発達障害を治すだけでは、自立できない
児童デイに通っている子が、「今日は、お友達と遊びたい」と言いました。
そうすると、親御さんが「今日は、児童デイに行く日だからダメですよ」と言いました。
その子は友達の誘いを断り、しぶしぶ児童デイに行くのでした。
これは、ノンフィクションです。
この話を聞いて、私は、この子の自立を阻んでいるのは、親御さんだと思いました。
それは、「友達との遊びの方が、児童デイよりも、社会性が培える機会だから」という単純な話ではありません。
自分の一日をどう過ごすか。
それは、プライベートな話であり、本人が決めることです。
当然、家族の事情があり、考えもあって、本人の選択通りに行かないこともあるでしょう。
でも、そういった場合であっても、ちゃんと事情を説明し、納得、または妥協点を見つける作業は必要です。
相手が子どもだからといって、一方的に子の選択の機会を奪うことはやってはいけません。
何故なら、選択できることが、自立するために必要な力だからです。
私は、「選択する力」というのは、自立にとって重要なスキルだと考えています。
と言いますか、選択できない人は、自立できないでしょう。
自立にはいろいろあって、経済的な自立もあれば、身辺的な自立もあります。
しかし、いくら経済的にも、身辺的にも、自立できていたとしても、自分のことを自分で決められない人は、心理的な自立ができないのです。
よく支援者は、「完全に自立して生きている人間などいません。みんな、誰かに頼って生きています。食べ物だって自給自足していないでしょ。だから、できないところを支援を受けながら、生きるのは問題ないんです」と言って、「支援付きの自立」とかいう論理が破綻しているものを売ろうとします。
「うちの支援を受けて、自立した人達がいます」という事業所の話を聞けば、グループホームや作業所に通って支援を受けている。
いやいや、それは自立とは言わない。
24時間のうちの大部分が、支援を受けていることで成り立っているから。
そして何よりも、本人に選択できる場面がほとんどないから。
もう今の親御さん達はわからないかもしれませんが、構造化のアイディアの一つとして、スケジュールというものがありました。
その日の予定を、子どもの認知度に合わせて、絵カードや文字を使い、視覚的に示すアイディアです。
以前は学校や施設、家など、どこでも壁に一人ひとりのスケジュールが貼ってあったものです。
そのスケジュールですが、基本的に本人以外の人が組み立てます。
「今日の予定は、こんな感じ」みたいな。
で、それを見て、子どもは楽しい予定があれば、喜ぶし、反対に嫌な予定があれば、悲しんだり、怒ったりします。
そういった自然な子どもの反応に対し、支援者はどうしたでしょうか?
日本では、子どもが泣こうが、わめこうが、いったん示した予定は、すべて行わせようとします。
子どもが怒って、カードをはがしても、再び取り付けます。
それが頻繁な子の場合は、提示してある場所がどんどん高い位置になり、子どもの手が届かない場所に動いていきます。
とにかく、「一度提示したスケジュールは、全部やらせること」というのが、学校でも、施設でも、家庭でも行われていました。
理由は、構造化を推し進めていた有名支援者がそう言っていたから。
一方で、その構造化のアイディアが生まれた地に研修で行ったときですが、日本では、どこでもここでも見られていた「スケジュールやりたくないVSやらせる」のやりとりが、まったく見られませんでした。
大学や療育施設だけではなく、強度行動障害の人達の施設にも行きましたが、そこでもスケジュールに関するいざこざはなし。
理由は、本人がスケジュールに不満を述べたら、支援者は意見を取り入れ、どんどん変えちゃうから。
日本だと、スケジュールの変更を受け入れてしまったら、「好きな活動しかしなくなる」「嫌なことはやらなくなる」「我がままになってしまう」などと言う人が多いですが、アメリカのそこの州で出会った支援者達は、「スケジュールは本人のプライベートなものだろ」という考え。
だから、最大限、本人の意思と選択を尊重します。
もし、その活動が嫌だったら、その活動自体に問題があるのだから、そこを改善しようとします。
そりゃそうです、子どもなら尚更、嫌なことはしたくない。
