2020年4月7日火曜日

【No.1043】その子の認知的スキルから見て、普通級が望ましいか、支援級が望ましいか

「支援級から普通級への転籍」という話は、皆さんの関心が高いように感じます。
この話題に触れると、アクセスは増えますし、相談や質問も多くなります。
もしかしたら、ネット検索でひっかかるワードなのかもしれません。


私のところには、毎年のように上記のような相談、依頼がありますし、実際、転籍をしていくお子さん達がいます。
しかし、だからといって、どの子にも、転籍を勧めているわけではありませんし、その子の状態、学校の様子から、「そのまま、支援級の方が良いのでは」という話をさせてもらうこともあります。
「なんで、他の子には支援するのに」と言われた親御さんもいますし、散々、支援級での学び、環境について、いかに最悪かを言い続ける親御さんもいました。
いくら仕事とはいえ、依頼とはいえ、親の願いとはいえ、お子さんのより良い未来へとつながらないと感じることには同意できません。


私の基本的な考えとしましては、不登校と登校を比べれば、断然、登校できる方が良いと思っていますが、支援級か、普通級か、といえば、その子が伸びるのなら、どちらでも良いと考えています。
普通級に通うのが難しくて、支援級なら通えるし、勉強もできる、というのなら、その子にとっては支援級が望ましい環境だといえます。
また、学校に通えていて、支援級で成長が見られているのなら、無理に転籍する必要はないと思います。


私が転籍、普通級を強くお勧めする場合は、支援級での時間が本人の成長に繋がっていない、また、時間つぶしのような学習内容だというときです。
本人の学力や能力とミスマッチしている時間というのは、非常にもったいないことです。
本来、普通級レベルのお子さんが、診断名がついたという点だけで、支援級への在籍が決定されることがあります。
それまで、普通級で何年も勉強していたのに、診断名が付いた途端、学年の途中からでも、支援級へ席が移されることもあります。
支援級で力をつけていき、普通級でもやっていけるだけの準備が整ったのにも関わらず、「小学校のうちは」「中学校のうちは」とズルズルいくこともしょっちゅうです。
その子が最もよく伸びる、よく学習できる環境を用意するのが学校、親の務めですから、ミスマッチが生じた時点で、環境を変える必要があります。
それがなされないまでの時間は、空白の時間になってしまいますので。


「日本でもホームエデュケーションを」と言われますが、今の日本の学校という環境を用意することは大変難しいといえます。
同世代の子ども達が学校で学び、経験していることを、家でやろうとすれば、大人の側も相当な知識と技能、準備、環境調整が必要になります。
別の言い方をすれば、なにかあるとすぐに「学校教育ガー」と言われますが、多くの先生たちは優秀であり、学校という環境は恵まれているといえます。
ですから、なおのこと、空白の時間を作らない。
そのためには、普通級でも、支援級でも、成長し続けられていることが何より大事なことです。
将来的なことをいえば、普通級に在籍している方が、選択肢が多いのは事実です。
でも、普通級にいることが多くの選択肢を得られることにはなりません。
本人が成長し続けることで、目の前に現れた選択肢を掴むことができる。
親御さんの強い意向で、普通級へ転籍した子もいましたが、結局、本人の成長にはつながらなかったため、支援学校、福祉の世界へ行ったという話もあります。


一昔前のような一度、支援級に在籍したら、「進学は無理」「一般就労も無理」「将来は福祉」ということは、だいぶ薄れてきたと感じます。
子ども自体が減っていますし、発達障害を持つ子達も特別な存在とは見られなくなってきています。
ですから、社会の方にも選択肢が増えたのだといえます。


しかし、その「選択肢が増えた」という変化は良かった反面、その子個人が問われるようになったともいえます。
普通級にしろ、支援級にしろ、ただ在籍しただけではどうにもならなず、そこで何を学び、どんな成長を遂げたのか、が問われるのだと思います。
「支援級にいました。ですから、高校でも、御社でも、同じような配慮をお願いします」は無理な話です。
同じように、「発達障害はありますが、普通級に在籍していました」というだけでは、「はい、そうですか」で終わってしまいます。
在籍よりも、「あなたは何を学び、成長したのか」「あなたには、何ができますか」の時代です。


そういった意味でも、学校という場を最大限に活かすために、その子がより良く学べる環境を用意していくことが肝要だといえます。
そのときのポイントは、本人の認知的スキルです。
よく「同じように体験させたい」という理由から、普通級を望まれる親御さんがいますが、学校は体験教室ではなく、一番は学ぶ場ですので、認知的に見て、普通級で学べるか、が重要になります。
認知的な差、不一致がありますと、当然、その場にいるだけのお客様になります。
お客様になると、受け身になり、学習にはつながりません。
大事なのは、主体的に学ぶことですから。
そのためには、やっぱり認知的に理解できる段階まで育っていることが必要です。


また、その認知的なスキルには、学習の土台である発達も含みます。
座位や立位の姿勢保持や、手や指の使い方、感覚の育ちや自分の軸、基本的な運動の発達が完了していることが基本になります。
いくら授業の内容がわかったとしても、基本的な動作、身体、感覚に未発達、ヌケがあれば、授業を受け続けることが難しくなります。
小学校の中学年以降、不登校になる子の中には、この土台の部分の未完成により、学校自体がしんどくなり、結果的に授業についていけない、学力低下、意欲の低下と繋がってしまう場合も少なくありません。
特性云々、支援云々、普通級より支援級という話ではなく、発達という土台の不安定さから、身体がしんどいだけです。


そういった意味で、家庭での取り組みが重要になります。
それは、学習面のフォローという意味ではなく、やっぱり子育てを通して、いかに発達の土台を培っておくか、未発達&ヌケを1つでも多く育てるか、です。
そこが育たない限り、普通級が、支援級が、といった話にはなりません。
学校はあくまで学習する場であって、発達を促す場所ではありません。
教科の時間を削って、「呼吸を育てましょう」「栄養を整えましょう」「感覚刺激を存分に味わいましょう」とはなりませんし、なっても困ります。
学校が教科を教えなくなれば、ひと昔前の特殊学級、養護学校のような空白の12年間へ逆戻りになります。


未発達や発達のヌケを育てていくことで、適切な学びの場、教育内容と目標が変わっていく。
そうなったときに、初めて「交流学習を増やそうか」「普通級への転籍はどうか」という話題になるのだと思います。
未発達や発達のヌケ、つまり、発達という土台が育つことで、学習の準備が整うことになる。
学習の準備が整うということは、本人の認知的なスキルが上がるということです。
本人の今の認知的スキルから見て、支援級が合わないなら、普通級の方がより良く伸びる、学習できるとなれば、是非、転籍を目指してください。
決して、「普通級に在籍したから伸びる」という順番ではありません。
過去に何人もの子ども達が、それでつらい経験をしてきたのを見ました。
私自身も、あのとき、もっと強く言えていたら、きちんと納得できるくらい上記のような説明ができていれば、と後悔することもあります。
発達の土台が育つ→認知的なスキルが向上する→交流級増or普通級転籍の流れです。


単に「学力だけつければいい」という話なら、在籍する教室はどこでもよく、なんなら塾に行って、家庭教師をつけて、なんなら学校に通う必要もない。
でも、どれだけ正確に多く記憶できるかが評価される時代は、とっくに終わっています。
これからは、主体的に学び、自分で答えを見つけていく時代。
答えのない問いに答えを導き出していくには、お客様では無理です。
たとえ、支援級にいたとしても、お客様ではなく、自分で課題を見つけ、答えを出していく主体性が求められます。


「うちの子には、発達障害があるから…」というのは、逆差別です。
発達障害があろうとなかろうと、主体的に学ぶ姿勢を培っていく。
そのためには、認知的な不一致が起きてはなりません。
それが、その子をお客様にし、受け身の姿勢を養うこととなりますので。

2020年4月5日日曜日

【No.1042】普通級転籍には、それなりの『準備』と『交渉』が必要です

北海道は、明日から新学期&登校が始まります。
しかし、首都圏を中心に陽性者が増え続けている地域では、まだ通常登校まで時間を要するとのことです。
このような状況が続くと、日々の生活の中での心身の疲れも心配ですが、いざ、休校が明け、登校が始まったあと、授業に集中できるか、学校に通い続ける体力が続くか、リズムを取り戻せるか、も心配になります。


夏休みのような長期休暇でも、新学期後は乱れる子が多いのに、今回はいろんな制限、また心身のストレスもあると思いますので、学校が再開後、不登校や問題行動、意欲&集中力低下など、様々な面で、あとから子どもへの影響が出てくるように感じます。
休校が伸びた地域の子ども達は、より再開後のことをイメージした生活が望まれます。
たとえ、自分の家が生活を整え、いろんな学習の準備をしてきたとしても、他の家庭は分かりませんので、そういった影響も考慮しながら、我が子の学習の機会を守っていく必要もあるように感じます。


新聞やネットなど、メディアでは、休校が続くことに対する意見や影響が報道されています。
その中で気になるのが、支援級、支援学校に在籍する子ども達に関する記述です。
普通級の場合、学習の遅れや受験などを心配する声、論調が主なのですが、支援級、支援学校に関しては、「生活のリズムが乱れ、親子とも、大変」「変化に対応できず、問題行動が出て困っている」「登校することで、ストレス発散になっている」などの声が目立ちます。
とても驚いたのが、どこかの大学教授の「日中、学校という預かってくれる場所がないと、家庭は疲弊していく」という発言でした。
おいおい、いつから学校は“預かってくれる場所”になったのか。
どうして、普通級の子ども達のように、「彼らの学ぶ機会を」とか、「学習の遅れが心配だ」とか、「進路への影響が」とか、そういった論調、声が出てこないのか。
日頃、アピールするときには使われない言葉が、あらゆるところで見られます(脇が甘い)。
こういった非常時には、本音の部分、繕っていた認識が表に出るのだと思っていたのでした。


実は、この春から、支援級から普通級へ転籍する子ども達が数名いました。
しかし、その中には新学期の始まりが伸びてしまった子達もいて、親子共々、残念に思っているというお話が届いています。
せっかく頑張って、実績を積み、また認められ、転籍が叶ったのに…。
さあ、普通級で、新学年を頑張ろうとしていた矢先だったのに…。
その無念さも伝わってきて、私も残念に思うのですが、どのご家庭も、転籍に至るということは、それだけ前向きに行動できる方たちなので、いくら休校が伸びようとも、今の子の時間も大切に過ごし、乗り越えられると思っています。


「転籍」と一言で言っても、その道のりは大変なものがありました。
まずは、一度、「支援級が妥当」と行政的に判断されたものを変えていく、という点です。
特別支援教育の理念上、本来なら、その子の発達、成長と共に、最適な学習の場を変えていける、変えていくべきなのですが、なんせ、前例主義の学校なので、なかなか、「じゃあ、新学期から普通級ね」とはなりません。
たとえ、支援級で学力がついても、それはあくまで「支援級にいたから身についた」という評価になり、「このまま、支援級で」となりやすいです。
実際、同学年の教科書レベルの学力が身についた子がいましたが、「これは支援級という環境で学んだからです」「普通級の一斉授業になると、ついていけなくなりますよ」「普通級はいじめもあるし」などと脅しのようなことを言ってくるケースもありました。
あとは、「交流の時間を増やしていきますんで」と、転籍はしないけれども、普通級の時間を増やす、という提案も、よくあるパターンです。
それだけ自分が担任の間は、前例を覆したくないし、作りたくないし、リスクを取りたくない、というのが基本的な姿勢だと感じます。


そして当然、普通級へ転籍するには、一斉指示、一斉教示で理解できなければなりませんし、普通級は普通級で様々な子ども達がいるわけです。
何も、診断がついている子だけが大変なわけでも、問題を起こすわけでもありません。
一緒に学ぶ子の人数が増えるということは、それだけ刺激も増えるということ。
そういった教示の仕方や環境の違いにも対処できるだけの土台が育っている必要がありますし、学習面だけではなく、こういった部分も養っていかなければなりません。


あと、大きいのが、45分、座っていられるだけの姿勢、体力です。
就学すると、普通級の子ども達は、45分授業を受け、5時間、6時間と学校で過ごすわけです。
その間、支援級では、同じように45分単位で座っての授業を行っているか、教科学習を同じ時間数行っているか、といったら、疑問に思うところ。
「プリント1枚やって、あとは余暇エリアで」「朝の会がやたらに長い」「なんだかわからないけれども、とにかく調理学習(ていうか、給食の前におやつの調理は止めようよ)」…。
当然、新一年生は、45分座ってられないし、午後の授業まで集中力も、体力も持たない。
それでも、続けていくうちに、一年生、二年生と少しずつ身についていくのです。
その学ぶ姿勢を培っていく機会が、最初から普通級の子とは大きな差があります。
ですから、発達的にも、学習的にも、普通級で大丈夫、だけれども、45分×5時間、6時間が無理で、転籍を諦める子もいます。
この学ぶ姿勢は、家庭や習い事などでフォローしていく必要があります。


こういったことを考えながら、個別に課題をクリアしていく。
それには、どうしても1年、2年と、かかってしまいます。
まとめますと、支援級からの転籍には、自分が支援級に在籍してきた同じ時間で、普通級の子達が学んだこと、経験したこと、身に付けたことをフォローしておく必要があります。
また、当然、就学時、「普通級よりも支援級が望ましい」という何か発達上の課題、遅れがあったのは事実ですので、そこは育て直しておく。


そして、ここが一番の山なのですが、学校側との交渉です。
学校は前例主義で、特に教育委員会、その前には医師からの診断、意見書が出た上で、会議を行い、決定されたものに対して“変える”、しかも自分が担任のときに、というのは、なかなかハードなものです。
親の要望で、一担任の意向で、なんて簡単に変えることはできません。
それに、管理職も、担任も、数年おきに変わります。
ですから、転籍を勝ち取るためには、具体的な理由と客観的なそれが望ましいという根拠を示し、また転籍後、一番学校側が気にするリスクに対する対策案を提示し、かつ、最後には人間同士なので、学校内に賛同してくれる人を増やしていく必要があります。


私は教育大出身で、同期はほとんど教員なので、そういったネットワークも利用しながら情報を集め、交渉のアイディアをお伝えするくらいしています。
それでも、なかなか認められないことの方が多く、結局、小学校6年間は支援級で過ごし、中学受験をして普通教育へ移っていった子ども達も少なくありません。
っていうか、相談のたびにいつも思うことですし、これを書いてて湧き出てくる感情ですが、どうして、家庭が、親が、実績を作り、学校側に認めさせるか、意味が分かりません。


普通、学校という場で指導している先生の側から、「普通級への転籍はどうですか」「もう大丈夫だと思いますよ」「同年齢と一緒に学ぶ方が、〇〇くんは、より成長できると思います」なんて、親御さんに提案があるべきなのに。
実際は、交流学習の時間を1時間、増やすのも、親が難儀する有様です。
就学時、適当だった学び舎が、ずっと最適なわけはありません。
子ども達は、日々、成長しますし、変化しますので、その時々で適当な場所を、学びの機会を考え、提供するのが、学校の役目、特別支援教育の意義ではないでしょうか。
それを6年間、考慮することなく、また本人の実態、成長を更新することなく、同じ教室に留めておくなんて、学校は何様?と思ってしまいます。


6年間、支援級という事実は、そのまま、中学へ引き継がれます。
中学校3年間、支援級だったという事実は、受験、内申書にそのまま書かれます。
今は、高卒認定や通信制の高等学校など、選択肢があります。
でも、そもそも普通高校も含めた中の選択肢だったら良いのですが、「普通高校が無理だから、高卒認定、通信制」というのは違うと思います。
元支援級、支援学校だった若者たちと話す機会もありますが、彼らは発達障害以前に、学びの機会、選択肢が少なかったと感じますし、そこを辿っていけば、就学時の選択、小学校での学び、周囲の考え方、認識と、ぶつかります。
特別支援教育が始まって10年以上経ちますが、まだまだ理念が体現されていくまでに時間がかかるような気がしています。


今回、ネットを使った学習が展開されるようになり、「そもそも、学校に通う意味は?」なんてことも言われています。
しかし、学校は単に学力を身につけるだけではなく、もちろん、それが学校の中心であることは疑いもないことですが、通い続けること、座位を続けること、一斉授業の中で自分をコントロールし学び続けること、自分の思い通りにいかない他者という存在を子ども時代に味わうこと、他者や集団での共感、共有、単純に刺激を受けるだけではなく、自分が刺激を与え、変化が生じることを体験すること、など、挙げればきりのないくらい、その意義、ある意味、ライブ感の刺激の交流には、数値化されない学びがあるのだと思います。


理想で言えば、もっと流動的に、子どもの学び舎、教室が変わっていけると良いですし、学校側がリードするように、支援級→普通級の転籍の提案と指導、教科ごとの選択ができていくと良いと思います。
それには、やっぱり転籍し、伸びやかに成長していける子ども達を増やしていかなければなりません。
案外、1名、前例ができると、すんなり「転籍、いいですよ」となりやすいです。
その当時の担任の先生が、味方になってくれる場合もありますし。
無事に新学年が始まり、楽しみにしていた普通級での学びが始まりますようにと願っています。

2020年4月3日金曜日

【No.1041】『発達』と『学習』は別もの

欧米ではDVが増え、日本では「コロナ離婚」なる言葉が流行っているようですね。
コロナの影響で、顔を見合わせる時間がグッと増えた家族。
その家族の時間をポジティブに楽しめる家庭もあれば、それがストレスとなる家庭もある。
何故、家族同士でもストレスになるかといえば、相手に「こうしてほしい」「ああしてほしい」などの理想を勝手に抱き、その通りにならないギャップにストレスを感じているのだと思います。
そもそも、家族であったとしても、自分とは別人格なので、最初から何かを期待する方が間違っているといえますが。
もし、自分の期待通りに他者が動くとしたら、それは洗脳に違いありません。


いろんな親御さんと関わっていると、みなさん、我が子に対して大きな期待をよせているのがわかります。
当然、愛する我が子ですから、親として期待するのは当たり前。
でも、その親の期待は必ず裏切られるものです。
親の期待や想像を裏切るような行動をし、成長を見せるから、子は親を超え、自立することができる。
別の言い方をすれば、親のイメージの中で終始している子は、親元を離れての自立は難しいでしょう。
それは、不登校やひきこもりの人達と関わり感じたこと。
そして支援者にとって支援しやすい子がいつまでも自立できず、一方で支援を受けていたとしても、ある時期を境に「No」と言えた子から自立していく姿を見てきて気づいたこと。


期待するのは、自由です。
でも、その子本人とは切り離して考えるべきだと思います。
「ああなってほしい」は、周囲が勝手に思っているだけで、本人には関係ありません。
「自分の期待」と「本人の主体性」の境を曖昧にすると、我が子との生活がストレスになり、子育てが洗脳になります。


「なんで、これができないんだ」
「どうして、課題がクリアされ、育っていかないんだ」
というのは、本人にそのための準備が整っていないだけ。
特に、身体や感覚、ヒトとしての土台となる胎児期から2歳前後の発達にヌケや遅れがあると、何かを教えよう、身に付けさせよう、問題を無くそうとしても、無理な話です。
それこそ、強制し、矯正し、洗脳するしかありません。


いろんな相談を受けていますと、この辺りの認識の違い、曖昧な捉え方が、親御さんの悩みの根っこに繋がっていると感じます。
中でも、これは支援者、教育者にも多いのですが、「発達」と「学習」の違いです。


発達障害の子に、何かを教えようとする。
たとえば、服の着脱衣としましょう。
着脱衣は、人間しかしないので、学習の側面が大きいといえます。
その方法を身振り手振りで教えたり、何度も練習したりすると、できるようになる子がいます。
そういった子は、着脱衣ができるだけの準備ができていた子だといえます。
その準備とは、腕を通すときの動作であったり、ボタンをつまみ止める指の動きだったり、自分の身体の範囲がわかるという感覚の育ちだったりします。
つまり、教えたからできるようになったわけではなく、土台である発達という準備が整っていた上に、本人が学習したからできるようになったのです。


私は施設職員から教員になったわけですが、そのとき、強い違和感を持ったのがこれです。
どう考えても、発達という土台ができていない子に、なんとか学習させようとしている姿。
それが教育だと言われればそれまでなのですが、鉛筆が正しく持てない子、座位を保つのが難しい子に対して、教科を教えようとする。
それで、当然、発達的に準備が整っていないのですから、それは身体的にも、感覚的にも、脳の発達的にも、本人も理解できないし、身につかないのです。
その姿を見て、教え方がどうだ、教材がどうだ、教室の環境がどうだ、挙句の果てに「家庭ガー」「障害特性ガー」が始まる始末。
いやいや、発達検査でも、その年齢がでているのに、おかまいなし。
2歳数か月とか、3歳数か月とかいう発達年齢の子に、国語の漢字は難し過ぎます。


分かりやすく単純に言えば、発達とはヒトの部分、動物の部分です。
学習とは、人間の部分。
発達障害と言われる子ども達は、この動物の部分、ヒトから人間へと進化する過程の中に、課題がある子達だと考えられます。
親御さんが育むこと、そして発達援助を行っている我々がアプローチするのは、この動物としての育ち、胎児期から言語獲得までの発達でしょう。


この辺りがきちんと理解できていないと、発達という土台の準備ができていない子に、何度もチャレンジさせたり、練習&指導したりしてしまう危険性があります。
当然、いくら練習しても、指導しても、時間をかけても、できるようにならず、その自分のかけた労力に比例して「こうなってほしい」が大きくなり、結果的に落胆からのストレス、または諦め、「どうせ、障害だし」となる。
その子の発達を視ず、学習させようとするのは、強制であり、洗脳です。


本来、特別支援教育とは、その子の発達をベースに、教育が展開されていくはずなのに、正直、現状は、「普通級のレベルを下げたものを繰り返し、覚えるまで続ける」みたいな印象を受けます。
本人の発達がリードし、学習内容が設定されていくべきなのに、教員が設定した学習内容にその子を引っ張り上げるようなイメージです。
そりゃあ、いつまで経っても、学習が進んでいかないわけです。


親としての期待が外れれば外れるほど、その子は主体的に自分の発達を遂げているのだと思います。
どの子も、親の思い描いた通りに成長したら、おかしいですよね。
親のイメージの範囲でしか成長できていないとしたら、むしろ、それは危険なことなのです。
私達大人だって、みんな、親の期待を大きく裏切り、大人になり、社会人になり、自分の家庭を築いているはずです。
期待はあくまで自分の胸の内に。
そして、我が子には、我が子らしく伸び伸びと発達、成長してもらう。
そのための土台作りが子育てであり、私達が行おうとしている発達援助。


それは“発達”なのに、“学習”のように捉えてしまっているから、「もう身につくはずなのに、まだ身につかない!」「これだけやったから、できるようになるはずなのに!」と積み上がっていく理想を重ね、そのギャップにストレスを感じてしまう。
でも、それは“発達”だから、親や教師、支援者の思う通りには進まないし、なってはいかない。
発達とは誰のものでもなく、本人のモノだから、本人の内側から湧き出てくるものだから。
この辺りが頭の中で、感覚的に整理できていると、いつもよりも長くなった家族の時間を、子育ての時間を愉しむことだできるはずです。
“発達”と“学習”は別もの。

2020年4月2日木曜日

【No.1040】子育ての“方向性”

