『診断と投薬』の限界
息子を殺めた元農水事務次官の父親に懲役6年の実刑判決が言い渡された事件。
この判決や事件の状況、それまでの家庭生活などに対し、いろんな立場の人が、それぞれ長男の視点から、父親、家族の視点から意見が述べられていました。
そういった意見を目にするたびに、私は「どうしたら防げたのか?」という疑問が湧くのです。
父親がいわゆるエリートだったから、息子の気持ちがわからなかったんだ、その気持ちに寄り添えなかったんだ、世間体を気にして助けを求めることができなかったんだ。
確かに、そういった側面もあるかもしれません。
でも、それは事件の枝葉にすぎないと思います。
その幹は、「何やってんだ、専門家」
いや、「発達障害に関する専門家の無力さ」でしょう。
発達障害に関する専門家、支援者は、「診断があれば」「支援があれば」「理解があれば」と言います。
でも、本当にそうなのでしょうか。
この3つがあれば、こういった悲しい事件は起きなかったのでしょうか。
この息子さんは、診断を受けており、発達障害を自覚していたといいます。
しかも、服薬も受けていた。
つまり、『診断と投薬』という医療者のみに認められた専門的な援助を受けていたということ。
それなのに、息子さんの症状や生きづらさ、そして家族を心身共に追い詰めてしまう行為がなくならかったのです。
ということは、『診断と投薬』で問題は解決しない、限界があるという意味ではないでしょうか。
医療者が医療について、一般の人よりも専門的な知識、技術を持っているのは当然のこと。
魚屋さんが、一般の人よりも、魚に詳しく、さばくのがうまいのと一緒です。
専門家が一般の人よりも、その分野の専門性があったとしても、それイコール偉いわけでも、あらゆる面で一般の人よりも優れているというわけでもないのは当たり前。
今年も、いろんな地域で、多くのご家族とお会いしてきましたが、未だに専門家、支援者と親御さんが対等な関係を築けていない、もしくは、上下関係を維持しようとする場合が多いのが気になります。
専門家や支援者が、家庭生活のこと、進路に関すること、どんな支援を受けるか、また薬を飲む飲まないまで、口出ししている、指示していることが本当に多くあります。
そんなに発達障害の専門家とやらは偉いのか?
その指示に従った後の結果まで責任を持ってくれるのか?
それこそ、常々言っている「生涯に渡る支援」とやらを、その本人が人生を終えるときまで、ついてまわってやってくれるのか?
もし私が、事件が起きる前のこの家族の元へ支援者として伺ったら…。
こういった最悪の事態が防げたのか、本人の改善、家族の気持ちの良い変化を持たせられたか。
私にはできないと思います。
何故なら、支援者である私は無力だから。
たとえ、私が何か改善に繋がるアイディアを持っていたとしても、それが伝えられたとしても、行う主体は本人であり、家族です。
ですから、いくら頑張っても、本人、家族が行動に移せなければ、やろうとしなければ、手も足も出すことはできないのです。
どんなに専門家がその知識、技能を披露したとしても、支援者が偉そうにしていたとしても、主体まで手を出すことはできません。
いや、どんな人であったとしても、他人の主体を侵そうとする行為はいけないのです。
もし、それをやれば、洗脳であり、人権侵害です。
あくまで主体は本人、家族。
専門家、支援者というのは、その主体から一歩離れた存在です。
なので、ある意味、どんな専門家、支援者も無力であり、できることは主体である本人にアイディアや情報を提供することのみ。
専門家、支援者とは、主体に使われる存在なのです。
医療に繋がっても、最悪の事態を防ぐことはできませんでした。
『診断と投薬』は万能ではありません。
と言いますか、『診断と投薬』であっても、診断をどのように理解し、自分の中に落とし込むか、処方された薬を口の中に入れるか、は本人次第。
同じように、「欧米の大学公認」だとか、「〇〇学会認定資格」だとか、「エビデンスあり」だとか言っても、その支援方法が、本人に合うかどうかはわかりませんし、合ったとしても万能ではないのは事実です。
どんなに優れた療法だったとしても、いつなんどきも、どんな人、症状にも効果があるとはいえません。
だからこそ、主体である本人、家族が、しっかり見極め、試行錯誤しながら、テーラーメイドの子育て、支援をやっていく。
そのための情報源、アイディアの一つくらいなものです、専門家、支援者というのは。
いろんな方のお話を伺っていると、「〇〇センターはダメだ」「あの療法は、効果がない」などと言うと、専門家、支援者が不機嫌になる、怒る、予約を受け付けないようにする、などを行うことがあるそうです。
