2019年12月30日月曜日

【No.1001】2019年を振り返り

今朝、ジム納めに行ってきました。
昨日は上半身だったので、今日は下半身を重点的にトレーニング。
その後、日課のランニングマシーンへ。
いつものNHKのテレビ前ゾーンに行く(空いているから)と、今日は『あさイチ』ではなく、『スカーレット』の総集編。
荒木荘のシーンを見ると、ずっと前の出来事のような気がしました。
午後からは『いだてん』の総集編がやっているようですが、まだ本編が録画一覧になっているのでスルー。
今日の函館は、この時期としては珍しい+5℃以上の気温なので、テレビから年末を感じていたのでした。


今年を振り返ってみますと、幾度となく、「情報の垣根はなくなった」と感じる一年だったような気がします。
発達障害を、改めて“神経”発達障害と捉えることから始まり、OO群の存在が「治っていく人達がいるのも当然だよね」という空気感を形成しました。
発達に遅れがある子がいれば、原始反射の残存を確認するのは当たり前、運動発達のヌケを確認するのも当たり前、愛着という土台の発達を確認するのも当たり前。
それにプラスして、左右の脳の育ちのバランスと、栄養面の過不足の確認が、今年のトレンドだったような印象です。


数年前の「発達障害は治るかな、治らないかな」といったレベルから先に進み、「原始反射」「運動発達」「愛着」「右脳&左脳のバランス」「栄養」から、発達障害という状態を読み解き、育て、治していく段階へ。
発達障害を治す方向へ進んでいる人たちにとっては、親御さんも、専門家も、差はなくて、これらの認識、アプローチが基本となっていると感じます。
ですから、単純に「情報」という観点から言えば、親御さんも、専門家も、違いはありません。


別の見方をすれば、ひと昔前は、専門家は専門家と言うだけで、優位性を持つことができたといえます。
療育や支援、〇〇療法をやっている、というだけで、なんだか専門的なことをやっているように見えたし、それを受けることに価値があったような気がした。
それは、「きっと専門家というのは、私達よりも勉強しているし、専門的だろう」と思っていたし、専門的な知識、情報へアクセスも限られていたから。


でも、今はそんなことはなく、親御さんも、専門家と変わらず、意思と行動力があれば、専門的な情報を得ることができます。
なので、以前の「専門家/親御さん」という図式ではなく、「知る者/知らない者」「行動する者/行動しない者」という図式になっている。
そこに専門家の優位性はありません。
あるのは、結果のみ。


私がSNS等で学ばせてもらっている全国にいる実践家の方達は、その素晴らしい知見を惜しみなく発信されています。
私も時折、「相談メールやブログに情報載せ過ぎ」「無料開放し過ぎ」と言われることがあります。
しかし、この「情報」とやらに、どのくらいの価値があるのだろうか、と思うのが、正直なところです。
ここ最近感じるのは、情報の価値自体、限りなくゼロに向かって進んでいる、ということです。


これだけ情報に溢れている現代で、「情報を売る」「情報で飯を食う」というのは、どんどん難しくなると思います。
発達障害の世界も同じ。
これまで、どれだけの「自閉症の特性」「ADHDの人達の困り感」「LDの人達の見え方」などの情報が提供されたでしょうか。
そういった情報は、私が学生時代だったときとほとんど変わりがありません。
理解の焼きましでは、本人たちの苦しさは変わらないのは、もうどれほどの長い間、見てきたことでしょう。
私達がいくら彼らの生きづらさを理解したとしても、彼ら自身が変わらなければ、その生きづらさが軽減していくことはない。


周期的に輸入されてくる欧米産の療育も、ブームになっては消え、の繰り返し。
結局、根本的な解決に至らないのはどれも一緒であり、「部分的に、人によっては役に立つね」が妥当な評価。
残ったのは、その資格を持った普通の支援者達の集団であり、欧米に持っていかれたのはジャパニーズマネー、潤ったのは欧米の専門家と、その地域で療育を受ける人達。
以前は、「私がやって効果がなかったのは、私の勉強不足だから」と言っていた親御さんがいましたが、専門家でも効果が限定的なのが明らかになった現在、〇〇療法というアイディアの一つ、情報の一つくらいなものなのです。


喰えない情報は持っていても仕方がないし、効果的な情報は、親御さんも、専門家も、関係なく持っている。
ですから、私で言えば、私の持っている情報の価値はゼロ。
ということは、この商売を続けていくのなら、ほかの部分を売らなくてはいけません。
この前、ブログに書いた「情報を削っていく」というのも、まだ仕事になると思います。
また、手にした情報を、目の前の我が子の発達に馴染ませていく際のお手伝いも、いけるかもしれません。
他には、実際に関わった人数、アセスメントした人数は、親御さんよりは多いと思いますので、その子の発達の流れを読み、物語を綴っていく作業ができると思います。
まあ、確実に言えることとしては、「結果が出ないと仕事は終わり」ということ。
その結果とは、実際に親御さんが動けた、何かを変えられた、という結果と、子どもさんにポジティブな変化が見られた、という結果だといえます。



企業が常にサービスや商品の質を高めていくことが当たり前のように、支援者という商売も、常に質の向上を目指していかなければならない時代だと思います。
というか、今まで、その質が問われなかったのが問題だったのですが…。
今どき、親の会、なんとか支援センターに行って、真新しい情報など得られません、話は親身に聞いてくれると思いますが。
そういったところに行くよりも、書店やネットで、新鮮な情報を得ることができますし、早い。
ですから、支援者も情報ではなく、腕で評価されるようになるでしょうし、腕のない支援者は親御さんからそっぽを向かれるでしょう。


今までは、「治す方向で援助している支援者って珍しい」ということで、私の仕事が選ばれていた部分も多々あると思います。
ですが、もう治るのは当たり前ですし、家庭で治していけるものなので、そこでは商売できないはずです。


あと2日で、2020年代が始まります。
2000年代は、アスペルガー&高機能ブーム。
2010年代は、高機能の人達への支援の模索と限界。
2020年は、この20年間の反省から、特別支援の枠を超えてアプローチしていく人達が増え、今以上に、治る人や診断が外れる人が当たり前になっていくと思います。
この10年間で、診断基準の大きな改訂はないはずですので、診断名を持ち続ける人と、外していく人、その診断に頼らず生きていく人とに明確な分離が起きるでしょう。
その分離は、「発達を促していくか」「支援を受け続けていくか」の個人的な価値観、思考によって生じると思います。


さあ、2020年代は、どのような変化が起きてくるのか、私の仕事が続いているのか。
新しい〇〇療法も生まれるでしょうし、それを求める人もいるでしょう。
自分の子育てよりも、社会に理解や資源を求める人もいるでしょう。
でも、その人達は少数派になると思います。
社会は、治せる人を治さず丸抱えにするだけの体力は残っていませんし、今の子ども達が治り、社会の中にどんどん飛び立っていくからです。


元発達障害児という若者たちが、社会を変えていくでしょう。
そうなれば、心から嬉しいですし、私のような商売は必要なくなります。
腕が悪くてなくなるか、社会のニーズがなくなりなくなるか、はわかりませんが、目の前に来た2020年もその瞬間まで頑張っていこうと思います。
一年間、ブログを読んでくださった方、たくさんの貴重なお話を聞かせていただいた方、お仕事を依頼してくださった方、誠にありがとうございました。
皆さまにとって、2020年が、より良い一年となりますようお祈りしています!




2019年12月29日日曜日

【No.1000】「発達した」という声は、生きている証、生命そのもの

2019年は、1月、2月、3月と、3か月連続で新大阪駅前の同じホテルに宿泊。
関西と中部地方を行ったり来たりしながら、出張の発達相談を行いました。
そのあと、暖かくなってからは、九州と中国地方への出張。
今年は2ヶ月に1度のペースで、北海道以外の場所の訪問をさせていただきました。


完全に個別対応ですので、観光では行かないような場所に伺えたことが楽しみでもありました。
その土地土地の雰囲気、文化、空気感を感じ、またそれにどのように馴染んでいくアイディアを提供できるか。
単純に、ただ発達を促すだけの発達援助ではなく、その土地の、各ご家庭の文化、雰囲気、空気感に馴染むような発達援助。
そういった、もう一つ先の発達援助を目指し、努力を続けていきたいと思っています。


私は幸か不幸か、師匠と呼べるような存在がおりません。
教員免許は大学の講義で単位が取れたら取得できましたし、療育法に関する免許、資格に関しても、特定の人について学びはしましたが、それもトレーニングの期間だけのお付き合いでした。
ですから、基本的に独学で、その時その時で、必要だと思ったことを、なにか「これだ!」と感じることを、掘り下げていったら、今に至るという感じです。


若い頃は、それこそ、独立を考える前は、誰か特定の師匠について学んでいないことを後悔することもありました。
しかし、今考えると、反対にそれが良かったような気がします。
変なシガラミもなければ、誰の顔色を伺うこともありません。
それに、興味のまま、自分の感覚に従い、より良いものを瞬時に取り入れることができます。
私の仕事は、私が直接治す仕事ではなく、主に親御さんに治すアイディアを提供し、子どもさんが治っていく後押しをすること。
なので、私に特定の“型”がなくて良いのかもしれません。
型なしだからこそ、特別支援教育や療育などの狭い範囲に縛られることなく、少しでも発達に繋がるアイディア、知見を、幅広い世界から吸収しようと動けるのだと思います。


一昔前は、私のような型なし、師匠なしは、独立できたとしても、続かなかったでしょう。
でも、今はネットがあり、素晴らしい知見や視点、技術を持った人とつながることができます。
そういった優れた方達とネットを通して、リアルタイムでつながることによって、日々、自分自身の知識をアップデートすることができます。
と言いますか、今の時代、国立大学の教授の講義のように、1年前のプリントを出して講義しているようじゃやっていけません。


1年前の知識は、すでに古くなっていて、使えないようになっていることが多々あります。
どこかの派閥で、特定の資格、知識、情報の中だけで完結しようとしても無理。
情報の垣根は、専門家も、一般の人もありません。
専門家だけ知っている知識、専門家しか知らない知識は、限りなくゼロに近づいています。
あるのは専門家との垣根ではなく、アクセスしようと個人が思うかどうか、動くかどうかの違いです。


私もブログを書いていますが、素晴らしい実践家の皆さんは、ブログ等で日々、惜しげもなく貴重な情報、知見を発信しております。
実際にお会いしたことがない方ばかりではありますが、「この部分、この分野における師匠」という想いで勉強させてもらっています。
その中には専門家の方もいれば、一般の方、子育てをされている親御さんもいます。
優れた知見に、肩書は必要ありません。
あるのは、結果のみ。