文化の違いもあるのでしょうが、アメリカでは、どんなに小さな子どもでも、本人の意思と選択を尊重していました。
自立の意識が強い国ですから。
「自立した人間になる」とは、自らの意思と選択によって生きていける人間に育つことを言うのだと、私も思います。
その療育を受けるのは、放課後、児童デイに行くのは、その薬を飲むのは、本人の意思と選択によってなされているのだろうか、と疑問に思うことがあります。
結局、みんなが受けているから、通っているから、専門家から「飲んだ方が」と言われたから、という具合に、はみ出ることを恐れる親御さんの安心のために選択させられているのでは、と思います。
本当に、「そこに行きたい」「受けたい」「飲みたい」と思っている子ども達は、どれくらいいるのでしょう。
以前、家庭で暴れるという子のご家庭と関わることがありました。
発達のヌケや課題はありましたが、どうも、それが引き金ではない雰囲気がありました。
その子は、知的障害があり、明確な発語はありませんでしたが、意思がはっきりあるお子さんでした。
ですから、一日の活動の中で、好き嫌いを尋ねていきました。
すると、好きは明確ではありませんでしたが、嫌いだけはっきり意思表示したのです。
通っていた施設が“嫌”だった。
施設の写真を真っ先にグチャグチャにしていましたから(笑)
親御さんとしては、我が子のことを想い、療育機関に通っていましたが、本人からしたら、それ自体が嫌だった。
明確な発語がなかったことや、「スケジュールは必ずやるもの」という日本の凡支援者の言葉を信じたことが、問題の引き金になっていました。
その施設に行くのをやめるようにしてから、家で暴れる頻度が極端に減ったとのことでした。
想像すればわかるように、自分の意思や選択が尊重されないばかりではなく、その機会すらない、というのは、どれほどのストレス、苦痛かと思います。
どんなに素晴らしい療育施設、専門機関だったとしても、子どもが嫌々行っているところで、どんな効果、発達があるというのでしょうか。
刺激を受け身で感じているだけで育つ発達段階は、誕生後の初期も初期です。
あとは、本人の意識が向かなければ、発達は生じません。
「刺激→反応」というレベルは、とっても原始的でしょ。
そこが目的で、療育施設、専門機関に通っていますかね。
3歳くらいの幼い子にも、重い知的障害がある子にも、強度行動障害がある人にも、支援者が「どうする?」「どっちがいい?」「何がしたい?」など、時間をかけて尋ねていた姿が印象に残っています。
「発達障害が治る」に関しては東洋的な知見の方が勝ると思いますが、こと『自立』に関しては、欧米の姿勢を見習う部分があると思います。
「意思を表明する」「選択する」には、結果とセットになっています。
自分が選択したことで、こういった結果になった。
その結果が良いものであれ、悪いものであれ、フィードバックされますので、神経発達だけではなく、自立に、試行錯誤に、必要な経験、材料をストックすることができるのです。
知識やテクニックだけ増えても、結果を含めた体験がなければ、自分の足で立ち、歩んでいくことはできません。
冒頭の子で言えば、児童デイに行かず、友達と遊ぶことで、楽しければ、「また遊びたい!」となるでしょうし、楽しくなければ、「児童デイの方がいいや」または、「どうすれば、楽しくなるかな?」と思うかもしれません。
これも、発達のヌケを育て直すとは別次元の、自立への後押しになります。
一番問題なのは、本人の意思がなく、ただ決まりごとのように通い続けること。
児童デイで過ごす方法は身につくかもしれませんが、自立に必要なスキルは身についたとはいえません。
自立とは、選択の連続です。
その次の選択には、本人が結果まで味わうことが必要。
選択→結果→選択(*ちょっとレベルアップ)→結果(別の結果)…。
結果をしっかり受け止めることで、次の選択へと繋がります。
発達障害を治すだけでは、自立できないのです。
自らの意思と選択によって歩んでいける人は、「治す」という選択も行うことができます。
成人後、治っていった皆さん、治り続けている皆さんは、この意思と選択、結果からのフィードバックを受け止め、活かせている人達のように感じます。
まさに、自分が自分自身の一番の支援者である人達ですね。
その源流を辿っていけば、子ども時代の選択が保障されていたかどうかに突き当たるのです。
