2020年10月1日木曜日

【No.1106】自分で育てているときと、そうではないときの見分け方

9月13日(日)のzoom講座のあとから、こういった質問を多く受けるようになっています。
「自分でなにか(発達)を育てているときと、そうではないときの見分け方は?」
確かにその見分け方までは説明しなかったと思います。
途中で質問タイムがあり、そういった行動についての相談がありましたが、答えることがメインで根拠までは説明しませんでした。
昨日で録画した動画を視聴できる期間が終わりましたので、この辺りのお話をしようと思います。


言ってしまえば、雰囲気です。
実際に見れば、良く分かりますが、何かを育てているときの姿は雰囲気がぜんぜん違います。
伸びやかで、自然で、明るく、内側から突き動かされている感じがします。
でも、これは私個人のイメージであり、現在まで多くの人たちと関わってきたからこそ、感じる部分だと言えます。
なので、答えているようで答えになっていませんし、これでは講座を視聴してくださった方達への後押しになりません。
ちなみに、メール相談でも、電話相談でも、親御さんの言葉を通してお子さんの雰囲気は伝わってくるものです。


そこで、どのようなところを具体的に見ているのか、どのような勉強を通して身に付けた技術なのかを紹介しようと思います。
まず大まかな枠組みとして、子ども達の行動には「育てる」「(純粋な)遊び」「防衛」が考えられます。


自分自身で発達を育てているときは、必要な刺激、足りていない刺激を求めていますので、型はどうでもいいわけです。
どんなやり方、どんな環境を使おうとも、同じ刺激が得られれば良いのです。
ですから、内耳を育てている子は、移動するときもピョンピョン跳ねているし、縁石をみればその上を歩こうとするし、ソファーに上がってはそこから跳び下りようとするし、おんぶされていても頭をたくさん動かすし、公園に言えば、とにかくブランコだし、自分も回るし、扇風機など回るモノも好きだし…という具合に、生活全般の中で「ああ、内耳を育てたいのね」というまとまりがあります。
一方で遊びは趣味嗜好なので、ある程度、決まった型があります。
いつも同じ場所で行う、いつも同じものを使う、遊びは変わっても遊ぶもの自体は、やり方自体は変わらない、ということがあります。


また育てる行動は、一種の退行ですので、その子の認知機能からいえば、行動レベルが幼いことをやります。
普通級で勉強しているような子でも、家に帰ったとき、グルグル回ったりします。
しかし遊びは、その子の愉しさと繋がるものですから、つまり、認知樹的な好奇心を満たすものですから、認知機能と合ったものを選択することが多いです。
IQや認知機能が変わると、遊びもより複雑なものへと変わってきます。


そして育てる行動は一過性のものが多いといえます。
乳幼児期の子ども達の姿を見ればわかるのですが、ハイハイを育てる時期は、朝起きてすぐにハイハイ、寝ているとき以外、ハイハイという具合に、1つの発達課題に没頭する傾向があります。
そのような四六時中、ハイハイの時期があったかと思えば、ある日を境にピタッと止め、とにかく伝い歩きに没頭する時期へ移行していきます。
親御さんのお話を伺っていても、「ある日、パタッとやらなくなった」「急に先週くらいから、毎日、〇〇をするようになった」ということがありますので、この場合は、ある発達課題をやりきった、ある発達課題を育て始めた、と解釈できると思います。
遊びの場合は、それこそ、小学生になっても、中学生になっても、大人になっても、遊びの大枠、型は変化しません。
虫が好きだった子が、図鑑や生物の仕組みに興味が出るように、車を並べて眺めていた子がブロック制作が好きになったり。
親御さんは子どもさんの遊びを見ていると、「そういえば、小さかったときから〇〇が好きだったもんね」というように、遊びの歴史、繋がり、きっかけがわかると思います。


なんとなく「育ち」と「遊び」の違いは分かったと思うので、「防衛」に話題を移します。
防衛は、遅延性や即時性のストレス回避行動です。
簡単に言えば、ストレスから身を守るために行っている対処行動になります。
聴覚過敏の子が、子どもの鳴き声を聞いて耳をふさいだり、学校で疲れた子が家に帰ってきて布団の中にくるまったりする行動です。
こういった行動は"明らかに"ですので、他の二つとの違いはわかると思います。
当然、自傷・他害なども、育てたり、遊んでたりはしていません。


「育ち」は刺激を求めていて、「防衛」は刺激を遠ざけています。
時折、嫌悪刺激から身を守るために常同運動(顔の前で手をパタパタさせる、ピョンピョン跳びはねるなど)をする場合もありますが、嫌悪刺激が止まれば、こういった行動も止まります。
「育ち」の場合は、周囲の環境が変わっても続きますので、ここが違います。
あとは、「防衛」がストレス始まりの行動なので、表情が硬く、身体に力が入っていて、動きがぎこちない、動きのバリエーションが少ないという特徴があります。
一方で「育ち」はリラックスしていますし、幼い段階に戻る行動ですので、動きがなめらかです。
細かいところで言えば、「育ち」や「遊び」は周囲からの声がけにパッと応じられますが、「防衛」のときはそれが難しい、ストレスレベルが下がるまで続く、ということがあります。


上記までの説明では、雰囲気を無理やり言語化した感じになります。
たぶん、経験則的に「こういった方向性で提案したほうがうまくいく」というのがわかるのだと思います。
でも、それだけだと間違いを起こしますので、勉強&補助として定型発達を理解することになります。
「育ち」の場合は、定型発達の子ども達も、どこかの年齢で行うことが多いといえます。
あまり自己流ということはなく、子ども達に共通して見られる行動です。
そこにプラスして、成育歴、発達の流れ、そして今の発達段階を確認し、「汗をあまりかかない。砂遊びを嫌がる。触られるのがイヤ。寝返りの際、反動をつけて回っていた」からの「お風呂からなかなか出ようとしないのは、皮膚を育てようとしているかも。水の時期だからかも」という見立てになります。
そこから、「じゃあ、足を使った遊びを」「じゃあ、海へ」「波打ち際を裸足で歩こう」というような刺激のバリエーションを増やすことからの発達の後押しへとつなげていきます。


たぶん、ほとんどの親御さんは、この3つの違いが感覚的にわかるはずです。
こういった質問をされるというのは、今、不安な気持ちがあるからであり、「解釈を間違えたらどうしよう」という想いからだと想像します。
たとえ解釈を間違えても、基本的に見守りでOKです。
ストレスに対する防衛行動だとしても、自分自身で動き、乗り越えようとしていますので、またその乗り越えた経験が生きていく上での武器になりますので、本人や周囲に危険と迷惑がかかる行動でなければ、特段介入する必要はないといえます。
ただし、親としてそのストレスが何なのかは確認する必要がありますが。


まずは子ども育つ力、乗り越える力を信じること。
そうすれば、ひとつ冷静になって、子どもの姿を見ることができます。
アセスメントのコツは、見ている側の感情を乗せないことになりますので。




2020年9月30日水曜日

【No.1105】因果関係ではなく、育つための糸口として捉える

神経発達症の子ども達は、神経に「未成熟や未発達の部分がある」ということだといえます。
ですから、もし彼らに有効な薬があるとすれば、神経の発達を促す薬になるでしょう。
しかし残念ながら、そういった薬はありません。
今ある薬、処方されている薬は、彼らの症状を抑えるためのものになります。


表に出ている症状によって、生活に支障が出ている人もいるでしょう。
そういった人たちにとっては緊急事態ですから、一時的に症状を抑える必要があると思います。
でも、緊急事態は緊急事態であって、生涯、永遠に、ということはないはずです。
根本的な解決を目指すとすれば、彼らの神経をよりよく育てていく以外ないのです。


実生活で何らかの支障が出る。
そして受診し、薬が処方される。
ドーパミンやノルアドレナリンなど、神経伝達物質を調整することで症状の緩和や抑え込みを目指していく。
しかし、ここでしっかり考えなければならないのは、神経伝達物質の問題が症状と直接結びつているかどうかです。


たとえば、授業に集中できない子がいるとします。
そこで中枢刺激剤が処方され、服用するというのが一般的な流れですが、授業に集中できないのは、神経伝達物質の問題だけではないはずです。
そもそも中枢刺激剤は、神経発達症以外の人が服用しても集中力が上がるものでもあります。


本来、医学的な処方をするのでしたら、他人の身体の中に何かを入れるという判断をするのでしたら、それなりの根拠が必要になります。
しかし全国を探して、わざわざ学校まで子どもの様子を見に来てくれる医師はいるのでしょうか。
というか、ここに神経発達症における医療の限界があるのだといえます。
つまり、因果関係がはっきりしているものに対して強いのが医療。
だけれども、いろんな影響と可能性が考えられる複雑系のものに対しては限界がある。
(授業に集中できないのは、聴覚(≠前庭系)の未発達、身体の軸が育っていない、腰が育っていない、脳の未分化、栄養不足、睡眠の乱れ、汗がかけない、そもそも授業がつまらない、先生が嫌いなど無数&複数の重なり合い)


神経発達なんて、複雑系の最たるものです。
神経発達症の子ども達に多く見られる言葉の遅れ、不器用さ、こだわりなど、何か一つの原因で説明できるものなどありません。
遺伝というベースに、胎児期からの環境からの影響を受け、複雑に絡み合い、現時点で表に出ている部分がその症状の一つに過ぎないのです。
同じ言葉の遅れでも、一人ひとり、理由は異なりますし、その影響のバリエーションといったら無限にあります。
ですから、そもそも神経発達症において、因果関係をはっきりさせようとすること自体、不可能なのです。


掴めないものだからこそ、不安になり、不安になるからこそ、膨大な情報の中からシンプルな答えを求めようとする…。
でも、それは子ども自身ではなく、親御さんにとって、支援者にとって。
「自閉症は視覚優位だから、視覚的に提示すれば、よくなる」
「神経発達にはタンパク質が重要だから、プロテインを飲ませれば、よくなる」
「普通の子とは違うのだから、専門家に任せれば、よくなる」
【自閉症→視覚支援】【神経発達→タンパク質】【特別支援→専門家・療育】
こういったのはすべて一方通行であり、部分的な仮説の一つにすぎません。
視覚支援は、すべての自閉症の人に合うか?
タンパク質を摂れば、神経発達が起きるのか?
そもそも我が子の神経発達の遅れがタンパク質不足だからなのか?
専門家・療育を受けなければ、神経発達は生じないのか?
家でできることはないのか?


さらにいえば、こういったシンプルな図式は迷いを払しょくし、ひと時の安心感を得られますが、失うものが大きい。
自閉症の子ども達に視覚支援ばかりした結果、聴覚を育てる機会が極端に減ってしまった。
タンパク質にこだわるばかりに、通常の食事においての味覚を育てる機会、消化器系を育てる機会、咀嚼をする機会を失ってしまった。
療育に突き進んだ結果、親子の愛着形成が遅れてしまった、園などで同年代の子ども達と集団で過ごす体験を失ってしまった。
多くは申し上げませんが、栄養療法が流行してから、口、舌、嗅覚&味覚、言葉、咀嚼からの認知の遅れで相談される子が増えたように感じます。
物事を単純化するということは、因果関係をシンプルにするということは、それ以外の多くの影響を切り捨てることでもあります。
それは精神科薬と同様、副作用が大き過ぎます。


私も「背骨の過敏さをとりましょう」「ハイハイをやり直しましょう」「水遊びをしましょう」「親子でのスキンシップ遊びを増やしましょう」「内耳を育てましょう」などと提案することがあります。
しかし、これは因果関係で申し上げているのではありません。
あくまで基本は、「治しやすいところから治す」「育てやすいところから育てる」です。
神経発達の一部分でもつながれば、引っ張られるようにしてほかの部分も育ち始めるのは、子ども達の特徴になります。
つまり、数ある糸口の一つをお伝えし、そこを育てる後押しをしてもらうことで、結果的に子どもさん自身の発達する力、自然治癒力を発揮してもらおうと考えているのです。
たぶん、他の実践家の人たちも、複数の要因・影響が見えつつも、一番効果的な一本(糸口)を伝えているのだと思います。
症状を抑え込むためではなく、症状をより良い発達への入り口とするための糸口です。


一方で、この無限にある影響、要因をすべて明らかにすることができないからこそ、快食快眠快便を整えること、親子での関わりを大切にすることを強調しています。
神経発達症の子ども達の発達のズレが、言葉を獲得する以前の胎児期から2歳前後に生じていることからも、この時期の育ちを、動物としての原理原則をもう一度見直し、そこから育てなおすことが重要だといえます。


因果関係に固執すると、その周辺にある大事なものが見えなくなります。
ですから、動物としての育ちを大切にし、糸口をたくさん見つけていくことが必要です。
その糸口は仮説で構いません。
神経はいろんなところと繋がっていますので、1つが育てば、いろんな面に影響を及ぼすのです。
まさに「ラクになってほしい」「より良く育ってほしい」という親心が、表に出ている症状を抑え込むのではなく、症状からより良く育つための糸口を見つけていく連想への一歩になるのだと思います。




2020年9月28日月曜日

【No.1104】人それぞれの成育パターン

親御さんと話をしていると、「小学校低学年くらいまでは先生の話が全然聞けなかったんです」「他人の気持ちが想像できるようになったのは、小学校高学年くらいからですね」「小学生の間は、落ち着きがなく、いつも走り回ってきました」なんていうことをよくお聞きします。
だいたい10歳くらいですね、そんな皆さんがガラッと変わるのは。
親御さんの発達の流れを見ていますと、バラバラに発達していたものが、一気に繋がったという雰囲気を感じます。
細かい部分で見れば、こうやってお話ししている今も、多少の発達の凸凹がありますが、社会の中で、家族を作り、生活することができているのです。


「今の時代に子どもだったら、私も診断がついていたでしょうね」
これも、親御さんからよく聞くフレーズになります。
確かに、青田買いの現代では、生後3年間の中で、少しでも発達が遅れていれば、すぐに指摘され、診断→療育→支援へとつながれていたと思います。
そうだとしたら、今の親御さんの人生、生活、そして我が子と暮らす日々もなかったでしょう。


このように10歳を過ぎたあたりから、一気に神経が繋がっていく人達は、発達障害の人達なのでしょうか。
私はそうは思いません。
ただ神経ネットワークができるのがゆっくりな人達であり、環境と成育パターンの違いなのだと考えています。
生後すぐに生まれ出た環境に、脳・神経を合わせようとする発達パターンの人もいれば、10年くらいかけて環境を見極め、よりよく適応できるようにと発達するパターンの人もいるでしょう。
ヒトの目的は、生き抜くことと子孫を残すこと。
その「生き抜く」ためにも、「子孫を残す」ためにも、まずは環境適応が重要なことになりますので、そこに個としての多様さ、生存戦略の違いがあっても不思議ではありません。


ですから、発達障害というのは、現代病なのでしょう。
環境の急激な変化によるリスク要因の増大とともに、端的に言えば、人それぞれの成育パターンを待ちきれない社会が作りだした病なんだといえます。
3歳でグッと繋がる子、5歳でグッと繋がる子、7歳で、10歳で、20歳で、グッと神経が繋がる人達がいるのにもかかわらず、教科書通りの成育パターンで判断され、1歳、2歳、3歳でつまみとられていく。
つまみとられた先に、子ども達が伸びやかに"育つ"環境が用意されていれば良いのですが、あいも変わらず、カナー型を想定して始まった支援へと繋がれてしまう。
育ちが必要な子ども達に、手をとり足を取りの支援は却って発達を阻む結果にもなります。


時々、「大久保さんに見てもらってから、子どもが大きく成長しました」などとおっしゃる親御さんがいますが、それは違うと思います。
発達のストッパーやヌケを確認し、お伝えした場合は、多少影響はあったかもしれませんが、そうではない場合は、たまたまタイミングが合っただけです。
子どもが育つタイミングで、私が関わっただけ。
子どもの発達・成長する力を侮ってはなりません。
ちょっとやそっと外部から刺激を与えたくらいで変化させられるようなものではないのです。
もしそうだとしたら、とっくの昔に人類は滅んでいます。


10歳でいろんなものが一気に繋がり、世界が開けたという元子ども達の皆さん。
そのような方達は、支援級で勉強したのでしょうか、早期から療育を受けたのでしょうか。
もっといえば、プロテインやサプリを摂ったのでしょうか、原始反射の統合や発達のヌケを育てなおすことを日々行っていたのでしょうか。
私も「発達援助」を掲げて仕事をしていますが、もう少し親御さんの、ご自身の内側にあるものに注目し、そこからより良い子育てへと繋げて欲しいと思っています。


発達相談と聞くと、発達のヌケやストッパーを私が確認し、それをどうやって育てたら良いか、アプローチしたら良いかを伝えるという一連の流れを想像されるかもしれません。
でもそれは私の仕事のやり方の一つであって、メインは親御さんの内側にある知恵を引き出すことです。
なので、子どもさんのアセスメントをしているようで、実際は親御さんのアセスメントをしていることが多い。
結局、療育も、特別支援も、栄養療法も、身体アプローチもない状況で育ち、自立しているのです。
無数にある成育パターンの中で近いものを持っている親子なのですから、その歩みの中にこそ、中心となる発達援助があるといえます。


この領域で、医療が子ども達の未来をより良いものへと変える力になれないのは、つまるところ子育てだからです。
子育ての中心は、親子の関係に他なりません。
親子で触れ合い、戯れ、同じものを共に食べ、共に排泄し、共に眠りにつく。
こういった親子という原始的な、1対1の関係性の中でしか育たない部分があるのに、そこが生きるための土台の発達になるのに、その時間を削って外部を頼るのは間違っていると思います。
また外部の知恵を求めるよりも、まずは自分たち親が育ってきた道、歩んできた道の中に、我が子をより良く育てる知恵を探すべきだと思います。
それこそが命をつなぐ、命を伝えることではないでしょうか。