そういった方々の発信を見聞きし、それをそのまま実践できるわけではありません。
私は、その人の内側にある原理原則を感じ、掴もうとしています。
どんな実践家、親御さんにも、根底に流れる揺るがない信念があるものです。
その信念の中に、原理原則があり、その原理原則から、どのように日々、私が関わる人たちへ応用し、発展していけるか。
そこが一番の核になります。
どんな優れた技術、型を手に入れたとしても、それをそのまま振りかざしては、その人を型の中に押し込めてしまいます。
優れた実践家とは、その技術のことを言うのではなく、根底に流れる信念、原理原則の素晴らしさを言うのだと、私は考えています。


2019年は、相談メールのやりとりが1,000件以上、出張も行かせてもらいました。
そういった活動を通して感じるのは、「住んでいる地域は関係ない」ということです。
治す人は、どんな地域に住んでいようとも治すし、首都圏、都市部に住んでいても、治そうと思わなければ、治らない。
一昔前は、「うちの地域は遅れていて」が言い訳の一つとして通用したけれども、今はそうではありません。
「ずっと福祉でいいや」「ずっと支援でいいや」と思うか、「少しでもラクになってほしい」「より良く育ってほしい」と思うかの違いです。


「私の地域の療育機関の質ガー、支援者の質ガー」という人もいますが、そもそも療育機関に行っても治りません。
必死に療育機関に通っても、障害児として生きる術は身につきますが、その子の本来の発達の流れに戻る発達の後押しはないのです。
赤ちゃんは、どこで発達するか。
受精から2歳まで、言葉を獲得する前までの発達の舞台はどこか。
それは家庭であり、親子の育みの中にあります。
なにか特別な環境、機関に行って、発達させるものではないのです。
自然な親子の交流、遊びや運動を通して、ヒトは発達するのです。


私が日々、目を通し、そこで話されている内容から、発信者の原理原則を学ぼうとしている場所、空間があります。
それは、花風社さんが管理運営されている『治そう!発達障害どっとこむ』というインターネットの交流サイトです。
本当に多くの方達が、自分の実践、子育てで気づいたこと、感じたことを、自由で活発に発信されています。
あるご家庭の治ったという実践が、そのまま我が子に当てはまるかどうかはわかりません。
でも、そこにある原理原則は、どの子にもつながっていると思います。
ですから、多くの実践、生の声、リアルタイムの発信を見聞きすることは、目の前の子どもさんがより良く育つための材料集め、視点集め、アイディア集めです。
材料がなければ、限られたメニューしか作れませんが、材料が豊富なら、その分、自分も、家族も喜ぶメニューが作れるのと一緒です。


今の療育、特別支援は、のり弁みたいなもの。
安いけれども、味はいつも一緒で、栄養は偏っている。
美味しくはないけれども、安いから親子で食べ続けるなら、それでもよし。
でも、やっぱり他の食事も食べたいな、栄養があるものを食べたいな、その時々で必要な栄養を摂りたいなと思えば、自分で材料を集め、料理を作るしかありません。
料理も、子育ても、相手の顔を見て、体調を見て、試行錯誤しながら作り上げていくもの。
その良質で、新鮮な材料、情報の宝庫が、『治そう!発達障害どっとこむ』の空間だと思っています。
この空間は、今この瞬間も、いろんな人達の声により躍動しています。
「発達した」という声は、生きている証、生命そのもの。
だから私は、このサイトに行くと、心地良いのです。


今回のブログで、1,000回更新となりました。
起業したときから書き続け、約6年で28万アクセス。
支援者は言葉の仕事でもあるので、その技術を高めるために始めたのがきっかけ。
あとは、読んでくださった方が、ポジティブでも、ネガティブでも、感情が動く文章、内容にしたいと思い、綴ってきました。
行動しなければ、何も考えていないのと一緒です。
なので、喜びでも、怒りでも良いので、「こうしちゃおれん!」「今日からやってみよう!」と思えるような後押しができたなら、読んでくださった方たちに対しても、書き続けてきた意義があったかな、と思います。


いつか、私が日々、原理原則を学ばせていただいている素晴らしい実践家の方たちのような文章が書けるようになったら、と思っています。
そのためには、日々、精進、日々、アップデート!
無事、年内に1,000号が更新できてよかったです(笑)
今まで読んでくださった皆様、ありがとうございましたm(__)m☆彡

2019年12月27日金曜日

治る子、治りにくい子、治り切らない子

重い知的障害を持っている子、言葉がなかなか出ない子。
そのようなお子さんがいるご家族にとっては、「治る」という言葉が、希望よりも、プレッシャーや落胆という意味合いになっている場合があるように感じます。
実際、揺れ動く心のうちを話してくださった親御さん達が一人、二人ではなく、複数いらっしゃいます。
他のお子さんが治っていく姿に喜びや希望を感じるのも事実。
でも、その姿がまぶし過ぎて、また同じように育っていかない現実を受け止められず、苦しく思ってしまうのも事実。


確かに、子どもさんによって、治りやすさに違いがあります。
ポンポンと治っていくお子さん達というのは、「もともと発達障害の器質はないよね」っていう雰囲気があります。


胎児期の栄養、環境、刺激によって、発達に遅れが出た発達障害の子。
出生後、栄養、環境、刺激によって、発達のヌケが出た発達障害の子。
胎児期、また出生後に生じた愛着形成の不全が、主に社会性の部分で発達の遅れを生じさせ、発達障害と見られちゃう子。
トラウマが発達のストッパーになり、同年齢のように育っていかず、結果的に発達障害っぽくなっている子。
腸内環境の問題や脳内の炎症が、不適切な行動、不可解な症状となり、典型的な発達障害と誤解されてしまっている子。
首の育ちの遅れが、末梢神経と脳の行き来を阻み、刺激の目詰まりで順調に発達していけない子。


発達障害と診断された子ども達が、栄養や運動、原始反射の統合などによって治っていくのは、「だって、僕は発達障害ではないもんね」というのが真実のような気がします。
原因があって、結果的に発達に遅れが出た。
ですから、その子の本来の発達の流れを読み、その流れに乗っていけるような育みをすれば、治ります。
もしかしたら、「治る」というよりも、本来の姿に戻ったという表現が、実態に近いかもしれません。
「発達障害が治る」という言葉を聞いて、特に驚きも、高揚感もないのは、現在、診断される子ども達の中心が、遺伝的な要素以上に、その“引き金”の方の問題によって生じているからだと感じます。


一方で、治りにくい子ども達がいるのも事実です。
同じように、発達のヌケがあり、育て切ったとしても、同年齢の子ども達と違いがないくらい治っていく子もいれば、その部分での発達は進んだけれども、やっぱり認知の面で、症状や行動の面で、遅れや特性の残る子もいます。
私自身の知見の浅さによって、発達課題の根っこが掴めなかったために、なかなか治っていかない子もいると思います。
ただ私の経験の中から申しますと、その子の内側に流れている発達自体が、定型の子ども達とは異なっている気がします。
それは遺伝的な流れでもあり、脳内の炎症や栄養不足などといったものとは、もう一つ違うレベルの生態的な原因があるようにも感じます。


「なかなか治っていかないんです」と相談されるご家族のお話を聞けば、親御さんのどちらかに、また祖父母の代、親戚の中に、幼少期、同じような行動や症状のあった人がいる場合があります。
そういった場合は、治らないんではなく、それ自体が引き継いだ資質であり、その子の内側に流れる発達の流れだと思います。
ですから、発達のヌケ、未発達を育て切ったとしても、特性自体は残り続けます。


じゃあ、特性が残り続けるのなら、「治すよりも、支援、理解の方を重視した方が良いのでは」と思われるかもしれません。
もしかしたら、「治すことが無駄だ」「遠回りだ」と感じるかもしれません。
しかし、そんなことはありません。
発達のヌケや未発達を一つでも多く治しておくことは、その子の生涯の生活の質を変えていきます。
一つでも課題がクリアされれば、それだけで心身が一つラクになります。
そして、重要なのは、この先なのです。


「一つラクになる」ということは、脳内に余白を生みます。
空いた余白に何が入るか。
その余白が、学習に使われるのです。
残った特性を持ちつつ、大人になった方達は、みなさん、学習することで、その特性と折り合いを付けています。
完全に消し去ることはできなくても、試行錯誤を繰り返し、その特性と折り合いをつけて生活されています。
学習する力によって、特性に心身がコントロールされるのではなく、心身が特性をコントロールする状態までもっていく。
そのために、たとえ重い知的障害を持っていたり、症状や特性が強く残ったりしていたとしても、完全に定型の子ども達のように育たなかったとしても、発達のヌケや未発達をコツコツ育てていくことが重要なのです。


私のキャリアの前半は、すべて重い知的障害を持った方達であり、強度行動障害と言われるものを持った方達との関わりでした。
彼らもゆっくりではありましたが、発達していました。
ある部分で発達が見られると、こちらからの指示に対する反応が早くなったり、理解できる幅が広がったりします。
そうすると、新たなことを学習したり、課題となる行動の頻度が減ったりしていました。
たぶん、発達によって、余裕が生まれたのでしょう。
もし、当時の私に、今の発達援助のアイディアがあれば、もっと「発達→余白→学習→生活質の向上→発達…」というポジティブなサイクルを後押しできたのでは、と思っています。


知的障害が重い人も、強度行動障害を持っていた人も、年齢が高くなってからも学習し、自らの特性と折り合いを付け、少しずつより良い生活の質を手に入れていきました。
ですから、「なかなか治らないな」「もしかしたら、完全には治らないかも」と思われている親御さんにも、「治しやすいところから治す」「一つでも多く、発達のヌケ、未発達を育てる」を続けて欲しい、と思います。
その育みが、将来、自分の特性との折り合いをつけ、主体的に生きていく姿と繋がっています。


子ども時代に治り切らなくても、大人になってから、時間をかけて治っていくかもしれません。
生涯、特性や知的障害が残り続けたとしても、自らの試行錯誤と学習によって折り合いがつけられれば、前向きな人生を送ることができるはずです。
特性にコントロールされている状態では、他人に意思や選択を委ねざるを得ないのです。
意思と選択の自由がなければ、人間は幸せに生きていくことができません。


今の仕事をするようになってから、知的障害を持った成人の人達の中に、主体的で前向きに、幸せを感じながら生きている方達がいます。
彼らは、他人から見れば、治っていないかもしれない。
でも、治ることを諦めなかった人であり、大人になってからも日々、成長し、学び続けている方達です。
治ること以上に、自らの意思と選択によって生きている今日一日が、幸せへと繋がっている、と私は彼らから教えられているような気がします。
一人でも多くの子ども達に治ってほしいですし、治らなかったとしても、自由を謳歌できる人生を送ってほしい、と願っています。

