで生きたとしても、心の自由を失うことはないはずです。
心の自由があれば、生涯を通して、成長し続けることができる。
身の回りのことが自分でできる身辺的自立。
収入を得て、自分で生計を立てて生活する経済的自立。
そして、昨日、お話しした自分の意思と選択によって生き方を決める心理的自立です。
この3つの自立で順位をつけるとすれば、私は心理的な自立が最も大事なことだと考えています。
「心理的な自立」という言葉で、すぐに思い浮かぶお子さんがいます。
その子は、まだ発語がなく、知的障害で言えば、重度の判定が出るお子さんです。
まだ子ども年代ですので、これからの発達、成長によって、変化していく可能性はあるでしょうが、もしかしたら、完全な自立は難しいかな、と思うことがあります。
実際、ご家族も、そのように仰っていました。
将来、身辺面でも、経済面でも、支援が必要になる可能性が高い。
でも、この子と接していると、悲しげな成人後の姿が見えてこないのです。
それは、心理的な自立ができる子だと感じているからです。
この子は、「好きなものは好き」「嫌いなものは嫌い」というように、とても意思がはっきりしています。
その意思表示も、言葉ではありませんが、しっかり態度や行動で示します。
そして何よりも、その意思表示に対して、家族みんなで、しっかり目や耳、感覚を傾け、ちゃんと分かり合えるまで向き合い続けるのです。
当然、「ダメなものはダメ」ではありますが、叶えられるものなら、時間が許す限り、応えています。
そういった本人、家族の姿を拝見すると、自分の好き嫌い、意思をしっかり表明できる機会があり、それが保障されている。
日々の生活の中に、本人が選択できる機会が自然にあり、その結果を含めて味わえている。
もちろん、本人の持って生まれた資質もあるでしょうが、このような育みが幼少期から将来の心理的な自立に向けた準備になっていると分かります。
たとえ、将来、支援を受けながら生きていくにせよ、この子は、ちゃんと意思表示をし、自らの選択によって生活を決めていくはずです。
「自分の意思と選択によって、今日一日を生きていく」
何の変哲もない、多くの人が意識することなく、当たり前に行っていることであり、保障されていること。
しかし、そんな当たり前のことが、保障されていない人たちもいるのです。
限られた資源で効率的に行おうとすれば、言葉のあるなし、知能検査の数値が、意思表示の有無、選択ができるかどうか、の判断に使われてしまいます。
成人したとき、「難しい」「困難」と判断されてしまえば、本人の意思や選択を聞くことなく、またその場すら与えられることなく、自分以外の人間によって、その後の人生が決められてしまいます。
一旦、施設に入ることができれば、親としては安心かもしれませんが、本人からしたら失うものが多すぎると思います。
生活面、経済面で、本人は心配することはありませんが、心理的な自立が難しくなるのです。
施設こそ、限られた人員、予算、環境ですので、個人の選択は極力減らしていき、効率的に運営できる方向へと進みます。
毎日、決められた流れ、日課で、一律に行動できている状態が、支援する側としてもっとも効率的だから。
ですから、子ども時代、学校生活を送っている間に、自分の意思表明と選択ができる力が育っている必要があります。
そういった心理的な自立ができている人まで、支援者も選択の機会を減らそうとはしないものです。
別の言い方をすれば、支援慣れしている人から順に、選択の機会が減らされていく。
私は、現状の早期療育、また療育や支援自体に、否定的な意見、見解を持っています。
それは、「発達」や「治る」とはかけ離れたことをやっているからだけではありません。
それ以上に、現行の療育、支援が、子ども達から意思と選択の機会を取り上げ、支援しやすい子を育てるというシステムになっている点が、最も問題なのです。
構造化にしろ、ABAにしろ、SSTにしろ、その多くは、支援者の視点から展開されています。
どれもこれも、「支援しやすい子に育てる」という流れが見えますし、その根底には、いまだに「可愛がられる障害者を」という思想が見えるのです。
支援者が支援しやすい人。
支援者にかわいがられる人。
その2つに共通するのは、「指示通りに動いてくれる」ということです。
それには、本人の意思と選択が邪魔になることがある。
意思がなく、選択もしない。
そういう状態が、もっとも支援者の指示が入りやすい状態なのです。
施設で働いていたとき、私は彼らの意思に耳を傾けることなく、幾度となく選択の機会を奪ってきました。
ですから、今、こうやって家庭支援の仕事をやっていて、「心理的な自立」の大切さを伝えています。
いくら身の回りのことができ、経済的に自立できたとしても、他人に、支援者に、その人の生活が決められてしまっている状態は、幸せだとはいえません。
長い人生、ずっと他人が決めた生活をこなしていくだけ。
そこに選択、そして自由がないのです。
たとえ限られた選択肢であったとしても、自らの意思と選択によって得られた結果は、その人に自由の喜びを感じさせてくれるものです。
そうです、現行の支援には“自由”がないのです!
「心理的な自立」で思い浮かべたお子さんには、自由があります。
もちろん、発達の面では、不自由な面も、まだたくさんあると思います。
でも、生活の中に、家族の中に、自由が溢れている。
ですから、伸びやかな日々があり、心理的な自立に向けた育ちが進んでいるのだと思います。
きっとこの子は、どこで生きたとしても、心の自由を失うことはないはずです。
心の自由があれば、生涯を通して、成長し続けることができる。
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