2020年7月9日木曜日

【No.1082】発達は前にしか進まない。だから子も、親も、前に進む

「療育を受けられるのなら、死んでもいぃ~」みたいな親御さんって、10年前くらいまでよく見かけたものです。
いや、大袈裟じゃなくて、本当に。
生活すべてが"療育のため"みたいな感じで、家庭のことは二の次、三の次。
今の親御さんはビックリされるかもしれませんが、結構このことでもめて離婚する家族もいました。
コロナ離婚じゃなくて、療育離婚。
「夫が療育を受けることに理解がない。協力的ではない。だから別れた」なんて言われるのを私も聞いたものです。
今振り返れば、それもまた療育、支援、特別支援の副作用だったような気がします。


この「療育を受けられるのなら」みたいなのって、他のアプローチが知られていなかったことが、療育を受けても根本的な解決にはつながらないことが、今のように周知されていなかったという理由もあるのだと思います。
でも、それ以上に、親御さんから伝わってきたのは、無力感からの解放です。
親御さんにとって一番つらいのは、耐えられないのは、子どもさんに発達障害があることではなく、親として、家族として何もやってあげられないという無力感だと思います。
「いやいや、療育や支援を受けるために頑張っているじゃないか」という声もありますが、そこは本質的な部分ではないと思うのです。


親御さんとお話ししていると、「毎日、頑張って療育に通っているけれども、なにか満たされない気持ちがある」ということをお聞きします。
同じように、良いと言われている早期診断・早期療育を受けても、検査を受けて詳細なデータを貰っても、権威ある大学病院・有名支援者のところに通っても、なにか気が晴れない。
たぶん、それは子育てではなく、また子どもの発達を後押しすることにつながっていないからだと思います。
良いと言われているこれらは、親じゃなくても、家族じゃなくてもできることです。
たとえば、私が依頼され、お子さんを連れていくことはできます。
で、得られる結果は同じ。
そのことに無意識的にも気がついている親御さんは、心にもやっとしたものが残るのだと思います。


発達相談で私が出会う親御さんの中に「何が何でも我が子を治してやる」みたいな人はほとんどいません。
治す方向で共に歩んでいるけれども、そこが目的ではない。
やっぱり親として、家族として、やれることを知りたくて、やれることをやりたいんだと思います。


前世代の特別支援はまさに「やれることはない」というメッセージに溢れていました。
「親としてできることは、より早く診断を受け、より早く療育を受けることである」
「イメージしているような普通の子育てではなく、特別な子育てが求められる」
「親よりも、支援者の役割を」
実際に、そのような言葉を言われた親御さんは少なくありませんでした。
「親になることを否定された感じがした」
「あなたには何もできないと言われた感じがした」
そうやって涙ぐむ親御さんにもあってきました。
子どもの未来を否定されたうえに、親としての可能性までをも否定される。
想像しただけでも、どれほど辛い出来事だったかと思うのです。


発達の本質は未来です。
アイディアとして『退行』や『発達のヌケを育て直す』というものがありますが、発達は後戻りしません。
積み上がったものが消えてなくなることはなく、やったらやっただけ糧になります。
もちろん、ピンポイントでヌケが埋まらないこともありますが、発達に後戻りはなく、無駄も無い。
そういった流れをみれば、誰よりも我が子を詳細に、丁寧に見て関われる親御さんの力を活かさないなんてあり得ません。
親として、家族として、前に進もうとする力を活かすことが、子どもさんの発達を前に前にと進ませる力となります。


発達が凸凹している。
だけれども、その凸凹は固定されたものではなく、生涯変化し続けるものです。
ある若者は「この年になって初めて世の中が立体的に見えるようになった」と喜んでいました。
発達は前にしか進まないから、ある段階を過ぎれば、治るのは当然です。


身体アプローチ、言葉以前のアプローチには、親御さんの無力感を解き放す力もあるのだと思います。
また支援者として、本人だけではなく、親御さんにも「ここが育てられる部分。ここが手助けする部分」といった丁寧な仕分け作業を行うのが役割だと思います。
そういった意味で、誰でもつけれる、誰でも同じ結果のアセスメントではなく、個々に合わせた、その子個人を大切にするアセスメントが必要なのです。




2020年7月8日水曜日

【No.1081】私達が医学の土俵の上にあがる必要はない

新型コロナに関する専門家の発言やメディアでの捉え方を見ていますと、その言葉の中に個人の息吹を感じることができません。
同じコロナウィルスとはいえども、それが発症するか、重症化するか、実際に罹るかは、個人によるところが大きいといえます。
でも、その個人が語られることはありません。
いや、むしろ、一生懸命個人を排除しようとしているようにすら感じます。


ウィルスを研究するのは、医学の話でしょう。
私達一般の人達は、医学ではなく、実学が必要なのです。
このウィルスとの折り合いの仕方が知りたくて、よりよく生きるという目標に向かっている中で出会った一つの環境要因でしかないのだと思います。
新型コロナに罹らないために、無人島に行くか、誰にも会わず家に閉じこもるか。
新型コロナに罹らないために医学があるのかもしれませんが、それは個人の生き方、命の全うの仕方とは次元が異なる話なのです。


これは医療に共通する話なのかもしれません。
現在の神経発達症に関する診断基準を見ても、見事に個人が排除されています。
私達が知りたいのは、その子に感覚過敏があることではなく、何故、感覚過敏が生じているかという理由です。
しかし、どう頑張って読んでも、その「何故」が見えてきません。
しかも同じ症状の中にも、個人によるバリエーションがあるのにもかかわらず、そこすら見ようとされていません。
あるのは、できるだけ個人が排除された基準だけ。
本来、診断とは、その個人がよりよく生きるためのものであるはずなのに、その個人、家族に利するところがほとんどありません。
むしろ、医学という土俵の上で、医師が診断をつけやすいような形式に、どんな医師でも同じような結果が出るような形式になっているような気がします。


アメリカでは、医師以外の人でも診断を行います。
私だって、診断をつけるトレーニングを受けたくらいです。
つまり、誰でも診断できるがコンセプト。
いろんな人が診断しても、だいたい同じような結果になるように曖昧な部分、その個人という要因を削り落としているのです。
その子が今後、どのような発達を遂げていくかは考慮されていません。
その子が何故、発達が遅れているのかは考慮されていません。
それを入れてしまうと、診断が成り立たなくなってしまうから。


新型コロナと同じように、その個人は診断のために生きているのではありません。
自閉症という診断をもらうことが、人生の目的ではないのです。
その診断を受けることが、その人の人生に彩りを与えることがあるのかもしれませんが、ゴールではありません。


診断や療育、服薬が大きなことのように語られますが、それは医学という分野、土俵においての価値観、話だといえます。
自閉症の有病率だとか、感覚過敏を持っている人が〇%だとか、この薬が効くだとか、新しい薬は副作用が少ないぞとか、それってお医者さんの話でしょ。
「薬は効いたけれども、家から一歩も出られなくなった」
「療育を週20時間受けれたけれども、幼稚園での生活ができなくなった」
「診断がついたけれども、仕事が続かないのはかわらない」
医療の豊かさ、目標の達成度が、個人の幸せ、目標と一致するとは限らない。


現在、早期発見、早期診断がもてはやされ年端もいかない子ども達が、どんどん診断を受けている時代です。
でも、幼少期の子どもさんにとって診断は、その子個人のためでも、願いでもないはずです。
欧米では10年ほど前から、日本でもここ数年で、「どれだけ早く診断できるか、低年齢でつけられるか」が医師、クリニックの評価になり、競い合う項目の一つになっています。
1歳とかで診断をつけられるのは、どう考えても、その子のためではなく、医療側のためだといえます。
「医学の発展に寄与できた。でも、その子の人生は無茶苦茶だ」「正しい診断のために、人生を棒に振る」ではいけないのです。


診断はあくまで医療、医学の話です。
その子がよりよく成長する、よりよく生きるとは土俵が違うのです。
だから、診断を受けなくても、発達する子はいるし、治る子もいる。
というか、個人を排除している診断をいくら受けても、よりよく育つアイディアは出てきません。
個人は数値化できない曖昧なものだから。


親御さんは「なんとなく、これが良いと思って」と言いながら、子どもさんを治していく。
でも、医療は「"なんとなく"ではダメだ。それは曖昧なものだから」と言う。
両者がかみ合わないのは、目的が違うから。
親御さんは、我が子がより良く育つことを願い、医療は医学の発展を願う。
だから、『自閉症』『ADHD』『知的障害』などの括りで話がされる。
「この子は、どうなんですか?」と尋ねる親御さんに、「自閉症の子は、〇〇で~」と返す医師が多い。
親御さんが訊きたいのは、自閉症の育て方ではなく、我が子の育て方。


新型コロナがどのような遺伝子を持ち、どのような発症率で、経過をたどるか、どんな治療が良いかはわかりませんし、私の興味関心はそこではありません。
大事なのは、私の生活、仕事において、どのくらい影響があるか、どのくらい対策をすれば良いのか、ということ。
結局、罹っても自分の自然治癒力に頼るしかありません。
同じように、診断されようがされまいが、我が子をよりよく育てること、自立を目指して育てることは変わりませんし、信じるのは我が子の内側にある発達する力です。


専門家は、他の人も自分と同じ土俵にいると勘違いしがちだといえます。
特に自分たちがサービス業であるという自覚がない仕事の人達は、それが顕著です。
サービス業の人は、相手の言葉で、相手の土俵の上で勝負をしようとします。
四六時中、医学という土俵の上の話ばかりが続くメディアにはうんざりです。
知りたいのは私個人とコロナの関係性であり、医療とコロナの関係性ではありませんね。




2020年7月7日火曜日

【No.1080】思考の仕分け作業

私もようやく「治す系」の支援者と認識され始めたせいか(笑)、以前のように「私達の自立には、社会が理解する必要があるんです!」「もっと支援と支援者を増やさないといけないんです!」「私達は、一日8時間労働は無理なのですから、金銭的な補助を受けるべきなんです!」といった成人の人達からの相談がこなくなりました。
私が「社会が理解したとしても、あなた個人の内側にある生きづらさは変わらない」と返すからでしょうかね。
しかし、こういった認識を持った子がいる、関わっている利用者さんがそうだ、という周囲からの相談は来ていますので、まだまだ実際のところは多いのだと思います。


自閉症ゆえに自分は「保護されるべき存在だ」「理解されるべき存在だ」という主張をする人は少なくありません。
また、そういった人に対して同意"以外"の助言をすると、「わかってくれない」「障害の理解がない」と言って拒否反応を示します。
このような人達は、同意してくれる人を見つけるまで動き続けます。
結局、彼らが求めているのは、彼らの思考の丸抱えなのです。


こういった主張をする人たちに共通するのは、「整理統合する力が弱い」ということです。
「自閉症だから◎◎」というのは、とてもシンプルな図式です。
小さい子が「りんごは赤い」という図式を頭にえがくのと一緒です。
初めて青いりんごを見たとき、小さな子はびっくりします。
ですから、「自閉症だから8時間労働は無理」と言う人に、「いや、8時間働いている人もいるし」と言うと、ビックリしているのです、それが拒否反応になっているだけです。


小さな子が経験や成長と共に、赤いりんごだけではなく、緑も、黄色もあることがわかるようになる。
これは脳内で情報が整理統合され、概念が作られていくからです。
大人になっても、「りんごは赤だ。それ以外は認めない」と主張したら、おかしいでしょ。
でも、それと同じことが起きている。
自閉症の人達は「思考が固い」と言われることがあります。
『こだわり』と表現されることもあって、道順を変えると…といういつものやつです。


結局のところ、「理解ガー」とか、「自閉症だから◎◎だ」とか言っている人の多くは、整理統合の問題を抱えているのです。
当然、自閉症が、発達のヌケが影響して難しい部分、苦手なことがあるでしょう。
でも、同じ人の内側に得意な部分も、できる部分もある。
自閉症だからすべてがダメなわけではなく、自閉症が全人格&人生すべてを支配しているわけではありません。
そんなことは、大人なら瞬時にわかるはずです。
逆に言えば、それが瞬時にわからないところに課題があるのです。


以前、そういった人達の相談を受けていたとき、彼らに必要なのは頭の中を整理、統合するお手伝いだと考えていました。
「これは自閉症の特性が関係して」「これは発達のヌケが影響して」「これは自閉症とは関係なく」「ここはできる部分で」など。
私のイメージでは、思考の仕分け作業です。
思考の仕分け作業ができていないから、「自閉症だから全部だめだ」「(自分ではなく)社会の理解が必要だ」といった思考停止が生まれている。
「生きづらい」と言っている人は年がら年中、同じことを言っています。
今の状況が生きづらいのなら、何かを変える必要があるのに、止まっていないで動く必要があるのに、そのそぶりを見せないのは、思考停止が動きの停止を生んでいるからです。
思考停止が独自の解釈、独自の自閉症像、障害観を生むため、皮肉にも彼らが求める"理解"を得ることは難しい。


思考が整理できてくると、自閉症が人生を決めるわけではないのがわかるようになります。
また、できる部分、大丈夫な部分と、できない部分、苦手な部分がわかりますので、対処がうまれてきます。
自分が苦手とする部分が必ずしも社会の理解を欲していないということがわかるだけでも、一歩踏み出すきっかけになるのです。


このように考えると、道順の"こだわり"というのも、自閉症特有の特徴というわけではなく、思考が幼いからということがわかります。
こちらも身体や運動の発達同様、「未発達なら育てればいい」という方向へ進めます。
いろんな発達のヌケ、遅れがありますと、整理統合というヒトの脳の部分の発達が遅れるのは当然です。


こういった当事者の人たちを生むのは、周囲の人間の言語力の乏しさだと感じています。
親御さんの中にも「うちの子、自閉症だから◎◎」という人がいますが、できない理由をすべて『自閉症』という言葉で片づけてしまっている印象がぬぐえません。
本来なら、できない理由を細分化すること、できないことの中にあるできる部分と、対処で乗り越えられる部分と、学習・発達・成長で可能になる部分と、手助けが必要な部分を仕分けることが必要です。
それができなければ、本人は何も変わっていきませんし、そのためには周囲の人間の言語力が必要になります。
言葉は思考を整理するために存在するのですから。


「A=B」はもっともシンプルな数式です。
「自閉症=できない」
「自閉症=理解が必要」
「学校へ行く道=コンビニの横を通る道」
「ミニカーで遊ぶ=一列に並べる」
内容にはレベルがあっても、課題の根っこは同じです。
人間脳を育てるために、土台である感覚・運動・身体などの発達のヌケを埋めていく。
「A=B」の段階の人へは、周囲の言語力によって思考を整理し、統合し、本人が理解を深めていく。
問われるのは、支援者、先生、親御さんの言葉の力、豊かさだといえますね。




2020年7月4日土曜日

【No.1079】いくらアセスメントしても、本人の生活の質の向上につながらない理由

支援者は大抵、アセスメントを叩きこまれます。
1にアセスメント、2にアセスメント、3にアセスメント、という具合に。
他人を支援するわけですから、また自閉症やADHDなど、特性を持った人の支援をするわけですから、当然、相手のこと、障害のことを知らなければ、どうにも始まりません。
私も新人の頃、自閉症などの診断基準を暗記するように言われたものです。


支援者の仕事は、アセスメントをし、支援を組み立て、評価する、そしてまたアセスメントをして…の繰り返しです。
食事や排泄、生活全般の支援は、支援じゃなくて介護になります。
支援者は、本人の生活の質が向上するような支援を考え、実行する人達。
そのためには、その人のことを多面的に、立体的に見る目が必要になってきます。
本人のことを見ていない人に、支援はできない。
だから、特別支援の世界に支援者は少なく、介護者ばかりなのでしょう。


「ちゃんとうちの子を見てくれているんですか!?」と言う親御さんに、「はい、ちゃんと見ていますよ」と返事をする支援者、先生たち。
親御さんは、子どもの小さな変化を捉えられているかという目について問いており、支援者は「(怪我しないように)(表面的に)見ていますよ」と答えている。
ここに、本人の生活の質が向上するための目と、ただ見ている目の違いが生じているのです。


支援するための目を持たない支援者は、「今」「そのまま」「表面」を見るだけで終わってしまっているので、終始介護しかできないのでしょう。
だけれども、それは支援者の資質だけの問題ではないと思っています。
私も受けた支援者育成の方針、システムの問題だといえます。
1にも、2にも、3にも、アセスメントという育成の仕方。


確かにアセスメントは重要です。
でも、特別支援の世界で言われるアセスメントに問題があるのだと思います。
アセスメントと言うと、診断基準を覚える、障害特性を覚える、本人たちの行動を記録する、検査を行う、検査結果から読みとる、専門書&論文を読み込む…という具合です。
何が言いたいかと言えば、「すべて言語化されている」ということ。
特別支援の世界のアセスメントとその育成のほとんどは、言葉を介して行われている。
ということは、言葉に表現できない部分は扱われていないということです。
特に発達障害の場合、その課題の根っこは、言葉を獲得する前の段階、胎児期から2歳前後に生じた発達のヌケ、遅れなのですから、そこを言葉のみで伝えよう、学ぼう、表現しようとしても無理な話です。


言葉で表現できるアセスメントなんて、本人のごく僅かに過ぎません。
この辺りがわかっていないと、必死に診断基準や検査結果、専門書&論文から学び、アセスメントをしようとしてしまいます。
言葉にならない本人の状態、発達、課題の根っこがわからないからこそ、言葉に頼らざるを得なくなる。
「それって、〇〇くんに合わせた支援じゃなくて、典型的な自閉症像に合わせた支援ですよね」という話がたくさんです。
今もなお、昭和、平成から続く典型的な自閉症像が言葉によって引き継がれている。