2019年12月26日木曜日

「心理的な自立」で、すぐに思い浮かぶ子

自立には、主に3つの側面があると思います。
身の回りのことが自分でできる身辺的自立。
収入を得て、自分で生計を立てて生活する経済的自立。
そして、昨日、お話しした自分の意思と選択によって生き方を決める心理的自立です。
この3つの自立で順位をつけるとすれば、私は心理的な自立が最も大事なことだと考えています。


「心理的な自立」という言葉で、すぐに思い浮かぶお子さんがいます。
その子は、まだ発語がなく、知的障害で言えば、重度の判定が出るお子さんです。
まだ子ども年代ですので、これからの発達、成長によって、変化していく可能性はあるでしょうが、もしかしたら、完全な自立は難しいかな、と思うことがあります。
実際、ご家族も、そのように仰っていました。
将来、身辺面でも、経済面でも、支援が必要になる可能性が高い。
でも、この子と接していると、悲しげな成人後の姿が見えてこないのです。
それは、心理的な自立ができる子だと感じているからです。


この子は、「好きなものは好き」「嫌いなものは嫌い」というように、とても意思がはっきりしています。
その意思表示も、言葉ではありませんが、しっかり態度や行動で示します。
そして何よりも、その意思表示に対して、家族みんなで、しっかり目や耳、感覚を傾け、ちゃんと分かり合えるまで向き合い続けるのです。
当然、「ダメなものはダメ」ではありますが、叶えられるものなら、時間が許す限り、応えています。


そういった本人、家族の姿を拝見すると、自分の好き嫌い、意思をしっかり表明できる機会があり、それが保障されている。
日々の生活の中に、本人が選択できる機会が自然にあり、その結果を含めて味わえている。
もちろん、本人の持って生まれた資質もあるでしょうが、このような育みが幼少期から将来の心理的な自立に向けた準備になっていると分かります。


たとえ、将来、支援を受けながら生きていくにせよ、この子は、ちゃんと意思表示をし、自らの選択によって生活を決めていくはずです。
「自分の意思と選択によって、今日一日を生きていく」
何の変哲もない、多くの人が意識することなく、当たり前に行っていることであり、保障されていること。
しかし、そんな当たり前のことが、保障されていない人たちもいるのです。


限られた資源で効率的に行おうとすれば、言葉のあるなし、知能検査の数値が、意思表示の有無、選択ができるかどうか、の判断に使われてしまいます。
成人したとき、「難しい」「困難」と判断されてしまえば、本人の意思や選択を聞くことなく、またその場すら与えられることなく、自分以外の人間によって、その後の人生が決められてしまいます。
一旦、施設に入ることができれば、親としては安心かもしれませんが、本人からしたら失うものが多すぎると思います。
生活面、経済面で、本人は心配することはありませんが、心理的な自立が難しくなるのです。


施設こそ、限られた人員、予算、環境ですので、個人の選択は極力減らしていき、効率的に運営できる方向へと進みます。
毎日、決められた流れ、日課で、一律に行動できている状態が、支援する側としてもっとも効率的だから。
ですから、子ども時代、学校生活を送っている間に、自分の意思表明と選択ができる力が育っている必要があります。
そういった心理的な自立ができている人まで、支援者も選択の機会を減らそうとはしないものです。
別の言い方をすれば、支援慣れしている人から順に、選択の機会が減らされていく。


私は、現状の早期療育、また療育や支援自体に、否定的な意見、見解を持っています。
それは、「発達」や「治る」とはかけ離れたことをやっているからだけではありません。
それ以上に、現行の療育、支援が、子ども達から意思と選択の機会を取り上げ、支援しやすい子を育てるというシステムになっている点が、最も問題なのです。
構造化にしろ、ABAにしろ、SSTにしろ、その多くは、支援者の視点から展開されています。
どれもこれも、「支援しやすい子に育てる」という流れが見えますし、その根底には、いまだに「可愛がられる障害者を」という思想が見えるのです。


支援者が支援しやすい人。
支援者にかわいがられる人。
その2つに共通するのは、「指示通りに動いてくれる」ということです。
それには、本人の意思と選択が邪魔になることがある。
意思がなく、選択もしない。
そういう状態が、もっとも支援者の指示が入りやすい状態なのです。
施設で働いていたとき、私は彼らの意思に耳を傾けることなく、幾度となく選択の機会を奪ってきました。


ですから、今、こうやって家庭支援の仕事をやっていて、「心理的な自立」の大切さを伝えています。
いくら身の回りのことができ、経済的に自立できたとしても、他人に、支援者に、その人の生活が決められてしまっている状態は、幸せだとはいえません。
長い人生、ずっと他人が決めた生活をこなしていくだけ。
そこに選択、そして自由がないのです。
たとえ限られた選択肢であったとしても、自らの意思と選択によって得られた結果は、その人に自由の喜びを感じさせてくれるものです。
そうです、現行の支援には“自由”がないのです!


「心理的な自立」で思い浮かべたお子さんには、自由があります。
もちろん、発達の面では、不自由な面も、まだたくさんあると思います。
でも、生活の中に、家族の中に、自由が溢れている。
ですから、伸びやかな日々があり、心理的な自立に向けた育ちが進んでいるのだと思います。
きっとこの子は、どこで生きたとしても、心の自由を失うことはないはずです。
心の自由があれば、生涯を通して、成長し続けることができる。

2019年12月25日水曜日

発達障害を治すだけでは、自立できない

児童デイに通っている子が、「今日は、お友達と遊びたい」と言いました。
そうすると、親御さんが「今日は、児童デイに行く日だからダメですよ」と言いました。
その子は友達の誘いを断り、しぶしぶ児童デイに行くのでした。


これは、ノンフィクションです。
この話を聞いて、私は、この子の自立を阻んでいるのは、親御さんだと思いました。
それは、「友達との遊びの方が、児童デイよりも、社会性が培える機会だから」という単純な話ではありません。


自分の一日をどう過ごすか。
それは、プライベートな話であり、本人が決めることです。
当然、家族の事情があり、考えもあって、本人の選択通りに行かないこともあるでしょう。
でも、そういった場合であっても、ちゃんと事情を説明し、納得、または妥協点を見つける作業は必要です。
相手が子どもだからといって、一方的に子の選択の機会を奪うことはやってはいけません。
何故なら、選択できることが、自立するために必要な力だからです。


私は、「選択する力」というのは、自立にとって重要なスキルだと考えています。
と言いますか、選択できない人は、自立できないでしょう。
自立にはいろいろあって、経済的な自立もあれば、身辺的な自立もあります。
しかし、いくら経済的にも、身辺的にも、自立できていたとしても、自分のことを自分で決められない人は、心理的な自立ができないのです。


よく支援者は、「完全に自立して生きている人間などいません。みんな、誰かに頼って生きています。食べ物だって自給自足していないでしょ。だから、できないところを支援を受けながら、生きるのは問題ないんです」と言って、「支援付きの自立」とかいう論理が破綻しているものを売ろうとします。
「うちの支援を受けて、自立した人達がいます」という事業所の話を聞けば、グループホームや作業所に通って支援を受けている。
いやいや、それは自立とは言わない。
24時間のうちの大部分が、支援を受けていることで成り立っているから。
そして何よりも、本人に選択できる場面がほとんどないから。


もう今の親御さん達はわからないかもしれませんが、構造化のアイディアの一つとして、スケジュールというものがありました。
その日の予定を、子どもの認知度に合わせて、絵カードや文字を使い、視覚的に示すアイディアです。
以前は学校や施設、家など、どこでも壁に一人ひとりのスケジュールが貼ってあったものです。


そのスケジュールですが、基本的に本人以外の人が組み立てます。
「今日の予定は、こんな感じ」みたいな。
で、それを見て、子どもは楽しい予定があれば、喜ぶし、反対に嫌な予定があれば、悲しんだり、怒ったりします。
そういった自然な子どもの反応に対し、支援者はどうしたでしょうか?


日本では、子どもが泣こうが、わめこうが、いったん示した予定は、すべて行わせようとします。
子どもが怒って、カードをはがしても、再び取り付けます。
それが頻繁な子の場合は、提示してある場所がどんどん高い位置になり、子どもの手が届かない場所に動いていきます。
とにかく、「一度提示したスケジュールは、全部やらせること」というのが、学校でも、施設でも、家庭でも行われていました。
理由は、構造化を推し進めていた有名支援者がそう言っていたから。


一方で、その構造化のアイディアが生まれた地に研修で行ったときですが、日本では、どこでもここでも見られていた「スケジュールやりたくないVSやらせる」のやりとりが、まったく見られませんでした。
大学や療育施設だけではなく、強度行動障害の人達の施設にも行きましたが、そこでもスケジュールに関するいざこざはなし。
理由は、本人がスケジュールに不満を述べたら、支援者は意見を取り入れ、どんどん変えちゃうから。


日本だと、スケジュールの変更を受け入れてしまったら、「好きな活動しかしなくなる」「嫌なことはやらなくなる」「我がままになってしまう」などと言う人が多いですが、アメリカのそこの州で出会った支援者達は、「スケジュールは本人のプライベートなものだろ」という考え。
だから、最大限、本人の意思と選択を尊重します。
もし、その活動が嫌だったら、その活動自体に問題があるのだから、そこを改善しようとします。
そりゃそうです、子どもなら尚更、嫌なことはしたくない。


文化の違いもあるのでしょうが、アメリカでは、どんなに小さな子どもでも、本人の意思と選択を尊重していました。
自立の意識が強い国ですから。
「自立した人間になる」とは、自らの意思と選択によって生きていける人間に育つことを言うのだと、私も思います。


その療育を受けるのは、放課後、児童デイに行くのは、その薬を飲むのは、本人の意思と選択によってなされているのだろうか、と疑問に思うことがあります。
結局、みんなが受けているから、通っているから、専門家から「飲んだ方が」と言われたから、という具合に、はみ出ることを恐れる親御さんの安心のために選択させられているのでは、と思います。
本当に、「そこに行きたい」「受けたい」「飲みたい」と思っている子ども達は、どれくらいいるのでしょう。


以前、家庭で暴れるという子のご家庭と関わることがありました。
発達のヌケや課題はありましたが、どうも、それが引き金ではない雰囲気がありました。
その子は、知的障害があり、明確な発語はありませんでしたが、意思がはっきりあるお子さんでした。
ですから、一日の活動の中で、好き嫌いを尋ねていきました。
すると、好きは明確ではありませんでしたが、嫌いだけはっきり意思表示したのです。
通っていた施設が“嫌”だった。
施設の写真を真っ先にグチャグチャにしていましたから(笑)


