2020年12月31日木曜日

【No.1131】2020年も大変お世話になりました!

まずは業務連絡からです。
12月26・27日にお会いした皆さま、昨日の午前中、報告書を郵送いたしました。
早ければ本日、遅くてもお正月明けにはお手元に届くと思います。
2021年の更なる成長を願い、ご本人、ご家族を後押しする気持ちを込めました。
報告書を読んでわからないことや新たなご質問等が出てきましたら、メールくださいませ。
お返事いたします。


ということで、昨日は本局に封筒を出し、その後、神社にお礼参りを。
午後からは経理の仕事を行い、2020年の帳簿を完成させました。
今朝はジム納めをして、駐車場の雪かき、注文していたオードブルとお正月料理を受け取りに行き、お昼に年越しそばを食べ、メール相談の返信をし、今、豆を挽き、珈琲を入れ、飲みながらブログを綴っております。


大人になると、一年が早く感じていましたが、今年に限って言えば、長い一年でした。
途中、動きたくても動けない時期がありましたが、緊急事態宣言が明けたその日から関東出張。
結局、出張も本州だけで11回、北海道内もあちこち行っていましたので、今年の目標であった毎月1回以上の出張を達成することができました。
私に発達相談の機会を与えてくださった皆様、どうもありがとうございました。


一応、個人事業とはいえ、経営者ですので、「どうして依頼が増えたのか?」を分析する必要があります。
一番の理由は、花風社の浅見さんをはじめ、著書の方々、花風社さんの本を愛読する方達が私という存在をお引き立ていただき、広めてくださったからだと考えています。
個人事業主として生き残るかどうかは、腕の良しあしではなく、その前に何よりも「知ってもらう」ことだと思います。
私のように何かモノを売るのではない個人事業主のほとんどは、サービスの質で勝負する前に「知らない」ということで消えていく存在です。
ですから、私一人では難しかった「知ってもらう」ということを後押ししてくださった皆様、どうもありがとうございました。


この一年、発達相談でお会いした皆さまの顔を思い浮かべると、コロナ騒動があろうがなかろうが、たぶん、依頼してくださったと思います。
どういうことかと申しますと、みなさん、自分の頭で考えられる方達だと感じるからです。
いま、全国どこでも公的な支援サービスを受けることができます。
しかも、ほとんど自己負担がなく。
何も疑問を持つことなく、多数派に合わせて、専門家の言う通りに「脳の機能障害で治らない」という言葉を信じ、支援サービスを我が子に受けさせれば受けさせるほど、熱心な親、(特別支援から見た)良い親という評価を受け、典型的な「発達障害児を育てる親」として生活することができます。
その意味や意義、科学的な根拠を調べることなく、「みんながつけているから」「外していて、自分が責められるのが嫌だから」というマスク姿の人達のように。


「みんなが受けているから療育を」
「支援を受けずに子育てしていたら、ダメな親と責められるのが嫌だから」
別に療育の効果があろうがなかろうが、支援サービスの大部分が利用していない国民の税金、支えによって成り立っていようがいまいがお構いなし。
そういった人達、ある意味、不安が強く流されやすい国民性がある日本という国に住んでいても、自らで考え、主体的な子育てをしようと行動されている。
そのような親御さん達にとっては、コロナが子育ての手を緩める理由にはならないわけです。


春には「42万人が死ぬ」という専門家がいました。
12月31日現在、お亡くなりになったのは3,500人弱。
WHOの指示により、ほかのどんな病気を患っていようとも、PCRで陽性が出れば、コロナ死と書け、という状態でも、あと41万6500人もの差がある。
あの発言があったからこそ、多くの人々は自粛し、社会は大きな混乱をし、新年を迎える前に倒産や失業、自ら命を絶った方も大勢いたのです。
これって、そのまま、特別支援の世界と重なりませんかね。
「42万人死ぬ」は、「支援がなければ、二次障害」
何々が"なければ"、ひどいことが起きる、というのは脅しの文法です。
専門家の脅しによって、どれほどの親御さん達が、というか子ども達が必要のない支援を受けたのでしょうか。
特別支援を選択することによって、失った親子の時間、自然な子育て、同年齢の子ども達が得る体験、学び、自らを育てる機会を失ってきたのでしょうか。


療育を辞めようとすると、「我慢の3週間」のように「(辞めるのを)我慢の小学校6年間」「思春期を迎えるまでは支援と繋がっていた方が…」という。
みんながワクチンを接種するまでは、コロナ騒動を終わらせないぞと「変異ガー」とやるのは、服薬ありきで成人の人たちに診断をつけようとするのと似ています。
「三密禁止」は、「治す」「特別支援の外」「親次第」という特別支援の世界における三大タブー。
「Go to トラベル」にブーブー言うのは、自分たちが治せないのに治っているなんて、というただの僻み。
僻みにエビデンスはありません。
ブルーインパルスを見るように、青く光った建物をみて、「自分たちは一人じゃない」と思う、ただそれだけ。
都知事のフリップ芸は、視覚支援?
同じ経済圏、通勤圏同士なのに「来るな」というのは、かつてのTEACCHとABAのいがみ合いを思いだされます。
PCR陽性者≠発症者は、診断基準を満たす≠自閉症。
加算を得るための無症状者狩りは、現時点で未発達がある子を支援の世界に送り込むのと一緒。
医療崩壊は制度や仕組み、いうならば医療の世界の問題なのに、「気の弛みだ」と社会のせいにするのも、発達障害の啓発活動と被ります。
2類から5類に変えよう、脳の機能障害から神経発達症のように。


自粛自粛の一年でしたが、結局、自粛の根拠となる法律も、エビデンスもなし。
診断→療育→特別支援教育→児童デイ…と、それが発達障害児を育てる親の務めのように感じるかもしれませんが、すべてお願いベース。
お願いベースの象徴は、就学相談。
その子にとって最適な教育環境を用意するのが特別支援なのに、次年度の教室の具合、教員の配置の具合が優先される地域も。
児童数と教室、教員の配置の問題だったら、最初から教育相談で親の希望など訊く必要がないのに。
まさにアリバイ作りのための「自粛」と「就学相談」です。


私はこの一年を過ごし、今の、そして未来の子ども達のために頑張ろうと強く思いました。
マスク一つ外せない、外さない大人はもう無理です。
「専門家が言ったから」「みんながそうだから」
自分の頭で考えられない大人の姿は、今までの日本の教育、家庭教育も含めての失敗そのものだと思います。
太平洋戦争のときとなにも変わっていない。
特別支援の世界でいえば、これ以上、子ども達、若者たちの未来を奪うわけにはいきません。
「行けと言われたから行く」のではなく、自分の頭で考え、自分の行き先を選択、行動できる人を育てなければなりません。
そのためには、ヒトである土台を育てなければ、その土台のヌケを育て直さなければ。
土台が育っていないから、頭ばっかりで判断してしまう。
頭を洗脳するには、言葉と情報。
でも、ヒトとしての土台が育っていれば、一方的な言葉と情報に感覚と身体で抗うことができるのです。


まあ、そんなわけで、コロナ騒動を経験したからこそ、私の進むべき道が定まったといえます。
自らの頭で考え、身体で選択し、行動できる人を育てる。
そのための発達相談であり、発達援助。
来年も、志を共にする方達と共に頑張ります。
皆様、良いお年をお迎えください!




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2021年1月23日(土)『医者の教えてくれない子どものステキなところ』zoom講座の参加募集中です。
ご案内のブログはこちら
ご参加をお待ちしております!


2020年12月25日金曜日

【No.1130】『発達障害・脱支援道』(花風社)を読んで

福祉、特に障害者福祉の世界は不思議である。
施設職員による暴力や人権侵害など後を絶たないが、いつもそれは"内部"告発によって世の中に出る。
自ら訴えることが難しい当事者にとって、本来、一番の代弁者は親であるはずなのに、親からの告発はめったにない。
あったとしても、それは我が子と親の闘いに終わることばかりで、同じ施設を利用している他の親たちに波及することがなく、ネットニュースの一つとして埋もれ、消え去っていく。
そうして、いつまで経っても、福祉の闇は闇のままである。


今回、皆様にご紹介、お勧めする本は、自閉症・発達障害を持つお子さんを育てられた親御さんであり、また自ら様々な福祉の現場で働かれた経験を持つ廣木道心さんが執筆されたものです。
廣木さんほどの経歴・職歴を持っている親御さんは少ないと思いますが、親から支援者の立場になられた人は少なくないでしょう。
しかし、そういった親御さんと廣木さんの違いは、我が子のパニックを治し、働く大人として社会に送りだした点です。
そこがまず大きな違いです。


大部分の支援者に転身した親御さんというのは、我が子に叶わなかった願い、子育てを他人の子を使って気をそらしているだけ。
これまた障害者福祉の不思議なところで、我が子をより良く育て、社会に送りだした親御さんほど、福祉の世界に入ろうとはしないのです。
反対に、「まず我が子をどうにかしろよ」という親御さんほど、ひと様の子の支援や相談、挙句の果てに講演会の講師まで引き受ける始末。
療育手帳では重度という判定を受けながらも、同年齢の子ども達と同じ学校、教育を選択し、社会人になった今では子ども時代から磨いてきた資質を使い、社会の中で一人の大人として生きている息子さんを育てられた先輩として語られる言葉に耳を傾け、学ぶことは大きな意義のあることだと思います。


また冒頭で記した通り、福祉の問題は内部告発でしか表に出ない中、この本で語られている現実は、外から福祉を覗く者にとって貴重な証言になるはずです。
特に、まだ幼いお子さんを育てている親御さんたちにとって。
もちろん、小学校、中学校というように、特別支援の世界が長くなれば、福祉の闇は見聞きするものですし、何となく皆さん、気がついています。
でも、人というのは見たくない現実を頭の中で変換する能力を持っています。
「私が見た児童デイの職員の対応は、あの職員個人に問題があったからだ」
「施設内虐待のニュースが出ていたが、あれはあの施設に問題があるんだ」
「私が出くわしたあの場面は、たまたま手が出て、たまたま声を荒げてしまっていただけだ」


このように現実を見ようとしない人が少なくないのは、いずれ我が子が利用しないといけない世界だと思っているから。
必ず行きつく道だとわかっているのなら、自分の身と心を守るために、自分自身に騙されたフリをする。
私が見てきた親御さん達もそうでした。
障害者福祉の世界は、構造上、内部から変えるのは難しいといえます。
だからこそ、内部告発によって表になったとき、利用している親御さん達が協調し、皆で訴え変えていく方向へと進まなくてはならないのに。
だけれども、「じゃあ、おうちでみてください」と言われるのが怖くて、というか自分自身でも負い目があり、だんまりを続け、自分たちの日常生活に戻っていく。


何故、廣木さんの見てきた世界の証言が、貴重な証言になるかと言えば、揺るがない現実を見せてくれるからです。
子どもから成人まで、児童デイ、生活から移動支援、介護士から施設長。
これだけの世界を実際に働き見てきた廣木さんが語っていることに対し、私達はいくら頭で「特殊な例」と変換しようとしても、それは不可能です。
障害者福祉の問題は、その地域とか、その福祉法人とかの問題ではなく、障害者福祉の歴史の中で脈々と続き、絡み合って作られた深い闇です。
たとえ1つの法人、一人の職員が会心し変わったとしても、障害者福祉全体の課題は変わらないのです。
その事実を私達に突き付けてくれるには、十分すぎる程の職歴と体験と本の内容だといえます。


たぶん、10年後、この本を読んでも、内容は色あせないと思います。
今の私達と同じように、「やっぱりそうだったのか」と手にとった未来の親御さん達も思うでしょう。
障害者福祉と特別支援教育は離れているように見えて、既に教育の中でも福祉の侵食が進んで根付いているといえます。
「どんなに頑張っても、結局、卒業後は福祉だろ」
どれほど「社会の中で自立を」と真剣に子ども達と向き合い教育に携わっている先生であったとしても、上記のような言葉が思い浮かんだことが一度もない、という人はほとんどいないと思います。
それくらい特別支援教育から「社会の中で自立」は難しいのです。
一応、卒業時、一般就労ができたとしても、一年以内に8割が退職、数年後にはほぼゼロ。
そして、福祉の世界に入っていく若者達の姿を、現実を、多くの先生方は知っているはずです。


私はこの本を読んで、「覚悟」という文字が浮かんできました。
廣木さんとご夫婦の"覚悟"が、今のお子さん達の姿に繋がっている。
読む私たちにとっても、見ようとしなかった現実と向き合う"覚悟"がいる。
そしてこの本を読み、"覚悟"が決まった親御さんは主体的で、独創的な子育てへと力強い一歩を踏みだすことができる。
「このまま、福祉に向かう道で良いのだろうか」と疑問を持つ親御さんにお勧め、プレゼントできる本ができて、私個人としても大変うれしく思います。




2020年12月23日水曜日

1月23日(土)『医者が教えてくれない子どものステキなところ』zoom講座のご案内

出張から帰ってきてバタバタしていたら、ちょうど1ヶ月後になりました。
皆さまへのご案内が遅くなってしまい、申し訳ございません。
既に今回も企画・主催して頂く花風社さんのほうで募集が始まっております。
講座の詳細、お申し込みはこちらです!


前回、9月の講座『医者が教えてくれない育ちのアセスメント』では、皆さまご存じの『からだ指導室 あんじん』主宰である栗本啓司さんと対談させていただきました。
このときの対談の中心は、医療とは異なる視点で行っているアセスメントについてでした。
今回は花風社の浅見淳子さんから『子どものステキなところ』というテーマを頂戴しましたので、私が行っているてらっこ塾での実践の中から、どのような言動・姿から子どもさん達の「育てたい」「育ちたい」というメッセージを受け取っているのか、をできる限り具体的にお話しさせて頂こうと考えています。
自分で言うのも何なんですが、たぶん、全国探しても私のようにあちこちのご家庭に訪問し、その子とそのご家族だけのためのアセスメントとより良い子育てに向けた話し合いをしている人間はいないはずですので、一般的な支援者とは異なる視点でお話しできると思います。


対談のお相手は、花風社の浅見淳子さんです。
浅見さんは、特別支援の支援者ではなく、編集者さんです。
長年、出版やお仕事を通して、自閉っ子の皆さん、ご家族の皆さんと関わり、また外から特別支援を見てきた方です。
一方で私も20代はどっぷり特別支援の中にいた人間ではありますが、今はこうしてどこの組織にも属さず、家庭支援という仕事を中心に外から特別支援を見ている状態です。
当然、社会人として、起業者としてのキャリアは比べるのもおこがましいぐらい違いはありますが、浅見さんと私は外から特別支援を見ている、そして当事者ではなく、外から見ているからこそ、気づけたこと、見えてきたことがあると思います。
対談の中ではそういった部分も、浅見さんとお話しさせていただき、私個人としても浅見さんの視点をお聞きしたいと考えています。


講座の形式はzoomを使用したものになっておりますので、パソコンやスマホ、タブレットから視聴することができます。
当日、リアルタイムで視聴できない方、何度も観返したい方には、後日録画視聴ができるプランもあります。


【ご視聴金額】
当日のみ:3,000円
当日+後日動画視聴込:4,000円


*次の日(24日)には、心理士であり、言語聴覚士でもある愛甲修子さんのzoom講座『愛甲修子さんに質問する会』があり、こちらにお申し込みの方は上記の料金から1,000円引きになります。
私も視聴の申し込みをしました♪


【お申し込み方法】
zoom☆kafusha.com(☆をアットマークに変えてください)に
・お名前
・メールアドレス
・ご視聴希望講座(大久保対談)
をお知らせください。
そして料金をお振込みください(口座はお問い合わせください)


皆さまのお申し込みをお待ちしております。
どうぞよろしくお願い致します。


2020年12月17日木曜日

【No.1129】コピペで体裁が整えられた世界

今年は年末に帰省をしない若者たちがいるそうで、そういえば、大学4年の年末は帰省しない同期たちが多かったのを思い出します。
みんな、1月提出の卒論を必死に執筆していました。
私はというと、いつも通り帰省。
卒論は5月くらいに書き上げ、卒論指導はできた論文から小出しに提出し、「今、執筆頑張っています」風にして、あとはボランティアとか、地域活動とか、自分のやりたいことをしていました(笑)


今もかもしれませんが、ある時期、学生のレポートや卒論にネットから引っ張ってきたコピペが使用されていることが問題になっていましたね。
そのコピペを見抜く教授陣も大変で、そういったコピペを検索してくれるソフトまで開発されたとか。
学生が何でコピペをするかといえば、ラクをするためでしょう。
よさそうな文章を見つけコピペすれば、その分、体裁は整います。
でも、そのとき、学生の頭の中では考える機会が失われているのです。


「自己肯定感を大切にしよう」というのは、私が学生だった20年前から言われていました。
他にも「失敗経験はさせてはならない」「できることをスモールステップで」
そして「できたことは、どんな小さなことでも褒めるように」と。
あれから20年が経ち、自己肯定感という見えないものを崇め、失敗経験をすることなく、小刻みなステップを踏みながら褒めたたえられ育った子ども達は、見事に特別支援教育の世界から福祉の世界へスムーズな移行ができたのでした。


上記の言葉たちもそうですが、学生時代に教わった言葉が今もなお、そのままの形で残り続けていることに私は違和感と特別支援の限界を感じるのです。
そりゃあ、今親になり、子育てをされている方たちにとっては、専門家から聞く真新しい言葉たちなのかもしれませんが、少なくとも支援する側、教育する側に携わってきた人間なら、その言葉たちがコピペ以外の何ものでもないことがわかると思うのです。


「障害児教育の世界は、とにかく人材がいない」
「まずは人を増やさなければならない」
そんな風にも、よく言われていました。
確かに当時、支援らしい支援なんてなく、その地域にある1つか、2つの機関で専門的な"何か"を受けられることが貴重で、親御さんにとってはステータスにもなっていたように感じます。
今のように「どれを選んだらよいか分からない」なんていうのは、ぜいたくな悩みだったかもしれません。
そのように支援も、人も、サービスも、増えることは増えました。
でも、そのときに用いられたのが、さきのコピペなんです。