支援者はアセスメントを重視します。
ですから全国どこでも、独自のアセスメントシートを作り、アセスメントをしていきます。
支援者はアセスメントシートを埋めた時点で満足感と達成感を得る。
「こんな検査結果が出ました」と、ルンルンで親御さんにその紙を見せる。
でも、1ミリも役に立たない。
だって、言葉に表現できる部分は本質ではないから、本人の課題の根っこではないから。
事業所で見えた我が子の姿は、家庭で見せる姿の一部。
その一部を見せられても、見えている部分は私も見えているし、じゃあ、今後どうしたらいいの?課題の本質はどこなの?に対する答えは記されていないもん。


発達は見ることができません。
言葉で表現するのも難しいものです。
だからこそ、それができる支援者を見つけることが大事ですし、そういった支援者を育てていかなければなりません。
本人の生活の質の向上につながるような支援ができる支援者というのは、言葉で表現できない部分を見ることができる人です。


でも、これは親御さんにもできます。
親御さんは胎児期から共に生きていますので、感覚的に捉えることができるものです。
そこら辺の支援者よりも、ずっと深いアセスメントができています。
しかし、その状態をキープできる親御さんが少ない。
何故なら、言葉でがんじがらめにされるから。
健診も、診断も、教育相談も、発達相談も、すべて言語化されたやりとり。
誰一人として、その子の発達の流れを見てくれるわけではなく、表面から見える姿で判断している。
他人に見える部分は、親御さんにも見えている。
本来、親御さんが感じている発達と課題に対して、「そうですよね」「そこがポイントですよね」と共に感じ、一緒に本質的な部分を見てくれる人が必要なのです。


本やネットなどで情報を得るときも、その文字にフォーカスし過ぎてはいけません。
その文字、発言に漂う雰囲気を感じるのです。
その著者、専門家が何を見ているのかを想像する。
決して表面的な目に見える部分だけを言っているのではありません。
表面しか見えていない人に、その子の発達を掴むことも、後押しすることもできません。
文字にフォーカスし過ぎる親御さんが、書かれていることをそのまんま我が子にやって、よろしくないことが起きている場合が少なくないのです。


支援者が目の前にいる人を多面的に、立体的に、それこそ、見えない部分まで見て支援した結果がそれです。
なので、親御さんも、そういった支援者のように見えない部分まで感じながら、お子さんのことをしっかり見ることが重要だといえます。
見るには、見えている部分と見えない部分、両方を見る、という意味があります。
両方が見えると、支援者の提示するアイディアの意図がわかり、子どもさんに合わせて自由自在に作りかえることができるようになります。
見えない部分を感じる力、想像する力が、アセスメントには必要なのです。




2020年7月2日木曜日

【No.1078】家族とつながり、子の内側から発達を見る

本州のご家族のもとへ伺うと、「大久保先生」と呼んでくださることがあります。
本州から見れば、北海道は遠い印象なのでしょう。
ですから、「わざわざ遠くからはるばるやってきてくださいました」という意味で、先生という敬いが付くのだと思います。
私からすれば、道内を回るより、飛行機でシュッとひとっ飛びですから、ラクなのですが(笑)
しかし、最後までこの「先生」が付いたときには、「今日の発達相談は失敗だったな」と反省します。
途中から、もちろん、ベストは最初から、さん付けで呼ばれるようでなければダメなのです。


どんな素晴らしい知識、技術、方法だとしても、それが伝わらなければ意味がありませんし、何よりも実際にやらなければ、どうしようもないのです。
たとえば、首を育てるアイディアをお伝えしたとします。
でも、そのとき、「はい、わかりました」で終わって、そのとき、一緒にやってみて、その後、家庭でやらなければ何も変わってはいきません。
首の未発達を抱えたまま、同じ日々が続いていきます。


また、知識、技術、方法を伝える際、受け手が窮屈になるような伝え方をしてもいけません。
これは私の過去の失敗でもあるのですが、具体的、かつ詳細に伝えたばかりに、受け手の親御さんが忠実に再現しようとしてしまったことがあります。
当然、未発達の部分が育ってはいくのですが、発展していかないのです。
治ったけれども、治り切らないといった感じでしょうか。
他の親御さんですが、「次はどうしたら良いですか?」と数週間、1ヶ月単位で尋ねてこられる方もいらっしゃいました。


発達相談、援助において、そのアイディアの伝え方が難しいところです。
親切丁寧に、そして何よりも具体的に伝えることは大事ですが、そこで発想が止まってしまうようではいけないのです。
私との時間が終わったあと、私が帰ったあと、「あんな方法も良いかも」「こうした方が、うちの子には合っているかも」という具合に、自由な連想が始まっていくようでなければなりません。
実際、治すご家庭はたくさんありますが、治しきるまでいけるご家庭は少ない気がします。
その違いが、この自由な発想、連想が出るか出ないかだと感じています。


今の子ども達は違うのでしょうが、昭和を生きた私達は、「先生」という言葉に対するパターンが染みついているものです。
「先生」という言葉には窮屈さが漂っていますし、その窮屈さは、先生の意図した答えを正確に出す、というパターンからきています。
ですから、私の発達相談が終わっても、先生という呼称が付いていると、問題であり、失敗なのです。
私の伝え方が、雰囲気が、ご家族に窮屈さを生んでしまっている。
そして私が帰ったあと、伝えた内容を忠実に行おうとする、行うことが善であるという危険性をはらんでいる。


私が意識しているのは、素人っぽさです。
実際、まだまだ実力不足の私ですから、素人に毛が生えたような者なのですが(笑)
とにかく素人の私が、四苦八苦しながら、悩みながら発達の課題を確認し、その育て方を考えていくような感じ。
イメージで言えば、施設職員時代、わからないことだらけで、うまくいかないことばかりだったけれども、子ども達と一緒に生活し、どうにかより良い明日が迎えられたら、と願う姿です。
そういった素人っぽさが、親御さんの今、子育てに悩まれている状況とつながり、一緒に試行錯誤していくような、「なんだ、こういう風に見ればいいんだ」「なんだ、育て方は一つじゃないんだ、もっと自由なんだ」と思ってくれるような感じで伝わってほしいな、と思いながら私は仕事をしています。


この仕事は、自分ではなく、「子の人生」という強い想いの親御さん達と関わる仕事です。
なので、熱心な親御さんほど、切羽詰まっている親御さんほど、発した言葉が重くて強く伝わってしまう可能性があるのだと感じます。
ですから素人っぽい雰囲気は持ち続けないといけませんし、私が四苦八苦するプロセス、どうしてその育て方が良いのか、という種明かしもしっかり伝えていく必要があると考えています。


また親御さんの中には、厳密に捉えがちの人がいるのも当然です。
ある人は「親御さんにも自閉症の特性がある人は、そうしがちだ」と言っていましたが、私は真逆のことを思います。
お子さんと同じ特性を持っている親御さんのほうが、自由な発想で子育てを展開されていく。
むしろ、自分とはかけ離れていると感じている親御さんのほうが、戸惑い、専門家の言葉を忠実に実行しようとする、と。


親である自分と似たところがある、自分も昔そうだったな、と思う親御さんは、自分の赤ちゃんからの積み重ねの中に発想の材料があるものです。
「他にも、こんな育て方があるかも!」という発想が浮かんでくる親御さんは、歩んできた道の中に試行錯誤した経験があるように感じます。
そういった部分で困ってこなかった親御さん、つまり、自分に特性が少なく、定型発達ということを意識すらしてこなかった親御さんは、いざ、我が子の発達の遅れ、ヌケと向き合ったとき、身体に力が入ってしまうのだと思います。
それが支援者の言葉を過剰に強く受け取ってしまう要因の一つになっているような気がします。


「神経発達症を治す」という同じ方向で日々頑張っている親御さんであっても、他の親御さんの状況や思考まではわからないものです。
ですから、同じアイディアを見聞きしても、捉え方が異なるのです。
「教わった通りにやっているのだけれども、なかなか治らない」と悩む親御さんがいます。
「他のお母さんのように、いろんな取り組みをしたいのに、子育てを楽しみたいのに、私にはそれができない、余裕がない」と悩む親御さんもいます。
そのような親御さんを見て、「もっと自由に、楽しんでやればいいのに」と思う親御さんもいます。
そのような親御さんのヒントになれば、と思い、今日のブログを書きました。


ポイントは、繋がること、重なることです。
支援者は、家族と繋がること、お子さんと重なることを通して、本人の望み、訴え、行動の背景を感じ、家族と同じ目線でより良い子育てを考えていく。
一緒により良い子育てを考えていくことが、親御さんの自立と自由な発想につながり、結果的にお子さんが治ることへとつながっていく。
知識、技術、方法を与え、受け取る関係性の中には、治るが存在しません。


そして親御さんは、我が子とつながり、我が子の内側から発達を、課題を見ることが大事だと思います。
客観的に、外側から子どもを見ても、発達、課題は見えてはきません。
見えないからこそ、専門家の言葉にすがってしまうのかもしれません、大きく捉えすぎるのかもしれません。
そういった意味で、自分にも似たような特性がある親御さんは、より自由になれるのでしょう。
我が子と自分が重なり合うから。
重なり合うと、過去の自分の経験の中から新たな発想が生まれてきますので。


ということで、7月にお会いする皆様、素人の兄ちゃん(?)、おじさんが来てもがっかりしないでください(笑)
一緒に悩みながら、そのプロセスも味わいながら、子どもさんのより良い子育てを考える楽しい時間が過ごせれば、と思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。




2020年7月1日水曜日

【No.1077】未発達のない自閉症者を目指す

発達相談の際、親御さんにお話しすることがあるのですが、「未発達のない自閉症者は、障害者と言えるのか?」という話です。
皆さんは、どう思われるでしょうか、考えられるでしょうか。
私は自閉症児施設で働いていましたし、今も自閉症の若者、子ども達とかかわりがあります。
そんな中で、一度も「自閉症を治そう」などと思ったことはありません。
治すのは、未発達と発達のヌケです。
あとは、誤学習と問題行動は、こっちの字で直そうとします。


多くの自閉症者と関わってきて感じるのは、自閉症という特性、ある意味、脳の情報処理の仕方が生きづらさの根っこではない、ということです。
ほとんどの人は、未発達と発達のヌケから、生きづらさが生じていると思います。
世の中を見渡せば、自閉症の人はたくさんいるわけで、でも、その多くの人が特別支援を受け、生涯に渡る支援を受けているわけではありません。
診断だって受けていない人の方が多いでしょう。


たぶん、そういった自閉症だけれども、社会の中で自立して生きている人達というのは、自閉症という特性とうまく折り合いがつけれているからだと考えられます。
つまり、別の言い方をすれば、特性と折り合えるくらい、未発達の影響が少ない、もしくはほとんどない、ということなのでしょう。
こだわりは工夫次第で折り合いをつけることができますが、背中の感覚がないこととは折り合いがつけられません。
同じように、聴覚や触覚の過敏さとも、右と左の未分化とも、重力に抗うことのできない筋肉とも。
ですから、本人の生きづらさの背景である、本人の自立を阻む根っこである未発達とヌケを育てていく、そこを治していくのです。


こういう話をすると、必ず「自閉症と未発達の違いは?見分け方は?」というご質問があります。
シンプルに言えば、未発達を育て切ったあとで残るのが自閉症の部分、といえます。
しかし、これでは答えているようで答えていない回答になります。
じゃあ、本当のところは、実際のところは…。


これはあくまで私の経験と学びによる見解です。
自閉症やADHDなど、特性と言える部分、ここは変えられるところじゃない部分と見分けるのは、本人、子どもさんではなく、親御さんからです。
つまり、親御さんの子ども時代、もちろん、今の姿から特性の部分を確認します。
自閉症でいえば、やっぱり親御さんのどちらか、または両方に、または祖父母、親戚の中に似たような人がいるものです。
そういった部分は受け継ぐものであって、急にお子さんだけにポッと出る特性、特徴ではないと感じます。
ある程度、年齢が上がったお子さんや大人の場合は、ベースにあった未発達が環境と適応し続けた結果、一見すると自閉っぽい人もいますが。


ですから、ご両親、親戚、家族に自閉症の特性を持つ人がいなければ、未発達とヌケが根っこで、そこが育っていない姿が自閉症の診断基準にひっかかっただけだと考えます。
私の相談でも、8割以上の人が未発達のみ(+環境要因)です。
今は未発達と自閉症が区別できる診断キットがありませんので、どうしても治る子ども達まで「治らない障害」とされてしまいます。
未発達の子が、そこを育て直せば、治るのは当然のこと。
フィクションでも、超能力でもなく、発達のヌケが埋まれば、元の発達の流れに戻るのは当たり前の話です。
今の問題は、多くの治る子ども達が「治らない障害」と一体化して語られてしまうこと。
そして未発達と特性の区別ができない下手くそな支援者が増えてしまったことだといえます。


未発達のない自閉症の人は、普通の人です。
「ちょっと変わった人」などと言われることもありますが、私に言わせれば、世の中、変人ばかりです。
まったく変わったところのないすべて標準で普通の人なんて会ったことがありません。
つまり、どんな人でも完ぺきとは言わずとも自立できていれば良いわけで、それを妨げるような生きづらさが少なければ良いのです。
またあったとしても、折り合いがつけれるくらいに未発達とヌケが育っていれば良いのだと思います。
ですから私の仕事は、未発達とヌケを確認し、そこを育てるアイディアを親御さんと一緒に考えていくことです。


親御さんに自閉症の特性があるのなら、それは子どもさんにも受け継がれることがあるでしょう。
だからこそ、家族の子育てが大事なのです。
そうやって特性を持ちつつも、家族を持ち、自立した生活を営むことができている。
ということは、その親御さんの生きてきた歴史が、試行錯誤した日々が、子どもさんがよりよく生きるアイディアとなる。
発達相談中、親御さんが「私も小学校に上がるまで言葉が出なかった」「他人の気持ちがわからず、よく失敗したものです」などと話してくれることが少なくありません。
そのとき私は、「では、お父さんは、お母さんは、どのようにして工夫されてきたのですか?克服されてきたのですか?」と尋ねます。
それこそがお子さんの道標になるのです。


子育てとは、生活力、自立に必要なスキルを身に付けさせることだけを言うのではないと思います。
こういったお父さん、お母さんの生きてきた道、人生で感じたこと、考えたこと、試行錯誤したことを我が子に伝えていくことも言うのだと思います。
それは私のような他人ができることではなく、いくら自閉症の勉強をしたからといってできることではなく、まさに親御さんだからできる育て方です。


受け継いだ特性なら、親御さんの生き方そのものが教科書になります。
「もう少し、お子さんが大きくなったら、その話をしてあげてください」
そのようにお願いすることがあります。
また未発達とヌケは、どの子も育てた方が良いですし、未発達ゆえに発達障害と言われているのなら治さなければなりません。
自閉症だから生きづらいのではなく、未発達とヌケがあるから生きづらいのだと思います。
未発達のない自閉症者を目指すのです。




2020年6月29日月曜日

【No.1076】親にもある赤ちゃんからの積み重ね

子どもがそうであるように、親御さんもまた赤ちゃんからの積み重ねがあるものです。
ですから、その積み重ねを大事にしてほしいと思いますし、子育ての中でも、ある意味、自己流を貫いてほしいと思っています。


赤ちゃんからの積み重ねを押し込め、後から学んだ知恵で子育てをするのはもったいないことです。
そんな親御さんをたくさん見てきました。
学生時代にお会いしたときは、子ども想いで、どこにでも普通にいるお母さんだったのに、数年後、私が社会人になってお会いすると、学生時代に私が感じていたその雰囲気がすっかり失われてしまっている、なんてことがありました。
最初は愛する我が子のために、と思って始めた勉強も、いつしか勉強のための勉強になり、お母さんという役割から支援者の役割へと変わっていった。
我が子が泣き叫んでいるのに、無表情で絵カードを見せている姿に、ぞっとしたものです。
以前のお母さんなら、我が子に駆け寄り、ぎゅっと抱きしめたはずなのに。
子どもを支援の対象として、つまり、子どもを子どもの内側から見えなくなることが、支援するものになる、ということなんだと思います。


発達相談の依頼をお受けする際、事前に子どもさんの情報をメールで送ってもらうようにしていました。
でも、それはよくないなと思い、リクエストするのをやめました。
何故なら、それだとどうしても、支援する側と支援される側という関係性が築かれてしまうからです。
事前にお子さんの情報を知っていると、知らず知らずのうちに、発達相談が答え合わせみたいになっています。
「うまく走れないんですが。そして、よく躓くんです」
「それは、ハイハイを飛ばしたことが関係してるのでしょう。肩甲骨の動きが固ければ、立体視もできていないかもしれませんね」
「そんなことが影響するんですね」


こんな発達相談は、その場限りで何の役にも立ちません。
大事なことは、親御さんが主体的により良い子育てを考えていくことです。
私とお子さんの関係はその日限り、ほんの一瞬ですが、親御さんと子どもさんの関係は長く続いていきます。
この"長く続く"に子育ての本質があります。


親御さんだって、子の生きた年数しか親になっていないのです。
2歳の子の親なら、親になってまだ2年、10歳の子の親なら、親になってやっと10年。
支援者も2年目の支援者、10年目の支援者という者がいますが、親御さんのような連続性はありません。
親子で積み上げてきた10年間と今後成人するまでの10年間の未来が連続している。
さらに、親御さんが赤ちゃんから積み上げてきたものと、我が子の人生、子育てが連続している、繋がっていることが重要だといえます。