私のような外部の者が、親子の子育てに新しい知恵を与えることはほとんどありません。
たぶん、私の仕事のメインは、親御さんが気づいていない、無意識に育てきった知恵を言語化することなのでしょう。
発達相談の際、親御さんが私の提案を聞いて共感するのは、既にご自身の体験の中にそれがあったからだと思います。
まずはご自身の内側にある知恵を求め、もしあとになって繋がったという意識があるのでしたら、その年齢まで我が子の育ちを待つことも大事なのかもしれません。
大器晩成という成育パターンの子も少なくないのですから。




2020年9月25日金曜日

【No.1103】複雑から単純へのプロセスを見る

発達のヌケや未発達が育ってくると、課題が集約されていきます。
「ここも育てなきゃ」「あそこも育てなきゃ」という状態から、「この困り感も、あの困り感も、すべて○○と繋がっていますね」という状態へ変わります。
ですから、発達相談でアセスメントを行っても、その時間に大きな違いが出るのです。
10分くらいで結論が出るご家庭もあれば、2時間以上かかるご家庭もあります。


子どもさんの困っているところをお聞きすると、「それってすべて内耳の発達と繋がっていますね」「背骨の過敏さが、全体的なストッパーになっていますね」というように展開する場合は、ヌケや未発達が少ないか、既に大部分が育ち直されたご家庭です。
反対に、運動発達も、呼吸も、感覚も、愛着も、背骨も、口も、脳の偏りも…という具合に、あれもこれもとなるご家庭は、まだまだ課題の本質、根っこに届きづらい状態です。


対人面、コミュニケーション、身辺面、身体の動きなど、表に出ている課題は多くあるのに、課題の根っこが1つに集約されている状態。
同じように、対人面、コミュニケーション、身辺面、身体の動きなど、表に出ている課題が多くあって、それぞれ別の根っこと繋がっている状態。
表面に出ている課題ではなく、その課題と繋がっている根っこを見抜くのがアセスメントになります。
神経発達症の子ども達が育っていく過程は、複雑から単純へ。


「複雑から単純へ」というのは、子どもが育っていく過程以外にも見てとれます。
たとえば、親御さんの特別支援との向き合い方です。
最初は、あらゆる情報を集める、あらゆる療育を受けさせる、あらゆる専門家のところに行く。
そうやって我が子の発達の遅れと向き合った瞬間から、どんどん複雑な方向へと進んでいきます。
そして子どもが発達・成長し、自分の中でいるいらないがわかってくると、単純化へ向かっていきます。
いらない情報は捨てる、いらない本は捨てる、特定のブログを読まなくなる、療育に通うのを止める。
結局、神経発達症は病気ではありませんので、シンプルに言えば各家庭の子育ての話です。
その本質に気づくと、余計なことをやらなくなり、子どもと純粋に向き合えるようになるので、発達が加速していくものです。


ですから反対の見方をすれば、複雑化を進んでいる親御さんは、子どもの発達を後押しすることが難しい状態だといえます。
そこら辺の支援者より情報をたくさん持っている親御さんがいます。
「どこにそんな時間があるの!?」と思ってしまうくらい、あちこちに顔を出している親御さんがいます。
支援者も使わないような資格を何万円も出して習得するような親御さんもいます。
以前は、子どもの障害が分かってから、大学に入り直す親御さんも少なくありませんでした(そして支援者や教員になる…)。
で、情報や知識、掛けた時間に反比例するように自分の子が伸びない。


何故なら、先ほども言った通り、神経発達症の本質は、子育てだから。
生き物としての土台である快食快眠快便を整えること。
安心できる家、生活、親子関係を築いていくこと。
そういった動物としてのシンプルな部分をないがしろにして、いくら情報や知識、資格を手に入れても、子どもの発達を後押しすることはできません。
発達相談でよく「私は、あんなお母さんみたいにはできない」と言われることがありますが、「あんなお母さんになる必要はありませんよ」と答えています。
私も多くの親御さん、ご家庭の発達相談を行ってきましたが、子育てを大事に頑張ってるご家庭の子が一番良く伸びています。


私の仕事、発達相談では、いち早く複雑から単純へと進めるように後押しすることだと考えています。
子どもさんの複雑な課題の根っこを、できるだけわかりやすく整理して伝えること。
子どもさんの課題の根っこが既にシンプルなものへと集約されてきているのなら、それを伝えること。
神経発達症は、神経をより良く育てることが重要なのであって、対処療法が求められているわけではないと伝えること。
どんな知識、情報、資格、専門家も、集めるのは親御さんの趣味であって、子どもにも、子どもの発達にもほぼ無関係だと伝えること。
あれこれやり過ぎると却って、本人が育てたいところが十分に育てられず、また神経ネットワークを作る"間"ができないために発達の滞りが生じると伝えること。


人は不安になると、なんでもかんでも集めたくなる性質を持っています。
マスクはウィルスを通すのに、必死に買い集めようとしている人たちがいまだにいます。
マスクは症状がある人がするものであって、無症状の人が、健康な人がわざわざつけるものではありません。
本当はそういった真実も知っているのに、まだ外さないのは、周囲の目が気になるから。
結局、必要がない療育に通わせているのは、うちだけ通わなくなった場合に向けられる周囲の目を気にしているだけ。
そういったくだらない意識のために、子どもの貴重な時間を消費しているのです。


あらゆることに複雑から単純へは当てはまります。
素晴らしい専門家、実践家ほど、子どもの発達を後押しできている親御さんほど、言っていることがシンプル。
ややこしい物言いをしているのは、本質が見えていない人の特徴ですね。
権威や専門家、専門知識と用語を求めるのは、不安だから。
不安な人は複雑を求めます。




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【業務連絡】
9月22日・23日に訪問させていただいたご家庭の皆様、昨日、報告書を郵送いたしました。目を通されて質問したいこと、さらに相談したいことがございましたら、メールください。お返事いたします。どうもありがとうございました!


2020年9月18日金曜日

【No.1102】どの本にも書かれている「家庭のような自然な環境を作る」という配慮事項

多くの支援者と同じように、私も最初から身体アプローチを中心に据えていたわけではありません。
私が学生時代には、既に日本におけるTEACCHの先進地域として突っ走っていた当地です。
TEACCHは、何度もトレーニングを受け、いくつかのレベルの認定証を貰っています。
ソーシャルストーリーも、コミック会話も、PECSも、同じような認定証を貰っていますので、その認定証をもとに支援者の指導はできませんが、私自身が実践するにはお墨付きがあるわけです。


それくらい勉強してきた私ですから、標準療法に関する書籍や論文はある程度、読んできました。
そこで面白いのが、環境設定に関する記述です。
いろんな療法、アプローチがあり、診断やアセスメントの種類がありますが、共通して主張されていることがあります。
それは、「家庭のような自然な環境を作ること」です。
今、私が家庭支援を中心に行っていますので、改めて見ると、笑ってしまいますし、私の仕事の方向性は間違っていないのだと思います。


「診察室は、子どもたちにとって慣れない場所なので、検査者の準備と環境設定、提示の仕方が重要になる」
「診察室では、普段、見せない姿が出ることがあるので、注意して観察する必要がある」
「子ども達が家庭のように自然な姿、動きが出るように、療育部屋は家にあるようなものを配置する」
だったら、家でアセスメントすればいいじゃん。
だったら、家で療育すればいいじゃん。
そうは思いませんか??


自閉症の子ども達は、場所によって見せる姿が異なる、と言われています。
ですから、診察室で見せる姿と家で見せる姿が異なっていてもいいはずです。
というか、幼い子どもなら、いつもと違う場所に行けば、テンションが変わるのが普通です。
でも、診察した医師に、「いや、家だと〇〇ができるんです」と訴えても、「それは違う」と全否定されるなんて話はよく聞く話です。
片方では、自閉症の子ども達は場所によって能力が異なると言いつつ、家でのアセスメントは行っていないし、情報としても医師の所見と対等には扱ってくれない。
始まりは家庭生活の中で困ったことが起きていての診察になるのですから、本来なら家に専門家がいってアセスメントするべきだと思います。


療育に関しても、どうして、わざわざ施設に出向いて受けなければならないのでしょう。
幼い子にとっては、移動も負担になります。
親子共々、電車を乗り継ぎ、ヘトヘトになって療育機関に向かう。
幼稚園や保育園の時間を削って。
夕食や掃除など家事の時間を削って。
兄弟との時間を削って。
それでいて、トランポリン??バランスボール??やっているのかやらされているのかわからないカードゲーム??
家のトランポリンのほうが、思う存分、跳び続けられると思いますが…。
バランスボールで揺れているのなら、近所の公園に行ってブランコに乗っていたほうが早いと思いますが…。


施設側も「家庭のような雰囲気づくり」を謳っていて、やっていることも家でできることばかり。
結局、診断も、療育も、家でできることをわざわざ来てもらってやっているんですね。
それじゃなきゃ、お金にならないし。
あと、どの専門書を読んでも、根底に流れているのは、専門家たちの「専門家じゃなきゃできない」「家では、つまり、親は無理」という傲慢さだと感じます。
TEACCHでいえば、初期の頃は専門施設に来てもらって、そこでアセスメントをやり、指導の仕方を見極め、その後、支援者が家に行き、親御さんにレクチャーするという流れがあったのですが、いつの間にか、特に日本ではそんなことをやっているところはありませんね。


診断も、検査も、療育も、いろんな考え方、流派がありますが、みなさん、「家庭的な雰囲気」を環境づくりのポイントとして挙げています。
わざわざ家庭的な雰囲気を作らなくても、家庭ならその必要はありません。
そして、子どもからしたら、どこの誰かも知らないおじさん、おばさんにあれこれされるよりも、親御さんからアプローチされたほうが受け入れやすいに決まっています。
「最初の数回は、無理にセッションを行おうとせず、子どもとのラポートを築くように努める」なんてことも言っているくらいですから、だいたい1年くらいの付き合いにあるおじ&おばさんと信頼関係を築く必要はないでしょう。
というか、その時間、保育園や幼稚園、公園や家で過ごしていたほうが、よっぽど発達、成長に繋がります。


こうして見ると、既に診断、検査、療育は、産業の一つになっているんですね。
同じ効果があるのなら、家庭で、それも親御さんができたほうが良いに決まっています。
それなのに、そこをやろうとしない。
相変わらず、人工的な空間に親子を呼び、そこでなんか特別なことをやっている感を出しているだけ。
本来、ペアレントメンターが、そういった役割を果たすべきですが、結局、支援の勧誘、専門家の下請け機関にしかなっていません。
標準療法も、創始者の考え、アプローチは素晴らしいのですが、どうも太平洋を渡る間に、人為的な変異が起きてしまうんですね。


家庭で、子育ての中で、親子の関わりの中で、子ども達の課題が解決し、よりよく育っていくのが理想だとは思いませんか。
というか、それが自然な話だと思います。
発達に遅れがあるのは病気ではないので、どう考えても、子育ての話なのです。
その子育てを、より良いものになるように、それこそ、親御さん自身も成長していけるように後押しするのが、専門家の本来の役割だと思います。


この前も、年端もいかない子に、「ここに通う回数を増やした方が良い」なんていう支援者がいました。
療育の前に、子どもの健康だろ、安心できる時間と環境だろ、親子の愛着形成だろ、と私は思います。
本当に子どもの発達を考えている人は、頻繁に診察室、検査室、療育施設に呼ばないものです。
むしろ、減らしていき、負担が軽くなるように努めるものです。
支援者である前に、親子の時間、家庭での時間、家族での育みを一番に考える人でありたいと私は思っています。




2020年9月17日木曜日

【No.1101】療育はずっと前からマスク姿だった

大人の私達だって、マスク姿の人間を見れば、異様に感じるのですから、子ども達はさらにその異様さを感じていると思います。
特に、言葉を獲得する前の段階にいる乳幼児さんからすれば、顔は大事な情報源です。
生きるための情報を得るための顔、言語&コミュニケーション&社会性を育むための顔が、半分隠れている。
その影響は、新型コロナが終息したあとも、子ども達の発達の中に残り続けるでしょう。


幼少期の養育環境が、自閉症やADHDなどに見られる症状を作る、というのは有名な話です。
海外でも、日本でも、そういった研究結果がとっくの前に出ています。
研究対象が養護施設の子ども達ではありましたが、母子間の濃密な時間の欠如が発達を歪ませていくのだと思います。
何故なら、養護施設を出て、里親の元で育てられた子ども達には、そういった症状が消えていく子が多いからです。


コロナ禍でググッと育った子ども達が多かったのは、親子間の濃密な時間が過ごせた、という点が大きいと考えています。
やはり人間には、1対1という関係性の中で育つ部分があるのだと思います。
というか、そういった原始的な、動物的な育ちが必要なのでしょう。


以前、相談があったご家庭は、とても熱心に幼少期から療育機関にあれこれと通っていました。
月曜日はここに行って、火曜日はこの先生のところで、水曜日は…という具合に、我が子の発達にプラスになることを、と頑張っておられました。
お子さんの発達を確認しますと、確かに最初の頃よりは育っていると感じました。
でも、大事な愛着関係が育っていません。
療育施設では順応しているのに、家に、親御さんに順応していない感じです。
それをみて、専門家は「自閉症ゆえの対人スキルの欠如」というかもしれません。
でも、私にはそうは見えませんでした。


0歳から3歳くらいまでは、親御さんと濃密な1対1の時間が必要です。
さらに強すぎる刺激も、発達に繋がるどころか脳、神経へのダメージにつながります。
今でも妊娠中の母親教室などでは、「誕生後、1年間は静かな環境を作ってください」と指導されますので、それくらい赤ちゃんの脳や神経は影響を受けやすいのです。
それなのに、一度、発達の遅れのラインに乗ると、「早期療育」が最優先となり、母子の濃厚な時間よりも、乳幼児の脳を守る静かな環境も、どこかに行ってしまう。
はっきり言って、定型発達の一番後ろのほうを歩いている子を、個性の範囲での発達の遅れの子を、一時的な発達の遅れが出ている子を、障害児にしているのは早期診断、早期療育を進める人間だということが少なくないのです。
療育機関に通う回数を減らし、親子でゆっくり過ごすようになったら、発達の遅れを取り戻し、一般的な幼稚園、保育園に通えるようになった、なんてことはよくあることなのです。


2000年代以降、早期診断、早期療育が押し進められてきました。
今では1歳代のお子さんも、療育に通っています。
でも、最初の頃に早期診断、早期療育を受けた今の若者たちはどうでしょうか。
将来の自立のための早期診断、早期療育だったのに、どのくらいの若者が自立できているのでしょうか。
未だに福祉を利用し続けている若者たちをみると、むしろ、彼らは気づかれなかった方が自立できたのではないか、将来の可能性の幅があったのではないかと思うのです。
世の中を見渡せば、発達の凸凹を抱えつつも、自立している大人たちがたくさんいるのですから。


療育というのは、受けている子ども達の目からみれば、顔の半分がマスクに覆われているようなものなのでしょう。
濃密な1対1の関係性での育ちが得られるわけではなく、原始的な、動物としての発達刺激が得られるわけでもない。
子どもの発達全体を育んでいるのではなく、「ここを見なさい」と部分を見せられ、切り取った刺激を渡され続ける。
それじゃあ、ただでも凸凹がある子が、さらに凸凹が大きくなってしまいます。


私は思うのです。
やはり原始的な刺激でしか埋まらない発達段階というのがあるのではないか、と。
あるご家族は、自粛期間中、近所の海に毎日、出かけたそうです。
何をするわけでもなく、とにかく子どもと一緒に過ごし、遊んだ。
子どもさんは、砂を触ったり、海の水を触ったりするだけだったけれども、その後、ドカンという発達が起きたそうです。
いろいろ発達援助をしているけれども、それにしては伸びていかない、というご相談があったご家庭。
たぶん、進化の過程での魚類、海との時間、戯れ、信頼関係が築けていなかったことが、発達のストッパーになっていたのだと思います。


療育や支援を利用するにしても、原始的な育ちの時間は保障してあげなければなりません。
海、泥、砂、植物、虫、太陽。
これらは700万年、ヒトにとって重要な発達刺激でした。
同時に、未熟なままの脳・神経・身体をもって生まれてくるヒトにとって、1対1の濃密な関係性と時間が生きるためにも、人間として生きるためにも、必要でした。
1対1の濃密な関係性と時間が保障されていない子に、社会性が育つわけはありません。
養護施設で育てられた子のように、自閉症やADHDの症状は環境によって作られることがあるのです。


まさに今、社会性を育み始めようとしている子ども達がいる親御さんには、よく考えてもらいたいと思います。
マスクをつけて子育てを続けるのか、子ども達はマスクが当たり前の社会を生き続けていくのか。
「他人の表情が読めない」「他人に対する意識が乏しい」「言葉の遅れ」「一方的な関わり方」という子ども達が、今後数年、増えていくでしょう。
子どもの発達を奪うのも、守るのも、大人たちなのです。




2020年9月16日水曜日

【No.1100】雰囲気の言語化

施設で働き始めた1年目。
先輩職員たちは、利用者さんの未来を次々に当てていました。
「ああ、30分後くらいにパニックになるかもね」
「今晩は寝ないと思うよ、〇〇さん」
「週末は荒れるから気を付けてね」
「発作がそろそろくるよ」
ビックリするくらい、よく当たりました。