支援者も、支援も、サービスも足りない時代は、とにかく大量生産です。
有名支援者とやらが全国に行き、ときに欧米人とライセンスビジネスを引き下げ、とにかく自分たちの考え、その当時、良いこととされていたことを布教し続けました。
その結果、有名支援者のコピペが各地に広がりました。
均一の支援者、均一の支援、均一のサービス。
当時の有名支援者たちが目指していた世界ができあがった瞬間だといえます。


今年も出張先で、「おらが村に、てぃーちがやってきたぞ!」みたいな話を伺いました。
その地域に、そういった療育を謳うところができ、親御さん達が殺到しているとのことでした。
そんなの、先進地域から言わせてもらえば、もう30年以上前の話です。
しかも、そういった療育を幼少期から受けてきた子ども達は、みなさん、大人になり、既に結果として表れているのです。
日本は縦長の島国ですから、隅々まで行きわたるには20年くらいかかるのかもしれませんね。


大量に生まれたコピペ支援者がコピペされた言葉を使い、コピペされた支援とサービスを行っているのが現在だといえるでしょう。
支援者だって、そのコピペがなんのコピーなのかわかっていない状態だと言えます。
そりゃそうです。
20代の支援者、教員からすれば、生まれる前のコピーなんですから。
ただただその狭い世界の中で信じられていることを、ひたすら忠実に再現しとうとしているし、それが子のため、親のため、そしてそれこそが"特別な"支援なんだと信じているような気がします。
「福祉を利用しながらの自立」をみなが達成できるように。


私から見れば、20年前と同じことを言い、同じことを続け、しかも社会の中で自立できないという結果が出ているものを続けようなどとは思いません。
当時とは異なり、これだけ重い知的障害を持っていない人たちが支援対象となり、さらに脳の機能障害から神経発達症へと概念が大きく転換したのにも関わらず、コピペの元は重度の知的障害を持ち、教育不能と言われていた子ども達をどうにか教育し、育てよう、という時代のものなのです。


不毛の地なら、新たな考えをもとに一気に変化できることもあるかと思いますが、既に古き世のコピペで津々浦々の体制ができてしまっています。
ですから一旦コピペで広まったものを、しかも今もなおコピペが続いている中を、すべて回収し、既存のものをぶっ壊し、新たな体制を築くのは難しいし、とても時間がかかることです。
なので、社会的な自立を目指すのなら、できるだけ近寄らないように、そして利用しても期間限定で終わるようにしなければなりません。
支援を受けながらの人生を目指すのなら、特別支援を。
社会の中で自立した人生を目指すのなら、社会資源を。


「将来の自立のために、特別支援を利用する」という夢は幻想に終わったのです。
何故なら、「一生涯の支援を」という思想がコピペの大元だから。
当時の有名支援者たちの多くは、障害を持った子の親でもあったのです。
何もない時代に、「我が子を守ろう」、そして「生涯、安心して生きていけるように」と。
そういった願いが今もなお、特別支援の世界に漂っています。
支援からの自立を顔では笑い、心では泣き、手は繋ぎ止めようと動くのは、こういった背景があるからだと思います。
そもそもが自立を願っていないのです。




2020年12月13日日曜日

【No.1128】因果関係のその先へ

私の気持ちが「ラジオ」へ向かっている中でも、「ブログを見ました」と相談や依頼をくださる方達がいらっしゃいました。
こちらの文字のブログはほとんど開くことなく過ごしていたのですが、以前と変わらず、見てくださる方が大勢いたのがわかり、「そういえば、いきなりラジオのほうにはこないよな」と思ったのでした。
ラジオを始めて1ヶ月ほど経ちましたが、ラジオへ完全移行というよりも、内容を分けて文字のブログも並行して続けていきます。
お便りやご相談など、ライブ感を大切にする内容はラジオへ。
じっくり考え、まとめ上げていくような内容はこちらのブログへ。
入り口としてのブログ、ツウのためのラジオ(笑)というようにしたいと思います。


久しぶりに文章に書きたいなと思ったのは、因果関係についてです。
「Go to トラベルを実施したから、感染が広がった」
まさに因(Go to トラベル)があっての結果(感染拡大)の図式になっています。
この図式を見て、私達は気持ちよく感じるものです。
ヒトは複雑なものをシンプルにすることで、理解や納得"感"を得るからです。


しかし、世の中、こんなに単純明快なことはありません。
因があって結果というのは、実験室の世界の話であり、レベルは小学生の理科であります。
いろんな条件は排除し、ただ日光を虫眼鏡で集めると、黒い紙に火が付く、みたいな。
でも、小学生はこれで良いのです。
分からないことが分からない、何が分からないかも分からないときを生きる子ども達にとって、因果という窓は「分かった!」という充実感を味わわせてくれるから。


今となっては誰が言い出しっぺか分からないマスクも、かたくなに外そうとしないのが多くの日本人です。
なので、これまた誰が言い出しっぺか分からない「自閉症(発達障害)は治らない」という言葉も、かたくなに信じようとする人たちが大勢いるのです。
自閉症、発達障害は、まさに複雑系です。
同じ自閉症という診断でも、一人ひとりがまったく違います。
ある意味、よくもまあ、共通点を見つけたな、というくらいです。
「自閉症」という診断名は、なにも実態を表してはいないのです。
ただ確実に言えるのは、本人が「困っている」という現状のみ。


本人が「困っている」のは分かるけれども、なにが困っているのか、どう困っているのか、その困っている状態はどうすれば解決できるのか。
特に親御さんは、そんな「わからない」と直面することになります。
そんなとき、たとえそれが浮き輪であり、ただその苦しいときに呼吸を確保してくれるだけのものでしかなかったとしても、飛びついてしまう。
少しでも「分からない中のわかる」を感じさせてくれる窓が因果関係といえ、「自閉症は治らないということが"分かった"」という理解や納得"感"を持つことができる。
溺れているときは、浮き輪の絵柄、形態、質を気にしている余裕はないのと一緒です。


浮き輪から顔を出した先には、「早期療育は良い」「自閉症は支援が必要」「特別支援は手厚い支援」「支援がないと二次障害」「必要なのは理解」「変わるのは社会」というように、因果関係の波が押し寄せてきている。
特別支援の世界に溢れるこのような言葉たちには、根拠もなければ、どのような効果があるのか、そもそも効果があるのかすらわからない。
あるのは混とんとした世界、複雑に影響し合う発達障害という状態に対する分かった"感"。
「自閉症とは〇〇なんです」と力説する人に限って、まったく理解していないのは、感のみで生きているからだといえます。
啓発活動で登壇している人達が誰よりも先に障害の理解が必要だと感じるのは、私だけではないでしょう。


支援者のほうへ目を移すと、支援者の中にも因果関係で自閉症、発達障害を捉えている人たちが大勢います。
そのほとんどは実験室、つまり、療育機関や学校など、ある特殊な環境のみしか知らない人達です。
なので、彼らにとっては療育も、支援も、全部、実験なのです。
「〇〇をしたから、こんな反応があった。〇〇をしなかったから、こんな反応があった」
「自閉症には〇〇療法。その療法がうまくいかないのは、本人の症状が重いから。家できちんと〇〇療法をやっていないから」
支援者の見立て、アセスメントの文面が眠気を誘うのは、こういった小学生の理科の実験を長々と見せられるからなんだと思います。


子どものことを知りたい、担当している人のことを知りたい。
これは人間特有の本能的な欲求だといえます。
そしてたとえ一時的であったとしても、「わかった」という味わいに飢えを感じる。
しかし、親も、支援者も、このレベルで終わってはいけません。
その次に、「分からないことが分かる」段階に進む必要があります。
「分からないことが分かる」段階に行けば、「自閉症は治らない」ということは分からないという認識が生まれます。
「発達障害の子は早期診断、療育が必要だ」ということは分からない。
「支援を受けなければ、二次障害になる」ということは分からない。
「特別支援だけが子どもを伸ばす」ということは分からない。
複雑系である自閉症、発達障害という状態をなにか因果関係があるかのように錯覚している段階から脱したときが、支援から子育て、発達援助へ脱皮できた瞬間となるでしょう。
分からないことに分かった瞬間、子育ては自由になり、発達の可能性は無限に広がっていく。


この仕事を続けていくと、「1つわかると、10わからないことが生じる」という感覚があります。
理解すればするほど、わからない世界が広がっていくイメージです。
なので、若手の頃より、自信を失い、替わりに諦めを得た感じがします。
「自分は援助者なんて言っているけれども、援助できているのはごく限られた部分だな」と。
でも、だからこそ、若手のときには感じられなかったモノを感じられるようになったのだと思うのです。
治るかどうか、育つかどうか、その生きづらさを脱することができるかどうか、は本人の自然治癒力と発達する力による。
頼るべきは本人の内側に存在する力であり、私達援助者にできることは、その力が発動しやすいように、伸びやかになるように後押しすること。
私は心からそのように考えるようになっています。




2020年11月10日火曜日

【No.1127】ラジオチャンネル開局のお知らせ

発達って目に見えないものですよね。
その見えないものを商売にしている私は、とても危ない橋を渡っているといえるのです。
実際に商品が合って、それを売り買いする商売でしたら、モノが残り、またその価値を感じることができます。
しかし、私の行う発達相談、援助はサービス業であり、お客さんが満足するかどうか、そのニーズに応えるかどうか、それが唯一の価値になります。


標準療法は、エビデンス、科学的根拠を重視します。
何故なら、みんなの税で成り立っている商売だからですね。
サービスを利用しない多数の人がいて、少数の人がサービスを利用している。
そのとき、エビデンスが必要になるわけです。
よく勘違いされている人がいますが、少数の利用している人のためにエビデンスがあるわけではありません。
利用していない大多数の人のために、「皆さんから集めた税金は、ちゃんと科学的根拠のあるものに使用していますから」というある意味、建前のためにエビデンスが使われているのです。


親御さんによっては「エビデンスのある療法しか信じない」という人もいますが、たぶん、その人は基になる論文を読んでいないのでしょう。
論文には、こう書かれています。
「被験者〇名のうち、〇%の人に効果があった」と。
つまり、どの論文も100%の人に効果があるとは言っていませんし、そんなことは不可能です。
被験者という括りは同じですが、もっている資質、生活している環境、影響を受けた刺激、その人が歩んできた歴史が違うのですから。
よって、エビデンスがあるから、我が子にも効果があるとはいえないわけです。
エビデンスの根底に流れているのは、「効果があるかないか、やってみなきゃわからない」


70%の人に効果があるけれども、必ずしもその70%に自分の子が入る保証はありません。
効果のない30%に入る可能性だってあるのです。
しかも、その70%も同じように再現できる可能性は少ないから、実際は35%というようなこともある。
さらに論文に書くような実験は、先に挙げたような個別の違いを極力排除というか、見ないようにします。
そこを見たら、研究などできないからです。
それこそ、冒頭でお話ししたように発達とは目に見えないものですし、ある発達課題1つをとってみても、そこに関わる要因は、環境、遺伝とはず、複数あり、それも複雑に絡み合っているのです。
Aというエビデンスがある療法をやったからといって、Bという結果が見られたなんてあり得ませんね。
それはすべて解釈です。


実験室のモルモットの場合、遺伝子も、環境も、ある程度、コントロールすることができます。
でも、それと同じことは人間にできない。
が、一応、できていることにしているのが現在のエビデンスのある療法とやらです。
子どもの発達は一人ひとり違いますので、ある特定の療法にこだわるのはリスクが大き過ぎると思いますし、どうせやってみなきゃわからないのでしたら、いろんな方向からアプローチした方が良いでしょう、確率的に言っても。


そう考えると、他人である支援者と言うのは、幅広い情報、選択肢を伝えられなければなりません。
自分が好きな療法のみを伝えるのは、押し売りです。
しかも、ひと様の税金を使って押し売りしてはなりません。
でも、地方は特に、ここで診断を受けたら、次にここの相談機関を紹介して、その紹介機関はここの療育機関を紹介し…というズブズブのシステムが出来上がっているところがばかりです。
公共事業の元請けがあって、下請けがあって、孫請けがあってと同じですね。
まあ、そこを見えなくするために、「私が紹介しているところはエビデンスがある支援をやっているところですよ」なんてしているわけです。


家族にとっては、その子ひとりであり、その子が良くなるのが望みです。
そんなとき、他人である私たちのような支援者が、他の子どもさん、家族から得た経験、そこで磨かれた実践を伝えていくという意義が生まれます。
一人の子育てはできないけれども、100人、200人、300人…というような子ども達と家族と関わってきたからこそ、見えるもの、感じるものがあります。
私が思うに、どっかの誰かがやって一応「エビデンスがある」と言っている1つの方法よりも、こういった生きている情報、生の知恵の100、200、300のほうが、子育てをカスタマイズするには有効だといえます。


この世界に入って20年弱。
そして起業後も、関わる人たち、家族の人数は増えていっています。
そういった中で、「言葉で伝えること」がとても重要だと感じ、このブログを書こうと始めました。
ありがたいことにのべ33万人以上のアクセスをいただいています。
ですが、自分の中でもっと伝える力を、特に専門家がいう「雰囲気」という感じ方を表現できるようになるためには、別の方法でも磨いていく必要があると思うようになりました。
そしていろいろと検討した結果、音声によるブログ、発信に行き着きました。


私も共働きで、子育て世代です。
久しくタイムリーでテレビを観ることがありません。
観ても録画で、倍速で見ていますし、ながら見ばかりです。
ネットの動画でも、画面を見ているよりも、音だけ聞いている人が多いはずです。
たぶん、近い将来、動画から音声発信の時代が来ると思います。
そのときになってから準備していては、民間企業はおしまいです。
なので、それを見据えてのチャレンジでもあります。


昨日、開局し、今日も音声ブログを更新しています。
取り上げてほしいテーマや、もちろん、個人情報は落としますが、聴取してくださるみんなと共有できるようなリアルな相談があれば送ってくだされば、と思っています。
私の知識も生き物なので、そのとき、その瞬間感じたものを音声を通じてお伝えしていきたいです。
こちらのブログも引き続き更新していくつもりですが、徐々に重きが変わっていくと思います。
『てらっこ塾 大久保の【発達援助のこころ】』もよろしければ、今後とも御贔屓くださいませ。
どうぞよろしくお願い致します!
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2020年11月6日金曜日

【No.1126】名も無い遊びが連なっていくイメージで

「子どもは自分に必要な発達刺激が分かり、自らで育てようとしている」というのは、日々の発達相談で感じることです。
この視点を1つもつことができれば、子にとっても、親にとっても、気持ちが前向きになり、どれほどラクになるのかと思います。
ですから、私はせっせとその話を方々でしています。


その一方で気を付けなければいけないな、私の説明に足りないところがあったな、と思うことがあります。
「子どもが主体的に育てようとしている」がひっくり返って、「主体的に行おうとしないことには育ちがない」という解釈です。
確かに今、お子さんが主体的に、それこそ時間を忘れるくらい没頭しているような名も無き遊びがあるのなら、それをやりきれる環境を作ることが発達の後押しになります。
しかし、じゃあ、見向きもしない遊びは全部必要ないかと言ったら、そうではないと思うのです。


あるお子さんは、内耳(前庭感覚)に発達の遅れがありました。
シーツブランコをキャッキャキャッキャと楽しむお子さんでしたが、身体が大きくなりましたので、公園のブランコで揺れる感覚を味わってみたら、と試みました。
そうすると、ブランコに乗って揺らした瞬間、嫌だと降りました。
その姿を見て、親御さんは「やっぱり早かったかも」と止めようとされていましたが、その子は揺れる前までは座っていたのです。
ということは、「揺れの大きさを変えてみたら…」と思いました。
実際に、揺れの幅を小さく、ゆっくりにすると、その子はその揺れを感じるように座っていました(その後も10分ほど)。
たぶん、この子にとっては、ブランコに座り、ちょっとだけ揺れるも、名も無い遊びだったのです。


子どもさんの場合、「知らない」「わからない」がたくさんあります。
ですから、自ら進んで育てようとする名も無い遊びは、どうしても体験したことや見聞きしたことの範囲で選択されることが多くなるのです。
もしかしたら、その子がもっともっと熱中するような名も無い遊びは、ほかにもあるかもしれません。
よって、子どもの世界を広げるためにも、いろんなチャレンジ、体験をすることが重要になります。
そういったときに、一見見向きもしないような遊び、活動の中にも、やり方を変えれば、発達につながるような遊びに変わることもあるのです。


もちろん、そういったことができる前提には、「今、我が子がどこを育てたがっているか」「どこが発達のヌケか」を捉えている必要があります。
ですから、ここからは発展形になるのですが、たとえば、先ほどのお子さんのようにシーツブランコを楽しんでいるというのなら、同じような揺れに対しても、発達刺激になる可能性があると考えます。
ブランコも同じ前庭感覚を刺激する揺れがあります。
でも、それを嫌がるということは、私達が捉えている「揺れ」はざっくりし過ぎで、もっとこの子が何を欲しているか、どういった揺れ、刺激に発達刺激を見出しているかを掘り下げていく必要があります。
「仰向け、つまり、重力と平行になっているのが良いのだろうか」
「強い揺れが良いのだろうか、小さな揺れが良いのだろうか」
「横揺れ?縦揺れ?リズムが一定が良い?変化がるほうが良い?」
など、同じ揺れにしても、連想は広がります。


そういった連想を元に、別の遊びへ誘うことも重要です。
何故なら、同じ刺激は確かに心地良いですが、それが慣れまでになってしまうと、発達刺激になる変化が生じなくなってしまうから。
神経発達というよりも、どちらかといえば、癒しになってしまいますね。
発達援助の基本は、発達刺激にバリエーションを付けること、いろんな発達刺激を味わってもらうことです。
発達刺激と癒しの境目は慣れになります。


子どもさんが主体的に行っている名も無い遊びには、発達の機会があるといえます。
一方で、ある程度、年齢が上がっていけばいいのですが、まだ知らないこと、体験していないことが多いお子さんの場合には、主体的な名も無い遊びの幅、バリエーションが限られていることもあります。
「もしかしたら、彼がまだ知らない世界に、もっと豊かにしてくれる名も無い遊びがあるかもしれない」
そういった視点を持つことが大事です。
最初は見向きもしなかったことでも、やり方を変えれば、一気に熱中する遊びに変わることもあります。
同じシーツブランコでも、揺らし方を変えてみる。
同じような揺れを味わえるブランコや吊り橋、スキンシップ遊びなど、バリエーションの広がりを目指してみる。
そういった工夫が、発達のヌケを育てきるまで必要です。