3月は予定していた出張がすべて中止になり、道内の予定も、緊急宣言が出ていましたし、濃厚接触の危険性がありますので、ほとんどを見合わせました。
こういった日々を送っていますと、起業当初を思いだすこともありました。
ちょうど7年前の2013年4月2日から事業を開始したのですが、当時は学生時代から前職までの間で関わりがあった人達からの仕事オンリー。
なかなか新規が増えない時期が続き、もどかしかったときの感情を今でも思いだします。


今回も似たような状況ではありましたが、全然、焦りはなく、むしろ、「この期間に、あれもしたい、これもしたい」という想いばかりで、世が落ち着いたら、今まで以上に頑張ろうという気持ちでみなぎっています。
それは、この期間中も、毎日のように相談があり、また出張の問い合わせや依頼、日々更新するブログへの多くのアクセスがあったからです。
8年前と心持ちが違うのは、このように共感し、応援してくださる皆さまが全国にいるからだと思います。
ですから、「個人事業主、フリーランスは、その人が好き好んでやっているんだから、こんなときだけ補償を求めるなよ」と毒つきながらも、「やるべきことをしていれば、見ててくれる人がいる」という想いでポジティブにいられました。


さて、年度の切り替えの時期である3月4月のご相談、ご依頼は、この1年間の振り返りと次年度、今年度に向けてが中心になります。
特に年長さんになるご家庭は、半年後には就学時健康診断があるわけです。
この時期にしっかり振り返りを行い、就学までの準備を頑張りたい、と思われている親御さんがたくさんいるのがわかります。


一年間の振り返りだけではなく、通常の発達相談でも、「私の方法は合っていますか?」「子育ては間違っていませんか?」という言葉が多く聞かれます。
また、なにかお子さんに課題が出てくると、目に見えるような成長がないと、「私の発達援助の方法は間違っているかも」と心配される親御さんもいます。
しかし、そのような相談や悩みがあったとしても、私はあまりその具体的な方法、やっていることには注目しません。
それよりも、全体的な発達の流れ、お子さんの雰囲気、家族の関係性、空気はどうか、に注目するのです。


基本的に、親御さんが行っている育みを、お子さんが受け入れてくれるのなら、心地良く感じているのなら、やり方がどんなんでも良いと思います。
第一、私の根本的な考えとして、こういった親御さんの育みというのは、補助であり、後押しの一つでしかない、と捉えています。
確かに、子どもさんの場合、親御さんの子育て、選択、行動の影響を受けやすい。
でも、それはあくまで環境としてであり、やっぱり発達の主体は本人、お子さん自体です。
その子が夢中で行っていること。
何度も何度も繰り返し行っていること。
名も無い遊びが、その子の発達そのものだと、私は考えています。


ですから、あまり神経質に、「これで合っているか、間違っているか」「回数はどうだ」「力加減はどうだ」なんていうのは気にしなくて良いと思います。
繰り返しになりますが、本人が受け入れてくれて、心地良いと感じているのなら、それで発達の後押しになっているはずです。
よって、成長に停滞やゆっくりさを感じるのなら、そういった時期であり、その子の発達の仕方なのでしょう。
子どもの発達の特徴は、停滞の時期、つまり、なんも変化がないな~と思っていたら、急にできるようになる、というものです。
大人のように、少しずつ右肩上がりで上ってはいきませんし、できたり、できなかったり、波を繰り返し成長していきます。


私はよく「方向性は間違っていませんね」「方向性は合っていると思います」という具合に、「方向性」という言葉を使って、振り返りを表現します。
最初に相談があったとき、その子の胎児期から現在に続く発達の流れ、物語を確認するわけですが、それによってある程度、未来の姿が見えてくるものです。
実際に言葉で、「半年後は〇〇ができるようになっていると思いますよ」「〇〇という発達課題は、遅くても夏くらいまでには育ちきっているはずです」など、親御さんに伝えることもありますし、伝えなくても、発達相談をしながらイメージするわけです。


その将来のイメージから見て、その姿と重なっていれば、それまで行ってきた家族での育みの方向性は合っていると言えますし、イメージ以上の成長が見られれば、親御さんの後押しが強力で、本人のニーズとドビンゴだったといえます。
それって素晴らしいことですし、それ以上の「正しい」なんていうのはないと思います。
本人が、前に前にと進めていけれたのなら、どんな子育てでもOKです。
正直、細部にこだわっても、親御さんが神経質にやり方を調整しなくても、子は育ちます。


と言いますか、虐待のようなものはもちろん影響を及ぼしますが、親御さんの関わり方をちょっと変えたくらいでは、子の発達、成長を止めることはできませんし、そんなに影響はないはずです。
そういう支援者の私だって、その子の発達に影響を及ぼす、左右するなんてことはできません。
できるのは、その子の発達の流れに沿った後押しをして、ちょっと発達を加速させる、より伸びやかな環境、刺激を作りだす、といったところです。
発達を決めるのは本人であり、本人の内側にある力と資質。
周囲の我々は、その子の発達を変化させる存在ではなく、後押しする存在。
その子の内なる発達の流れを変えようなんていうのは、神様じゃなきゃできません。


一年間を振り返り、「ああ、我が子は成長しているな」「こういったところが伸びているな」と思えたら、子育ての方向性は合っていると思います。
あれをやったから、やらなかったから、などと思う必要はなく、大事なのは本人の発達の流れを止めないこと、心地良く明日も、明後日も、一年後も流れ続けてもらうこと。
「あのとき、あんな関わり方、子育てをしたから」などと反省はしても、後悔する必要はありません。
だって、1つや2つの失敗、過ちで、子の発達の流れは変わらないから。
それよりも、こうやって日々、発達成長していることを喜んだ方が良いと思います。
子どもさんだって、そう思っているはずですよ。


それに、自分の親だって、全部正しくて、非の打ち所がない素晴らしい子育てをしていたなんてあり得ません。
自分の親だって、他の親御さんだって、試行錯誤しながら、日々、悩み、後悔しながら、私達を育ててきたはずです。
なので、我が子が内側に秘めている発達する力を信じること。
「私が発達させよう」ではなく、「我が子が伸びやかに、今後も発達、成長できるように環境を整えよう」と思うことが大事だといえます。


今日から始まる8年目も、その子の発達する力を信じ、そのためには発達の流れを見極める目を磨きつつ、より伸びやかになる発達相談、援助を行っていきたいと思っています。
そして何よりも、関わったご家族が、今しかない家族の時間を楽しみ、幸せを感じられるような後押しをしていきたいと思います。
8年目のてらっこ塾、大久保を、よろしくお願いいたします。

2020年4月1日水曜日

【No.1039】言葉は言葉のみにあらず

前回のブログ、言葉の発達について綴ったものに対して多くの反響がありました。
感想やさらなるご質問をくださった方達もいらっしゃいました。
それだけ関心があり、同時に悩まれている方も多いのだと感じます。
確かに、運動面や学習面の遅れよりも、インパクトは強いといえます。


進路選択の上で、「就学前までに」という話の流れでしたが、就学までに言葉が出なければ、それ以降の発達も難しいか、といったら、そうではありません。
就学時に、一言もしゃべれなかった子が、今では一般就労して(しかも店内の勤務)働いていますし、ずっと喃語しか出なかった子が、中学生になってから言葉が出るようになった、私の知る限りでは、成人してから単語レベルの言葉が出るようになった、という人もいます。
このように、本人の問題ではなく、教育行政、制度の問題のため、「就学前」とは言っていますが、それ以降も言葉の発達はみられます。


施設で働いていた時も、知的障害の重度、最重度と判定された子が、学年が上がるたびに、言葉が増えてきて、ずっと絵カードでコミュニケーションをとっていたいましたが、それを使わないで、やりとりができるくらいまで成長していきました。
そういった子ども達は、一人二人という特別な話ではなく、重い知的障害を持った子であっても、少しずつ言葉が育っていった子が何人もいました。
ですから、どの子にも言葉の発達の可能性はありますし、その育てる方法は、前回記した通りです。


このように、行政的な視点を取っ払えば、言葉の面でも、生涯育ち続けるし、発達のスピードは人それぞれで何の問題もないはずです。
ただ再三申し上げるように、一つ就学が大きなポイントになっていますし、そこで「言葉がないから重度ね」「普通級は無理だね」と決められてしまい、その後、いくら本人が発達、成長しても、親御さんが頑張っても、「支援級が妥当」「支援学校が妥当」という行政的な判断がついて回り、それを覆すには、相当な労力が必要というのが現状です。
もう少し柔軟に、それこそ、発語原理主義が変わっていかない限り、こういった問題は起き続けていくと思いますが、ただ憂いているだけでは変わっていかないのも事実です。
たぶん、上記でお話ししたような就学後も言葉が育ち続け子ども達、成人後に言葉が出始める人達の存在を多くの人が知らないし、言葉があとから出たところで、前例主義の態度が変えられないのだと思います。


これも度々申し上げていますが、発達が遅れること自体は、障害でもなんでもありません。
ただ現時点で遅れているだけ。
目の前にいる子は、障害児ではなく、発達に遅れがある子です。
なので、それこそ、生涯をかけて育っていけばいいのであって、発達がまったく生じない子がいれば、そのとき、初めてその子に「障害」という概念がくっつくのだといえます。


言葉の遅れがあると、今ではすぐに「自閉症」だとか、「言語障害」「知的障害」などと診断名がつきますが、それは「一生伸びない」という意味ではありません。
しかし、その説明が十分になされているとは言えない状況がありますし、「いやいや、障害だから、ずっと変わらない」という具合に、昭和の頭から切り替えられない人々もまだ残っています。
現時点で、「障害の診断基準に当てはまる」というのと、「その後、生涯に渡って診断基準を満たし続ける」というのは、イコールではないわけです。


自閉症も、言語障害も、知的障害も、言うならば、ADHDも、LDも、発達性協調運動障害も、全部、神経発達、ネットワークの表現型の一つです。
便宜上、共通性のある表現型を括って、なんとか障害と言っているだけです。
個別に見れば、同じ障害名、同じ診断基準を満たしたもの同士であっても、神経発達の具合はまったく異なっているわけです。
ですから、その子が、その人が、生涯どのような神経発達を遂げていくか、なんか誰にも分かるはずがないのです。
ただ一つ言えることは、神経発達は生きている限り、生じ続けるということ。


生涯生じ続ける神経発達。
それをサポートし、後押しするのが、支援者、専門家の役目だといえます。
一度付いた診断名で支援を組み立てるのは、ただの前例主義のお役所仕事。
転入出の手続きじゃないのですから、一人の人の人生を右から左に流すようではいけません。
それこそ、生涯発達し続ける、大人になってから言葉が出る人もいる、みたいな正しい知識、前提から作り上げていく必要があるのかもしれません。
それくらい、特別支援の世界は遅れているってことです。


発語がない子が言葉を話すようになれば、過去の診断時とは違った結果になるのは当たり前。
知能検査の値も、ググッと変わるのは奇跡でもなんでもなく、自然なこと。
だって、神経発達は止まらないから。
今まで個別の症状に対する発達の促し方を支援者たちが知らなかっただけで、勝手に個人のせい、障害のせいにされていたのです。
もちろん、神経発達が盛んな時期と、そうではない時期がありますが、ゆっくりでも発達し続けるし、その発達の具合を左右するのは、刺激と環境です。
より良い刺激、そのとき、必要な刺激によって、発達が促されていくのですから、指をくわえてみていないで、前例主義で流れ作業みたいな仕事をしていないで、やれることとやるべきことはたくさんあるわけです。


成人した人に対しても、言葉の発達に繋がるような援助方法をお伝えしています。
当然、諦める理由がないから。
ゆっくりでも育っていけば良いですし、言葉は言葉のみで発達するわけではなく、全体的な発達の上に生じるのですから、結果的にその人の生活がラクになるわけです。
イメージで言えば、言語は認知の表れ。


「ずっとカードでコミュニケーションしてたんだから」
「代替の音声機会を使えば」
「今さら、いくつかの言葉を発せられたとしても」
なんてことは、よく言われます。
でも、言葉は言葉のみにあらずです。
言葉は、いろんな機能、運動、感覚と繋がっているのです。
概念と言葉もリンクします。


ですから私は、「行政的な判断材料となってしまうから」と「その人の全体的な発達に繋がるから」という二つの側面から、どうやれば、言葉の発達が促されるか、より良く後押しできるか、をテーマに追い求めているのです。
単純に言葉が出ればラッキーではなく、その人の生活全般、生活の質の向上と、認知的な向上による本人のラクのために、これからも探求し続けます。

2020年3月30日月曜日

【No.1038】言葉の発達とリズム遊び

「発語のあるなし」と、言語理解はイコールではありませんし、当然、その子の認知を表すものではありません。
しかし、診断や知能検査において、「発語のあるなし」は、その見え方に大きな影響を及ぼすのも事実です。
診断者の立場を想像すると、発語のない子を軽いとは診断しづらいといえます。
何故なら、そこに根拠が求められるから。


何度も言うように、現在の診断も、知能検査も、その子の部分を人為的に切り取っているだけです。
ですから、発語のない子に重い診断が下されることに対して、「どうして"重い"という結果なんだ」という指摘には答えやすい。
だって、「発語がないでしょ」「遅れているでしょ」と。
それは、ある意味、客観的な側面を持ちます。


一方で、発語がないんだけれども、実際は言葉の理解もあるし、認知も同年齢と同じように育っている子に対して、言葉では「重度ではないよね」「検査結果上は重度の範囲に入るけれども、実際は結構分かっているよね」とはいえても、数値上は、それを表すことはできないし、その根拠も示しずらい。
となると、紙面上は、行政へ提出する書類には、重度に偏りがちになりますし、受け取った行政、学校等は、医師から「重度」となっているものを、自分の判断で覆すのは難しく、また大部分の人は、「はい、そうですか」と紙面を見て、判断し、振り分けていきます。


いろんな不備や理由が絡み合い、現在のシステム上、「言葉のあるなし」は、その子から切り離され、独り歩きし、それが様々な判断、またいろんな人のバイアスとなるのです。
当然、言葉のない子は、重度の子として支援、教育されていきます。
ですから、ここ1、2年、私はどうしたら発語が促せるのか、何が発語の発達につながるのか、をテーマに勉強し、自分なりの答えを見つけようとしています。


以前のブログにも書きましたが、発語、音声言語はヒトの進化の過程で獲得したものであり、その原型は、リズムでした。
まだ明確な発語を持たなかったご先祖様たちは、リズムやダンス、踊りによって、他者と共感しあい、コミュニケーションをとっていたと言われています。
また、赤ちゃんの発達研究では、リズムにより反応する子、もう少し大きくなってから(1、2歳)ダンスのようなリズム遊び、運動をする子は、発語の発達が良いという結果も出ています。
つまり、発語とリズムは関係性が強い、と考えられるのです。


実際、親子でリズム遊びをしたり、楽器を鳴らすようなことをしたりしたご家庭で、「発語があった」「言葉の面で伸びた」という報告をいただいています。
まあ、私の発達援助は、総合的に見て、良いと思われる提案はすべて行いますので、いろんなことをやった中の1つに、「リズム」があったのは確かです。
ただ、私のここ1、2年の実践からも、リズムを楽しむことは、言語面の発達に良い効果があるように感じます。


また最近が勉強したことに、赤ちゃんは、そのリズムを聴覚からではなく、触覚と固有受容覚で感じ、理解しているという話がありました。
冷静に考えれば、私達も、耳からではなく、身体を通してリズムを感じているところがあると思いますし、音楽を聴くと自然と身体が動き出す、リズムをとりだすという姿も良く見ています。
順番で言えば、身体(触覚と固有受容覚)でリズムを感じたあと、聴覚的なリズムとして認識されるということ。


発語の発達と関連性があるリズムは、聴覚よりも、触覚や固有受容覚で感じ、育てている。
しかも、他の研究では、リズムは足でとっても聴覚的なリズムとしてつながらないが、頭が動くと、それが聴覚的なリズムへとつながり、より強くネットワークが築かれるということでした。
このことから、耳の内側である前庭系の育ち、発達も、発語の発達と強い関連性があることが考えられます。


胎児期、母体の中で、母親の心臓の動き、リズムを身体を通して感じ、生後は身体をさすられたり、トントンされたりすることで、リズムを味わい続ける。
寝ているだけの状態から、自由に身体を動かせるような状態になると、触覚が育ち、固有受容覚が育ち、前庭覚が育っていく。
そうなると、よりリズムを感じやすくなり、それが発語への準備となっていく。


よく、発達のヌケ、特に運動発達のヌケを育て直すと、言葉の発達が見られる、ということがあります。
これも、たとえば、ハイハイなどをやり直すことで、同時に身体全体の触覚が育ち、また自ら手や足で触ることで、筋肉と腱から固有受容覚が刺激され、育つ。
もちろん、身体を大きく動かせば、頭が揺れ、傾きなどを検知する前庭覚も刺激&育つ。
ということで、結果的に言葉の準備も進められていく、ということなんだと思います。


今まで発達相談で関わってきた就学前のお子さん達。
そのお子さん達の中には、発語がなかったり、言葉の遅れがあったりする子ども達も多くいました。
そういったお子さん達のテーマは、年長の秋までに発語が出ること。
実際、多少の遅れがあっても、発語があれば、もちろん、認知的な問題がなければ、そのまま、普通級へ進学していった子ども達がいました。
その子達は、就学後も少しずつ言葉を発達させていき、みんなと一緒に勉強しています。


一方で、ちゃんとこちらが言っていることも理解しているし、教科学習ができる準備が整っている子の中には、支援級、支援学校への決定がなされた子ども達もいます。
本来、その子がより良く学習でき、育つことが、特別支援教育なのに、機械的に振り分けられてしまったということもあるのです。
当然、普通級ではいじめの問題もあるでしょうが、そこは特別なニーズを持った子の問題ではなく、いじめる子の問題だといえます。


本人の内側にある育つ力、学ぶ力よりも、紙面や数値が意味を持つ時代は、まだまだ続きそうな気がします。
なので、私はこの仕事をしている以上、言葉の発達については、特に真剣に取り組み、答えを見つけていかなければならないと思っています。


胎児は既にリズムを感じることができています。
でも、身体、特に触覚を通してです。
生後は、そこに固有受容覚と前庭覚が加わり、リズムを味わうようになる。
そのリズムを感じることが、発語の準備となります。


ですから、言葉の遅れがある子は、触覚を、特に自ら触ることで、育てる。
何故なら、触覚で痛みや熱さ冷たさを感じるだけではなく、意識的に触ることで、モノの重さやバランスを感じることが、固有受容覚をも育てることになるから。
そして、そういった感覚が育ってきたら、前庭覚が刺激されるようなリズム遊びをたくさんすること。
リズム遊びやダンスは、言語発達を促すからです。


ただリズム感のある音楽を聴くのではなく、実際に身体を動かし、そのリズムを感じてみる。
そういった遊びは、療育に行かずとも、家庭の中で、親子の関わりの中でできること。
どうぞ、言葉の遅れが気になる親御さんは、お子さんと一緒にLet's dance !!

2020年3月28日土曜日

【No.1037】我が子の障害を願う人たち

以前から、周囲からの関心と、それによる心の安定を得るために、我が子の障害を重く見せようとする親御さんの存在は知られていました。
実際、そういった親御さん達と関わったことがありますが、どれだけ自分が大変か、そして頑張っているかなど、とにかく話がそちらばかりにいき、我が子のより良い未来については、話が進まない、否定ばかり、もしくはまったく関心がないようにも見えました。


中には、育てることで治っていく部分を多く持った子もいましたし、ここさえ育てば、だいぶ、本人はラクに生きていけるだろう、と感じる子もいました。
私から見れば、早く治してあげれば良いのに、と思うのですが、親御さんにその気がなければ、どうしようもないのが現実です。
世の中には、こういった本人ではない人の意思、考えによって、「治るもんも治らない」という場合が少なくないのだと思います。


こういった「自分への関心と心の安定」が目的である場合とは違ったケースにも遭遇します。
同じように、我が子に障害があってほしい&治ることの否定、興味なしは共通しているのですが、そして目的は心の安定も共通しているのですが、その目的へと向かう根っこが違います。
それは自分の関わり方、育て方によって、発達障害が発症したと強く思っている節があるのです。
「赤ちゃんのとき、スマホに育児をさせなければ」
「すぐに立ったことを喜び、どんどん歩かせようとしなければ」
「離乳食を食べないから、お菓子を与えていたけれども、それをやめておけば」
「外で遊ぶのが億劫で家の中ばっかりにいたのをやめておけば」
これは実母、実父だけではなく、祖父母に表れることもあります。


そういった強い後悔が、これから挽回しよう、より良い子育てに変えていこう、自分も成長していこうへと向かっていけば、強力なエネルギーとなるのですが、あらぬ方向へ向かうと、子どもの発達、成長を阻む一番の壁になることがあります。
どう考えても、障害ではないし、定型発達の範囲の中にいるのにも関わらず、「いや、この子は障害があるんだ」「障害があるから、治るなんてないんだ」と言い張る人もいます。


そのような人は、私に相談した理由が明確です。
治るという考え、方向性で支援している人に、しっかり「治らない」「それが難しい」「障害だ」と言われたい、というもの。
最初は、また相談の依頼のときは、「どうしても治したい」「治ることをやりたい」という感じで訴えてくるのですが、いざ、直接関わり、アセスメントし、その見立て、育て方の話になると、全力で否定してきます。
「もしかして、〇〇くんに障害があることを望んでいるのですか?」と、直接、私は言うこともあります。
お仕事で行っていますが、はっきり言って、大変不快ですし、仕事を受けたことを後悔します。


家族間、親族間に、こういった人が一人いると、その家庭は、ひっちゃかめっちゃかになります。
夫婦間の不協和、親族間の不協和です。
当然、そのお子さんのより良い発達など望めませんし、子育て、発達援助どころではなくなります。


「発達障害が治る」という点に対しては、一般的な家庭でも認識の違いが出やすいのですが、そういった考え方、認識の違いを飛び越え、(自分の安定のために)我が子の障害を重くしたい、重く見られたい、明らかな生まれつきの障害であって、私の関わり、過去は関係ないとしたい、といって足を引っ張る、わざと発達に繋がらないような環境、状態にしておく、という人がいるのも事実です。


本人の伸びる力、成長する力、障害を飛び越えていこうとする力を発揮させられないこと。
それが一番の味方であってほしい家族から阻まれていること。
私が発達相談で関わらせていただくご家族のほとんどは、本気で我が子のより良い成長と未来へと行動される方達ですが、中には、こういった家族がいて、悲しい想いをすることがあるのです。
本人の意思、願いと違うところで、未来が奪われていくのは、つらい。


親御さんの心理状態、生活環境を改善し、少しずつ、こういった考えから脱し、結果的に子の成長を喜べるようになった家庭もあります。
でも、その場合は、時間がかかりますし、他の協力者を得る必要もあります。
また、私は絶対に譲らないので、支援の継続が打ちきられることが多いです。
ですから、私の時間も、みなさんと同じ24時間ですので、現在はそういったご家庭とは関係を継続せず、「我が子のより良い未来を」と思っているご家族に絞って対応しています。
自営業は、お客さんに選ばれるだけではなく、お客さんを選ぶこともあります。