別に、その子に合わなかっただけですから、何も不機嫌になる必要はないのです。
どう頑張っても、万能にはならず、効果があったとしても部分的なのは当たり前なのです。
結果が出ないことに対して、「結果が出ない」というのは悪いことではありません。
結果が出ないことを、主体を侵略し、つきあわせようとするのが悪いことなのです。
専門家、支援が万能なら、こんなにも、子どもの発達で悩む親御さんが多いわけがありません。
もっと多くの人達が、学校を卒業後は、その人の資質を活かして、社会の中で生きているはずです。
特別支援教育が始まり、多くの子ども達が早期から診断、療育を受けられるようになり、就学後も児童デイなどのサービスが受けられ、社会の認知も広まってきたのに、発達障害の人達は以前よりも幸せに生きているのでしょうか。
彼らの生きづらさは、少しでもラクになったのでしょうか。
もし、そうなっていなければ、何かが間違っていた証拠であり、何かを変えていく必要があるということ。
私はこの世界に入って15年ほどではありますが、間違っていたのは、専門家が主体性を奪おうとし、親御さんが子育ての主体を丸投げしたことにあると思います。
そして変えていく必要があるのは、理解や支援ではなく、その子の内側にある発達のヌケ、遅れ、課題を育てていかなければならないということです。
そうならなければ、このたびのような悲しい事件はなくなっていかない。
持って生まれた資質を自分の人生に、社会のための活かすことができない人ばかりになってしまうのです。
こんな悲しいことはありません。
みんな、授かった大切な命です。
「発達障害だから」「生まれつきだから」という無責任な言葉で、一人の子どもの、一つの家族の人生を諦めさせることができるほど、専門家も、支援者も、偉くないし、優れているわけではない!
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【関東出張に関して】
12月16日のブログで告知したところ、想定していた以上のご依頼をいただきました。
17日の22時、定員に達しましたので、今回の主張相談の募集は終了いたします。
もし、ご検討中の方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。
今回、予定が合わずにお断りしたご家庭もありますので、次の機会をお待ちください。
この判決や事件の状況、それまでの家庭生活などに対し、いろんな立場の人が、それぞれ長男の視点から、父親、家族の視点から意見が述べられていました。
そういった意見を目にするたびに、私は「どうしたら防げたのか?」という疑問が湧くのです。
父親がいわゆるエリートだったから、息子の気持ちがわからなかったんだ、その気持ちに寄り添えなかったんだ、世間体を気にして助けを求めることができなかったんだ。
確かに、そういった側面もあるかもしれません。
でも、それは事件の枝葉にすぎないと思います。
その幹は、「何やってんだ、専門家」
いや、「発達障害に関する専門家の無力さ」でしょう。
発達障害に関する専門家、支援者は、「診断があれば」「支援があれば」「理解があれば」と言います。
でも、本当にそうなのでしょうか。
この3つがあれば、こういった悲しい事件は起きなかったのでしょうか。
この息子さんは、診断を受けており、発達障害を自覚していたといいます。
しかも、服薬も受けていた。
つまり、『診断と投薬』という医療者のみに認められた専門的な援助を受けていたということ。
それなのに、息子さんの症状や生きづらさ、そして家族を心身共に追い詰めてしまう行為がなくならかったのです。
ということは、『診断と投薬』で問題は解決しない、限界があるという意味ではないでしょうか。
医療者が医療について、一般の人よりも専門的な知識、技術を持っているのは当然のこと。
魚屋さんが、一般の人よりも、魚に詳しく、さばくのがうまいのと一緒です。
専門家が一般の人よりも、その分野の専門性があったとしても、それイコール偉いわけでも、あらゆる面で一般の人よりも優れているというわけでもないのは当たり前。
今年も、いろんな地域で、多くのご家族とお会いしてきましたが、未だに専門家、支援者と親御さんが対等な関係を築けていない、もしくは、上下関係を維持しようとする場合が多いのが気になります。
専門家や支援者が、家庭生活のこと、進路に関すること、どんな支援を受けるか、また薬を飲む飲まないまで、口出ししている、指示していることが本当に多くあります。
そんなに発達障害の専門家とやらは偉いのか?