親御さんとしては、我が子のことを想い、療育機関に通っていましたが、本人からしたら、それ自体が嫌だった。
明確な発語がなかったことや、「スケジュールは必ずやるもの」という日本の凡支援者の言葉を信じたことが、問題の引き金になっていました。
その施設に行くのをやめるようにしてから、家で暴れる頻度が極端に減ったとのことでした。
想像すればわかるように、自分の意思や選択が尊重されないばかりではなく、その機会すらない、というのは、どれほどのストレス、苦痛かと思います。


どんなに素晴らしい療育施設、専門機関だったとしても、子どもが嫌々行っているところで、どんな効果、発達があるというのでしょうか。
刺激を受け身で感じているだけで育つ発達段階は、誕生後の初期も初期です。
あとは、本人の意識が向かなければ、発達は生じません。
「刺激→反応」というレベルは、とっても原始的でしょ。
そこが目的で、療育施設、専門機関に通っていますかね。


3歳くらいの幼い子にも、重い知的障害がある子にも、強度行動障害がある人にも、支援者が「どうする?」「どっちがいい?」「何がしたい?」など、時間をかけて尋ねていた姿が印象に残っています。
「発達障害が治る」に関しては東洋的な知見の方が勝ると思いますが、こと『自立』に関しては、欧米の姿勢を見習う部分があると思います。


「意思を表明する」「選択する」には、結果とセットになっています。
自分が選択したことで、こういった結果になった。
その結果が良いものであれ、悪いものであれ、フィードバックされますので、神経発達だけではなく、自立に、試行錯誤に、必要な経験、材料をストックすることができるのです。
知識やテクニックだけ増えても、結果を含めた体験がなければ、自分の足で立ち、歩んでいくことはできません。


冒頭の子で言えば、児童デイに行かず、友達と遊ぶことで、楽しければ、「また遊びたい!」となるでしょうし、楽しくなければ、「児童デイの方がいいや」または、「どうすれば、楽しくなるかな?」と思うかもしれません。
これも、発達のヌケを育て直すとは別次元の、自立への後押しになります。
一番問題なのは、本人の意思がなく、ただ決まりごとのように通い続けること。
児童デイで過ごす方法は身につくかもしれませんが、自立に必要なスキルは身についたとはいえません。


自立とは、選択の連続です。
その次の選択には、本人が結果まで味わうことが必要。
選択→結果→選択(*ちょっとレベルアップ)→結果(別の結果)…。
結果をしっかり受け止めることで、次の選択へと繋がります。
発達障害を治すだけでは、自立できないのです。


自らの意思と選択によって歩んでいける人は、「治す」という選択も行うことができます。
成人後、治っていった皆さん、治り続けている皆さんは、この意思と選択、結果からのフィードバックを受け止め、活かせている人達のように感じます。
まさに、自分が自分自身の一番の支援者である人達ですね。
その源流を辿っていけば、子ども時代の選択が保障されていたかどうかに突き当たるのです。

2019年12月20日金曜日

「生涯に渡る支援」の熱狂を振り返る

まだ小学校教員を目指していた頃の学生時代、障害児教育の講義で海外では「ゆりかごから墓場まで」の支援が、社会のシステムとして実践されていることを知りました。
そういったシステムが構築され、障害を持った人が安心して生きていける社会は、なんて素晴らしい社会なんだと、当時は思ったのでした。


卒業後、就職した自閉症児施設では、アメリカノースカロライナ州で行われていたTEACCHプログラムから学び、それを日々の支援に取り入れていました。
TEACCHプログラムは、視覚支援、構造化のイメージが強いですが、本来は自閉症の人達、また家族を生涯に渡って支援していくための州公式のプログラムです。
10年前くらいで終了してしまいましたが、すべての支援サービスを無償で受けることができました。


学生時代から「生涯に渡る支援」という言葉をたくさん聞いてきましたし、日本でも、そのような仕組みができることが理想だと思っていました。
実際、今でも、その「生涯に渡る支援」を地域で作ろうとしている人たちがいます。
しかし、それは実現するのでしょうか?
そもそも必要なのでしょうか?
本当に、障害を持った本人にとって、幸せなことなのでしょうか?
いつしか、理想だと思っていた「生涯に渡る支援」に対し、私はネガティブな感情を持つようになったのです。


平成の世、有名支援者も、メジャーなドクターも、「この子達に必要なのは、生涯に渡る支援だ」と言い、特定の支援方法を広め、家族や教員、支援者に支援し続けることの重要性を説いていました。
ですから、一つ上の世代の親御さん達、当時、30代、40代でバリバリやっていた教員、支援者というのは、とにかく「生涯に渡って、この子達を支援していくんだ!」「小さいときから慣れ親しんだ支援を大人になっても使うんだ!」という想いで突き進んでいたように感じます。
ギョーカイを先導する人も、現場の教員、支援者も、各家庭の親御さん達も、みんながみんな、「支援、支援、支援」と口々に叫んでいました。


ある親御さんが言っていました。
「学校に通っていたときは、卒業後も、私達がサポートします、大人になっても支援し続けます、と言っていたのに、当時の先生たちから、誰一人、連絡がない」と。
結局、卒業後は、親が見ることになっている、とも言っていました。
そうです、「生涯に渡る支援」なんて言っていたけれども、そういっていた支援者達が、その子の生涯すべて支援し続ける、という意味では使っていないし、そもそも自分がやろうとは考えていない。


結局、理想論を述べていただけであって、実際、卒業後に連絡がくると、「えっ」みたいなリアクションをするんです。
支援者の言っていた「生涯に渡る支援」は、「この子は自立は無理だから、生涯支援を受けるよな」という本音を、きれいな言葉で取り繕っていただけ。
「生涯に渡る支援」なんて、私も勘違いしていましたが、ポジティブな言葉ではなく、ある意味、その子の限界を決めちゃっている、とても失礼な言葉なんです。


支援者は「生涯に渡る支援」と理想のごとく口にする。
でも、実際に、たった一人であったとしても、その子の生涯全部を支援した人なんていない。
自分の担当が終わったあと、誰が支援するなんか、知らない。
本当に、この子が生涯支援を必要とする人なのか、わからない。
以前、発達障害の人達の理想の形が、「家事のできるひきこもり」と言っていたドクターがいましたが、そのドクターは、実際に、ひきこもりになった人を、生涯食べさせてあげるわけではありません。


自分の担当が終わったら、関係が切れちゃう支援者がほとんどじゃないですか。
他人様の人生、生活、選択にあれこれ助言や指示を出すのに、誰もその結果まで受け持ってくれないじゃないですか。
そんなもんです、支援者は。
だって他人だもん、お仕事なんだもん、うちの家庭の出来事じゃないんだもん。


今、振り返ると、「生涯に渡る支援」の熱狂は、親御さんから始まったように感じます。
「ああ、この子をどうしよう。大人になったら。私が死んだら…」
そういった深い苦悩に対し、支援者の言う「生涯に渡る支援」は、救いの言葉になったんだと思います。
「生涯に渡る支援があれば、安心だ」
そのように思った親御さんが多かったと感じます。
だからこそ、盲目的に「生涯に渡る支援」を求め、その言葉を発する支援者に傾倒していった。
支援者は、親御さんを安心させようと言った言葉であったが、親御さんは信じたのです。
発していた支援者は、誰も、その子の生涯すべてを支援しようとは思っていないのに。


昨日のブログは、「情報を捨てる」という内容でしたが、支援者も同様に、ちゃんと時が来たら捨てることが大事です。
支援者は、どう頑張っても、その子の人生の一部にしか関われないのです。
必ず別れが来るし、支援者と別れるというのは、その子の自立にとって、大事な一歩です。
もし、支援者を捨てられない親御さんがいるとすれば、それは子どもの自立のためではなく、親御さん自身の安心のためでしょう。
誰かに寄りかかっていたい気持ちはわかりますが、寄りかかり続けていたら、いつしか自分の足で立てなくなるもの。
親が子育てに関して自立できていないのに、子どもが自立できるとは思えません。
「生涯に渡る支援」なんていう言葉に寄りかかるのは止めた方が良いのです。


支援者なんて、捨てられてナンボの商売です。
支援の必要がなくなったのなら、発達&成長が見られた証拠ですし、自立へと一歩近づいたので喜ばしいこと。
もし、支援の効果、成果が得られないのなら、すぐに別の支援者、支援に向かった方が、子どもさんのためになるので、スパッと捨てるのは、これまた良いことなんです。


支援者に依存したくなるのは、手放したくないのは、子どもに支援が必要なのだからではなくて、私自身が寂しいから、心細いから。
その感情を支援者に向けてはいけません。
彼らは仕事で携わっているだけの他人です。
本来、そういった感情は、家族や仲間の中で解き放たれていくもの。
ですから、子の課題ではなく、親御さんの課題ですので、ご自身の心身を整え、愛着の土台、人間関係を見直す時期なのです。


自分の課題と向き合うのは、辛いことでもあります。
でも、子育てを通じて、気づかされた部分でもあり、それをクリアすることで、ご自身の人生をも豊かにすることができるのです。
だから、「生涯に渡る支援」を行うのは、社会でも、支援者でもなく、自分自身。
子どもさんにとっても、最大の支援者、生涯に渡る支援者が、自分自身になるような育ちを後押しすることがもっとも大事なんだと、私は思います。
自分自身が、自分の支援者なら、生涯に渡って発達を、成長を、生活をサポートし続けられますので。
定年も、異動も、退職もありませんね。

2019年12月19日木曜日

捨てる覚悟

大河ドラマ『いだてん』が終わってしまいました。
視聴率が低かったそうですが、それは視聴者層の違いとリアルタイムで観た人が少なかっただけで、とても興味深い作品だったと思いました。
まだ、途中までしか観ていませんけれども(笑)


来年の大河は、萬平さんの明智光秀。
きっと織田信長の配下になるし、きっと12月ごろには本能寺に向かうし、最後はきっと落ち武者狩りに遭うに決まっています。
だから、今年中に最終話までいかない『いだてん』を観ようと思います。
今、関東大震災が起きたあと、国立競技場で運動会をやったところです。
前の国立競技場が建てられた当時は、今とは全然異なる神宮外苑、千駄ヶ谷辺りだったのが、よくわかります。


私は千駄ヶ谷が好きで、子どもの頃、よく行っていました。
スワローズの本拠地、神宮球場がありますし(オリンピック期間中、機材置き場なんてヒドイ!)、通っていた将棋会館もありました。
今は藤井聡太棋士ですが、私が通っていたときのスターは、羽生善治棋士。
大人になってからは、ほとんど指さなくなった将棋ですが、今でも羽生さんのことは応援しています。