「身近な親族に、ママ友に、こういった人がいるんだけれども、どうしたらよいでしょうか?」という相談を受けることもあります。
私の経験から思うのは、関わるだけ時間の無駄。
その時間は、我が子のために、同じ気持ちを持ったママ友のために使った方が良いですよ、と私はお伝えしています。
本気で、その人を、またその人の子を救おう、変えようとすれば、生半端な気持ちではできません。
いろんなものを犠牲にする覚悟も必要です。


なので、そういった想いを持った親御さんに対しては、救うよりも、共感の輪を広げていくことをお勧めしていますし、私個人としても願っています。
「ああ、あのおうちのように子育てしたい」
「あそこのお子さんのように、うちの子も育ってほしい」
前向きに頑張る親御さんの、家族の背中は、後に続く者の希望になります。
それは、私達支援者にはできないことなのですから。

2020年3月27日金曜日

【No.1036】これからの発達援助の原型

日本もそうですし、各国の報道を見ても、「若者の危機意識が足りない」「若者たちが街に出ている」と批判されていました。
25歳くらいまでは、まだまだ脳の前頭葉が発達途中ですので、自制が利きづらかったり、あえてリスクを楽しんだりするようなところがあるものです。


だからといって、こういった状況にも関わらず、好き勝手して良いわけではありませんが、とっくの昔に脳の成熟を迎えたはずのいい歳の大人たちも、海外旅行へ行ったり、陽性者が出歩いたりしていませんでしたかね。
模範や自制の助けとなるべき存在である大人たちがこうでは、若者たちだけ我慢しろ、というのは無理があるように感じます。
まあ、今は非常時ですので、こういった批判はするだけ無駄だと思いますし、買い占めなんかを見ていますと、ヒトとしての肌身で感じる、動物として感じる部分がますます退化しているのがわかります。


発達相談においても、「リスクとの向き合い方」がテーマになることがあります。
遺伝子は変えられませんので、変えるとしたら環境、刺激側になるわけです。
その環境の中には、発達障害発症の引き金となる要因がたくさんあります。
一つひとつを挙げればきりがありませんし、そういった一つひとつを考えていたら、「何を食べればいいの!?」「どこで生活すればいいの!?」と、とても子育てなんかできないと思われるはずです。
発達障害のリスク因子は、現代社会において、私達の身近に多く存在しています。
別の言い方をすれば、リスクの中で、私達が生活しているといえるでしょう。
ある意味、便利さと今の安心と引き換えに、未来へのリスクを背負っているようなものです。


このようなお話は、親御さんに尋ねられればお答えしていますし、お子さんの発達の流れから見て、それが発達のストッパーになっていると考えられるときには、こちらからお話しすることもあります。
ただ、中には、どうしても生活環境上、個人では変えられない部分がありますし、そういった場合は、できる範囲で避けたり、代替のもので対処したりすることで、発達を押し進めていくことができます。
あるご家族は、水を換えることで、心身の状態が安定し、発達が進んでいった子もいました。


しかし、実際のところは、リスク要因は具体的になっているものの、とにかく数が多いですし、それがその個人にどのように濃淡をつけて影響しているかはわからないし、そもそも確かめようがないのです。
上記の水の場合も、考えられるリスク要因の中からできそうなところをやっていって当たったという感じです。
もちろん、その“当たった”も定かではありませんが、結果的に子どもに良い変化があった、というレベルのものです。


発達障害は、遺伝子の障害ではありませんので、その発症には、なんらかの環境要因が加わったと考えられます。
では、その環境要因、リスク要因を、どう見抜いていくのか。
私は知識、情報、学問として、知っています。
そこにやはり親の直感、本能的な危険の察知能力が加わり、対処していくのです。


親御さんは、私が話をする前から、なんとなく気づいていることがあります。
そして、考えられるリスク要因を挙げると、すぐに「これが問題だと思います」「これを最初に変えた方が良いと思います」と言われます。
私が見たてから導き出した複数のリスク要因。
それを親御さんの直感、本能で嗅ぎ分けるという感じです。
そういった意味でも、親御さんの感覚の鋭さ、日頃から整えられているか、ちゃんと育っているか、が育てる面だけではなくて、こういったリスクから遠ざける面でも、問われるのだといえます。
私のように、ただ知識や情報だけ持っていたとしても、直感が働かなければ、「すべて怖い」「そんなリスクだらけじゃ、生きていけない。子育てできない」で終わってしまいますので。


便利さを享受した現代社会の中で子育てをしている。
それ自体は、どうすることもできませんし、すべての便利さ、今の快適さを投げうってまでも、文明から遠い環境の中で生きていくか、といえば、そういった選択をする人はほとんどいないはずです。
ですから、ここはヒトとしての感覚と、人間としての知恵によって、より良い子育てを目指していくしかないのだと思います。
リスクを嗅覚で感じ、感覚で判断し、知恵によって乗り越えていく。
リスク要因に溢れた現代社会の中でも、工夫と行動によって、より良い子育てはできます。
発達障害が発症したら、何の手立てもない、ということでは決してないのは強調してお伝えしたいと思います。


ここからは、私の個人的な妄想です。
「二人目も考えているんですが…」
「親にその気がある場合、子に遺伝するのでしょうか?」
そういった遺伝に関するご相談も少なくありません。
客観的な事実として、親から子への遺伝はありますし、親族、兄弟児にそういった特徴を持つ人がいれば、統計的に確率は高くなります。
でも、その確率は、100%ではありません。


なんらかの親族間で共通する遺伝子が、現代社会における環境要因の中のなにかに強く反応する、脆弱性を持っているのでしょう。
発達障害のリスク要因の話をすると、「そんなわけはない」「それが発症の引き金になるのなら、みんな、発達障害だ」などと言う人もいますが、一人ひとり遺伝子が異なりますので、同じ環境の中でも、その影響の違いは出るものです。


ですから、親族に発達障害を発症した人がいるという場合は、我が子が発達障害だという場合は、なにかは分からないけれども、現代社会の中の環境要因に脆弱性を持っている可能性が他の人よりも高いと考えるべきだと思います。
そういった人は、お子さんは、他の家庭よりも、環境に注意する必要がありますし、逆に言えば、環境を改善することが、発達障害を治す近道だといえるでしょう。
栄養を改善したら治った子は、栄養の影響によって発症した子、それが引き金になった子と考えられます。


これまで多くの発達障害を持つ人達、子ども達と接してきて思うのが、彼らはより原始的な部分を持ったまま進化してきた人達ではないか、ということです。
原始的な部分を多く持っていて、受け継いできたからこそ、現代社会の中で、大きな影響を受けてしまっている。
それが、ある意味、現代病でもある発達障害発症として現れている。


ヒトの進化のスピードと、文明の発展のスピードを比べれば、圧倒的にヒトの進化のほうが遅い。
ということは、発達障害を発症する人が増え続けていることも合点がいくし、文明の進歩にヒトが飲まれていくのは時間の問題だといえる。
いずれ多数派の発達障害者と、少数派の適応者に分かれていくだろう。


発達援助を突き詰めていくと、より動物的な環境を、ヒトとしての発達、成長を目指していくことになります。
そして、そういった名も無い遊びや、親子の関わり合い、自然環境の中での刺激が、発達障害を治す一番の近道になっているのも事実です。
現代社会の中で、どうやって原始的な部分、動物的な育ち、環境を目指していくか。
それこそが、これからの発達援助の原型だと、私は考えています。

2020年3月26日木曜日

【No.1035】触覚=受動的+(能動的⇔固有受容覚)

『触れる主体は誰か?』というブログを読んだ方から、ご質問がありました。
「本人があまり身体を触らせてくれないので、寝ているときに、マッサージをしているのですが、それって皮膚を育てることに繋がりますか?」というものです。
実は、こういったご質問は、他の方からも多く受けることがあります。


本人が寝ているときに、マッサージをする親御さんは少なくないように感じます。
親御さんに触れられること、穏やかな揺れや刺激は、眠っていたとしても、本人の心地良さ、安心につながると思います。
寝ているときだって、脳は絶えず動いていますので、皮膚から受け取った刺激を脳に運び、それが神経発達につながることもあるでしょう。
ですから、本人が寝ている間の皮膚刺激は、発達につながる可能性はあるといえます。


しかし、一方で、何を育てたいのか、何が本人の発達課題なのか、という点に注目する必要があるのです。
触覚と言えば、すぐに思い浮かぶのが、痛みや熱さ冷たさだと思います。
どちらかといえば、受け身の感覚であり、刺激のセンサーという面が大きいと言えます。
でも、私達が得る感覚刺激には、モノの大きさ、重さ、手触り、バランスなど、能動的に得る情報があり、検知するといった面もあります。


触覚には、受動的に得る感覚と、能動的に得る感覚がある。
そして、その能動的に触れることで得る感覚には、触覚だけではないのです。
ここが今日のポイント。
モノに触れることで、その形態を検知すると同時に、筋肉や腱などが刺激され、自分の姿勢や運動状態が検出されます。
これが固有受容覚、自己受容覚といわれるものです。


つまり、寝ている間のマッサージは、受動的に得る感覚を刺激し育てているのであって、能動的に得る感覚と、それに伴う固有受容覚は刺激されていないし、育たないということ。
図にすると、触覚=受動的+(能動的⇔固有受容覚)。
論理的に考えると、こういった図式になるのだと思います。


しかし、私個人的な経験、意見としましては、受動的に育つ触覚の部分も、ただ単に受け身的に刺激を受けているだけでは育ちが甘い、ゆっくりだと感じますし、考えています。
確かに、皮膚が過敏、皮膚で感じられる刺激の幅が狭いお子さん達がいます。
そういったお子さん達には、安心感がある親御さんからのスキンシップ、マッサージが育む面が大きいと思います。
でも、過敏なお子さんも、触れられるのは嫌だけれども、自分から触れていくことでは大丈夫な子も多くいます。
そこには、眠っている間の触覚刺激とは異なる意味や意義があるように感じます。


また、触覚は、1つの感覚として捉えない方が良い、といいますか、固有受容覚とセットで考える方が、子育て、発達援助では良いのでは、と考えています。
触覚に発達の課題がある子のほとんどが、姿勢や運動、自分という実態感の薄さを持っています。
ということは、何かに触れる感覚と、自分の姿勢や運動を感知する感覚とは、強い関係性があるし、影響し合っている感覚同士なんだと思います。


ですから、どっちかを育てるのではなく、どっちも育てる、という視点が、この感覚同士には必要な視点のように感じるのです。
私の発達相談でも、こういった課題があるお子さんに対しては、能動的に触れることを提案していますし、実際、能動的に触れる機会、遊ぶ機会が増えると、一気に両方の感覚が育っている姿を見ます。
あまり、「どっちかの感覚だけ育った!」という方にはお会いしたことがありません。


「日中できない分、せめて寝ている間だけでも」という親心は、とてもよくわかりますし、それ自体を否定するわけでも、意味がないと言うつもりもありません。
でも、考えるポイントは、なぜ、日中は触らせてくれないのか、触られるのは嫌だけれども、自ら触ることはなにかないのだろうか、という視点だと思います。
もしかしたら、自ら触れているモノ、感覚を、少しずつ広げていく、バリエーションをつけていく、という方向性のほうが、より良い発達へと繋がるのかもしれません。


また、寝ているまに触れることも、幼少期なら自然ですし、問題ないのかもしれませんが、ある程度、大きくなったときに、たとえ我が子とは言え、寝ている間、本人の同意がないままに、一方的に触れることは良いのだろうか、という問題もあります。
たとえば、小学校高学年の男の子の寝室に行って、母親が身体に触れる…。
これはアウトだと私は思います。
いくら発達のためとはいえ、同意がないのに他人の身体に触れることはいけません。
定型の子にならしないでしょうし、反対に我が子が同意のないまま、勝手に他人の身体に触れたら、全力で注意するはずです。


「本人があまり身体を触らせてくれないので、寝ているときに、マッサージをしているのですが、それって皮膚を育てることに繋がりますか?」というご質問に対する私の答えは、「皮膚はちょっと育つ。でも、触覚全体を育てたいのなら、固有受容覚を育てたいのなら、お子さんが能動的に触れる活動を通して育てられることをお勧めします」というものです。
胎児期の感覚の育ち、発達から見ても、触覚と固有受容覚は密接な関係にあることがわかります。


是非、我が子が何を能動的に触るのか、その触っているものから幅を広げてあげられないか、という視点で考えていただければ、と思います。
背中など、自ら触れるを連想しにくい部分であったとしても、背中を触られるのと、自ら背中を押しあてるのとでは違います。
自分の意思で、背中をモノに当てるのなら、それも能動的な触覚だと私は考えています。

2020年3月24日火曜日

【No.1034】自閉症特有の行動、自閉症の人にしか見られない行動

「ミニカーを走らせるわけではなく、並べるんです」
「車のタイヤや、換気扇が回るのを、ずっと見ているんです」
「まだ、言葉を話さないのに、ロゴやマークの字にこだわるんです」
「道順にこだわりが…」


こういった様子を話され、心配になり、相談に至る親御さんは少なくありません。
いわゆる、典型的な自閉っ子の姿ですね。
私が学生時代に持っていた本にも、そういった姿のイラストが描かれていましたし、映画やドラマでも、ミニカーを並べる男の子、変更が伝えられるとパニックになる子が登場していました。
今はどうか知りませんが、もう久しく特別支援系の本は手に取っていませんので、いまだに自閉っ子がそのように表現されているのだと思います。


学生時代は、そして数年前までも、このような姿を見かけるたびに、「ああ、自閉っぽいな」というような捉え方をしていました。
しかし、改めて胎児、乳幼児の発達を勉強し直し、多くの幼児期の子どもさん達の相談がくるようになり、そして自分自身が親になり、二人の子の発達、成長を見ていく中で、「自閉症特有の症状、行動」と捉えられていたものの多くが、単に未発達や遅れだったことに気が付きました。


親御さん達の多くは、また支援者の中にも、上記のような行動が確認されると、「自閉症かもしれない」「自閉症だろう」という想いが出てきます。
これは、特別支援の教科書、専門家の発言の影響からだといえます。
では、実際、発達相談でその子とお会いすると、そういった病的な感じはせず、単に発達が遅れているだけ、発達課題の途中経過ということばかりです。
なぜ、そう言い切れるかと申しますと、発達を後押ししたり、まあ、余計なことをしなければ、その段階から次の段階へと発達していくからです。
今を切り取ると、自閉症らしさ満載。
でも、発達の流れから見れば、途中経過であり、それもまた定型発達の流れに沿っているのです。
ですから、全然心配することなし、です。


このような経験から、最近では、「自閉症特有の行動などない」と考えるようになりました。
感覚過敏は、感覚系の未発達。
視覚優位は、聴覚系、三半規管の育ちの遅れ。
変更への抵抗、パニックは、周囲の情報が読みとれない=身体の範囲や軸が掴めていない、内臓を含む感覚系の遅れ、ゆえに前頭葉の発達の遅れ。
言葉の遅れは、運動発達のヌケや遅れ+長時間のメディア視聴(+早期教育)。
幼少期からロゴや文字は、全身や感覚を使った遊びの乏しさ+早期教育、メディア視聴、耳の発達の遅れ。
ミニカーを並べる、タイヤグルグルは、定型の子もやる。
大雑把に言って、こんなところでしょう。


そうやって、子どもの行動を「自閉症」という色眼鏡を外して見てみると、だいたいが定型発達の子も辿る自然な発達の流れに存在する姿だといえます。
一言で言えば、そういった行動があるのが問題なのではなく、そこの発達段階から進んでいかないことが問題なのだといえます。
ということは、自閉っ子の多くに必要なのは、そういった行動への支援でも、受け入れでも、理解でもなくて、そういった発達段階から一歩進むための援助であり、育ちです。
発達障害の子が、つまり、神経発達に遅れがある子が、支援ではなく、子育てや遊びの中で治っていくのは、こういった背景があるからだと思います。


ただ、ここで、もう一つ疑問が生じます。
成人した人達に感じる自閉っぽさです。
これは、幼少期の行動というよりも、思考に対して強く感じます。
融通の利かなさ、空気の読めなさ、一方で視覚的な記憶と情報処理が得意というものです。
こういったものを、以前、私は「自閉脳」「自閉症の情報処理形式」などと捉え、表現していました。
しかし、幼少期の子どもさん達の発達相談からみれば、やはり、これも胎児期から2歳前後の間における未発達、発達のヌケが根っこにあるのだと思います。


ただ違いがあるとすれば、そういった未発達、ヌケを残したまま、大きくなったということ。
感覚系の未発達により、周囲からの情報がうまく掴めない、掴めるのが視覚情報に偏った。
そういった受信形態が長らく続くと、脳が柔らかい時期を偏った刺激の中で過ごすと、おのずと脳は、身体は、その偏った刺激によって形作られていく。
いわゆる、「脳が環境に適応した」というやつです。
本人からすれば、とてもしんどい子ども時代、生活の中を過ごされてきたのでしょうが、それだからこそ、そういった環境を生き抜くために、脳や身体はサバイバルとして適応しようとした、そして適応を果たした。
不十分ながらも、なんとか生き抜いていけるように、自分自身を変容させてきた。
そんな風に感じることがあります。


上記の姿は、特別支援を受けてこなかった若者たちの姿です。
そして、幼少期から特別支援を受けてきた若者たちには、また違った雰囲気を感じます。
幼少期に、自閉っぽい行動が見られた。
そして、診断を受け、早期療育、支援を受けてきた。
背景にある未発達に気づかれず、自閉症特有の行動と周囲から捉えられ、そこに支援がされていった。
変更に弱いのは、自閉症特有の行動。
だから、変更がないように、常に先回りし、パニック防止に努めてきた。
そうすると、変化という学習、経験を積むことなく、それが情報と刺激の偏りとなり、本人の脳や身体に変更がない環境への適応が生じる。


運動発達のヌケを育て直すことなく、「ああ、この子は言葉の遅れがある子」となり、絵カードがコミュニケーションの主となる。
「言葉が話せないのだから、理解も乏しいはず」という誤解から、特別支援の教科書の載っている「言葉よりも絵で伝える」「話しかけは混乱に繋がる」という昔の常識から、言葉を耳にする機会が失われていく。
表出言語の土台は、運動発達と内言語を増やすこと、つまり、言葉をたくさん聞くことなのに。


ミニカーを並べるこだわり、遊びが、均等に並ぶ、整然と並べられるものへ発展し、電車の時刻表へ趣味が変容していく。
回るもの繋がりで、電車の車輪→電車自体→電車の形にいく人もいれば、聴覚の発達が遅れた人は音鉄へ移行していく。
他にも、定型の他人と関わりたいけれども、関わる機会に恵まれなかった人、そこで失敗した人が、二次元の世界へ。
成人の人の趣味を聞けば、だいたい、何に発達のヌケがあるかがわかります。
こういった趣味に関しては、周囲からも許容されることが多いので、どんどん自ら偏っていきます。


最後の話は、ちょっと脇道に逸れてしまいましたが、何が言いたいかと申しますと、主に大きくなった自閉症の人たちに見られる思考、情報処理の自閉っぽさも、元を辿れば、幼少期の発達の遅れとヌケがあるということ。
だから、育てれば、治るよね、支援よりも子育てだよね、となります。
ただ、長年、偏った情報、刺激の中でサバイバルしてきた人達は、脳や身体がそれに適応しているので、無理にそこを変える必要はないし、私の経験からも、そういった脳の適応は残り続けるし、現実的な援助としては、不便なところ、育てられるところを育て直し、その適応の範囲を広げていくことだと思います。


幼少期の子どもさんは、未発達を育て、本来の発達の流れに戻っていってもらう。
成長と共に適応したお兄ちゃん、お姉ちゃんたちは、自閉っぽさを残しつつ、ラクになること、幸せになることを目指していく。
言葉は適切ではないかもしれませんが、「自閉症のまま、幸せになる」というイメージです。
私は、自閉症という困難さには萌えませんが、その人が一生懸命適応し、生き抜いてきたその思考、情報処理形式には敬意をもって接しています。
長年の間で、作り上げてきたものは、より良く活かしていった方が良いと思うのです。


学生時代の講義の中で、これが自閉症だと、『レインマン』のビデオを見せられたのを覚えています。
でも、そういった造られたひと昔、ふた昔前の自閉症像に、どっかの誰かが想う自閉症のイメージに、引っ張られるのは終わりにした方が良いと思います。
あれだけ、「同じ自閉症でも一人ひとり違う」と言われ続けているのに、いまだに『レインマン』『光とともに』ではいけいないと思います。
もう、そういった姿に、悲しみ、共感し、社会に訴えかけていこう、という時代ではありません。


ほとんどが、定型の子も辿る、定型の子もやる行動なのです。
自閉症の子“だけ”の行動ではありません。
問題があるとすれば、その一時期で終わる発達過程に留まり続けていることです。
ですから、支援ではなく、子育てなんです。
ですから、理解じゃなくて、治すなんです。
留まっている段階から一歩進めるような後押しが、本人を悲劇のヒロインとして消費しないことに繋がります。
周囲に消費されて、自由と選択を失った子ども達がたくさんいた時代を、もう引きづるのはやめにしましょう。

2020年3月23日月曜日

【No.1033】入所施設の論理

福祉で働く人は、いい人が多いと感じます。
支援を充実させるか、治して自立を目指すか、という考え方の違いはありますが、接点のある支援者さんは基本的に皆さん、いい人で、一生懸命な人ばかりです。
施設で働いていたときも、先輩はいい人ばかり、そして入社していくる後輩もいい人ばかり。
労働環境は最悪でしたが、働く場としては人に恵まれた、と今でも思っています。


福祉を志すということは、根本的に人が好きな人であり、他人のために働きたいという想いを持った人達だと感じます。
また、採用する側も、そういった人物を求めますし、離職率の高い職種ですから、なおのこと、人物重視となるでしょう。
ですから、どこの施設も、大部分の人はいい人。
しかし、一方で、この「いい人ばかり」という面が、福祉の負の面でもあるといえます。


一歩福祉の世界に入ると、本人の自立は、どんどん遠のいていきます。
何故なら、相手の感情を汲みとりすぎるいい人に囲まれてしまうから。
自分のことよりも、やってあげることを優先し、そこに喜びを感じる人たちに囲まれているから。
しかも、「当事者に寄り添う」などが法人理念として掲げられていることが多く、管理職も、現場の職員も、さらに利用する子の保護者も、そういった寄り添う姿勢に価値を見出しています。


一生懸命な職員さんが、困難を抱えている利用者さんに、諦めることなく、優しく寄り添い続ける。
そういった姿を見て、親は安心して任せられると感じる。
管理職も、私達の施設は、利用者さんに愛情をもって接することができている、と胸をはる。
こういった価値観は、今も続いているように感じますし、これからも続いていくと思います。
でも、利用する本人は、これで満足なのか、これが求めていることなのか、疑問に思うのです。
福祉の価値観は、寄り添うこと、優しく接することで良いのかもしれませんが、その人個人の価値観に沿ったものがなされているといえるのでしょうか。


私が施設職員だった頃、支援の質を評価するのは本人であり、福祉も、プロセスではなく、結果が求められるのではないか、と主張していました。
当然、「福祉の考え、法人の理念にそぐわない」と却下されるのですが。
この、ある意味、「いい人どまり」の福祉がゆえに、いつまで経っても、自立していく人は育たないし、支援の質自体が上がっていかないのだ、と私は考えています。


人と接する職業ですから、悪い人では困ります。
いい人は当たり前。
でも、ただのいい人だけでは、プロとしての仕事はできないと思います。
どの職業もそうだと思いますが、商品やサービスを提供し、それを購入したお客さんが満足感を得られるかどうか、より良い方向へ変化できるかどうか、という結果で評価され、そのフィードバックから、さらなる品質、サービスの向上を目指すはずです。
それなのに、どうして、福祉だけ、障害を持った人と関わる職業人だけ、「寄り添う」とか、「いい人」とか、そういったもので良いこととなるのでしょうか。
福祉の仕事だって、お金を貰って行うプロの仕事になるのですから、それに見合う質と結果で評価されるべきだと思います。
もし、そういった考えがそぐわないというのなら、障害を持った人には、質や結果はどうでもよいのかと、差別的な認識にすら、私には見えるのです。


日本の特別支援は、ずっと福祉がリードしてきた歴史があります。
学校の先生も、黎明期には福祉の支援から学んで、教室の指導に取り入れていました。
地域の相談事業所も、通所施設も、元を辿れば、入所施設を持った福祉法人が運営していることが多くあります。
つまり、福祉の根本的な理念、「優しく寄り添う」が、現在の特別支援の源流にあり、それをいい人達が繋いでいっているのです。
驚くことに、親御さんや支援者の特別支援に関わる先生の評価が、「あの先生は良い先生」「話しづらい先生」などで表されています。
そんなことよりも、教師は専門職なのですから、しっかり学力が身についたか、自立のための成長が見られたか、が評価すべき点だと思います。


入所施設を利用している人にとっては、自立や結果よりも、今の生活が不自由なく、安心できるか、が求められても良いと思います。
でも、それは入所施設止まりにしなければならないはずです。
乳幼児の療育機関、児童デイ、相談事業所、通所施設、ある意味、特別支援教育も、本人の自立とより良い変化という結果で評価される必要があります。
そうでなければ、ただ「いい人に囲まれた時間を過ごした」という思い出作りで終わってしまいますので。


教育も、福祉も、他の仕事とは違って、評価できないもの、それがそぐわないもの、などと言われることがあります。
でも、それは体のいい言い訳だと思いますし、それを従事している人間が言ってはおしまいだと思います。
外から言われるのならまだしも、その仕事に従事している者が結果を重視しないでどうするのです。
より良い仕事、質の向上を目指して、日々、精進しなくてどうするのです。


学生時代のボランティアに始まり、施設職員、特別支援学校の教員、現職と、いろんな当事者、家族、支援者、先生を見てきました。
その中で感じるのが、いい人ほどたちが悪い、ということです。
いい人達は、全力で、一生懸命、その人の今を考え、その人が喜び、苦労を感じないように、あるときには自分を犠牲にしてまでも、尽くそうとします。
でも、そういった関係性は、1対1の限られた関係性の中でなり立ちます。
その人との関係性の中では安心して過ごせるけれども、じゃあ、別の職員では?じゃあ、社会に出たら?