案外、最初の名も無い遊びのまま、年齢を重ねていき、いつの間にか、それが慣れであり、癒しになり、結局、そこのヌケが埋まっていっていない人も少なくないように感じます。
「子どもが主体的に育てるから、親は見守っているだけでいい」というのは、半分合っていて、半分間違っていますね。
子どもの主体性は邪魔してはなりません、特に時間を忘れて没頭しているような名も無い遊びの場合は。
でも、「もっと心が躍るような名も無い遊びがあるかもよ」と誘っていくのも、親、大人の役目です。
「我が子がどんな刺激を今、欲しているか?」
そういったことを日々考え、連想できるのは一緒に生活している家族だからできること。
是非、お子さんがいろんな名も無い遊びを見つけられるような、それがどんどん連なっていけるような後押しをしていただければ、と思います。




2020年11月4日水曜日

【No.1125】日によってできたり、できなかったり

自閉っ子は、発達障害の子は「凸凹がある」というような言い方をされます。
確かに、アセスメントをしていても、こっちは同年代と同じくらいで、あっちは数年遅れている、なんてことは多々あります。
まあ、神経発達に不具合がある子ども達なので、というか、神経の繋がりにバラつきがあるのですから、「ああ、ここが抜けた分、迂回してこっちと繋がったのかな」「本来、必要ないくつかの繋がりの部分が少し足りないな」と感じます。
イメージで言えば、たとえ同じようにできていることでも、定型の子どもさんよりも迂回や繋がっている本数が違う分、目一杯でできている感じ。
よって、応用するような場面で、それらの回路がうまく使えなかったりして、能力の凸凹ができてしまうように思えます。


能力の凸凹ですので、「数学はできるけれども、国語がまったくできない」ですとか、「素晴らしい文章は書けるけれども、他人の気持ちを察することが苦手」などというようなことを指すのだと思いますし、実際、そのような人達が多いと言えます。
知的障害を持つ人達の場合、全体的な発達が遅れている、全体的な認知機能で遅れがある、という様相を見せるので、ここが神経発達症の人達に特徴的なところでしょう。
しかし、どうも、この能力の凸凹が拡大解釈されているようです。


子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですし、気分や体調によって、できることができなかったり、やれるのに「今日はやりたくない」とやらなかったりします。
これは幼ければ、幼いほど、当たり前ですし、自然な子どもの姿だといえます。
一度、できるようになったことは、コンスタントにできるというのは、心身共に年齢を重ねないと見られない姿です(大人でも難しいww)。
それなのに、この「できたり、できなかったりする」が能力の凸凹であり、発達障害の特徴である、故に自閉症である、なんてことを言う人たちがいるのです。
最初は、親御さんの口からそういった話が出ていましたので、その都度、説明はしてきたのですが、なんと「支援者からそうやって言われた」という親御さんがいたり、中にはそれが診断の決め手だという風に言われ、診断名をつける材料にされてしまったご家族もいるのです。


いつからコンスタントにできる=定型になり、それができないと発達障害になったのでしょうか。
日によってできたり、できなかったりするのが子どもであって、そんなことを言ったら、世の中の子ども全てが発達障害になってしまいます。
もともと認知機能の検査をすると、自閉症の子の多くに能力間の差が大きい傾向が見られたため、それが1つの判断材料となっていただけなのに、いつの間にか同じ活動の日ごとの差までをも、障害の特性、または根拠に使われてしまうような事態になってしまいました。
ギョーカイというのは、どこまで発達障害を増やしたら気が済むのでしょうか。


同年齢の子の発達から見て、同じようにできる能力がある一方で、大きく定型から外れるような能力がある。
だからこそ、同年齢と同じ環境で学ぶには配力が必要であり、そもそもそこが本人の生きづらさに繋がっているのです。
たとえば、昨日は友達と集団で遊ぶことができた。
でも、今日は友達と遊べず、ずっと一人で活動をしていた。
これって本人の生きづらさにはつながっていませんよね。
そりゃあ、昨日と今日で体調も、気分も違うわけですし、遊ぶ内容だって違う。
しかも、本人が納得して一人で遊んでいるならいいじゃないですか。
っていうか、一人で遊ぶのは障害ではありませんね。


私だったらここで注目するのは、昨日、友達と集団で遊ぶことができたこと。
たとえ、それが昨日一日の出来事だったとしても、集団で遊べたというのは、素晴らしい能力であり、ちゃんと育っている証拠です。
365日あって一度もない、今まで生まれてから一度も友達と遊んだことがないというのでしたら、そこに配慮や発達のヌケ、遅れを生めるようなアプローチ、トレーニングが必要になるといえますが、そうじゃないんですね。
まだ不安定かも知れないし、それこそコンスタントに見られるわけではないけれども、ちゃんと育ちの息吹を感じる、友達を意識し、遊びの場を共有しようとする動きがみられる。
それこそが、この子をより良く育てる糸口であり、子どもらしい発達のプロセスだと思うんです。


でもね、その一方で、「今日、友達と遊べなかったじゃないか」「一人で遊ぶなんて、自閉症の子の特徴だ」などと言って、そっちばっかりに注目し、挙句の果てに診断の根拠にしてしまう人たちがいるのです。
今までに数えくれないほど、親御さんからの相談がありましたよ、「できないことばかり言われて、そこは諦めなさいと言われました」「『いくら家ではできるんです。検査室でできなかったのは、緊張したからだと思うんです』と言っても、『検査結果がすべてだから』『私には分かるんですよ、お母さん』と言って聞く耳を持ってくれませんでした」という話が。


家でもできなくて、園でもできなくて、検査室でもできなくて、初めて一致するんじゃないですかね。
家でできるのなら、その子の内側には能力があるし、それが育つ可能性があるということではないでしょうか。
どうして家や園でできることが、いつもじゃなくても時々できることが、過去にできていたことが、その子のアセスメントに加えられないのでしょうか。
たぶん、ここには専門家特有の「親の言うことは当てにならない」「親よりも、専門家の見立てのほうが正しい」というおごりがあるのだと思います。
だから、家でできたことが検査室でできない=検査者の腕が悪い、というのを認めたくなくて、親御さんの見立てを一蹴しているのでしょう。
あとは、発達障害の診断自体が微妙なものなので、必死にできないところを集めて、無理くり診断名をつけている場合も少なからずあると思います。


とにかくたまったもんじゃないですよ、日による違いまであたかも「発達の凸凹」「能力の凸凹」にされてしまい、だから自閉症ですね、あなたの子には生涯支援が必要ですね、とされてしまうのは。
本当に無茶苦茶な話です。
「支援者って、どうしてあんなにも揚げ足取りなんですか?」
「療育機関に行っても、ダメ出ししかされないのは、どうしてなんですか?」
こういったのは、よく質問されることですので、私は「まあ、悪趣味なんでしょうね」って答えています。
それくらい診断もそうですし、療育機関も、とにかく"できない"に注目し、いったんそこを切り捨てることから始めます。
そして「できないことは諦めましょう」「できることを支援していきましょう」と進んでいく。


でも、支援者、専門家があっさり言い放つ"できない"って本当にできないことなのでしょうか。
一方的に決め付ける"できない"の中にも、環境を工夫すれば、発達のヌケや遅れを育て直せば"できる"に変わるものも少なくないと思います。
それに"できない"の中には、支援者が見逃している"できる"もたくさんあると思います。
というか、親御さんが"できない"と諦めているものの中から、"できる"や可能性を見つけるのが支援者の役目でしょ。
今、反対になっているんですよ、支援者が「できない」とばかり言い、親御さんが「できる可能性があるんです」と言う。


「発達障害は治らない」「自閉症は支援するしかない」と言っている親御さん達の中には、こういった支援者からの"できない"を信じ、可能性を見つけることを諦めてしまった人たちが少なくないように感じます。
普通、考えてもみてください。
どこの世界に、子どもの可能性、将来を最初から諦めている親がしますか。
子どもが生まれれば、期待し、将来の可能性を夢み、楽しみにするのが親です。
この前、お会いした親御さんは、1歳半の時点で、専門家から「もう諦めなさい」と言われたんですよ。
生まれてたった1年半。
そこで諦めろなんてひどい話です。
でも、それが現実に起きていることなんです。


日によってできたり、できなかったりするのは当たり前。
能力間の差だって、定型の範囲まで育っている能力が1つでもあるのなら、他の能力も定型の範囲まで育つ可能性は十分にあるでしょ。
どうして一番低い能力、育っていない能力に、子どもの姿を見る必要があるの??
育っていないのなら、どうやったら育つかを考えるのが支援者であり、その可能性を最後まで信じるのが親。
ダメなところしか見えていない人に、子どもの発達を後押しすることはできませんし、子どもさんも迷惑です、そんな人に関われることは。




2020年11月2日月曜日

【No.1124】「長所を伸ばすか、短所を減らすか」ではなく、「資質を磨く、未発達を育てる」

時々、「発達障害だから私なんだ」「自閉症の特性があって良かったんだ」というような人を見かけます。
たぶん、これは自閉症を一つの才能として捉えているというか、そこに極端にフォーカスしているんだと思いますね。
裏を返せば、それだけ生きづらいということです。
単にポジティブな才能だとしたら、「私、絶対音感があるんです」とか、「私、過敏に相手の気持ちを察することができるんです」とか、「私、一度見た景色をそのまま覚えていられるんです」と言えば良いのですから。


何だかわからないんですが、私にとってかけがえのないものなんだ、それこそが私なんだと言う一方で、「生きづらい生きづらい」と言い、「理解を」と訴えます。
これだと良くなりたいのか、なりたくないのか、わかりませんね。
中にはアクロバティックな主張もあって、「この長所(?)を無くすくらいなら、ずっと発達障害でいい」などという人たちもいます。
まさに、これこそが医原病というか、特別支援病というか…。
育つ部分、治る部分、活かす部分がごちゃまぜというか、良く分かっていないんでしょうかね。
流れ作業のように、マニュアル支援によって「脳の機能障害」という言葉で、「はい、おしまい」になってしまう現状。
一人ひとりの"人"に対するアセスメントが行われていないという実態と、「大人の発達障害はちょっと…」と敬遠しがちで、子ども以上に諦めの態度で臨んでいる支援者たちが、生きづらさに目を閉じて、やたらめたらに「長所長所」と言い続け、こういった人たちを育てているのでしょう。
まあ、支援の目的がいまだに「二次障害にならないように」というのですから、文章を見せられれば「文の才能がある」、絵を見せられれば「絵の才能がある」、こだわりのものを見せられれば「その道を極めてみたら」と、無責任発言が繰り返されるのだと思います。


少なからず、こういった大人たち、特別支援の中の戯言の影響を受けているのでしょう。
お子さんを育てている親御さんの中にも、「特性が良くなる」「症状が育ってみられなくなる」と「長所も消える」という関係性について疑問に思われている人たちがいますね。
ほとんどが感覚の過敏性に関連する部分だといえますが。
結論から言えば、過敏性がなくなる、つまり、聴覚が育つ、前庭感覚が育つ、嗅覚が育つ、味覚が育つ、視覚が育つが、優れて育っている部分まで打ち消すことはありませんね。
私が見てきた子どもさん達は、未発達が育ち、過敏性がなくなったあとも、それまでの長所、資質の部分は残ったままです。


どういうことかと申しますと、たとえば一番多いのが聴覚過敏。
聴覚過敏によって苦しいけれども、絶対音感みたいなことが見られる場合。
聴覚過敏の大元は、前庭感覚の未発達なので、そちらが育ってくると、聞き取りが育っていくんですね。
音の聞き取りが良くなる、人の言葉の聞き洩らしが減る。
で、絶対音感みたいなものも残り続けるんです。
でも、これは一つ条件が合って、「この子は音の聞き分けが素晴らしいな。だから、ピアノを一緒に楽しもう」などと、そちらの方面でも育てようとしている場合に、です。
「うちの子、絶対音感がある。音楽の才能がある」と喜んでいるだけではダメで、その才能に気づき、一方で聴覚過敏、聴覚の未発達をどうにかしよう、育てようと、イメージで言えば両方から刺激し、育てている場合、それが聴覚が育ったあとも才能の一つとして残り続けるのです。
よく見かける「聴覚過敏は障害特性。でも、絶対音感は才能。だから、普段はイヤーマフを付け、家では音楽をたくさん聞かせる」という方向では、絶対音感を持った生きづらい人にしかなりませんね。
生きづらさ、未発達を育てるからこそ、資質が開花するのです。
もちろん、未発達を育てるだけでも、資質を伸ばそうとするだけでもダメで、よりバリエーションをもって豊かに育てることが重要です。


この前の発達相談でも、「心を育てるってどうしたらいいんですか?」と尋ねられました。
これもギョーカイ支援あるあるで、生きづらさの根っこにアプローチできない支援者が「心が育てば、できる子です、この子は」なんていうわけです。
障害特性はそのままで、できることは周囲の理解と支援だから、「心」という曖昧なものに注意をそらそうとするんですね。
身体が不調だと、気持ちも不調になります。
だから、身体の不調から整えていくんですね。
自由自在に動けない身体だから、心がいつまで経っても伸びやかになっていかない。
それと一緒で、才能、資質も、土台となる身体が整っていないと発揮できないし、磨きもできない。
いくらお題目のように、「あなたには才能がある」なんて言っても、その才能が発揮できなきゃ意味がないわけです。
文を描くのも、絵を描くのも、何かに詳しいのも、全部、身体がないとできない、身体が動かせないと表現することができない。
口先は妄想で、動いて初めてそれが現実となる。
お子さんを育てている親御さんは、本人の資質を見極め、そこを刺激しつつ、一方でその裏にある未発達を育てることをお忘れなく!




2020年10月30日金曜日

【No.1123】揺らぎ、言語化

いつも好き勝手書いているこのブログではありますが、読んでくださる方達に向けて2つのねらいがあるんです。
それは「揺らぎ」と「言語化」です。


「揺らぎ」っていうのは、心の揺らぎ、身体の揺らぎ、感情の揺らぎ、いろんな揺らぎがありますね。
「自分はこう考えていたけれども、もしかしたら別の道があるかも」
「もしかしたら、私が捉えていたものは、一側面でしかなかったかも」
とにかく何でもいいんで、揺らぎが起きて欲しいなと思って綴っています。
揺らぎがないと変化が生じないわけで、変化が生じないということは後退がなければ、進歩もないということですし、一切揺るがないというのは危険でもあるんですね。
その道を極めるような職人さんならそれども良いのだと思いますが、相手は生きているヒトですし、我が子とは言え、他人です。
しかも、私たちが関わろうとしているのは、発達という現象です。
その発達こそが、揺れ動く存在そのもの。


非定型なんて言われますが、定型発達だって安定ばかりではありませんね。
発達とは揺れ動きながら前に進んでいくものなので、そういった発達と向き合う大人たちも日頃から揺れ動く体験をしておく必要があると考えています。
「ああ、これでよかったのかな」
「もっと別の方法があったかも」
それがあるから、子どもさんの発達の流れ、揺れに合わせて柔軟な後押しができるのでしょう。
揺れない人っていうのは、子どもに見られる自然な揺れを自分の型の中に収めようとする傾向があり、子どもさんとお会いすると息苦しさを訴えていることが多くあります。


もう一つの「言語化」というのは、一人ひとりの内側にある感覚を言葉に表すことです。
発達相談で感じるのは、既に親御さん達の中ではアセスメントも、どうやって育てたら良いかも気がついている場合が多いということです。
ただ皆さん、それが言語化できていない。
無意識レベルでは捉えているし、日々の生活の中で察している。
だけれども、その感覚に見合う言葉が出てこないから、モヤモヤされているように感じます。
そのモヤモヤの状態が続くと、自分の内側から離れた言葉に身を寄せ始める。
「発達のヌケ」という言葉と出会えず、「それが"障害特性"だから」という言葉で無理やり自分の内側にあるものに命名している感じです。
これまで多くの親御さん達とお会いしてきましたが、察しているものと言葉のズレ、感じているものに見合う言葉がない、という状態が結果的に、子ども達の内側から発せられている声に気づけない要因の一つになっているように思えます。


「私がぶれてばっかりなんで、子どもがうまく育っていかないんです」
そうやって涙を流される親御さんは少なくないですね。
たぶん、これは「一貫性のある対応、支援」というギョーカイ用語の影響でもあると思います。
この「一貫性」云々というやつは、そのほうが子どもの発達、成長に繋がるという意味ではなく、「一貫して私達の支援をご利用ください」という商売文句なんですね。
だって、子どもの発達が一つの療育、支援、機関に納まるわけないでしょ。
一貫性がないから、揺れ動くから生きているのであり、それが発達しているということ。


ですから私は、「ブレないほうが問題でしょ。だって、親になって数年しか経っていないんだもん」とお伝えしています。
そうやって子どもと一緒にブレ動くからこそ、より豊かな発達があるのです。
親がブレなきゃ、そばにいる子どもも心地良く揺れ動くことができないですから。
子どもと一緒にゆらゆら揺れながら、海に浮かんで一緒に揺れているような感じが良いと思いますね。
波に抵抗するのではなく、波に身を任せ共に揺れながら、いつの間にか、海の中を自由自在に泳げるようになっているイメージ。


子どもさんが小さいうちは特に発達が安定せず、揺れが大きいときですから、ちゃんと親御さんにも揺れ動いて欲しいと思いますね。
「昨日は良かった。でも、今日はダメだった。だから明日は別の方法をやってみよう」
そういった試行錯誤が子育てには重要です。
オーダーメイドの子育てができていない親御さんを見ると、やっぱりこの試行錯誤の段階を飛ばしているんですね。
その飛ばした先が、依存させることが目的の支援者なら最悪です。
だから、このブログを読んで、ムカッとしてでも良いから、揺れ動きを体験すること、本来の自然な子育てのために準備をしてもらえたらな、と考えています。