そんな羽生さんの言葉で、とても印象に残っているものがあります。
それは、『山ほどある情報の中から、自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が重要だと思います』という言葉。
どんな世界でも、1つのことを極め、続けてきた人の言葉には、様々な真理へと繋がる深みを感じます。


仕事を通してお会いする親御さんには、この『情報との付き合い方』に段階があるように感じます。
まず、まったく情報を持っていない段階。
「発達障害」という言葉は知っていたけれども、まさか我が子が診断されるなんて…。
そのような状況の親御さんは、限られた情報に飛びつく傾向があります。
ですから、このときの保健師、医師の言葉は絶大。


出会った人によって、「風邪みたいに治るもんじゃない」と言われれば、「そうか、治らないんだ。受け入れるしかないんだ」となりがちです。
反対に、「この時期の診断名は仮みたいなもんだから。子どもは発達するし、診断基準から外れる子もいますよ」と言われれば、「そうか、じゃあ、より良く育つには、どうしたらいいんだろうか」と前向きな情報獲得へと向かいます。


この情報が限られている状態から、「受け入れる&支援」に向かうか、「より良く育てる」に向かうかは、運次第なところもあります。
しかし、どっちにしろ、多くの親御さんは、全く持っていない情報の段階から、情報探索、情報収集の段階へと進みます。


情報探索、収集の段階で、どういった類の情報を選ぶかは、前段階の影響を受けるような気がします。
いずれにせよ、現代の親御さんは情報を集めるのが上手ですし、勉強熱心な人が多いです。
専門家顔負けといいますか、そこら辺の支援者より、ずっと多くの情報を親御さんの方が持っていると感じます。
そりゃそうです、支援者はお仕事&定年、退職、異動までですが、親御さんにとっては我が子であり、家族であり、人生に含まれる部分ですから。
真剣味が違えば、姿勢が違います。
ある療法だけ勉強し暗記しちゃえば、なんとなく形が整って見える支援者とは違うのです。


ちょっと横道に逸れてしましましたが、私のところに連絡をくださる方の多くも、この情報探索&収集の段階で知った親御さん達です。
まあ、私みたいなチョーマイナーな支援者を見つけるくらいですから、皆さん、芸能記者並みの情報収集能力と量です(笑)
だからなのでしょうか、反対に多くの情報が集まりすぎてしまい、どれが我が子に合っているか、今必要なのか、迷子になっている親御さんも少なくないような気がします。


良いものを、効果があるものを、それこそ、エビデンスがあるものを、できる限り集めたからと言って、すべてが我が子に当てはまるわけではありません。
子どもさんの場合は、日々、発達&成長しますので、昨日必要だった刺激が、今日そうではなくなる、なんてことも、普通にあります。
親心としては、「良いものを全部」と思いがちですが、特に小さいお子さんの場合、「あれもこれも」が却って刺激過多になったり、本人が主体的に行う遊び、育ちを阻むことにもつながったりします。
ズバッと指摘させていただいた方もいますが、大人が学び、実行しようとするものには、少なからず学習の要素がありますので、「子どもを型にはめる」、子どもに発達ではなく、「学習をさせてしまう」可能性がゼロではないのです。
基本的に、発達とは、本人の『主体性と自由』の中に存在するものですから。


情報をたくさんお持ちの親御さんの場合は、一緒に「情報を捨てていく」というのも、私の仕事の役割になります。
継続してこの仕事をしていると、その子に必要なもの以上に、必要じゃないもの、いらないもの方がはっきり見えてきます。
それは発達を阻害しているものを見つけ出すだけではなく、「今、必要じゃないよね」「それって、発達課題の根っこじゃなくて、枝葉だよね」というものもあります。
先ほども述べたように、幼いお子さんの場合は、本人の主体性と自由度を最大限にすることが重要ですので、発達援助はよりシンプルに、よりスリムに、がポイントです。
そのお子さんにもよりますが、「〇〇だけ、1ヶ月続けてみて。他は〇〇くんが遊びたいように、感じたいように過ごす」という方が伸びるということも多々あります。


私達が子どもだった頃、「より早く、より多くのことを暗記し、ペーパーに書ける」が素晴らしい学力とされていました。
ですから、少なからず、我々世代の人間は、「情報をストックする」という回路が脳に刻まれているといえます。
だからこそ、逆に「捨てるのが苦手」ともいえます。
特に我が子のこととなれば、その回路が呼び起こされ、フル活用されるのでしょう。


「あれもこれも」やって、お子さんが混乱し、親御さんも疲弊しているご家庭。
日々、効率よく“こなしていく”ことで、支援や療育という型を学習してしまったお子さん。
少しやっては効果が出ず、少しやっては効果が出ず、を繰り返し、いろんなことが中途半端になっているご家庭。
良い支援者、専門家のハシゴをして、普通の生活自体が窮屈になってしまっているご家庭。
このようなご家族は、珍しくありません。
ですから、情報に溢れ、情報をたくさん得やすい時代だからこそ、「捨てる」ことの重要性が増していくのだと、私は感じています。


羽生さんの言葉には、こういったものもあります。
『何事であれ、最終的には自分で考える覚悟がないと、情報の山に埋もれるだけ』
そうです、子育てにも、情報を取捨選択するにも、「覚悟」が必要です。


金栗四三さんは、覚悟をもって、ストックホルムに旅立ちました。
その覚悟が、1940年東京オリンピック、2020年東京オリンピックへとつながったのだと思います。
そして、スワローズファンは、バレンティンがいなくなり、さらに続く低迷の数年間を覚悟しなければなりません。
覚悟があれば、道は開ける。
その道は千駄ヶ谷、神宮外苑、国立競技場へと続く。
でも、マラソンは札幌でしたね(爆)

2019年12月18日水曜日

『診断と投薬』の限界

息子を殺めた元農水事務次官の父親に懲役6年の実刑判決が言い渡された事件。
この判決や事件の状況、それまでの家庭生活などに対し、いろんな立場の人が、それぞれ長男の視点から、父親、家族の視点から意見が述べられていました。
そういった意見を目にするたびに、私は「どうしたら防げたのか?」という疑問が湧くのです。


父親がいわゆるエリートだったから、息子の気持ちがわからなかったんだ、その気持ちに寄り添えなかったんだ、世間体を気にして助けを求めることができなかったんだ。
確かに、そういった側面もあるかもしれません。
でも、それは事件の枝葉にすぎないと思います。
その幹は、「何やってんだ、専門家」
いや、「発達障害に関する専門家の無力さ」でしょう。


発達障害に関する専門家、支援者は、「診断があれば」「支援があれば」「理解があれば」と言います。
でも、本当にそうなのでしょうか。
この3つがあれば、こういった悲しい事件は起きなかったのでしょうか。


この息子さんは、診断を受けており、発達障害を自覚していたといいます。
しかも、服薬も受けていた。
つまり、『診断と投薬』という医療者のみに認められた専門的な援助を受けていたということ。
それなのに、息子さんの症状や生きづらさ、そして家族を心身共に追い詰めてしまう行為がなくならかったのです。
ということは、『診断と投薬』で問題は解決しない、限界があるという意味ではないでしょうか。


医療者が医療について、一般の人よりも専門的な知識、技術を持っているのは当然のこと。
魚屋さんが、一般の人よりも、魚に詳しく、さばくのがうまいのと一緒です。
専門家が一般の人よりも、その分野の専門性があったとしても、それイコール偉いわけでも、あらゆる面で一般の人よりも優れているというわけでもないのは当たり前。


今年も、いろんな地域で、多くのご家族とお会いしてきましたが、未だに専門家、支援者と親御さんが対等な関係を築けていない、もしくは、上下関係を維持しようとする場合が多いのが気になります。
専門家や支援者が、家庭生活のこと、進路に関すること、どんな支援を受けるか、また薬を飲む飲まないまで、口出ししている、指示していることが本当に多くあります。
そんなに発達障害の専門家とやらは偉いのか?
その指示に従った後の結果まで責任を持ってくれるのか?
それこそ、常々言っている「生涯に渡る支援」とやらを、その本人が人生を終えるときまで、ついてまわってやってくれるのか?


もし私が、事件が起きる前のこの家族の元へ支援者として伺ったら…。
こういった最悪の事態が防げたのか、本人の改善、家族の気持ちの良い変化を持たせられたか。
私にはできないと思います。
何故なら、支援者である私は無力だから。
たとえ、私が何か改善に繋がるアイディアを持っていたとしても、それが伝えられたとしても、行う主体は本人であり、家族です。
ですから、いくら頑張っても、本人、家族が行動に移せなければ、やろうとしなければ、手も足も出すことはできないのです。


どんなに専門家がその知識、技能を披露したとしても、支援者が偉そうにしていたとしても、主体まで手を出すことはできません。
いや、どんな人であったとしても、他人の主体を侵そうとする行為はいけないのです。
もし、それをやれば、洗脳であり、人権侵害です。
あくまで主体は本人、家族。
専門家、支援者というのは、その主体から一歩離れた存在です。
なので、ある意味、どんな専門家、支援者も無力であり、できることは主体である本人にアイディアや情報を提供することのみ。
専門家、支援者とは、主体に使われる存在なのです。


医療に繋がっても、最悪の事態を防ぐことはできませんでした。
『診断と投薬』は万能ではありません。
と言いますか、『診断と投薬』であっても、診断をどのように理解し、自分の中に落とし込むか、処方された薬を口の中に入れるか、は本人次第。


同じように、「欧米の大学公認」だとか、「〇〇学会認定資格」だとか、「エビデンスあり」だとか言っても、その支援方法が、本人に合うかどうかはわかりませんし、合ったとしても万能ではないのは事実です。
どんなに優れた療法だったとしても、いつなんどきも、どんな人、症状にも効果があるとはいえません。
だからこそ、主体である本人、家族が、しっかり見極め、試行錯誤しながら、テーラーメイドの子育て、支援をやっていく。
そのための情報源、アイディアの一つくらいなものです、専門家、支援者というのは。


いろんな方のお話を伺っていると、「〇〇センターはダメだ」「あの療法は、効果がない」などと言うと、専門家、支援者が不機嫌になる、怒る、予約を受け付けないようにする、などを行うことがあるそうです。
別に、その子に合わなかっただけですから、何も不機嫌になる必要はないのです。
どう頑張っても、万能にはならず、効果があったとしても部分的なのは当たり前なのです。
結果が出ないことに対して、「結果が出ない」というのは悪いことではありません。
結果が出ないことを、主体を侵略し、つきあわせようとするのが悪いことなのです。


専門家、支援が万能なら、こんなにも、子どもの発達で悩む親御さんが多いわけがありません。
もっと多くの人達が、学校を卒業後は、その人の資質を活かして、社会の中で生きているはずです。
特別支援教育が始まり、多くの子ども達が早期から診断、療育を受けられるようになり、就学後も児童デイなどのサービスが受けられ、社会の認知も広まってきたのに、発達障害の人達は以前よりも幸せに生きているのでしょうか。
彼らの生きづらさは、少しでもラクになったのでしょうか。


もし、そうなっていなければ、何かが間違っていた証拠であり、何かを変えていく必要があるということ。
私はこの世界に入って15年ほどではありますが、間違っていたのは、専門家が主体性を奪おうとし、親御さんが子育ての主体を丸投げしたことにあると思います。
そして変えていく必要があるのは、理解や支援ではなく、その子の内側にある発達のヌケ、遅れ、課題を育てていかなければならないということです。


そうならなければ、このたびのような悲しい事件はなくなっていかない。
持って生まれた資質を自分の人生に、社会のための活かすことができない人ばかりになってしまうのです。
こんな悲しいことはありません。
みんな、授かった大切な命です。
「発達障害だから」「生まれつきだから」という無責任な言葉で、一人の子どもの、一つの家族の人生を諦めさせることができるほど、専門家も、支援者も、偉くないし、優れているわけではない!