親子の関係性の中でで行われる子育ては、すべてオリジナルです。
それが「自閉症の子には、まず構造化ですね。視覚的に示すことですね。見通しを持たせて」という目の前にいる一人の子と何もつながっていないような知識の伝達を行っても、発達は生じないし、ただその場しのぎの支援を行っているだけになります。
発達は支援と違って、介護と違って、支援者と違って、ぶつ切りでは生じないのです。
子どもさんの人生、生きた年数という流れで見ていかなければなりませんし、親御さん自身の赤ちゃんからの積み重ねともつながる必要があります。
発達とは流れです。


私が事前に頂いた情報をもとに発達相談をしていては、その大事な連続性、流れが失われてしまいます。
問いかけに対して答える、問いかけに対して答える、では、対面式のキャッチボールです。
本来、子どもの視線に立って、それこそ、子どもさんの内側から見る、という具合に進めていかなければならないのです。
親御さんと子どもさんが繋がり合い、子どもの視点からその辛さ、希望、望み、発達の力を感じることができるようになるのが理想ですし、それができるのが親子という関係です。
親と子の一体化がなされると、子育ての迷いが少なくなり、どこを育てたがっているか、どのくらいで治っていくかが見えてくるものです。


発達相談において、なるべくライブ感を出すことを大事にしています。
事前に知っている情報を確かめるのではなく、「どこの課題と繋がっているだろうか」「どうしたら、より良く育っていくだろうか」「こんな様子は見られないでしょうか」という具合に親御さんと一緒に悩み、探求していきます。
そうすることで、親御さんの中に今後の我が子の発達、より良い子育てを探求し続ける力を養っていけると考えています。


我が子が泣いているとき、スッと抱きしめられるか、スッと支援グッズを出すか。
その違いは、子どもが発達していけるか、子どもが適応という学習をしていくかへと繋がっていきます。
より良く育ってほしいと願うのが親であり、子どもの内側からの視点。
問題を起こさず支援しやすい人になってほしいと願うのが支援者であり、子どもの外側からの視点。
泣いたり、笑ったりしていたお母さんが、疲れ切った支援者のような顔をして我が子と対峙している。
子どもとのつながりが薄くなると、親御さんの表情が薄くなるものです。
親御さんは支援する必要はないし、支援者になる必要もない。
だから、支援者が教える支援なんか忠実に行う必要なんてないのです。
その家独自の子育てでいいんです。
診断名に共通した子育てなんてないのですから。




2020年6月26日金曜日

【No.1075】「他人の気持ちがわかりません」という自己紹介

「自閉症の人は、他人の気持ちが分からない」と言われることがあります。
実際、そういった記述も、自閉症・発達障害に関する書籍などで見かけますし、医師から、専門家から、支援者から「そうやって言われた、説明された」とおっしゃる本人や家族とも私はお会いします。
しかし私は、この説明・文言と出会うと非常に違和感を感じるのです。
まるで「人でなし」と言っているような言葉に憤りを感じるのです。
私が施設で関わっていた子ども達、今、仕事で関わっている人達はそんな人達ではない。


確かに現実問題として、他人の感情が読めずに、周囲とトラブルになってしまう人たちもいます。
でも、その人達がまったく他人の感情が読めないか、想像できないか、していないか、と言ったらそうではないと感じます。
ある重度の知的障害を持つお子さんは、お母さんが泣いていたとき、スッとティッシュを差し出しました。
それを見て、意地悪な支援者は「たまたまだ」「泣く→ティッシュというパターン行動だ」というかもしれません。
しかし私は思うのです。
完全にではないが、いつもではないが、他人の感情を察する瞬間がある、と。


自閉症の人達に感情を読む機能の欠落があるとは、私は思いません。
彼らと時間を共有していますと、感情に共感する瞬間がありますし、他人の感情を読もうとしようとすることがあります。
でも、共感の幅が狭かったり、共感したことを表現する手段が限られていたりします。
他人の感情、場の空気感を推測しようとするのですが、解釈の部分でズレていたり、そもそも推測に必要な刺激を受け取る感覚、身体が育っていなかったりするのだと思います。
はじめから感情を持たずに生まれてきた人達ならそうなのかもしれませんが、本人たちに感情はありますし、その感情も成長と共に豊かに育っていきます。
同時に、他人と感情を交わらせ、共感できるようにもなっていく人達も大勢います。


幼少期、「この子は一生施設ね」と言われた若者が今は一般就労し、そこで接客業をしています。
さらに上司から、「〇〇さんは、とても気が利くね」と褒められることがあったそうです。
いわゆる自閉症の人達が得意としているパターン化だけで、接客業は続かないし、他人から「気が利くね」とは言われないと思います。
つまり、「他人の気持ちがわからない」というのは障害特性ではなく、背景には未発達があり、身体と感情のズレ、繋がりの悪さがあるのだと私は考えています。


他人の気持ちがわかるには、まず自分の気持ちがわからなければなりません。
それには感覚的に自分という存在が把握できていなければなりませんし、当然、その前段階に自分を感じられるための感覚、身体が育っている必要があります。
周囲からの刺激を感じ、自分を感じることができる。
その身体で感じた刺激を脳と繋げるための中枢神経も重要になります。


また周囲は、「他人の気持ちが分からない」のか、「他人の気持ちが分かるけれども、行動しない」のかの区別ができません。
特に、「自閉症とはこうあるべきだ」というデジタル脳の人は難しいでしょう。
「他人の気持ちが分からない」と言われるようなお子さんでも、実際は他人の感情が分かっている。
でも、そのあとの行動が伴っていない、どう行動していいかがわからない、という子も少なくありません。
こちらは動きの発達、または愛着の発達と関わっている部分だといえます。
動きがちゃんと発達している子は、パッと行動に移せますし、愛着の土台が育っている子は、自ら行動することに対して自信を持っているものです。
気持ちはあるけれども、自信がなくて一歩が踏み出せない子もいるのです。
それって障害ですか?
それって生涯変わらないものですか?
その子達に、他人が「他人の気持ちが分からない」と言うのって、大変失礼なことだといえないでしょうか?


こうやって自信を持って言えるのは、実際に他人の気持ちに共感し、気遣いや行動ができるようになった自閉症の人達、発達障害の人達と出会ってきたから。
そしてもう一つ、いわゆるサイコパスと言われる人とも関わったことがあるからです。
他人の感情を読みとるのがうまく、そこを利用するといったサイコパスの人もいるようですが、私が関わった人は、最初から人を人と思っていないような感覚がありました。
私が今までに出会ってきた人たちからは感じない違和感を持ったのは確かです。
もしかしたら、未発達ではなく、なにかを失っている人はいるかもしれません。
でも、ほとんどの自閉っ子、発達障害の人は、未発達ゆえだと思います。
それに他人がひと様のことを、「こういう人間である」なんて言うのはおこがましいことであり、誰にもそんな権利はないでしょう。


「他人の気持ちがわからない」というような専門家がいるのでしたら、「それは先生のことですか?」と訊き返しましょう。
きっと自己紹介をされただけですから。




2020年6月18日木曜日

【No.1074】未来を認識する力を育む3ステップ

我が家の下の子も、最近、"未来"がはっきりしてきました。
つい数か月前までは、「また今度」「〇回寝たらね」「明日やろうか」など、大人の言葉を場面と合わせて暗記していただけに過ぎませんでしたが、今ははっきり未来があるのがわかっている様子があります。
カレンダーを見ながら保育園での遠足を楽しみにしたり、出かけるのがわかったら、すぐに片づけを終えたり…。
未来があるのはヒトだけですので、下の子の人間脳も育ってきているのがわかります。


発達相談においても、お子さんに未来を理解する力があるか、どのくらいの未来が認識できているのかを確認します。
この未来を認識する力は、その子の発達段階を知る上で、今後の学習の伸びを予測する上で、とても重要なポイントになります。


未来が理解できるようになり、その認識が育っていくのは、3歳前後です。
ということは、0歳から3歳までの間に、他の動物にはない未来を認識する力を養う課程があるのです。
その最初の芽生えは、いないいないばーだといえます。
大人の顔が手で隠れる。
その瞬間、赤ちゃんはその大人がいなくなったと認識する。
でも、次の瞬間、手が開き、顔が現れ、ホッとする。
このいないいないばーの一連の流れがわかるようになることこそ、未来の芽生えです。
顔が隠れたあと、「また、お母さんの顔が現れるだろう」というほんの1秒に満たない未来が予測できるようになる、が最初の一歩です。


いないいないばーの次のステップは、繰り返し行動だと考えられます。
まだしゃべり始める前のお子さんは、何度も同じ行動を繰り返します。
おもちゃを掴んでは床に捨て、おもちゃを掴んでは床に捨てる。
これは、まるで理科の実験をしているようです。
いないいないばーの段階とは異なり、自分主導で今と近未来を行ったり来たりするのが特徴だといえます。
「僕がこうしたら、〇〇はこうなる」


そして第3のステップは、自分の身体を通した未来予想です。
いないいないばーが視覚を中心とした現在と近未来の行き来、次が視覚とモノを結びつけてだとしたら、五感と身体を結びつけてということになります。
「椅子から飛び降りたら、自分はあのあたりにつくだろう」というように行動してみる。
そうやってモノの変化で感じていた未来を、自分の身体を使って感じようとする。
同時に、身体を動かしますので、感覚のフィードバックも生じてきます。
「椅子から飛び降りたら、足がジーンとした」
これも自分の行動後の感覚の変化を感じることで、「未来が確実に存在する」というのをまさに体感して認識しているのです。
未来は知識や情報ではなく、目に見える変化、モノの変化、自分の身体の変化という過程を経て、その存在を実感するものなのです。


発達相談において、この未来を認識する力が育っていないお子さんとも出会います。
親御さんは落ち込まれることもありますが、この未来を認識する力も育てられるのです。
知的障害だから、ここは育たない、育てることが不可能だ、ということはありません。
もちろん、そのお子さんによっては、3歳前後の段階までいくことが難しい子もいるかもしれませんが、上記のステップを少しずつ、1つでも上げていくことはできるのです。


まずは、自分のお子さんが、どの段階にいるのか、確認する必要があります。
3歳前後の段階までいけば、あとは体験を通して本人が育てていきますので、我が子がステップ1なのか、2なのか、3なのか、ということです。
もしステップ1なら、本人が視覚的に認識できる変化をどんどんやってみる。
他の発達同様、やりきったあと、味わい切ったあと、次のステップに進むものです。
ステップ1だから、モノの変化を使ってステップ2に押し上げよう、というのは適さない方法です。


未来を認識する力が重要なのは、それが向上する意欲のもとになるからです。
なぜ、勉強するか、練習するか、といえば、変化した自分が認識できるからです。
もちろん、完全にその変化を予測することはできませんが、「未来は変わる」ということを体感的に知っている人は頑張れる人です。
反対に言えば、その未来が認識できなければ、その子には今しか存在せず、闘うか逃げるかの2択になってしまいます。
勉強ができるのに、勉強することにネガティブな感情を持っている子の中には、この未来を認識する力が弱い子もいます。
体感的に未来がない子は、今行っていることの意味も、意義も、理解できずに意欲が培われていかないものです。


未来の意義とは、選択できることだといえます。
自分の意思と行動によって未来は変化する。
未来を変えられることを知っている人は、前向きに行動できる人になります。
その根っこを辿っていけば、いないいないばーから始まる未来を認識する力を育てるステップです。
感覚的に、体感的に未来がわかる人に向上心が宿る。
ですから、私がお子さんと向き合うとき、この力に、発達段階に注目するのです。




2020年6月17日水曜日

【No.1073】神経発達症を治すのは、特別なことではない

2013年以降、発達障害が「神経発達症」に変わってから、世界の流れは確実に「治す」に向かっています。
日本では、まだ「自閉症」や「知的障害」「発達障害」という診断名と言葉が中心ですが、神経発達症という状態には変わりがないのですから、本人が目指すところは、より良い神経発達であり、親御さんの目指すところは、その後押しになります。
より良い神経発達が進んだ先に、診断基準を飛び越える状態があり、治った姿があるのだといえます。


私も、読んでくださる方がわかりやすいように、「自閉症」「発達障害」という言葉を使ってきました。
近頃、これもよくないのかなと思うようになりました。
「自閉症」という言葉には、長らく「脳の機能障害」という言葉がくっついてきました。
「発達障害」という言葉には、もろ「障害」という言葉がついています。
「発達障害を治す」と言うと、「治らないんだから、障害なんだ」という決まった問答が繰り返される。


既に「自閉症」も、「発達障害」も、障害ですらなくなったのですから、障害を連想させる言葉を使わないほうが、これからの人のためになるかもしれないと思いました。
今、現時点で、成育歴を振り返ると、神経発達に滞りがある状態。
その滞りは、人それぞれ違うけれども、同じ人であったとしても、今日と明日では状態が変わっているけれども、神経発達の滞りは、みなさん、同じね。
だから、その人達を「神経発達症」と呼びましょう。
行政的な判断をするのに、決まった言葉があると良いから、といったところです。


神経発達の滞りを環境、刺激、栄養の面から治していくのは当たり前ですし、それによって治る人が大勢いるのも当たり前。
治るものを、「治らないんだ」と言い張り、指をくわえている方が今の世の中、トンデモと言われるでしょう。
義務教育を受ける世代の子ども達に教科を教えないのが「おかしい!」と言われるように、治る部分を治そうとしないのもおかしな話なのです。


親御さんの中には確固たる信念や理解があるわけではないけれども、「我が子は治らない」と思っている人達もいます。
実際、そのような方達の発達相談も行ってきました。
そこで感じるのは、治る部分と治らない部分・治すべきではない部分が一色単になっている、ということです。
たぶん、「治る」というと、一気に同世代の子どもと同じようになり、あれこれができるようになる、と思われているのでしょう。
しかし、それは間違いです。


私が発達相談で行うのは、まずどこが治り、どこが治す対象ではないか、を見極めることです。
持って生まれた性格や親御さんから引き継いだ資質などは、治す対象ではありません。
あくまで、治るところを治す、治すべきところを治すのです。
治るところとは、育てられるところと言い換えられるかもしれません。
実際、知的障害が重度と言われる子や行動障害を持っている子、医師や支援者にさじを投げられた子も、丁寧に見ていけば、治せる部分、育てられる部分をたくさん持っています。
私は、この道に入って15年以上経ちますが、まったくやりようがない、育てられるところが一つもない、という人にはあったことがありません。
もし、そのような発言(「やりようがない」)をする支援者がいるとしたら、それは本人に問題があるのではなく、その支援者に見抜く目がないからだといえます。


では、具体的に治る部分、育てられる部分とは?
それは、感覚・身体・運動などの未発達の部分です。
それは、愛着形成という人と人との関係性で育てる部分です。
それは、問題行動や誤学習という間違った形で適応してしまった部分です。
未発達・愛着・誤学習は治せるし、やりようがある。
こういった部分を、「発達障害だからね」という言葉で片づけてしまうのは、とても勿体ないことであり、一人の未来と人生を他人が奪うことにもなります。


神経発達症の子を見て、「治らない」と思ってしまうのは、育てられる部分と育てられない部分、治る部分と治らない部分が区別できていないからです。
繰り返しになりますが、神経発達症は1つの決まった状態、測定できる状態を表しているのではなく、「その人によって違うけれども、神経発達に滞りがあるよね~(ざっくり)」というものなのです。
それこそ、自閉症も、自閉"スペクトラム"症という具合に、症状に濃淡があり、定型発達と連続している状態だと言っているのですから、育てられる部分、治せる部分は大いに治していけば良いのです。
今どき、神経発達症の人達のことを、「固定された状態の人」と捉えている人が珍しい人になります。


「性格を治す」「低い身長を高く治す」「親から受け継いだ遺伝子を治す」と言えば、トンデモです。
でも、「未発達を治す」「愛着を治す」「不適応行動(誤学習)を治す」というのは、至極、当たり前なこと。
その当たり前なことをするのが親御さんであり、そこを本人が治すのを、我が子を治す後押しをするのを、支援するのが私達、支援者の仕事になります。
神経発達症を治す後押しをするのは、バナナジュース屋がバナナジュースを作るようなものであって、特別なことではないのです。




2020年6月10日水曜日

【No.1072】with-コロナ時代の発達援助

星野リゾートの社長さんが「道内の人に来てもらえるホテルづくり」という話をしていました。
既に体制を変え、動き出しているようで、今までのようなインバウンド頼みではなく、国内の、北海道なら北海道内に住む人に向けたホテルに変えていくそうです。
どの世界でも、素早く変化に対応できる人が結果を出していくのだと思いました。


そういう経営者がいる一方で、いまだに「補助金ガー」と言っている人達もいます。
これを機に、with-コロナに向かって走りだしている人もいれば、「保障ガー」「国ガー」と言っている人もいる。
どんなことが起きようとも、国が中小企業、一つ一つの世話をしてくれるわけはないのですから、そんなこと言っている暇があるのなら動き出すしかありません。
だって、自分を救うのは自分しかいないのですから。
誰かに救ってもらえる子どもの特権であり、まさに甘えの一種です。


2月の時点では、「若い人が媒介者になる」「無症状者もうつす」と言われていました。
専門家とはいえ、初めての出来事ですから、限られた情報の中で判断する必要があったのでしょう。
実態がわからないときは、やりすぎるくらいやるというのはリスクマネジメントで重要なことだと思います。
しかし、今は6月であり、あれから比べると、いろんなことがわかってきました。
「無症状者が他人にうつすことは稀である」
そういった実態が見えてきたのですから、2月・3月に言っていたことを撤回すれば良いのです。
時間の経過とともに、言っていたことが、信じていたことが変わるなんて、よくあることですから。