知的障害や行動障害が重く、ノンバーバルな利用者さんが多かった施設です。
本人たちから訴えることはほとんどなく、私から見れば、どの変化も突然のように見えました。
ですから、先輩職員にその前兆はどこから見えるのか、何に注目しているのか、尋ねました。
当然、マニュアルのようなものがあるわけではなく、その職員の経験とカンが主であり、教えてくれた内容も人それぞれ違いました。
排泄や睡眠の状態、特定の行動の頻度、水を飲む量、こだわりの強さ、余暇の過ごし方など、本当に様々でした。


これらは、私達、他人が外部から見て確認できることです。
なので、私も年数が経てば、この前兆に気づくことができるようになりました。
でも、やはり先輩たちのようにはいきません。
きっと目に見えること以外でも、察しているんだ、先輩たちは、と私は思いました。
そして私は気づいたのです。
本人たちの声を聞いているんだ、と。


声というのは、言葉ではありません。
リズムだったり、発し方だったり、大きさだったり、音程だったり…。
今振り返れば、動物の発声の部分だったと思います。
どういった響きをしているかに意識を向ければ、なんだか本人たちが訴えていることがわかるような気がしてきました。
たぶん、言葉の段階では伝えられなかったとしても、発声という言葉以前の段階では訴えていたのだと思います。


私達、支援者は、『雰囲気』という言葉をよく使います。
それは、こういった発声の響きであったり、表情であったり、動きであったり、佇まいであたったり。
「今日、〇〇さんの雰囲気良くないね」
「そうですね。雰囲気がまずいですね」
なんていう会話もしょっちゅうしていましたので、目に見える変化と目に見えない雰囲気を私達職員は感じて判断していたんだと思います。


私のベースは、施設職員として働いた7年間です。
ですから、発達相談においても、本人の声、響きに注目しています。
言葉は文化ですので、どういった環境にいたかに大きく左右されます。
なので、どんな言葉を知っているか、どんな言葉で表現しているかは、ほとんど注目していません。
それよりも、言葉のあるなしに関わらず、声の響きに注目しています。


今はあの時とは異なり、人間の発達や身体の勉強もしましたので、どういった感情が乗っているか以外にも、発達の観点で見るようにしています。
声が細ければ、呼吸の遅れを。
詰まったような声ならば、首の課題を。
唸るような声ならば、内耳の未発達を。
混じった声ならば、舌の未発達を。
言葉に間があれば、脳の未分化、脳梁の課題を。
もちろん、これらは例えですし、発達はこんなにスッキリ因果関係が明確になりませんのでお間違えなく。


施設で働いていた頃、「あの職員だから、寮内が落ち着いている。誰々さんが問題を起こさない」という話が嫌いでした。
私は、そういった職員には、言語化できない何か雰囲気みたいなものがわかっている、察することができているから、事前に対処できているんだと思っていました。
ですから、支援者の言う「雰囲気」という言葉を言語化することが大事だと考えています。


私の今の仕事もそうです。
大久保を呼んで、アセスメントや援助をしてもらったから、「良くなった」とは思ってほしくありません。
私が見ている雰囲気を言語化しなければ、「大久保だからできる」「専門家だからできる」「(素人の)私にはできない」と勘違いさせてしまうからです。
ですから、実際の発達相談では、私が感じている雰囲気を言語化するように努めています。
その1つが言葉ではなく、発声、声の部分です。


耳にタコができる話になりますが、神経発達症の人達の課題の根っこは、言葉以前の段階にあります。
つまり、文化が侵入していない部分。
どんな言葉を話し、どんな文字を書き、どんな知識を持っているか、は発達援助で見るべきポイントではありません。
文化の影響を排除した部分を見なければなりません。
それが食べ物であり、排泄物であり、睡眠、顔色、動き、身体のバランス、筋肉の張りとなっていきます。
さらに目に見えない声の響きなどの雰囲気も見る必要があります。


私が施設で学んだこと、培ったことを社会に貢献することが重要だと思っています。
現代社会において施設は負の側面が大きくなりました。
しかし、このような職員の中で脈々と受け継がれていったことは、とても貴重な知見だと思っています。
「雰囲気の言語化」
これは私の仕事のテーマでもあります。




2020年9月15日火曜日

【No.1099】zoom講座「医者が教えてくれない育ちのアセスメント」を終えて

大学1年の夏、サマースクールのボランティアに参加したあと、放課後の余暇支援ボランティアにも参加するようになりました。
そこで初めて担当したのが、自閉症の男の子でした。
こちらが話しかけても反応はありませんし、男の子からの訴えも理解することができませんでした。
パニックだってしょっちゅうでした。
それでも、その子の親御さんはいつも「ありがとう、ありがとう」と言ってくれて、私にボランティアを依頼してくださいました。


生まれて初めて「自閉症」という言葉と、そういった障害を持っている子どもさんと出会った私は、とにかく彼のことを知りたいと思いました。
そこで向かったのが、大学近くの書店です。
『障害児教育』と書かれていた棚に向かうと、すぐに目に入ってきた本がありました。
当時は少なかった障害児関係の本の中でしたが、1つだけ真っ赤なカバー。
しかも、赤色は私が好きな色であり、ラッキーカラーでもありましたので、迷うことなく手に取り、中を開きました。
『自閉っ子、こういう風にできています!』
私が初めて買った障害児関係の本です。


そのときから、今年でちょうど20年。
まさか、あのとき、初めて読んだ本をこの世に送りだした浅見さんと、そして15年近く特別支援教育、療育を突き進んでいた私を変える知見を教えていただいた栗本さんと、対談させていただくなんて…。
そのときはわからなくても、ときを経て繋がっていく縁があるもんだと感じました。


大学1年の秋、私が赤本を手にしていなければ、自閉症の男の子との関わりを続けていなかったかもしれません。
そうなれば、入学当初の目標であった小学校の先生を今頃、やっていたかもしれません。
少なからず、今のように起業して支援者を行っていなかったのは確かだと思います。


栗本さんとの対談は、私にとって幸せな時間でした。
本当は、仕事として依頼されたことですので、このような感情を持つことも、ここで表明するのも間違っているのかもしれません。
でも、それが私の正直な気持ちです。
対談が始まる前の浅見さん、栗本さんとの打ち合わせも、その後の振り返り、打ち上げも、心地良さを感じていました。
表現やキャリア、立場は違いますが、見ている先は一緒。
浅見さんも、栗本さんも、未来を見てお話をされている。
社会が、人類が、今よりも良い未来を迎えられるように。


浅見さんは、10年くらい先を見ているような気がします。
と言いますか、10年先の未来の物語を綴っているように感じます。
2030年代に入れば、浅見さんが仰っていることも、出版されている本の中で語られていることも、当たり前になっているでしょう。
赤本が出された当時、誰一人として、自閉っ子の身体や感覚に注目していた人はいませんでした。
でも、2010年代に入ると、自閉っ子の内側の世界に、親御さんも、支援者も、注目し、理解しようとする動きが出ましたし、実際、そこへのアプローチを始める人たちが当たり前になっていました。


ですから、私の対談での個人的なテーマは、未来でした。
未来を綴っている浅見さんの主催です。
栗本さんも、今の子どもさんの状態を見るプロフェッショナルではありますが、想いはこの子ども達が思春期を迎えたとき、大人になったとき、そしてその次の世代までをも見ながら指導されています。
私に10年先を綴る力も、次の世代を見つつ指導する力もありませんが、視聴してくださった方達の明日がより良いものになってほしいという想いをもって言葉を発していたつもりです。
一人でも多くの方に、その想いが伝わってもらえれば、私も嬉しく思います。


「テレビに出ていたアイドルと結婚する」なんていう話もあり、そこまではいきませんが(笑)、学生時代、初めて手に取った障害児関係の本を作った浅見さんと、支援&療育一辺倒だった私に大きな気づきを与えてくださった栗本さんと一緒にお仕事をさせて頂いたことは、私にとって大きな出来事であり、幸せな時間になりました。
講演者の最大の利点は、対談以外のよもやま話です。
お二人の言葉、雰囲気の中に、私の心や考えを揺さぶるようなものがたくさんありました。
これは、お二人との共有の中で生まれたものなので、そのまま、お出しすることはできませんが、これからの発達相談やブログ等の発信で、その揺さぶりの雰囲気を皆様にもお伝えしていこうと思っております。


まず、お金を払ってご視聴頂いた皆様、誠にありがとうございました。
そして企画や告知、受付等、今も録画の配信を行われている主催してくださった浅見様、ありがとうございました。
zoomでの講座は、ボリンゴ様の知識と力があってのことだと思います。
どうもありがとうございました。
事前の配信環境の準備は、浅見さんの旦那様にお手伝いいただきました。
本当にありがとうございました。
そして、私の話を温かく頷きながら聞いてくださり、惜しげもなく深い知見を披露しつつ、対談を導いてくださった栗本様に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました!!




2020年9月8日火曜日

【No.1098】子どもの「発達段階」「資質」「流れ」「ニーズ」を見る

今日、久しぶりにブログを開いてみたら、アクセス数が普段の何倍にもなっていました。
何かまずい発言でもしたかなと思っていたら、そうです、たぶん、9月13日に行われる花風社さん主催の講演会に参加される方達が見に来られたのでしょう。
当然、私は「なんだチミは!?」状態ですから(笑)


ここ数日間、当地での家庭訪問が続いていました。
改めて、今の親御さん達、考え方が変わったな~と思いました。
「自閉症は脳の機能障害です」
「障害なので、治りません」
「自閉症は視覚支援です」
で、「はい、わかりました」とはなりません。
おかしいと思ったら、別の道、方法、情報を探そうとします。
「当地で暮らしていれば、あの先生と仲良くなって、将来、あそこの施設でお世話になって」などとは考えず、この子がより良く育つ方法がないだろうか、と意識が向きます。
田舎のメジャー支援者より、グーグル先生です。


以前は、支援者より「様子を見ましょう」と言われれば、「はい、様子を見ます」となっていた親御さんが多かったと思います。
それは様子を見ることの重要さを感じていたというよりも、「専門家が言ったから=従順でいることの利益」を考えてのことでしょう。
当時は選択肢がなかったから、ローカル支援者に気にいられることが親御さんの気持ちの大部分を占めていたのかもしれません。
でも、時代なのか、専門家から「様子を見ましょう」と言われても、「具体的にどこを?」「いつまで見てればいいんですか?」「それよりも変わる方法はないんですか?」と言う親御さんが増えました。
そこで専門家がビシッとと具体的なことを言えなければ、「じゃあ、いいです」と言って、グーグル先生へと向かいます。
世代間でいろんなことが言われますが、10年前、20年前の親御さんより、今の親御さん達の方がずっとたくましくて主体性があると感じます。


当然、私に対する相談の中にも、「具体的にどこを見ればいいんですか?」「子どもをちゃんと見るの"ちゃんと"を教えてください」という依頼もあります。
子育てをするのにも、発達援助をするのにも、まずは子どもをきちんと見ることが重要です。
そういった言葉を耳にしたことがあると思います。
ただ「子どもを見る」というのには、複数の意味合いがあるのです。


まずは、子どもの『発達段階を見る』という意味です。
小学生になれば、教科学習が始まります。
だから、1年生になったら1年生の勉強を、2年生になったら2年生の勉強を、と思いがちです。
でも、その子がちゃんと勉強ができる準備が整っているか、を見る必要があります。
鉛筆を持つだけの指が育っているか。
黒板を見るだけの目が育っているか。
授業を受け続けるための姿勢が育っているか。
抽象的な概念が理解できるだけの脳が育っているか。
一斉指示が分かるだけの耳が育っているか。
いろんな発達段階を見ることが重要です。
他にも発達のヌケはどこか、遅れているところはどこか、反対に同年齢よりも育っているところはどこか、などの発達を見ることも大切です。
「子どものことをちゃんと見ましょうね」の見ましょうねには、発達段階を見る、という意味があります。


次に『キャラクターとしての子どもを見る』というのもあります。
持って生まれた資質と言える部分でしょうか。
何が好きで、どんなことに熱中するのか。
幼い頃の名も無い遊びはどんな感じだったか。
行動が先か、考えることが先か。
そういった子どものキャラクターを踏まえることが、教え方、促し方、生活の組み立て方に影響を及ぼします。
情報が頭の中でいっぱいになってしまっている親御さんの中には、全部、自閉症、発達障害で説明しようとする人もいます。
どちらかといえば、発達障害は部分であり、核はその子の資質です。
その子の人間の部分が見えなくなっている親御さんに対して、「ちゃんと子どもさんを見ていますか?」と尋ねることがあります。


キャラクターの次は、『子どもの流れを見る』です。
流れとは、つまり、生育歴であり、受精から現在まで続く物語です。
いきなり目の前に自閉症の我が子、発達障害の我が子が現れたわけではありません。
いずれも、受精した瞬間からの流れの中で生じたことで、バラエティに富む発達の表現型の一つにすぎません。
時々、今の状態、発達段階はわかるんだけれども、子どもの育ってきた流れから見れば、どうなのかなと思うことがあります。
問題行動だって、突然、出てきたわけではなく、その前に積み重ねがあったわけです。
そういった生きてきた流れの中で、今の子どもさんはどういった状態なのか。
その発達の流れの中で、今の成長具合は早いのか、そのままのペースなのか、遅れ始めているのか。
その辺りも重要な見るポイントになります。


最後に、これは支援者の中から聞かれる言葉ですが、「親御さん、ちゃんと子どものこと、見ているかな」というものです。
これは発達段階や資質、流れなどを見ているかどうかの話ではありません。
親子の不一致感を指している言葉になります。
子どもさん自身は、今、ここを育てたがっているのに、親御さんが別のことを育てようとしている。
子どもは根っこから育つことを、根本解決を望んでいるのに、親御さんが支援をやっちゃっている。
子どもが今どうなのかよりも、習ってきたこと、ある支援者から言われたことを忠実に行おうとしている。
親御さんの勢いがすごくて、展開するスピードが早くて、想いが強くて、子どもの状態、発達、気持ちが追い付けていない、処理しきれていないというのもあります。
そういった親子の不一致を見て、「親御さん、ちゃんと子どものこと、見ているのかな」というのです。
私も時々感じますが、親御さんが育てたいところと、子どもさんが育てたいところが違うことがあります。
親御さんが問題だと思っているところでも、本人が問題だと思っていないということもあります。
まあ、そもそも他人が問題意識を持つことと、それが問題だと押しつけることは違うのですが。


一昔前まで支援者が言っていた「様子を見ましょう」は、「(具体的なアイディアは持っていないし、今、私がもう状態は変わりませんよ、一生このままですよというのは言いたくないし、できれば別の人が言ってほしい。それに親御さんを傷つけることになるので)様子を見ましょう」という感じでした。
でも、今の「様子を見ましょう」は、子ども達がより良く育っていくための「様子を見ましょう」になります。
ですから、とても具体的。
親御さんに家庭生活の中で見てもらいたいのは、子どもさんの「発達段階」「資質」「流れ」「本人のニーズ」です。
どれか一つだけ重点的に見ているだけではより良い子育てにはつながりません。
子どもを立体的に、そして神経発達に関連するところをすべて、です。
13日の栗本さんとの対談の中で、そんなお話もできればと思っております。




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2020年9月1日火曜日

【No.1097】外部刺激と継続性

夏が始まる前にお会いしたご家族から、「この夏を思いっきり親子で楽しみました!」という報告をいただきました。
海も、山も、川も、公園も、キャンプも、とにかく外で遊び切ったそうです。
そうすると、2学期が始まり、「あれだけ集中できなかった授業に落ち着いて臨めるようになった」「あれだけ何度教えても難しかった算数が、テストで100点をとれるようになってきた」という変化が見られるようになったそうです。


小学校1年生、2年生で、「授業が理解できない」「テストの点数が取れない」というのは、ほとんどの場合、学力の問題ではありません。
小学校3年生になると概念の問題が出てくるので、また別の話になってしまうのですが、基本的に低学年の授業が分からないというのは、勉強のやり方とか、勉強時間の足りなさとか、教え方の善し悪しとかではなく、学ぶだけの準備が整っていないのです。
つまり、小学校低学年の学力=6歳の子の発達課題をクリアしてるかどうか、身体の問題です。


ですから、低学年の子が勉強できないからといって、勉強時間を増やしてもあまり効果は期待できません。
勉強時間を増やせば、暗記はできるかもしれませんが、授業の内容を"理解する"は伸びていきません。
ここを勘違いされると、とにかく勉強時間を増やし、で、子どもは算数の計算や国語の問題などをパターンで覚えてしまう→一応、小1、小2はクリア→小3になって概念と理解が求められる段階になってから、ガクッと成績が落ち、支援級という流れができてしまいます。


夏休み、自然の中で全身を使って思いっきり遊んだお子さんが、身体&運動面だけではなく、学習面に大きな変化が出るのは当然だといえます。
子ども達は、就学までに思いっきり遊び切ることを通して、学習の準備を整えていきます。
それができなかった子が、小学校低学年から授業についていけなくなる。
だからこそ、発達援助では遊び切れるために、身体と動きを育てる、ヌケを育て直すのです。
それはすべて就学の準備、学習の準備に繋がり、その先には高等教育、社会への準備と繋がっています。


実は、これが今日、言いたいことではありません。
今日、ブログを書こうと思ったのは、次のことを伝えたくてです。
夏休み、思いっきり遊んだお子さんが、この秋に大きく成長するのは、みなさん、ご存じのこと。
でも、思いっきり遊んだから、「発達した」「新たな神経ネットワークが生じた」というのは違うと思います。
私も助言の一つとして、「この夏、思いっきり遊んでくださいね」とは言ってきましたが、それ自体が発達に繋がるとは考えていません。