そして日々の生活の中で感じたり、察したりしたことを、きちんと言語化すること。
子育てで重要なのは、ノンバーバルな次元を大切にすることです。
発達はノンバーバルな世界。
目に見えず、捉えることのできない現象だからこそ、私達は感じる心を大切にしなければなりません。
ノンバーバルな世界と私達の意識を結びつけるには、言語化という橋渡しが必要です。
お子さんと親御さんの感じる世界をつなぐような言葉、文章が書ければ、と思っています。




2020年10月29日木曜日

【No.1122】心にピッタリな言葉を

喉元過ぎればなんとやらで、きっと今回のコロナ騒動も、うやむやになって終わっていくでしょうね。
民間レベルでは振り返りや反省、問題点の整理などを行うのでしょうが、たぶん、そういった類の本もでますね、だけれども、国家レベルでは白黒はつけずに曖昧にして処理されていくと思います。
当然、当事者の人達の反省の弁もないでしょう。
気が付けば「コロナが終息した」「私達はコロナに打ち克った」などと言うのも見え見え。
ただ最初からそんなに恐れるレベルではなかったものを、いつまでも恐怖感というムードに引きづられ、軌道修正できなかっただけなのに。
「敗戦」を「終戦」と言ったり、この辺りは日本語の豊かさでもあり、豊かさに胡坐を嗅いだ日本人の悪いところでもあるように感じます。


言葉で言えば、特別支援の世界も、そういった曖昧さを利用した意図的な言い換えが多いですね。
たとえば、「移動支援」
学校終わりに車に乗せ、児童デイまで連れていき、終わったら家の玄関まで届ける。
これのどこが支援なんですかね。
お年寄りの移動"介護"と何が違うのでしょうか。
そしていつも思うのですが、学校の下校時間にタクシーをお願いして、乗り合いで児童デイまで行ったほうが安いと思いませんか。
みんなから集めた税金を使って、タクシー料金の何倍も使っている。
毎日ハイヤーで御迎えかよ、と思っちゃう金額です。
乗り合いなら割り算なのに、税金は人数の掛け算ですよ(ひとの金だと思ってプンプン)。
私はタクシーを使うほうがよっぽど子ども達のためになると思いますね。
タクシーの使い方の勉強、運転手さんとのやりとりから感じるもの、学ぶものもあるでしょうし。
それでいったら、公共のバスとかで移動したほうがいいですね。
一般のお客さんもいますし、沢山の刺激と学び、体験が得られます。
どうせ、「移動支援」というのなら、そういった将来につながるような支援をしてほしいものです。
学校の前からみんなでバスに乗って移動する際の見守り・支援。
支えるも何も、流れ作業のように子どもを乗せて、ただ送り届けているのは支援と言わないでしょ。


「自立支援」なんてもいいますが、その自立支援を受けて自立につながる人はいませんね。
だってやっているのが、自己肯定感を高めるという名の接待であり、将来介護しやすい人になるための、もっといえば、支援者が介護しやすいための訓練ばかりなのですから。
自立って、自分の身体を使い、自分の頭を使い、選択、判断、行動できることを言うんですよ。
それなのに、視覚支援の使い方の訓練、ボーロをもらったら言うことを聞く訓練、まったく般化も応用もできない社会のルールの丸暗記…全部、自分の身体を育てるものでも、自分の頭で判断できるためのものでもありませんね。
むしろ従順な姿勢を覚えさせているようです。
自立支援とは、自立につながるための支援なのですから、本人が自立に向かうにつれて支援が減っていくのが自然な流れ。
支援が変わらない、支援が増えていくというのは、自立から遠ざかっている証拠です。


「療育」という言葉もそうですね。
治療と教育、まあ、中には保育という人もいますが、まず治療はしていません。
だって、発達障害は脳の機能障害であって、治す対象ではないから。
そのような考えから脱却できていない特別支援に治療はありませんね。
療育機関の支援者に訊いてみたらいいですよ、「ここに通ったら、ちゃんとうちの子、治してくれますか?」って。
そうしたら十中八九、「いや、お母さん。"治る"っていうのはね…」とお決まりの説教が始まります。
治さない人たちが、どうして「療育」という言葉を使うのでしょうか、そういったものを看板に掲げているのでしょうか。
嘘の看板を掲げたら、虚偽表示法で罰せられますね。
せめて、私達は「育」をしています、と言わなきゃ。
介護しやすい子に育てるのも、育には違いありませんから。


まあ、そんなことをいったら、大元は発達障害という言葉がおかしいんですね。
「発達に遅れがある状態」「神経発達に不具合がある状態」というのが本来なのに、発達の障害になり、その障害は身体障害の人たちと同じような障害の意味にしてしまっているし、しかも昨日お話ししたように、発達の遅れがいつの間にか自閉症とイコールになってしまっていたりの現状があるし。
ある専門家の先生が、「"新型"って付くけれども、基本的にはコロナウィルスなんだから、対応は一緒です」と言っていましたね。
それと一緒で、不具合を障害と意図的(?)な誤訳をしたところから間違いが始まっているんですね。
「ああそうか、新型って言うけれども、いつもの風邪の一種ね」だったら、こんなことになっていなかったはずです。
「ああそうか、障害ではなく、不具合が起きている状態なんだね」だったら、その状態から抜け出せるように丁寧に育てればいいんじゃんってなったと思いますよ。
そうしたら、ほとんどの特別支援が必要なくなります。


今の特別支援って、介護が必要ないくらい元気なおじいちゃん、おばあちゃんに、あれこれやってあげて、挙句の果てに脳機能や筋力が衰えてしまう状態と似ていますよ。
そういえば、ジムに行っていたおじいちゃんがコロナで入院させられたことがありましたよね、ジムに行くくらい元気な人に入院は必要ないでしょ。
まあ話を戻すと、確かに何かしら発達に遅れがある子なのかもしれません。
でも、五体満足に産んでもらって、元気に学校に通えているでしょ。
だったら必要なのは、その足で、その身体と頭を使い、児童デイまで自力で移動することだと思いますよ。
就学時、身体がぐにゃぐにゃで、椅子に座っているのもしんどかった子が、毎日、登校を頑張り、また児童デイも自分で歩いて30分以上かけて通っていたんです。
久しぶりにあったら、身体の軸が育っていて、たくましくなっていましたよ。
もしこの子が、今のような移動支援を利用してたら、また違っていた姿だったと思います。
この子は、自分の足で育てたんですね。
もし支援が必要なら、その自分の足で歩く最初の頃の後押し、支援でしょ。


就労支援を受けて、就労できる人はほとんどいませんね。
というか、就労できるくらいの人は、就労支援を利用しない(爆)
これが三次障害というのかもしれませんが、必要のない介護を受け続けて、心身共に育たず、介護を受けることに慣れてしまった、介護に依存してしまった人たちが大勢いると思います。
「あの子、自立できるよね」と言われていた子が、ことごとく、介護慣れ、介護者依存を起こし、福祉の世界にどっぷり浸かっていますよね。
やってあげることって、やるほうにとっては気持ちが良くても、受けるほうにとってはまずい結果につながることが多いのです。


発達に遅れがある、発達にヌケがあるって、障害ではないですね。
自分ではどうしようもない部分に対して行うのが支援ですし、それは必要なことです。
じゃあ、発達に遅れのある子ども達に、今の特別支援は、ちゃんと支援できているのでしょうか。
それって余計なお世話じゃないの、それって介護じゃないの、介護しやすい子に育てているだけじゃないのって、みなさんは思いませんかね。
私は思いますよ。
未発達って、どうしようもないことではないもん、あとからでも育てられるもん。
育てるっていうアイディアと方法があって、そしてその力を子ども自身が持っているから。
今一度、我が子に、目の前の子の、何を自分は支援しているのか、それって介護になっていないか、一人ひとりが考えるときだと思います。


児童デイの送迎は、全部、タクシーにしたほうがいいですね。
もし一人で乗るのが難しい子がいたら、それこそ、同乗者が支援になります。
就労支援はジョブアプリに、診断もアプリに。
早期療育は全部やめて、その分、幼稚園、保育園の先生を増やして統合保育にしたほうが、発達の遅れやヌケが育つ可能性大、というか、そうやって発達に遅れがある子も、みんなの中で遊び育ってきたんですね、発達障害バブルの前までは。
放課後は、学童と地域の習い事と公園。
将来の生活の場である施設も、グループホームも、同じお金があるのならホテル暮らしにすればいい。
3食付いて1万円くらいでしょ、温泉も入れるし、スタッフも優しいし、部屋も掃除してくれるし。
特別支援なくしたら、毎日、Go to トラベル♪


特別支援の世界って、介護を「支援」という言葉に置き換えることで発展してきたんですね。
発達に遅れがある子ども達に、まだ今まさに育とうとしている、発達の真っ最中の子ども達に、「介護します」というのでは予算はおりないでしょ。
まあ、反対に、いつまで経っても福祉に予算が増えないのは、「自立につながっていないよね」って把握されているからだともいえますが。
発達に遅れがある子ども達に必要なのは、その遅れを育てる環境であり、時間なのです。
発達って療育機関だけのものでも、支援者だけが持っているものでもないでしょ。
登下校の道のり、親子の間に、家にも外にも、自然の中にも、それこそ、この世界全てが発達の場ですよ。


さあ、ギョーカイ用語を使うのはやめましょう。
使っているうちに、ギョーカイ脳になってしまいます。
大事なのは、子どもさんが感じている内側を言葉にすること。
そして親御さんが感じているそのままを言葉にすること。
言葉は道具であって、道具に心が支配されてはいけません。
「うちの子、発達の遅れがある。だから、そこを丁寧に育てよっ(^^)」
これが親子の願いであり、親子の心にピッタリな言葉ですね。




2020年10月28日水曜日

【No.1121】発達の遅れ=自閉症なの??

毎年、この時期になると、お子さんの成長した様子を教えてくれるメールが多く届きます。
夏思いっきり遊んだ子ども達が、だいたい3ヶ月くらい経って、ググッと神経が繋がり、大きく育つ時期なんでしょうね。
中には「大久保さんの発達相談のおかげで、治りました!」と言ってくださる親御さん達もいますが、まあ、私はきっかけの一つであって治す力は持っていませんし、言うならば治したのは子どもさん本人で、それを後押ししたのはご家族です。
でも、その「治った」も、私が関わるお子さんの場合、なんか違う気がしますね。
治ったというよりも、ヌケていた発達課題が育った、未発達の部分が育ったという感じ。
子どもが発達するのは当たり前なので、それに未発達が育つのは特別な出来事ではないですし。
ですから、治ったというよりも、特に幼児さん、小学生の子ども達に関しては、いま、「育った」のだと思います。
この辺りのニュアンスが、やはりある程度、年齢を重ね、生きづらさを抱えながらも、生活も、脳内も、折り合いをつけてきた人たちとは違うような気がします。


ここ1年くらい、「治った」と「育った」をその人の雰囲気で使い分けていました。
でも最近、わかったんですね、その違いが。
この前もそうなんですが、自閉症という診断名がある子のおうちに行ったんですね。
でも実際に本人にお会いしたら、どこが自閉症なんですか?と思うくらいナチュラルだし、そもそも診断基準ぜんぜん満たしてないじゃん、という子だったんです。
私が仕事で伺ったのに、反対にお母さんに「どうして自閉症って診断できたんですか?」「どういった行動、症状があったんですか?」と尋ねちゃうくらいです。
でも、こういった出来事というか、現象というか、本当に多いんですよね、道内だけではなくて、全国あちこちでも。


現在の診断方法が適当かはおいといて、自閉症というからには中核的な特性が揃っている必要がありますね。
言葉の遅れや他者との関わり、それに伴う想像性や固執、感覚面の異常さとか。
しかし私がお会いする子ども達は、あっても1つか、2つかで、それも既に治っている、症状や異常さが消えている、定型の範囲まで育っている場合ばかりなんです。
ここで考えられるのが、「治った」ということですね。
確かに診断を受けた時点では、自閉症の中核的な特性が一定以上見られていた。
でも、その後の成長の中で、そういった異常性を持つ特性が治って、今はこれだけになっている、自閉症の診断基準を満たしていない、ということ。
この場合、日本の特別支援における「一度、付けた診断は外れない(外さない)」というムラの掟が悪いほうに出ているんですね。
ある県では、その県内におけるトップの医師がいて、その医師が一度付けた診断名は外さないというルールがあると聞きました(しかも、複数の方面から)。
中には、正直に「勘弁してください。〇〇先生の判断を否定するようなことはできないんですよ~」と話してくれる若手の医師もいるそうですが。
世界的には認められている、というかそれが自然なことだと考えられている神経発達症に関しては「診断名が外れる」という現象も、国内ルールでは認めていませんので、こういったことが起きるんだと思いますね。


でも、ここで話が終わらないんです。
単に「一度付けた診断は外さない」というムラの掟ならわかるんですが、どうも最初から自閉症の特性が複数あったかどうか、そもそもそれが特性といえる状態なのかが怪しいんですよ。
「言葉の遅れはあったんですか?」と尋ねれば、「確かに言葉の遅れがありました。初語が2歳前後でしたから」と返ってきたりして、これの何が問題かといえば、初語が2歳前後は確かに同年齢の子と比べれば遅れていることに違いないが、それでも定型発達の範囲内ではあるんですね。
他にも、「共同注視がなかった」とか、「指さしがなかった」とかいうのもありますが、お母さんが困った顔をしていたら、すっと優しい声がけをしたり、「ねえねえ、見てみて」とモノを持ってきて見せたりしていたり。
あと多いのが、「こだわり」
こだわり、固執というのは、認知の部分で行うことではないんですね。
もう脳内でそうせざるを得ないような神経回路が出来上がってしまい、身体のあとから認知が追い付こうとしている感じです。
なので、本人の意思で止められないし、止めるにはそれ相当のダメージが生じるのが普通です。
それなのに、医師から診断された「こだわり」がただの車が好きとか、同じ道で帰りたがる(そっちに好きなものがあるから)とか、同じ服を着たがるとか、そんなレベルのものばかりなんです。
それって幼い子にフツーに見られる行動でし、そもそもそこに生活に支障が出るくらいの異常性はないでしょ。


そうなんです、生活に支障が出るくらい、本人にはどうしようもないくらいの症状だからこそ、障害になるのであって、ただの発達の遅れは障害ではないんですね。
つまり、私が仕事をしている範囲ではありますが、全国的に一時的な発達の遅れが、なんだかわからないけれども、「自閉症」になっているんですよ。
自閉症の子に発達の遅れが見られるのはわかるけれども、発達の遅れがある子=自閉症ではないんですね。
いやいや、それってただの発達の遅れだし、そもそも定型の範囲の後ろのほうにいるだけだし、というのが多すぎ。
「ああ、現時点で発達に遅れが見られていますね。だったら、そこを丁寧に育てていきましょうね」でしょ、普通。
それなのに、無理くりかどうかはわかりませんが、発達に遅れが出ている子を「自閉症」にしてしまう現状っておかしいですよね。


自閉症の診断基準って、何度読んでも、純粋に自閉症の人だけではなくて、重い知的障害を持つ子やそれこそまだ育っていない未発達が多い子も該当してしまうような記述になっているんですね。
だから、純粋な自閉症の人がいるのかどうかはわかりませんが、とても曖昧だし、診断者の意図によって広くひっかかるような仕組みになっているといえます。
だから誤診がこんなにも多いのでしょう。
そしてさらに問題をややこしくしているのが、白い巨塔みたいな医療の世界と、特別支援ムラの掟。
本当は良くないけれども、いいんですよ、誤診だったら誤診で、認めてくれれば、ちゃんと詫びてくれれば。
でも、ただの現時点で発達が遅いだけの子が、たぶん、療育や支援が受けられるようになるために「自閉症」という仮の診断名が付けられて、しかも外せない、しかも介護しやすい人に育つための支援の世界に放り込まれる…。
こうやって、最初は一時的に発達が遅れていただけの子が「自閉症」になり、そうやって育てられていくうちに自閉っぽくなっていくんですね。


発達の遅れは障害ではありませんね。
もし神経発達が生じないのでしたら、それは障害だと言えると思いますが。
実際は適切な環境と時間によって、ほとんどの子は育っていきます。
ただ育つ機会、環境、時間を奪われるから、発達の遅れが育たないまま、後天的に知的障害の範囲に入ってしまったり、育ちの偏りが脳の偏りになり、自閉症のような言動、症状が出てきたりするんだと思います。


ですから最近では、発達の遅れは、発達の遅れのままにしてくれよ、と思いますね。
そうすれば、親御さん達も、その遅れの部分に注目して、そこを丁寧に育てていこう、後押ししていこうという気が起きるのではないでしょうかね。
どう考えても、「自閉症」というインパクトは親御さん達にとって大き過ぎです。
「発達の遅れがありますね、お母さん」のままだったほうが、流さなくてよかった涙と、諦めなくてよかった子育て、家族の時間がたくさんあると思います。
それに前向きな関わりと子育ての中で、遅れていたところが自然と育ち、同年齢の子ども達と一緒に歩んでいけた子が多いですよ、きっと。


私が関わる家庭は、治ったというよりも、育った子のほうが多いと思います。
ということは、それだけ人災が多いんですよ、人災が。
良かれと思っての「自閉症」という診断かもしれませんが、結果的にその子の人生に大きな影響を与えているんですね。
本人自身がコントロールできない、それこそ、認知ではなく、脳内で生じている現象に関しては、支援や療育、理解や薬が必要でしょう。
でも、「発達障害も発達する」
さらに「子どもはみんな、発達する」
大人だって発達するんだし、発達しないんだったらそれは生きていないのです。
子どもの発達する力を信じなきゃいけませんね、まずはそこからですね。




2020年10月27日火曜日

【No.1120】発達のヌケは診断基準を満たすためにあるのではない

巷にノウハウ本やマニュアルが溢れているのは、それだけ「勉強熱心な人がいる!」ではないんですね。
みんな続かないから、そういったものがたくさんあるんで、積み上がったノウハウ本を見て、達成感の前借をしているんですね。
進学塾の先生も、「頭のいい奴はあれこれと参考書に手を出さず、その参考書を何度も解くもんだ」といっていました。
「浪人する奴は、参考書を買ったことに満足する」とも。