その指示に従った後の結果まで責任を持ってくれるのか?
それこそ、常々言っている「生涯に渡る支援」とやらを、その本人が人生を終えるときまで、ついてまわってやってくれるのか?
もし私が、事件が起きる前のこの家族の元へ支援者として伺ったら…。
こういった最悪の事態が防げたのか、本人の改善、家族の気持ちの良い変化を持たせられたか。
私にはできないと思います。
何故なら、支援者である私は無力だから。
たとえ、私が何か改善に繋がるアイディアを持っていたとしても、それが伝えられたとしても、行う主体は本人であり、家族です。
ですから、いくら頑張っても、本人、家族が行動に移せなければ、やろうとしなければ、手も足も出すことはできないのです。
どんなに専門家がその知識、技能を披露したとしても、支援者が偉そうにしていたとしても、主体まで手を出すことはできません。
いや、どんな人であったとしても、他人の主体を侵そうとする行為はいけないのです。
もし、それをやれば、洗脳であり、人権侵害です。
あくまで主体は本人、家族。
専門家、支援者というのは、その主体から一歩離れた存在です。
なので、ある意味、どんな専門家、支援者も無力であり、できることは主体である本人にアイディアや情報を提供することのみ。
専門家、支援者とは、主体に使われる存在なのです。
医療に繋がっても、最悪の事態を防ぐことはできませんでした。
『診断と投薬』は万能ではありません。
と言いますか、『診断と投薬』であっても、診断をどのように理解し、自分の中に落とし込むか、処方された薬を口の中に入れるか、は本人次第。
同じように、「欧米の大学公認」だとか、「〇〇学会認定資格」だとか、「エビデンスあり」だとか言っても、その支援方法が、本人に合うかどうかはわかりませんし、合ったとしても万能ではないのは事実です。
どんなに優れた療法だったとしても、いつなんどきも、どんな人、症状にも効果があるとはいえません。
だからこそ、主体である本人、家族が、しっかり見極め、試行錯誤しながら、テーラーメイドの子育て、支援をやっていく。
そのための情報源、アイディアの一つくらいなものです、専門家、支援者というのは。
いろんな方のお話を伺っていると、「〇〇センターはダメだ」「あの療法は、効果がない」などと言うと、専門家、支援者が不機嫌になる、怒る、予約を受け付けないようにする、などを行うことがあるそうです。
別に、その子に合わなかっただけですから、何も不機嫌になる必要はないのです。
どう頑張っても、万能にはならず、効果があったとしても部分的なのは当たり前なのです。
結果が出ないことに対して、「結果が出ない」というのは悪いことではありません。
結果が出ないことを、主体を侵略し、つきあわせようとするのが悪いことなのです。
専門家、支援が万能なら、こんなにも、子どもの発達で悩む親御さんが多いわけがありません。
もっと多くの人達が、学校を卒業後は、その人の資質を活かして、社会の中で生きているはずです。
特別支援教育が始まり、多くの子ども達が早期から診断、療育を受けられるようになり、就学後も児童デイなどのサービスが受けられ、社会の認知も広まってきたのに、発達障害の人達は以前よりも幸せに生きているのでしょうか。
彼らの生きづらさは、少しでもラクになったのでしょうか。
もし、そうなっていなければ、何かが間違っていた証拠であり、何かを変えていく必要があるということ。
私はこの世界に入って15年ほどではありますが、間違っていたのは、専門家が主体性を奪おうとし、親御さんが子育ての主体を丸投げしたことにあると思います。
そして変えていく必要があるのは、理解や支援ではなく、その子の内側にある発達のヌケ、遅れ、課題を育てていかなければならないということです。
そうならなければ、このたびのような悲しい事件はなくなっていかない。
持って生まれた資質を自分の人生に、社会のための活かすことができない人ばかりになってしまうのです。
こんな悲しいことはありません。
みんな、授かった大切な命です。
「発達障害だから」「生まれつきだから」という無責任な言葉で、一人の子どもの、一つの家族の人生を諦めさせることができるほど、専門家も、支援者も、偉くないし、優れているわけではない!
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【関東出張に関して】
12月16日のブログで告知したところ、想定していた以上のご依頼をいただきました。
17日の22時、定員に達しましたので、今回の主張相談の募集は終了いたします。
もし、ご検討中の方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。
今回、予定が合わずにお断りしたご家庭もありますので、次の機会をお待ちください。
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