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【関東出張に関して】

12月16日のブログで告知したところ、想定していた以上のご依頼をいただきました。
17日の22時、定員に達しましたので、今回の主張相談の募集は終了いたします。
もし、ご検討中の方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。
今回、予定が合わずにお断りしたご家庭もありますので、次の機会をお待ちください。

2019年12月16日月曜日

発達援助とは、川底にある石を1つずつ拾っていくようなもの

日頃、子どもさんと関わる機会が多いので、ふと、自分の子ども時代を振り返ることがあります。
私は、水が好きな子どもでした。
特に、流れる水を見るのが好きだったように思います。


砂場で山を作り、そこに穴や道を作り、水を流して遊んでいました。
川に行けば、葉っぱや木などを流し、それを眺めているのが好きでした。
川の中に石を置いて堰き止めたり、流れる方向を変えたり…。
海に行っても、泳ぐよりも波の動きを見たり、波打ち際で遊んだりする方が好きでした。
私の思いだす子ども時代の原風景には、水の流れがあるのです。


この仕事をするようになり、「発達の流れ」という言葉を良く使うようになりました。
その子の『本来の発達の流れ』がある。
でも、なんらかの原因によって、その本来の流れから外れたり、停滞したりしてしまっている。
受精から現在に至る流れの中で、どこから流れが変わったのだろうか。
なにが、その流れを堰止めているのだろうか。
どうやったら、本来の流れに戻れるだろうか、そのために私達ができることはなんだろうか。
私が発達障害をイメージするときは、子ども時代に見た川と、私がその中に置いた石が目の前に浮かんできます。


発達の流れを堰止めている石には、大きいものもあれば、小さいものもあります。
一人ひとり、その子その子によって、どんな石がどれくらいあるかは違っています。
大きな石がドンと流れを堰き止めていたり、小さい石が複数積み重なることで、流れに変化を与えっていることがあります。
その石とは具体的には、栄養不足&偏り、原始反射の未統合、感覚系の未発達、運動発達のヌケ、長時間のメディア視聴、環境汚染、人工的な刺激など。
これらがあると、本来の発達の流れを変えたり、発達自体を緩めたりすることに繋がります。
しかし、これらは、取り除くことができるもの。


つまり、発達援助の核が、ここにあるといえます。
定型の子も、発達障害の子も、水は流れている。
しかし、特に上流のところに、大きな石、複数の石があって、本来の流れから変わってしまっている。
そして、上流から中流、下流へと進む中で、水の勢いがなくなってしまっている状態。
それが「発達の遅れ」となって表れている。
私達が行うこととは、栄養や刺激、環境を整え、ヌケの育て直しをし、その子の本来の発達の流れに戻すこと。
私達が先導し、人工的に川の幅を広げることではなく。
本来の流れに戻れば、自然と治っていくもの。


子どもさんによっては、石が置かれているだけではなく、最初から川幅が狭い子もいますし、水の量自体が少ない子もいるのは事実です。
しかし、だからといって、石を取り除くことを怠って良いのか、といえば、そうではないと思います。
細くても、少なくても、その子の発達の流れ、水が流れ続けていけば、少しずつであったとしても、川底が削られ、より多くの水が流れるようになります。
重い知的障害を持った子ども達は、まさにこのようなイメージです。
でも、時間がかかったとしても、水が流れ続けていれば、自らの力で川を成長させることができるのです。
何故なら、知的障害が残っても、働き、自分の人生を主体的に生きている若者たちからは、小さな石をも一つ一つ丁寧に取り除いてきた親御さんの姿が見えるから。


私が「発達障害が治ったな」と思う子ども達は、川から石が取り除かれ、本来の自然な流れを取り戻した子ども達です。
流れ方は一人ひとり異なりますが、その子らしい流れが現れると、見ている私達にも心地良さが感じられます。
自然な川の音、流れは、エネルギーを与えてくれる。
発達の流れが戻り始めると、その子だけではなく、家族の皆さんも前向きに元気が出てくるのは、そういった理由からだと思います。


「発達障害を治す」というと、重機で川幅を人工的に変えていく、というイメージを持つ方もいるように感じます。
でも、「発達障害を治す」というのは、本来のその子の内側流れる発達の流れに戻すことであり、そのための石拾い、育て直しだといえます。
なにか、発達を堰き止めているものがあるならば、それを取り除けばいい、たった1つであったとしても。
栄養でも、環境でも、育て直しでも、私達にもできることはあります。
上流の石を取り除けば、下流の流れも変わってくるのです。


水は流れ続けさえいれば、濁ったり、枯れたりすることはなく、きれいな水を保ち続ける。
そのきれいな水は、魚や虫たちに恵みを与えることにもなります。
それはまるで、最初は自分のためだった発達が、誰か他の人のために活きてくる姿と重なります。
自分の資質を社会のために活かして生きている人は、皆さん、発達、成長の流れを止めずに、歩き続けている人達なのです。


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【関東出張に関して】*定員になりましたので、募集を終了いたします(12月17日PM10:15更新)

お問い合わせやご依頼があった方たちへは、すでにご案内しております。
2020年、年明け早々なのですが、関東地方に出張相談で伺います(1月2日~8日)。
すでに、1月4日(土)は一日決まっておりまして、他の日も数名のご家族と日程調整中です。
もし、「この機会に発達相談を」という方がいらっしゃいましたら、お問い合わせください(募集は今週いっぱいを目処に)。
出張相談のご案内

2019年12月13日金曜日

子育ての喜び、親子の時間の楽しさ

今年、出張で伺ったご家族から丁寧なメールを頂戴しました。
お子さんに大きな変化が見られたこと。
我が子の発達、成長をそばで見て、心から嬉しく思っていること。
そして、診断を受ける前のような子育ての喜び、親子の時間の楽しさを再び感じられるようになった、と記されていました。
『子育ての喜び』『親子の時間の楽しさ』
この二つの言葉を目にしたとき、私は今の事業を起ち上げて良かったと心から思うことができました。


今は、こうして発達障害専門の仕事を起ち上げ、行っていますが、大学に入るまでは、自閉症という言葉すら知りませんでしたし、障害を持った人と関わったこともありませんでした。
しかし、障害を持った子ども達のボランティア活動に参加したことから、自閉症、発達障害を持った子どもさんとご家族との縁が生まれ、今に至ります。


学生時代は、主に放課後の余暇支援ボランティアを行っていたのですが、そこで出会った家族の姿に衝撃を受けました。
全員が全員ではありませんでしたが、私には我が子との時間を苦痛に感じているような家族が多かったように感じます。
「どうやって放課後を過ごそうか」
「今日は、午前授業だ、どうしよう」
「夏休みが近づいてくると憂鬱だ」
顔を引きつりながら、ときに我が子に余所余所しく、中には心身を病む方も…。
当時は小学校の教員を目指していましたし、それまでまったく知らない家族の姿でしたので、とても心が揺さぶられたことを覚えています。


学生時代、そして自閉症児施設で支援員として働き始めたときも、ずっと「何故、障害を持った子の家族は、子育てや家族の時間を楽しみ、喜べないのだろうか」と疑問に思い続けてきました。
その中で、教育の問題、医療・診断の問題、療育の問題、福祉の問題を感じました。
みんな綺麗事は言うけれども、実際、家庭で問題が生じても、誰も本気で向き合おうとしない。
というか、ほとんどアイディアを持っていない。
「家庭でのことに足を突っ込むと、それで解決しなかったとき、責任問題になるから」
そんな教員、支援者達の本音は、幾度となく耳にし、幾度となく憤りを覚えました。
ですから、私は24時間365日の施設職員になり、そこで学んだことを地域に還元したいと想い、家庭支援サービスを起ち上げたのです。


私の事業の理念は、この学生時代に見た現実と繋がっています。
「子育てを楽しめる家族を増やしたい」
子育てを楽しめるというのは、おもしろおかしく過ごせればいい、というものではありません。
子育てを楽しめるかどうかは、子どもの成長が中心だと思います。
子どもは成長している自分が楽しみであり、喜びである。
そして、その成長した姿を見ている家族も楽しみであり、喜びである。
当然、家族でいれば、ハッピーなことばかりではありませんが、それでも日々、成長を感じられることが、家族の絆を深め、「ああ、この家族で良かったな」という想いに繋がっていくと思います。
そういった前向きな想いが、子の成長を後押しし、自分の足で自分の人生を歩むまで育つこととなる。


結局、学生時代に見てきた家族には、中心となる成長がなかった、感じられなかったのだと思います。
大変なこともあるけれども、少しずつではあるけれども、子どもが成長している、将来の自立に近づいている。
そのようなことを感じられれば、もっと違った家族の空気感、前向きな姿があったと思います。
しかし、問題が生じても誰も力になってくれない、成長よりも安定して毎日が過ごせるように、また今日も構造化しなきゃ、スケジュール組み立てなきゃ…。
この先もずっと同じことが続くのか、何も変化しないのか、結局、卒業後は施設なのか。
そういう想いがあれば、我が子との時間を苦痛にすら思えてくるのかもしれません。


私は、子どもの成長を後押しすることで、より良い親子の関係、家族の時間、何よりも子育ての喜びを感じてもらいたいと思い、この仕事を続けています。
ですから、冒頭で紹介したようなご家族がいると、事業の目的が果たせたと感じるのです。