同じように療育の世界もマニュアルばかりですね。
「自閉症には構造化」
「問題行動は無視」
「二次障害回避には自己肯定感」
ほんと、A→Bみたいな感じで、全国どこに行っても、だいたい同じ問いに同じ答えが返ってきます。
まさに機械のマニュアルと一緒ですね。
「このボタンを押したら、画面が変わる」みたいな。
機械相手に商売しているのなら、これで良いのかもしれませんが、目の前にいる子ども達は生きている生の人間です。
だから、そもそもマニュアルのようなモノを作っても、まったく役には立たないんですね。


ではなんで特別支援の世界はマニュアル化に進んでいくかといったら、人材不足でしょう。
マニュアルの目的は、「誰でも同じ結果」です。
どの支援者、専門家も、一人ひとりの見立てをたて、その子に合った助言や支援ができれば、そんなものは邪魔なだけでめんどくさいだけ。
だけれども、現実はそうじゃないから、どの支援者も支援者っぽく見えるように、結果は良く分からないけれども、なんとなく専門的な何かをやっている雰囲気を出すために、一律のマニュアルが必要になります。
そうじゃなきゃ、ひと昔前の介護員と変わらないでしょ、支援員って。
やっていることは一緒だし。
私は支援員と名乗るためにこそ、マニュアル療育があるんだと思っています。


数学の計算式のような療育も、子育てもありませんね。
「栄養療法で発達障害が治った」というのも、ある意味、間違えになります。
現象としての、結果としての"治った"はあるでしょう。
だけれども、この場合は、「A君にはタンパク質不足や鉄不足があり、神経発達に必要な栄養素、酸素が足りない状態が続いていて神経発達に遅れが出る原因の一つになっているから、栄養面から改善を図った結果、刺激に反応するだけの準備が整って滞っていた発達が進み、治った」というくらい、まあ、短く書いてもこれくらいの言葉が抜けていますね。
で、この「栄養療法で発達障害が治った」という情報を見て、こういったことを瞬時に想像できる人間とそうではない人間で大きな差が出るのだと思います(脊髄反射で「治る」に反応する人は最初から無視!)。
感覚的に「栄養療法で治る子もいるだろうな」「たぶん、その子にとっては栄養不足がポイントだったんだろうな」「治った要因の一つだろう」という具合に理解できるかどうか。


今日も、「〇〇を育てたら、うちの子がガラッと変わった」というメールをいただきました。
ですから「それは良かったですね」とメールを返したところです。
おいおい、自分で「A→B」みたいなことはないと言っているのに、その返信は何だ!と言われそうですね。
確かにフツーに考えて、1つの発達課題を育てたら、その部分に関して変化が見られるのが自然です。
なので、何か発達課題をクリアしたからといって、ガラッと変わるなんてことはないし、それだけで普通級に入れるわけではありません。
でも、それがあるんですね。


子どもの脳、特に乳幼児期から小学校低学年くらいまでの子の脳は、未分化がポイントになっています。
右脳と左脳の未分化もそうですし、大人のようにある活動をしたら、それに必要な部位だけが反応するってことはなく、もっと広範囲に関連する部位が反応する、つまり、脳の部位が未分化でもあるんですね。
だからこういった幼い子の脳は、何でもいいからとにかく1つの発達課題を重点的に刺激し、丁寧に育てることがミソになります。


発達相談において、お子さんの年齢は重要な情報になります。
幼ければ幼いほど、1つの発達が全体的な発達に繋がる可能性が高いからです。
ですから私は、幼い子を持つ親御さんには、あれもこれもやらずに、「とにかく1つのことを丁寧に育ててみてください」と伝えています。
もちろん、アセスメントをすれば、発達課題が複数見つかるので、その優先順位はさりげなく伝えますが(笑)
まあ、でも、1つ育てれば、ガラッと変わる、ほかの部分でも発達が見られる、というのは、子どもさんの特徴ですね。
厳密に言えば、「〇〇を育てたから、ガラッと変わった」というのではなくて、「〇〇を育てたら、他の関連する部分も同時に刺激され、引っ張られるように全体的な発達が押し進められ、ガラッと変わった」という感じでしょうか。
ちなみに、利き手がはっきりしていない右脳と左脳の未分化の子がいて、脳的に言えば、かなり幼い段階の脳の状態だと言えるのですが、未分化の分、それだけ1つの発達刺激が脳全体への刺激になる可能性があると感じますね。


親御さんは、「うちの子、あれもできない、これもできない」と悩まれることが多いと思います。
それはそれだけお子さんのことをしっかり見ている証拠ですし、あとは専門家、支援者が「あれもだめ、これもだめ」とダメ出しばかりしてくるからでしょう。
本当は「あれもだめ、これもだめ」ではなく、「全体的な発達につながる糸口がたくさんあってラッキー♪」と思わなければなりませんね。
縁日の紐くじとは違います。
実際、育てるべき発達課題が多い子と言うのは、ガラッと変わったり、ドカンがきたりすることが多いですね。


思いだしてみてください。
我が子に発達の遅れがあると告げられたこと以上に、ただ理解だけ、支援だけ、生涯福祉みたいな「やりようがない」「改善する方法がない」と言われたほうが辛かったのでは、と思います。
今の特別支援の世界は、マニュアルで作られた世界です。
できないことを集めたチェックリストがあって、どれだけその子にできないことがあるか、で診断がつけられてしまう。
診断がついたら、療育へ、支援学校へ、児童デイへ、就労支援へ、入所施設へというそれぞれのマニュアルがある。
そこから外れようとする人がいれば、「マニュアルと違う行動するな」と御咎めあるくらい現実の社会とはかけ離れた世界です。
特別支援の理念は、マニュアルと対極にあったはずです。
でも、結局、マニュアルで作られた人間が、マニュアルに当てはめることを仕事にしていまいました。
一人ひとりにアレンジするからこそ、特別支援です。


私は良く「育てるところがいっぱいあって良いですね!」と言っています。
それは接待でも、慰めでもなく、実際にそうだから。
普通学校や職場で活躍している若者たちを見て、「どうせ軽かったんでしょ」という人がいますが、診断基準を飛び越えた人達は皆さん、「子ども時代は、できないことだらけだった」「症状が重くて大変だった」「いつも泣いてばかりいた」というような子ばかりです。
反対に「あの子、一般就労行けるんじゃない」と言われている子のほうが、福祉の世界にい続けるような気がします。
つまり、「育てるところ、治すところがたくさんある」はチャンスなんですね。
それらは診断基準を満たすためにあるのではなく、大きく育てるためにある。
そういったことを伝えたくて、あちこちに行ってしゃべりまくっています(笑)




2020年10月26日月曜日

【No.1119】金魚体操で思う

9月のzoom講演会で「金魚体操原理主義」という言葉がありましたね。
黄色本(『自閉っ子の心身をラクにしよう!』花風社)の中で、著者の栗本さんが金魚体操を紹介されたのがきっかけで、それから一気に広まったのだと思います。
それまで金魚体操は、保育の世界の知る人ぞ知る、知る人しか知らない小さな実践だったといえるのですが、今では神経発達症の子ども達をより良く育てよう!と考えている親御さん、支援者の中では当たり前みたいな感じになっています。
全国を見渡せば、寝る前の日課にされているご家庭が多いのではないでしょうか。


私の発達相談でも、「うちの金魚体操のやり方を確認してほしい」というようなこともがあります。
でも私は、自分ちの子ども達用に保育園で教わった方法しかわかりませんし、正しい(?)金魚体操というのがあるのかわかりませんが、栗本さんが実践、指導されている方法とは違うと思います。
というか、それでいいんですよね、一人ひとり違って。
黄色本にも、ポイントは子どもさんの呼吸の変化と表現されていましたし、具体的な時間とか、回数とかは書かれていませんでしたし。


ここからは黄色本を読んだ私の解釈になりますが、黄色本のこの部分について大事なことは、「金魚体操をやりましょう」「やったら良くなる」ではなくて、自閉っ子特有の身体的な固さと弛めることの大切さ、弛緩できる身体を育てることの必要性だと思いますね。
ですから、「うちの子、金魚体操が難しいんです」みたいなご家庭へは、弛む感覚を本人が感じられればいいんで、金魚体操にこだわる必要はないと思いますよ、と言っています。
金魚体操が唯一無二の素晴らしい方法みたいな感じで、金魚体操ができないなら、金魚体操ができる身体に育てる、みたいなちょっとズレてきている場合もあるかも。
ある若者は、近所で太極拳を教えてくれるところがあったみたいで、そこに通いながら「ああ、これが"弛む"か」なんて具合に、感覚的に掴めるようになったと言っていましたね。
他には、プールが好きな子は、弛むと水に浮かぶようになるから、それを目標に親子でゆらゆら揺れに行って育てている家庭もありました。


まあ、とにかく力を入れるだけではなく、入れたり、弛んだりできるように育つことが重要なんですね。
我が子に金魚体操をやろうとしても、なかなか受け入れてもらえないのなら、左右だけではなく、上下に揺らしてみたり、足ではなく腰をもって揺らしてみたり、うつ伏せの状態で親子2段重ねになって揺れてみたり…。
「金魚体操以外で弛む方法を見つけよう!」とするのもよいですね。
とにかく子どもさんの数だけアイディアがあると思います。
床に寝ての金魚体操は嫌だけれども、バランスボールの上だと心地良い、というお子さんがいて、こっちのほうが難しそうだなと私は思ったのですが、バランスボールに横たわってゆらゆら揺れて一日の疲れを癒している家庭もありましたよ。




2020年10月25日日曜日

【No.1118】他の家の育ったエピソードは「希望」と「考えるきっかけ」

人間、「ない」を目標にすることはできないんですね。
「ない」というのは具体的ではありませんし、だからこそ、そういったもんを思い描きながら何かをするって言うのは難しいんです。
よって「二次障害がない」っていうのは目標になりませんね。
二次障害が起きないようにするために、早期から療育に通う、療育を頑張って受ける。
イメージできないものを頑張ることはできませんので、そういったことを目標に掲げ、療育を受けていると、いつの間にか受けることが目的となり、振り返れば何のための年月だったのかと思うことになってしまいます。


ですから、「ない」ではなく、「ある」を目標にしなければなりませんね。
たとえば、「一人で宿題を始めて、終えることができる」とか、「自分で尿意を感じて、トイレで排泄できる」とか。
これだったら目指すべき姿が明確ですので、ちゃんと終わりがはっきりしていいんです。
何より、その子の顔、姿が浮かびますね。
お子さんにとってそうですし、親御さんにとっても待つ姿勢が保てて良いと思います。


親御さん達のお話を伺っていると、我が子の発達の遅れやなかなかヌケが埋まっていかないことのみに悩んでいるわけではないんですね。
むしろ近頃では、他の神経発達症の子どもが育っていく様子と自分たちを比べて、それが新たな悩みになっている場合が多いように感じます。
「ああ、あの子は順調に育っている(我が子は…)」
「同じようなアプローチをしているのに、うちの子と伸びが違う…」
「育った」「治った」という声は希望であると同時に、心を締め付ける作用もあるのだと思います。


そういった親御さん達に私はお話しするのですが、「診断が外れた」とか、「普通級で大丈夫になった」とか、「症状が治った」というのは、明らかに希望なんですね。
私が学生時代の親御さん達なんて、希望らしい希望すらなかったんですから。
「将来、どんなことを希望されますか?」と学生時分の私が親御さん達に尋ねると、ほとんどの親御さんが、「卒業後、家にいるのではなくて、どこか施設に入れること」「施設職員から嫌われないで生きていけること」「他人に迷惑をかけないで生きていってもらうこと」「できるだけ自分たちが長生きして、この子を置いて死なないこと」などとおっしゃっていました。
まさに、「ない」「ない」「ない」ばかりだったんですね。
なにかが「ある」姿が描けなかったんだと思いますよ。
当時は今以上に、「生涯、支援」「現状維持できたら儲けもの」「問題行動は嵐が去るのを待つのみ」なんてギョーカイ支援者たちから言われていましたから。
「治る」とか、「発達する」とか、「自立する」とか、そういった言葉も、人もいなかったですし。
だから、他の家庭のお子さん達が育っていく姿は希望以外ないのです。


その希望のみを享受できずにいる親御さんは、大きな勘違いをされていると感じます。
そうやって育ったよエピソードを発信する親御さん達は、「発達障害の子も発達する」と伝えたいという想いが中心なんですね。
決して自分が選択した方法、同じアプローチを「やってみて」と勧めているわけではないんですよ。
ある子が発達した方法を、うちの子もやったら、「同じ成果が出る」というのはあり得ませんね。
実験用のモルモットではないんですから。
同じ発達に遅れがある子でも、発達の仕方が違いますし、それまでの歩みが全然違います。
確かに同じような発達段階にヌケがある場合がありますが、こっちの子でうまく言った方法を、今目の前にいる子にアドバイスなんてことはしません。
なぜ、そこにヌケが起きたのかが違いますし、何よりも育っている環境も、本人の資質、個性も違います。
だからこそ、私たちのような支援者は、本人と家族、そして環境を見ながら、個別の助言をしているのです。
「はい、自閉症には視覚支援」
「はい、みんな、スケジュールを作りましょう」
なんていうようなのは、支援者っぽい仕事であって、一人の人間を支援する仕事ではないんですね。
一斉指導の講座に参加しても、受講者一人ひとりに合わせて助言を変えている人が本物です。


「育った」「発達した」というエピソードも、捉え方は人それぞれで、どういった状態があっての「育った」「発達した」かはわかりませんね。
万人が見て「これはまさしく発達したと言える状態ですね」とはならないでしょうし、そんなことはあり得ないと思います。
しかも、私も再三伝えているように、何で発達したかなんて因果関係がすっきり明確に示せることなんてありません。
どんなアプローチだって、その子に合わせて個別化するのは当たり前です。
厳しい言い方になりますが、本やネットで書かれていることをそのままやって「ああ、うちはダメだった、難しかった」は安易すぎです。
「育った」「発達した」「治った」と喜ばれている親御さん達は、誰かの助言、本やネットで書いていることをそのまま行っているわけではなく、必ず目の前のお子さんに合わせてアレンジしているものです。
アレンジなく、そのままコピー&ペーストは、単なる信仰です。
「信じたのに、結果が出なかった、裏切られた」と思うだけ時間の無駄ですね。


「一度、付いた診断名を外そうとしない」というのは、「発達障害の人も発達する」ということを信じていない証拠です。
いまだに、日本の特別支援の世界は、「発達に遅れがある子は遅れたまま」と考えられているのです。
だからこそ、一人ひとりの「発達したよ」というエピソードが重要なのです。
その発達を後押しするアプローチは無限にありますし、どれが良くて悪いかなんてわかりません。
それにどんなアプローチであったとしても、個別にオーダーメイドで作り上げていく必要があります。
何故なら、その子が発達するには、その子の持つ発達する力を引き出し、後押しすることが重要だからです。
結局、一にも、二にも、本人の発達する力です。
それがあってのアプローチ。
そのアプローチもすべてきっかけであり、本人の発達する力が伸びやかに発動した結果が、「育った」「発達した」「治った」になるのだと感じています。
何が本人の力を引き出すきっかけになるか、そんなものは人それぞれ違って当然ですね。


発達障害の子ども達に必要なのは、「支援」と「理解」なんていうのはチャンチャラおかしな話です。
「いつまで、何十年バカにしてるんだ、支援者たち」と言いたいですね。
発達障害の人も発達します。
その発達する方法は、子どもの人数だけある。
「専門的な支援を受けなきゃ」「早期から療育を受けなきゃ」なんてことはなく、親子の中にも、家庭の中にも、同年代の集団生活の中にも、外に、世界中に、どこでも発達する機会、きっかけはありますね。
専門的な支援、特別な支援だけが発達させるなんていうのは既に騙されている証拠。
だって、その専門家たちは「発達障害の人は発達する」なんて思っていないから。
診断基準を飛び越えて育っていくことを信じられない人たちが、どうしてその子達を発達させることができるのでしょうか。
すべて結果オーライで、育ったのはその子の発達する力が発動したから。
あるのは、一人ひとりの育つ力。
ないのは、みんなに共通するアプローチですね。




2020年10月22日木曜日

【No.1117】その「多動」って障害ですか??