「ごめんなさい。あのときは、無症状者が感染に気づかず、他人と接触することでうつすと考えていました」で済む話だと思います。
しかし、どうも、権威がある人、「間違いが許されない」と認識される仕事の人は、謝ることができないし、それがゆえに前言撤回、素早い訂正ができない傾向があると思います。
身近なところで言えば、学校の先生も謝らない。
謝らないからズルズルいって、結局、取り返しのつかないところにきて、どうしようもないから動き出すパターンが往々にしてあるのです。


2013年、『脳の機能障害』が『神経発達の障害』に変わりました。
別に2013年より前、脳の機能障害と考えていた、捉えていた、それに応じて支援・教育を行ってきた、というのは悪いことではないのです。
でも、それから7年が過ぎ、いまだに自閉症は、発達障害は「脳の機能障害である。治ることのない障害である」なんてことを言い続けることが悪いと言えます。


どの世界でも、情報は塗り替えられ、概念や常識が変わっていくのは自然なことです。
そうやって人類は、文化は、テクノロジーは向上していったのですから。
新しい概念・技術を生むのは専門家という一部の人なのかもしれませんが、その概念・技術を選択するのは、利用するのは消費者です。
特別支援の世界で言えば、「神経発達の障害」「診断基準を外れ、治る人もいる」という概念を選択するのは、本人であり、親御さんです。
それを新しい概念が出ているのにもかかわらず、「それは間違いだ」「脳の機能障害と思え」と指示するのは専門家という傲慢さが生んだ越権行為だと言えます。


新しい概念を生むことは大事なことです。
それを研究することも大事なことです。
しかし、研究する人も一人の人間なら、それを知り、利用する人も一人の人間です。
どのように子育てしていかを決めるのは専門家ではなく、その家庭の個人です。
発達に遅れがある子の子育てだけ、その決定権が専門家にあるというのはおかしな話。
専門家はあくまで、その子の、その家族の選択肢を提供するにすぎないのです。


函館は海もあり、山もあり、異国情緒溢れる街並みがある良い場所です。
それなのに、歴史的な建造物のあるエリアに、ドラッグストアが次々と出店し、軒を連ねています。
まさにインバウンド狙い。
しかし今は、ほとんど誰も歩いていません。
パッケージだけ北海道で、中身は道内産ではないお菓子も大量に売れ残り、山積みになっています。
そのようなものを地元の人は、国内の観光客は買ってはいかない。
函館が生き残るには、選択肢を豊かにし、これからの時代に選んでもらえるように変わらなくてはいけません。
函館の観光業が廃れるとすれば、それはコロナのせいではなく、変化できなかった自分たちに問題があるのだと思います。


中小企業の経営者の言う「補助金ガー」は、自閉症の・発達障害の「理解ガー」と一緒です。
インバウンド頼みの大量生産大量消費は、とにかく怪しい子はすべて発達障害にして支援に取り込んじゃえ、とにかく療育を受けさせちゃえ、中身はそれからだ、と一緒です。
これからは個人の豊かさの時代だと思います。
他人がどうだとか、みんながそうしているとか、そんなもので決められる世の中ではないのです。


コロナというウィルスは一緒でも、人それぞれ身体も違いますし、生活・仕事も違います。
とにかく診断名が付けば障害者として生きればいい、みんなが支援を受けているから私も受ける、というのは違います。
一人ひとりが自分で選択し、生活を、人生をカスタマイズしていく必要があります。
子どもだけではなく、親御さんも自立が求められる時代になります。
支援者からの自立、先生からの自立、専門家からの自立も求められていくと私は考えています。
親御さんが自立できるような援助が、with-コロナに向けた私の仕事の変化です。



2020年6月9日火曜日

【No.1071】自らの意思で自らを支援している状態こそ、『自立支援』と言える

私がまだ「構造化された支援」にどっぷり浸かっていた頃、あるベテランの施設職員がこんなことを言っていました。
「今は、どこでもここでももてはやされているが、日本で根付くことはないだろう」
その理由を私が尋ねると、一言、「コストがかかるから」という答えでした。
金銭的なコストだけではなく、時間的、労力的なコストがかかるという意味です。


そのときは、「そうなのかな~」と思うくらいでしたが、それから15年ほどが経ち、現実となりました。
私も視覚支援を頑張っていた時期がありますので、良く分かりますが、とにかく時間と労力がかかります。
特に子どもさんの場合、発達・成長が著しいですから、せっかく丁寧に作った視覚支援も、すぐに作りかえる必要が出てきます。
その都度、作っては変え、作っては変えを繰り返していましたが、それを仕事以外で、つまり、家庭でやろうと思えば、とにかく大変です。
親は支援者ではありませんので、支援グッズだけ作っていれば良いわけではありません。
仕事や家事、兄弟がいれば、他の兄弟のこともする必要があります。


あるとき、泣きながら電話をくださった親御さんがいましたが、某支援者から「構造化が合っていないから、問題行動が起きるんだ」と責められたということがありました。
一時期、それこそ、当地でも構造化ブームがあったとき、結構、構造化のダメ出しをされた親御さんが多く、子どもが寝たあと、夜なべして支援グッズを作っていた、なんて話も良く聞いたくらいです。


確かに、構造化、支援グッズ制作にはコストがかかります。
コストがかかる分、できる人とできない人が出てくるのは当然なことであり、結局は一部の熱狂的な人がいろんなものを投げ打ってやり続けたというのが実際のところだと言えます。
しかし、構造化された支援だけではなく、その後もいろんな療法が流行っては消え、流行っては消えを繰り返した様子を見ていると、「コスト」だけが理由だったようには思えないのです。
私が思うに、本人ができないものは根付かない。


つまり、どの療法も、その療法を行う支援者なり、親御さんなりが必要なわけです。
本人がいくら必要性を感じ、アクセスしようとしても、それができない。
また自分なりにカスタマイズするにも、支援者や親御さんの手が必要なことがほとんどです。
常に他者の手を必要とするものが、文化として根付いていかないのは当然の結果でしょう。


支援者とは、本人の自立を支援するための存在です。
ということは、その支援も、本人のもの、血肉とならなければならないのです。
口では「自立」と言いながら、いつまで経っても、支援を受ける者と与える者の関係性を続けるのは矛盾しています。
支援とは本人が自由にアクセスでき、自由に作りかえることができる形になっている必要があります。
本人が自分で自分のことを助けていけるモノ。
それが支援グッズの本来の姿です。


今後も特別の支援の世界は、流行り廃りが繰り返されると思います。
そんな中でも忘れてはいけないのは、「主体は本人である」ということです。
子どもさんの場合は、親御さんや支援者がその発達・成長を促すこともあるでしょう。
しかし、あくまでその子が自分のために発達する、成長する、ラクになる、ということは忘れてはなりません。
「この子が将来、自立してほしい」「今、少しでもラクになってほしい」
これは親の願いです。
それとは別に、「僕ができるようになりたいから頑張る」「私が今、心地良くなりたいから続けてみる」という本人の想いにこそ、支援の原型があるのだと思います。


発達障害を治すのは、家族や周囲、社会のためになることもありますが、それは結果です。
それよりも大事なのは、自分のために発達障害を治すということ。
他の誰のためでもなく、その子が自分のために、自分の将来と可能性のために治すのだと思います。
心身を心地良い状態に持っていくのも、発達の課題をクリアするのも、すべて自分のための行動です。
その本人の自らを助ける行為に対して支援するのが、親御さんであり、支援者という存在。
支援者が主導している限り、その行為は自助努力とはいえません。
自助努力ができている状態とは、自らの意思で自らを支援している状態なのです。





2020年6月4日木曜日

【No.1070】世代特有の発達

この前、息子たちを連れて郊外の大きな公園に行ったら、驚くことがありました。
公園の入り口のところに『三密に注意してください』と書かれていたのです。
おいおい、ここは札幌ドームが2つくらい入るくらいの広さ。
三密を作ろうと思えば、10万人は集めなきゃなりません。
どう見ても100人もいませんでしたし、函館の人口の3分の1が一堂に会するとも思えません。
つまり、これも脊髄反射の人たち向けのお仕事で、「ちゃんと対策やってますから」と言いたいがためなのでしょう。


そんな広い公園にも関わらず、子ども達の中にはマスク姿の子もいました。
さんさんと陽が降り注ぐ中、マスクをつけて走り回る子ども達。
やっと「熱中症の危険がある」という声明が出ましたが、真っ赤な顔をしている子ども達を見ると、本当に大丈夫かなと思ってしまいました。
ここでコロナに罹るリスクと、熱中症になるリスクはどちらが大きいのか。


これからの季節、熱中症も心配なのですが、それ以上に酸欠、息が深く吸えないことが子ども達の発達に及ぼす影響のほうが私は気になります。
幼児さん達は走り回ることで呼吸を育てますし、呼吸を育てたいから走り回るともいえます。
そうやって酸素が思いっきり摂り込める身体を作り、それが加速する脳や神経の発達に繋がっていく。
当然、息が深く吸えないというのは、それだけで心身にも影響を及ぼすことになります。


赤ちゃん時代からの運動発達がひと段落し、さあ、ここから呼吸を、動きを育てようという時期の子ども達。
そのような子ども達にとってこのマスク生活は、後々に影響を及ぼしていくのでは、と心配しています。
既に夜の寝つきが悪くなったお子さんや、学校や幼稚園などですぐに疲れてしまう子ども達が出ているようです。


子ども達だけではなく、親御さん、特に妊娠されているお母さんへの影響も心配しているところです。
それはコロナに罹る心配ではなく、お母さんが浅い息を続けることで体調が悪くなったり、胎児への酸素の供給が少なくなったりする心配です。
胎児が生きるためにも、神経発達を続けるためにも、母体から届けられる酸素が必要になります。
その酸素の量が減れば、胎児期の神経発達に影響が出るのは自然なことです。


また、今胎児期を過ごしている子ども達、春以降生まれてきた子ども達の中には、背中を丸めた子、背中が固い子が多くなるような気がしています。
ただでも不安が強い妊娠の時期に、さらに不安を感じやすい世の中で多くのストレスを感じたと思われるお母さん達。
それは胎児に伝わり、恐怖麻痺反射(『人間脳を育てる』花風社 参照)が発動され続けている子も少なくないと想像できます。
たぶん、この年代の子ども達は、呼吸の面で課題を抱えている子が多いでしょうし、ここをより丁寧に育てていかなければ、全体的な発達の遅れとなって表れる子も出ると思います。


全国の実践家の人達は知っていると思いますが、東日本大震災のときにお母さんのお腹の中にいた子ども達の中にも、背中を丸めた子、背中が固い子、呼吸が浅い子、呼吸を止めちゃう子が多いことが知られています。
今から3、4年前でしょうか、2011年生まれの子ども達からの相談が他の年代と比べて極端に多くなった時期がありました。
そして、どのお子さんも呼吸と背中に課題を抱えていたのです。
ちょうどその時期はHSPなどが流行りだした時期でしたので、「もしかしたら、うちの子もHSP、極端に繊細な子?」みたいな相談も多かったです。
でも、驚いたときに息を止める子が多かったので、胎児期から続く発達の遅れが主だと感じました。


東日本大震災のときは、心理的なストレス、不安が大きかったですが、今回はそこにプラスしてマスク、酸欠、巣ごもり状態があります。
2011年生まれの子ども達と同じように、2020年生まれの子ども達が年中、年長さんになった頃、また一気に課題を持った子ども達からの相談が増えるかもしれないと心配しています。
もちろん今から、妊娠されているお母さん達に「呼吸を丁寧に育ててください」「背中の固さを取ってあげてください」とは伝えることができません。
しかし、これから数年後相談があったとき、2020年生まれの子ども達を「呼吸」「背中」という視点から見ていくことはできます。


最後に余談になりますが、幼稚園や保育園、学校の先生から、「ちょっとこの学年は違うよね」と相談されるのがやっぱり2011年代の学年でした。
出張先の土地でも言われるので、どの地域でも、どの業種でも、うすうす気づいている人達は多いようです。
そんなとき私は、「災害の記憶は世代をまたぐ」という話を思い出します。
親の世代が体験したことなのに、まだ当時生まれていなかった子どもが同じような場面で同じような反応を示すことがあるそうです。
遺伝子にその体験が組み込まれて次の世代に行くのかはわかりませんが、既に命を宿した胎児なら同様の体験をしたと考えても良いと思います。
発達は環境の影響を受けますので、世代特有の発達というものもあるでしょう。



2020年6月3日水曜日

【No.1069】"感覚的"に分かるために

栄養を摂取する面から、「危険の察知」という生き抜く面から、そして何よりも、そこが発達の始まりである面から『口』に注目しています。
小児科の医師の中には、乳児のおっぱいの吸い方を見て、発達のリスクを捉えるという人もいるくらいです。
飲む力が弱いということだけではなく、むせたり、吐き戻したり、口からこぼし続けるようなお子さんは、経過観察の対象になるとも記されていました。
確かに、私が関わるご家族の中にも、「おっぱいが上手に吸えなかった」と言われるお子さんがいらっしゃいます。
赤ちゃんは、胎児期に羊水を飲んだり、吐いたりして哺乳の練習をしますので、胎児期からすでに何らかの発達のズレ、課題が始まっていたのだと考えることができます。
ということがわかれば、育て直しの箇所が絞られてくるのです。
 
 
習慣として口に注目していますと、近頃、面白い関係性が見えてきました。
それは他人の感情が読めない子の中に偏食の子が多く、その偏食の根っこは味覚の課題と繋がっている、ということです。
 
 
味覚も育ち、育てるものですので、当然、そこに発達の遅れが出る子もいるわけです。
味覚が育っていないと、栄養の偏りに繋がり、それが神経発達、日々の生活にも影響を及ぼす可能性があります。
ですから私は、味覚を育てることも提案してきました。
 
 
すると、あるとき、「偏食が直った」と仰っていた親御さんが、「近頃、私が機嫌が悪いと、それに気づくようになったんです」という変化を教えてくれたことがありました。
最初は、「味覚は発達の土台になる部分だから、そこが育って社会性の発達に繋がったのだろう」と思っていましたが、気になって他のご家族、お子さんにも注目してみました。
すると、同じようなお子さんが複数いらっしゃって、どうも味覚と感情を読みとる、理解するが繋がっているような気がしたのです。
 
 
その答えは、ヒトの進化に関する本の中に記されていました。
「進化の初期で獲得した脳機能を転用させ、脳を大きくしてきた」
つまり、ヒトで言えば、生きるために必要な機能、呼吸や感覚、消化吸収などを人間らしい機能、発達へと転用してきたということです。
どうも、イメージでは、進化と共にヒトは高度な脳機能を獲得していった姿が思い浮かばれますが、そうではなかった。
もともとある機能を別のものへと転用しながら、その種類、働きを増やしてきたのです。
よく考えれば、ゼロから1を作るよりも、1を2にも、3にもしたほうが効率が良いわけです。
そうやって人類も、動物としての機能を転用しながら、言葉や社会性など、いわゆる人間らしい機能を獲得していったのでしょう。
 
 
身体的な"痛み"と心が痛むときの"痛み"、どちらも同じ脳部位が活動していることがわかっています。
そういえば、少し転んだだけで激しく痛みを感じる子は、心理的にも傷つきやすく、反対に身体的な痛みに鈍感な子は、意地悪されてもケロッとしていることがあります。
たぶん、こういった身体で感じる感覚と心理的な感覚はつながっていて、進化的に言えば、感覚の神経回路を、心理的、より高度な脳機能へと転用したのだと思います。
 
 
ですから、単純に「原始的な脳機能が育ったから、より高等な脳機能が育っていった」というのではなく、味覚が育ったため、転用先の脳機能が育っていったのでしょう。
調べると、苦味と嫌悪感が繋がっているそうです。
他にも、甘みがポジティブな感情と、酸味がネガティブな感情と繋がっているかもしれません。
私達は、身体的な感覚を通して、心理的な感覚、さらに他人の感覚・感情を知ることができるのだと思います。
 
 
自閉症の人の説明の中に、「他人の感情が読めない」などの記述をよく見かけます。
その文脈の流れでは、セオリーオブマインド、ミラーニューロンなどの脳機能の課題として述べられることが多いですが、もしかしたら、もっと原始的な脳の部位・課題とつながっているかもしれません。
自閉症の人の中には、そもそも自分の感情がわからない、自分の気持ちがわからない、といわれる方もいます。
そういった方の多くは、身体性の乏しさを抱えています。
 
 
身体面からのアプローチに関して「単なる健康法」と捉えている人もいるようですが、決してそれだけでも、それが目的でもありません。
ヒトの進化と発達は決して切り離すことができないのです。
700万年という長い時間をかけて、いや、動物で言えば、もっともっと長い年月をかけて進化し、ヒトとしての脳機能を獲得していったといえます。
つまり、身体という土台の上に、ヒトという発達が乗っかっている。
身体が十分に機能していなければ、育っていなければ、当然、ヒトとしての機能と生活に支障が出ます。
身体を通して社会生活をするのだから、人間として自立して生きていけるのだから、まずは身体を育てることが重要になります。
 
 
学校や職場、家庭生活など、人と人との関わりの中での課題があると、どうしても知識として、ルールとして教えようとしてしまいます。
でも、それは土台である身体の発達が整ってから。
感覚的に分からないことを教え込まれると、それはパターンの一つとして覚えるだけになります。
そういったパターン学習は、実生活の中でほとんど意味をなしません。
ですから子育て・発達援助では、「感覚的に分かる」ための感覚を育てていく。
もし、お子さんに感覚的な課題があるとしたら、その課題が他のどんな課題と繋がっているか、連想してみると良いかもしれません。
「障害特性」という言葉からは見えてこない解決の糸口が見えてくるはずです。
 

 
 

2020年5月25日月曜日

【No.1068】凸凹がある子?全体的な遅れがある子?