私が学生だった頃は、資源が乏しく、根本から解決するようなアイディアもありませんでした。
そのことが、家族を苦しめ、子育てを楽しめないことに繋がっていたと思います。
でも、今は資源と情報に溢れ、そのことが却って、子育てを楽しめないことに繋がっているように感じます。
「療育を受けなきゃ」「支援を受けなきゃ」
幼い子を抱きかかえながら、療育機関に通う姿。
就学が近づいてくれば、普通級にしようか、支援級にしようか、児童デイはどこがよくて…。
しかし、その多くは、症状の改善や根本的な発達を目指したものではなく、結局、子どもが変わっていくわけではない。
そうすると、ますます親御さんは焦り、別のところに問題を解決してくれるものがあるはずだ、と走りだす。
全国、いろいろなところに出張させてもらいますが、理由は変われど、まだまだ子育てを楽しめない、苦痛にすら感じているご家族が少ないような気がします。


家庭に訪問させていただいたとき、子どもさんの発達のヌケ、課題の根っこを確認することと同じくらい、親御さんの想いを感じることを大事にしています。
今、どのような親子の関係性なんだろうか、家族の時間を過ごしているのだろうか。
そういった家族に流れる空気感を感じつつ、その家族にあったより良い子育てを提案したいと考えています。
「どうやって育てたら良いか」「治したらいいか」だけではなく、どうやったら、「その家族らしい子育てができるだろうか」という視点です。
親御さんの資質に合った、資質を活かした子育てにならないと、親御さんが心から楽しむことができませんので。


冒頭のご家族とは違いますが、幼少期診断を受けてから、「このままでは、知的障害で勉強が遅れる」と思い、幼稚園とは別に家庭で教科学習を続けていたご家庭がありました。
しかし、結論から言えば、感覚系を育てる前に、そこの未発達が育つ前に、アカデミックスキルを詰め込んだため、ますます発達の凸凹が大きくなってしまっていました。
ですから、就学後でも文字や計算は遅くなく、むしろ、今は発達の土台を育てる方が重要だと伝え、そこから勉強は一切やめ、親子で思いっきり自然の中で遊ぶようにしたのです。
それから半年が経ち、いわゆる空気が読めるような子になり、今では幼稚園のお友達と遊べるようになりました。
親御さんからは、「今、子育てが楽しいです」「子どもと一緒に泥んこになって遊ぶのが喜びです」という言葉をお聞きしました。


発達の土台は、家庭生活であり、その一番の仲間は家族です。
親御さんほど、子どもの発達を後押しできる存在はありません。
そして何よりも、子ども自身に、子どもの内側に発達する力を持っていて、自分に足りないところややり残したことがあれば、それに気づき、自ら育て直しを行うのです。
子どもの内なる発達の力を信じないものは、どんな専門家であったとしても、彼らをより良く育てることはできない、と思っています。


親子の間での悲しい事件が絶えません。
権威ある専門家だといえども、一人の命を救うこともできないのです。
悲惨な現実には、手も足も出ない。
専門家も、支援者も、教員も、その力は微々たるもの。
ですから、私はその微々たる力と、私の生きる時間を、「子育てが楽しい」と思える、その瞬間のために使いたいと思います。
一人でも多く、「ああ、子育てが楽しいな」「この家族で良かったな」と思える親御さんを増やしていく。
そのための発達相談であり、発達援助であり、治るということ。
これが私の事業の理念です。

2019年12月8日日曜日

『我がこと』と感じられているか

発達障害が「栄養で治る!」というと、嘘くさく感じます。
しかし、発達障害と呼ばれている人達の中に、消化器系を含む、栄養面の課題を抱えている人達が大勢いるのがわかります。
そういった人達の場合、栄養面が、その状態、症状と深く関係し合っていますので、栄養が改善すれば、ガラッと変わることもあるのです。
ですから、「発達障害が栄養で治る」のではなく、「栄養面に課題を抱えている発達障害の人達が、その改善によって治っていく」というのが、真実に近いと思います。


同じように、「発達障害が運動で治る」のではなく、「運動発達に課題やヌケを持っている発達障害の人達が、そこを育てなおすことによって治っていく」というのが、真実だといえます。
ということは、「発達障害が栄養で、運動で治るなんて、おかしい!」と叫んでいる人達は、読解力の問題?と思えちゃうわけです。


発達障害は症候群です。
それならば、ターゲットにすべきものは、その人が持つ一つ一つの症状のはず。
現在、なんらかの困った症状が出ている。
だから、その症状の背景、根っこを探っていく。
そうすると、「ああ、うんちに未消化物が多いよね。ということは、うまく消化、吸収できていないんだね。だったら、栄養不足かもね。発達に必要な栄養が足りてないかもね。そりゃ、発達の遅れが出るよね」となる。
で、栄養面からのアプローチによって、症状が改善し、治っていった人達がいるのだから、そこから学び、我が子の子育てに活かしていくのは、親として自然な姿。


このように考えると、栄養アプローチや運動、身体、言葉以前へのアプローチを行う人と、ハナから信じない人の違いは、子どもをしっかり見ているか、細かく見れているか。
その“見れているか”に関わるのは、親御さんや支援者自身の身体性です。
自分の身体的な感覚が乏しいと、それこそ、育っていないと、目の前にいる子に生じている現象を『我がこと』のように感じることができません。
となると、デジタルの情報のみで、頭主導で物事を処理していってしまいますので、発達障害という自分とは全く異なる別個の存在として認識してしまいます。


ですから、自分が睡眠不足になると、イライラするのに、我が子の睡眠障害には、「それも障害だからね」と、自分と分離させた反応をしてしまう。
目の前の我が子が苦しんでいたら、どうやったらラクにしてあげられるか、真剣に考え、行動するのが自然です。
でも、そこで行動に移せず、あわわあわわと一緒になって苦しんでいるのは、心と身体が一致していない証拠であり、そもそも動ける身体に育っていないわけです。
また、我が子が苦しんでいても、その苦しみに直接アプローチしないで、「自閉症に良い」みたいな習ってきたことをそのままやったりする。
それも、『我がこと』と感じられないことが、明後日の方向のアプローチへと進ませるわけです。


発達相談でも、「我が子が苦しむ姿を見て、私も辛い」と言われる親御さん達が大勢います。
しかし、同じ言葉でも、その雰囲気、意味合いは違う場合があります。
それは、我が子が苦しむ姿を見て、まるで自分の身体が切り刻まれているように辛さを感じられている場合と、「我が子が苦しむ姿がこの先も続いていかと思うと、自分が辛くなる」「どうやって対処したら良いか分からず、自分が辛くなる」という場合です。
つまり、自分の身体、感覚を通して、我が子の辛さを感じているか、その見える世界、デジタルな世界から辛いと思っているか。
発達相談で私が見るのは、その違いです。


どうして、そこを見るかといったら、『我がこと』と感じられている親御さんじゃないと、子どもの反応を見て、調整し、育んでいくことが難しいからです。
実際、たとえば栄養アプローチに効果がある人達であったとしても、どういったタイミングで、どういった進め方をしていけばよいかは、一人ひとり違いますし、同じ子であったとしても、成長や体調と共に変化していくものです。
なので、アプローチの入り口は一緒でも、完全オーダーメイド。
どんなに、その人にピッタリなスーツを作ったとしても、ヒトは生きているので、ずっと同じ体形はキープできないのと一緒。
神経の発達は、ヒトの体形以上に複雑で、変化が激しいものです。


私が家庭支援にこだわるのは、子どもだけにアプローチしても効果が乏しいから。
子どもの日々の変化、それこそ、本人の内側から出ている苦しみや発達の流れが感じとれないと、子どもを育てることはできても、本人の欲する環境、刺激を用意することができないのです。
栄養アプローチも、身体アプローチも、子どもの内なる声を無視し、「これが良いから良いから」と親御さんリードで進めていくと、決して良い方向へ進みませんし、見ていても育つスピードが遅いです。


あとは、その都度、「これで合ってますか?」というような確認が多くなるのもまずいです。
私を始め、支援者に依存し始めると、ますます子どもが見えなくなります。
それもまた、子どもの発達には望ましくないことなのです。
子どもを見て、それに応じた環境を用意するのが、発達の遅れ、ヌケを育てていくことだといえます。
そのために、子も、親も、より良く変わっていくことが大事ですし、お互い一つでも発達の遅れ、ヌケを育てることが必要です。


私の発達相談は、親御さんの発達課題を見つけること、その発達を後押しすることも含まれます。
それが、子どもがより良く育つ、第一、条件だからです。
自閉症児専門施設で、子どもを24時間365日預かり、支援しても、治らなかった。
それを実際体験してきた私だから言えることです。
どんな専門集団が預かったとしても、発達の土台は家庭であり、親子での育みが最も重要なのは変わりません。


親御さんも、自分の感覚、身体を整え、育て始めると、それまでの見方が変わってくるといいます。
実際、親御さんが変わり、それに同調するように、子どもさんが大きく変わっていった家庭もたくさんあります。
目の前の我が子を見て、『我がこと』のように感じられるか、感じたあと、すぐに身体を動かせるか。
そういった意味では、親御さんが治ることは、子が治ることとイコールなのかもしれません。

2019年12月6日金曜日

『経過観察』の本来の姿、目的、意義

気が付けば、もう師走。
この一年を振り返ると、2歳とか、3歳とか、本当に小さいお子さんの発達相談が多かったな、と思います。
当たり前ですが、2,3年前まではお腹の中にいた、もしくは姿形もなかった子ども達ですよ。
それなのに、もう診断名が付いて、それに応じた生き方、環境の中を進んでいこうとしている。
脳性麻痺のような疾患を持った子ども達ならわかりますが、「言葉が出ない」「運動発達が遅れている」ということのみで、障害児にされてしまう。


医師が書いている健診に関する専門書をいくつか読みましたが、そこには「言語理解に問題がなければ、3歳まで言葉が出なくても異常とはいえない」とも記されていましたし、「発達の遅れ=障害ではない」「発達の遅れを見つけることは、診断のためではなく、丁寧な経過観察をし、子育て、子の育ちをサポートしていくために」とも述べられていました。
この辺のニュアンスが、同じ医師でも、産婦人科の先生や乳幼児健診を行うような小児科の先生と、ゴリゴリの発達障害専門ですみたいな先生と異なるような印象を受けます。