発達相談では、ほんまかいな自閉症も多いんですが、ほんまかいな多動も多いんですね。
「ADHDの診断も受けているんです」というお母さんに、「それって、不注意のほうですかね」と訊くと、「いいえ、多動でついているんです」というパターンが少なくありません。
いやいや、家で静かに遊んでいるし、「それやめてね」と言われれば、自分で行動を制止できてるし…。
幼児さんが、公園とか、幼稚園・保育園とかでワーッとなっちゃうのは当たり前。
むしろ、ワーッとならないで、一人でぼんやりしている子のほうが心配ですね。
同じくらいの年代の子が集団になれば、テンションが上がるの普通だし、公園とか開放的な空間に行けば自然と走り回りたくなるのは普通だし。
子どもが子どもらしくして「障害児」になっちゃうんだったら、その診断の付け方が問題ですよ。


どうしてこんなことが起きるのかといえば、1つの診断キットというか、複数の視点や検査で診断していないからなんですね。
家の中で終始動きまわり、テーブルの上に上がる、声を叫びまくる、大人からの制止が利かないというくらいだったらわかりますが、そのようなお子さんはほとんどいなくて、結構、集中して活動できている時間があるんですね、家だと。
まずその家の姿をみれば、その「ADHD」という診断が適切ではないことがわかると思うんです。
だけれども、あるひと場面の様子のみで診断してしまうから、当然、そこで多動や落ち着きの無さを強調しちゃえば、それがすべてになってしまうのです。
でもね、診断ってかなり重いものだと思いますよ。
その診断名一つで、学校や進路、それこそ、服薬するかどうかまで決まっちゃう子とあるんだから。
それなのに、いまだに生物的なマーカーではなくて、親御さんからの聞き取りと、その場での行動のみで診断が決まってしまう。
今、どんな病気でも、それこそ、画像や数値などで客観的に判断できるものまでも、複数の医師が集まって、複数の検査を行い、この病気は本当にこの診断でいいのか、治療法でいいのかを慎重に検討するんですよ。
町医者が喉を見て、「ああ、風邪ですね」というのとは重みが違うんですよ、障害と診断するってことは。


障害というからには、その多動も、自分自身ではどうしようもない、コントロールすることができないというくらいの生活に支障が出るレベルのものだと思うんです。
私も、本当のというか、実際に生活に支障が出ているなと思うくらいのADHDの方たちにお会いしたことがありますが、その激しさというか、自分自身で自分の行動をコントロールできない苦しさ、脳が制御不能に陥っている大変さを感じましたね。
このような方達と対面したときには、薬の力を借りてでも、いち早くこの状態から抜け出してもらいたい、と思いました。
ですから、インスタントに多動と付けられた子ども達を見ると、そうじゃないよな、別の要因があるよな、やりようがあるよな、と思うんですね。


24時間、場所に関係なく動きまわっている子ではなく、ある場面で、一定の時間の中で多動になるお子さんで考えられることがいくつかあります。
まず本人の内側からの要因として…


●呼吸が浅いことによる自律神経優位からくる多動
●動き・身体・筋力の未発達があり、脳からの指令にそれらが応じられる段階にないことからくる多動
●反対に首・背骨が育っておらず中枢神経↔末梢神経がスムーズに繋がっていないことからくる多動
●内耳(前庭系)に未発達があり、自分と空間の位置関係を確かめたいがための多動
●過剰な糖質摂取とそれを代謝しようとする身体の中で生まれる多動
●愛着形成のヌケからくる「世の中がなんだか信じられない、怖い」というソワソワ感からの多動
●背中や身体地図が育っておらず、他人が背面や傍に来ることに対して反射的に行動してしまい、それが多動に見える(主に集団内のみ)
●乳幼児期からの長時間のメディア視聴により、脳の情報処理形態がずれてしまったことによって過剰で速い刺激を求めた結果の多動
●嗅覚の未発達による危険の察知や探索活動としての多動
●聴覚過敏等、未発達からくる過敏さによる回避行動としての多動
●フラッシュバックからの多動
などが考えられます。
もちろん、複合的ですよ。


あと環境側の要因としては、授業がつまらない(笑)、先生が嫌い、友達が嫌い、言っていることが分からない(内耳の未発達→聴覚の未発達も含む)、目に入る刺激が多い(聴覚の未発達からくる視覚優位)、新しい人・知らない人がいる、新しい物がある、何かが変わった、魅力的なモノがある、など。
環境要因は、無限にありますね。


でも一番多いのは、今朝栗本さん(からだ指導室 あんじん 主宰)も仰っていたように『何気ない動きや一見多動と思われる動きの中に自らを発達させていっていることがある』ということですね。
多動とか、落ち着きがないとか言っちゃうと何だか悪いことのように聞こえますが、本当は喜ぶべき姿であり、応援すべき姿なんですね。
家庭訪問でお子さんの様子を拝見させていただくと、「今、一生懸命、〇〇を育てているな~」と感じることが多いですよ。
実際、そういった動きをやり切ると、子どもさん自身で満足されると、スッと静かになったり、別の遊びを始めたりしますね。
こういった場合の多動は、ほとんどが一過性です。
だから決して、24時間、自分でどうしようもなくて動いてしまう多動とは様相が全く違います。
動きが伸びやかだし、何より心地良さそうですもん、子どもさん達。


動物園でチンパンジーや猿などの動物の子ども達を見ても、ヒトの子ども達を見ても、みんな、よく動きまわっています。
そりゃあ、当たり前ですよね。
動くことで自らを育てる必要があるんですから。
幼稚園や保育園、公園に行ってもそうです。
彼らにとって、この世界はまだ知らないことばかり。
だから、自分の身体を動かし、五感をフルに使い、この新しい世界を知ろうとしているのです。
大人から見れば、気付きもしないような虫や草花も、子ども達にとっては興奮し、知りたいと思う存在になります。
ヒトは動くことで自らを育て、人は動くことで世界を知り、広げていく。


時々、大人でも年がら年中動きまわっている人がいますが、そういった人達は脳がまだまだ勢いがあって若いんですね。
そして、「まだ知らない世界を見たい!」という想いが人一倍強い人。
そういった人を、クダラナイ専門家が「ADHDだ」なんて言いますが、自らの資質を磨き、活かして生きている人が障害というカテゴリーに入るわけがありません。
彼らの努力に対して失礼だし、意味のない分類なんてしていないで、彼らのような人に育つような後押し、アイディア、育て方の一つでも出してみろよ、と思いますね。
つまり、私が言いたいのは、「子どもの育ちを邪魔するな、専門家たち!」です。




2020年10月21日水曜日

【No.1116】なんで発達したかなんて、わかりっこない

ほんとに驚いてしまいます。
未だに「これだけの人数で抑えられているのは、多くの人が感染予防に努めているから」と言っているなんて…。
単なる負け惜しみか、自分が宣言したことを撤回できないだけなのか。
欧米で亡くなった方達も、そのほとんどが基礎疾患を持っている高齢者というデータが出ていますね。
「日本人はきれい好きで、予防の意識が高い」なんていうのも、屁理屈もよいところで、だったら、日本よりも決して衛生状態が良くないといえる東南アジアの国々で、どうして感染者数が少ないのか、死者数が増えないのか。


でも、一番腹立たしいのは、こういった発言をしている専門家が一般の人たちをバカにしていることですよ。
「緩めたら感染者数が爆発する」というのは、こちらが指示しなきゃ、自分たちで自己防衛は無理だろう、どうせすぐに好き放題、元の生活に戻るんだろう、という専門家特有の上から目線ですね。
そんなにいうのなら、世界的に基礎疾患を持っている人たちが重症化し、亡くなっているのですから、そっちの基礎疾患を治すほうを頑張ってくれよ、と思うのです。
私達は今回の騒動で今一度、立ち止まり、「医療とは」と問い直す必要があるのではないでしょうか。


立ち止まると言えば、今回、緊急事態宣言が出され、ほとんどの療育機関がストップした時期がありましたね。
未だに制限があったり、以前のような講演会、研修会が執り行われていない状況です。
今一度、考えましょう、「特別支援ってなんなのだろうか?」「療育ってなんなのだろうか?」と。


私がこの世界に入ったときには既に「早期療育は良いもの」「特別支援を受けることは当然のこと」とされていました。
でも、なんで早期療育を受ける必要があるのでしょうか。
どうして、支援級や支援学校に通う子ども達は、放課後は児童デイに行き、定期的に療育機関や病院に通うのでしょうか。
その目的と答えがよくわからないのです。


学生時代、確か療育も、支援も、「本人の"自立"へ繋げるものだ」と教わりました。
でも、いくら早期から療育を受けようとも、私達一般の人たちがイメージする自立をしている人はほとんどいませんね。
早期から療育や支援を受けた子は、大人になっても支援を受け続けています。
「自立」を掲げていたのは、輸入元である欧米の理念をそのまま持ってきたからでしょう。
私も実際に見てきましたが、日本で言えば、絶対に入所施設だよね、という人たちが地域のグループホームや家で生活していました。
あちらは、学校を出たら、どの人も家を出て暮らすという文化がありますので、それが特別支援の世界にも表れているのだといえます。
「家を出て一人前」「納税をして一人前」
それがあちらの文化です。


あとは環境の違いも大きいと思いましたね。
家の壁がぼこぼこだったり、一晩中、大きな声で叫ぶ人も、アパートというか、日本で言えば一軒家みたいなところで生活していました。
いくら叫んでも、大きな家に住んでいて、隣の家が離れていれば、そこまで問題にはならないでしょう。
言うならば、北海道でもさらに人が住んでいないようなところで、ポツンポツンと家があり、そこで暮らしているのです。
そういった文化と場所で生まれたものを、そのまま、日本に当てはめるのは無理がありますね。
だって言っちゃ悪いけれども、視覚支援がどうのこうのとか、支援方法がどうとかじゃないんだもん。
すべて食事はデリバリーでも、「彼は自立して生活できている」
食器洗いの仕事で洗い残しがあっても、「彼は自立して働いている」
まあ、食器洗いに関しては、職員さんも汚かったですが…。


ちょっと脱線しましたが、あちらの現状をしている人は気づいているんですね、「こりゃあ、療育や支援だけでは自立しない」と。
当時のギョーカイメジャーの有名支援者も、日本の講演会では絶賛し、推奨しつつ、内々で話したときは、「これを日本に持ってきても無理だよ」と言っていましたので。
ここは日本人特有というか、専門家とか、教授とか、理事長とか、肩書が付くと、全部まるまる正しいことを言っていると思ってしまうところがありますね。
今回もすごい賞を採った人が「10万人」と言ったきり、どこかに消えてしまいました。
専門家とはいえ人間ですし、いろんな関係性の中で生きているのですから、間違うこともあるし、本音と建前がある。


そういった「こりゃ、自立は無理だな」と気づいた専門家たちが、いつからか「早期から療育や支援を受けるのは、二次障害にならないためだ」と言うようになりました。
(そういえば、近頃、誰も自立って言いませんね)
これもおかしな論理ですね。
二次障害に"ならない"ため、なんですよ。
そんなもの、どうやって証明するの??
自閉症や知的障害を持つ人の中にも、二次障害を起こさない人はたくさんいます。
でも、それが療育や支援のおかげか、なんてどうやって言うことができるのです。
一卵性双生児の兄弟を連れてきて、片方は療育アリ、もう片方は療育なし、で育てて証明でもするんですかね。
ほんとうにばかばかしい話です。
デタラメを言うなら、もう少しまマシな文言を作るべきですね。


確かに診断を受けずに大人になり、精神疾患になってから初めて「自閉症」というような診断名が付くことがあります。
でも、「早くに気づかれなかった」「療育や支援を受けていれば違った」は、仮説の一つにすぎません。
だって、子ども時代に診断を受け、療育や支援を受けた人達の中にも、精神疾患になったり、自立できずにいる人が大勢いるのですから。
そんなことを言うと、「理解が足りなかった」と別の仮説を話し始める人がいますが、同じ時代を生きている人達の中にも、自閉症という特性を持ったまま、働き、自立し、家族を持っている人たちがいます。
それはただの仮説であり、その人の意見でしかないのに、あたかもそれが事実のように主張する。
そして、それを信じ実行した人たちの未来には、何の責任を持たない、言いっぱなし。
特別支援という閉鎖的でニッチな世界だけの話かと思えば、今回のコロナ騒動で、「ああ、どこも同じパターンの古典的な方法だったのね」と分かるのでした。


私の結論から言えば、受けても受けなくても大差はないし、子ども本人からしたら受けなくて困るようなことはないだろう、ということです。
むしろ、就学時、普通級に行っている子や今、自立して生活できている若者たちを見ると、できるだけ幼少期は同年齢の定型発達の子ども達とともに活動している人のほうが伸びているのがわかります。
私の20年弱の経験の範囲でしかありませんが、幼児期に療育機関や支援が必要な子が通う園にフルで通って、そのあと、就学時に普通級という子はほとんどいませんし、いたとしても、途中で支援級に移っていますね。
幼児期がっつり支援の子は、成長していっても、支援が切れない感じがします。
まあ、圧倒的に同年齢の子ども達が体験したり、学んだりできていることが抜けていますからね。


私はこの仕事をしていて、他人ができる支援なんて微々たるもんだな、と思います。
関わった子どもさん達の中には、普通級に転籍した子もいますし、幼児期に困っていた症状が見られなくなった子もいます。
「生涯、支援だね」と言われた子どもさんが、今は大学に行ったり、普通に就職したりしています。
だけれども、私が教えたアイディアとか、相談に乗った時間とかは、ほぼ影響なし。
結局は、本人が自分で感じ、考え、選択し、行動した結果なんですね。
そういった子ども達の親御さんとお話ししても、よくわかります。
誰も「私が〇〇したから」とか、「〇〇療法をしたから」とかって言わないんですね。
「ああ、この子が無事に自立できてよかったな」
「あのときの生きづらさがよくなって良かったな」
そんな感じです。


「早期療育があったから」
「うちの専門的な支援を受けたから」
そんなことをいうのは、自分に注目してもらいたい人間と、それを宣伝に使いも受けようとしている人間だけです。
だって、全部仮説だし、意見の一つだから。
もっといえば、本人ではない他人の勝手な解釈でしょ。


私も発達について一生懸命学んでいます。
でも、いくら発達について学び、詳しくなったとしても、その子がどうして変化したのかなんてわかりっこありません。
前後を比べて、発達したかどうかは現象として捉えることはできますが、それだってもっと遠い未来から見れば、完全に発達できたといえるのか、やりきったといえるのかはわからないのです。


ヒトの発達とは、目に見えるものではありません。
だから、誰々が言ったからとか、みんな利用しているからとか、そんなもんで選択してはなりません。
大事なのは、主体である子ども本人。
本人が前向きに療育機関に通っているのなら、そこに何か学びや成長があるのでしょう。
反対にそういった様子が見られないのなら、誰のために通っているのか、問い直してみることが必要だといえます。
それが「子どものことをよく見る」ということです。


私は多少経験がありますし、納税者でもありますので、療育が唯一の場所ではないことも、結果に見合わない額の税金が使われていることも分かります。
一般的な幼稚園だって、地域の公園だって、家族の旅行だって、親子の関わりだって、子ども達の発達を後押しするわけです。
どこが優れているとかはなく、いうならばその子の発達段階と時期によって、必要な場所が変わっていくのが自然です。
今の療育のレベルで言えば、発達段階の初期の子には意味があるでしょう。
でも、子どもの発達が進んでいるのに、通い続けるメリットはないと感じます。
まとめますと、療育に特別な効果の有意さはなく、家でも、普通の園でも、公園でも、親子だけでも育ってしまうとバレてしまうとまずいから必死に「自立」「二次障害」「専門性」と連呼しているだけですね(爆)
なんか(自称)専門家が言ってきたら、「先生からの意見、仮説の一つとして受け止めますね、ニコッ」と微笑み返し!




2020年10月20日火曜日

【No.1115】専門的な(?)対処法って

「エビデンス」同様、この界隈では「専門性」という言葉がよく出てきます。
「専門的な支援」
「専門的な療育」
「専門性を持った職員が指導を行います」
こうやって強調している様子を見ると、よほどご自身の専門性に疑念を持っているのかと思います(笑)
料理人がいちいち「私、包丁さばきの専門家です」なんて言いませんよね。
まあ、「創作フレンチの店」くらいは言うでしょうが、あえてその専門性を強調したりしません。
そりゃあ、その仕事をしているんだったら、腕の良しあしは別にして専門家には違いないのですから。


あまり他の職業というか、一般的な社会の中で生きていると、自分で自分のことを専門性があるとかないとかは言いません。
だから、この世界に入ってから、ずっと違和感を持っていたんですね。
みんな、恥ずかしげもなく「専門性」という言葉を自分たちに使っているから。
フツー、そういうのって、利用してくれた人とかが評価して言うものだと思うのですが。


そう考えると、なんで特別支援の世界にいる人間が「専門性」にこだわるのかよくわかります。
結局、外からは評価しづらいんですね、特別支援の世界って。
療育でも、支援でも、特定の支援者の関わりでも、本当にそれが子どものポジティブな変化に繋がったかどうかわかりません。
私も20年近くこの世界にいますが、そりゃあ、短期的に、今この瞬間のレベルでいえば、よい変化につながったかなと思うこともありますが、そんなのはわからないし、評価なんてできません。
まあ、これは将来的にネガティブな変化に繋がるな、というのはビシバシ分かりますが(笑)


「よくなった」という姿が、単に本人の発達と成長によるもの。
そういった場合がほとんどだといえます。
週に1回とか、一日1時間とか、療育・支援を受けたからって、なにがどうってことはありませんね。
そんなのでうまくいくなら、早期療育を受けた子ども達が「診断が外れないのはナゼ?」「卒業後の進路が福祉一択なのはナゼ?」「幼いときの問題行動が大人になっても続いているのはナゼ?」
やってもやらなくても変わらないのが大部分。
だから私はいつも「趣味嗜好」と表現してるんですね。


揺れ動く親御さんにとっては、優しい言葉をかけてくれる人が、しかも、その人が自分のことを「専門性がある」って言っているし、専門性がある支援者の人が私に「大丈夫だよ」と言って寄り添ってくれる。
一昔前の結婚詐欺みたいな感じ、「ぼく、東大」「ぼく、年収1千万」。
話を遡れば、そもそも揺れ動かしたのは最初に出会った専門家が不治の病みたいな表現で脅すのが悪いのですが。
「専門」という言葉もそうですが、特別支援の支援者って、その瞬間、その瞬間のみの短期的な存在なんですね。
ほぼやっているのが、親御さんの話を聞く、優しい言葉をかける、ヘタなカウンセラーみたいな別名、問題の先送り。


あとは、高々に(自らが)掲げる専門的な支援・療育は、対処療法。
「うちの子、睡眠障害なんです」
「息子さんは布団に入ってから、なかなか眠れないのですか?」
「そうなんです。布団中でずっとタブレットで動画を観ているんです」
親御さんを否定しないがギョーカイルール、ギョーカイ全体の誤学習なので、「そのタブレットを自由にさせているのが悪いんじゃ」と喉もとまで来てもグッと堪える。
そして「寝る時間を絵で示したらどうですか」というTHE平成の視覚支援、伝統芸能みたいな代々伝わる型を令和のママ達に伝授する。
全国を見渡せば、「眠れる身体を育てよう」という方向で、その子の土台から、根っこから育てようとしている親御さん達が大勢いるのに。
もうすでに、親御さんの興味関心は、根本からの解決に進んでいますね。


私は思います、専門的な対処療法ってなんだろうか、と。
対処の専門、対処の専門家と言うことです。
それは「その場しのぎ」ともいえますので、時間をかけて待つことが大切な発達の仕事は向いていないと思います。
せめて本人自ら対処できるようになるために、子どもさんに、もしくはその親御さんが自力できるような技術転移をしなければ、「仕事をしている」とはいえませんね。
「専門的な」というのが「対処」の前に来るのもおかしな話なんですが、対処法をその子が習得するためではなくて、対処法を受けるためにどこどこに通うというのは理解に苦しみます。