親御さんにとっては、告げられた我が子の『診断名』が重くて、大きく感じられるのだと思いますが、私達支援者は、その診断名によって助言や援助の仕方が変わったり、変えたりするわけではないので、ほとんど気にしないものです。
診断名とは、行政用語みたいなものですから、子育て・教育と同様に、結局は一人ひとりを見て、オーダーメイドで作り上げていかなければなりません。
「自閉症だから、こう」「LDだから、これ」みたいな支援は、20年前のお話です。
 
 
「発達障害」という言葉には、大きく分けて2種類の意味があると思います。
発達が"凸凹"しているという意味と、発達が"遅れ"ているという意味です。
ここが支援を創造していく上で最初のポイントになります。
単に「発達障害」というだけでは、凸凹があるのか、全体的な遅れなのかがわかりません。
 
 
凸凹がある子の場合、凹んだ部分に注目されがちですが、凸の部分が重要です。
この凸の部分を確認することで、刺激・発達の極端な偏りなのか、または発達のヌケ、やり残しなのかがわかるからです。
具体的に言えば、凸が同年齢の子以上の発達段階とレベルにあれば、刺激の偏り、脳の使い方の偏り(右脳ばかり使っている、左脳ばかり使っている)だと推測できます。
そうではなく、凸が同年齢の子と同じような発達の範囲にあれば、胎児期から2歳前後の発達にやり残しがあるよねと考えられます。
 
 
一方で全体的な発達の遅れがある子の場合は、その子の資質的な理由から発達がゆっくりであるということと、何らかのストッパーがあるために発達していけないということが考えられます。
遺伝的な要因や出生前後のトラブルなど、どう頑張っても、発達がゆっくりであるという子がいるのも事実だといえます。
そのようなお子さんの場合には、長期的な視点をもって、「とにかく小学校4年生の学力を」「とにかく自立した生活を」という具合に、コツコツ積み上げていくイメージが良いと感じます。
大事なのは、ゆっくりなペースを速めるのではなく、ゆっくりでも歩き続けるような後押しだと思います。
 
 
ただ、発達障害と言われるお子さんは、何らかのストッパーによって、うまく発達が進んでいかない場合のほうが多いといえます。
凸が同年齢と同じくらいのお子さんと同様に、胎児期から2歳前後の発達のやり残しがあるのですが、そのやり残し、ヌケがより胎児期に近いのがこちらのお子さん達です。
ヌケがあるのは一緒でも、それが発達の初期、発達の土台にあるために、その後の発達全般に影響を及ぼしているようなイメージです。
さらにいえば、呼吸や消化、循環など、生きていく上で重要な部分の発達にヌケがある、脳幹の発達がやり残しの始まりといったときに、うまく発達が進んでいかない感じがします。
あとは、栄養や酸素などの摂り込みの問題、偏りのために、神経発達が生じづらいといった理由から、発達全般に遅れが出ている、同年齢と比べて遅れている、ということが考えられます。
 
 
まとめますと、その子の「発達障害」と言われる状態は、「凸凹なのか?全体的な遅れなのか?」が入り口。
 
 
凸凹なら、凸の部分に注目し、「同年齢以上?同年齢と同じくらい?」を確かめる。
同年齢以上→「刺激の偏り?脳の使い方の偏り?」
刺激の偏りなら、過剰な刺激を制限しつつ、異なる刺激が味わえるような環境づくりによって、凸凹から生じる生きづらさを解消していく。
 
 
同年齢と同じ→「胎児期から2歳前後にある発達のヌケ、やり残し」
出生後の運動発達にやり残しがある場合が多いので、そこを育て直す、回数券を使い切ることで、凹に引っ張られている部分を解消していく。
 
 
全体的な遅れなら、「その子の資質?ストッパーの影響?」を確かめる。
ゆっくり発達するのがその子の資質だとしたら、注目するのはスピードではなく、長期的な視点を持ち、歩み続けること。
ゆっくりなお子さんは、身につくのに時間がかかりますが、身についたあとは、それを離さない特徴があります。
一度身につけたものは生涯に渡って大事に使い続ける感じがありますので、大人になっても必要なスキルをコツコツと積み上げていくのが良いと思います。
 
 
ストッパーの影響なら、「発達の土台のヌケ?神経発達の問題?」を確認します。
赤ちゃんのときから違和感を持たれていた親御さんも少なくなく、その場合は呼吸や嚥下、睡眠など、生きる上での土台の部分に発達のヌケの始まりがあります。
運動発達のヌケと同様に、この生きる土台の部分の発達のヌケを育てなおすことで、ゆっくりだった発達を加速させることが可能です。
また、神経発達の問題は、栄養と酸素に注目し、ここを整えていくことが第一歩です。
 
 
細かい部分はさておき、うちの子は、担当しているお子さんは、発達に凸凹がある子か、全体的な遅れがある子かに注目することが大事だと思います。
結局、「自閉症」や「発達障害」からは何も見えてはきませんので、独自の視点を持ち、とにかくお子さん一人ひとりを見ていくことが必要だといえます。



2020年5月24日日曜日

【No.1067】子も、親も、支援者も、自立

6月21日に予定していました『どこでも治そう発達障害の会』特別講座in函館に参加申し込みを頂いた方、また「6月以降、学校が再開してから」「緊急事態宣言が終了してから」ということでお申し込みを保留されていた方、すべての皆さんへ、中止の連絡をしました。
すると、多くの方からお返しのメールを頂戴し、残念なお気持ちとねぎらいのお言葉をいただきました。
皆さんの中にも、「開催は難しいだろう」という想いがあったようでしたので、オンライン講座への参加等、前向きに変わり、動こうとされる様子が伝わってきました。
 
 
コロナの感染者数が落ち着いてきた頃から、予定していた会場が使用できない状況を考え、動いていました。
そんな中で気がついたことは、官民問わず、変わっていこうとする最中なんだということです。
メディア等では、迅速に対応、変化できた地域や組織の話が取り上げられますが、実際、ある程度、大きな組織になればなるほど、地方で交流と財政が乏しいところは、変わるまで時間がかかります。
北海道に関しては長い間、国の中央から「どれだけお金を引っ張ってこられるか?」で進んできた地域ですので、どうしても国や東京などが動いたのを見て、指示を待ってという傾向が強くあるように感じます。
そういった意味では、最初に独自の緊急事態宣言を出した北海道知事は大きな挑戦をしたのだといえます。
ただ、その後は、旧来の勢力に飲みこまれてしまっているようですが。
 
 
北海道は、今までのような大型バスで外国からの観光客を集め、その人達に大量に消費してもらう、というモデルから転換する必要があると思います。
とにかく大きなイベントを開催して、「来道してくれる人達を増やす、それで地元にお金が落ちる」というのばかりでした。
中央からの指示と予算、モデルを元に北海道風に変えるのが独自モデルなどと言われていましたが、それではまさに年がら年中、冬の時期が続くでしょう。
知事が独自の路線を打ち出したように、私達も自分達の頭と身体で考え、行動し、真の独自路線を構築していく必要があります。
 
 
コロナによって問題が生じたのではなく、コロナによって見えづらかった問題が表に出ただけ、問題が加速しただけ、という意見に、私も同意します。
ですから、これから消えていくものは、既にその役目、役割を終えていたものだといえます。
特別支援の世界で言えば、どっかの教授、医師が行う講演会は、わざわざ開催地まで出向く必要はなく、すべてオンラインで大丈夫です。
というか、ほとんどの質疑応答が歌舞伎の型みたいに決まっているので、録画したものを各自で好きなときに見るという形態で良いでしょう。
診断も、脳波・採血がないので、アプリでOK。
本来、発達障害はスペクトラムなので、自閉率何パーセントとか、半年おき、1年おきに判定してもらうほうが実態に合ったものになります。
AIは、「支援を利用するために、一応、診断名をつけておくね」みたいな判断はしないのも良い点です。
 
 
長年といいますか、特別支援の歴史そのものなのですが、どうやって支援を増やしていくか、継続していくか、生涯に渡る支援を確保するか、で進んできました。
しかし、その支援自体がリスクになります。
ここ1ヶ月の陽性者のほとんどは、院内感染か、施設内感染。
集団で生活すること、身体接触を伴うことが、大きなリスク要因になります。
つまり、支援ありきの教育・子育て・支援体制では、その人の安全安心を守ることはできません。
自立を目指すこと、発達の課題を一つずつ解決しておくことは、子ども達の安全安心な生活と未来を築いていくことになります。
 
 
私が20代の頃、トレーニングを受けた専門家は、「受ける支援を最小限にしていくこと、できるだけ一般的な人達が利用している自然な形態にしていくことが、私達の目指す支援なんだ」と繰り返し述べていました。
しかし毎度のことですが、太平洋を渡って戻ってくる最中に改変が行われます。
いつの間にか、最小限の支援が、最大限の支援へと変わっているのです。
その悪しき文化が再び外からやってきたものによって壊されていく。
 
 
子育てが自立を目指すのは当たり前。
発達援助が、その子の持つ発達課題をクリアするために向かうのは当たり前。
その当たり前ができていなかったのが、2000年代から始まった発達障害ブームであり、この20年の遠回りだったといえます。
発達障害という一種の商品を作り上げ、消費していたのが、今までの支援者たちの姿です。
これからヒトも、文化も、システムも、すべて淘汰されて行くでしょう。
残ったものが本物であり、変われたものだけが次の時代へと進むことができる。
 
 
一方で、私は変わらないもの、守るべきものがあると考えています。
それは人と人とが時間と場を共有すること。
私は納得するだけでは意味がなくて、実際に行動し、変わることが重要だと思っています。
ですから、私の仕事は時間と場を共有しながら、その人が変わるための援助を行うことだと考えています。
共有することで自然な鼓動を感じ、変化を感じる。
私には画面を通して、これらを感じとることができませんので。
これから益々、非効率で、リスクのある仕事形態にはなりますが、それ以上の価値と結果が出るような仕事ができなければなりません。
 
 
今後、少なくとも、あと1年くらいは、多数の人が集まる講座、身体を動かす講座は難しくなると思います。
それに真の意味で自立をみんなが目指していくことになれば、親御さんの学び方、支援者の学び方も変えていかなければなりません。
一堂に会するのではなく、個人で高めていく。
その手段としてオンラインがあり、そこで補えない部分は、直接、その人から教わる。
今まで以上に、直接会うこと、直接指導を受けることに大きな価値が出るといえます。
そういった意味では、子どもだけではなく、親も、支援者も、自立的に学び、自分の判断で行動していけることが求められます。
 
 
振り返ると、もしかしたら、子ども達が自立できずにいたのは、私達、大人の側が自立できていなかったのかもしれないと思いました。
結局、どっかの誰かが言った「治りません」「生涯に渡る支援」を信じ、それに合わせて行動してきたのも、一人ひとりの大人が自立できていなかった証でしょう。
誰かが決めたこと、誰かが言ったことに従うだけなのは、自立とはいえない。
これからのキーワードは、子も、親も、支援者も、自立です。
 
 
自らで立ち、行動する。
大量生産大量消費からの脱却です。
それは北海道も、特別支援の世界も。
来道してくれた一人ひとりを大切にし、その人の豊かな時間となることを目指していく。
同じように、一人ひとりの子ども達を大切にし、その子達の豊かな発達、成長を目指していく。
なんとかモデルを真似するのではなく、その子独自の成長と学びを創造していく。
これが実現できれば、より良い未来へと変わっていけると思いますし、その未来のために行動していきたいと私は思っています。
 
 
*7月11・12日のすべての予定が決定しました。3府県4家族の発達相談です。そのため、募集を終了いたします。



2020年5月22日金曜日

6月21日(日)『どこでも治そう発達障害の会』特別講座 in 函館について

開催日時があと1か月と迫った中ではありますが、昨日の北海道緊急事態宣言継続を受けまして、会場の管理責任者と話し合いを行いました。
今回の講座には多数のお申し込みがあり、また座学のみではなく、実際に身体を動かして学び合う時間がありますので、会場の使用が難しいということになりました。
本日、講師を引き受けてくださった浅見さん、栗本さんとお話をさせて頂き、その結果、今回の特別講座の中止が決定しました。
 
 
今回の講座は、3月1日の告知からすぐに20名の参加申し込みをいただきました。
参加申し込みのメールの文面には、北海道での開催を喜ぶ声、直接、お二人のお話、指導が受けられることへの期待が綴られていました。
既にコロナの広がりが見られていた時期にもかかわらず、多くの方が期待して申し込んでいただいた事実に、大変うれしく思ったのを覚えています。
函館、道南地方以外の方からも、複数お申し込みがありました。
ですから、その期待に応えられない結果となってしまい、悲しく思っています。
講師のお二人も、函館で開催できないことを大変残念に思われていました。
 
 
先ほど、お申し込みいただいた方、お一人お一人にメールを送りました。
ただお一人だけ、お申し込み時からメールアドレスが変更になった方がいらっしゃるようで、送付できませんでした(ご家族皆さまで午前中の講座にお申し込みいただいた方です)。
このブログを読んでくださると良いのですが…。
 
 
今回の中止を受けまして、講師の栗本さんより参加を申し込まれた皆さまへメッセージを頂戴しております。
 
 
『緊急事態宣言が解除されても以前と同じような生活に戻るのには時間がかかると思います。
今後考えられることとしてオンラインの仕事や授業が多くなるので目の疲労が増えてきます。
そのために睡眠の質が低下することで精神的な問題が発生してくることが予想されます。
今以上に目の疲労をとることが大切になってくると思います』
 
 
5年、10年後、今を振り返れば、時代の転換期にあることがわかると思います。
今後の講座は、オンラインが中心になってくるはずです。
花風社さん、栗本さんは、随時、オンラインでの講座や指導を行っておりますので、是非、今回参加をお申し込みいただいた皆様、チェックしてみてください。
お送りしたメールには、情報が更新されるページのアドレスを掲載しておきました。
 
 
このたびは、『どこでも治そう発達障害の会』特別講座 in 函館に多数のお申し込みを頂き、ありがとうございました。
また全国で、告知や応援をしてくださった皆さまも、ありがとうございました。
そして何よりも、函館での開催を快諾してくださった講師の浅見さん、栗本さん、誠にありがとうございました。
 
 

2020年5月20日水曜日

近畿地方の出張について(7月11・12日)

7月11日(土)と12日(日)に関西方面で出張の発達相談を行います。


既に11日(土)は訪問するご家庭が決まっていまして、12日(日)でしたら最大2家族の訪問が可能です。
もしこの機会に「子どもの発達について確認してもらいたい」「今後の子育ての方向性を一緒に話し合ってほしい」などのご希望がありましたら、【出張相談希望】と件名に書き、メールをください。


また詳細を確認したい方がいらっしゃいましたら、【出張相談問い合わせ】と件名に書き、お問い合わせいただければ、ご説明いたします。
出張相談についての内容は、てらっこ塾ホームページをご覧ください。
ご依頼&お問い合わせ先:メールアドレス


今年の2月、関西での出張を終え、肉まん片手に帰ってきたときには、世の中がこんなにも変わるとは思っていませんでした。
世の中が自粛や制限に溢れ、日常生活がガラッと変わってしまった状況でも、「コロナが落ち着いたら」「一息ついた頃に」というような出張のご依頼、お問い合わせをいただいていました。
すでにいくつか夏の予定が決まっており、私はそのことをたいへん有難く思っています。
今後、どんな未来、社会がやってきても、変わらないのはその子の身体であり、奪われないのはその子の学びと発達です。
それを育むご家族のお手伝い、後押しができればと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします!