発達の遅れにも、問題ないレベルや個人差のレベルのものもあれば、即、「障害」「リスク」というレベルのものもあります。
しかし、私の乱暴な解釈かもしれませんが、「即、障害」というレベルのものは、単体ではなく、複数確認できたときに、初めて発達障害というリスクに繋がるのだといえます。
私が勉強した限りでは、「〇〇の遅れのみでは、発達のリスクとは言えない」ですとか、「〇〇の遅れが見られたとき、△△の発達を確認する」ですとか、そういった記述が多かった印象があります。
これは、私が子ども達と接しているときに感じるものと同じだったので、印象に残っているのです。


親御さんから「〇〇の遅れを指摘されて」「これができないんです」という訴えを聞いたあと、実際に確認してみると、「これは問題ないな」「このままにしておくと、まずいな」という感覚があります。
その正体は、発達の遅れの組み合わせであり、もっと言えば、原始的な脳から端を発した問題かどうか、原因の根っこに関するものだと思います。
発達の遅れにもいろんな種類があり、パターン、組み合わせがあります。
ですから、いかに本当のリスクを見つけ、そこを育てられるか、自然な発達、個体差の部分を見つけ、そこをいじくらないようにできるか、が重要であり、技量が問われるところだと思います。


最初の話に戻りますと、幼い子ども達からの相談は、その子の成長、発達に携われる喜びよりも、悲しみの方が強いものです。
何故なら、こうやって出会えた子ども達は良いですが、その子の背後には、「そうか、障害なんだ」と思い、子育てよりも、家庭よりも、療育や支援、理解の方へ傾倒していく多数の子ども達の姿が見えるからです。
発達の遅れを見つけることは、療育を受けるためでも、支援や理解を得るためでもないはずです。
健診に関わる先生たちが言っているように、丁寧に成長の経過を確認していった方が良い子を見つけ、親御さんと子どもを専門家がバックアップしていくことで、将来のリスクを減らし、より良い発達、成長に繋げていくことが、本当の目的。


現在の『早期診断→早期療育』というパッケージ商品には賛同できませんが、2歳や3歳など、低年齢で発達相談に来られることは、とても意義あることだと思います。
ある程度、大きくなったり、療育とか、なんだかんだやったりしていると、どうしても、学習の要素が、その子の姿に影響を及ぼしていきます。
療育もある意味、型があり、その型を学習すること、型にはまることが目的になりえますので、純粋な発達の上に、学習が覆いかぶさり、本来の姿を見えにくくします。


一方で、低年齢の子ども達は、学習が少ないですし、発達の凸凹がそのままの姿で確認できますので、課題の根っこを掴みやすいといえます。
それになんといっても、本来のその子の発達の流れからズレた地点が近いので、軌道修正しやすいし、幼い分、治るスピードも早い。
ですから、今年初めの1月、2月、3月に出張相談で関わった子ども達は、幼い子どもさん達ほど、夏くらいから徐々に「経過観察が終わりました!」「保育園の先生から補助は必要ないね、と言われました!」「兄弟と同じ幼稚園に行けるようになりました!」というような喜ばしい報告を受けるようになりました。


5歳くらいまでの子どもは、月をまたぐ(月が替わると)と、ググッと成長する、大きく変わる、というのは一般的な姿です。
ということは、それくらい発達のスピードが早いということ。
だからこそ、早期に発達のリスクを見つけ、そこを育てていくことが、将来のリスクを減らし、本来の発達の流れに戻る近道。
経過観察は、本来、ポジティブな行為であるはずなのに、結果が伴わないと、ただのその場しのぎであり、親御さんに障害受容する時間を“与える”という意味合いになってしまいます。


療育を受ける前に、治せるところは治す。
できれば、経過観察の間に、その子の本来の発達の流れに戻しておく。
いろんなことを勘案しても、これがベストですし、本来の「経過観察」「早期診断」の姿だと思います。
お金や支援、知識は後から得られますが、幼いときの時間だけは、どうやっても戻ってこないので、一日も早く本当のリスク、発達課題の根っこを掴み、そこを育て始めることが大事だといえます。

2019年12月5日木曜日

『発達のヌケ』から一歩先に

『発達の“ヌケ”』という言葉は、初めて聞いた親御さんでも、すぐにピンときます。
「障害と言うよりも、“ヌケ”なんですね!」
「生まれつきでどうしようもないのではなくて、ヌケているから、そこを埋めていけばいいんですね!」


今日まで過ごした子どもとの数年間。
たった数年間ではあったとしても、そこにはその子の歴史があり、物語がある。
突然、現れた『発達障害』
うちの子は、本当に発達障害という存在なのだろうか。
そういった言葉にならない想い、『発達障害』という一言で片づけられてしまう状態に、ピタッとハマるのが、『発達のヌケ』という言葉なんだと思います。
たった二文字ではありますが、多くの親御さん達に前向きな気持ちと、「私がやろう」という行動の後押しをしてくれます。
たぶん、私がこの仕事を続けている限り、『発達のヌケ』という言葉は使い続けるはずです。


親御さんにとって、前向きな力を与えてくれる『発達のヌケ』という言葉。
ですから、親御さんの意識は、我が子のどこが“ヌケ”なのか、に向かいます。
一番分かりやすいのは、「ハイハイを飛ばした」というもの。
ハイハイをほとんどせずに立ったのは、そのときの家族にとってはハッピーな出来事だったかもしれませんが、本人の発達からしたら、アンハッピーな出来事。
こういった飛ばしは、家族の印象に残っていることが多く、そのニュアンスからも、発達のヌケを連想しやすいといえます。
他にも、印象に残っている動き、行動なんかが、そのまま、発達のヌケであることが多いので、親御さんも気づきやすいです。
そこを育て直すと、変わっていくのは確かです。


しかし、発達相談、出張の依頼で多いのが、「発達のヌケがわからないので、一度、確認してもらいたい」というものです。
この理由としましては、ハイハイなど、特別気になる運動発達のヌケはなかった場合と、ハイハイも抜かしていたけれども、他にも抜かしているところがあるという場合だといえます。


前者の運動発達に特別な問題はなかったお子さんの場合は、「本当に発達障害なのか?」という確認をします。
また、ハイハイができていたように見えても、実際、やり方が違ったり、身体の使い方が違ったりする場合もありますので、「本当にできていた?」「やりきっていた?」という確認もする必要があります。
結構、ご両親のどちらか、また両方ともが運動神経がよく、子も受け継いで、そのポテンシャルで寝がえりしたり、ハイハイしたりする子もいます。
形としてはできているんだけれども、重要なポイントである「足の親指が使えていない」ですとか、勢いをつけて寝返りをしちゃうパターンもありますね。
さらに今では、「栄養面は?」「環境面は?」「愛着面は?」「胎児期の居心地は?」「原始反射は?」など、イメージとしてはヌケというよりも、「神経発達の滞り」の理由探しみたいなこともやります。


そして後者のあちこちヌケていて、あれもこれも遅れていて、のお子さんの場合は、発達のヌケの根っこ探しを重点的に行います。
発達は階層なっていますので、いろんなヌケ、遅れがあったとしても、それらはお互いに連動し合っており、辿っていけば、最初の発達のヌケにぶつかります。
それが「おっぱいの吸いが弱い」にぶつかる子もいれば、「原始反射」にぶつかる子もいて、「お腹の中の発達」とぶつかる子がいます。
とにかく初期の発達のヌケが掴めれば、複数あるヌケ、遅れも育っていきますので、あれもこれもでどうしたらいいの状態のご家族には、根っこを掘り当てるのが私の使命となります。


いずれの場合も、やはり共通して、その子の物語を紡いでいく作業が重要だといえます。
今、「発達障害」と呼ばれる状態のお子さんがいる。
じゃあ、なんで発達障害と呼ばれているのだろうか、そういった症状が見られるのだろうか。
それをその子の受精から現在までの流れの中で確認していきます。
どの子にも、ある瞬間、そのときから本来、その子のあるべき発達の流れから外れたり、その流れ自体に滞りが生じた地点があります。
その地点からズレていった結果、その地点から滞りが始まった結果、今、「発達障害」と呼ばれる状態になっている。
その子の物語が出来上がれば、本来の子どもさんの姿が見えてきますので、そこに重なるように子育てをしていけば良いのです。


このようにして、その子の発達の物語を辿っていき、発達のヌケの根っこ、滞りが始まった地点を見つけ、そこから育て直しを行っていく。
シンプルに言えば、これが私の仕事であり、ニーズとしても中心だといえます。
そして一番、私の技量が求められるのが、私個人としても仕事の醍醐味なのが、発達のヌケがあった部分でも、育っている部分を見抜くことです。


子どもさんを見ればわかるのですが、全部が全部、ヌケがそのままの状態で残っているわけではありません。
同じように、滞りの部分も。
ヌケの状態にも、いろいろあって、少しヌケているところから、半分くらい育っている、以前はヌケていたけれども、育ちの中でヌケが埋まっているところもあります。
そこが親御さんによっては、見抜くのがとても難しかったり、なんだかしっくりこない、違和感として残るところだといえます。
意外に、もう大丈夫、育ったと思っていたところが、発達のキーだったりすることもあります。
なので、見抜けるかどうかが重要です。


まあ、たいそうなことを言っていますが、大事なのは、その子の物語が描けるかどうか。
その子の物語、発達の流れが掴めれば、「たぶん、ここもヌケていたよね」というところがわかります。
何故なら、発達は階層になっているし、ほぼ順番が決まっているから。
じゃあ、ヌケていたはずの部分が育っているのは、どうしてだろうか?
本人の力?あの遊びが良かった?保育園の先生との出会い?親御さんの子育ての方向性が合っていた?
こういった連想が生まれると、さらにより良い発達援助、子育てが見えてくるものです。
「ヌケていた部分が埋まっている」は、無意識の中で、自然な生活の中で育った部分ですので、そこが子どもさんにも、家族にとっても、資質に馴染むあり方だといえます。
これを活かすのが、治る近道。


『発達のヌケ』は、見事に親御さん達の心、違和感を表した言葉です。
だからこそ、多くの親御さん達が、この言葉で前向きに行動することができるのだと思います。
こういった心に響く、そして後押しする言葉だからこそ、さらに一歩深めるというか、深いところまでつなぐのが、仕事として携わっているものの役割であり、使命なんだと近頃、考えるようになりました。
「ヌケているのなら、育てればいい」からの一歩先です。


私の理想は、親御さんが、子育ての中で、発達のヌケを育て、治していくというもの。
その理想、ある意味、自然な姿に向けて、どうやって一歩進めていくか、私に何ができるのか、どういった仕事をしていくべきか。
新たな課題に対する答えは、日々の発達相談、援助を通して、答えを見つけていきたいと考えています。
これは2020年に持ち越しの課題ですね。