家族の、親子の物語としては、「夏に思いっきり遊んだ。そうしたら、2学期から良い変化が見られた。大きな成長が見られた。ハッピー」という感じで完結できます。
しかし私は支援者ですので、もう少し別の角度から見る必要があります。
私が見る角度は、神経からの角度です。


神経からしたら、ある一時期、普段よりも強い刺激、普段と異なる刺激を受けたからといって、すぐに神経を伸ばそうとするでしょうか。
一時的に必要となった神経同士で、新たなネットワークを構築しようとするでしょうか。
私が神経の立場(?)だったら、そうはしないと思います。
やはり、人類は飢餓の時期が長く、一時的な刺激にすぐに対応するだけの余裕さは持ち併せていないはずです。
きっと神経ネットワークは、何度も何度も刺激が通過し、「ああ、これは生きていくために必要な動き、連携なんだな」と感じたところから構築が始まると思います。
赤ちゃん時代は、生まれ出た環境にいち早く適応するために、迅速な神経ネットワーク作りが起きていますが、その時期を超えた人でしたら、頻繁に使われる、継続して刺激されることに焦点が絞られると考えられます。


何が言いたいかと申しますと、夏休み、海で遊んだことが発達につながったわけではないということです。
じゃあ、どうして運動、身体、学力の面で伸びたのか、変化があったのかといえば、一時的な刺激が日常生活に影響を及ぼしたからだと思います。
たとえば海に行けば、砂浜を歩くときに、普段以上に足の指を意識して使います。
足の親指の発達にヌケがあった子は、普段の生活では感じられない刺激がふんだんに入ってきます。
そして自然と、一時的であったとしても、足の親指が使えるようになる。
その効果は、海から上がった瞬間、帰りの車に乗った瞬間に消えるわけではありません。
子どもの身体には、その余韻、雰囲気、感覚が残るものです。
すると、帰ったあとも、家の中でいつもと違った感じで足の指が使えている。
また感覚が残っているから、子どもも本能的にそこを刺激しようと、足の指を使った遊びを家の中でもし始める。
その結果、海で遊んだことをきっかけに、家での動きが変わり、日常生活の中で継続されるもんだから、「そうか、これは必要なネットワークだ」と、新たな神経ネットワークが構築される、というイメージです。


神経発達症の子ども達は、神経が少ない子でも、神経が伸びない子でもありません。
繋がるべきネットワークが構築できていない子だといえます。
「発達の"ヌケ"」という言葉は、見事にそれを表現していると思います。
ヌケは"無い"ではなく、繋がるべき部分が抜けている、というイメージです。
ですから支援者は、神経からの視点を持っていなければなりません。
「ああ、夏休み、思いっきり遊んだ子が、良く伸びるな。だから、夏休み、外で思いっきり遊びましょう、とアドバイスしよう」では薄っぺらすぎます。


身体からのアプローチが有効。
だったらなぜ、有効なのか、どこの部分で効果があり、効果がないのか。
そういった部分まで深く理解できていることが求められると思います。
どうも、綺麗な物語で終わろうとしている支援者が多い気がします。
綺麗な物語、素晴らしい夏の思い出は、家族だけのもの。
そこに支援者という他人が立ち入るべきではないと思います。
支援者はあくまで外部刺激です。
本人、家族の外側から刺激を与え、変化を生じさせるのが役割になります。
その変化も、一時的な変化ではなく、継続的な変化になって初めて意味をなします。


私が冒頭のご家族から報告を頂いて嬉しかったのは、お子さんが勉強できるようになったことではありません。
私からの刺激が、親御さんの考えと行動に影響を及ぼし、結果的に夏休みを自然体験、親子の遊びで継続して過ごされたことです。
神経ネットワークと同様に、継続することで親御さん自身も変わっていく。
大久保を呼んだ。
だから、週末思いっきり頑張った。
でも、次の週からいつも通り、では、お子さんの神経発達は進んでいきません。


「親が変わって子が変わる」
「子が変わって親が変わる」
親御さんが子どもと一緒に遊ぶようになって、子どもさんが変わっていく。
子どもが変わっていく姿を見て、親も「もっと頑張ろう」「この方向性の子育ては間違っていない」と自信が芽生え、また変化が起きる。
そういったポジティブなサイクルをどう作っていくか。
そこで出てくるのが、私達、外部刺激である支援者だと思います。
外部刺激に徹することと、神経発達を理解することは重なり合います。
ですから、エピソードで終わってはならないのです。
なぜ、夏休み、思いっきり遊んだ子が伸びるのか、それが説明できる必要があるのです。




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2020年8月31日月曜日

【No.1096】代替という視点

「自閉症=視覚支援」というのは、「自閉症の人達は視覚優位だから」という話から来ています。
海外の当事者の人が「私達はビジュアルラーナー(視覚的に学ぶ人)」と著書の中で述べたことも影響していたでしょうし、自閉症支援の歴史を辿れば、初期は言葉の遅れ、知的障害がある子が中心で、その子達に言葉を主とした検査では本当の能力が発揮できない、だから、音声言語を用いない検査を、彼らには言葉ではなく、絵や文字で伝えよう、という具合に、自然と「自閉症=視覚支援」になっていったといえます。
私も学生時代から施設職員時代にかけて、一貫してそのように教わりました。


もう10年以上前になりますが、ある親御さんからこんな相談を受けました。
「うちの子、検査したら、視覚優位じゃなくて、聴覚優位って出たんだけど、このまま視覚支援をしたほうが良いの?」と。
その子は、何年も前に「自閉症」という診断を受けていました。
ですから、検査者は困ったそうです。
「自閉症なのに、視覚優位って結果が出ない…」
親御さんは、その辺りを検査者に尋ねたのですが、検査者はごにょごにょ。
他の支援者に尋ねたら、「それは検査者のやり方が悪かっただけ」「もしかしたら、自閉症じゃないんじゃない(笑)」などと言われたとのことでした。
それで私のところに相談があったわけです。


基本的に私は、形式的な検査自体、ほとんど信用していませんが(笑)、実際にお子さんを見たところ、やっぱり聴覚からの情報処理が優れていました。
ですから、視覚支援にこだわることなく、本人がわかりやすくて、学びやすい方法である聴覚からの情報提供、いわば、普通の子に教えるように言葉を中心にしていった方が良いとアドバイスしました。
その後、あまり得意ではない視覚支援、スケジュールとか、視覚的な教示とか、その子にとってはメンドクサイ手数が減り、勉強がはかどっていったそうです。
まあ、今から考えれば、宗教に近い、いや、伝説のような「自閉症=視覚優位・支援」という時代があったわけです。


最初に視覚支援云々と言われたのが、1970年代です。
そこから半世紀が経ちました。
未だに「自閉症=視覚優位・支援」と言っていたら、笑われてしまいます。
2020年を生きる私達は、視覚優位に見えていたのは、聴覚の発達の遅れの裏返しであり、その聴覚の遅れは三半規管の未発達と繋がっていることもわかっています。
視覚優位も、神経発達の表れ方のバリエーションの一つ。


アセスメントとは、固定化された自閉症像に子どもを合わせるのではなく、神経発達の表れ方を確認することを言います。
その表れ方は、ぴょんと突然変異的に現れるのではなく、受精した瞬間からの発達の流れの中で生じるのです。
ですから、どことどこが繋がっているか、どういった流れで生じているかを掴むことが重要になります。
視覚を優位に働かせた裏側には、周囲の環境の中からの情報を得るために必要なもう一つの感覚である聴覚が働かない、という理由があるように。
耳から情報を得られないからこそ、視覚に頼らざるを得ない。


子ども達の言動を見ていますと、"だましだまし"が見えてきます。
ハイハイを飛ばした子が、頭の中で「右・左・右・左」と言って走っている。
前庭覚が育っていない子が、目に頼って、不安定な道を歩いている。
嗅覚が育っていな子が、口周辺の感覚を過敏にさせ、危険の察知をしようとしている。
このように別の感覚を鋭くさせたり、無意識でやるところを意識させてやったりして、だましだまし行動している姿がみられます。


子ども達の"だましだまし"には、動物としての原形と美しさが表れていると思います。
ある機能が働かないのなら、別の機能で補おう。
そこに神経発達のたくましさと意思を、そして生き抜くための代替手段を編み出す生命力を感じます。


子どもたち自身で、動く機能を使って、どうにか活動しよう、課題をクリアしようとする姿。
その姿に気が付くことが、周囲の大人、特に発達に関わる者に求められます。
昔は、「過敏性は自閉症の特性」「ぎこちない動きは自閉症だから」と言われていました。
でも、今は違います。
ある感覚を鋭敏にする裏には、本来機能しているはずのものが機能できていない状態があるのです。
もし彼らがぎこちない動きを選択しなければ、家から一歩も出ることができないかもしれません、机に座って学ぶことを始められないかもしれません。
彼らは、どうにか未発達の動きを別の動きでカバーしながら、学校に行き、学ぼうとしているのです、社会の中で生きようとしているのです。
その意味を感じとれなければ、発達援助に携わる資格はないのです。


子ども達の感覚の偏り、ぎこちない動きには、必ずトレードオフの関係になっている感覚・機能・動きがあるはずです。
そしてそこが育て直しの必要な箇所。
子ども達の姿、言動を見るとき、代替という視点と、手持ちの札で乗り越えようとする力強さを感じてほしいと思います。
これもまたアセスメントの幅を広げるコツの一つです。




2020年8月28日金曜日

【No.1095】生き抜くための自立、社会の中で生きるための自立

当事者会や親の会に、居場所や情報を求めて来ている人たちが大部分だといえます。
しかし中には、役割を求めて来ている人たちもいるように感じます。
できるかできないかは別として、代表や広報、会計などを引き受けた人というのは、なんだか活き活きとしている。
そんな姿を見て、これも代償行動であり、自己治療なんだと思います。


今はほとんど依頼はありませんが、ひきこもりの人達の相談を受けていた時期があります。
家庭に伺うと、みなさん、必ずこう言います。
「衣食住、すべて息子(娘)のためにやってあげている。本人の生活は満たされているはずなのに…」
この認識が大きな間違いと言うか、本人とのズレなんですね。


物理的な生活を満たすことは、親御さんにとって大事な役割でもあります。
でも、それは子ども時代という期間限定の話。
そこだけ満たされていたら「私、満足」というのは、幼い子であって、幼稚園や保育園に入る頃には、頼まれたことを行う、自分以外の人のために何かを行う、お母さんの真似をして家のことをやってみる、といった行動を通して内面的な満足を得ようとするものです。
そういった体験の積み重ねが、家族の中の自分、幼稚園の中での自分、学校の中、地域の中、そして社会の中の自分という実感を育てていきます。
子ども時代のお手伝いは、社会に出る準備なんですね。


ひきこもりの人とお話をすると、発達の偏りを持っていると感じることも多くあります。
でも、そこが根っこではありません。
彼らからひしひしと伝わってくるのは、「生きている実感がない」という訴えです。
「確かに親から援助を受け、不自由なく生活できているけれども、生きづらい」
その"生きづらい"という彼らの言葉に、どうしても発達障害という言葉をくっつけたくなる。
しかし、彼らは発達障害である以前に、ヒトです。
それも社会的な動物としてのヒト。
親御さんの中には、「親意外に話す人がいないのが良くないのかも」「友達がいないのが…」などと言われる人もいますが、それもまた根っこではありません。
親御さんは知らなくても、彼らにはSNSの世界でつながっている人たちがいるからです。


生きている実感の根っこは、前庭覚であり、固有受容覚。
つまり、重力との付き合い方ができることが、生きている実感の始まりになるのです。
その一方で、社会的な役割という部分も、生きている実感に大きな影響を与えます。
長年、ひきこもりをしている人で、このどちらにも課題がある人がいました。
ですから、まずは役割の部分で提案しました。
「今できる動き、身体のパワーで、家のことをやってみましょう」
内容は子どものお手伝いみたいなものではありましたが、毎日、続けていく中で、少しずつ変わっていきました。
そんな彼がある日私に、「親も年をとってきたから、自分が頑張らないといけない」と言ったのです。
彼の言葉に、生きている実感を得た喜びを私は感じました。


こういった仕事をしていますと、神経の発達に注目が集まっている昨今ですと、あまりこういった内面の発達について訊かれることがありません。
もちろん、すべてのベースである身体、神経の発達があっての愛着であり、内面の発達ではありますが、発達相談では神経発達のアセスメントと同じくらい、愛着、内面の発達についても私は注目しています。
どんな簡単なことであっても、大人がやった方が何百倍も早いことであっても、お手伝いをしている、役割がある、ということは将来の自立にとって重要だといえるのです。


神経発達、身体の育ちは、動物としてのヒトの自立へとつながります。
一方でヒトは、社会的な動物でもありますので、社会生活を営むという意味での自立もあります。
生き抜くための自立と社会の中で生きるための自立。
その両輪がグルグル回るようになって、自分の人生を「ああ、今日も私は生きている」と感じながら進むことができる。
物理的な生活が満たされても満足感を得られないのは、動物の中において私達ホモサピエンスだけだといえるでしょう。
いわゆる社会性とは、神経発達を通って、家庭でのお手伝いに芽を出すのです。




2020年8月27日木曜日

【No.1094】自らを助ける会

この前、ある人と話をしていて、どうして全国どこでも親の会や当事者会があるのだろう、という話題になりました。
まあ、一言で言えば、標準治療が治せないから(笑)
治せたら、そこで問題が解決したら、わざわざ自分たちで集まる必要はないでしょ。
それこそ、自助会なんて言われるくらいですから、いろんな会は「自分を救えるものは、自分しかいない」という決意表明のようなものです。


時々、親の会や当事者会の代表やアドバイザーに、専門家、支援者の名前があることがあります。
これは、どういうことだろうか、といつも疑問に思うのです。
本業である本人の課題を解決するがままならないから、当事者の人達は当事者の会を起ち上げる。
でも、当事者同士だとトラブルが起きる、その解決が自分たちでは難しいことがある。
だから、地域の専門家、支援者をメンバーに入れる。
優しく言っても意味不明です。
100歩譲って専門家が入っているのなら、当事者会から卒業していく人が出なければなりません。


当事者会、親の会が居場所であり、共感し合える場所として機能しているのが本来の姿なのかもしれません。
しかし、それに対しても、私は悲しみを感じます。
同じ悩みを持った同士の集合体だからです。
悲しみの共感は、次の一歩、より良い未来への変化にはつながりません。
人は頑張ったこと、達成感のあることなどのポジティブな共感に対して、自らの原動力へと変え、変わるきっかにすることができるのです。
以前、いくつかの会のアドバイザーに、というお話をもらったことがありますが、陰の雰囲気が漂っていたので、いずれも断った経緯があります。


結局のところ、自分を助けるものは、自分しかいないのだと思います。
たとえ同じ診断名だったとしても、その原因は一人ひとり異なっています。
ですから、本当の意味での共感は得られないのです。
共感という名の幻想にすがっているのです。
じゃあ、何故、そういった幻想にすがるかと言えば、専門家、支援者が役に立たないから。
今なら1歳、2歳で診断名をつけるのに、一向に本人たちの課題解決、幸せ、将来の選択肢の広がりへと繋がっていきません。
それは入り口と出口が決まっているため。


日本の制度では、医療が入り口になっています。
そして診断名が付くのが、幼児期だろうが、就学後だろうが、成人した後だろうが、出口は支援を受けながらの自立(?)です。
つまり、支援云々は出口までの道のりで見える景色の違いみたいなもので、制度上は自分で働き、自分で生活を維持する、ということは想定されていないのです。
その悪しき根源が、『治らない』という言葉。


理由は問わない診断をしておきながら、なぜか、みんながみんな、「治らない」ということになってしまう。
近頃、私は「自閉症」という存在すら幻想なのではないか、と思うのです。
目の前にいる人は、一人の人間である。
違いがあるとすれば、発達のパターンとその表れ方ではないか。
脳の欠損自体を障害と言うのなら、そこは治らないのかもしれません。
でも、発達パターンの違い、表現の違いだとしたら、それは治る、治らないとは別次元の話になります。


今現れている症状、課題には、必ず背景、理由があります。
突然、ポッと現れるものではないのです。
しかし現在の「自閉症」「知的障害」「ADHD」などの言葉には、この雰囲気が漂っています。
ポッと現れたものだから仕方がない。
仕方がないから、支援を受けながらの自立だ。
でも、本人の内側にある苦しさは解決しないままだから、せめても共感し合える仲間を求める。
本来、求めるものは、問題解決に導いてくれる専門家なはずです。


「自閉症は脳の機能障害」というのはフィクションです。
「治らない」もフィクション。
数十年前の専門家が、「たぶん、そうだろう」とエビデンスもないまま、その証拠も示せないまま、言ったことなのですから。
そのようなものに、自分の人生、我が子の未来を委ねて良いのでしょうか。
発達も、神経も、その人の内側にあるその人だけのものなのですから、自らを救うべく歩んでいってもらいたいと思います。
試行錯誤しながらも、失敗して立ち止まりながらも、前に進んでいく中に、生きている実感、自分の人生を歩んでいるという実感があるのですから。
自分の人生と可能性を他人に渡してはいけません。




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9月13日(日)zoom講座『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』の参加受付が始まりました→詳細・お申し込み方法はこちら


2020年8月26日水曜日

【No.1093】生きている実感を得るために、自らを育てようともがいている

まずは業務連絡から。
先週末、九州でお会いした皆様。
今朝、郵便局より報告書を郵送いたしました。
コロナの影響で、通常よりも3~4日、遅れるとのことです。
もうしばらくお待ちくださいませ。