新年度になり、崩れる人の多くは、この狭い1対1の関係性の中で安心感のみを得てきた人です。
新しい担任、担当との間で、もとのような尽くされる関係性はすぐには築かれない。
そうなると、一気に安定から不安定へと転落していく。
いい人はやり過ぎて、尽くし過ぎる。
そして何よりも、自分がいなくなったあとのことを考えていない。
ただ、1対1の関係性に陶酔する。
「この人のために」と尽くしたことが、次の人との関係性の足かせとなることもある。
しかも、そのことに気づかず、先生は、支援者は、新たな人の元へと旅立っていく。


「生涯に渡る支援」は、入所施設の視点から生まれたもの。
それ以外では、生涯に渡る支援はできっこない。
だからこそ、有期限であるその人との関係性の中で、何を提供し、何を残すことができるか。
それが、自立への一歩であり、より良い変化、成長への一歩だと思います。


福祉は結果を求めないから、いつまで経っても、支援の向上、利用者の満足感は得ることができないのです。
いい人どまりで、プロとしての仕事、支援、サービスをしていないから、いつまで経っても、自立していく人が育っていかないのです。
いい人は残酷です。
その人の自立の足止めの一つになっていることに気づかず、自分は良いことをしていると思い、今日も仕事をしているから。
入所施設の論理は、療育や通所、児童デイ、教育の世界に持ちこんではなりません。

2020年3月19日木曜日

【No.1032】3分診断

「3分診療」なんていうのは、大きな病院では、それくらいで患者さんを診ていかないと、経営が成り立たないという意味があるそうですが、これが「発達障害の診断でも行われている」と聞いたら、みなさんはどう思われるでしょうか?
私のところに来る相談が偏っている、特殊な事例ばかり、なのかもしれませんが、どうも、お子さんを見た瞬間に、「ああ、自閉症だね」「この子は、支援学校の子だね」と言われるケースが多く見受けられます。


地方の街なら、発達障害を専門にしている病院が限られていて、そこにいけば、同じ医師が3分診断しまくる、という話ならわかります。
でも、相談者の住んでいる場所は、南も、北も、西も、東も、という具合に、全国各地に散らばっていて、しかも、地方だけではなく、都市圏でも同じような話があるのです。


現在の医療では、発達障害は“治らない”ということになっています。
そうやって、ある意味、「不治の病」みたいなことを告げるつもりなのに、どうして、3分診断で済ませようとするのでしょうか。
親御さんとしては、とてもショッキングな内容なのに、なぜ、そのような診断に至ったかの説明がない。
親御さんが尋ねても、「その根拠の説明がされなかった」という話も、みなさんに共通していることです。


日頃、「エビデンス」「エビデンス」という割には、我が子が自閉症であるエビデンスが示されることがありません。
まあ、最初から、自閉症やADHDなどの診断自体に科学的な根拠がないのですから、仕方がないことのでしょう。
文章で記述されている診断項目を見て、医師が当てはまるか、当てはまらないか、をジャッジする。
そのジャッジ、判断に対する根拠としては、「私には当てはまるように見えたから」としか言えない。


そうなると、現在、どこでの診断待ちの列が長くなっている状態ですので、ある意味、早くさばくために、3分診断が全国どこでも見られるようになる。
そして、早くさばきたい医師にとっては、「どうして我が子が?」という親御さんの問いが、煩わしく感じるのかもしれません。
診断を受ける人の多くは、診断名を受けたがっている人でしょうから。
「発達障害じゃ“ない”」という言葉を聞きたくて、受診する人はそんなにいないはずです。


以前、「診断は時間がかかるのにお金にならなくて、経営ができなくなるから、少量の薬を出す」と堂々と言っていた医師がいましたが、数をこなしたい医師と診断名をもらいたい患者という関係性の中で、今のような3分診断が生じているのだと、私は推測しています。
お互いの利益が一致していますので。
そんな中で、私のところに「治したいんです」「親として子育ての中でやれることをやりたいんです」というような親御さん達は、向こう側に立てば、異質な存在。
ですから、私のところに来る相談者に同じような傾向が見られるのだと思います。
ここで、怖い想像をすれば、こうやって「おかしい!」と思わない、声を出せない親御さん、患者さんが、3分診断だけで、「はい、そうですか」となってしまう人が、どれほど、多くいるのか、ということです。


私は医師でもなんでもない、ただの支援者の一人ですので、診断ができるわけでも、するわけでもありません。
でも、お子さんとお会いした瞬間、「スペクトラムのこの辺りだな」「診断名は、ADHDとなっているけれども、本来は定型のお子さんだな」「自閉っぽいけれども、未発達の成長過程でそう見えているだけだな」というのは、わかります。
というか、これが瞬時にわからないようでは、雰囲気で掴めないようでは、支援者という仕事はできないと思っています。


で、分かったとしても、大事なことは、確認だと考えています。
「スペクトラムのこの辺り」というのなら、成育歴、発達の流れを読みながら確認していきます。
もともとは定型のお子さんなら、どうして、今、自閉っぽく、ADHDっぽく見えているのか、発達が遅れているのか、を原始反射や運動発達、感覚等、その理由を探っていきます。
支援者の仕事は、障害のあるなしを判断するのではなく、その人がより良く発達、成長するための後押しをすること。
それには、「自閉症か、否か」ではなく、「なぜ、自閉症に見えるのか」という視点が必要です。


本来、自閉症という単体があるのではなくて、総合的に、いろんな要因と行動が重なり合って、一つの自閉症という状態像になるのです。
昨日のブログとつながりますが、「長時間のメディア視聴=自閉症」というような単純な図式にはなり得ません。
持って生まれた遺伝的な要素。
そこに、胎児期も含めた環境要因が複雑に影響し合い、いろんな発達の部分での引き金となる。


たとえば、診断名がADHDのお子さん。
その多動性は、いろんな要素が重なり合い、生じているものです。
呼吸が浅くて、交感神経が優位になり続け、多動になっているのかもしれません。
自然界に存在しない目まぐるしく変わるテレビの場面展開に脳が適応してしまい、刺激を求める行動としての多動かもしれません。
筋力の弱さから、思わず動きまわっている子もいるでしょうし、自分の身体の範囲や軸がわからず、空間をさまよい続けている子もいるでしょう。
単に、親御さんから受け継いだ資質として「元気よく走り回る子」という場合もありますし、その多動さは、定型の範囲という場合もあります。
糖質過多の食生活が、多動性を生んでいる場合だってあります。
泌尿器系の発達の遅れからソワソワしたり、皮膚や聴覚の未発達→過敏→多動だって考えられます。
そして何より大事なのは、こういった要因が濃淡をつけて、その子の内側に複数存在している、ということです。


私は、「受精から現在までの発達の流れを見る」「その子の発達の物語を紡いでいく」という表現をします。
これはかっこつけて言っているわけではなく、そのような丁寧な確認、見立てをしないと、発達の課題の根っこが掴めない、つまり、根本からの育て直しができない、発達援助ができない、ということなんです。


診断基準に当てはまるかどうかは、ある程度の経験と、日本語の理解と、診断基準が書いた紙とペンがあれば、誰でもできます。
でも、そんな〇✖クイズみたいなもんで、根本から発達を後押しすることはできません。
やっぱり、「どうして“自閉症”って見られたんだろうか」「なぜ、今、発達に遅れが生じているのだろうか」「その遅れは、いつから生じているのだろうか」「その子の本来の発達の流れは、どうだろうか」という疑問の連想が大事なんだと思います。


この疑問の連想は、多くの親御さんの内側に存在しています。
その疑問に、一つ一つ丁寧に答えていくのが、私達、支援者の仕事ではないか、と思うのです。
実際、お会いして、多くの発達のヌケを抱えているな、症状が強く出ていて、将来も特性が残り続けるかもしれない、知的障害が残り続けるかもしれない、と感じる方がいます。
でも、そういったご家庭でも、支援者が一つ一つ丁寧に課題と繋がっている根っこを確認し、説明していくことによって、その中でも治しやすいところ、育てやすいところが明確になり、お子さんのより良い未来へと繋げていくことができます。
今日よりも明日が良くならないようなことは、「支援した」とはいえません。


親御さんは、診断名を聞きたくて、専門家を訪ねるわけではないと思います。
診断基準に当てはまるかどうか、この子に発達の遅れがあるかどうか、なんていうのは、専門家のドアを叩く前に、親御さんは気づき、分かっています。
親御さんが訪ねる理由はただ一つ。
どうすれば、この子の持つ課題が解決するのか、どうすれば、より良く育てていけるのか。
「やりようがある」ことを知りたくて、専門家のところに行くのだと思います。


そういった親御さんに対して、3分という時間は、どうでしょうか。
見た瞬間、家庭での様子、今までの成育歴を尋ねることなく、診断名を告げるのは、どうでしょうか。
たとえ、短い時間でも、詳しい説明がなかったとしても、訪ねたことで、より良い明日へと繋がっていくのなら、良い診断、良い支援だと言えると思うのですが…。
皆さんの周りには、より良い明日に繋がる支援に溢れているでしょうか?
ただ今日、この瞬間のための支援でしょうか?
我が子のためではなく、支援者のための支援ではないでしょうか?

2020年3月18日水曜日

【No.1031】目の動きの遅れ、言葉の遅れ、その引き金は?

ありがたいことに、こういった状況の中でも、出張の問い合わせ、依頼をいただいております。
確かに、新型コロナはよくわからなくて怖いけれど、いつまでも恐れて止まっているわけにはいきませんね。
特に、子どもさんは成長著しい時期を1日、1日と過ごしているんですし、最近、発達の遅れがわかった親御さんにとっては、コロナ以上に我が子の今と将来が気になるはずです。


雰囲気的に、国内は5月上旬くらいから落ち着いていくでしょうし、オリンピックは夏には行われない。
そう判断した私は、夏の出張相談の航空券と宿泊場所の予約を済ませました。
今は、腕と感性を磨く時期と捉え、いつもとは違った学びをしている日々です。
あと、6月21日(日)の特別講演会のお申し込みは、現在、午前の部が残り10名、午後の部が残り12名となっています。
午前は親子向けの講座ですので、あと3~4家族といったところでしょうか。
「新年度になって予定がはっきりしてから」という人たちもいらっしゃいますので、ご検討中の方は、どうぞお早めにお願い致します。


午前中、香川県で「ネット・ゲーム依存症対策条例」が可決されました。
まあ、条例が施行されても、長時間ゲームをする人はするでしょうし、許す家庭は許すでしょう。
ですから、この機に及んで名を売ろうとする専門家と、他県のゲーム愛好者がワーワー言う姿を冷めた目で見ていました。
確かに、全員が全員、長時間それらに触れたとして、依存症になるとはいえません。
ですが、遺伝子的に、ネットやゲームからの刺激に対し、影響を受けやすかったりする子がいるのも確かでしょう。
完全に個人の責任にして放置しておくのではなく、こうやって議論に挙げ、検討することで、本人や家族への問題提起になる、という意味で捉えれば良いのだと思います。


この「全員に当てはまらないけれども、誰かにとってはとても大事な警告となる」というのは、私も重要だと考えています。
発達障害が、後天的な環境、刺激によって、遺伝子のスイッチを入れることが明らかになってきた現在ですので、発達障害の引き金となる環境要因について、皆に当てはまらないけれども、知っておく、というのは必要なことだといえます。


今回で言えば、長時間のメディア視聴は、発達障害の引き金の一つです。
目の動きが乏しい子、立体視ができない子、そして何よりも言葉の遅れがある子。
そういった子ども達の多くは、赤ちゃん時代からテレビがつけっぱなし、幼児向けの教育テレビなら大丈夫だと思い、録画して繰り返しそれを見る、早期からスマホを与えられた、ということがあります。
もちろん、再三申し上げますが、同じような環境でも大丈夫な子もいるのは確か。
でも、私のところに来る発達相談の中では、上記のような課題がある子のほとんどに共通していることです。


実生活の中でも、テレビ画面を見るように、2次元的な目の動きをするお子さんがいます。
それは、その子をパッと見た瞬間にわかります。
明らかに、目に違和感があるのです。
赤ちゃんは、生後すぐから目を育て始め、いろんなものを視界に入れることで、立体的な視野を獲得していきます。
それは、ハイハイなど、自分で自由に動けるようになってから、確実なものとしていきます。
でも、そのときに、平面ばかり、二次元ばかり見ていると、当然、立体視が完成していきません。
むしろ、そちらの刺激が多くなれば、奥行きが育たず、強い色刺激に反応する脳へと作られていきます。


赤ちゃんは、最初はあまり視力がないので、匂いで大事な人を認識し、その姿を目で追いかけることで、目の動きを育てていきます。
視力が上がり、自由に動きまわれるようになると、そこでも大事な人やいろいろなものを見ることで、立体視を完成させていくのです。
「発達性協調運動障害」と診断を受けた子の中にも、この立体視が育っておらず、二次元で世の中を見ているばかりに、よく躓いたり、転んだり、協調的な動きができなかったりする子もいます。
目を育てたら、運動の問題がなくなった子も、たくさん見てきました。
目で見た刺激は後頭葉で捉え、そこからそれが何かと前頭葉で認識し、頭頂葉の運動野から実際の筋肉の動きへ指令が出る。
このように、目を育てている乳幼児は、脳内で大切なネットワークを、それこそ、生きていく上で必要な機能を築いているのです。


言葉の遅れに関しては、詳しく説明するまでもありません。
ヒトは、何故、音声言語を獲得したかといえば、やりとりをするためです。
ただ音楽のように、リズムや音色を楽しむだけで良かったのなら、言語までの発達、進化はなかったといえます。
つまり、人を介して、ヒトとのやり取りを通して育てる音声言語だからこそ、一方的な音のシャワーであり、こちらが何かを言っても、それに反応するわけではないテレビ等は、言語発達の機会を奪います。
また、音は聴覚刺激として受信するだけで、ビタミンを消費しますので、当然、発達に必要な栄養素不足へと陥る可能性もあります。


もともと栄養面、吸収の面で、呼吸の面で課題を持って生まれたお子さんは、強すぎる刺激と長時間にわたる刺激によって、さらに神経発達に必要な栄養素不足に陥り、結果的に発達が遅れることもあるでしょう。
立体視を育てる機会が減り、それは長時間のメディア視聴やもともと運動面の発達の遅れから、また、嗅覚の発達の遅れからも、うまく身体が動かせず、よく転んだりして、それが発達性協調運動障害と診断されてしまうこともあるでしょう。
二者間でのやりとりで言葉を育てるよりも、一方的な刺激に脳が適応し、作られてしまった子が、言葉の遅れ、自閉症と診断されるようなこともあるでしょう。
遺伝的な要素に、これらの環境要因が加わると、発達障害発症への引き金となる子もいるのだと思います。


これは私の15年以上にわたる現場感覚のエピソード。
発達のヌケや遅れが育ったのに、言葉の遅れだけ残り続ける子、そこがなかなか育っていかない子。
そういったお子さん達は、テレビやゲーム、DVDやYouTube、スマホなど、やっぱり長時間触れています。
私も、追視や言葉の遅れがあるご家庭には、上記のような可能性、危険性をお話しするのですが、やっぱり本人が好きだから、それを制限すると乱れるから、と言って、与え続けているケースが多いです。
確かに、その間は、本人が安定している、まあ、没頭している、刺激に意識が奪われているのですが。
でも、言葉の遅れのリスク要因、環境要因の一つには違いありません。


施設で働いていた時も、ノンバーバルな子ども達、若者たち、大人たちは、皆さん、一日の大半をメディア視聴、CD等の音楽を聴くことで過ごされていました。
メディアに長時間触れるから言葉の遅れがあるのか、言葉の遅れがある人がメディア視聴を好むのか、はわかりません。
ただ、一つ言えることは、一方的な刺激は脳を育てない、発達につながらない、ということです。
ヒトの高次な脳の部分は、やりとり、双方間の刺激、フィードバックによって、育てられるのです。


ただ単に、「メディア視聴がダメだ!」「ネット依存になるぞ!」「エビデンスを出せ!」ではなく、その問題の本質と、もしかしたら、自分の、我が子のリスク要因になり得るかも、という想像力が大事だと思います。
未来を想像し、それに今、対処、行動できるのは人間だけ。
我が子をより良い人へと育てたいのなら、その周りにいる大人の想像力が問われるのです。

2020年3月17日火曜日

【No.1030】選ばれた言葉を窓に、親子の時間を、その子の発達を覗き、連想する

冷やし中華のように、「メール相談始めました」と言ったわけではなかったのですが、いつの頃か、相談のメールが来るようになり、「これだけニーズがあるのなら」と告知をしたら、ほぼ毎日、誰かしらのご相談があるようになりました。
メールの文面を拝見していますと、人によって書き方がバラバラ。
だったら、フォーマットを用意した方が良いかな、なんて一瞬思ったのですが、やっぱり良かったと思いますね。


「年齢は?」「運動発達で気になったことは?」「今、何が気になりますか?」なんていうようなアンケート用紙のみたいなものを用意したら、たちまちつまらんものになります。
それは、私にとっても、親御さんにとっても。
確かに、書く項目が明確になっている方が書きやすいというのはあると思いますが、それじゃあ、相談する意味はなし、です。
多分、アンケートのような記述には、マニュアル的な返しになります。
誰に訊いても同じような答えしか返ってこないから、こうやって民間の怪しい私に、わざわざ相談しているのですから(笑)


質問用紙というのは、実につまらんものです。
枠があると、回答する方は脳みその省エネができます。
でも、利点はそのくらいなもの。
書いている親御さん、本人にとっては、時間だけかかって、得るもの少なしです。
発達相談等で、枠いっぱいに、びっちり記述される親御さんは多いですが、まともな返事、助言が返ってくることはほとんどなかったでしょ。
だって、自信がないから、実力がないから、枠に逃げたくなるのです。
枠からはみ出たとき、その支援者の真の実力が問われることになる。


あるときから私は、相談メールに回答するのが、楽しく感じるようになりました。
相談者のメールの文面のバラエティさから、あることが見えてきたからです。
それは、何かを記述したということは、何かを“記述しなかった”ということに。


相談するということは、今、何かに困っていたり、悩んでいたりするからです。
だけれども、悩んでいることすべてを記述するわけではないと思います。
生きていれば、子育てをしていれば、何かしら悩みを持ち続けるもの。
でも、その中から意識、無意識に関わらず、相談するものが選別されている。
同じように、成育歴などの記述も、書かれているものの背景には、何百倍もの書かれていない話が存在している。


私は、書かれているものよりも、書かれていないものを想像することに楽しみを感じます。
多分、メール相談でも、実際に対面しての相談でも、大事なのは表に出ていないものの方でしょう。
言葉や文字にできる部分は、ごく限られた情報。
だけれども、無数ある情報、話、物語の中から、それを“選んだ”ということには、重要な意義、意味が含まれていると考えるのです。
選ばれた言葉を窓にして、その中を覗いてみる、連想してみる。
そうすると、本当に大事なことが、相談者の立場で言えば、最も伝えたいこと、訴えたいことが、見えてくるというものです。


凝った質問用紙を作りたがるのは、支援者特有の悪趣味というものです。
脳みその省エネ化だけではなく、書かれた文字だけから仕事をしようとする姿勢、また仕事をした気になった思い上がりが透けて見えるから。
面談に関しても、「何を言っても、どの支援者も同じことを返してくる」と言われる親御さんは多く、中には、「支援者の仕事には、助言のマニュアル、問答集みたいなものがあるんですか?」と真剣に尋ねてくる親御さんがいました。
それくらい表出された部分しか勝負できない支援者が多いということ。
だから、自分の土俵に持ちこもうと、質問用紙をせっせと作るのです。


私は、面談の開始時に、「とにかく自由に。上手に話そうとされずに、思い浮かんだ順に、ポンポンしゃべってくださいね」とお伝えします。
私が、その言葉よりも、言葉の背景に、何を言ったかよりも、そのときの雰囲気に意識を向けているからです。
言葉は、あくまでも入り口にすぎません。
言葉を通して垣間見られた考え方、捉え方、心情、その人が見てきた世界にこそ、現実の困難を解決する糸口がある。
悩みはポッと現れるのではなく、すべて過去から続く流れの中で生じている。