*7月11日の午前・午後、7月12日の午前のご訪問先が決定しました(5月22日13時)。
*7月11日・12日のすべての予定が決定しました。3府県4家族のご訪問です(5月23日13時)。
 
 

2020年5月18日月曜日

【No.1066】目は口程に発達を言う

マスク姿での対面が通常になりつつある現在、「そういえば、目についてのブログはあまり書いてこなかったな」と思い、今、文章を書き始めています。
ヒトの発達の順序から考えると、鼻が大事で、口も大事です。
生きるために必要な空気と栄養を摂取する場所であり、危険をいち早く察知する場所でもあります。
それと比べると、順番から言って次の段階の発達が目、視覚になりますが、それでもその人の目からは重要な気付きを与えてくれるものです。
 
 
自閉症や発達障害、また子どもの発達においても、「目が合うか」は重要なポイントになります。
一般的な育児書でも、発達障害に関する本やネット情報でも、もちろん、健診の際にも、目がちゃんと合うかが確かめられます。
言葉の発達の遅れと同様に、目が合いづらいことで違和感を感じられる親御さんが少なくないですし、「カメラ目線ができない」というのも親御さんの気付きとして多く聞かれます。
 
 
発達相談の際、お子さんと対面して「もしかしたら、LDがあるかも」と感じることがあります。
何でそう感じるかと言いますと、御察しの通り『目』です。
表現が適切かは分かりませんが、その子の目は私の目を見ているのに、なんだか私の後方を見ている感じがします。
幼少期の長時間のメディア視聴の子も同じように目に違和感が出ますが、それとはまた違った感じもします。
LDの子ども達から感じる「目が合っているのに、焦点があっていない感じ」からは、これじゃあ、文字や数字が見にくいよね、本や黒板などに焦点を合わせるだけで疲れっちゃうよね、という連想が浮かびます。
中には、本人も、親御さんも、この課題に気づいておらず、「自閉症だから、教室の刺激に影響を受けて」「知的障害があるから勉強が苦手で」という解釈で終わっていたケースもありました。
 
 
誕生時、赤ちゃんの目は、はっきり物を捉えることができません。
視力もほとんどないですし、物体を目で追う力も育っていません。
それが生後1か月半くらいから物を少しずつじっと見ることができるようになったり、生後2ヶ月くらいから目で追うことができるようなったりします。
嗅覚や味覚、触覚、聴覚などが胎児期から育てられるのと比べて、視覚は生後の環境の中で本格的に育っていくイメージです。
 
 
この視覚と関係が深いのが脳幹になります。
脳幹の中脳が、視覚の中継所であり、眼球運動の調整(脳幹の"橋"も)を司っています。
脳幹はまさに生きるために必要な役割を担う箇所ですし、ヒトとして、動物として発達の始まりであり、すべての発達の土台です。
自閉症、発達障害の人達に多く見られる課題(嚥下・呼吸・消化・自律神経)は、この脳幹の部分が関係していますので、「目が合わない」という話も、脳幹が発達する時期に生じた問題の一つの形態といえるかもしれません。
 
 
目が合わないお子さんに対して、「こっちを見て」と促したり、目を動かすトレーニングをしたりすることがあると思います。
私のイメージでは、目を動かすことによって脳幹を育てていく感じです。
発達相談においても、過去にそのようなトレーニングをやったという方が多くいらっしゃいます。
しかし、その効果はあまり芳しくなく、何よりもお子さんが「疲れる」「大変」ということを言われます。
 
 
子どもさんの脳は柔らかく、大人のように刺激が脳のある部位へピンポイントには届きません。
たとえば、呼吸を育てると、その呼吸を司る延髄だけではなく、脳幹全体が刺激され、育っていくといった感じです。
そういったお子さんの脳の特徴を踏まえると、大人の脳のようなピンポイントで刺激し、育てるよりも、脳全体をあらゆる角度から、あらゆる刺激から育てていく方が良いと考えられます。
自然な子どもの発達も、そうですし。
 
 
私の今までの実践、経験から言えることは、目が合わない子、LDで特に読むことに課題がある子に対しては、ピンポイントで目をターゲットにするよりも、脳幹全体をイメージして育てていく方が本人の負担が少なく、より早く育っていくということです。
ある幼児さんは、呼吸や嚥下が成長していくとともに、「目が合うようになった」と親御さんがおっしゃっていました。
もう少し大きな就学されたお子さんは、排泄が整うようになってから「読み書きが向上した」ということもありました。
また中には、身体のバランス感覚が良くなったくらいから、書く字のバランスが整い始めたという人もいました。
脳幹と小脳(平衡感覚、運動系)も関係が深いので、小脳の育ち→脳幹の育ち→目の育ちという流れ、相互作用があったのかもしれません。
 
 
発達障害は当然、発達過程に生じるわけで、その現れ方は個人の内的な要因、外的な要因によって多様になるといえます。
ですから、同じ発達障害でも人によって現れ方が異なる一方で、脳幹や小脳など、発達初期に関係する箇所に共通項がみられます。
発達障害がある子ども達に何となく同じような行動、様子が見られるというのは、単に「そういう障害だからね」というのではなく、発達初期に端を発するのは共通しているけれども、脳幹や小脳の機能は複数あるからだと言えるのではないでしょうか。
 
 
よって、この仮説が正しければ、特に子どもさんの場合は、ピンポイントで脳機能にアプローチするよりも、脳幹全体、小脳全体を育てるイメージで援助していく方が良いと考えられます。
脳トレが効くのは、ある程度、成熟した脳、大人の脳であって、子どもの脳の特徴を活かしたものだとはいえません。
目が合わない、もしくは黒板やノートに焦点を合わせるのが疲れる、文字を読むことや書くことに苦手さを持っているお子さんがいらっしゃいましたら、目と関係する脳幹、平衡感覚や運動と関係する小脳全体へアプローチされると良いかもしれません。
カメラ目線ができないのは、その子の人生の大きな支障にはなりませんが、目は発達の入り口ですから育んでいくべき重要なポイントだといえます。
マスク姿が多い今だからこそ、目に注目を。
 


2020年5月16日土曜日

【No.1065】4種類の動きを通して環境と繋がる

その子の発達を堰止めてしまう要因には「原始反射が統合されていない」、つまり、胎児期から1歳前後で役目を終える反射が残っていることが考えられます。
実際、子どもさんによっては、2歳を過ぎてもその反射が頻繁に見られていて、それが終わった途端、ググッと発達が前に進むということもあります。
ですから、発達に遅れがある子を見る場合、原始反射がちゃんと役目を終えているかどうかを確認しますし、その重要性をお伝えしています。
 
 
このようなお話をすると、「原始反射=赤ちゃんの運動」「原始反射を卒業するっていうことは、次の発達段階に移る」といったイメージを持たれる方がいらっしゃいます。
しかし、そうではありません。
お母さんのお腹の中にいるときだって、胎児は自分の意思で動いたり、学習したりすることがわかっています。
決して胎児だから、赤ちゃんだからといって、反射のみで動いているわけではないのです。
 
 
胎児、新生児、赤ちゃんの運動には、原始反射があり、呼吸等の無意識な動きがあり、うつ伏せに寝せると手足をバタつかせるような動きがあり、対象物に手を伸ばすなどの意識的な動きがあります。
大きく分類して、この4種類の運動を通して運動発達、脳の発達を遂げていくのがわかります。
ですから、発達相談において原始反射を確認することは大事ですし、親御さんならそこを育てていくのも大切ですが、他の動きについても確認する必要があるのです。
原始反射はわかりやすく、教科書通りの動きが見られますので、アプローチしやすく、また熱心に取り組まれている親御さんも多いですが、そこだけ育てばいいか、注目すればいいかという話でもありません。
 
 
胎児期からすでに上記の4種類の動きがみられるということは、環境との相互作用によって育つ部分が大きいという意味であり、そうやって発達するようにヒトはできているのだといえます。
なので、発達障害、つまり、発達に遅れがある子が「先天性の障害である」と言い切れないですし、彼らの発達の遅れを取り戻すには4種類の動きに注目し、育てていくことが有効だと考えられます。
「発達障害だからこそ、手が打てない、支援や理解しかない」ではなく、「発達に関わる課題だからこそ、4種類の動きを豊かにすることで治っていく」といえるのです。
 
 
発達障害の子どもたちに共通してみられるのが、バリエーションの乏しさです。
発達相談において私は、上記の4種類の動きをイメージしながら、それぞれどのくらい動きの種類があるかを見ています。
一見すると、運動発達に問題がないと言える子、赤ちゃんの運動発達において気になる点がなかった子でも、動きが単調で、いつも同じパターンで動いていたということがあります。
たとえば、「寝返りの仕方がいつも決まっていた」「その寝返りが変化していかなかった」「前に進むハイハイはしたけれども、後ろに向かうハイハイはしなかった」「立ち上がる一連の動作がいつも一緒」「走り方が単調」などです。
 
 
定型発達のお子さんの場合は、ハイハイ一つとっても、その動き方がバリエーションに富んでいます。
ということは、発達障害と言われるお子さん達への子育てのポイントは、動きの幅を広げていくことだと考えられます。
単に「寝がえりができればいい!」「ハイハイをやり直せばいい!」「走れるようになればいい!」という話ではないことがわかります。
もちろん、基本的な動作、定型である運動発達はできるようになることが基本ですが、そこからどうバリエーションを付けていけるかがもう一歩先に進んだ発達援助だと言えます。
 
 
このブログでも、実際の発達相談でも、私は子ども達の遊びの重要性、必要性を説いています。
これは私が自然派であるとか、意識高い系であるとか、私の趣味嗜好とかいう話ではありません。
一言で言えば、身に付けた基本動作にバリエーションをつけるには遊ぶこと、特に自然の中で全身を使って遊ぶことに勝る方法がないからです。
私が直接的な指導で、基本動作を身に付けさせたり、その方法を教えることはできます。
家の中で、療育機関で、基本的な動作のやり直しはできます。
しかし、決められた環境の中では豊かな刺激と動きを作ることができないのです。
 
 
胎児、新生児、乳幼児は、4種類の動きを通して環境と関わっていきます。
最初は無意識で行っていた運動が、意識してできるようになるのも発達。
意識してやっていたことを無意識でできるようになるのも発達。
コントロールできるようになった動きを組み合わせて、新たな運動ができるようになるのも発達。
子ども達は、自分の身体を通して、自ら動くことを通して、ヒトとして生きるための発達の土台を培っていきます。
動くことで環境とつながり、繋がった環境との間で動きを育て、発達にバリエーションをつけていくのです。
 
 
多くの子ども達と関わってきた中で私が感じるのは、発達障害の中核的な課題はこの動きの乏しさ、バリエーションの少なさである、ということです。
動きが限られていれば、当然、生活の中で、人間関係の中で、社会の中で、うまくいかないことが増えるでしょう。
これらは常に変化し続ける環境ですから。
自立を言い換えると、「変化に対応できるようになること」といえるかもしれません。
「あなたは変化に対応できるだけのバリエーションを持っているの?」が問われるのだと思います。
 
 
動きにバリエーションができるということは、臨機応変な行動ができるようになるだけではなく、獲得した行動と行動を結びつけ、新たな動きを生みだすこととつながっていきます。
それは脳をフル活用し、創造性のある豊かな人生を送ることにもつながっていきます。
そしてそのベースは、胎児期から始まる子ども時代の動きの獲得とそれに伴う脳の発達だと言えるでしょう。
ヒトは4種類の動きを通して環境とつながり、その環境の豊かさを受けて動きにバリエーションを、脳内のネットワークを作っていく。
 
 
原始反射の統合も、赤ちゃんの運動発達のやり直しも、基本的な動作の獲得に繋がるといえます。
でも、そこだけでは発達障害の子ども達の課題を解決したとはいえませんし、発達援助の入り口に立ったとしかいえないと思います。
子ども達が獲得した基本的な動作、動きを、どのように発展させてあげるか、どのようにバリエーションを作っていくか。
そのための環境づくりこそが、発達援助の中心だと考えています。
 
 
そう考えると、やっぱり育てていく中心はその子自身ですし、自然という変化に富んだ豊かな環境の中で遊ぶことが一番です。
自然で遊ぶには、自然に対処しなければなりません。
意識、無意識を問わず、自分が獲得した動きを総動員して、子は遊ぶのです。
自然で遊べるようになった子は変化に対処できる動きと脳を育てたと言えるでしょう。

 
 

2020年5月12日火曜日

【No.1064】乳幼児期に大切な随伴性を伴う遊び

 「行動変容」という言葉を目にすると、そういえば、「行動を変えることが支援であり、療育である」と考えていた集団があったよな、と思いだします。
その昔、私が学生だった頃、当地の支援には視覚支援グループと行動変容グループがあり、お互いをライバル視していました。
視覚支援Gは、「椅子に1分座っていられたら、先生が子どもの口の中にお菓子を入れていたのよ。これじゃあ、動物の餌付けじゃないの!」と言い、行動変容Gは、「狭い衝立の中に閉じ込めて、先生は一言も発しないでカードを渡してたのよ。これじゃあ、人間じゃなくてロボット扱いじゃないの!」という具合に言っていたのを覚えています。
私は学生身分でしたので、両方の親御さんとも関わりがありましたし、両方の施設、支援者とも関わりがありました。
今思えば、学生身分をフル活用し、いろんな体験や人達と出会っていたことは今に繋がる良いことだったように感じます。
 
 
あれから15年のときが流れまして、全国的にみて、当時のようなゴリゴリの視覚支援、ゴリゴリの行動変容というような雰囲気はほとんどなくなったと思います。
よく言えば、いいとこどりで、悪く言えば、つぎはぎの支援という具合に、今は視覚支援を使いつつ、行動変容を目指し、感覚統合をベースに身体を育てていく、みたいな感じでしょうか。
子どもの数だけ正解があり、適切な支援がありますので、「他のアプローチは許さない」などはおかしな話であり、一つの療法で物事が完結できると考えることが間違いだといえます。
ですから、子どもの成長と共に、そのとき、今必要な支援、アプローチを選択していけば良いというか、それしかないと思います。
 
 
昨日は『発達と学習の違い』についてお話ししたので、今日はそれに関連した行動変容について綴っていこうと思います。
今、巷で言われている「行動変容」は、コロナにかからないように、コロナをうつさないように「一人ひとりの行動を変えていきましょう」という意味です。
その一人ひとりの行動を変えるために、変えてほしい側(国・行政)は知識と情報を提供する。
また行動を変えたらこんなメリットがありますよ(給付金)、行動を変えなければこんなデメリットがありますよ(事業者名公表)などを駆使し、変容を促していきます。
 
 
同じように支援や療育で言われている「行動変容」も使うものが違うだけで、アプローチの仕方は一緒です。
たとえば、多動の子がいてなかなか席に座っていられないとします。
その子に対し、席に座ることの大切さや、動きまわることで他者に与える影響を教えていきます。
またタイマーなどを提示し、「1分座ってられたら、チョコをあげるね」とメリットを与えたり、「授業中、離席が5回になったら休み時間なしね」とデメリットを与えたりして多動を減らし、席に座れる時間を長くしていくというのが療育的な行動変容です。
 
 
行動変容でのポイントは、随伴性だといえます。
簡単に言えば、A→Bという具合に、「席に座ったら→お菓子」「お手伝いをしたら→お小遣い」「テストで100点取ったら→ゲーム」と行動に伴う結果が明確に結びついているということです。
確かにこう見ると、ある面では動物の餌付けに見えますし、ある面ではどこの家庭でもやっていることのようにも見えます。
私達大人だって、仕事の半分くらいは我慢料であって、「働いたら→お金が貰える」というような随伴性を伴うからこそ、仕事をしている面もあります。
これが「働いても賃金が発生するかしないかわからない」というような状態ですと、や~めたという人が大勢出てくると思います。
ですから要は使いようです。
 
 
突然、赤ちゃんの話になりますが、乳幼児は同じ行動を繰り返します。
おもちゃを掴んでは落とし、掴んでは落としを繰り返したり、「いないいないばー」を喜んだり、自分が笑うとお母さんが笑うから、さらに微笑み、その反応を得ようとしたりします。
乳幼児は、この繰り返しや何かをしたら同じ結果が引き出せる、みたいな行動、遊びが大好きです。
古今東西、どこの国の乳幼児も同じ傾向があります。
つまり、この繰り返し、反応を引き出す、というのは子どもたちにとって大事な学習であり、その学習形態が随伴性、A→Bということになります。
 
 
乳幼児というのは、まだ感覚や認知の面で発展途上にあります。
特に赤ちゃんは、周囲の情報を得るための感覚が完全に育っていませんし、それを統合して意味理解する脳機能が未熟です。
そんな状態で繰り返す随伴性の遊びは、わからない情報だらけの世の中において、唯一、自分がコントロールでき、結果が予測できる手段となります。
「指を広げると、おもちゃが床に落ちるな」と思っているかは分かりませんが、おもちゃを持っては床に落とすといった行動を繰り返すことによって、自分の周囲の状況がごく部分的であったとしても知ることができる。
同時に、指を広げる(運動)と床に落ちるおもちゃを見る(視覚)が神経ネットワークでつながっていきます。
そうやって複雑な下界の一部を意味ある形で切り取ることができ、運動と感覚を結びつけるとともに、認知を育てていく『随伴性』という学習は、とても意義のある大事な行動だといえるのです。
 
 
自閉症の特性の中に繰り返し行動があります。
何度も何度も、同じ動作、行動を繰り返している子を見かけた人も多いと思います。
確かに不安から繰り返し行動をしている人もいますが、特に子どもさんの場合は、上記の随伴性を伴う学習をしている真っ最中ということもあります。
その見分け方は、やっているときの雰囲気が全然違うのでそこを見れば良いのですが、ポイントは未発達があるかどうか、どれくらいあるかになります。
上記でお話ししたように、乳幼児期に見られる行動ですので、乳幼児さんと同じように感覚が未発達、感覚と運動の結びつきが弱い、全体的に認知の面で遅れが目立つ子が行っているのは、不安だからではなくて学習しているのだと捉えて良いはずです。
不安は取り除かなければなりませんが、本人主体の学習をしている場合は、思う存分、まるで理化の実験のように、「これをやったら、こんな結果になるんだ」という体験を積み重ねてあげられる状況を保障してあげることが大切になります。
 
 
特別支援における「行動変容」というアプローチも、その子の認知、発達段階によっては有効だといえます。
しかし、とても守備範囲は狭いといえますし、本人の状態と不一致が生じると悪影響を及ぼすこともあります。
知識や情報を提供することによって、つまり、本人が理解し、分かった、じゃあ、変えよう、という段階、これができるだけの認知と発達状態の子に対しては、効果的なアプローチの一つだといえます。
また感覚面、運動面、認知の面で多くの課題、遅れがある子に対しては、アプローチの仕方がとてもシンプルなので、本人も理解しやすく、学習方法としては合っていると言えます。
 
 
ただし、「A→B」みたいな段階は、ある意味、乳幼児のレベルなので、それが適切な子、時期は限られていますし、当然、本人の発達が伸びてくれば、不適切な指導になってしまいます。
その辺を敏感に感じられるくらいでなければなりません。
よくあるのが、乳幼児期の発達、認知の段階を超えて子に対しても、継続して「〇〇をやったらお菓子ね」みたいにやってしまうことです。
それが通常になってしまいますと、ご褒美がないとやらない、物事を、人との関係性をも随伴性の中で捉えてしまうようになります。
本当は「A→B」などというシンプルな図式で成り立たない人との関係、人の気持ち、行動を理解できるようになる必要があるのに。
乳幼児期に有効な世の中の切り取り方で社会を見ると、見誤ってしまいます。
 