ということで、先週末は九州に出張していました。
九州の匂いというのでしょうか。
外を歩くと、北海道とは異なる植物、田んぼ、花や木々の匂いが、子ども時代、私が確実に「ここにいた」という実感を持たせてくれます。
そしてまた、自分の意思と決断、選択により、こうやって自由に行きたいところに行き、やりたい仕事を行うことができている。
これも私の中で「今、私は生きている」という実感を得ることに繋がっているのだと思います。


発達相談において、この実感も、大事なアセスメントの視点になります。
常時動きまわっている子、ピョンピョン跳ねている子、クルクル回っている子、大きな声を出している子、唸っている子、他人にとにかくぶつかっていこうとする子。
こういったお子さん達を見て、専門家は「それがADHDだから」「それがASDだから」というかもしれません。
しかし、それは表面的な話であって、子ども達の内面を捉えたものではありません。
子ども達の行動には、必ず目的、意図があるものです。
こういった行動の背景には、子ども達自ら発達させよう、育てようとする目的を感じます。
そしてその目的へと向かわせる内なるエネルギーとは、「今、私はここにいる」という実感を得るためなんだと思うのです。


発達のヌケが埋まり、感覚や身体が育ってくると、「自分がいることがわかった気がします」というようなことを言う人たちがいます。
彼らは学生だったり、社会人だったりするのですが、そんな彼らでも自分という実感が乏しかったことが分かります。
前庭感覚や固有受容覚が育っていなければ、動くことで感じる自分がわかりません。
身体の軸が育っていなければ、自分が空間のどこにいて、何が好きで嫌いかがわかりません。


自分という存在がはっきりして初めて、目の前にいるあなたのことも、実感を持って感じることができる。
自分という存在がはっきりして初めて、実社会の中に出ていくことができる。
ですから、神経発達症を持つ人達の中には、他人との関係を築くことが難しかったり、外部との関係を持とうとしなかったり、はたまた一部の人や情報、環境に大きく影響を受けたりするのだといえます。
そういう意味では、神経発達症の人たちは支援との相性が良いのです。
自分が乏しい→支援に寄りかかる→自分が育たない→支援に依存する…。
こうやって支援者にとっては、コントロールしやすい利用者が作られていく。
いくら支援を受けても自立できないのは、自己が育っていかないからです。
「失敗させない支援」など、お膳立てされた生活の中に、生きている実感が入る余地はありません。
いろんな成功や失敗を体験することで、人は「今、私は生きている」という実感を得ることができるのです。


発達相談でお子さんを見たとき、どのくらいの実感が得られているかを感じとります。
そこから、どのくらい発達のヌケ、遅れがあるかがわかるからです。
多くのヌケがある子は、他人に気づかず、自分だけの世界の中にくるまっている感じがします。
次の段階は、世の中をテレビを観ているように見ている子。
周りの存在に気がついているんだけれども、そこに登場人物としての自分がいません。
その次の段階は、関わりがあると反応する子。
そして、自ら対象に近づいていく子→一方的な関わりをする子→相手の反応を受け止められる子というように進んでいきます。
その発達の進み具合は、神経発達のヌケ、未発達の育ちとリンクしているように感じます。
身体&感覚の発達があっての社会性なので、社会性はSSTなどで教えるものではなく、育つものなのです。


発達援助、身体アプローチは、単に本人のラクを生むためのものではありません。
身体という土台の発達は、自分という実感を得ることに繋がります。
自分があって初めて他人の存在に気が付くことができる。
その他人との関係性を築くことができる。
最初の他人が家族であるように、家族・家庭こそが最初の社会です。
最初の社会の中で、しっかり育ち、育むことが、次なる社会に出ていくための準備になりますし、それが将来の自立と主体的な人生へとつながっていきます。


「生きている実感を得るために、自らを育てようともがいている」
そういった雰囲気を感じられると、共に暮らす我が子の姿に、自らの子育てに奥行と幅が出るような気がします。




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9月13日(日)zoom講座『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』の参加受付が始まりました→詳細・お申し込み方法はこちら


2020年8月20日木曜日

9月13日(日)『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』zoom講座

昨日、このブログでも紹介した『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』zoom講座の参加申し込みが開始しました。
お申し込み先、また講座の詳細につきましては、企画・主催をしてくださる花風社の浅見さんのブログをご覧ください。


今回、私が対談させていただくお相手は、6月に函館で開催する予定でしたコンディショニング講座での講師をお願いしていました『からだ指導室 あんじん』主宰の栗本啓司さんです。
6月の特別講座のご案内でも紹介させていただいた通り、全国各地を飛び回り、老若男女、障害の有無を問わず、一人ひとりの身体に合わせたコンディショニングの指導をされている方です。
現在、日本にいる治せる実践家のお一人です。


そして栗本さんと私の対談をより分かりやすく、また深めていただくのが、編集者さんであり、花風社を設立し、長年、発達障害の人たちとその人たちと関わる専門家と共に仕事をされてきた浅見淳子さんです。
通称赤本『自閉っ子、こういう風にできています!』(2004年)は、多くのご家庭の本棚にあると思います。
赤本から一貫して自閉っ子達がラクになる方法を探し、また彼らが社会の中で自由に、そして資質を活かしながら生きていけることを願いながら、多くの書籍を世の中に送りだしてくださいました。
正直、私もまだ明確に言語化できていない部分もありますので、その辺りも含めて、言葉のプロフェッショナルである浅見さんに対談をより良いものへと導いていただきたいと思っております。


講座の形式がzoomを使用したものになっていますが、スマホでも簡単に観ることができます。
また主催者さんの工夫により、当日、参加できない人向けに、後日録画を観る方法も用意されています。
ご興味ある方は、是非、お申し込みくださいませ。
どうぞよろしくお願い致します!


2020年8月19日水曜日

【No.1092】治り方の選択の時代に生まれた新たなニーズ

世の中には、治せる実践家の人がいます。
その場でトラウマを処理することができたり、発達のヌケを見抜いて、そこを育て直す施術をすることができたり、短い時間でのセッションによって参加者の表情・身体をガラッと変えることができたり…。
そういった治せる実践家の人たちの姿を見るたびに、私も同じように、そのとき、その場で治せるようなスキルを身に付けたいと思っていました。


しかしあるとき、ふと思ったのです。
幸運にも、同じ時代に治せる実践家の人たちがいる。
だったら、そこはその実践家の人たちにお任せして、私自身は違う道で神経発達症の子ども達が治るお手伝いをするべきではないか、と。


そもそもが選択肢を作ることを目的とした起業でもありました。
発達に遅れがみられれば、どの子も同じ病院に行き、同じような診断名を受け、同じような療育を受ける。
療育を受けたからといって何かが劇的に変わることはなく、みんな揃って特別支援教育の世界に入り、12年後にもみんな揃って福祉の世界に入っていく。


無料で食事はできるけれども、いつものり弁。
たまに、漬物がついたり、タマゴがついたり、昆布がのったりするけれども、のり弁はのり弁。
「無料だから、いいだろう」なんて言って、のり弁を配る支援者に文句も言えず、他のメニューがあることも知らずに、黙々と食べ続ける姿。
私が当地で見てきた障害を持った子ども達を取り巻く環境は、このようなイメージでした。
誰一人満足はしていないけれども、冷え切ったのり弁を食べているような感じ。
だからこそ、自分には何ができるかはわかりませんでしたが、「のり弁以外もあるよ」「カレーも食べれますよ」と、選択肢の一つになることを目標にしました。


お蔭さまで全国各地に呼んでいただけることが増えましたが、まだまだ各地域には選択肢がない状態が続いています。
のり弁が好きで食べているのなら、何も言うことはありません。
でも、のり弁しか知らず、それを食べているのだったら、残念なことです。
「脳の機能障害」「生まれつきの障害」「治らない」
これは一つの見解であり、過去に信じられていたものです。
今は脳ではなく、神経の問題、それも神経同士の繋がりの問題が常識になっています。
神経の問題なら、刺激や環境、運動によって神経ネットワークが変化します。
ですから、「治らない→支援と療育」ではなく、「治る→身体アプローチ」「治る→栄養」「治る→遊び」という治り方、子育ての仕方の話になったのです。


「治るか、治らないか」の選択ではなく、治り方の選択の時代。
そのような時代において、今、子育てをされている親御さん達には新たなニーズが生まれたと思います。
それは『治り方の選び方』。
つまり、我が子にどの治り方、子育ての仕方、アプローチの仕方が良いのか、望ましいのかを判断するという点で悩みが生じていると思います。
みんな治らず、地域にも選択肢がない状態ですと、そのような悩みを持つ必要はなかった。
治るからこそ、治り方を選ぶために必要な我が子の状態、発達を見る目、確認する力が必要になっているといえるのです。


子どもの状態、発達とは、ひと時も同じことはありません。
日々、神経発達は変化しますので、今日行ったアセスメントが1ヶ月後にも役立つとはいえないのです。
日々の生活の中で、タイムリーにアセスメントすることが、より適切な治り方を選ぶために有効だといえます。
子育ても、発達援助も、その子一人のためのオーダーメイドでなければなりません。


治せない私だからこそ、アセスメントの道で、親御さん達の"治す"を後押ししようと考えました。
私の発達相談を受けても、その場で子どもさんが変化することはありません。
でも、親御さんの子どもを見る目、アセスメントの力が深まれば、同じ子どもさんだけれども、違った側面、姿が見えてくるものです。
子ども達の行動、遊びには、必ず意味があるものです。
その意味の多くは、自分自身に必要な発達を遂げようというもの。
日々の生活の中で、子ども達が今、何を育てたがっているのかがわかれば、何をしたらよいのだろうと悩んだり、「あれもこれもしなきゃ」と焦ったりすることが減ると思います。
私が目指すアセスメントとは、今、子どもが育てたい発達課題を知るための視点です。


このたび、大変ありがたいことに、花風社の浅見さんに栗本さんと対談させていただく機会を作って頂きました。
テーマは、『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』です。
まさに私が追求してきた内容であり、全国各地でご活躍されている治せる実践家の栗本さんに、私の見解を問い、深めていただきたいと思っております。
そして深めていただいた見解を、参加される皆様と一緒に共有できたら嬉しいです。


日時は9月13日(日)13時半から15時半くらいまでの予定です。
花風社さんで本を注文されたことがある方には、今朝、講演会のお知らせが届いたと思います。
今後、それ以外の方の参加申し込みの案内もあると思います。
その際は、このブログでも改めて紹介させていただきますので、どうぞ、よろしくお願い致します。
この企画の意図を書いてくださった花風社さんのブログは、こちらです。




2020年8月18日火曜日

【No.1091】「感覚が育っていない」とは?

親御さんからのご質問の中に、「感覚が育っていないという、その"育っていない"の意味が分からないんです」というものがあります。
例えば、目が見えないのでしたら、視覚情報が入ってきませんので、「目が育っていない」というのはイメージできると思います。
しかし、神経発達症の子ども達は、機能としての感覚器は正常に働いています。


音が鳴れば、そちらを向くことがあるし、好きなワードが聞こえたら、すぐに反応する。
だから、まったく音が聞こえていないわけではないけれども、呼びかけてもこちらを向かない、言葉の理解が積み上がっていかない。
テレビは集中して見ていて、登場するキャラクターの名前を知っている。
だから対象の違いはわかるはずなんだけれども、周囲の人の区別ができない、相手の目を見ることがない。
このような姿は、発達障害に関する書籍やネットの情報などに、よく登場します。


感覚器は機能しているのに、それが認知できていない。
それこそ10年以上前は、『脳の機能障害』と言われていましたので、感覚器で受け取った刺激を脳で処理することができない、つまり、脳の機能的な問題であり、問題が脳なのだから、どうしようもない、という結論で支援が展開されていました。
だからどの子も、音や視覚刺激が統制された環境の中へと誘導されて行きました。


しかし今は違います。
脳の機能の問題ではなく、神経発達の問題、もっといえば、神経同士の繋がりの問題だということがわかったのです。
感覚器も、脳も問題がない。
課題があるとすれば、感覚器と脳をつなぐ神経ネットワーク。
そういった視点で子ども達の姿を見れば、彼らに必要なのは、身体で受け取った刺激をちゃんと脳まで届けることであり、脳からの指令を身体へと送る作業だといえます。


胎児期からすでに、視覚や聴覚、触覚、嗅覚、味覚、固有受容覚、前庭覚が機能しています。
誕生後すぐの赤ちゃんでも音や匂い、口や手にモノが触れた感覚がわかっています。
でも、赤ちゃんには、その刺激が何かという認知はできていませんし、刺激に対し、自分の意思で適切に身体を動かすことはできません。
じゃあ、どうやって感覚器と脳を繋げていくのか、神経ネットワークを築いていくのかと言えば、遊びです。


子どもの遊びには、快の感情が伴うものです。
「楽しい」「ワクワクする」
そういった感情は、子どもの内側に意識を生みます。
意識がある、別の言い方をすれば、主体性があるとき、身体で受け取った刺激はただ流れていくのではなく、はっきりとした形で脳へと届けられます。
楽しいときに感じた刺激が『認知』を形成するのだと思います。
海の匂いを嗅ぐと、家族で行った海水浴を思い出す。
これは匂いという感覚刺激と快の感情が結びつき、さらに私の楽しい思い出という認知と繋がっているのでしょう。


2学期が始まると、ガラッと変わる子がいたり、学習の面で大きな伸びを見せる子がいます。
そういった子ども達は、夏を楽しんだ子ども達です。
身体と五感をフルに使い、自然の中で思いっきり遊んだ子ども達。
刺激⇔快の感情⇔認知のネットワークが作られていき、結果的に認知、知能の面で大きな成長に繋がったのだと考えられます。
同じように、就学前の子ども達も、思いっきり遊べるようになると、感覚や情緒だけではなく、認知の面でも伸びていきます。
ですから、就学前の子ども達は遊びこそが発達であり、発達援助とは、子どもが思いっきり遊べるように育てることだといえます。
神経発達症の子ども達に必要なのは、神経のネットワークづくりなのです。


感覚が育っていない子は、IQが伸びる可能性が高い子だといえます。
「IQは変わらない。伸びるどころか下がる一方だ」
そんなことを言う支援者がまだいます。
でも、そういった支援者は、脳なら脳だけを、感覚なら感覚だけを、なんなら数値や障害名だけを見ている人です。
発達相談において、検査結果等を見せてもらうことがありますが、それが固定化されたものか、たまたま今の状態を切り取ったものかはすぐにわかりますし、今後どのくらい数値が伸びるかもわかります。


未発達がたくさんあって軽度なら、本来は優秀なお子さんです。
未発達がたくさんあって中度なら定型の範囲に入る可能性は十分にあります。
未発達がたくさんある重度の子だって、未発達の多さと知的の重さがリンクしているようだったら、中度、軽度というように育っていく可能性があるといえます。
少なからず、未発達がある子の検査結果は、将来の姿を表したものではありません。
話が逸れてしまいますが、検査結果、数値とは今の状態を知るためのものであり、過去の数値と今回の数値を比べて、どのくらい伸びたかを知るものです。
決して、何かを決めたり、諦めたりするものではないのです。


「実りの秋」とは、子ども達の発達に関してもいえることです。
夏に思いっきり遊んだ子が、秋に大きな成長、変化を見せます。
SNSやメールを見る限り、今年もたくさんの子ども達、ご家庭で「実りの秋」を迎えそうだと感じました。
私は今から秋が楽しみです。(でも、2020年の夏はまだ終わっちゃいない!)




2020年8月17日月曜日

大阪出張のご案内(9月21~23日)

 すべての訪問予定が決まりました!受付を終了いたします。


昨日、大阪にお住まいのご家族から正式な依頼を受けました。

いつもでしたら3泊4日で出張するのですが、今回は2泊3日になります。

9月21日(月・祝)と22日(火・祝)の午前中は予定が決まっておりまして、22日の午後でしたら、ひと家族、予定を入れることができます。

もし9月22日(火・祝)の午後、発達相談を希望されるご家族がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。

2020年の関西出張は今回で3回目になりますし、7月に行ったばかりですので、ニーズはないような気もしますが…、ご依頼をお待ちしております!