もともと、発達というものを、人工的な枠に押し込めようとしても無理があります。
支援者が、「ここのところを書いてほしいな」と思うようなところと、その人の発達がピタッと合うなんてことはありません。
“定型”という発達に合わないからこそ、相談に至っているのですから。
バラエティに富んでいて、その人オリジナルの発達。
その唯一無二の発達過程の中に、悩みが生じていて、ときにそれを一番傍で見ている親御さんが相談される。
ですから、親御さんの表面的な言葉よりも、親御さんの目を通して、その子を見ることが重要になってくるのです。
親御さんの目になるためには、親御さんが選択した言葉の、その選択にこそ、意識を向ける必要がある。


親御さんが自由に、伸びやかに、語られるとき、それまでの親子の時間、生活、我が子への眼差しがよく感じられます。
そういった場合、お子さんとお会いして行うのは、確認のみです。
「うちの子を見たわけじゃないのに」「まだ面談が始まったばかりなのに」、どうしてわかるんだというようなことを言われることが少なくないのですが、それは、それだけ親御さんが伸び伸びと語られているからです。
表現するのなら、言葉の雰囲気の中に、その子の姿が表れているって感じです。


別に、私に特殊な能力があるというわけではありません。
他の実践家の方達も、同じような感覚を持った人が多いはずです。
私で言うならば、今までの相談件数、実際に関わった多くの人達の中で磨かれた部分でしょうし、何よりもキャリアの始まりが、ノンバーバルの世界だったことだと考えられます。
ほとんどの方がノンバーバルだった施設職員時代。
言葉以外の何かで関わり、知って、察する支援を行っていました。


最初は、排泄物や体温、食事の量や行動等、見えるもので。
そこから徐々に、顔や身体のできもの、顔色や声色、自分との距離感など、抽象的なものへ。
そして雰囲気で察する、自分が勤務していないときの姿を想像できるようになったという感じです。
私の支援者としての土台は、こうやって築かれたので、今の仕事でもノンバーバルの世界で対話しています。


私は、「親の直感」というものを信じていますし、信頼しています。
ですから、その親御さんの直感、第六感が存分に発揮できるような環境づくりも、最も大事な仕事の一つとなります。
私達支援者は、どう頑張っても、それまでの親子の時間を実際に見ることはできませんから、実際に時間を共有し、見てきた親御さんの言葉から、雰囲気から感じとるしかないのです。
その結晶が親御さんの直感であり、その直感が言葉に乗ってやってくる。
メール相談でも、対面での発達相談でも、その直感を支持するような、後押しできるようなイメージで行っています。

2020年3月13日金曜日

【No.1029】発達は文字化することができない

相談メールと併せて、結構、ブログに関する質問や感想が多く寄せられます。
そういったブログに対するリアクッションを読んでいますと、一人ひとり捉え方も、響き方も、違うことがわかり、またそれを楽しんでいる自分がいます。
同じ文章、文字を書いても、見え方、捉え方が異なる。
当然、私が伝えたいこととのズレも生じるわけです。
でも、それが当たり前で、自然なこと。


言葉は、伝える手段としては、とても優秀なものだけれども、細部まで表すものではありません。
伝えているのはニュアンス。
たとえ同じ言葉であったとしても、それをどう捉えるか、は受けて次第で、その受け手の受け止め方を決めるのは、個人の体験に他なりません。
そういった意味で、円滑なコミュニケーションというのは、滑らかに言葉が出るとか、語句が豊富でバラエティに富んでいるとか、ユーモアのセンスがあるとかじゃなくて、相手と共感できるか、感覚を共鳴できるかということなんだと思います。


「僕、コミュ障なんで」という人は、だいたい空気も読めない人。
だけれども、同じ趣味嗜好の人とはコミュニケーションがうまくいく。
つまり、土台が感覚系の未発達であり、それに覆いかぶさっている課題が、体験、経験値の乏しさ。
おば様たちの会話を聞いていると、ト書きにすればあべこべなんだけれども、コミュニケーションが成り立っている。
それは、同じような年代で、同じような生活、人生を送ってきた共通点の多い人同士だから、ニュアンスで共感し合っているからなのでしょう。


五感が働かないと、ニュアンスに注意が向かず、その言葉、文字情報にグッととらわれる。
昔よく言われていた自閉っ子の「字義どおりに捉える」というのも、結局、相手との共感がうまくいかなかっただけのことであって、自分に感覚系の未発達があれば、言葉の持つニュアンス、つまり、それを発した人の背景、感覚がわからなくなるのも仕方がない。
言葉は曖昧なものであり、発した人の感覚、受け取った人の感覚によって変化するものです。


若い支援者からも、相談、助言を求められることがあります。
そんなとき、よくお話しするのが、勉強の仕方。
若手の頃は、私もそうでしたが、専門的な知識をとにかく取り入れようとします。
障害の特性から、療育の方法、脳や神経、ヒトの発達など、ありとあらゆるものを勉強します。
でも、その勉強の仕方を見ていると、受験勉強みたいなんですね。
とにかく幅広い知識を覚える、暗記する。


知識の少ない時期は、こういった勉強も必要なのでしょうが、実践の場面では、ほとんど意味をなしません。
ですから、基礎体力を養うっていう段階なのでしょう。
じゃあ、実践で活きる勉強とは?
それは、五感を働かせながら、ニュアンスを読みとるということなんだと思います。


その人は、どういったニュアンスで、その言葉を選び、記しているか。
そこを捉える必要があります。
言葉よりも、その言葉に乗せられた感覚に気づけなければ、ただの受験勉強にしかなりません。
若い頃に読んだ本を、後から読み直すと、当時、気づかなかったことがわかってくる。
それは、経験を積み重ねていった結果、体験の幅が広がり、共感できる部分が増えたということなんだと思います。
筆者の感覚に、いかに近づけるか、共感できるか、が真の意味での言葉の理解へとつながり、実践に活きてくる学びになるのだといえます。
言葉はただ音から生まれるのでなく、体験から生まれるのです。


他にも、たとえば、胎児期の発達について勉強するのなら、実際に胎児に自分がなってみる。
五感を働かせながら、イメージしてみる。
「これくらいの明るさじゃなかろうか」
「手を動かせば、こういった感覚が戻ってくるだろうか」
「母胎から、この世界に出てきたとき、何が最初に迫ってくる刺激だろうか」
そういった連想が、アセスメント力を培うのだと感じます。
実践の場では、なにかを勉強したからわかるのではなく、その子の感覚、体験と重なるからわかる、ということがほとんどなんです。


私は本を読んでいても、誰かと会話をしていても、その言葉自体には、あまり注意を向けていません。
それよりも、どういったニュアンスで著者が記しているのか、どういった声色で、どういった感覚、感情を乗せて、その言葉を発しているか、に意識が向いています。
言葉は曖昧なものですので、自分と同じ意味で、相手が使っているとは限りません。
必ず意味にはズレが生じています。
そのズレを読みとれなければ、発達相談も、発達援助もできません。
何故なら、発達自体が曖昧なものであり、ニュアンスだから。


言葉で発達を捉えようとすれば、必ずズレが生じます。
一人ひとりの発達は、多様でバラエティに富んでいる。
それを言葉で捉えようとすると、必ず見誤るのです。
言葉は入り口であって、本質ではない。
発達とは、ノンバーバルの世界。
ノンバーバルというのは、それだけ感覚で捉える部分が大きいということ。
つまり、発達と向き合う者は、支援者でも、親御さんでも、まずは自分の感覚が育っているか、整い十分働ける状態になっているか、が重要になってきます。


私の発達相談は、直感と感覚で行います。
専門書を開くときは、「あれで合っていたかな」と、あとから答え合わせをするとき。
教科書を見ながら、発達相談なんかできません。
文字を通してでは、発達を視ることができないからです。


言葉、知識が絶対だと思ってしまうのは、感覚系に課題がある証拠です。
それこそ、エビデンスにこだわるのも、同じ問題を抱えているのです。
今、目の前で起きていることがあって、あとからエビデンスが追いかけてくるのが真実。
エビデンスで、子どもの発達を捉えることはできないのは、エビデンスという枠にはまった部分だけを、その子の発達である、と見誤るから。
エビデンスは、数値化されないものをすべて切り捨てる。
その切り捨てた中に、その子だけの発達が入っているのです。

2020年3月12日木曜日

【No.1028】手が汚れるのを嫌がる子の発達段階

今日は、もう少し触覚、触れるということについて書こうと思います。
最近書いたブログの【No.1015】【No.1022】がそういった内容で、それを見た方から質問や相談が続きました。
答えているうちに、「ここも書いておいた方が良いな」と思うところがありましたので、これから記していきます。


幼児さんの中には、まあ、小学生くらいのお子さんでも、「土が触れない」「手が汚れるのを嫌がる」なんてことがあります。
そういった様子を見たり、相談があったりすると、支援者はすぐに「触覚過敏」という言葉を使いたがるものです。
「それは触覚過敏ですね」
「ASDの子に多く見られる特性です」
「無理して慣れさせようとすると、却って過敏が強くなりますよ」
とお決まりのパターンがあり、最後には「トラウマが」「二次障害が」と続き、結局、全面的に受け入れるしかないよね~という話で終わります。


確かに、触覚過敏というお子さんもいると思いますよ。
でも、土に触れないだけ、触れたがらないだけで、触覚過敏は乱暴すぎですよね。
というか、たぶん、その人は、ヒトの発達をご存じない。
どうやって、子どもが発達していくか。
この場合で言えば、どういった発達過程を辿り、触覚を育てていくかが分かっていないのでしょう。


触覚が胎児期前期に、そして最初に働き始める感覚だという話は、前回の内容。
今回は、生まれたあとの触覚の育ちです。
触覚というのは、何のために、存在するのでしょうか。
そこが、「すべて触覚過敏では乱暴ですね」という話とつながります。


結論から言えば、触覚とは、危険を察知するための感覚です。
原始的な動物は、危険から身を守るために、触覚、触れるという活動を獲得し、発達させたのだと思います。
ということは、やはりヒトにおいても、最初の発達過程は、危険の察知の段階だといえますね。


土に触れるのを嫌がるのも、手が汚れるのを嫌がるのも、触れること自体に怖さがあるというのも、実は正常な発達なんですね。
「これって何だろう?」「危険かな、大丈夫かな」というのを探索しているのです。
この発達過程をやり切ると、触れるという行為に不安や怖がるといった感情を伴わなくなります。
つまり、次の発達過程に進んだという表れ。


動物は、危険を察知するために触覚を働かせます。
その次は、安心を得るための触覚ですね。
危険の察知が爬虫類の脳だとすれば、安心を得るのは哺乳類の脳。
安心、もっといえば、快の触覚を得るのが危険の次の発達段階です。
ですから、母子の触れ合い、親子のスキンシップが愛着を育てる理由がわかりますね。


危険の発達段階で止まっていれば、母子間で正常な愛着関係を築けません。
これが往々にして、発達障害の子に見られる愛着障害へと繋がってるんですね。
触覚が危険を認知するためにしか働いていないのなら、母親の愛情を持った触れ合いも、快とは受け取ることができません。
中には、それを危険と認知している子もいるでしょう。
親御さんがいくら愛情をもって関わっていたとしても、受け手の準備、触覚の準備ができていなければ、同じようには受け取れないのです。


じゃあ、触れることを怖がる子に、どのような発達援助が必要なのか。
土が苦手だから、とにかく土に触れさせるのは、下の下。
危険の発達段階の子に、危険と感じる機会を増やすのは逆効果です。
ただ不安を増やすだけ。
また、「この子は触覚に過敏さがあるのだから、手袋を、触れる機会を減らそう」というのも逆効果。
発達の機会、発達刺激の制限は、未発達の解決にはつながらないのですから。
よって、基本は「発達刺激+発達を後押し」です。


触れることが怖い子は、温かいや気持ちいい、面白いなどの快の触覚刺激に触れていくことです。
「お母さんの身体は温かくて気持ちいいな」
「この毛布の毛触りは心地良いな」
「ごはんを手で握ると、グチャッとなっておもしろーい」
そんな風に、本人が安心できる、快だと感じられるものに、触れた楽しいなと思える行動から、主体的に味わっていくのです。


探索するために手を使っている子は、土や泥遊び、粘土遊び、手が汚れることに強く反応します。
それは障害特性でもなんでもなくて、そういった発達段階だから。
危険を察するために始まった触覚なのですから、刺激に対し、過剰に反応するのは自然なこと。
もし、問題があるとすれば、その発達段階から次の発達段階である快感を得るための触覚まで発達していかないことだといえます。
ですから、触れることを通して快感の触覚を育てる。
快感が十分に感じられるようになれば、子どもは自然と土遊び、砂遊びを始めます。
それも、手や顔についた泥を気にすることなく。


この触覚の発達という話からもわかるように、発達障害って、その行動の異常さとか、特性の重い軽いとかではなくて、根本はやっぱり発達していかないこと、同じ発達段階で留まっているということなんですね。
今までは、多くの支援者は、未だにそれが固定された特性だと考え、定型発達の人達と続いているスペクトラムとは捉えきれていない。
だからこそ、育てるという視点ではなく、支援するという視点で見てしまう。
で、どんどんその発達段階でいる時間が長くなってしまい、脳みそもそれに合わせて形成されちゃう。
単に、支援者が定型発達、ヒトの発達を知らないだけ、未発達の育て方を知らないだけ。


ヒトの発達から見れば、現在、「発達障害だから」と言われている言動のほとんどは、未発達なだけであり、育てば治るところばかり。
「触覚過敏」など、専門用語(?)を使いたがる支援者は、コトバに踊らされているんです。
その子が触覚過敏なのか、未発達なのか、危険を察知する発達段階か、は雰囲気が全然違いますよ。
感覚は言葉で表せませんので、やっぱり雰囲気で視る必要がありますね。
それを磨くためのベースが、ヒトの発達という視点であり、自らの感覚、身体を日頃から整えておくことです。

2020年3月11日水曜日

【No.1027】訪問時、ノートをとらなくなったわけ

いつの頃か、発達相談中のノートテイクはやらなくなったんですね。
この前、「大久保さんは、ノートとらないんですか!?」と驚かれ、そういえば、いつからだったかな、と思ってました。
起業当初は、「できるだけ書きこめるように」と、1ページが大きなノートを買って、持ち歩いていたんですが、それが、「そんなに書きこまないな」「もっと手軽に持ち運べるものがいいな」と、どんどんノートが小さくなり、今はポケットサイズのノートをメモ代わりに使っているだけ。
もう、対面している間には、ノートを出すことはなくなりました。


どうしてノートをとらなくなったかと思い返すと、心境の変化があったのかな、と思います。
相談内容や気がついたことをノートいっぱい書いていた頃は、どこか頭の隅に後日お渡しする報告書があったり。
それに、書き記したノートを眺めながら、そこで自分の頭を整理しながら、相談に対する答えを出そうなんて思っていたり。
でも、これって、対面する意味がないというか、意義がないというか。
せっかく、場と時間を共有しているのに、私の頭は未来に行ったり、時間を止めたりしていたんですね。
あるとき、思ったんです。
わざわざ家庭に出向く意味ないよな、って。


そこから、もやもやしている時期があって、もう一度、どうして私が訪問支援、家庭支援にこだわるのか、そこを仕事の中核にしているのか、考えたんです。
私がやりたかったのは、知識や技能の伝達ではない、一方的に何かを与えたいんじゃない。
そんなことがやりたくて、わざわざ起業したわけじゃないんです。
それがやりたいのなら、既存の枠組み、組織を使えばいい。
時間という概念をとっぱらい、時間を忘れるくらい、その子の発達をご家族と一緒に考えぬきたい。
そうか、私はとことんその子の発達と向き合いたいんだと気づくのです。


時間を忘れて、発達相談、援助を行っているときがあります。
そういったときは、あっという間に、時間が過ぎている、という感じです。
当然、ノートをとることなんて忘れています。
ノートをとらず、さようなら、が続いたとき、「帰ってから、報告書が書けるかな」と心配でした。
でも、仕事場でパソコンを開くと、結構覚えている。
まあ、覚えているというよりも、そのときの映像、雰囲気、感情までも、今、リアルに感じるわけです。
「これって何だろうな」と思っていたら、「そうか、これこそが場と時間を共有することだな」と気が付いた。


場と時間を共有するっていうのは、相手のご家族だけではなく、私自身も一体化するってこと。
家族にとっては、私は他人であり、外部からの刺激。
その外部刺激が、家族に、家族の子育ての中にとり込まれ、訪問前とは違った形に変化していく。
ああ、これこそが、訪問支援の意義。
私は、本人や家族がより良く変化するための外部刺激になり、ちゃんととり込まれることが役割なんだと思うんです。


私が、その家族の一部になり得たとき、私にも変化が生じる。
たぶん、知識や技能の伝達では、こういった変化は生じないでしょう。
私も、家族の一部になったとき、その家族からの刺激を受け取る。
それが、私の内側で化学反応を起こし、支援者としての気づき、感覚、視点を向上させる。
そういえば、この仕事を続ける中で、訪問する家庭が増える中で、支援者の嗅覚、直感が磨かれたような気がしています。
コトバで磨く部分と、コトバ以外で磨く部分の違い。


場と時間をしっかり共有できたら、私がちゃんと採り入れられ、同化できたのなら、あとから思い返すことはなんでもない。
思い返さずとも、私の中にも採り込まれているから、報告書に書き写すことができる。
出張で数日間、函館を離れても、パソコンを開けば、その場と時間が現れる。
だから、基本的に1回の訪問で完了となるんだと思います。
だって訪問後も、その後の流れ、発達が見えているから。


「発達相談」と銘打っていますが、相談する側と相談される側では、うまくいかないな、と思います。
どちらかが一方的に変えようとしても、変わろうとしても、それは真の意味で支援になり得ないんです。
やっぱり、「あなたも変わるし、私も変わる」が理想だといえます。
お互い対面し、臨場感を持って、何かをなそうとするから、私で言えば、「より良い発達」「より良い未来」を成し遂げようとすれば、私自身も良い方向へ進む必要がある。
発達も、未来も、本人の内側に端をなすものだから、私の内側にも変化を感じなければなりません。
玄関の扉を閉めたとき、「あー、自分も変わった気がする」、そんな風に思えたら、意味のある仕事、支援者としての役割が果たせたのかな、と思うのです。


良い家族だな、素晴らしい家族だな、と感じるご家庭は、その子だけが変化するのではなく、家族みんなで、家族一緒に、変化している雰囲気がありますね。
私が良く使う言葉に、「育み合い」というのがあります。
そうです、「子を育てよう!」ではなく、「子を育てよう。そして私も育てられよう」という感じ。
子を育てるということは、親自身も育てられるということ。
そのためには、子の内側に刺激の一つとして採り込まれ、また自分の内側にも採りこむ。


コトバは文化ですから、受け渡し。
でも、発達はコトバ以前の話ですから、親子の伝達ではなく、吸収同化です。
家族間で一体化、吸収同化がうまくいっている場合は、私のような支援者、外部刺激が入ってきても、ちゃんと採りこむことができます。
でも、それがうまくいっていなければ、支援者に侵略され、染まってしまう。
それは支援ではなく、洗脳です。
洗脳はコトバで行われ、支援はコトバ以前で行われる。
ですから、今後も、セッション中、私はノートをとることはないと思います。
再びノートをとるようになったときは、支援者として終わったとき。

2020年3月10日火曜日

【No.1026】やりようがあるところを支援しないで、何を支援するというのだろうか

昨日の就労支援に関しても、どうしてやりようがあるところをやらないのか、はなはな疑問です。
職場への理解も、どういった配慮を受けるかも、相手があってのことだし、思い通り、全面要求通り、なんてことは望めない。
そんな、希望的な観測みたいな、どうなるかわかんないものに、時間を費やすのも、それで支援したことになるのも、意味不明。
やれるところをやるのが、すべてにおいて、大原則ではないだろうか。
就労に関しては、働ける身体を育て、整えることは、今からでもできること。
できることを支援しないで、何を支援するというのでしょう。


私は全国どこでも、家庭まで出向き、そこで発達相談を行います。
対面にこだわるのは、臨場感の違いです。
目の前で、私がお子さんと関わり、発達の状態を確認し、その子の発達流れ、受精から現在まで続く物語を紡いでいく。
その姿を間近で見てもらうことで、親御さんの中に気付きと変化が生じる。
また、そのときの親御さんの変化を受けて、私自身も頭が忙しくなり、訪問前には想像していなかった気づきと変化が生じる。
このようなお互いに変化が生じることで、初めて意味のある支援ができたといえるのだと思っています。


一方的に、変化を起こそう、与えよう、という支援は、そのあとに続いていきません。
結局、そのときはわかったつもり、できたつもりでいるけれども、場面が変われば、日常の流れの中に消えていく。
これが、「教わったら、教わり続ける」「支援を受けたら、支援を受け続ける」の理由です。
渡す人がいて、渡される人がいる。
渡されたものは、外付けするしかできず、その人の内側までは入っていけないのです。


私の発達相談、援助を受けた方は分かると思いますが、基本的に教えませんし、教えようともしません。
ハナから、何か知識や技能を与えようとなど、考えていないからです。
じゃあ、何しに行っているか、わざわざ飛行機を乗り継ぎ、訪問しているか、といえば、「やりようがある」というのを伝えるため。
目の前で、臨場感を出しながら、場と時間の共有をしにいくのは、この一点を感じてもらいたいから。


「やりようがある」というのを、実際、目の前でやりようがある姿を見てもらうことで、感じてもらう。
何故、感じてもらうかといえば、ヒトは感情で動く動物なので、感覚的な認知から発達が始まっているので、やはり感情が動くことが変化の始まりだと考えています。
電話やメール相談もやっていますが、やっぱり生の発達相談とは変化の起き方が違います。
コトバは概念であり、人それぞれ捉え方、定義、ニュアンスが異なります。
でも、ライブは、ノンバーバルな情報のやりとりに溢れていて、直に感覚へ訴えかけられるような気がしています。


「やりようがある」と文字で伝えても、頭で止まってしまうことがほとんどだといえます。
もっと深いところで理解してもらうには、場と時間を共有すること、それは肌身で感じるということです。
皮膚を通して感じたことは、直接、感情を揺さぶるとともに、感覚として残り続けます。
私が帰ったあとも、「やりようがある」と皮膚が覚えていれば、行動の変化としてつながっていきます。
「だって、目の前でやりようがあるのを見たから」
これは、それ以降出会う、やりようがないことで飯を喰っている人達の言葉を完全に打ち消していくのです。


特別支援というのは、つくづく、自立とは真逆を行くなぁと思います。
だって、そのほとんどが、やりようのないところに注目し、いじくろうとしているから。
自閉症の脳の情報処理ばかりに注目して、どうするの。
そこを支援することが、本人にとってプラスに働くというのでしょうか。
もっとシンプルに、栄養のこと、身体のこと、発達のことだったら、自分一人で改善していけるのに。
そういった「やりようがある」ところを、1つずつ、背中を押していく。
本人は、日々、やりようがあることを身をもって体験するのだから、意欲や自己肯定感を高め、それこそ、自立へと歩を進めていくことになるのにね。


最初からやりようのないところに注目し、いじくりまわした挙句、結局、「障害特性で治らないから」と言い放つ。
それのどこが支援というのでしょうか。
結局、今の特別支援というのは、本人を支援しているわけではないのです。
やりようがあるところを教えず、支援せず。
それが現状だといえます。


「生涯、治らない」という言葉は、親御さんの心を、いや、親としての存在意義を否定するようなもの。
親として一番つらいのは、「あなたに、やれることはないですよ」「我が子にできることはないですよ」と言われることです。
親になって、1年、2年、3年という若い親御さんが、子の未来と同時に、親としての意味まで否定される。
でも、それは真実に基づいたものではないですね。
生涯、治らないわけでも、やりようがないわけでもない。
親としてやれることも、親だからできることも、たくさんある。
それを伝えたくて、出張の発達相談をやっているところもあります。


医師や専門家から、「やりようがない」と告げられる。
その言葉を消すには、言葉よりも深い部分で対抗していくしかありません。
それが肌身で、「やりようがある」を感じ、体験すること。
肌身で感じたことは、言葉には揺るがなくなります。
同時に、それが親御さんの核となり、子育てを通して治し続ける原動力となります。
「やりようがある」を肌身で知っている親御さんは強い。


発達障害の子、知的障害を持った子。
診断を受けると、もうできることは限られている、支援者という他人を頼るだけ、みたいな感じがしてきます。
でも、やれることはたくさんありますね。
その「やれること」に気がついている支援者かどうか、そこを解決する知見を持っている支援者かどうか。
本人が、家族が、「やりようがある」と思えないような支援は受けても仕方がないでしょ、結果は同じだから。
特別支援の世界は、「やりようがない」という言葉まみれになっています。

2020年3月9日月曜日

【No.1025】自閉症の人ができない仕事ってなんだろう?