そうすると、親御さんが「今日は、児童デイに行く日だからダメですよ」と言いました。
その子は友達の誘いを断り、しぶしぶ児童デイに行くのでした。
これは、ノンフィクションです。
この話を聞いて、私は、この子の自立を阻んでいるのは、親御さんだと思いました。
それは、「友達との遊びの方が、児童デイよりも、社会性が培える機会だから」という単純な話ではありません。
自分の一日をどう過ごすか。
それは、プライベートな話であり、本人が決めることです。
当然、家族の事情があり、考えもあって、本人の選択通りに行かないこともあるでしょう。
でも、そういった場合であっても、ちゃんと事情を説明し、納得、または妥協点を見つける作業は必要です。
相手が子どもだからといって、一方的に子の選択の機会を奪うことはやってはいけません。
何故なら、選択できることが、自立するために必要な力だからです。
私は、「選択する力」というのは、自立にとって重要なスキルだと考えています。
と言いますか、選択できない人は、自立できないでしょう。
自立にはいろいろあって、経済的な自立もあれば、身辺的な自立もあります。
しかし、いくら経済的にも、身辺的にも、自立できていたとしても、自分のことを自分で決められない人は、心理的な自立ができないのです。
よく支援者は、「完全に自立して生きている人間などいません。みんな、誰かに頼って生きています。食べ物だって自給自足していないでしょ。だから、できないところを支援を受けながら、生きるのは問題ないんです」と言って、「支援付きの自立」とかいう論理が破綻しているものを売ろうとします。
「うちの支援を受けて、自立した人達がいます」という事業所の話を聞けば、グループホームや作業所に通って支援を受けている。
いやいや、それは自立とは言わない。
24時間のうちの大部分が、支援を受けていることで成り立っているから。
そして何よりも、本人に選択できる場面がほとんどないから。
もう今の親御さん達はわからないかもしれませんが、構造化のアイディアの一つとして、スケジュールというものがありました。
その日の予定を、子どもの認知度に合わせて、絵カードや文字を使い、視覚的に示すアイディアです。
以前は学校や施設、家など、どこでも壁に一人ひとりのスケジュールが貼ってあったものです。
そのスケジュールですが、基本的に本人以外の人が組み立てます。
「今日の予定は、こんな感じ」みたいな。
で、それを見て、子どもは楽しい予定があれば、喜ぶし、反対に嫌な予定があれば、悲しんだり、怒ったりします。
そういった自然な子どもの反応に対し、支援者はどうしたでしょうか?
日本では、子どもが泣こうが、わめこうが、いったん示した予定は、すべて行わせようとします。
子どもが怒って、カードをはがしても、再び取り付けます。
それが頻繁な子の場合は、提示してある場所がどんどん高い位置になり、子どもの手が届かない場所に動いていきます。
とにかく、「一度提示したスケジュールは、全部やらせること」というのが、学校でも、施設でも、家庭でも行われていました。
理由は、構造化を推し進めていた有名支援者がそう言っていたから。
一方で、その構造化のアイディアが生まれた地に研修で行ったときですが、日本では、どこでもここでも見られていた「スケジュールやりたくないVSやらせる」のやりとりが、まったく見られませんでした。
大学や療育施設だけではなく、強度行動障害の人達の施設にも行きましたが、そこでもスケジュールに関するいざこざはなし。
理由は、本人がスケジュールに不満を述べたら、支援者は意見を取り入れ、どんどん変えちゃうから。
日本だと、スケジュールの変更を受け入れてしまったら、「好きな活動しかしなくなる」「嫌なことはやらなくなる」「我がままになってしまう」などと言う人が多いですが、アメリカのそこの州で出会った支援者達は、「スケジュールは本人のプライベートなものだろ」という考え。
だから、最大限、本人の意思と選択を尊重します。
もし、その活動が嫌だったら、その活動自体に問題があるのだから、そこを改善しようとします。
そりゃそうです、子どもなら尚更、嫌なことはしたくない。
文化の違いもあるのでしょうが、アメリカでは、どんなに小さな子どもでも、本人の意思と選択を尊重していました。
自立の意識が強い国ですから。