お問い合わせ先→てらっこ塾HP

現在の空き情報:9月22日(火・祝)の午後→予定が決まりました(8/24 9:00)



2020年8月13日木曜日

【No.1090】理由を問わない診断

先日、伺ったご家庭では、親御さんが「うちの子、目が合わないんです」と心配されていました。
実際に確認しますと、確かに目が合わない。
まあ、目が合わないというよりも、私の目を見ているようなんだけど、見ていない感じってところでしょうか。


他の親御さんと同じように、スマホの検索画面に「目が合わない 幼児」と打ち込んだそうで、するとすぐに「自閉症」「発達障害」という結果が表れます。
今はご丁寧に、広告料を払っている療育機関なども一緒に表示されます。
すると、親御さんはビックリするわけです。
「うちの子は自閉症かもしれない」
そうなると、次からは「自閉症の特徴」「自閉症の育て方」「自閉症の進路」「自閉症の将来」など、自閉症についての検索が始まるのです。
「ああ、これはうちの子にも当てはまるかもしれない」
「じゃあ、普通の学校は難しいかもしれない」
「早く診断を受けて、早く療育とやらを受けなきゃならない」
そうやって知らず知らずのうちに、特別支援の世界に迷い込んでしまう。


自閉症のお子さんで目が合わない子がいます。
しかし、「目が合わないから自閉症」ではありません。
目が合わない理由は、たくさんあるのです。
ハイハイを飛ばしたり、肩甲骨の動きが育っていなかったりすると、立体視が育たず、結果的に目が合いづらくなります。
ヒトも動物なので、奥行きのある自然の中で目そのものを育てていくのですが、今のように家ばかりにいると、目を育てる機会が乏しくなり、焦点が合いづらくなる場合もあります。
同じように、幼少期からメディア視聴の時間が長くなると、狭い範囲でしか目を動かさず、また二次元ばかり見ていることになるので、見る力が育ちません。
身体の軸が育っていなくて目を寄せることができなかったり、身体の大きな動きが育っていないことで、目の動きという小さな動きの育ちが滞っている場合もあります。
あとは、目の育ちと言うよりも、周囲の人に気がついていない=自己の未確立もあり、その背景には感覚系の遅れも考えられます。
このように「目が合わない」という姿には、多くの理由が考えられるのです。


さらに「目が合わない」というのが今だけのことなのか、それとも今後も長く続くことなのか、で意味が大きく異なります。
以前、1歳代のお子さんで「目が合わない」と心配されていた親御さんがいらっしゃいましたが、私との発達相談が終わったあと、少しずつ目が合うようになったというお話がありました。
幼少期のお子さんの発達は、独立しているように見える発達同士が連動しているのが特徴です。
目自体をピンポイントで育てたわけじゃないのに、ほかの部分が育つと、それに引っ張られるようにして目が育つということもあります。
つまり、幼児さんは発達途中であり、未発達があるのは当然のことですから、一時的に目が合わなくても問題はありません。
問題があるとすれば、その発達課題が何年も、何十年もクリアされずに残り続けたときです。
ある一時期、特に小さなお子さんのひと場面を切りぬいて、「それが異常だ」というのはナンセンスなのです。


でも、このナンセンス状態なのが、こんにちの診断であり、特別支援だと言えます。
自閉症のお子さんの中には、目が合わない子がいるのは確かですが、目が合わないからといって、どの子も一色単に「自閉症ですね」「発達障害ですね」「じゃあ、治りませんね」とやっちゃうのが今の特別支援の世界なのです。
「目が合わない」だけじゃなくて、「こだわりがある」とか、「言葉の発達が遅れている」とか、「クルクル回る」とか、ただある自閉症の子に見られた行動が、あたかも自閉症全体に見られるように、またそれがあると自閉症になってしまうがごとく語られています。


元気いっぱいの幼児さんが、昔でいうやんちゃな子が、幼稚園や保育園、中には保健師からの指摘により通院し、そこでADHDという診断がつくなんてことも、頻繁に起きています。
未発達である幼児期の子どもさんを発達障害専門の病院に連れていけば、なんかしらの診断名が付くのは当たり前になっています。
理由は問わない発達障害の診断なのですから、未発達の子が行けば、みんな発達障害に当てはまってしまうのです。
親御さんとすれば、子どもの専門である人から言われたのだから、きっと子どものより良い育ちのために言ってくれたはずだから、といって無防備で受診すると、そこで療育を受けることが決まってしまう、精神科の薬を飲むことが決まってしまうなんてことが起きてしまいます。
最初はそんなつもりで言っていないのに、振り返れば、子の人生を左右させるような出来事になるなんてこともあるのです。


理由を問わない診断に、何かメリットがあるのでしょうか?
その診断があることで、子ども達がより良く育ち、家族もみんな、前向きに幸せな時間を過ごせるようになるのでしょうか。
「診断を受けてよかった」という人はいないでしょう。
いたとしても、それは診断という逃げ場を得たメリット、公的な補助が得られるというチケットを得たメリットというだけだといえます。
一方で、診断という逃げ場は、同世代と同じ学ぶ機会、体験する機会、働く機会を失います。
月にもらう数万円で、同世代が就職してもらう得る金額との差額を失います。
「我が子をより良く育てたい」という親御さんにとってはデメリットだらけ。
当事者会で「良かった」という本人、親の会で「良かった」という親御さん。
でも、その断片的な良かったのために、多くのものを失っているのです。


理由を問わない診断をいくら受けても、その子がより良く育つアイディアは生まれてきません。
子どもがより良く育つには、その行動、課題となっているものの背景、理由が分からなくてはなりません。
なぜ、目が合わないのか、目が合わないことで、今後、どんな不都合があるのか。
そういった部分が明らかになることで、子育ての方向性とアイディアが見えてくるのです。


時々、「療育に行ったから、うちの子は成長できた」という親御さんもいます。
でも、それも理由を問わない診断と同じです。
発達期にある子どもは、みんな、ほっといても発達するし、成長をします。
もし療育に行ったから伸びたというのなら、行かない時間、行かない子どもは、まったく発達・成長しないことになります。
しかし実際は、家庭でも伸びる。
というか、家庭のほうが伸びる。
というか、自然の中で自由に遊ぶ機会があれば、子は十分に育つ。
それは、今年の4月・5月・6月を体験した私達ならよくわかります。
学校がなくても、療育機関に行かなくても、子は伸びた。
療育機関で伸びたというのなら、家庭生活で過ごしたときの何倍もの早さで伸びたと言わなければ、正しいとはいえません。
結局、入り口が理由を問わない診断なのですから、理由が分からず、ただ診断名だけで療育をしようとしても伸びるわけがありません。


「うちの子は自閉症だから」という親御さん、支援者というのは、育てることを諦めてしまったようにもみえます。
子どもをより良く育てるには、まずは子どものことを知らなければなりません。
それ「自閉症だ」「ADHDだ」「LDだ」なんて言ったって、それは子どものことを知ったことにはならないのです。
子どもの行動の背景を知ることが、子どものことをよく見ることであり、子どもをより良く育てるための一歩ではないでしょうか。
診断名にとらわれている人の目には、子どもの目が入っていないのだと思います。




2020年8月6日木曜日

【No.1089】障害の程度、あるなしよりも、対処できるかどうか

家族や本人から、いろんな困ったことを相談されます。
年齢も様々、課題も様々。
一人として同じ悩みはありません。
そんなこと、わざわざ文字にする必要もないくらい当たり前の事実なのですが、意外に勘違いされている人が多いように感じます。
悩みの数だけ対処法があるはずなのに、原因が一緒、アイディアが一緒。


何かトラブルが起きると、すぐに「自閉症だから」「発達障害があるから」と言いがちですし、思いがちです。
しかしトラブルの詳細を聞けば、なにも発達障害がある人だけに起きる問題ではないことがわかります。
それは発達障害ゆえに起きたトラブルではなく、同年代の子なら起きることがあるよね、一般的に出くわすトラブルだよね、っていう感じです。


自閉症の人ばかりに困難があり、一般の人には困難が少ない、というのは真実ではありません。
生きていれば、面白くないことも、辛いことも起きるものです。
じゃあ、なんで自閉症の人ばかり「生きづらい」と言い続けているのでしょうか、発達障害を持つ子の親御さんが「大変だ大変だ」と言っているのでしょうか。


それは「対処」の違いだと思います。
トラブルが起きたとき、困難な状況と出くわしたとき、「どうするか?」で違いが大きいのだと思います。
自閉症の人達は、情報が抜け落ちたり、情報を誤って捉えたりすることが多くあります。
そのため、次の対処の段階で失敗することが多い。
それが小さいときからずっと続くもんだから、失敗の上に失敗が積み重なっていき、最後には身動きがとれなくなる。
その「動くんだけれども、うまくいかない」「やってもやっても失敗する」が、本人たちの「生きづらい」という訴えの中に滲み出ているように感じるのです。


こんなことを言うと、「じゃあ、特別支援の世界で言われている『失敗させない子育て・支援』が正しいのではないか」と言われそうですが、それこそが彼らの「生きづらさ」を助長させている要因だといえます。
大事なことは失敗を回避することではなく、失敗に対処できることです。
失敗したあと、どのように振る舞えるか、行動できるかが大事なのは、社会で生きる者として、いや、生き物として皆、同じ。


特別支援の方向性は、本人のスキルアップと周囲の支援によって、トラブルと出くわす機会を減らそうというものです。
だからいつになっても、自立できる人たちが育っていかない。
自立とは、トラブルを回避する技を身に付けることではなく、トラブルに対処できる力を養うことが必要です。
ある若者は、同級生との協働作業に悩んでいました。
ですから、一緒に対処法を考え、実行し、失敗しては試行錯誤しながら進んでいきました。
そうすると、あるときから協働作業ができるようになり、本人の顔もガラッと変わりました。
でも、この若者の自閉症という脳のタイプは、また発達のヌケは変わっていないのです。
失敗しながらも、試行錯誤して自分なりの対処法を身に付けた。
それが本人の悩みの解決につながったのだといえます。


トラブルが起きると、支援者は安易に自閉症や発達障害と結びつけようとします。
そして「自閉症や発達障害は治らないから、トラブルは仕方がない」となり、周囲の理解や支援、そもそもトラブルを生じさせないように転ばぬ先の杖で動こうとします。
結果的に、彼らは対処法を学ぶことができずに、自立が遠のいていく。
また生きていればトラブルをゼロにすることはできないのですから、何度も同じような失敗を繰り返し、そこで終わってしまうために「生きづらい」と叫ぶしかなくなってしまう。
本当に多いです、なんでもかんでも自閉症や発達障害のせいにする人達。
でも、因果関係が「失敗=自閉症」となっている限り、前に進むことはできません。


子育てで言えば、ちゃんと失敗できる身体に育てておくことが重要です。
自閉症や発達障害の子ども達に起きる失敗は、同年齢の子ども達も同じようにする失敗です。
繰り返しになりますが、違いは失敗が糧にならないことです。
つまり、失敗という情報をうまく捉えることができていないということ。
感覚が育っていなければ、情報・刺激の抜け落ちや誤った解釈が生じます。
当然、情報が抜ければ、正しい対処が身につかない。
ただ失敗しただけでおわってしまう。
同じように、身体や動きが育っていなければ、同年代の子が体験するような失敗すら味わうことができなくなってしまいます。
対処とは行動なので、身体が育っていることが必要です。
発達のヌケや遅れを育てるのは、単に本人がラクになったり、勉強ができるようになったりすることだけではなく、失敗に対処するという自立に必要なサバイバルスキルを身につけるためにも必要なのです。


失敗を自閉症や発達障害と結びつけている限り、なんの発展もありません。
私の感覚では、「自閉症ゆえに失敗した」なんてことは稀であって、ほとんどは対処の問題だと思います。
自閉症や発達障害が影響するのは、情報と刺激の受信のところであって、たとえ受信を間違えても、対処が適当なら問題は生じません。


特性やヌケは重いんだけれども、うまく自立できている人たちがいます。
そういった人達を見ると、対処が上手。
反対に、ずっと「生きづらい」と言っていて自立できない人達というのは、対処が下手だし、自分が対処すべきところを他人に肩代わりしてもらっています。


下手な対処をさせないのではなく、下手な対処をうまくするのが支援であり、成長するということ。
子どもの発達と自立を支援するとは、失敗を回避することではなく、子ども時代に存分に失敗できる身体を育て、環境を提供していくことだと私は考えています。




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【福岡出張に関して(8月21~23日)】

お蔭さまで8月23日(日)に訪問させていただくご家庭が決まりました。あとは、22日(土)のみになります。もし福岡県内のご家族の依頼がなければ、お問い合わせいただいている他県に伺っても良いかなとも思っています。もう少し福岡県内でのご依頼をお待ちしております。



2020年8月4日火曜日

【No.1088】特別支援によって救われた未来と、奪われた未来

件数は少ないものの、「うちの子が発達障害ではないことを確認してくれませんか」というような依頼が来ることがあります。
「発達のヌケを確認してほしい」「今後の子育てについて助言がほしい」
そのような依頼をされる親御さんと比べて、「ないことを…」という依頼をされる親御さんに障害受容がないというわけではありません。
親御さんは本能的に気がついているのです。
「うちの子は違う。だけれども…」


「だけれども」に続く言葉は、親御さんにその言葉を連想させてしまうのは、保健師さんだったり、保育士さんだったり、幼稚園・学校の先生だったりします。
今は少しでも何かあると、「発達障害では」と言う人が多いと感じます。
それも年々増えている印象を受けます。
でも、実際はその人が思う"疑い"であって、単に発達がゆっくりな子、単にその人の指導力が足りないだけということも少なくないと思います。


他人に指摘されるまで、我が子の発達の遅れ、自閉的な特性にまったく気づかない親御さんは、どのくらいいるのでしょうか。
「家では問題なく生活できている」
「今まで我が子の発達で気になったことがない」
そういった親御さんが、他人からの指摘や促しにより、病院に行く。
ドクターに、「家では問題なく生活できているのですが、園の先生から『一度、発達専門の病院で診てもらってください』と言われまして…」と告げると、園でのトラブルについて根掘り葉掘り訊かれる。
そして、発達障害という診断名が付き、療育・支援のレールの上にポンと置かれる。
平成の時代の教科書には、「自閉症の子は、場面が変わると混乱する。普段できていたことができなくなることがある」と記されていたので。


私はいつも不思議に思うのです。
家で問題なく生活できている子、今までの発達の中で気になるところがなかった子は、本当に発達障害といえるだろうか、と。
こういった場合、まず疑うのは発達障害ではなく、崩れている場所の環境ではないでしょうか。


ビックリするような話ですが、小学校1・2年生は普通級で問題なく勉強できていた子が、3年生になり、集中力や学力の低下、離席等の行動が見られるようになる。
すると、担任から「発達障害ではないですか」「特別支援担当の先生に一度」「病院で診てもらっては」などと言われる。
でも、その前に他の要因も確認する必要があると思います。
担任の指導力は?
級友との関係は?
心理的な変化はないだろうか?
前の担任に様子を訊いてみよう。
そういった確認をしたうえで、初めて「発達障害では?」という話になる。
でも、その場合だって、受診するかどうかは家族の話です。
何よりも本人に利するところがなければ、他人がとやかくいう話ではありません。
しかし「受診させなければ、そのまま支援級へということになります」などのプレッシャーをかけてくる学校もあり、気が付いたら診断名が付き、特別支援の世界に入っているご家族もいるのです。


こういった親御さんは、「受診すれば、うちの子には『発達障害はありませんよ』『自閉症ではありませんよ』と証明してくれると思っていました…」と言われます。
病院は診断名が付くことで、その診断名に従って治療方針を決め、治療を始めていく場所ですので、多くの場合、診断名が付きます。
ですから、受診すれば、なんらかの診断名が付く可能性が高いといえます。
そうなると、発達障害を疑った他人にお墨付きが与えられることになり、学校や園などでは、「そういった子」ということで体制が組まれていきます。


本来、子どもと関わる仕事をしている者は、その子がよりよく育つことを一番に考えるはずではないでしょうか。
学校の先生なら、診断のあるなしに関わらず、「この子がどうやって伸びていくか」を考え、試行錯誤しながら指導していくのが本来の姿だと言えます。
でも、その自分の指導力不足を棚に上げ、すぐに課題の理由を障害という言葉に置き換えてしまう。
幼稚園でも、保育園でも、なんだかすぐに特別支援の世界に丸投げしようとする姿が見えます。
「お子さんがかわいそうなんで…」と言いつつ、本当は自分がこういった子を担当して"かわいそうだから"と言っているようにも聞こえます。


「発達障害がないことを」という依頼をされる親御さんは、自分の感覚と他人からの指摘のギャップに苦しまれます。
自分の感覚を信じたいのに、その感覚を、そういった感覚を持つ親という存在までを否定され続ける。
それによって心身を病む親御さんもいます。
特別支援は、その子がよりよく育つために、より良い未来のためにある存在なのに、子どもの未来を奪い、学びの機会を奪い、挙句の果てに家族にまでネガティブな影響を与える。
特別支援によって救われた未来と、奪われた未来。
どちらが多いと言えば、私は後者のほうがまだまだ多いと感じます。


ちなみに、「発達障害がないことを」という依頼に対しては、発達障害がないことを確認しようとはしません。
反対に、全力で発達障害がある部分、自閉症やADHDなどの特性が現れている部分を見つけようとします。
そうやって全力でヌケや遅れ、特性の部分を見つけ出そうとし、見つけた部分が同年齢の子の発達と比べて大きく違うのは、定型発達のバリエーションの範囲に入るのかを確認していきます。
そうすると、本当に発達障害と呼ばれる状態なのかが見えてくるだけではなく、より良い子育ての方法が見えてくることがあります。
結局、必要なのは診断基準に当てはまるかどうかではなく、その子がよりよく育つアイディアです。
私は、子どもに関わる者が「目の前の子がよりよく育つには?」という問いに対する答えを自分自身で見つけようとしなくなったことが、こんにちの特別支援の混乱を招いていると考えています。




2020年8月3日月曜日

福岡出張のご案内(8月21日~23日)

あと20日もありませんが、急遽、福岡県に出張することが決まりました。
8月21日(金)の夕方に着く便で福岡に移動します。
今回、お声掛けくださったご家族への訪問が、8月23日(日)の午前中になっております。
もし今回の機会に、発達相談を希望される方がいらっしゃいましたら、てらっこ塾までご連絡ください(お問い合わせ&ご質問も)。
お待ちしております。


21日(金)は、17時以降、ご希望があれば承ります。
22日(土)は、一日、空いています。→午前、午後ともに訪問するご家庭が決定しました(8/11 13:00)
23日(日)は、午後、空いております。→午前、午後ともに訪問するご家庭が決定しました(8/4 15:00)






2020年7月31日金曜日

【No.1087】「自閉症」「発達障害」という言葉を使わずに

私が出張するときは、移動がありますので、午前ひと家族、午後は1~2家族という具合に行っています。
ですから、3日で15名の発達相談はさすがに大変でした。
同じ市内とはいえ、各家庭に訪問しますので、まさに分単位での移動。
決められた時間までにアセスメントをし、親御さんの悩みに答え、今後の方向性を提案する必要がありました。
しかし、こういった制限があるからこそ、それこそ無茶ぶりをしてくれたからこそ、突破できる何かがあると感じています。
ちなみに、報告書が完成し送付しましたので、後日、支援員さんから配布されると思います。