「では、何社の面接を受けられたのですか?」と尋ねると、だいたい返ってくるのが「1社」「2社」という答え。
1社に書類を送り、面接を受けただけで、採用が決まるなんて、どんなに優秀な人だというのでしょうか。
そりゃあ、ヘッドハンティングされるくらい、前の会社で実績があるのならわかりますが、学校を出たてだったり、行くことが目的みたいな福祉的就労、支援からの一般就労だったりすると、1社受けて1社受かるなんて、よっぽどの運がなければ難しいといえます。
これだけ多数の企業がある日本で、自分が就きたい職場と、企業側が採用したいと考える人材が1度でピッタリ合う確率は、そんなに高いことではないと思います。


成人の方からの相談の大部分は、就職に関することです。
で、だいたいの人が、「自閉症ガー」「発達障害ガー」「周囲の理解ガー」と理由づけをされます。
「自閉症の人でも、就職して、自活して、結婚して家庭を持っている人もいますよ」という話をすれば、必ず「私の症状は重くて…」と、今度は重いアピールが始まります。
本当に重ければ、こうやって相談などできないでしょうに。
まあ、とにかくネットか、家族か、支援者か、わかりませんが、典型的な誤学習をされてから、相談に来られる場合がほぼ100%です。
この誤学習さえなければ、話が早いのに、と思うことばかり。
発達につながることは何もしなくていいから、せめて誤学習だけはしてくれるなよ、支援者たち。


結論から言えば、面接のとき、「私自閉症です、配慮してください!」と大きな声でアピールしなければ、言葉の節々から支援されるのが当たり前、当然という雰囲気を醸し出さなければ、自閉症ゆえに不合格ということは少ないといえます。
今は、障害者差別に関しても厳しい態度がとられますし、そもそも働き手不足の社会状況。
ですから、採用してくれる企業を探し、そこにトライすれば、就職はできる。
「一般就労は難しいぞ~、怖いぞ~」と言い、あたかも一般就労が難しいように見せかけるのは、自分たちの支援に引きつないでおく常套手段。
支援者が言うほど、「一般就労の壁は高くない」というのが、私が出会ってきた若者たちから教わったこと。


結局のところ、就職後、仕事が続くかどうかも含めて、身体の問題。
面接を1社受けるだけで、疲れてきって寝込む人は、次の面接まで気力、体力を回復させる期間が必要な人は、十中八九、仕事をしても続かないでしょう。
企業も、最初から即戦力になることを求めていません。
どんなに優秀な人も、その仕事のノウハウ、知識、技能、また会社の文化を学ぶ期間を経て、1人前になっていくから。
ということは、やっぱり1人前になるまでの道のりを立って歩いていけるだけの身体が必要ということ。
「仕事は身体が資本」とはよくいったもので、採用も、採用後も、身体がモノを言います。


1社、2社の不採用で、自分の尊厳まで否定されたような受け止め方をするのは愛着の問題。
1社、2社の面接で、次に行けないのは、身体の問題。
「自閉症だから」「発達障害だから」「周囲の理解がないから」というのは、支援者ムラの論理であって、仕事の論理とは異なります。
結局、自立、社会に出るまでに育つべき部分が育っていないというだけ。
そこは、障害とか、周囲の理解とかの問題ではありません。
単に、発達という次元において、準備できていないのです。
それを直言するのは、意地悪でも、障害に理解無いわけでもなく、それが事実だし、そこが目標達成への通り道だから。


ちょうど一年前、一般就労した若者から、「今も仕事頑張って続けています」と連絡がありました。
「面接で不採用になるんです。どうしたら、就職できますか」という相談に対し、「受かるまで、面接を受けること」とお話ししたのが思いだされます。
障害だ、なんだと言いますが、一般就労する方法はただ一つ。
「受かるまで受ける」しかないでしょう。
それには、1社、2社、不採用でへこたれたり、寝込んだりしているようじゃダメ。
ですから、身体を整え、また未発達とヌケは育て、採用まで足を動かせる身体を作っていくしかない。
特性も、周囲の理解も、変えられないけれども、自分の身体なら育てられるし、整えられるでしょ。


以前は、「自閉症の人には〇〇という仕事が向いている」なんてことが良く言われていましたね。
でも、私は空想するのです。
「自閉症の人ができない仕事って何だろうか?」と。
認知や身体的な機能に障害がある人は、「できない仕事」というものがあるかもしれません。
じゃあ、五体満足に生まれ、ただ自閉的な脳の処理形式を持っている人ができない仕事とは…。
私は、自閉症の人にできない仕事は“ない”と考えています。


成人の方は、「自分には学歴も、職歴もない」と言われます。
そんなとき、決まって私は、その五体満足な身体があるじゃないか、とお話しします。
その身体があれば、できる仕事がある。
身体が資本。
そして、その資本である身体は磨くことができる!
何も、絶望する必要はありませんし、その絶望する時間が勿体無い。
若い時代の時間は、自分を変えることを容易にするのですから。

2020年3月6日金曜日

【No.1024】この“今”というときを、より良い未来のために

後日、手紙やメールを頂戴することがあって、今日も一通届いていました。
「新型コロナ、大丈夫ですか?」というお気づかいと共に、「今は、心から子育てが楽しい。我が子が愛おしいと思えるようになりました」と記されていました。
本当にうれしいですね。
この仕事を起ち上げて良かったと思いますね。


私の仕事は、発達障害を治すことではありませんし、親御さんにとっても、子育ての目的は治すことにはなりません。
「何故、治すのか」といえば、その子の未来をより良くするためであって、そこには「自立」と「自由」と「選択」がより良いものへとなるような願いがあります。
究極でいえば、ゴールはその子が幸せになること。
その手段、方法の一つとして“治る”があるし、親御さんには“治す”がある。
ひと家庭ずつ、訪問し、時間と場を共有し、じっくり子育てについて考える仕事ですから、我が子に幸せになってほしいと思う親御さんも、幸せを感じてもらうというのが、この事業の意義、存在理由だと思います。


事業を起ち上げてから、もうすぐで丸7年が終わろうとしています。
開業当初より、親御さんの中には、「子育てが楽しいと思えない」「私は子どものことが好きではないのかもしれない」「正直、我が子を愛おしいと思ったことがない」、そんな心のうちを話してくださる人達が少なくありませんでした。
私は最初、家庭内の孤立や共働きによる余裕の無さ、子や兄弟が減ったことによる体験不足など表面的な捉え方をしていたんですね。
今、振り返ると、本当に薄っぺらい、リアルのない捉えです。


でも、ずっと、このような親御さんの生の声に耳を傾けてきますと、子育てが楽しいと思えないのではなくて、「楽しいとは思ってはいけない」「愛おしいなんか、軽々しく言ってはいけない」、そんな自分で自分を否定するような、ストッパーをかけているような、雰囲気、本当の姿が見えるようになってきたんです。
中には、その背中に、十字架を背負っているかのような姿すら感じる方もいました。


親御さん達は、何を背負っているのか。
それは、私には理解することも、「わかります」なんて言葉を発することもできない、とてもプライベートな感情だと感じます。
雰囲気から感じることですが、どの親御さんも、多かれ少なかれ、後悔の念をお持ちになっている。
小田和正ではありませんが、「あの日、あのとき、あの場所で」という後悔。


心のどこかには、常に「私があのとき、そうしなければ」という想いがあって、その想いが今の我が子の発達障害と繋がっている。
最近では、「私がしっかり栄養を摂っていれば」「私が妊娠中、無理しなければ」「すぐに立ったとき、もう少しハイハイをやらしておけば」「赤ちゃんのとき、スマホを与えなければ」と、後悔がよりリアルになっている気がします。
発達障害が先天的とはいえなくなった現在。
むしろ、後天的な要因によって、遺伝子にスイッチが入ることが明らかになってきた現在においては、「ゆえに治り、ゆえに苦しむ」という二つの側面と向き合う必要があるようになってしまった。
希望であり、後悔。
治り方、治し方が分かるということは、心の奥にしまい込んでいた後悔の扉をも開く結果となるのかもしれませんね。


発達相談でお話ししていると、涙を流される親御さんが少なくありません。
私も、お子さんの雰囲気から、発達の流れ、物語を紡いでいければ良いんですけど、まだまだ自信がない。
だから、どうしても、発達の始まりを聞きたくなります。
一つずつ辿っていき、ああ、ここから本来の流れからのズレが起きたのね、と答え合わせするような一流になれない自分の腕を悔いつつ、仕事をするんです。


親御さんの流す涙に、同情も、理解も、する資格は持ち併せていません。
「そんなことはないですよ」とも、「そうですね」とも言えず、涙が流れ切るのを待つくらいしか、私にできることはありません。
でも、次の瞬間、私達は先に進まなければならないのです。
私も、親御さんも、過去のために生きるのではなく、子の未来のために生きるから。
見ず知らずの私が、あるご家庭の、あるご家族の時間、場の共有を許されるのは、「未来を良くする」、ただ一点のみなのです。


成人の人達は良くこう言います。
「治ってから、社会に出る」「治れば、社会に出られる」
でも、実際、治っている大人たちは、そうじゃない。
みんな、治りかけで社会に出ていく。
つまり、治った部分と治らない部分を持ち併せて、社会に出ていくのです。
別の言い方をすれば、「まだ治るよ」という余地を持って出ていくということ。
治る余白を持って社会に出ていく姿には、ワクワク感が漂ってますね。
治る仕上げの部分は、社会が担ってくれると私は思っていますし、そういった余白がある方が、治り切るまで自分の歩を進められるんだと思うんです。


親子の話に戻れば、治すための子育てをしているうちは、子育てを楽しいとも、我が子を心から愛おしいとも、思えないような気がします。
やっぱりどこかで、お子さんはそれに気が付いていて、伸びやかさに違いが感じ取れたりします。
まだ治すところがあるけれども、同年齢の中に飛びこみ、そこで心身を解放できている子がいて、一方で、ほとんどが治ったんだけれども、同年齢の中へはちょっと、という子がいる。
私の印象では、子どもらしさの違い。
子どもらしさの内側に発達の課題があるか、発達の課題の内側に子どもらしさを感じるか。


私は発達相談の中で、「もう治すための子育ては終了ですね」というお話をすることがあります。
それは、もう家庭で治す部分は完了し、あとは同年齢の中で、学校や保育園、コミュニティの中で、子どもさんが自分自身で治していくところまで来ましたね、という合図です。
成人した人達と同じように、やっぱり最後の「治り」は、本人の手に委ねられ、社会との相互作用の中で完成をみると思うのです。


同時に私は、その言葉の雰囲気の中に、親御さんへの想いを折り込んでいるんです。
もう後ろではなく、前を向いて、子育てを、今、この家族でいる時間を楽しみましょう、と。
いろんな要因があり、発達に本来とは異なるズレが生じた。
私達が見えている要因は、その一部ですし、その一部が正しいかといえば、確かめようがないのです。
それこそ、ある親御さんは、我が子が自立するまで、幸せになるまで、「後悔の念は消えない」と仰っていました。
もちろん、その考えに、私がとやかく申し上げる資格も、理由も、ございません。


だけれども、いろんな家族、親子を見てきたからこそ、私は伝えたいことがある。
それは、成人した我が子を持つ親御さん達の想い。
「この子が子どもだった頃、私がもっと子育てを楽しめたら、と後悔する」という言葉。
いつしか、「障害を持った我が子を…」というよりも、子ども時代を、短い子育ての時間を心から楽しめなかった後悔が勝るときがくるのかもしれない、と私は感じるのです。
ですから、子育て真っ最中の親御さん達には、お子さんが最後の部分を自分で治り切るためにも、お子さんが伸びやかに子どもらしく短い子ども時代を過ごせるようになるためにも、そして親御さんご自身が将来の後悔を残さないためにも、未来を見据え、今を楽しむことの大切さをお伝えしたいです。


「愛おしい」「愛おしい」といつも書かれている方がいました。
でも、その「愛おしい」という文字には、自分に言い聞かせている姿がみえたのです。
実際にお会いし、「愛おしいと思えない」という心の声をお聞きしたのが、昨年のこと。
それから一年が経ち、いただいた手紙には、「初めて我が子が愛おしいと思った」という文字。
ご家族そろった写真の中には、愛おしさが溢れていました。
春からは、同年齢と一緒の幼稚園へ。
就学までに、お子さん自身で、子ども同士の関わり合い、育ちあいの中で、最後の「治った!」の仕上げをされていくと思います。

2020年3月5日木曜日

【No.1023】私達は不必要なものに囲まれ生きている

連日、うちは学童保育所か、保育園か、という具合に、家の中で息子たちが騒いでいます。
通学できず、通園できず、それでいて友達と遊ぶこともできない。
少しでも、外で遊ぶ機会を、家の中で楽しいことを、とは思っているのですが、親としてできることには限度があります。
でも、こうやって兄弟がずっと一緒にいることは今まで少なかったので、やいのやいのと喧嘩しつつも、二人にとっては貴重な時間なのかもしれない、と思っています。


いろんなお子さんの発達と関わっていますので、我が家でもゲームは買い与えていません。
ふと、こういったときに、「ゲームがあれば…」なんて考えることもありますが、長い人生、脳が柔らかい時期への影響を思えば、これで良かったのだと思います。
やりたければ、もう少し成長してから、大人になって、腐るほどやればいい。
他の家庭の話を聞けば、「一日、ゲーム」というところもあるようですが、本来、子どもというものはたくましく、創造性豊かですから、うちの子も、いろんな絵を描いたり、工作したりして、この時間を楽しんでいるようです。


大人の私も、週末外出禁止、ジムにも行けず(涙)という状況ではありますが、案外、家の中でどうにかなるものです。
平時は、当たり前だと思っていたものも、案外なくても大丈夫。
むしろ、いらなかったのでは、余分に持っていたのでは、と思うことばかりです。
30年前の子どもも、制限のある今だからこそ、気が付くこと、創造性が刺激されることが多々あるように思う今日この頃です。


ある親御さんとお話ししていて、「療育も全部、中止になった」ということがありました。
そこで私は、その親御さんに訊いたわけです。
「療育に通わない状況で、お子さん、どうですか?」と。
すると、「何も変わらない」という返事がきたのです。


活動が制限され、家の中で過ごす時間が長くなると、「家でできる発達につながることを」と考えられるご家庭が多いと思います。
子どもにとっての1ヶ月は、とても長く、とても貴重な時間だといえます。
ですから、何か1つでも発達につながるようなことを考え、実行することは大事です。
しかし、それだけではなく、こういった機会だからこそ、今まで受けてきた支援、療育、教育を振り返ってもらいたい、と思うのです。


今、目の前にいる我が子に、支援、療育、教育は、何をしてくれたのか?与えてくれたのか?
半強制的ではありますが、一旦、ゼロになったとき、改めて見えてくることがあるのだと思います。
療育に通うことが当たり前だと思い、通ってきたけれども、そこでどんな発達、成長があったのか、学びがあったか。
通っていない今、お子さんは、家の中で発達、成長はしていないでしょうか。
それとも、今までと変わりなく、少しずつできることが増え、発達、成長が見られているでしょうか。


日常のルーティンが崩れたとき、家の中で大変な状況、不安定な心身の状態が続いてるというお子さんもいると聞きました。
こういった不測の事態だからこそ、日頃の支援、療育、教育の成果が表れるのだと思います。
もし、このような状況や変更において、心身が大きく乱れるとしたら、自立への道はまだまだ道半ば、先は長いといえるでしょう。
自立とは、自分の足でしっかり立つということです。
つまり、自分の内側にしっかりとした軸を持つ、育てるということです。
自分軸がしっかり確立されていない人は、自身の選択でなく、周囲からの刺激によって心身が連れされられていく。


支援者は往々にして、「こういう事態だから、変化に苦手な子ども達だから、仕方がないですね」みたいなことを言います。
でも、子ども達のこの先の人生を、ずっと変化のないようになんかすることはできません。
だからこそ、療育があり、教育があるのだと思います。
もし「障害だからね」みたいな言い方をする支援者がいたとすれば、「だったら、あなたのところで育つことはないですね」と切り返しましょう。
最初から特性でどうにもならないのなら、支援も、療育も、教育も、受ける必要はないのですから。


この状況は、私達支援者の質、腕が試されるときでもあります。
日頃、偉そうなことを言っていたとしても、関わりが無い今、その子に何も残っていなければ、それまで。
親御さんは、通うことが目的となっていなかったか、または、もうその人から教わることはなくなっていたのか、を改めて感じるときでもあります。
私もそうですし、他の心ある実践家の人達も同じだと思います。
私達は、その瞬間、発達という側面から関わり、本人の自立を一番に目指している。
ですから、「もうお願いすることはないな」「もう必要な援助は受けた」と感じられるのでしたら、卒業してもらって構わないのです。


この前、出張訪問した親御さんから、「私たち家族は大丈夫だと、この子はちゃんと治っていくと、改めて思うことができました」とメッセージを頂きました。
このご家族に限りませんが、私が実際に訪問し、お伝えしたいことは、まさにこれです。
支援者のできることなんて、ごく僅かです。
どう頑張っても、家族の育み合いには敵いませんし、やっぱりお子さんの発達障害を治していくのは親御さんであり、家族です。
治しているご家庭は、「良い人と出会えた」というようなことをおっしゃいますが、実際はそのご家庭が素晴らしい努力をされているだけ。
私達支援者なんて、数多あるきっかけの一つ、刺激の一つでしかないのですから。


皆さま、療育を休んでも、おうちで成長しているでしょ、お子さんは。
数か月に1度の診察に通っても、何かが特別に変わるわけじゃないでしょ。
ある親御さんは、「この前、風邪で一回診察飛ばしたら、親子で気持ちが穏やかで~」なんてことを言っていました(爆)
診断を受けた人は、定期的に診察を受けなきゃいけないなんて決まりはないのですよ。
同じように、発達障害の子は療育に通わなければならないという義務もありません。
義務教育ならず、義務療育になっていませんかね。


こういったときだからこそ、今まで受けてきた過去の支援、療育、指導を振り返る。
そして、きちんと評価する。
どんな仕事も、結果がすべて。
プロセスが評価されるのは、高校の部活動まで。


同じように、今、受けている支援、療育、指導も評価する。
休んでいる今も、なんら影響がなければ、意味がないか、卒業の合図。
また、今、心身が乱れているのなら、日頃の支援、療育、指導の方向性の見直しが必要だということです。


案外といいますか、結構、療育、支援、教育なんて受けなくても、子どもは自ら動き、考え、学び、育っていくものです。
非常事態に、支援者ってあまり役に立たないでしょ。
相談しても、決まった返事しか戻ってこないでしょ。
教科書通り、「見通しを」「楽しいことを」「刺激を減らして」くらいなもの。
役に立っているとしたら、それは発達に対する支援ではなく、物理的な援助について。
つまり、預かってくれること、見てくれていること、発達援助ではなく、介護&レスパイトという面で。


あることが当たり前のときには、見えづらかった必要、不必要。
本当に必要なものは、案外、少ないものです。
休みが長くなれば、「子どもが通ってこない分を補償して」という声が上がってくるでしょう。
それもまた、支援者の本質を見る良いきっかけとなります。
発達に関しては、家族で十分です。
一方で、支援者にとっては、発達障害の人が必要ということですね。
そりゃあ、治ってほしくないわけです、治った人を全力で否定するわけです。

2020年3月3日火曜日

6月21日(日)『どこでも治そう発達障害の会』特別講座開催のお知らせ

2020年6月21日(日)に、『どこでも治そう発達障害の会』特別講座 in 函館を開催します。
講師は、花風社の浅見淳子さん、からだ指導室 あんじんの栗本啓司さんです。


仕事のパートナーとして、社会人の一人として、出版社社長として、長年、自閉っ子、発達障害の人達、その家族、治す知見を持った実践家の人達と多く関わってこられた浅見淳子さん。


コンディショニング指導を通して、『生きづらさ』の根っこから整え、育み、その身体症状を治していく栗本啓司さん。


お二人の知見を目の前で感じ、同じ場で学び、一緒に理解を深めていきませんか?
お二人には、講座が終わり帰ったあと、すぐにご家庭で、ご自分で実践できることを中心に、講演とコンディショニング講座を行っていただきます。



『どこでも治そう発達障害の会』特別講座 in 函館

日時:2020年6月21日(日)
場所:函館市市民会館(函館市湯川町1-32-1)
時間:【午前の部】 9:30-11:30 【午後の部】 13:00-16:00
参加費:1講座につき、大人3,000円 子ども(18歳未満)1,000円
定員:各30名ずつ


 【午前の部】 9:30-11:30
コンディショニング講座『家庭でできる親子の身体育て』
講師:栗本啓司さん 司会&解説:浅見淳子さん

【午後の部】13:00-16:00
基調講演『発達障害がどこでも治ると言える理由は何か』
講演者:浅見淳子さん

コンディショニング講座『支援できる身体育て』
講師:栗本啓司さん 司会&解説:浅見淳子さん


メールの件名に、「特別講座 参加申し込み」とお書きになり、必要事項(①お名前 ②参加する講座名 ③参加される人数)を記入の上、てらっこ塾(terakkojyuku@gmail.com)までお申し込みください。
お問い合わせも、てらっこ塾 大久保が承ります。


 
 
 

【No.1022】触れる主体は誰か?