「自立した人間になる」とは、自らの意思と選択によって生きていける人間に育つことを言うのだと、私も思います。
その療育を受けるのは、放課後、児童デイに行くのは、その薬を飲むのは、本人の意思と選択によってなされているのだろうか、と疑問に思うことがあります。
結局、みんなが受けているから、通っているから、専門家から「飲んだ方が」と言われたから、という具合に、はみ出ることを恐れる親御さんの安心のために選択させられているのでは、と思います。
本当に、「そこに行きたい」「受けたい」「飲みたい」と思っている子ども達は、どれくらいいるのでしょう。
以前、家庭で暴れるという子のご家庭と関わることがありました。
発達のヌケや課題はありましたが、どうも、それが引き金ではない雰囲気がありました。
その子は、知的障害があり、明確な発語はありませんでしたが、意思がはっきりあるお子さんでした。
ですから、一日の活動の中で、好き嫌いを尋ねていきました。
すると、好きは明確ではありませんでしたが、嫌いだけはっきり意思表示したのです。
通っていた施設が“嫌”だった。
施設の写真を真っ先にグチャグチャにしていましたから(笑)
親御さんとしては、我が子のことを想い、療育機関に通っていましたが、本人からしたら、それ自体が嫌だった。
明確な発語がなかったことや、「スケジュールは必ずやるもの」という日本の凡支援者の言葉を信じたことが、問題の引き金になっていました。
その施設に行くのをやめるようにしてから、家で暴れる頻度が極端に減ったとのことでした。
想像すればわかるように、自分の意思や選択が尊重されないばかりではなく、その機会すらない、というのは、どれほどのストレス、苦痛かと思います。
どんなに素晴らしい療育施設、専門機関だったとしても、子どもが嫌々行っているところで、どんな効果、発達があるというのでしょうか。
刺激を受け身で感じているだけで育つ発達段階は、誕生後の初期も初期です。
あとは、本人の意識が向かなければ、発達は生じません。
「刺激→反応」というレベルは、とっても原始的でしょ。
そこが目的で、療育施設、専門機関に通っていますかね。
3歳くらいの幼い子にも、重い知的障害がある子にも、強度行動障害がある人にも、支援者が「どうする?」「どっちがいい?」「何がしたい?」など、時間をかけて尋ねていた姿が印象に残っています。
「発達障害が治る」に関しては東洋的な知見の方が勝ると思いますが、こと『自立』に関しては、欧米の姿勢を見習う部分があると思います。
「意思を表明する」「選択する」には、結果とセットになっています。
自分が選択したことで、こういった結果になった。
その結果が良いものであれ、悪いものであれ、フィードバックされますので、神経発達だけではなく、自立に、試行錯誤に、必要な経験、材料をストックすることができるのです。
知識やテクニックだけ増えても、結果を含めた体験がなければ、自分の足で立ち、歩んでいくことはできません。
冒頭の子で言えば、児童デイに行かず、友達と遊ぶことで、楽しければ、「また遊びたい!」となるでしょうし、楽しくなければ、「児童デイの方がいいや」または、「どうすれば、楽しくなるかな?」と思うかもしれません。
これも、発達のヌケを育て直すとは別次元の、自立への後押しになります。
一番問題なのは、本人の意思がなく、ただ決まりごとのように通い続けること。
児童デイで過ごす方法は身につくかもしれませんが、自立に必要なスキルは身についたとはいえません。
自立とは、選択の連続です。
その次の選択には、本人が結果まで味わうことが必要。
選択→結果→選択(*ちょっとレベルアップ)→結果(別の結果)…。
結果をしっかり受け止めることで、次の選択へと繋がります。
発達障害を治すだけでは、自立できないのです。
自らの意思と選択によって歩んでいける人は、「治す」という選択も行うことができます。
成人後、治っていった皆さん、治り続けている皆さんは、この意思と選択、結果からのフィードバックを受け止め、活かせている人達のように感じます。
まさに、自分が自分自身の一番の支援者である人達ですね。
その源流を辿っていけば、子ども時代の選択が保障されていたかどうかに突き当たるのです。
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