私は発達相談のとき、なるべく「自閉症」「発達障害」という言葉を使わないようにしています。
そういった言葉を使ってしまうと、下手くそになる気がするからです。
「自閉症が~」とか、「発達障害ですから…」などと言って説明を始めると、聞いているほうは、なんだか正しいことを言われている気がするものです。
私も若手のときは、講演会などで、事例研究などで、「Aさんには自閉症がありますから…」なんていう言葉を聞くと、それ以降の支援、対処法が正しいような気がしていました。
でも、詳しく聞くと、それはAさんへの支援ではなくて、自閉症の支援だったりするわけです。
Aさんじゃなくても、自閉症の人なら誰でも良いわけで、っていうか、その自閉症も、学生時代に習った、教科書に載っているような、それこそレインマンのイメージだったり…。


「自閉症」という言葉は、支援者を甘やかせる言葉です。
詳細を語らずとも、提示する支援、対処法へと、相手を誘導することができるからです。
しかし、重要なのは、その詳細なのです。
詳細に語るというのは、詳細にその子を見る必要があります。
やってみればわかるのですが、「自閉症」「発達障害」という言葉を使わずに、その子のことを説明しようとすると、支援者自身に負荷がかかります。
そしてその負荷から抜け出すには、支援者の言語力とアセスメント力がなければなりません。


支援者同様に、親御さんの中にも、「うちの子、自閉症で…」「発達障害があるから…」と枕詞のように使われる人がいます。
そういう人は、率直に言って、子どもさんのことが見えていません。
見ているのは子どもさんではなく、障害であり、障害児というその人の内側にあるイメージです。
発達相談で成育歴や現在の悩みをお聞きする際、何度も「自閉症の困り感ではなくて、お子さんの困り感を教えてください」ということがあります。
確かに、それは典型的な自閉症の人の困り感、特性ではあるけれども、その子自身のものを答えているのではありません。


「自閉症」も、「発達障害」も、いうならばイメージでしかありません。
そのイメージも、特定の姿があるわけではなく、各々がイメージする障害像です。
残念な支援者は、実生活での困り事をすべて「自閉症」という言葉で片づけている人もいます。
「自閉症だから」という言葉、説明は、自然な子どもの姿を見えなくする呪文です。


こんなことを考えるようになったのは、全国どこでも検査所見が「自閉症」「発達障害」という言葉で語られているのを知ってからです。
北から南まで、テンプレートがあるのかなと思うくらい検査所見には、イメージの中の自閉症者について語られていて、一向にその検査を受けた子どもの顔、姿が見えてこないのです。
「これだったら、検査をしなくても、検査所見が書けますね」というのは、私の持ちギャグにもなっています。


「自閉症だから視覚優位。よって視覚支援」
「自閉症だから見通しが持てない。よって、スケジュールの提示」
「自閉症だから言語理解が難しい。よって、言葉ではなく、見える形で伝える」
「自閉症だから新しい場所が苦手。変更が苦手…」
その最終形が、「自閉症だから治らない」という説明になるのだといえます。
なぜ、自閉症だと治らないのでしょう?
生涯支援を受け続けるのが決定事項なのでしょう?
100歩譲って自閉症は治らないかもしれないけれども、それだからといって我が子が治らないということにはならないと思いますがね。


支援者さんや先生から助言を求められるとき、私は「自閉症」「発達障害」という言葉を使わないことをお勧めしています。
この言葉を使わなくなるだけで、言葉が磨かれますし、子どもさんをしっかり見る目が養われて行きます。
これは親御さんが子どもさんをしっかり見るときも使えるアイディアだと思います。
短い夏休みが終わったあと、担任の先生との面談があったり、就学相談が始まったりすると思いますので、是非、この言葉を使わずに伝えることを意識してみてください。
きっと、もう一段研ぎ澄まされたアセスメントに、我が子のことを深く見て、知るきっかけになるはずです。




2020年7月21日火曜日

【No.1086】アセスメントは仮説力

親御さんからしばしば「子どものどこを見ているのですか?」というご質問を受けます。
他にも、「どういった順番で、子どもの発達を確認していけばいいのですか?」ということを尋ねられる方もいます。
「発達には順番がある」
「この課題は、ここの部分とつながっている」
そういった知識を持たれた親御さんが増えたからこその質問だと、私は感じています。


「発達には順序性と関係性があるのだから、支援者には決まったアセスメントの流れ、確認すべきポイントがあるのだろう」
そんな風に思われている親御さんもいるように感じます。
実際、私のアセスメントが始まりますと、「今、どこを確認したんですか?」「どこから見ているのですか?」「次は?」と質問される方もいます。
しかし、どこを最初に確認するかとか、ここを確認した後はここをとかはありません。


じゃあ、どういった流れでアセスメントをしているのか?
一言で言えば、雰囲気です。
「このお子さんは、身体から確認したほうが良いかな」
「認知や言語力かな」
「遊びから発達の状態を確認しようかな」
そんな風に、その子の雰囲気から感じたままでアセスメントを行っていきます。


こういう風に言うと、「やっぱり、アセスメントは専門家だからできるんだ」「アセスメントは経験豊富な人しかできないんだ」などと思われてしまいます。
でも、これは私の意に反しますし、私の仕事のゴールとは異なってしまいます。
私に対する依頼の多くはアセスメントになりますが、そのアセスメントの仕方、視点を親御さんにお渡しすることが仕事の目的だと考えています。
著しい変化が見られるお子さんのアセスメントを、その都度、支援者に依頼して行うのでは子ども達のためにもなりません。


アセスメントの基本は、一緒に生活する親御さんがタイムリーに行うことです。
素早く変化に気づくからこそ、そのとき、必要な刺激、環境、子育てを創造し、実行することができるからです。
「アセスメント」というと、高度で、専門的な雰囲気を醸し出しますが、やっているのは子どもを丁寧に見ること、その変化をしっかり捉えることです。
アセスメントは特別なイベントではなく、日々の子育ての一部です。


「支援者は」と言うと大げさになりますが、私のアセスメントの仕方はこうです。
まずは、お子さん全体を見る。
イメージで言えば、部分を詳細に見るのではなく、ぼやっと全体を見る、その子の雰囲気を見る感じです。
ここでなにがポイントかと言いますと、全体の調和を確認することです。
お子さん全体を見て、何か違和感を感じるところはないか、それがあったら、まずそこを切り口に確認していきます。
また、発達障害のお子さんに関しては、全体的に発達が遅れているのか、部分的に遅れているのか、または進んでいるのか、を捉えます。
事前情報をあまり入れないのは、この最初の全体を掴むときに純粋に感じたいからです。


全体的な姿を見たあと、すぐに仮説を立てます。
アセスメントは、見るポイントが決まっていて、そこを1つずつ確認するのではなく、支援者が感じたことを元に仮説を立て、それを確認していく作業を言います。
「動きのちぐはぐさは、ハイハイのヌケじゃないだろうか」
「全体的に発達が遅れているのは、首が育っていないからじゃないだろうか」
「よく躓くのは、立体視が育っていないからかもしれない」
「話が聞こえていない。じゃあ、三半規管の育ちを確認してみよう」
こんな感じに、自分の頭の中で仮説を立て、次々に確認していきます。
そうやって、その子のどこに発達のヌケがあるのか、課題の根っこはどこか、どこを育てると生きやすくなるか、を探っていきます。


私が考えるアセスメント力とは、この仮説を立てる力、豊かさです。
経験が浅いときは、この仮説を立てることが難しいのです。
なんとなく、全部、障害特性に見えてしまいますし、どこか課題のポイントを見つけたとしても、それが何と繋がっているのか、どこを確認すれば明らかになるのかが分かっていませんでした。
そういった段階から経験を積んでいき、多くの仮説を立てられるように。
そして、たくさん仮説を立てられるようになったあと、余分な仮説を立てずに的確なアセスメントができる段階になります。
今振り返っても、「えらい遠回りしてアセスメントをしていたな」と自分でも思います。
発達相談後にお送りする報告書が年々シンプルになってきたのは、すこしずつでも前に進んでいると気づかせてくれます。


気づかせてくれると言えば、明日から広島出張です。
ありがたいことに、今年で3年連続の訪問になります。
某市の支援員さんと3日間、発達相談を行わせていただく予定です。
いつもは一人で家庭訪問をするので、客観的に私の仕事を評価してくれる人がいませんが、この広島出張では支援員さんから私に対してもいろいろと感想を聞くことができます。
私より経験豊富で、信頼できる支援員さんです。
支援員さんからどんな言葉を貰えるか、一年前の自分と比べてどうか、ちゃんと成長できているか、その辺りも楽しみにしています。
明日移動で、明後日から3日間、広島の皆様、どうぞよろしくお願い致します。




2020年7月20日月曜日

【No.1085】「正しい診断が正しい治療に繋がる」という考え方

ある医師は、診断についてこのようなことを言っていました。
「医療が診断にこだわるのは、正しい治療を行うため。正しい診断が正しい治療に繋がると信じている」
この話を聞いて、なるほどと思いました。
確かに診断を間違えば、治療方針を間違えてしまい、患者さんに不利益を与えてしまいます。
ですから、治療方針を間違えないように、まずは正しい診断という考えなのでしょう。


日本において神経発達症の診断も、医療の範疇になります。
しかし、病気や他の身体的な障害とは異なり、客観的な正しい診断ができない状況です。
そうなると、「正しい診断が正しい治療」というのから、『正しい』の文字が消えてしまいます。
「申請が通りやすいように、症状を重く書いておきましたから」
「お母さんが受けたい療育、支援に合わせて、診断名つけておきますから」
「とりあえず、自閉症をつけておけば、今後も支援が使いやすいですしね」
こんな話は、しょっちゅう耳にします。
そういえば、数年前、北海道で聴覚障害を偽装し、障害者年金をだまし取っていたという事件がありましたね。
本人の状態ではなく、親御さんの希望や医師のさじ加減で診断が変わるとしたら、それは正しい診断ができているとは言えないでしょう。


医療の外から診断を見ていますと、治療ありきの診断のような気がしています。
「この地域には、こんなサービスが利用できるから」
「うちの系列の療育に通わせるためには」
そんな感じで、地域の実情、資源に合わせて診断がされているような印象を受けます。
ある地域では、どの子も同じ診断名で、どの子も同じパターンの療育、支援を受けていました。


こういったことに、私は大きな違和感を持ちます。
私は医療ではない診断のトレーニングを受けました。
欧米では心理士も診断ができますので、そういった方面からの勉強です。
その際、重点的に教えられたのが、その子を深く知った結果が診断名で、診断はより良い支援を創造するための入り口である、ということです。
神経発達が盛んな子どもさんなら、なおのこと、発達・成長と共に診断名が変わっていくのは当然のことなのです。
客観的なデータ化、数値化ができないのですから、状態の変化が診断名の変化になります。
ということなので、あまり診断名自体が重視されていません。


ところが日本は、いまもなお、診断名重視で、一度、診断名が決まれば、それに合わせて行政も、学校も、支援も一直線に連なっていくイメージです。
「医師がつけたものを、医師以外の人がくつがえすなんて…」などと言われます。
そりゃあ、脳波や血液検査などの医学的で、かつ客観的な診断ができるものに対しては否定するつもりはありませんが、そもそもが「"正しい"診断ができない」「状態の変化とともに診断も変わる」という属性のものなのですから、というか日本以外は医師じゃなくても診断ができるものなのですから、否定もなにもありません。
「"正しい"診断ができない」という点では、医師も、私のような支援者も、親御さんも同じなんだと思います。


そもそもが「正しい診断が正しい治療に繋がる」と言える類のものではないのでしょう。
"正しい"診断がなければ、"正しい"治療もありません。
あるのは、その子がよりよく育つアイディアであり、神経発達を後押しするアイディアです。
「この診断名には、この方法」と系統立てることなどできないのです。


一人ひとり症状や状態は異なります。
神経発達は日々、変化していくものです。
ですから必要なのは、ある決まった日に付られた診断名ではなく、今日、この瞬間の子どもを見る目だといえます。
同じ「自閉スペクトラム症」だからと言っても、状態も、発達の仕方もみんな同じではありません。


「アセスメントも、育てる方法も、寄せ集めである」というのが、私の考えです。
「大久保さんが学んだ学派はなんですか?流派は?師匠は?」などと訊かれることがありますが、特別「これ」というものはありません。
私の知識、知見は、今まで歩んできた道で学び、拾ってきたものの寄せ集め。
たぶん、1つの流派では対応できないでしょう。
神経発達は無限ですから。
療育でも、自分が学んだ流派を押してくる支援者は治せないのは、お子さんと流派が一致したときだけ効果があり、まさに運次第だからです。


人は、正しさを求めると系統や秩序を求めます。
神経発達症を正しく診断しようとすると、〇✖クイズのような診断基準、マニュアルが出来上がります。
正しい治療をしようとすると、同じ診断名は同じ治療という不自由さが生まれます。
しかし、神経発達症に正しい診断も、治療も存在しません。
あるのは、一人ひとりにあった育て方のみ。
寄せ集めたアイディアの中から、我が子にあった、自分にあったものを選び、最適な育ちを作り上げていくことこそが発達援助なのだと私は考えています。
よって、「正しい診断が正しい治療に繋がる」のではなく、「その瞬間を見ることが、より良い選択に繋がる」だと思います。




2020年7月17日金曜日

【No.1084】「できる」と「できない」ではなく、「できる」を掘り下げる視点

日々、共に生活している親御さんの目からは「できる」「できている」と見える我が子の行動が、実際はそうではないことも多々あります。
「言われるまで、できている、大丈夫だ、クリアしていると思っていました」などという言葉をお聞きすると、訪問して良かったなと私は思います。
このアセスメントのズレに気が付き、そこを伝えていくのも発達相談の大事な仕事になります。


両足ジャンプができる。
スプーンで食事ができる。
相手に要求を伝えることができる。
文字が理解できる。
子どもの生活の中には、たくさんの「できる」があります。
その「できる」が増えていくことが発達、成長であり、より良い子育てである、というのは正しい考えです。
なので、なにかできるようになると親御さんは安心し、また次の「できない」から「できる」に意識が向いていくのは自然なことなのです。
しかし、その「できる」にはバリエーションがあります。


できないことに対して、「なぜ、できないのだろうか?」「どうしたら、できるようになるのだろうか?」と考えるように、できることに対しても、「なぜ、できるのだろうか?」「本当にできているのだろうか?」というように考えていきます。
なぜなら、一見すると問題なくできているような行動の中に、「"見せかけ"のできる」「"無理をして”のできる」「"意識して"のできる」が混じり込んでいるからです。
私の感覚では、こういった感じの「できる」はできると考えません。


「"見せかけ"のできる」とは、パターンや学習、適応の結果としてできているという意味です。
たとえば、飲み物が欲しいときに、「ジュースちょうだい」と言う。
でも、それが音の丸暗記ということもあるのです。
とにかく「ジュースちょうだい」といえば、飲み物が貰えると学習している子どももいます。
他の飲み物が欲しいときや食べ物が欲しいときにも、同じように「ジュースちょうだい」と言ったり、コミュニケーションの核である「相手に伝える」というところが抜けていたりすると、「"見せかけ"のできる」だと考えられます。
要求する相手のほうを見ていない、うわごとのように言う、といったのは、コミュニケーションしているとはいえないからです。
数多くのコミュニケーションカードを使っているが、人と人とのやりとりが成立していない子がいます。
カードの豊かさが、その子のコミュニケーションの豊かさにならないのは、「"見せかけ"のできる」をできると評価してしまうことに原因があります。


「"無理をして”のできる」とは、端的に言えば、そこにエネルギーの大部分を使ってしまっている、ということです。
学校を休まず登校できている、毎日、宿題をやり遂げることができている。
でも、学校から帰ったら横になって動けなくなる。
でも、宿題を終えるだけで何時間もかかる、宿題以外、なにもできなくなる。
そういった「できる」は、無理をしてなんとかできているのだといえるでしょう。
これを「できる」と評価してしまうと、本人に限界が来るまで、周囲からも、もしかしたら本人自身も見過ごすという結果になってしまいます。
不登校やひきこもりの人からの相談もありますが、親御さんも、先生も、同じようなことをおっしゃいます。
「大変そうだったけれども、本人が頑張ってできているから大丈夫だと思った」
「そうやって頑張って続けているうちに、力がついてくると思った」
これも「できる」という勘違いが生みだした悲劇です。


「"意識して"のできる」というのも、「"無理をして”のできる」と重なる部分があります。
もしかしたら、この二つを分ける必要がないのかもしれません。
でも発達相談において、「今のは、意識してできているのですね」と私は指摘します。
どういうときにそれが見られるかと言いますと、本人の意識が他のことに向いたときです。
たとえば、コップを片手で持ち、飲んでいる。
でも、話しかけられ、それに応えようとしながら飲む際、両手でコップを持って飲んでいる。
片手での操作は、右脳と左脳の分化、利き手の確立、同側性の動きなどといえますが、咄嗟に持ったとき、意識が他へ向いたとき、両手で持つというのはまだ前段階の発達が本当のところとみます。
他には、スプーン食べできているけれども、疲れてくると手づかみ食べが出る、「スプーン使って」と言われないとスプーンで食べないなどもあります。
大人のかたでも、意識しないと寝返りが打てない、座った姿勢から立ち上がれない、走ったりジャンプしたりできない、相手の気持ちが想像できない、空気が読めないといったこともみられます。
「意識してできるんだったら、いいじゃないか」と言われそうですが、特別な技術や運動以外で、ほとんどの人が無意識に行えるような基本動作、思考が意識しないとできないようでは問題ですし、そこにクリアすべき発達課題があると考えるのは当然です。