お子さんの雰囲気から、「皮膚が育っていないな」「皮膚の育ちが今、必要だな」と感じることがあります。
そういったとき、私は「皮膚を育てましょうね」というお話をします。


どういうときに、皮膚の課題を感じるかといいますと、やはり一番は、身体と空間の境目がないとき。
他者との距離感が近すぎたり、背面の意識が乏しかったり。
他には、触覚刺激に過剰or過少の反応だったり、本人のモノへの触り方に違和感が見られたりするときです。


このような課題があるとき、親御さんの多くは、マッサージやスキンシップを通して、皮膚を刺激し、育てようとします。
私もそれが良いと思い、ずっと仕事をしていました。
でも、最近、皮膚への刺激で育つ子もいれば、そうではない子もいることに気づきました。
と言いますか、気づいていても、それに対する解を私が持ち併せていなかったのだと思います。


ヒトが最初に皮膚を感じるときは、いつでしょうか?
ヒトは、どうやって皮膚感覚を育てていくのでしょうか?
そういった物語の中に、“解”があったような気がしました。


胎児が皮膚感覚を得るとき、つまり、「あ、自分には皮膚がある。包まれたものがある」と気づくのは、自分の手が口元に、足がお母さんの子宮壁に、当たったとき。
もし、子宮内が手足が伸ばせるくらい広ければ、腕が曲がらず伸びきった状態のままであれば、羊水から得られる全体的な圧のみの刺激しか得られないはずです。
こういった連想をすると、羊水から得られる全体的な圧と、自ら身体を動かし得られる感覚刺激には、違いがあるような気がするのです。


足を動かす→子宮壁に当たる→当たった刺激が皮膚を介し、体内へと戻っていく。
行動に伴う感覚刺激のフィードバック。
この繰り返しが、皮膚を育て、感覚器を育てていくのだと思います。


マッサージやスキンシップで皮膚が育ったお子さん達は、きっと羊水からの圧刺激に満たされなさがあったのだと思います。
ですから、今まで、皮膚に刺激、特に圧刺激を得ることで発達してきた子ども達がいた。
一方で、それでは育たない、育ちがゆっくりな子ども達というのは、胎動による皮膚刺激に満たされなさがあったのだと想像します。


皮膚に対する圧刺激というのは、どちらかといえば、受け身です。
でも、胎動によって得られる刺激というのは、能動的だといえます。


こういった連想が続いていくと、今までの「皮膚を育てましょう」という私の発言が、不親切で、薄っぺらいアドバイスもどきだったと思うのです。
皮膚の発達に課題がある子ども達の中に、手足を使って遊ぶことで育ちきった子どもさんがいました。
それは、能動的に手足を動かし、そこで触れた刺激を末梢神経→中枢神経を通り、脳へとフィードバックさせ、育てていたのでしょう。
この手足を存分に使って遊ぶ姿は、胎動と重なります。


いわゆる五感の中で、もっとも早く出現するのが触覚だと言われています。
胎児期の前半、感覚機能で存在しているのは、この触覚のみ。
触覚が育つことが、他の感覚の発達へとつながるような気もします。
そういった意味で、触覚、皮膚の育ちが重要であり、受動的&圧感覚と、能動的&触感覚を分け、その子の育ち具合に合わせて育てていくことが大事だと思います。


「皮膚を育てたいから、触ればいい」というわけではなく、本人が能動的に触れる機会を大切にしていく。
「触れる主体は誰か?」という視点が重要ですね。

2020年3月1日日曜日

6月21日(日)『どこでも治そう発達障害の会』 特別講座 in 函館

このたび、北海道函館市になんと!花風社の浅見淳子さん、からだ指導室『あんじん』の栗本啓司さんをお招きし、特別講座を開催することになりました。
この講座は、発達障害を治す知見を持った講師の人達を全国に派遣し、本人や家族の悩み解決、より良い発達、子育てを応援する『どこでも治そう発達障害の会』のご協力をいただき、開催実現に至りました。


長年、発達障害に関する書籍を出版されてきた花風社の浅見淳子さん。
浅見淳子さんは、支援者としてではなく、仕事のパートナーとして、社会人の一人として、発達障害の人達と関わってこられた方です。
いち早く、自閉症の人達の「身体の問題」に気づき、それが学業や仕事だけではなく、人間関係や社会で生きていくこと、つまり、自立を阻む大きな障壁になっていることを理解されていたのでした。
そこから、「どうすれば、自閉症の人達の身体の問題を解決できるか?」「少しでもラクになれるか?」、その一心で、全国にいる優れた知見を持った人達を尋ね歩き、集めたアイディアを書籍の形に表し、数多く世に送りだしてきました。


『自閉っ子、こういう風にできています!』の出版から15年。
その15年間の歩みの中で見てきたこと、見えてきたことを、出版だけではなく、全国各地で講演をされている浅見さんにお話しして頂こうと考えております。
基調講演のテーマは、『発達障害がどこでも治ると言える理由は何か』です。


もうお一方お招きする講師は、神奈川県小田原市で愉しみながら身体や動きを整え、育てる指導をされているからだ指導室 あんじんの栗本啓司さんです。
栗本啓司さんは、古今東西のあらゆる療術、体操、ボディワークを学ばれ、25年以上、老若男女、障害を持った人たちへの指導を実践されてきました。
現在、小田原には、全国から指導を受けたい人が集まってきており、また全国各地から依頼があり、出張での指導、コンディショニング講座も毎週のように行われています。
発達障害の人達に多く見られる「眠れない」「季節の変化に弱い」「感覚の過敏さ」などの生きづらさに対して、身体のどんな状態、課題と繋がっているのかを確認し、身体を整えること、背景にある未発達の部分を育てることによって解決していきます。
栗本さんの指導は、トレーニング、訓練で身体を変えていくというのではなく、自分の感覚を大切にしながら、「自分の身体とのより良い付き合い方が見つかっていく」「自然と身体と心が変わっていく」というような雰囲気があります。


*3月2日、栗本さんより、参加を検討されている方たちへのメッセージを頂きました!
「私たちの体は、常に自分の身を護ろうとする働きが備わっています。具体的には体だけでなく脳も常に安全を求めています。
体が緊張することで脳の働きにも制限がかかり、本来発達すべきところが遅れたり、ヌケ落ちたりします。
発達障害の障害や特性という視点より各個人の発達や体の仕組み(特に緊張⇄弛緩の働き)を大局的に捉え、ご家庭や各自でできるコンディショニングをお伝えしたいと思います。」



日々の子育て、家庭生活の中で行えるお子さんの身体の育て方、整え方を、午前のコンディショニング講座『家庭でできる身体育て』で、
親として、支援者として、教師として、今よりも良い関わり方、育て方ができるようになるために、まずは自分の身体を通して理解を深め、その姿勢を養っていく方法を、午後のコンディショニング講座『支援できる身体育て』で、
浅見淳子さんの司会&解説とともに、栗本さんに実践的に教えて頂こうと考えております!


浅見淳子さんも、栗本啓司さんも、多くの著書を出版されていますが、やはりライブ感のあるお話、目の前で行われる実践は、文字とは違った気づきや学び、心の動き、感動があると思います。
是非、親子で、是非、自分を磨く機会として、ご参加いただければ、と願っております。
午前、午後、どちらかのみの参加も可能です。
もちろん、午前と午後、2講座の受講も可能です。


本日、3月1日より募集開始いたします。
メールの件名に、「特別講座 参加申し込み」とお書きになり、必要事項を記入の上、てらっこ塾(terakkojyuku@gmail.com)までお申し込みください。
お問い合わせも、てらっこ塾 大久保が承ります。


 


日時:2020年6月21日(日)
場所:函館市市民会館(函館市湯川町1-32-1)
時間:【午前の部】 9:30-11:30 【午後の部】 13:00-16:00
参加費:1講座につき、大人3,000円 子ども(18歳未満)1,000円


【午前の部】 9:30-11:30
コンディショニング講座『家庭でできる親子の身体育て』 講師:栗本啓司さん 司会&解説:浅見淳子さん

【午後の部】13:00-16:00
基調講演『発達障害がどこでも治ると言える理由は何か』 講演者:浅見淳子さん
コンディショニング講座『支援できる身体育て』 講師:栗本啓司さん 司会&解説:浅見淳子さん


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【特別講座、6月21日、開催に向けて】

本日、3月1日は、福岡にて「どこでも治そう発達障害」創立記念講演会が開催されております。
この開催と同時に、函館で行われる特別講座のアナウンスと、参加募集開始を行うことが決まっておりました。
そのため、本日、告知を致しました。


皆さん、ご存じの通り、先日、北海道では非常事態宣言が出され、また全国各地、新型コロナウィルスの影響で混乱が生じている状況です。
これから先、どうなるのか。
どのように事態が終息へと向かっていくのか。
当然、私には、皆さまも、わからない状況だと思います。


講師お二人とも、既に航空券と宿泊場所の予約は済んでおります。
私の手元には、きれいに刷り上がったチラシと会場利用許可書がございます。
あとは、募集を募り、講師お二人を御迎えし、当日開催するだけです。
しかし、主催者として、最悪の事態、またあらゆる状況を考え、準備しておく必要があります。


当然、北海道にお住まいの方達が参加者の中心になると思いますが、明日をも分からない状況です。
その中で、6月の申し込みを行うことに躊躇される方もいらっしゃると思います。
ですから、私は次のようなことを考えております。


◎参加費は、当日、お支払い頂く。
⇒事前にキャンセルのご連絡を頂ければ、参加費やキャンセル料等を請求しません。


◎募集は、6月ギリギリまで行います。
⇒定員いっぱいになってしまったときには、募集を終了せざるを得ませんが、現在の情勢が落ち着いてからでもお申し込みいただけるよう柔軟に対応します。


◎会場の使用許可が得られなかった場合、他の会場を探します。
⇒今回、全国の公共施設で使用が禁止される事態が生じております。
函館市市民会館も、公共の施設ですので、同様の処置がなされる可能性もあります。
その場合は、ホテル等、民間施設で借りられるところを探します。


◎定員に満たなくても、開催できるようお二人の講師にお願いする。
⇒平時なら、すぐに定員が埋まるお二人の講座ではありますが、そのときの情勢がそうさせない場合も考えられます。
しかし、参加される方達の安全、関東から移動される講師お二人の安全が確保できる状況でしたら、計画通りの開催をお願いしようと考えています。
人数が満たない分の費用は、大久保が負担します。
ですから、もしお二人の了承、ご理解が得られましたら、参加される方が5人でも、10人でも、素晴らしい講座、より良い未来へと向かっていけるような講座を準備していきます。


なお、上記のことは、主催者である大久保一人が考えていることです。
こういった状況ではありますし、私自身、講師のお二人と話し合いを行うだけの材料、見通しを持ち併せていません。
ですから、今後、状況を見ながら、お二人の講師と連絡を取り合い、また私も準備していきたいと考えています。
なにか、決まったことや変更がありましたら、その都度、SNS等で発信していきます。
私は、予定通りの開催に向けて、これから3か月間、準備を進めてまいります。


不測の事態だからこそ、本質が見えてくる。
私の力が試される良い機会、職業人として成長できる機会だと捉え、頑張っていきます。
どうぞよろしくお願い致します!


2020年3月1日 てらっこ塾 大久保悠

2020年2月29日土曜日

【No.1021】変化に混乱する子は作られる

花風社さんの講演会、集まりは、とても心地が良い風が流れています。
きっと、みんなで諦め合うのではなく、慰め合うのでもなく、より良い子育てを、今よりも良い未来を、という前向きな想いで全国から集まってこられるからだといえます。
私も、来週の「質問する会」を楽しみに、募集と同時に飛行機をとって、という具合にしていたのですが、昨日の北海道緊急事態宣言のため、参加を見合わせる結果となりました。


幼い我が子達を残しておくことも、不安な状況にしておくこともできませんでした。
ひと様の発達、生き方に関わらせてもらっている私ですから、何よりもまず我が子の、家族のことを大事にし、それを行動として現せないといけないと思います。
ご挨拶したい人や、お子さんの様子などをお聞きしたい人がいらっしゃいましたが、次の機会を楽しみにしております。
そして、ご依頼くださった関東での出張相談にお応えできず、申し訳ございませんでした。
必ず機会を作り、伺います。


今朝の新聞を読んでいて、「障害を持った子ども達は、日常の変化に混乱する」という専門家のコメントを目にしました。
3月2日から全国の学校が休みに入るということに対してです。
こういった不測の事態が起きると、必ずといっていいほど、専門家が出てきて、障害を持った子ども達への影響をコメントします。
2011年も、同じ文言を多く目にしました。


結論から言えば、「変化に混乱する」というのは、固定された障害特性ではありません。
ひと言で言えば、身体が育っていない、感覚系の未発達です。
未発達ゆえに、視覚的に処理できる部分に頼って生きているだけ。
だから、いつも目にしていたものが崩れると、たちまちわからなくなるのです。


また、変化への混乱は、後天的に作られた場合が多いと感じます。
みんなが背景にある未発達に気づかなかった時代は、スペクトラムという概念がなかった時代は、自閉症のこだわりがあたかも固定された障害特性のように捉えられていました。
今思えば、道順へのこだわり、車を並べるなどの固執は、未発達ゆえに限られた感覚を使い、なんとか対処していた行動であったのに。
パターンを崩されると混乱するのは、周囲の情報、環境からの刺激を得られる機能が制限されていたからでしょう。
私たちから見れば、「たったそれだけ?」と思われるような情報も、限られた機能で世の中を見ざるを得ない人にとっては、見失うと大変な苦痛と混乱になるのだと想像します。


こういった時代が長く続きましたので、いつしか、親御さん、支援者の中にも、「変化が苦手」が染みついてしまいました。
その結果として、不安定にさせたくない親御さん、支援者は、変化のない環境を用意することへと突き進んでしまった。
そうなると、ますます悪循環。
根っこは、身体、感覚の未発達だったのに、つまり、未発達ゆえの刺激の乏しさ、偏りだったのに、周囲の人間までもが「なるべく変化のない環境を」なんてしてしまうもんだから、ますます偏りは加速する。


そうなると、お決まりの支援や療育を受ければ受けるほど、グレーが黒くなる、障害者っぽく育っていくというやつです。
本人がコントロールしたいように、周囲が合わせていく。
こういったら、ああ答える、などのパターンの会話。
最初から混乱させないように、刺激を減らし、本人が望むような環境を先回りして準備しておく。
パターン学習と失敗させない環境づくり、育つよりも本人の安定。
未発達を育てる機会がどんどん減っていき、刺激はますます偏り、当然、脳も、発達全体も偏っていく。
はい、支援によって育てられた障害者のでき上がりです。


100歩譲って、3.11の頃は、まだ神経発達障害と言われていませんでしたので、古い概念で支援が展開されていても仕方がないかもしれません。
でも、そこから9年経ったのです。
その間、進歩はなかったのでしょうか。
ずっと、「変化に混乱する人達」で良いのでしょうか。
というか、そこに対するアイディアは、未だに周囲が理解しましょう、なのでしょうか。
民間企業で、結果を求められる仕事で、10年前と同じことを言っていては、同じサービスしかできなければ、一瞬で倒産です。
つまり、普通だったらあり得ない質のものに対して、税金を払い、そしてあたかも正しいことをしているかのように、専門家たちも、それを受け取る保護者達も、有難いように言い、有難がっていることは異常です。


10年前と同じことを言っている。
やっていることも、周囲への理解。
で、本人の苦しみは何一つ解決せず、親御さんの想いは、満たされないまま。
どうして、そういったものを利用し続けるのか、ちゃんと「NO!」と表明しないのか。
私は常々申していますが、一番悪いのは、向上心のない、古いコピーの使い回しで仕事をした気になっている支援者たちではありますが、利用者である親御さんも悪いと思います。
なぜ、意味がないと分かっているのに、療育に通い続けるのでしょう。
治す気がなく、我が子の将来なんて一ミリも考えていないし、責任を持つわけでもない専門家のところに行き、毎度、暗い気持ちになって帰ってくるのでしょう。


私も、こういった特別支援は潰れるべきだし、潰すべきだと思います。
何故なら、子どもの人生を大きく捻じ曲げることになるから。
ただの発達の遅れ、発達が遅れていますね、というお子さんが、療育に行き、発達の機会が奪われる。
年端もいかないうちから、将来、支援者が支援しやすい、いや、介護しやすいような訓練をさせられる。
未発達を育てる機会を取り上げられる。
同年齢の子ども達が体験するような遊びと学びの時間を取り上げられる。
それは子どもさんだけではなく、親御さんも。
きらめく、一番子供が可愛く、愛おしい時期なのに、そういった家族の時間、思い出まで奪われてしまうのです。


未発達は、障害でしょうか?
発達のヌケは、特性でしょうか?
発達が、同年齢と比べて、ゆっくりなのは異常なのでしょうか?
もう一度、神経発達障害の意味を各々がとらえ直す時期だと思います。


障害者は作られることもあります。
それは無知な支援者と、「NO!」と言えない親御さんによって。
直接喧嘩する必要はありませんが、ちゃんと拒否することが大事だと思います。
だって、大事な我が子だし、我が子の人生も一度きりだから。
10年前と同じことしか言えない人達に、大事な我が子の子ども時代の時間を手渡して良いのでしょうか。
もし、違う、それが嫌だというのなら、行動すること。
未発達、発達のヌケは、家庭で親御さんが育てていけます。
たとえ、そうやって育てられなくても、古い支援者たちのような「介護しやすい子に育てる」なんてことはないはずです。


緊急事態宣言から、私のような対面式で、実践的な発達相談は、しばらくお休みになるでしょう。
しかし、そんなことを嘆いていても、知事や首相をののしっても、何も始まりません。
せっかく、このような機会が得られたので、チャンスに変えなければなりません。
対面式ではないサービス、たとえば、今までの経験、実践をまとめたり、オンラインの相談を始めたり、ブログだけではなく、YouTubeによる情報発信なんていうのも良いかもしれません(笑)
まあ、読みたい本も、たくさんあるので、そちらで自分の腕や知識を磨き、またお仕事をいただけるようになったときに、バージョンアップしたものを提供できるようにしておくのも大事ですね。


この状況も、きっといつか、終わりがやってきます。
その終わりまでに、何をしておくかが、次のステップへつながると思います。
季節の変わり目でもありますので、皆さま、お体ご自愛下さいませ。
なんとかなるさ!ですね。

2020年2月28日金曜日

【No.1020】「正しく怖がる」までの発達過程

先日、飛行機に乗っていて、ふと思ったのですが、どうしてコロナ感染者の中にCAさんがいないのでしょうかね。
今日だって、中国に向けて飛行機は飛び立ち、中国からの飛行機が到着している。
クルーズ船の乗務員の人達に多く感染者がいたのにも関わらず、全国の空港職員に感染者が出ていない。
つまり、感染者がいないのではなく、検査を受けていない、または症状が重くない、軽症や無症状の人が多くいるのだと思います。


ヒトは、未知のものに対して、不安や恐怖を感じます。
これは知性が発達したヒトゆえの想像力がもたらすものです。
ですから、こういった実態の掴めないものを怖がるのは、ヒトとしての脳が育っている証拠です。
子どもがオバケを怖がるのは、ちゃんと脳が育っているからです。
赤ちゃんは、オバケを怖がりません。


しかし、これが極端に表れると、問題となります。
このたび、よく見聞きする「正しく怖がる」というのができない状態です。
何故、正しく怖がることができないか。
それは、脳と身体、脳と感覚のバランスが崩れているからです。


赤ちゃんは、身体が危険な状態にさらされると、激しく泣いて本能的に訴え、反射によって乗り切ろうとします。
その段階から、身体と脳が発達していき、少しずつ感覚的に危険かどうかがわかるようになります。
この「感覚的にわかる」というのは、身体を通して受け取った刺激に対し行動を起こし、さらにフィードバックを通してわかる(学習)ようになるのです。


乳幼児期の子どもさんは、なんでも口の中に入れますし、危ないと思われるような場所でも、どんどん進んでいきます。
上れるのなら、どんどん高いところまで上っていくのが、この時期のお子さんの特徴です。
まだ「感覚的にわかる」という段階を歩んでいる途中ですから。
そういったいろんな「危ない」を体験し、少しずつ感覚的に、「この辺でやめなきゃまずいな」「ここまではいけるな」という危険認知力を養っていきます。
これは、お母さんに「危ないから、やめなさい」と言葉で教わるのではなく、知識としてストックしていくのではなく、やはり自分の身体を通した体験から磨かれるものだといえます。


そういった意味でも、身体の発達、感覚系の発達は重要になります。
これらが未発達のままですと、身体を使った体験が乏しくなりますし、刺激と行動のフィードバックが限定されたものになってしまいます。
このような未発達が土台にある人達が、「正しく怖がる」ことができずに、頭でっかちで、限られた情報、狭い視野の中で妄想を膨らませ、脳内でどんどん恐怖に苛まれているのだといえます。


私の発達相談でも、幼いお子さんの場合は特に、この「危険の認知」は大事な確認ポイントになります。
だって、ここの育ちは、生命に直結しますし、大人になれば社会に背を向ける人になる可能性を高めますので。
「正しく怖がれない」人は、環境によって、自分が左右されます。
同時に、自分の脳内で膨れ上がった不安に耐えられなくなると、周囲の環境に向かって不安を吐き出し、安定を得ようとします。
自分の脳内で作り上げられた「不安」なのに、その妄想と整合性を取るために、「誰々が悪い」と何かのせいにしたり、周囲に対して同じように怖がることを強要するようになります。


乳幼児期で言えば、ちゃんと反射から体験の段階に進んでいるか、もう少し大きくなれば、体験から感覚を磨けているか、が重要になります。
よく見られるのが、反射を卒業し、体験の段階に進めているんだけれども、動きや感覚に発達の遅れがあり、十分なフィードバックが得られていないお子さんです。
そういったお子さんは、4歳、5歳になっても、危険を感じず、危ないことも平気で行っています。
ある程度、無鉄砲なのは、子どもさんの特徴で自然な姿なのですが、危険を察する場面が“増えていかない”というのは問題になります。


身体や感覚が育つと、急に「怖がるようになった」というお話を親御さんから良く聞きます。
「怖がらない」というのは、これも一つの未発達であり、ヒトは「怖さがわからない(反射)」→「怖さがわかるようになる(感覚)」→「怖いものとそうではないものが区別できるようになる(認知)」→「この程度なら大丈夫。ここからはマズイ(知恵)」という具合に、最終的に正しく怖がるまで発達していきます。
ですから、お子さんが、どういったものに、どれほど怖がるか、または怖がらないか、を確認することも大事な子育てのヒントになります。


私は出張相談を行っていますので、日頃からマスクや風邪薬、除菌セット等の準備は行っています。
ですから、あと数週間分の出張は大丈夫なようになっています。
ビタミンもストックOKですし、出張前後はビタミンCとDを盛ります。
コロナもウィルスの一種ですし、そのウィルスをゼロにすることも、リスクをゼロにすることもできないでしょう。
風邪に治療薬がないのと同じで、全くかからないようにするというよりも、かかっても重症にならないような準備が現実的な手段ではないでしょうか。
ウィルスと共存している我々人類ですので、今回のウィルスとも共存の道しかないのだと思います。


自分の身体を基準にしたリスクを想像し、それに見合った対策を取る。
それが人類の知恵ですし、人類の生存戦略です。
一定数リスクにさらされ、命を落とすことを前提とした他の生物とは選択が異なるのですから。
そのための余白を持って生まれた脳ですし、ヒトがヒトを長期間にわたって育てていく意味だといえます。


人生100年時代を生きる子ども達なので、今後も同じようなことがあるでしょう。
そのときの備え、親としてできることが、「正しく怖がる」段階まで発達を後押ししていくことだといえます。
危険を危険と感じるところから。
それには、危険を体験する身体と感覚の育ちが必要です。