療育機関で「対処」が必要なら、その療育機関に行かなければ、対処する事柄に出会わないからいいわけです。
もし家で対処すべき何らかの出来事があるのなら、そんなものは現場である家で対処をしなければ意味がない。
支援者が家に来てくれて対処してくれるのなら、なんぼか意味があるかもしれませんが、家で対処すべき困ったことがあり、それを療育機関に行き、対処療法を受けることでどうにかしようというのは、アクロバティックな動きすぎ。
療育機関で対処を受けたあと、家で困っていたことが起きなかったとしたら、それは疲れていたか、ちょうどその行動の止め時とタイミングが合っただけですね。
問題行動は、根っこにある課題を根本解決しなければ収まるわけはないのですから。
それは成人以降も続いている問題行動の一つも解決できない今までの特別支援が証明してくれています。
行動障害を持つ人が減らずに増え続けているのも、そうですね。


重い知的障害を持つ自閉症者、発達障害児への支援は、対処で良かったというか、許されていたんですね、数十年前までは。
だって治らないし、教育の効果、受ける意味すらモヤモヤしたものがあったから。
その時代の親御さんからしたら、たとえ対処であっても、何よりも見捨てず関わってくれること、関わり続けてくれることが有難かったのだと想像します。
しかし、もうそんな時代ではありません。


知的障害を持つ子も、認知的にも向上し、同じ状態にとどまり続けるわけではないこと、中には診断名がそぐわなくなるくらいまで育つ子がいることが明らかになりました。
実際、私もそうですが、重度判定だった子が今は大人になって一般就労しているのを知っています。
脳の機能障害から神経発達の不具合に認識が変わり、自閉症の特性と言われていたものが、未発達・ヌケの状態ということが明らかになってきました。
「聴覚過敏はイヤーマフ」という対処が、聴覚の未発達なら育てられるよね、に変わったのです。
ずっとイヤーマフをつけて人生を生きていくよりも、聴覚の未発達を育てて、ラクな耳になったほうがいいと望むのは、親御さんの自然な感情だと思います。


みんな根本解決がわからなかったから、対処法でも「専門」を語ることが許されていたんですね。
でも、その根本的な原因と解決するための育て方がわかった現在、対処法に「専門」という言葉をつけるのは、そして自分たちでそういうのも、より恥ずかしいことだと感じるようになりました。
幼児でもタブレットを使い、学習しているときに、おじさん、おばさんが「私、タブレットを使える専門家」と言うくらい愉快な状況だと思います。


私個人的な感想なのですが、これからの時代、特別支援において「専門」という言葉を使うのは相当勇気がいること、よっぽどの何かがないと難しいと思います。
持っている情報は、そこら辺の支援者も、親御さんも変わりないから。
知識で言えば、子の人生がかかっている親御さんのほうが一生懸命学びますし、収集しているといえます。
そもそも未だに「脳の機能障害」とか言っている支援者がいるくらい情報更新が苦手なのですから。
少なからず、どこの誰でも言えるような対処法しか答えることのできない支援者、支援機関は淘汰されていくでしょう。
対処と根本解決を比べれば、どちらのほうがその子の人生にとって良い選択になるのか、考える必要もないくらい明らかですから。
顔オムツ同様、その役目を終えたら丸めてポイです。




2020年10月19日月曜日

【No.1114】短期的な有効性、長期的な有効性

有効な治療法が確立されている場合、その診断名には意味があるといえるでしょう。
しかし、発達障害や自閉症、近頃で言えばHSPなどは、診断名に対応する治療法が存在しませんので、一時的な効果があるかもしれませんが、本人の生きづらさの根本を解決につながるわけではありません。
最近も、「ホント、診断受ける理由って、なんなんですかね」と訊かれましたので、「まあ、"分かった気"にさせてくれるという効果はありますね」と答えています。
「過去に自閉症の人と関わったことがある」
「発達障害について本で学びました」
一人ひとりがまったく異なるのに、なんだか知った気分にしてくれるのが「自閉症」「発達障害」という言葉の起源なのでしょう。


同じような印象を持つのが、エビデンスという言葉です。
「エビデンスがある療育」なんていうと、それだけで我が子にも、自分が担当している子にも効果がある、と思ってしまう。
これだけ療育という言葉が浸透したこんにちにおいても、いまだに療育が将来の自立につながるというエビデンスが出ていないのに。


現在、エビデンスのある療育と言われているものの多くは、対症療法です。
ですから、そのあると言われるエビデンスも、長期的な効果、有効性ではなく、短期的な効果、有効性になります。
その療法を受けて1週間後、1ヶ月後、3ヶ月後、1年後の有効性をフォローできるかもしれませんが、はたしてその持続している効果が療育だけの効果なのか、単に1年経ってその子が発達したためできているのか、学習や理解ができるようになってできているのか、そんなのは時間が経てば経つほど、わからなくなるものです。
ですから、いくらエビデンスがあろうが、短期的な効果になってしまうのです。


確かに視覚支援は有効です。
それは、まだ言葉や理解が進んでいない乳幼児にとって。
そのくらいの子ども達は、言葉よりも、目で見たほうが理解できます。
確かに行動療法は有効です。
それは、まだ十分に考える力が育っていない子ども達にとって。
今、次の瞬間、良いことがある、悪いことがある。
幼い子どもにとっては行動を変える力になりますが、成長するにつれて短期的な未来のみでは行動を変えなくなります。
長期的な視野、展望、自分の考え、過去の経験、私という自我と感情、そして体調も。
それらが複雑に絡み合いどういった行動をとるかが決まってくるのです。


2013年より前は、脳の機能障害と考えられ、誰も診断が外れるとは思っていませんでした。
特にいまある一般的な療育の多くは、知的障害を持つ自閉症者が中心というか、そういった人しか想定していなかった時代に生まれたものです。
なので、乳幼児くらいの発達段階にある人に有効であれば良いのであって、その次の段階、その次の段階というように発達していく子ども達が想定されていません。
そりゃあ、誰でも視覚的な支援、ABAのような行動療法、SSTで行われているルールの丸暗記が有効な時期があるでしょう。
でも、それは定型発達で言えば一時的であって、神経発達症の子ども達にとっても発達のヌケや遅れが育っていけば不必要になるのです。


大学生の相談で、いまだに視覚支援を勧める支援者がいるそうです。
大学生になるくらいの認知的な発達があるのに、乳幼児の段階の支援を勧める意味が分かりません。
確かに就学前の混乱期には、視覚支援や行動療法、丸暗記のSSTが助けになったかもしれません。
でも、その必要な時期は一時です。
標準療法はエビデンスがあり、有効ですが、ある発達段階においてのみです。
生涯助けてくれるような療法はありません。
「発達障害も発達する」
それはどの人も思っているのに、どうして選択している療育が幼いときのままなのか、いつまで対処、対処の対処療法を行っているのか。
短期的な有効性が、長期的な有効性を証明するものにはなりません。


対処療法は、どこまでいっても対処療法です。
ですから、根本的な解決を目指さなければなりません。
それこそ、対処療法がいらなくなることが根本的な解決になるのです。
神経発達症の子ども達は、土台となる神経発達の部分にヌケや遅れがあります。
発達とは、時間をかけてじっくり育てていくものです。
対処療法が今、短期的な未来しか見ていなのと異なり、長期的な視野に立ち、社会人としての自立を目標にしながら進めていくものだと思います。
その自立だって、18歳とか、20歳とかではなく、ひとにとっては30歳からの自立、40歳からの自立になります。


ヒトは生涯、発達を続けるものなので、本当に発達なのかどうかは人生を振り返ったときにしかわかりません。
私達が「発達した」と喜んでみている姿も、途中経過でしかないのです。
本当のところは誰も分からない。
だからこそ、その場しのぎで対処しているだけではなく、根本からの育ち、本人が発達し続けられるような環境づくりと後押しが重要なのだと思います。
短期的なモノにばかり目が奪われてしまい、子どもさんが自立できること、生涯発達、成長し続けられることを見失ってはならないのです。
一喜一憂は対処療法の専売特許。
まあ、だからみんなはまりやすく、抜けにくいといえますが。




2020年10月15日木曜日

【No.1113】批判的な視点と合理的な判断

夕食のとき、上の子が「マスクするのって"日本のルール"なの?」と訊いてきました。
即否定しようと口先が動きましたが、せっかくの気付きでから、どうしてそのような疑問を持ったのか尋ねてみると、学校にマスクをつけたがらない子がいて、先生がその子を注意(?)するときに、「日本のルール」という言葉が出たとのことでした。
そのとき、なんだか変だなと思って、私に訊いたそうです。


まだ生まれて1桁しか生きていない子です。
なので、日本が法治国家であるとか、科学的な根拠がどうだとかの理解は難しいでしょう。
でも、自分なりに学校の外ではマスクしていないし、外を見ればマスクしていない大人がいるし(父さんしていないww)、なんかおかしいなと思ったようです。
私は基本的に、上の子が自分でつけようと思えばつければいいし、いらないと思えば外せばいい、と伝えています。
そして、マスクをつけていないことを指摘されて、嫌なことや自分で解決できないことがあれば、父さんに言いなさい、と言っています。
「そのときは徹底的にやっつけてやる」と(笑)


まあ、とにかく自分で疑問に思うこと、自分で考え行動することは、これからの長い人生の中でとても重要なことです。
今回のコロナ騒動は、子ども達にとってウィルスの害よりも、社会から受ける害のほうが圧倒的に多かったといえます。
しかし、そんな中でも唯一良かったことは、こうやって大人は嘘をつくことも、間違うこともある、という事実を体験することができたことでしょう。
上の子には常々、大人も、先生も、親である私も、間違うことがあるし、嘘をつくことがある、と伝えています。
大事なことは、「誰かが言ったから」というだけで思考停止して信じることは間違いであり、まず自分で考えること、例え多数派ではなかったとしても、自分がおかしいと思ったことはきちんと批判的に考えることだと思っています。


「もし自粛しなかったら、42万人が死ぬ」
今年も変わらず夏があり、お盆があり、シルバーウィークがあり、そしてGOTOもあった。
明らかに緊急事態宣言のときとは異なり、みんな、自粛はしていなかったのに、お亡くなりになった方は1600人ちょっと。
まあ、いまだに自粛して引きこもっている人もいるとは思いますが、この数字の開きはどういうことでしょうか。
私なんて、2月も出張していたし、緊急事態宣言が解除された日に飛行機に乗って出張していたし、その後は毎月2回のペースで全国に行っていたし。
42万人が正しければ、私もその中の一人だった可能性は高いでしょうし、少なくとも発症くらいはしていたでしょう。
ある程度、合理的に物事を考える人でしたら、最初の計算、想定値が誤りだったと気づくはずです。
しかも、そのお亡くなりになった方達の平均年齢は、日本人の平均寿命とほぼ一緒というか、それよりもやや高いくらい。
コロナが原因でお亡くなりになったのか、寿命がきてお亡くなりになった方の身体の中にコロナウィルスがいたのか。
この辺りの論理的な思考についても、中学校の数学レベルの話だと思いますね。


ついで言ってしまえば、毎日、東京都には周辺の県から多くの社会人や学生、私立に通う小中学生、幼稚園や保育園に行く乳幼児が電車に乗って移動してきます。
私も高校時代は、そんな満員電車に揺られて通学していました。
あのね、密が問題だったら、完全にアウトでしょ。
東京が多い(?)のは、人口と検査数の話であって、感染力は首都圏も、地方も変わらない。
ということは、密がどうのこうのではなくて、結局、長い時間、感染した人の飛沫を浴びれば、そりゃあ、感染するわな、という話。
若い人がバタバタと倒れていく。
ウィルスが1つでもついたら感染する。
そういった次元の話ならわかりますが、1月に騒動が始まって、もう10月。
なぜ、頭の中が1月・2月のままで更新されないのか、私には理解不能です。


私はこの騒動を通して最初に思ったのは、これほどまでに日本人の考える力は弱いのか、育っていないのか、ということです。
今までも仕事を通して、「どうして脳の機能障害のままで止まっているのだろうか」「私が学生時代に言われていたことを今もなお、発信し、行い続けているのだろうか」と疑問に思い続けていました。
今回、私はよくわかりました。
たぶん、日本の教育の仕方、方向性が悪かったのでしょう。
「御上の言うことに従っていれば」の精神が、学校教育の中にも流れ、先生の言うことを聞けば、先生の言った通りの答案を書けば、返事をすれば良い点数と評価が貰える、という限定的で誤った文化が多くの国民の中に根付いているのだと思います。


私は、私立や高等教育には期待している部分もありますが、公立の学校教育には1ミリも期待していません。
冒頭で紹介したエピソードのように、その子どもにとってはよい気づき、学びの機会だったのにもかかわらず、「日本のルール」というようなことしか言えない学校教育であり、何よりも先生自体が自分の考えで行動することができていないからです。
率直に言って、上から言われた通りにしか動けない、自分の頭で考え行動することのできない人には、これからを生きる子ども達を育てることはできないと私は思います。
コミュニケーションが苦手な子に、さあ、社会性を教えようかというときに、マスク姿でどうやって行おうというのでしょうか。
口では「子ども達の発達を」と言い、偉そうに学校の目標に、児童デイの窓にベタベタと掲げているのにもかかわらず、子ども達の酸素不足や他人の表情が見えないことに対する発達の影響が考慮されていない、いや、無視しているようにすら見える。
結局、子どもの発達、成長よりも、自分が批判されないことを、上から言われたことに従うことを選択しているのでしょう。
私は、親も、先生も、支援者も、専門家も、大局観的に物事を考えられない人は子どもの教育に向いていないと思っています。
発達も、成長も、今行ったことが今実を結ぶのではなく、5年後、10年後、それこそ、人生を振り返ったときに結果となって表れるからです。
本当の発達、成長は、5年、10年、20年と長いスパンで見ないとわかるわけはないのです。


早期診断を受け、早期療育を受け、特別支援教育も受け、そしてその子はどんな人生を歩んでいるのか。
そういった「良いこと」と言われたことを全部やって、それこそ、家族の時間、思い出よりも、優先させてきたのに、学校卒業後は福祉の支援を受けて生活している。
それだけのことをやって、社会人として自立した生活ができるようになっている人がたくさん。
そうだったら受け続ける意味はあるといえますが、やっても、やらなくても、行き先が同じなら「良いこと」という前提が間違っていると合理的に考えられるはずです。
むしろ、早期からの診断、療育は、誤診のリスクを高めますし、同年齢の子どもが体験していることが体験できないというネガティブな面もあります。


「マスクしなければならない」と言ったのは誰なのか?
それと同じように、「早期診断、早期療育を受けなければならない」と言ったのは誰なのか?
「42万人死ぬ」と言ったように、「療育を受けなければ、二次障害が」と脅した人間は誰なのか?
その言葉を信じ、自粛した先に、お店や職、希望ややりたかったこと、夢、人生の計画、そして命までをも失った人たちがいるのです。
同じことが、この特別支援の世界に起きていないでしょうか。
必死になって、年端もいかない子を抱え、診断を受けに行った、電車で1時間かけて療育機関に通った、専門家を集めた個別支援会議もやった、でも、今は福祉利用の待機待ち。
そんなご家族を見ていますと、特別支援という選択の裏に、どれほどのものを諦め捨ててきたのか、と思いますよ。


他の専門家の人達からの指摘によりますと、まず42万人という答えを出す前の元のデータの時点で誤りがあったといわれています。
まあ、その辺りは私にはわかりませんが、とにかく42万人は死んでいないし、「大変な2週間後」がいつまで経ってもやってきていない。
どんなに優秀な人でも、間違うことはあります。
特に現代のような、日々、情報が更新されていくような時代、しかもボーダレスに、今日正しかったことが明日過ちだったことなんて当たり前にあるのです。
科学的な論文だって、どんどん否定されて、新しい現象、結果が出る時代に、数年おきに改訂される学校の教科書がすべて正しい、事実だということなんてあり得ません。
そんな時代を生きる私達大人と、これから生きていく子ども達。


正しいと考えられていたことがひっくり返ることなんて当たり前。
だからこそ、過ちをすぐに認め、訂正・修正できる、情報を更新できる力が必要になってきます。
しつこいようですが、私が学生時代に正しいと言われていたのが「早期診断」「早期療育」「視覚支援」「脳の機能障害」ですよ。
あれから15年くらい経ち、いろんな研究が行われ、情報が更新されて、しかも、そういった正しいと言われていたことをすべて行ってきた人たちが大人になっているのです。
どこの誰が行ったか分からないような上記の言葉を、なぜ、批判的な視点を持つことなく令和の子ども達に当てはめようとするのか。
どうして自分の頭で考え、検証し、合理的な判断ができないのか。
本当に、心から、私は今の日本人の考える力の弱さにガッカリしています。


開業時から始めたこのブログも、更新回数が1100を超えました。
最初の頃のブログを読み返すと、恥ずかしくなるような、典型的な凡支援者が誰でも言えるようなことを綴っています。
本当は消去したい気持ちもありますが、こうやって情報が更新されていく姿、その当時はどんなことが信じられていたのか、正しいとされていたのかが、あとから読んでくださった方にもわかるようにと思い、そのまま残し続けています。


今日綴っていることが明日否定されるかもしれません。
一年前、私が助言したことが間違っていることだって多々あると思います。
そんなとき、ちゃんと謝罪し、訂正できる人間でありたいものです。
そしてそのためには、日々、学び続け、情報を更新し続ける必要があると考えています。
昔から「子は親の背中を見て育つ」と言われていますので。




2020年10月13日火曜日

【No.1112】関係性から見る「療法」と「支援者」

函館ではほとんどそんなことはないんですが(笑)、出張での訪問となると、お父さんも遊びには行かず、中にはわざわざ仕事をお休みして、ご両親、ご家族そろって発達相談を受けられる場合が多くあります。
数年前までは、「どうして俺もいなきゃいけないんだ」というオーラぷんぷんのお父さんもいましたし、隙あらば席を立とうとするお父さんもいましたが(笑)、今は積極的なお父さんばかりで、私も楽しい時間を過ごすことができています。


もちろん、母子だけという相談もあります。
しかし、家のその場にお父さんがいなくても、いろんな理由から離れて暮らしていたとしても、子どもさんの中には、きちんと関係性が表れています。
「普段はこうやって遊んでいるのかな」
「こういった部分は、お父さんからの影響を受けているのかな」
「お父さんは、我が子をこのように育てたいと思ってのかな」
母子関係ばかり強調されますが、男の子は特に父親との関係性の中から学び取ろうとする本能的な力を感じます。