 
随伴性を伴う遊びは、世の中を知る入り口です。
その入り口付近に立っている子ども達には、どんどんやってもらったらよいですし、教える側もそのアイディアを使うと良いはずです。
でも、あくまでそれは入り口ですし、発達、成長と共に適さなくなります。
支援者に求められるのは、発達を中心としたアプローチの選択だといえます。
アプローチにこだわるのは、子の発達を犠牲にしますね。




2020年5月11日月曜日

【No.1063】学習は繰り返し、発達は待つ

発達は誰のものかといえば、それは本人以外ありえません。
その子が刺激を受け取り、感じることができなければ発達は生じませんし、何よりも自分自身で動き、その刺激を取りに行くことが幅広い発達へと繋がっていきます。
植物のように一点に定まり、常に刺激を受け続けることで成長する存在ではないからです。
受け身で育つ部分は限られています。
ヒトとして、動物としてよりよく生きるためには、意識無意識を問わず、とにかくその人が"動く"ことが発達の始まりだといえます。
 
 
本人が動くことで発達が生じるのですから、周囲の働きかけは二次的なものになります。
一言で言えば、きっかけの一つであり、数多ある環境の中の一つにすぎません。
当然、周囲の働きかけによって育つ部分もありますが、それは受け身で育つ部分であって、植物の育ちだといえます。
動物としての発達、動物としての豊かな生き方には、直接的な影響を与えることはできません。
周囲ができることがあるとすれば、より良い発達のための準備の手伝いと、本人が思わず動いてしまうようなきっかけ作りと、本人一人で創造できない環境への誘いです。
 
 
ですから、周囲が「どれだけ取り組んだか」「時間と回数を費やしたか」ではなく、本人が「どれだけ取り組んだか」「時間と回数を費やしたか」が発達には重要なのです。
時々、発達相談をしていて気になるのがこの点です。
親御さんの中には、自分の取り組みと本人の伸びの差に、感情を乱されている方がいるように感じます。
やったらやっただけ伸びるんだったら苦労はしません。
発達にはタイミングと順序がありますし、当然、遺伝や資質などの内的な要素も関わってきます。
そして何よりも本人が主体となって動かなければ伸びるわけはないのです。
つまり、本人がどれだけ発達の時間、育む時間を過ごせたか、またその時間を豊かに感じられたか、本人のペースでじっくり味わえたかがポイントだといえます。
本人が自分のためだけに育める時間が認められていないご家庭もあるように感じます。
 
 
親心としては「何でもやってあげたい」と思うのは自然なことだといえます。
実際、親御さんが頑張ると、伸びる子もいるでしょう。
でも、得てしてそれは発達というよりも、学習の面の伸びになります。
学習に関しては、やったらやっただけ成長が見られる可能性が高いといえます。
本人の発達段階を超えない学習ですと、繰り返すほど身につきますし、再現することもできるようになります。
繰り返し算数の問題を解けば計算力は上がりますし、毎日ジョギングすれば長い距離を走れるようになる。
 
 
イメージでいえば、神経と神経を繋げて新しいネットワークを築いたり、繋がっている神経同士をより強固なものにしたりが学習。
まだ伸びていない神経を、まだ何ものでもない神経を、ググッと伸ばしていくのが発達。
神経の繋がりが学習で、神経そのものが発達ともいえます。
繋がりを強くしようと思えば、当然、そのネットワークを通る刺激の回数がポイントになります。
神経そのものを育んでいこうと思えば、当然、内的な状態がポイントになり、その刺激も回数というよりも、タイミングと刺激のバリエーションの豊かさがキーになります。
なので、親御さんでしたら「私は今、学習面を育てているのか、発達を後押ししているのか」を考える必要があると思います。
 
 
発達障害のある子ども達は、学習面に障害がある子ども達ではありません。
もちろん、表面的には学習面での課題や遅れが出る子もいますが、それはこの子達の課題の根っこではないのです。
課題の根っこは、生きる土台、動物としての土台の部分に存在する発達の遅れです。
進化の過程と発達の順序を見れば、この土台ができなければ、学習の準備ができていないことがわかります。
学習面に障害があるのではなく、学習に必要な準備の段階に課題があるのです。
 
 
ですから、「取り組んだら取り組んだだけ伸びていかない…」と、そのギャップに悩まれている方は、発達と学習を取り違えている、混同しているのだと思います。
表面にある学習面の課題に対し、繰り返すことで学習させようとしても無理です。
根本が学習の準備ができていないことであり、発達の土台に課題があることですから。
そういった状態で"繰り返し"を行いますと、伸び悩むだけではなく、いびつな学習が出来上がってしまいます。
例えるのなら、手札が足りないのに完成させよと言っているみたいです。
そうなると、真面目な子ほど、足りない手札でどうにかこうにか形を作ろうとしてしまう。
外からは完成したように見えるようにと、外装だけ作って中身がない家みたいな。
すると、ちょっとしたきっかけで、その家は崩れてしまう。
 
 
親御さんが頑張ることは否定しませんし、それが自然な親としての心身の動きなので当然だと言えますが、その方向性を誤ってはいけないと思います。
発達の主体は、その子本人であること。
ですから、親がこうしたいと思っても、親が頑張ってアプローチしようとも、その子自身が刺激に対して意識が向いていなければ、その子自身が動こうとしなければ、動物としての発達の部分は進んでいきません。
 
 
また、その発達に必要なのは、繰り返しの刺激ではなく、豊かな刺激、バリエーションのある刺激のほうです。
「一緒に遊ぶようにしたら、こんな遊びをするようになった」という話をよく聞きますが、実際に遊んでいる様子を見てみると、その遊び自体が学習だったということが少なくありません。
その子の発達状態から見て、その遊びは、おもちゃという道具を使った遊びは早いと言えるのに、しっかり遊んでいるように見える子がいます。
でも、その子の遊び方を見ると、遊ぶ順序・やり方がパターン化されている。
パターン化も、パターン学習という学習です、発達ではありません。
遊びの中の発達とは、本人自らやり方を考え、時間を忘れて没頭しているときに生じているものなのです。
 
 
よって、本人が発達に没頭できるような環境を用意すること、そのきっかけを提供すること、刺激が単調になるときにバリエーションを付け変化を持たせることが、周囲に求められることだといえます。
まさに、これこそが発達保障だと言えます。
学習を保障することも大事ですが、それよりもまず子ども達の発達を保障すること、子ども達が思い思いに自分の発達刺激を味わえること、育んでいけるような時間と環境を確保することが大事だと思います。
 
 
子どもの発達を後押しする親御さんの、さらに後押しをするのが自分の仕事だと考えています。
そのためにアセスメントを磨く必要があるのだと思っています。
子ども達が今、学習しているのか、発達しているのか、そのどちらが必要なのかをお伝えしていく。
子どもさんの何気ない行動、同年齢から見れば違和感に感じる行動が、どんな発達と繋がっているかを確認し、通訳していく。
親御さんも、発達の意義と、その行動と発達の繋がりがわかれば、焦る必要がなくなります。
 
 
繰り返しで行う学習なら、頻度と回数によって達成時期を早めることができますが、発達となればそんなことはできません。
一言で言えば、発達は時間がかかる。
もっと具体的に言えば、学習のように達成が読みづらい。
何故なら、繰り返しになりますが、発達とはタイミング、順序、何よりも本人が満足するか、やりきるかにかかっているから。
心地良くやり切れる環境は準備できるが、準備したからといって、その通りに事が運ぶとはいえません。
環境を準備するのは周囲であり、発達するのは本人だから。
 
 
自分もそうかもしれませんが、世の中、待ちきれない人が多くなっているような気がします。
パッと調べれば答えが出る、ワンクリックすれば欲しいものが届く、という生活に慣れてしまったからだと思います。
また親御さんの中にも、常に刺激を欲しているタイプの方、あれもこれも手をつけてないと落ち着かないタイプの方がいらっしゃいます。
そうなると、必然的に発達に関しても、すぐに結果が欲しくなる。
学習に関しては「短期間で効率よく結果を出す」と相性が良いですが、発達に関しては「無期限(本人次第)で非効率的(無駄や退行、遠回りが大事)で徐々にではなく突然結果が出る(ドカン)」という具合なので現代人とは相性が悪い。
ですから、子が発達するのを待てるためのサポート。
 
 
我が子が今まさに育てようとしているという姿が読みとれれば、ぐっと待つことができると思います。
同時に、我が子のために費やしたいエネルギーを子が育つための環境の方へ、発達ではなく学習の方へ導いていく。
子ども達の発達を保障するということは、子どもを信じ、子どもの発達する力に委ねるということだと考えています。
親御さんに求められることは、我が子の未来を想像しながら温かく見守ることと、本人がやりきるまで待ってあげることだと思います。
 
 


2020年5月9日土曜日

【No.1062】努力は裏切る、生きているから

今日も午前中から子ども達の元気な声が聞こえてきます。
場所によっては、「外で遊ぶなんて!」という声があるようですが、私の住む地域では比較的温かく子ども達を見ている大人が多いようです。
厳しい冬のあとの春ですから、十分な陽を浴びながら外で遊ぶことは、免疫力をあげ、心身の健康に繋がるのだと思います。
子ども達にとっては人生の土台作りの時間なので、「コロナにはかからなかったけれども、他の病気に患いやすくなった。発達の土台作りができなかった」なんてことがないようにしてもらいたいです。


「自分は頑張って自粛しているのに、〇〇はけしからん!」という具合に他人が気になる人が少なくように感じます。
日本人は特に輪を乱すこと、乱れることを嫌いますし、「努力が実を結ぶ」「失敗は努力が足りないから」と考える傾向がありますので。
どのように捉え、考えるかは人それぞれであり、別にとやかく言うつもりはありません。
しかし個人の感情と実際の感染リスクは分けて考える必要があると思います。
自粛している人は絶対感染しないか、感染させないかといえばそうではないでしょうし、むしろ外で過ごすほうが三密にはなりづらいといえます。
そもそも家で自粛することができない医療現場の人たちや治安や物流を支えている人達も大勢いますし。
ですから自分の心を乱す根っこは、他人の行動ではなく、自分自身の不安や努力と結果を強く結びつけるような個人の考え方なのだと思います。


発達相談の仕事をしていて、同じような経験をすることがあります。
親御さんが頑張って子育てをされた結果、子どもさんの多くの課題がなくなった、発達の遅れを取り戻すことができた、「一生福祉」と告げられた子が自立して生活するまで育った、などのポジティブな変化が見られる家庭があります。
その一方で、親御さんが一生懸命子育てや取り組みをされているのに、それがポジティブな変化として子どもさんに表れない家庭もあります。
じゃあ、ポジティブな変化が見られない家庭は努力不足か、やり方が悪いのか、愛情のかけ方が間違っているかと言えば、まったくそんなことはなく、むしろ、なかなかポジティブな変化が見られない親御さんのほうが一生懸命行動し、深い愛情をかけていることを感じる場合も多々あるのです。
「ポジティブな変化が見られない」
「発達・成長してはいるけれども、劇的に変わるぐらいまで、もっといえば、定型の子達とは近づいていかない」
そんな親御さん達の言葉からは、ご自身を責め、自らの手で傷つけている雰囲気を感じます。


「発達障害が治るのは分かった。でも、うちの子は治らない。きっと自分の育て方に問題があるのだろう。やり方がまずかったのだろう。取り組み始めたのが遅かったから。あのとき、私がああしたから…」
私も二人の子の親でもありますので、こういった親御さんの葛藤を重ねて感じることができます。
本来、ご自分を責め、自ら傷つけるべきところではないところで苦しんでいる親御さん達は少なくないと感じます。
「やったらやっただけ育つ」「時間をかけただけ、お金や労力をかけただけ育つ」
発達とはそんなに単純なものではありません、当然子育てもそうです。
ですからご自身を責められている親御さんにお伝えしたいのは、「子どもの発達・成長において親も家庭も最も大切で影響のある環境だといえるが、あくまで子が育つ環境の一つであり、決定要因ではない」ということです。


気持ち的には「頑張った家庭の子がより良く育つ」というほうがすっきりしますが、まったく手をかけないでほったらかしている家庭の子が置かれた環境で自らたくましく育っていったという不都合な真実もあります。
子が育つ環境は多様であり、本人の内側にある育つ力、発達する力は一人ひとり違っています。
当然、遺伝子、資質も違いますし、課題の大きさ、複雑さも違います。
なので、あっちの子が良かったことがうちの子には当てはまらないこともありますし、親御さんが一生懸命行ったことが実を結ばないこともあります。


取り組みの結果がポジティブな変化になるとは誰も証明ができないことです。
子どもさんの発達に他のことが大きな影響を及ぼしていて、実際は気がついていないこともあるでしょう。
たまたまそのタイミングと取り組みがあったということもあるはずです。
そもそも子どもさん一人ひとりの内側には育つ力、発達する力がありますので、その子の変化はその子自身が決めていくのだと思います。
親という一つの環境ができることは、虐待などで発達を阻害する以外は、その子の発達をそっと後押しするくらいなものです。


子の土台から、根っこから、他人がすべて変えよう、変えられると思うのは、子どもという自分とは異なる一人の主体を信じ切れていないような気が私にはします。
子どもには、その子の発達の流れがあり、人生がある。
その発達の流れを加速させたり、人生を豊かにと彩りを加えたり。
それが現実であり、一つの環境としての自分ができることなのではないでしょうか。
ですから、「定型の子まで追いつけなかった」「支援級から転籍できなかった」「知的障害が残ったまま」という事実を自分のせいにも、誰かのせいにもする必要はないと思います。


子育てで大事なことは、その子の発達を後押しし続けることであり、二度と戻ってこない今日一日を大切に、家族の思い出、幸せな時間を作っていくことです。
それなのに他と比べ、また自ら自分のせいだと苦しむのは間違っているといえます。
どんな結果になろうとも、そのとき、そのときでベストだと思う選択、行動ができていれば、それでよいのです。
私の今までの発信の仕方、仕事の仕方がまずかったのだと思います。
一部の親御さんに、「やれば治る」「やれば問題が解決する」という印象を強く持たせてしまいました。


実際は、「やれば治る部分があり、その部分を後押しする方法がある」ということです。
確かに支援校だった子が一般就労したり、支援級から普通級へ転籍したり、幼児期に診断受けた子が普通の子として生活できるようになったりするケースがあるのも事実です。
当然、そういった子ども達の家庭、親御さんの影響は大きいと言えます。
しかし、それでもやっぱり最後はその子自身で、その子の資質、発達する力と意思だと感じます。


また事実、健常域まで育った子達の多くは、メディア視聴の影響で一時的に自閉症様が出ていたとか、ある発達課題が育っていなかったために以降の発達に遅れが見られているとか、そもそもが障害じゃないよね、誤診じゃないの、という子です。
そういったお子さんに対しては、積極的に治す方向で提案していこうと思います。
もちろん、特性を持ったまま、健常域までいく子もいますので、『発達の土台を育てる』『未発達ややり残しを育てていく』という方向・アイディアは同じです。
だけれども、やっぱり自分の仕事の核は家庭支援であり、親御さんが我が子のより良い発達を願い、家族として成長していける後押しだと考えています。


そう考えると、自分が磨くべき、追及していくべき仕事は、見たて。
その子の発達の流れ、物語を紡いでいき、どの時点で本来の流れからずれたかを見極めていく。
どこの課題が表に現れている課題となっているかを確かめ、それをその子自身で育てていける環境を提案していく。


「努力は裏切らない」と思いたいのは自然なことです。
でも、子育ては違います。
だって、子は生きているから。
たとえ生まれたばかりの弱々しい赤ちゃんだって、自分の人生を歩み、自分の命を全うしているのです。
その瞬間を思いだすことが、ご自身を傷つけているその手を止めるきっかけになるかもしれません。



2020年5月7日木曜日

【No.1061】シンプルな発達相談、援助を目指して

子ども達は、大人から見れば「無意味」「無駄」と思えるような行動をするものです。
もしかしたら「名の無い遊び」というのが、それにあたるかもしれません。
大人というのは無意識のうちに行動の意味を問い、その意義を求めます。
何故なら目的を持ってから行動するのが大人であり、無駄なものを排除できるようになることが大人になるということですから。
 
 
子どもが何故、その行動をするのかといえば、「やりたいからやるんだ」になると思います。
子ども自身、その活動の目的、意味を見定めてから行動するわけではなく、「ただなんとなく」「気が付いたらやっていた」というのが自然なことだといえます。
そんな姿を見るたびに、子どもが内側から突き動かされているように私は感じます。
そうです、それこそが各々が持つ発達する力。
 
 
子どもが内側から突き動かされて行動しているとき、つまり一見すると無駄で意味や目的のない行動をしているときが発達に一番近づいているときだと考えることができます。
発達相談において「この行動は止めさせたほうが良いですか?」と訊かれる行動のほとんどは、その子の発達にとって必要なものです。
自閉症や発達障害というメガネを掛けてみると奇妙で心配になる行動も、今まさにその子自身で育てている最中なのです。
ですから、その子が主体的に繰り返す行動、没頭する行動は止めるのではなく、内側から突き動かす力がなくなるまで発散させたほうが良いと思います。
 