発達障害を治している人達、子ども達は、こういったときに真価を発揮します。
将来、自立して生きていく姿の中には、このような危険の認知、発達も含まれるのです。
不測の事態だからこそ、見えてくる我が子の課題もあるはずですので、この機会を活かすくらいの気持ちでお子さんと関わってもらえれば、と思います。

2020年2月26日水曜日

【No.1019】発達が遅れているよりも、早いほうが問題

昨日も、親御さんからのお話を聞いていて思ったのですが、「この子、本人にニーズはあるのだろうか?」と疑問が浮かんできます。
幼児さんからの相談が多くなればなるほど、「どこのニーズ?」「誰のニーズ?」と思ってしまいます。


私のところに相談にいらっしゃる幼い子を持つ親御さんの多くは、「他の子よりも発達が遅れているな~」という感じだったり、そもそも健診で指摘されるまで問題だと捉えていなかったりします。
しかし、ふとネットで検索してみると、「発達障害の子に見られる行動」などの記述があり、不安に思い、公的な機関へ相談に行く。
そうすると、専門家は待っていましたと言わんばかりに、その不安を助長せるようなことを言ってくる。
中には、その場で障害名を告げるような医師や専門家、支援者もいるくらいです。


そうなると、最初は「遅れているな~」くらいな心持ちだったのに、いつの間にかただの不安が確証へと変わっていく。
それも、周囲からの言動、圧によって。
発達の遅れが障害となり、障害が支援を要する子どもとなる。
で、気が付けば、「支援を受ける」ニーズが作られている。
でも、この「支援を受ける」ニーズって、その子自身のニーズなんだろうかと思うのです。
これって、専門家が人為的に作ったものじゃないですかね。


私が親御さんによく言うのは、「発達が遅れているよりも、早いほうが問題です」ということです。
このご時世、少しでも発達に遅れがあると、すぐに「発達障害だ」「支援が必要だ」などという専門家気取りの輩が多すぎ。
私のところに来る相談の中に、その地域の権威や有名な専門家、公的な機関において、「発達の遅れを指摘された」と言われる方達がいらっしゃいます。
でも、その遅れとやらを確認しますと、ただ単に“今は”遅れているだけで、発達の流れ、成育歴を尋ねれば、少しずつ成長していることがわかったりします。


本当に問題なのは、その点において、まったく発達、成長が見られないことでしょ。
ゆっくり伸びているのなら、それのどこに問題があるのでしょうか。
子ども達は、どれだけ早く発達できるか、をみんなで競っているんですかね。
他にも、産婦人科医や小児科医の書いた専門書を見れば、「異常ではない定型の範囲」「発達の個性の範囲」と記されているのを、「発達の遅れ」とあたかも、それが異常のごとく、問題のごとく、告げられた、なんていうのも少なくありません。
産科医、小児科医と、発達障害専門の医師は仲が悪いのでしょうか。
教わる教科書が違うのでしょうか。
発達障害の子ども達は、定型発達の子ども達とはまったく異なる種の人間、という捉えなのでしょうかね。


「這えば立て立てば歩めの親心」はわかります。
でも、発達が早いということは、発達課題、プロセスの中に、短い部分、飛ばした部分があるということだといえます。
多くの方が勘違いしているかもしれませんが、この「十分にやり切らず」という方が問題ですし、実際、私が発達相談、援助を行っていく中で、飛ばしている子たちの方が、課題が複雑になっていて、治るまで時間がかかるのです。
単に遅れているだけの子は、その遅れになっている原因、ストッパーを外すと、すぐに本来の発達の流れに戻り、治っていきます。


「発達が止まっている」は問題だといえますが、「発達が遅れている」はどこが問題なのでしょうか。
発達が遅れている子、本人のニーズはどこにあるのでしょうか。
発達が遅れている、ゆっくりな子どもさんを見れば、この子たちからニーズの声が聞こえてはきません。
発達はゆっくりという面はあるかもしれませんが、家族の元で幸せに毎日を過ごしている姿があります。
そうやって子ども時代の心地良い時間を過ごしている子を捕まえて、「ほれ、発達が遅れている」「このままだと、問題が大きくなる」「将来、支援を受け続ける子だ」なんて、悪徳商法の一種ですか、「あなたあなた詐欺」ですか、なんて思ってしまいます。
「あなた、発達障害ですよ!支援の手続きしてください」
「わかりました。すぐに申請するね」
こうやって税金からなる支援が雪だるま式に大きくなり、続いていく。
障害という診断がついて、誰が一番喜んでいるのだろう。


1歳、2歳、3歳の子ども達に、「発達の遅れがある」。
「じゃあ、療育、支援」じゃなくて、どうして遅れているのかな、それは正常の範囲かな、と確認することが先でしょ。
チェックシートを持ってきて、当てはまるかどうかじゃなくて。
発達の遅れが、正常の範囲に入るのなら、「子育ての中で大丈夫。ちゃんと育っていくから」が、専門家として伝えるべき言葉。
原因があって、発達が遅れているのなら、その原因を指摘し、改善案を提示するのが、専門家としての役割。
同じように、発達のヌケ、未発達が今の課題となって表れているのなら、そこを伝え、育て直し方を教えるのが専門家としての仕事。
それをやらずして、単に遅れを指摘するだけ、チェックシートに丸つけるだけなら、専門家じゃなくていい。
それこそ、AIか、アプリか、でいい。
人が人の発達と向き合う意義を考えた方がよいのです、無条件に有難がるのではなく。


専門家に指摘され、不安が増し、ニーズが作られる。
これは、その子、本人の内側から発せられたニーズではないはずです。
我が子をそばで見ていて、内側から発せられたニーズを感じたとき、初めて専門家を頼るのが自然な流れだと私は思います。
専門家よりも、日々、それこそ、この世に生を受けた瞬間から共に歩んでいる家族に勝る存在はありません。
その家族が感じていないニーズは、本当のニーズではないのです。


親御さんの中には、「今は遅れているけれども、この子はちゃんと理解しているし、成長していく」とわかっている方達がいます。
そういった親の直感、感覚を大事にしてください。
その直感の多くは、正しいです。
だって、発達が遅れているのは、ゆっくりなのは障害ではないから。
子育ての中で、発達、成長し、治っていくお子さん達です。


発達のヌケや未発達を育て切っても残る課題が、障害。
でも、残った障害だって、本人が成長の中で折り合いを付け、工夫し、乗り越えていくことだってできるのです。
子ども達の持つ発達する力を見くびるんじゃない、専門家!
親の直感、育てる力を見くびるんじゃない、専門家!

2020年2月25日火曜日

【No.1018】関西出張(+広島)を終えて

昨日、3泊4日の関西出張を終え、函館に戻ってきました。
新型コロナが騒がれていますので、お断りされるご家族もいらっしゃるかな、とも思っていましたが、予定していた4家族の皆さんは大変温かく、反対に私の方を気遣ってくださいました。
本当にありがとうございました。


今回の出張を終え、一番に思ったのは、私の妻への感謝でした。
金曜日から移動しましたので、3連休をまるまる息子たちと過ごしてもらいました。
全国あちこち出張して一発勝負で発達相談をしている仕事に対して、いろんな方からお褒めの言葉を掛けてもらいますが、本当にすごいのは私ではなく、妻だと思っています。
家族の理解と協力がなければ、いくら治すアイディアを持っていたとしても、届けることはできません。


真っ先に家族のことを思ったのは、今回、お会いしたご家族の皆さまの影響だと考えています。
当然、訪問するご家族はお互いについて知りません。
ですが、今回はお子さん達の年齢が皆さん近く、そして何よりも、身体全身を使って我が子を思いっきり愛しているご家族でした。
どのご家庭に訪問しても、とても雰囲気が良いのです。
お子さんが、ご両親の愛情をたっぷり受け取っているのが、本当に良く分かりました。
そんな愛情たっぷりのご家族と関われたからこそ、自分の家族を一番に思い浮かべたのだと思います。


我が子を心から愛し、全身で表現しているご両親。
しかし、その家族のエネルギーを奪おうとする存在がいます。
幼い子を前にして、この子の将来がすでに決まっているかのように告げる専門家。
乳幼児期の中心は家庭であるのにも関わらず、そこでの様子、成長に耳を傾けることなく、チェックシートとにらめっこして、診断名をつける医師。


大事なのは、親御さんが知りたいのは、チェックシートに当てはまるかどうかではありません。
100歩譲って当てはまってもいいし、診断名がついてもいい。
でも、それ以上に、どうすれば、この子がより良く育っていくか、そこが知りたいのです。
そんなにチェックシートが大事なら、各家庭に配って、親御さんにつけてもらえば良い。
お金を貰って仕事している身なら、腐っても「専門家」と名乗っているのなら、より良い未来について具体的な助言ができなければなりません。


往復の飛行機で、ちょうど読めるくらいなのが新書なので、いつも1冊持って移動します。
今回、読んだのは『子どもの発達障害 誤診の危機』(ポプラ新書)です。
Eテレの『すくすく子育て』など、よくテレビにも出ている榊原洋一医師が著者です。
タイトルのように誤診や過剰診断についてが中心に書かれていましたが、私が読んで良かったと思ったのは、第6章の『発達障害は治る』という部分です。


発達障害を治すのは、子ども自身です。
どうして、子ども自身かというと、発達する力は、その子の内側に存在しているからです。
著者の榊原医師は、「outgrow」という言葉を使い、その様子を表現されています。
まさに、私達が行いたいのは、子ども達の内側にある発達する力を後押しすること。
そういった後押しを受けて、子ども自身で、障害を乗り越えていってほしい、というのが願いです。
障害が固定化されたものなんていうのは、ひと昔も、ふた昔も、前の認識です。
便宜上、引いた障害と定型の間の線。
そんなもの、子どもが自らの発達する力で飛び越えてしまうのです。
それこそ、「発達障害は治る」です。


今回、訪問させてもらったご家族は皆さん、しっかり我が子との愛着関係が築けていました。
子どもさんの表情、雰囲気からも、子どもさん自身が、親御さんからの愛情に気づいている様子が何度もみられました。
ですから、子どもさんが、今ある障害を飛び越えていく、発達の遅れを取り戻していくことが十分に可能と言いますか、あるのは「いつ飛び越えるか」という時間の問題だけだと思います。
何が発達のストッパーになっているか、今の遅れは何と繋がっているのか、についてお伝えしましたので、その点を今までの子育てにプラスして育んでいかれると、本来の発達の流れに戻っていくはずです。


せっかく我が子を愛し、家族の生活を楽しんでいる人達に対して、「今、発達が遅れている」「チェックシートに当てはまる」なんてことだけで、水を差す専門家は百害あって一利なしです。
家族の喜び、育む力を奪おうとする専門家なんていらないのです。
必要なのは、発達の遅れがあり、気持ちが揺らぐ、または後ろ向きになりそうな家族に対し、専門的な視点から具体的な助言と、それに伴うポジティブな未来、将来の可能性を伝えること。
家族、子育てと関わる専門家なら、その家族が、子育てがポジティブな方向へと進むための仕事ができなきゃいけません。


もちろん、単なる慰めや接待ではなく、核心をつく具体的な助言です。
ただ「遅れている」ではなくて、なぜ、今、遅れが見られているのか。
その遅れは、どういったことで育っていくのか、どのくらいで育ちきるのか。
「診断基準に当てはまる」ではなく、当てはまるのは、脳の特性からなのか、発達の遅れの積み重なりか、発達のヌケの影響か。
定型の子ども達でも行う動作も、通る発達過程も、すべて「自閉だから」「発達障害だから」というのは、自分自身で「私は勉強不足です」「定型発達を知らずに、ただの専門として発達障害をやっています」と言っているようなもの。


どう頑張っても、診断のチェックシートがつけれても、その人に発達障害を治す力も、知見もありません。
今の時代、診断に当てはまるかどうか、なんて大したことではありません。
たとえ、今、障害があろうとも、発達の遅れがあろうとも、その子の発達する力を信じ、自らの足で飛びこえていくことを後押しするのが、真の発達援助であり、自然な子育ての姿です。
診断とは、支援を受けるための手続きであり、支援を受けることは、支援を受けながら生きるという子の将来を他人が決めてしまう行為なのです。


支援を受けても、発達はしない。
発達したのは、その子の内側にある発達する力が発動しただけ。
支援を受けて発達するのなら、早期療育の子ども達は、大人になるまでにどれほど発達するのか、どれほど多くの人達が自立して生きていくのだろうか。


親がすることは、子の可能性を最大限に広げてあげること。
そのための1つが、発達障害を治すことであり、そのための後押しをすること。
発達障害を治すのは、子の将来の可能性、選択肢を広げるための子育ての一つです。


子どもの成長はあっという間です。
幼いお子さんのご家族からの相談では、「今しかない、この“とき”を大切にしてください」とお伝えしています。
特に就学前は、我が子が一番かわいいときであり、家族としても一番幸せを感じられる時間だと思います。
でも、その時間も、少しずつ短くなっているのです。
ですから、発達障害を治すのは大事だけれども、それが家族の時間のすべてにはなってもらいたくありません。
特別なことをしなくても、一緒にご飯を食べ、一緒に公園に出かけ、一緒に笑うだけでいい。
そういった今しかない家族の時間を積み重ねていくことも、子どもの発達には大事なことです。
主体的に、自らの意思と選択によって生きていける人は、子ども時代が家族でのきらめく時間で埋まっている人。


是非、今までの子育て、家族での生活をベースに、ちょっと今回お伝えした視点、方法、アイディアを加えていただければ、と思います。
どの親御さんも、我が子の発達する力を信じているのが、とてもよく伝わってきました。
きっと、子どもさん自身で「outgrow」、課題を乗り越えていかれると思いますし、私も信じています。
今回お会いしたご家族の皆様、誠にありがとうございました。



2020年2月20日木曜日

【No.1017】「障害がある子に見えない」という言葉の意味の変化

一昔前は、「障害がある子に見えない」「本当に、自閉症なの?昔は、こういう子、普通にいたよ」なんて口にすると、「そういうのが一番傷つくんです!」「そうやって、本人の自己肯定感が失われてくんです!」なんてことを言う人が大勢いました。
ですから、一般の人も含め、一度、診断を受けた子に対しては、ちゃんと障害者っぽく、障害者として接することが求められました。
これは、本人に対しての配慮というよりも、親御さんに対する配慮だったように感じます。
「見えない障害なんだから、周囲が理解して」というのは、未だに言う人がいるのかもしれませんが。


独立、起業してからは、誰に忖度する必要もありませんし、そもそも思ったことをストレートに表現する私ですので、「本当に、障害があるんですかね」「診断基準、満たしていますか?」なんてことを言います。
ここ最近は、どう考えても、本人の特性ではなく、単なる発達の遅れ、未発達だと感じるケースが多くなっています。
自閉症の中核的な特性は、社会性の部分です。
それなのに、1歳、2歳、3歳の子が、「自閉症」という診断名を受けています。
こういった幼い子ども達の社会性って…。
私が思うに、社会性の障害の部分が出てくるのは、もっと年齢が高くなってから生じるでしょうし、そもそも同年齢の子ども達の発達を見ても、みんな、まだ社会性が芽生え始めたばかりですね。


過剰診断やその原因まで問わない診断形式ですので、「本当に、障害なの?」と思うようなケースが増えていく一方だと思います。
しかし、最近、私が思うのは、治っていくアプローチを教わり、実際に治っていく人達が多くいるからこそ、その障害を疑う場面が増えたということです。
つまり、以前は、私の無知により「障害」と見えていた人、部分が、今は育み方が見えるし、治る可能性が高いと感じられるようになったのです。


私が施設で働いていた頃、いや、この事業を始めた当初は、「治る」が見えていなかった。
だからこそ、対処療法を学んだし、実践もしてきた。
「治らないんだから、少しでもラクに」という具合に。
当時、私が治す方向へ支援できていなかったのは、今のような過剰診断が多くなかったからでも、超早期診断が行われていなかったからでもありません。
単に、私が知らなかったから。
今振り返れば、治る可能性があった子ども達も多くいたと思います。
ですから、子ども達の“障害”のせいではなく、彼らの育みにかかわる者の問題だったのです。


発達のヌケや未発達の部分を育む方法を知っているか、知っていないか。
実際に治った人を知っているか、知らないか。
「知る」ということは、本当に大事なことだと思いますし、親御さんや先生なら、子の将来を左右しかねないとすら感じます。
何故なら、固定された障害と見ている限り、治そうなどとは思いもしないから。
そして何よりも、「障害児」「障害者」として見て、接することは、その子に「障害者として生きなさい」というメッセージを常に与え続けることになってしまうから。
メッセージとは、言葉だけではなく、その接し方、態度、生活全般を通して伝えられ、影響を及ぼします。


言葉を発しない子が、周囲から「想いも、考えもない子」と見られ、ずっと分からない子として育てられてきた。
その子が大人になり、ようやく自分の想いに気づいてくれる人と出会った。
伝える手段がなかっただけで、しっかりとした想いと考えを持った子。
子ども時代から、そこに気づいていれば、彼の人生、学ぶ機会はまったく違ったものになったのに。
失われた時間は、どう頑張っても戻ってはこない。
こんな話、幾度となく耳にしました。
これもまた本人ではなく、周囲の人間の「知らない」が及ぼした悲しい結果だといえます。


せっかくネットがあり、行こうと思えば、全国どこでもすぐに行ける時代を生きているのですから、その恩恵は十分に味わったらよいと、私は思います。
令和の時代、住んでいる地域に治った人がいない、治そうなんて言う専門家がいない。
そんなの理由にはなりません。
野村克也監督がよく言っていた言葉の中に、「先入観は罪、固定観念は悪」というものがあります。
もしかしたら、子が治らないのは、その地域の問題ではなく、治らないという先入観を持ち、「障害者は、周囲が支援し、理解してあげる存在だ」という固定観念を持っている、周囲の大人が原因なのかもしれません。


どの道もそうですが、自信のない人間ほど、専門書を買いあさり、新書をバカにし、権威に惹かれ、名も無い実践家をバカにする者です。
しかし、実力がない者は、専門書を読んでも、理解できない。
別の言い方をすれば、本質を見抜く目があれば、専門書も、新書も、ブログも、権威も、実践家も、
親御さんも、みんな同じに見える。
本にせよ、人の発信にせよ、その価値を決めるのは、受け取った人間の“目”なのかもしれません。


私には、何よりも質の高い、貴重な情報が溢れている空間だと感じます。
特に、ライブ感のある生きたやりとりが展開されているところが素晴らしいといえます。
実際に治った人、その人が治った道筋を知ることは、目の前にいる子の未来を変えていくと思います。
まず知ること。
そして、自分の内側にある先入観と固定観念を壊すきっかけを与えてくれる。
是非、『治そう!発達障害どっとこむ』  https://naosouhattatushogai.com/  を覗いてみてください。
私は自信を持ってお勧めいたします!

2020年2月17日月曜日

【No.1016】『知的障害は治りますか?』(花風社)を読んで

著者の愛甲さんの文章、言葉を目にすると、いつも目の奥に人の姿が現れてきます。
人を大切に、人との関わり合いを中心に、臨床をされている方なんだと想像します。
ですから、その語られている言葉には、必ず繋がっている人物の存在があるのでしょう。
臨床、現場を大切にされている方の言葉は、一緒に雰囲気まで運んでくれる。
それは、言葉以前の段階まで含めたアプローチをされている何よりの証拠だと、私は思います。


今回は、花風社さんから出版された新刊のご紹介です。
冒頭でもお名前を記させていただいた心理士の愛甲修子さんの著書になります。


「治りますか?」という題名の著書は、今までにも花風社さんから出版されてきました。
最初に、その「治りますか?」という言葉が入った書籍は、2010年に出版された『発達障害は治りますか?』です。
このときの著者の中に、愛甲さんのお名前もあります。


この『発達障害は治りますか?』は、時々、読み返す本の一つでもありますが、今感じるのは、「?」に疑問の雰囲気が強かったこと。
でも、それから10年経った現在、出版された『知的障害は治りますか?』の「?」には、ほとんど疑問の雰囲気を感じません。
つまり、10年前、「本当に治るの?」という想いを持っていた段階から、私達は「治るよね」という自信、確信を持つことができた、ということ。
それは、この10年の間で、実際に治る人が一人、二人の話ではなく、あっちもこっちも、という状態に変化したということなんだと思います。
発達障害はもちろんのこと、知的障害を持った人の中にも、IQが伸び、手帳返納する人が珍しくない時代となりました。


読者の一人として、このような印象をもつ一方で、「治りますか?」とタイトルにあったのには、そのこと自体に意味があるような気がします。
著書を読めばわかるのですが、やっぱり全国には、まだ「治りますか?」と疑問を持っている人がいて、さらにいえば、疑問すら持てずに過ごしてしまっている人がいる、ということなんだと思います。
ですから、そういった方達に向けた花風社さんのメッセージであり、応援の意味がこもっている「治りますか?」という問いかけのような感じがします。


著書の中で、愛甲さんは「目詰まり」という言葉を使って、神経発達を滞らせる要因、状態について説明されています。
私も常々、発達障害とは1つの個体という意味でなく、その人の発達の流れの中に生じた目詰まりから形作られた今という捉えですので、とても共感しました。
生来的に、発達障害になるということが決まっているのではなく、目詰まりを起こした結果である。
そのように本質を理解すると、「治りません」と諦める必要はありませんし、「目詰まりを起こしているのなら、そこを取ってあげれば良い」という具合に、前向きな行動へと進むことができます。


個人的には一読して、やっぱり治っていく家庭には共通点があるな、と改めて感じることができました。
そして、まだまだ臨床の力はあまちゃんではありますが、家庭支援という仕事をしている中で、伝えてきたこと、強調してきたことの方向性は間違っていなかった、と愛甲さんの言葉から読みとることができました。
同じように、「子育てを通して、我が子をより良く育てていきたい!」と思われている親御さんに対しても、「その方向性は間違っていませんよ」と背中を押してくれる言葉が、本の中にちりばめられているように感じます。


知的障害に限らず、発達障害も「治ってきたな」「一つひとつ課題がクリアされてきたな」と感じられている親御さんにとっては、「そうか、今までのこの子の歩み、私の子育てで、これが治ることに繋がったんだ」と確認できる本になると思います。
また、今まさに揺れ動く感情の中で子育てをされている親御さんにとっては、これからの子育ての軸を教えてくれる本になると思います。


子どもの発達は一直線ではなく、停滞したり、急に伸びたり、戻ったりを繰り返しながら進んでいきます。
ですから、その時々で、「私の子育ては、この道で合っているのだろうか?方向性は良いのだろうか?」と悩まれることが度々あると思います。
そんなときに、今回の著書『知的障害は治りますか?』を読み返すと、そっと愛甲さんが背中を押してくれるような気がします。
子育てで悩むのは当たり前、一喜一憂するのも当たり前。
だからこそ、子ども自身の発達する力を信じ、また親御さんの子育てを応援する愛甲さんのメッセージがそばにあると、心強いのだと思います。


なぜ、特別な療育、支援を受けずに、家庭で治っていったのか?
これから、どういった方向で、子育てしていけば良いのか?
そのような問いを持たれている親御さんに、特にお勧めいたします。
より良い子育てを考える上で、とても良いメッセージ、ヒントに溢れた新刊だと感じました。