私は家庭訪問をしているので、自然な親子、家族の関係性が見えるという利点があると思ってます。
というか、発達相談なので、その関係性が見えなければ、仕事になりませんね。
よく子どもだけとか、お母さんだけとか、単独での検査や面談が行われますが、それでは課題の本質は見えてこないだろう、と思います。
そして何よりも、検査も、面談も、やっておしまいではなくて、その後の未来、家庭生活の中にフィードバックされるからこそ、意味が出てくるのだといえるでしょ。
子どもが家庭の中で、親子間で、家族との関係の中で見せる姿が本当の姿。
子育てとは特にヒトにとっては関係性を中心に営まれるものなので、関係性を通して子どもさんを見て、その関係性をより豊かにしていくことがより良い育ちへと繋がっていくのです。


まあ、ここまでが前フリで、今日のメインはここからです(相変わらず、前置きが長い)。
一旦、特別支援の世界へ足を踏み入れると、いろんな名称の専門家が出てくるし、勧めてくる療法も様々だし、子どもよりも、支援者、専門家との付き合いのほうが疲れる、という親御さんは少なくないと思います。
そういった親御さんは、「関係性」というのをキーワードにして烏合の衆を見ていくと、すっきりしていくでしょう。


たとえば、視覚支援。
視覚支援は、なんだかんだ道具が出てきますが、結局のところ、本人と私との関係性を良くしようとしています。
その"私"は、親御さんも含まれますが、支援者も、先生も、当てはまります。
別に家庭や子育てに特化したものではなく、いうならば、本人自体の育ちをサポートしているわけではなく、より良い関係性を築くためのコミュニケーションツールという側面が強いといえます。
ABAに関しては、モロ関係性を使った指導方法で、賞罰を使いながら関係性を構築していき、関係性と一緒に何かを身に付けさせようとする方法だといえます。
つまり、その子との関係性の中でより良く育っていくというよりも、教える側と教わる側、支援する側と支援される側という関係性をはっきりさせることがポイントです。


専門家、支援者、先生を見るときも、関係性から見るとわかりやすくなります。
子どもの発達の相談に行っているのに、「お母さん、よく頑張ってますね」「辛くないですか」「無理しないで支援を」ばかり言ってくる。
それは相手がお母さんとの関係性を結ぼうとしている証拠です。
そんな人のところに通っても、子どもは育っていきませんね。


また、子どもをやたら褒めたり、子どもに気にいられるようなことばかりをやる人は、子どもとの関係性を結ぼうとしている証拠です。
裏を返せば、長く支援していこうという魂胆があるということ。
とすれば、自立させる気がないか、自立できるとハナから思っていなか、はたまた自立できるだけの腕を持ち併せていないか。
「本人と良い関係が築けないと指導、支援できない」というのは、幻想です。
その子の目を通してみれば、自分にとって有益な人だからこそ、関係性が出てくるのです。
関わっても何の得もない、自分の成長に繋がらない人間が結びたがる関係性は、ただのストーカー。
腕が無いから、「せめて、この子に気にいられるように」と思っているかはわかりませんが、プロだったら技術から先に見せんしゃい!
ただ関係性を築くだけだったら、ホスト、ホステスさんのほうが何百倍優れていて、楽しいですよね。


ということで、関係性を結ぼうとしてくる支援者はケアの人達です。
自立を促す人、教育する人、発達を後押しする人ではありません。
もちろん、そのときの心身の状態によってケアを求める人、特に親御さんはいるでしょうが、結局、子どもさんが生きづらさを解消できなければ、自立に向けた発達成長ができなければ、状況は変わっていきません。
神経発達症の子ども達が、生涯生きづらいまま、発達の課題を抱えたままというのでしたら、ケアを求めることは必要なのかもしれませんが、彼らは発達するし、求めているのは発達を後押ししてくれること。
親御さんから見れば、我が子との関係性を結んでくれる人が多いほうが良いと思うでしょうが、それは特別支援の世界の人間に限ることではありませんね。
むしろ、地域の、社会の、いろんな人たちとの関係性のほうが良いはずです。
あくまで支援者は、有期限の、お金を貰って関わっている人間たちだから。


親と子の関係性は、自然であり、子が伸びやかに育つ環境に近いといえます。
親と子の関係から親戚、園の先生、友達、学校、職場、地域、社会というように伸びやかに育つ環境が広がっていくイメージです。
社会に出てからも成長し続ける若者たちをみれば、人生の始まりの頃に豊かな関係性の原形があるように感じます。
それは母子であっても、父子であっても、兄弟であっても、祖父母との関係性であっても。


関係性は、自然と結ばれていくもの。
人工的に、人為的に結んでいくものではありませんね。
自然と結ばれた関係性の中には、心地良さがあるものです。
ですから、親子一緒の面談のときには、子どもさんの自然な姿が見られます。
言葉に表現できないような雰囲気としての心地良さ。
それが維持され、豊かになっていくことが、子どもの豊かな発達と成長へと繋がっていると私はいつも感じるのです。




2020年10月12日月曜日

【No.1111】発達に必要なのは「時間」

子ども達の発達に何が一番大事かと問われれば、私は迷うことなく「時間」と答えます。
神経の発達には、タンパク質等の「栄養」が重要です。
でも、生きていくための最低限の栄養があれば、神経発達は生じます。
人類の歴史のほとんどが飢えとの闘いだったことを考えると、それがわかるでしょう。
同じように「酸素」も神経発達には重要になりますが、こちらも生きていくための最低限が確保されていれば大丈夫。
もちろん、栄養と酸素の充足具合が神経発達の広がり方に影響を及ぼしますが。
最後に「刺激」ですが、たとえ無刺激な空間があり、そこにいたとしても、身体の内部では変化が生じ、刺激が生まれ続けます。
ですから、「栄養」「酸素」「刺激」に関しては、生きていくための必須ではあっても、神経発達の必須条件ではないといえます。


しかし、「時間」だけは違います。
ヒトが生きているように、神経も生きています。
生きている神経が変化するには、時間が必要なのです。
別の言い方をすれば、「時間があるから変化が生じる」になります。


発達相談をしている中で感じるのは、8割は時間が解決してくれる(誤学習は時間が解決しません)ということです。
前回のブログで、秋になると年中さんの相談が増える、相談者の低年齢化が進んでいる、というお話をしました。
でも、これらの問題は、子どもさん自身の問題でも、家庭の子育ての問題でもありません。
言うならば、本人の発達のペースと社会が求めるペースとのミスマッチが原因です。
一人ひとり子どもには発達のペースがあり、それは必ずしも社会の区切り、年齢の区切りと一致するわけもない(というか、同学年でも4月生まれと3月生まれは全然違う)。
なのに、今はどんどん余白が失われていき、発達がマニュアル化されてしまっています。


社会、大人のほうに余裕がなくなり、効率化の波が子育て、教育にも入ってきたともいえるでしょう。
しかし、こういった子育てのマニュアル化、定型発達か否かを明確に区切り始めたのは、特別支援に関わる人間だと思っています。
もともと学校、教育には寛容さがありました。
いろんな課題、凸凹、発達のペースの違いを持つ子ども達がいるのが当たり前でした。
それが2000年以降の高機能ブームに乗っかり、専門家、ギョーカイ団体が誤った認識を広げ、あらゆる分野に侵食していきました。
令和になってもそれまでと変わらず、小学校の1年生の教科書は、ひらがなの読み方、そして書き方を教えます。
それなのに、年長児の就学相談で「文字が読めない」「書けない」というと、すぐに支援級が勧められます。
自分たちで1年生の学習内容を設定しつつ、年長児を基準にしてはじこうとすることの愚かさ。
同じように、生まれて1年、2年しか経っていない子に対して、発達障害前提で特別支援へとつなげようとする保健師、医療、行政もナンセンスです。


学生時代からこの世界に入り、いろんな人や出来事を見てきましたが、ギョーカイの専門家、支援者の一番の問題は、子ども達、親御さん達から時間を奪ったことだと考えています。
以前にもお話ししましたが、10歳くらいから一気に伸びる子が少なくありません。
他にも、いわゆる大器晩成と呼ばれるような発達の仕方、広がり方をする人たちがいます。
だけれども、そのような子ども達は、その時間が満たされる前に、多くは就学時に振り分けが行われてしまいます。
私も時々お会いしますが、あと1、2年あれば、普通級で普通の子として学び、生きていったのにな、と感じるお子さんがいます。
そんな子が、特別支援の中に入れられ、勉強の機会も、同世代との集団活動の機会も奪われ、挙句の果てに薬や支援という名の介護の世界に放り込まれている。
知的障害は作られることもあるのです。


また、どう考えても、年端もいかない子を抱えて、療育機関に通う姿は異常です。
本来、発達に遅れや気になることがあったときに、最初に相談する人間は、子育ての中でどのように育てて行けばよいかを伝えるべきでしょ。
それが「じゃあ、発達障害専門の医療機関へ」「療育機関へ」と案内するだけなら、子育て相談という看板を掲げた特別支援への勧誘です。
あと、乳幼児期の子ども達にとって基本的な生活習慣の確立と、何よりも母子を中心とした愛着形成が大切なはずです。
幼い子どもさんが親御さんとの関係性の中で、ゆっくり愛着という土台を築いていく。
そのことをどう考えているのか、その時間を奪っていることに気が付かないのか、訊いてみたくなる人たちがいます。
でも、愛着障害を抱える人が多い特別支援の世界ですから、そこに気づかないのも無理ないかもしれませんね。


スペクトラムと言いながら、定型と非定型と明確な線を引こうとしてきたのは、特別支援の人間たちです。
時間があれば、境界線を飛び越え、定型発達の範囲に入る子ども達をも、6歳で区切り、3歳で区切り、それが1歳、0歳までに及ぼうとしています。
たまたまそのとき、発達が遅れていた子が搾取されていく。
搾取という言葉を使うのは、「一生涯、障害は変わらない」という前提で支援が展開されて行くからです。
早期に診断をつけるのは、早期から始めれば予後が良くなるからという理由しかないのに、やっているのは介護しやすい子を育てる方法ばかり。
だから、子ども達の未来、育つ可能性、そのための時間を"搾取"しているというのです。
早期診断早期療育で救われた子よりも、奪われた子の方が圧倒的に多いでしょう。
早期診断も、早期療育も、いらない。


「〇〇をしたら、良くなった」というのは、物語としては気持ちが良いものです。
しかし、「〇〇」をしなくても、良くなったかもしれません。
たまたまタイミングがあった、その子の発達には時間が必要だった、という可能性があるのです。
といいますか、私はそう思って仕事をしています。
神経発達とは、本人の身体の内側で生じていることです。
つまり、その子の持つ伸びる力、発達する力によるところが大きい。
子ども達がより伸びやかに成長する環境になることはできても、直接手を突っ込んで伸ばしてあげることはできない。
だからこそ、目の前の子どもが、心地良く伸びていける時間を守ることが重要なのです。
そのことを私は、「子ども達の発達を保障する」と表現しています。


子ども自身、自分の発達に必要な環境はわかります。
ただし、アクセスが限られるために、親御さんがそのニーズを察し、導いていく必要があります。
親御さんが子のニーズを察するのはセンス、選び準備するのは行動力&体力、何を選ぶかは運と縁、選んだモノの同士の価値は団栗の背比べ。
神経発達に必要なのは時間であり、その時間の価値に気が付くことが、子どもの発達する力を信じることになる。
「私がダメだから、遅れたまま」というのは、傲慢にも聞こえます。
遅れも、成長も、治ったも、子どものものであり、子ども自身で成しえたものですから。




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【関東出張について】

11月下旬の関東出張ですが、告知後すぐに多数お申し込みをいただき、予定がすべて決まりました。
あまりにもすぐに決まってしまったため、昨日から今日にかけてもお問い合わせをいただいております。
検討中だった方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。
今回、お申し込みに間に合わなかった方で、次回を希望される方がいらっしゃいましたら、告知前に優先してご連絡いたします。
ご希望の方はメールください。


2020年10月10日土曜日

関東出張のご案内(11月27日~29日)

お陰様で予定がすべて決まりました(2020年10月11日8:00)

本日、正式なご依頼があり、11月27日~29日の間で関東に出張することになりました。
まだ航空券等に余裕がありますので、他のご家族でお申し込みがあれば、それをお受けしてから日程を決めたいと考えています。


【訪問可能な日時】
11月27日(金)午前「✖」 午後「△」*ご希望があれば調整します。
11月28日(土)午前「〇」 午後「〇」*「午前午後可」という形で1家族決まりました。
11月29日(日)午前「埼玉」午後「〇」


たぶん、2020年は最後の関東出張になると思います。
お子さんの発達の確認、2021年に向けたより良い子育てなど、「この機会に」というご家族がいらっしゃいましたら、お問い合わせください。
お問い合わせ先→てらっこ塾HP
どうぞよろしくお願い致します。


【No.1110】2030年以降、『予防』が中心になっていく

近頃は、口に関する勉強をしています。
医学的な咀嚼や嚥下の話はもちろんのこと、機能改善のためのリハビリ、保育の方面からも離乳食、幼児の食事について改めて学び直しています。
それはコロナ後を見据えた準備です。
既にちらほら影響が聞かれてきていますが、来年以降はもっと口に関するトラブルを抱えている子ども達が表面化してくると思います。
咀嚼や嚥下は生きるための基本であり、そこに遅れが出るということは、多方面へ波及してしまいます。
酸素不足、口呼吸によるダメージ、歯茎からの情報探索、言葉の遅れ、手との協調運動、味覚、聴覚の育ち…。
それがさらに、対人面、認知面、運動面の発達に影響を及ぼしていきます。
乳幼児期の子どもにとって、モデルとなる大人の口元が見えないということは大問題です。


私は民間の経営者ですので、今のニーズだけを見て仕事をしていけば、すぐに倒産してしまいます。
生き残っている民間企業を見れば、どこも時代のニーズの半歩から一歩先を歩いているのがわかります。
私で言えば、今のニーズは家庭でのアセスメント、子育ての仕方ではありますが、近い未来はコロナ禍で作られた発達障害の子の遅れをフォローすることであり、その先は発達障害の予防になると考えています。
今までは発達に遅れが見られてからの相談であり、ニーズでしたが、今後も、少子化は歯止めが利かず、一方で診断を受ける子が増えるでしょうから、妊娠が分かった親御さん、出生後、さあ、子育てを始めていこうという親御さんからの相談、ニーズが出てくると予想しています。
2030年代には、「発達の遅れが出てから」から「発達の遅れが出る前に」になると思います。


以前からそのように考え、準備していましたが、ここ1、2年でさらに強く思うようになりました。
それは発達相談の低年齢化です。
もう今では2歳代の子のご家族からの依頼には驚かなくなりました。
1歳代の子も珍しくはなくなったのです。
1歳代で診断をつける意味がわかりませんが、実際、診断をつけられる子が増えているのも事実。
この先、0歳代の子のご家族から依頼があったらどうしようかと思う一方で、それが将来のニーズである「予防」を連想させるものでもあります。


同じように「先に先に」という流れを感じることがあります。
来年度に就学を迎えるお子さん達は、夏から秋にかけて就学相談や就学時健康診断が行われる時期です。
就学は一つの重要なポイントになりますので、就学に関する相談や準備についてのニーズは高いのですが、夏を過ぎると今の年長さんからの依頼がガクッと減ります。
そして年中さんからの依頼が一気に増えていきます。
3年前くらいまでは、就学を控える年長さんからの相談が中心だったのに、ガラッと年中さんに中心が移り、年少さんくらいから「就学までの準備として、できることを」というご家庭が増えてきました。
お受験とは違うのですが、できるだけ早い時期から就学の準備を、就学に支障が出るような発達課題のクリアを、と希望される姿が重なって見えることがあります。


タイムリーな情報とともに生きてきた世代の親御さん達が増えていけば、「より早く、より効率的に、リスクは最小限で」という方向で進んでいくと思います。
当然、それは子育てにも表れていくでしょう。
「より良く育てよう」という中に、発達のリスクを最小限にという部分も入ってくるはずです。
そういった2030年以降の未来から今を見れば、ここからの10年間は移行期になります。


就学までに、6歳までに発達の課題をクリアしておくというのは、スタンダードになるでしょう。
ですから、乳幼児期の子どもさんを想定した発達援助を磨いていかなければなりませんし、当然、この時期の主はお子さん本人というよりも、親御さんになりますので、その親御さんへの説明、助言の仕方の工夫と、親御さん自身の健康、主体性、発達課題、愛着の課題などをクリアすることの助言が重要になっていきます。
今は7対3くらいの感じで、お子さんと親御さんのアセスメントと助言を行っていますが、もしかしたら逆転するくらいがよいのかもしれません。


一方で低年齢化が進めば、6歳までに課題をクリアしきれない家庭も多く出てくるはずです。
そうなれば、クリアできないことの不安と、6歳が近づいてくる焦りを抱える家庭が増えていくと思います。
そういった家庭に対する助言と前向きな子育てに繋がるための後押し、そして次のポイントに向けた準備の提案ができなければなりません。
発達のパターンとして、ゆっくり神経が繋がっていく子がいて、それが青年期、成人期になる人がいるのも事実。
長い時間をかけて育っていく家庭の力になれるよう、そのように時間をかけて育ち、課題をクリアしている今の若者たちから学ぶ必要があると思っています。


「予防」が主になれば、私の仕事はとてもシンプルになりますし、あまり悩む必要はなくなると思います。
当然、私の仕事のニーズもなくなっていくはずです。
リスク要因は明らかになっていますし、仕事を通した関わりの中で蓄積され、見えてきた要因もあります。
それぞれの運動発達におけるポイントも決まっていますので、あとはそれを辿っているかを確認し、できていなければ親御さんにフォローの仕方をお伝えする。


今のところの結論からいえば、もともとその要素をもっていたかどうかよりも、環境要因のほうが発達に大きな影響を与えると思います。
「発達に遅れが出る状態、環境をそのままにしておかない」
これが「予防」のポイントであり、2030年以降の援助の柱になると考えています。
あとは親御さんに「動物としての育ち」「動物としての子育て」を改めてお伝えし、気づき、実感してもらうことも。


10年後もこの仕事をしているかはわかりませんが、10年後に向けた準備はしています。
私は民間企業であり、過去ではなく、未来をよりよくするための仕事をやっていますので。