 
どんな専門家であったとしても、その子の内側に入ることはできず、「たぶん、これが良いだろう」ということしかいえません。
実際、専門家の言う通りにして子に良い影響が見られたとしても、それがベストであるか、それが本人が今望んでいるものなのかはわからないのです。
大人はどうしても目的が先にあり、効率的に物事を行おうとします。
子どもに良い変化があると、「もっともっと」になるし、「あれもこれも」になる。
そうなると、その子の発達に余白がなくなっていきます。
 
 
ある幼児さんのご家庭は毎日、日課のごとく、あれもこれもをやっていました。
実際、その様子を見させてもらうと、親も子も苦しそうにやっているのがわかりました。
そして何よりも、やったところは伸びるけれども、それ以外が伸びていないのがわかったのです。
つまり、親に合わせて発達していた。
本来、発達とは本人が主体的に行うものなのに。
内側から突き動かされて動いていると、大人が意図していないところから子どもは発達するものです。
発達をコントロールすると、部分的な発達になる。
「部分的な発達か、全体的な発達か」は見るとわかるものです。
 
 
またある小学生の子は、「いろんなことをやらされるのが嫌だった」と振り返っていました。
当時は表現できなかったけれども、ついていくので必死で余裕がなかった、苦しかったと言います。
確かに、この子はいろんな発達課題をクリアし現在に至りますが、残念ながら愛着の部分で課題が残ったままです。
やらされている限り、やるとやらすの間柄である限り、その関係性に安心感は育たないのです。
ここ数年、人数は少ないですが、発達の課題はクリアしたけれども、愛着形成に課題があるケースが気になるようになってきたところです。
 
 
大人は知識を集め、情報を集めるのは大事なことです(そして上手に情報を捨てられること)。
しかしそれは大人側に必要なことであって、子どもが必要としていることではありません。
子が必要としているのは、誰にも邪魔されず、存分に自分の発達課題をやりきれる環境です。
現在、発達障害が治り切らず大人になる子が多いのは、大人の視点で効率的にあれもこれもをし過ぎているからだといえます。
大人が子どもの余白を奪っていると言われても仕方がないのです。
子どもが無駄なことをしていると、「他のことを」とつい言ってしまいがちです。
無駄、遠回り、寄り道、名も無い遊び、退行こそが、その子の発達そのものなのに。
 
 
今回の新型コロナの影響で、子ども達に余白が戻ってきました。
いろんな方から今どのように過ごしているかといった連絡がきますが、戻ってきた余白を子ども達が伸びやかに使っている様子が伝わってきます。
中には、急に幼い子がやるような行動が見られて心配される親御さんもいますが、「ああ、本人の中ではそこがやりきれていなかったんでしょうね」「そこが違和感として残っていたんでしょうね」というお話をしています。
私を含め大人が「今、これが大事」と考えていたところが、実際は違っていたというのがよくわかります。
原理原則の通りにいかないことが、その子が自分で育てたいところを育てている証拠だといえます。
休校、休園の間で、部分的な発達をしていた子に全体的な発達が見られたということが多くあり、私は嬉しく思っています。
 
 
現在、私は過去の本を読み返したり、新たな分野の勉強をしたりしています。
そんな中で思うのが、「今は必要のないものを減らしていく時間である」ということです。
子ども時代、多くの課題を持っていましたが、それがクリアされ、今自立して生活している若者たちがいます。
その若者の親御さんに目を向けると、本当におっしゃることがシンプルです。
「食べることが何よりも大事だから、偏食だけ直す」
「とにかくどんな仕事でもいいから、自分で稼げる子に育てる」
「ひと様に迷惑をかけることだけなくしていく」
そんなシンプルな言葉で子育てをされていました。
そういった姿からわかるのは、譲れないポイントだけ押さえておいて、あとは本人に任せる、委ねる姿勢です。
 
 
自立して生活している若者たちを見ると、結構、特別なことはされていなかったし、あれもこれもじゃなかったと思います。
私が思うに、そういった若者の親御さんは切り捨てるのが上手。
必要な部分は頑として譲らず、それ以外は子に任せていた親御さんが多いと感じます。
私も一度立ち止まり、情報や知識を整理していると、本当に必要なものは限られているのがわかりました。
発達とは、とてもシンプルな事象であり、その発達の大部分は子が行い、子に委ねられるもの。
援助を最小限にし、子どもさんに任せる部分をできるだけ多くすることが、私が求めていく仕事のあり方ではないかと考えるようになっています。
 
 
「何を育てたいか」「どこから育てたいか」は、その子しかわからないものです。
今まで「発達課題のできるだけ根っこのほうを掴むのが良いことだ」と考えていましたが、本当にそうだったのか、その子の発達する力を私が信じ切れていたのか、改めて考えています。
私自身が発達援助に溺れていたような気すらしてきます。
学校に行かなくても、幼稚園や保育園、療育機関に通わなくても、発達している子ども達がいる。
何か特別なことをしたわけではなく、ただ子どもに余白が戻っただけなのに。
もしかしたら、その余白こそが内なる発達する力を発揮する条件なのかもしれません。
「子どもを信じ、委ねられる部分が多くなるほど、発達相談、援助はシンプルになる」
私はそこを目指して歩んでいきたいです。
 

 
 

2020年5月6日水曜日

【No.1060】学力に差ができるのは自然なこと

「地域ごとの学校再開では、子ども達の学力に差ができて不公平だ」
このような発言があることにびっくりしました。
日本は南北に長い国で、地域によって実情は異なるはずです。
リスクが小さい地域、対策がとれる地域から、どんどん学校を再開して勉強することの何が悪いというのでしょうか。
コロナが完全にこの世からいなくなることなどないのですから、どこかで人が判断しなければなりません。
 
 
日本人は遺伝子的に周囲と歩調を合わせる、乱れるのを嫌う人達が多いと言われています。
ですから、「ある地域だけ学校が始まるのは良くない」「学力の差ができるのはまずい」などと考える傾向があります。
こうやっていつまで経っても、ある意味、できない人に合わせたラインづくりをしているから、本来伸びる力を持った子ども達がその資質を活かせずに没落していくのだと思います。
学力においては最低限のラインだけ決めておき、あとは各々の興味関心、資質が最も活きるような学びと成長を遂げていけば良いはずですし、これからはそのように変わっていかないといけない時代だといえます。
 
 
本来、特別支援教育が率先して個人に合わせた教育をしていなければならないところだと思います。
しかし日本人のメンタリティーがそうさせないのでしょうか、「タブレット学習は他の子に影響が出る」だとか、「一人だけ交流学習の時間を増やすのは無理だ」とか、子のニーズよりも、集団の輪を重視することがあります。
過去には「一人だけ普通級に転籍したら、他の家庭から不満が出るから、小学校のうちは…」などと言われたケースもありました。
支援級においても、みんなが同じプリントで同じペースで学習している様子を見聞きすることが多く、「普通級で行う授業をただゆっくりにしたのが支援級」というのがまだ少なくないように感じます。
これだったらタブレットなどを使い、個人で、家庭で学習を進めていったほうが良いと思いますし、それが可能なら支援級ではなく、普通級に在籍したほうが良いと思います。
 
 
以前から私は飛び級と留年に賛成ですし、支援級はいらないと考えています。
これから先の社会を考えても、というか今の社会を見れば、いろんな人が存在し協働しているのが自然な状態です。
幼少期につけられた障害名や一時的な症状によって教室が分けられてしまうことに違和感を感じます。
そうやって子ども時代の大部分を分けられた子が、どうして社会の一員として主体的に生きていくことができるでしょうか。
いろんな子ども達が同じ場所で学び、成長していくのが自然な姿。
飛び級や留年があれば、習熟度に合わせて学ぶことができ、今のような分断は必要なくなるはずです。
発達援助と同様に、発達の遅れをそのままにしておくから障害、生きづらさになるのであって、学習においても習得できない部分をそのままにして年齢だけで学年が上がってしまうから途中でドロップアウトしてしまう子ども達が出てきてしまうのだと思います。
 
 
とはいえ、公教育ですので一気に変わっていくことは難しいでしょう。
だとしたら、今の子ども達は現実的な路線で考えていく必要があります。
支援級においては、その少ない人数の中での一番遅れている子に合わせた学習内容に設定されがちです。
ですから勉強ができる子は家庭学習で力をつけていき、同時に普通級で学べない理由に当たる発達の課題を育て、転籍を目指していくことが大事だと思います。
発達障害の子ども達においては、支援級在籍理由が「学習の準備が整っていない」ということであり、その課題の根っこは胎児期から2歳前後の間にある発達過程のやり残しになります。
そのやり残しをできるだけ早い段階で、できれば就学までにクリアしておくことが望まれます。
「発達障害の診断を受けたから学習に支援が必要」ではなく、「現時点では学習するのに支援が必要なため、その準備を整えていく、発達を後押していく」というのが真実です。
 
 
「うちの子は5年生なのに、まだ1年生くらいの学力」などと言われる親御さんがいますが、その4年の差が問題なのではありません。
大事なのは何年かかったとしても、その1年生の学力が2年生の学力へ進んでいくこと、できれば4年生の学力を習得することです。
知的障害のある若者たちとも関わりがありますが、学校に通っている間だけが学力を身に付ける期間ではなく、成人後、就職後も、前に前にと学習できる準備と実際の学習を通して4年生の学力を身に付ければ良いのです。
そう考えると、気がラクになる親御さんもいるでしょうし、実際、学力を身につけ自立してける若者ももっと増えていくと思います。
 
 
結局、シンプルに「我が子に自立してもらいたい」→「小学校4年生の学力を身に付けさせる」と考えられないのは、私達の内側にある日本人のメンタリティーが許さないからだといえます。
小学校では小学校の学力、中学校は中学校の学力。
そんな考えにとらわれているから、それについていけない支援級の子ども達の教育がおざなりになり、また教育する目的を見失っているように感じます。
なんとなく「自立」「就労」などとは言っていますが、それに必要な小学校4年生の学力をしっかり身に付けさせようとしていない、家庭では学習の準備を整えていない状況が見受けられます。
せっかく特別支援教育というシステムがあるのだったら、一貫して「とにかく小4の学力」という具合に12年間を続けていければいいのになと思います。
 
 
「アクティブラーニング」などの横文字や専門用語の数々は外向けの見せるための言葉であって、子どもの視点に立った言葉ではありません。
物事を突き詰めていくと、シンプルになるものです。
ヒトは何故発達するかといえば、生き抜くためです。
生き抜くとは、その生まれ出た世界に適応すること。
どんな環境に生まれ出るかがわからないために、ヒトは余白を持って生まれてきます。
余白を埋めていく作業が、まさに発達です。
ですから、より良く発達するためには自然の刺激を受け、自然の中で遊ぶことが必要になります。
自然の中で思いっきり遊んだ子は道具が使えるようになり、それが学習の準備が整った合図。
この社会で自立して生きていくには最低限小学校4年生の学力が求められます。
そこさえ習得できれば、あとは本人の資質に合わせた学び、成長を続ければ良いのだといえます。
 
 
自立に必要な最低限の学力をつけることなく、「子どもの資質を伸ばす」「個性を活かした学びを」などとはおかしな話です。
特別支援教育がいくら「個に合わせた教育」を掲げても、家庭生活の中で土台となる発達が育ちきっていなければ、横並びの教育をするしかなくなります。
特別支援が理想な姿へと変わっていけないのは、家庭の責任であり、そんな家庭にしているのは未発達と障害の区別ができない専門家、支援者たちです。
自然の中で、遊びの中で育っていくものを、難しい言葉を使って、あたかも特別な方法があるかのごとくするのは、そうしないと商売にならないから。
時間がかかっても、最終的に育てばよいだけなのに、日本人の横並びメンタルティーにつけこんで、同年齢の子ども達ができることができないとまずいような雰囲気を出し、支援の道へ引き込んでいく。
 
 
子どもの発達は短距離走ではなく、長距離走。
早くゴールするのが良いのではなく、最後まで走り切ることが大事です。
チェックポイントがあって、そこを確実にクリアしていく。
その先に自立というゴールがあるのだと思います。
どんなペースで走るかではなく、最後までゴールを目指し歩を進めること。
日本人が気づきづらい一面は、現在のような一斉に立ちどまったときに見えてくるものです。



2020年5月5日火曜日

【No.1059】環境に適応し、生き残るためにヒトは発達する

北海道も桜が満開になり、その桜も少しずつ緑の葉っぱが目立つようになってきました。
北海道の春は、桜だけではなく他の花々も一気に咲き始めるので、見るものを楽しませ、やっと心地良い季節がやってきたなと思わせてくれます。
全身に陽を浴び、目や耳、鼻で春の訪れを味わう日々です。


自然の中ほど、子どもの感覚を育てるのに最適な場所はありません。
特に日本には四季がありますので、その四季を感じる行為自体が何よりの発達援助になります。
発達相談において感覚系の発達の遅れ、課題を挙げられる親御さんが多くいらっしゃいますが、ほとんどのお子さんは「自然の中で思いっきり遊びましょう」で私の助言は終わります。
何も特別なことは必要ありません。
子の本能に、発達する力に、自然の持つ豊かな刺激に委ねれば良いのです。
ある意味、委ねきれないからこそ、発達の遅れが遅れたまま、未発達が育たぬままになるのだと思います。


ヒトはどうして感覚面を進化させたか、発達させるかといえば、生き残るためです。
生き残るとは、つまり環境に適応すること。
ヒトが適応する場所とは、家の中でも、学校の中でも、会社の中でもなく、自然の中です。
学校で勉強ができるようになるために進化したわけではありません。
職場で働くために感覚面を発達させるのではありません。
自然という常に揺らぎと変化、五感への刺激、生命への危険が存在する環境へ適応するために、私達はいろんな面を発達させるのです、発達させる必要があるのです。


ですから人間が作った環境では発達が生じにくい。
より効率的に学習や仕事をするために不安定さを排除したからです。
当然、自然の中にある危険も遠ざけていきました。
社会の発展とともに、感覚刺激・発達刺激は乏しくなったのです。
私達の親の世代、その親の世代までは、特別な支援などと言う必要がなく、まさに自然の中で自然に育っていったのだと思います。
現在、発達の遅れが遅れたままの子ども達が増えているのは、まさに自然の中で自然に育っていたという機会を失ったからだといえます。


発達の遅れを訴えられ、相談に来られるお子さんのほとんどは、この機会を失っているだけの子ども達です。
何かかっこよく専門用語などを使いながら、あたかも高尚な技術、助言であるかのごとく示すこともできますが、それをやるのは二流、三流がやる仕事です。
とにかく本人主導で、その子の想いのまま、時間を忘れるくらい自然の中で遊び切れば、多くの未発達、発達の課題は育っていくものです。
ヒトの進化、発達という本質から見れば、至極当たり前の話。
自然に適応するための"発達"なのですから、その自然に身を任せればよいのです。


しかし一方で、自然の中で遊んでも育たないお子さん達がいるのも事実です。
毎日、外で遊び十分な刺激を浴びているのに感覚面の発達が滞っている。
そんなとき初めて仕事になります。


感覚面の不具合は、感覚器だけの問題ではありません。
たとえば皮膚で刺激を受け取る。
でも受け取っただけでは感じることができないのです。
つまり、皮膚で受け取った刺激を脳まで届ける必要がある。
そして届いた刺激を脳が認識することで感覚というものが成り立つのです。


自然の中で十分に刺激を浴びているのに育っていかない子は、この刺激の移動に躓きが存在する場合があります。
お子さんとお会いしたとき、お子さんの首に違和感を感じると、感覚系の滞りを私は連想します。
首は感覚刺激の通り道。


首に違和感を感じる場合は、おっぱいの吸いや首の据わりなどを確認します。
私達は当たり前のように首を動かしていますが、首が自由自在に動くということは、脳が指令を出せている証拠です。
脳と首が神経でつながっているからこそ、自然な首の動きができます。
ということは、自然な首の動きができなければ神経の繋がりに課題があり、当然、末梢神経から伝わってくる刺激が首を介して脳まで届かないということになります。
そういった場合、いくら自然の中で刺激を受けようとも、感覚系の課題が育っていきません。


感覚系の発達の遅れ、未発達は、「刺激が乏しい」「感覚器の問題」「首(背骨も)の問題」が考えられます。
2/3は自然が育てる。
残りの首や背骨の問題は、親御さんの促しが必要ですが、それも遊びを通して本人が育ててしまうことのほうが多いと言えます。
よって、子の感覚面の育てたいと思えば、それが障害特性などと誤認識し育てることを諦めないようにするだけ。
あとは本人の内なる力と自然の刺激に委ねるのみです。
何も難しいことはなく、ヒトがなぜ、発達しなければならないかという原点に立ち返れば大丈夫。


せっかく良い季節がやってきたのですから、自然の中で過ごしてみる。
せっかく日本には四季があるのですから、その四季を全身で味わってみる。
特別支援と聞くと、何か特別なことをしなければならないと思いがちですが、まったくもってそんなことはありません。
特別な方法も、特別な知識も、特別な支援も必要なし。
目の前にいる子の発達をどうしたらより良いものにしていけるか、豊かなものにしていけるか。
その答えはとてもシンプルなものなのです。


「環境に適応し、生き残るためにヒトは発達する」
現在で言えば、自然の中でよりよく適応できる人、適応できる発達を遂げた人が、学校でより良く学び、会社でよりよく働き、社会で自立して生きていけるということ。
この順番、流れさえ間違わなければ、多くの子ども達が将来、自立した人生を送ることができます。
ヒトが発達する意味、ヒトの発達の順番・流れを押さえると、子育ての方向を間違うことはないと思いますし、他の子と比べてゆっくりでも最後には発達課題をクリアしていると思います。