じゃあ、本当に「できる」ってどういうことを言うのでしょう?
ある行動に注目したとしても、その行動の背景にはいろんな発達があり、他の発達ともつながっていますので、実際のアセスメントでは、一つの行動だけをとりだして評価をすることはありません。
ですが、敢えて言葉にするのなら…
その行動が「別の場所、人、行動に応用している、応用できている」
その行動が「その人の持つエネルギーの大部分を占めない。それを行っても、他の活動、生活に支障が出ない」
その行動が「咄嗟の場面でも、他に意識が向いたときでも、一定の水準で行うことができている(例:意識して走ると早いが、無意識になるとガクンとスピードが落ちる、転ぶことがあるなど)」
といったところでしょうか。
私の場合は、ある行動を見たとき、その姿から滑らかさの雰囲気を感じないと、「おやっ」と思い、アセスメントの掘り下げを行っていきます。


支援者の習性として、彼らは子どもの「できないところ」が大好物なものです。
「ここができない」「あれもできない」
そう指摘すると、支援者である自分に、親御さんの意識が向いてくるからです。
それこそ、濃密な1対1関係への希求です。
そういった影響もあり、我が子を見る際、「できる」と「できない」というシンプルな視点になってしまいがちです。
でも、「できない」だけではなく、「できる」も掘り下げていくことが重要です。
それもより良い子育て、その子の豊かな生活には必要な視点になるからです。
是非、親御さんには我が子の「できる」に関しても、深く感じ、深く見て頂きたいと思います。




2020年7月15日水曜日

【No.1083】求めてくる関係性から治す人か、治せない人かを見る

新大阪から伊丹空港へ向かうバスに乗ると、隣の席にご年配のグループが後からやってきました。
ツアーかどうかまではわかりませんでしたが、みなさんで地方へ旅行に行くようです。
「わしら、コロナが終息するのを待っとったら、生きてるか分からんしな」とある男性が言うと、グループの仲間もそうだそうだと大笑い。


移動した先でコロナの発症者と出会う確率。
出会ったとして、その発症者と自分が濃厚接触者になる確率。
濃厚接触者になって、自分が発症する確率。
自分が発症し、そこから重症になる確率。
重症になったあと、回復しない確率。


そういった確率を掛け合わせ、宝くじで億万長者になる確率よりも低い可能性と、自分の人生をよりよく生きようとするための選択。
「1年の自粛、2年の自粛」
そんなことを許容できるのは、1年後も、2年後も、生きているという前提があるから。
ご年配のグループのかたじゃなくても、そう、私だって1年後、2年後、確実に生きているとは限りません。
人の生死をいつも見ている医療関係者だから、個人の想い、息づかいが見えなくなっているのかもしれないと思います。
誰のための自粛なのか、医療に個人の選択を規制する権利があるのか、医療従事者以外、一般の人には健康を保ち、病気から身を守ることができないとお思いなのか。


6月以降の出張では、みなさん、口を揃えて、こうおっしゃいます。
「このコロナ自粛期間中に、子どもがグンと伸びた」
南は行っていませんが、北も、東も、西も、どこに行っても、「家で過ごしているときが一番伸びた」とおっしゃっていました。


この理由はとてもシンプルです。
発達障害の子ども達の多くは、胎児期から2歳前後の発達過程にヌケや遅れが生じます。
この時期のヒトの発達というのは、主に1対1関係、または環境との関係性の中で育まれて行きます。
幼稚園や保育園などの集団生活の中で刺激され、発達する部分もありますが、そこが発達の遅れの根っこだということはあまりありません。
ですから、親子で濃密な時間が過ごせた自粛期間中に、根っこの育て直しが進んだのだと考えられます。


また商業施設等に行かなかった分、公園や自然の中で過ごす時間が増えた。
自然の中は五感を刺激しますし、何より自分の身体が遊び道具となります。
これまた胎児期から2歳前後で育てる部分とマッチします。
あるご家庭では、1年以上、療育機関に通っても変化がなかった部分が、この自粛中にクリアできたと言っていました。
1対1の関係性の中で、五感や運動を刺激する自然の中で、発達のヌケが埋まっていくのは当たり前なことなのです。


1対1の関係で言えば、親子なら良いのですが、支援者とはいけません。
1対1の関係は、感情を共有し、濃密な関係性を築くためのものです。
親子の濃密さは、子どもの心身の安定を生み、発達に向かうための力になりますが、支援者との濃密さは依存を生みます。
依存は、自立を阻む最も大きな障壁です。


ですから私は、発達相談において、1対1の関係性にならないように、そこを求められても濃厚になっていかないように注意しています。
あくまで私は、その子の発達課題を直接クリアする存在ではなく、クリアできるために共に考える存在でいようと心掛けています。
「私が治しましょう」ではなく、「より良い子育てを一緒に考えましょう」です。
対象が人ではなく、発達課題であり、より良い子育てになります。
治すのは本人、それを後押しするのは家族、アイディアを出すのが支援者。
ここのところを間違うと、治らないし、依存が生まれるし、自立からどんどん遠くなっていきます。


愛着障害を持つ支援者、治せない支援者というのは、この1対1関係を築こうとしますし、この関係性を築くことが支援である、仕事であるという大きな勘違いをしているものです。
やたらと親御さんに共感し、褒めたたえる支援者。
やたらと「子どものため」といって、手とり足とり、なんでもやってしまう支援者。
そういう支援者が一番自立を阻みます、親も、子も。
1対1関係は、その二人の間で関係性を深めるためのものですから。


このように言うと、「じゃあ、成人の当事者から相談があったとき、お前はどうしてるんだ」と言われそうです。
当然、本人と私の1対1ですので、自然と関係性を深める方向へと進みがちです。
しかし私との関係性を深めても、自立できませんし、発達のヌケは埋まっていきません。
ですからこういった場合にも、対象を「私とあなた」ではなくて、「発達のヌケ・課題」とします。
本人と私が結びつくのではなく、課題を通して結びつくのです。
そうすることで、本人の「私が自分の課題と向き合う、解決を目指す」という姿勢を妨げないで済むことができるのです。


医療の話に戻れば、医師の中にも、1対1関係で進めようとする人が少なくないような気がします。
「私と患者」の濃密な関係を築こうとし、本人の自助努力よりも、「私に従っておけ」という姿勢が見られます。
それが端的に現れるのは、発達障害の診断の際。
親御さんは子どもの発達の課題と解決を中心に関係性を結ぼうとするのに、それを拒否する医師。
だから、「この子は自閉症です」「療育を受けてください」「生涯、このままですよ」と、濃密な関係性で成り立つ、もっといえば、主従関係でのみ成り立つような無礼なことを口にしてしまうのだと思います。


ここには書けませんが、どれほど多くの親御さんが、診断時の医師の言葉に傷つき、苦しんできたか。
「何様のつもり」というエピソード満載です。
中には、その言葉で親御さんが精神的な疾患になった人もいるくらいです。
病院に行って、病気になってどうするんだ、って感じです。
親御さんは我が子に発達の遅れがあることよりも、専門家の言葉や態度に傷つくことが多い。


愛着障害を持つ人は、1対1関係を求めます。
ですから、本人も、親御さんも、支援者も、自立するためには治す必要があるのです。
親子での濃密な時間は、胎児期から2歳前後の発達課題をクリアさせますが、濃密な関係性のベースに愛着障害があれば、依存を生みます。
愛着障害を持つ支援者が、当事者の自立を阻むのと同じように、親御さんが我が子の自立を阻むケースも少なくありません。
そういった意味で発達相談のとき、他人である私とどのような関係性を求めてくるかで、愛着の発達状態を見ます。
愛着障害を治すほうが、発達のヌケを治すより優先すべきケースもあります。


今回のブログは、話があっちこっちに言ってしまいましたが、支援者を見抜くアイディア、「求めてくる関係性から見る」というお話でした。
今の支援者、過去の支援者、これから会う支援者を見抜くための視点としてお持ちいただければと思います。
あと業務連絡です。
今回の関西出張の報告書、郵便局で出してきました!




2020年7月9日木曜日

【No.1082】発達は前にしか進まない。だから子も、親も、前に進む

「療育を受けられるのなら、死んでもいぃ~」みたいな親御さんって、10年前くらいまでよく見かけたものです。
いや、大袈裟じゃなくて、本当に。
生活すべてが"療育のため"みたいな感じで、家庭のことは二の次、三の次。
今の親御さんはビックリされるかもしれませんが、結構このことでもめて離婚する家族もいました。
コロナ離婚じゃなくて、療育離婚。
「夫が療育を受けることに理解がない。協力的ではない。だから別れた」なんて言われるのを私も聞いたものです。
今振り返れば、それもまた療育、支援、特別支援の副作用だったような気がします。


この「療育を受けられるのなら」みたいなのって、他のアプローチが知られていなかったことが、療育を受けても根本的な解決にはつながらないことが、今のように周知されていなかったという理由もあるのだと思います。
でも、それ以上に、親御さんから伝わってきたのは、無力感からの解放です。
親御さんにとって一番つらいのは、耐えられないのは、子どもさんに発達障害があることではなく、親として、家族として何もやってあげられないという無力感だと思います。
「いやいや、療育や支援を受けるために頑張っているじゃないか」という声もありますが、そこは本質的な部分ではないと思うのです。


親御さんとお話ししていると、「毎日、頑張って療育に通っているけれども、なにか満たされない気持ちがある」ということをお聞きします。
同じように、良いと言われている早期診断・早期療育を受けても、検査を受けて詳細なデータを貰っても、権威ある大学病院・有名支援者のところに通っても、なにか気が晴れない。
たぶん、それは子育てではなく、また子どもの発達を後押しすることにつながっていないからだと思います。
良いと言われているこれらは、親じゃなくても、家族じゃなくてもできることです。
たとえば、私が依頼され、お子さんを連れていくことはできます。
で、得られる結果は同じ。
そのことに無意識的にも気がついている親御さんは、心にもやっとしたものが残るのだと思います。


発達相談で私が出会う親御さんの中に「何が何でも我が子を治してやる」みたいな人はほとんどいません。
治す方向で共に歩んでいるけれども、そこが目的ではない。
やっぱり親として、家族として、やれることを知りたくて、やれることをやりたいんだと思います。


前世代の特別支援はまさに「やれることはない」というメッセージに溢れていました。
「親としてできることは、より早く診断を受け、より早く療育を受けることである」
「イメージしているような普通の子育てではなく、特別な子育てが求められる」
「親よりも、支援者の役割を」
実際に、そのような言葉を言われた親御さんは少なくありませんでした。
「親になることを否定された感じがした」
「あなたには何もできないと言われた感じがした」
そうやって涙ぐむ親御さんにもあってきました。
子どもの未来を否定されたうえに、親としての可能性までをも否定される。
想像しただけでも、どれほど辛い出来事だったかと思うのです。


発達の本質は未来です。
アイディアとして『退行』や『発達のヌケを育て直す』というものがありますが、発達は後戻りしません。
積み上がったものが消えてなくなることはなく、やったらやっただけ糧になります。
もちろん、ピンポイントでヌケが埋まらないこともありますが、発達に後戻りはなく、無駄も無い。
そういった流れをみれば、誰よりも我が子を詳細に、丁寧に見て関われる親御さんの力を活かさないなんてあり得ません。
親として、家族として、前に進もうとする力を活かすことが、子どもさんの発達を前に前にと進ませる力となります。


発達が凸凹している。
だけれども、その凸凹は固定されたものではなく、生涯変化し続けるものです。
ある若者は「この年になって初めて世の中が立体的に見えるようになった」と喜んでいました。
発達は前にしか進まないから、ある段階を過ぎれば、治るのは当然です。


身体アプローチ、言葉以前のアプローチには、親御さんの無力感を解き放す力もあるのだと思います。
また支援者として、本人だけではなく、親御さんにも「ここが育てられる部分。ここが手助けする部分」といった丁寧な仕分け作業を行うのが役割だと思います。
そういった意味で、誰でもつけれる、誰でも同じ結果のアセスメントではなく、個々に合わせた、その子個人を大切にするアセスメントが必要なのです。




2020年7月8日水曜日

【No.1081】私達が医学の土俵の上にあがる必要はない

新型コロナに関する専門家の発言やメディアでの捉え方を見ていますと、その言葉の中に個人の息吹を感じることができません。
同じコロナウィルスとはいえども、それが発症するか、重症化するか、実際に罹るかは、個人によるところが大きいといえます。
でも、その個人が語られることはありません。
いや、むしろ、一生懸命個人を排除しようとしているようにすら感じます。


ウィルスを研究するのは、医学の話でしょう。
私達一般の人達は、医学ではなく、実学が必要なのです。
このウィルスとの折り合いの仕方が知りたくて、よりよく生きるという目標に向かっている中で出会った一つの環境要因でしかないのだと思います。
新型コロナに罹らないために、無人島に行くか、誰にも会わず家に閉じこもるか。
新型コロナに罹らないために医学があるのかもしれませんが、それは個人の生き方、命の全うの仕方とは次元が異なる話なのです。


これは医療に共通する話なのかもしれません。
現在の神経発達症に関する診断基準を見ても、見事に個人が排除されています。
私達が知りたいのは、その子に感覚過敏があることではなく、何故、感覚過敏が生じているかという理由です。
しかし、どう頑張って読んでも、その「何故」が見えてきません。
しかも同じ症状の中にも、個人によるバリエーションがあるのにもかかわらず、そこすら見ようとされていません。
あるのは、できるだけ個人が排除された基準だけ。
本来、診断とは、その個人がよりよく生きるためのものであるはずなのに、その個人、家族に利するところがほとんどありません。
むしろ、医学という土俵の上で、医師が診断をつけやすいような形式に、どんな医師でも同じような結果が出るような形式になっているような気がします。


アメリカでは、医師以外の人でも診断を行います。
私だって、診断をつけるトレーニングを受けたくらいです。
つまり、誰でも診断できるがコンセプト。
いろんな人が診断しても、だいたい同じような結果になるように曖昧な部分、その個人という要因を削り落としているのです。
その子が今後、どのような発達を遂げていくかは考慮されていません。
その子が何故、発達が遅れているのかは考慮されていません。
それを入れてしまうと、診断が成り立たなくなってしまうから。


新型コロナと同じように、その個人は診断のために生きているのではありません。
自閉症という診断をもらうことが、人生の目的ではないのです。
その診断を受けることが、その人の人生に彩りを与えることがあるのかもしれませんが、ゴールではありません。


診断や療育、服薬が大きなことのように語られますが、それは医学という分野、土俵においての価値観、話だといえます。
自閉症の有病率だとか、感覚過敏を持っている人が〇%だとか、この薬が効くだとか、新しい薬は副作用が少ないぞとか、それってお医者さんの話でしょ。
「薬は効いたけれども、家から一歩も出られなくなった」
「療育を週20時間受けれたけれども、幼稚園での生活ができなくなった」
「診断がついたけれども、仕事が続かないのはかわらない」
医療の豊かさ、目標の達成度が、個人の幸せ、目標と一致するとは限らない。


現在、早期発見、早期診断がもてはやされ年端もいかない子ども達が、どんどん診断を受けている時代です。
でも、幼少期の子どもさんにとって診断は、その子個人のためでも、願いでもないはずです。
欧米では10年ほど前から、日本でもここ数年で、「どれだけ早く診断できるか、低年齢でつけられるか」が医師、クリニックの評価になり、競い合う項目の一つになっています。
1歳とかで診断をつけられるのは、どう考えても、その子のためではなく、医療側のためだといえます。
「医学の発展に寄与できた。でも、その子の人生は無茶苦茶だ」「正しい診断のために、人生を棒に振る」ではいけないのです。


診断はあくまで医療、医学の話です。
その子がよりよく成長する、よりよく生きるとは土俵が違うのです。
だから、診断を受けなくても、発達する子はいるし、治る子もいる。
というか、個人を排除している診断をいくら受けても、よりよく育つアイディアは出てきません。
個人は数値化できない曖昧なものだから。


親御さんは「なんとなく、これが良いと思って」と言いながら、子どもさんを治していく。
でも、医療は「"なんとなく"ではダメだ。それは曖昧なものだから」と言う。
両者がかみ合わないのは、目的が違うから。
親御さんは、我が子がより良く育つことを願い、医療は医学の発展を願う。
だから、『自閉症』『ADHD』『知的障害』などの括りで話がされる。
「この子は、どうなんですか?」と尋ねる親御さんに、「自閉症の子は、〇〇で~」と返す医師が多い。
親御さんが訊きたいのは、自閉症の育て方ではなく、我が子の育て方。


新型コロナがどのような遺伝子を持ち、どのような発症率で、経過をたどるか、どんな治療が良いかはわかりませんし、私の興味関心はそこではありません。
大事なのは、私の生活、仕事において、どのくらい影響があるか、どのくらい対策をすれば良いのか、ということ。
結局、罹っても自分の自然治癒力に頼るしかありません。
同じように、診断されようがされまいが、我が子をよりよく育てること、自立を目指して育てることは変わりませんし、信じるのは我が子の内側にある発達する力です。


専門家は、他の人も自分と同じ土俵にいると勘違いしがちだといえます。
特に自分たちがサービス業であるという自覚がない仕事の人達は、それが顕著です。
サービス業の人は、相手の言葉で、相手の土俵の上で勝負をしようとします。
四六時中、医学という土俵の上の話ばかりが続くメディアにはうんざりです。
知りたいのは私個人とコロナの関係性であり、医療とコロナの関係性ではありませんね。