2020年11月4日水曜日

【No.1125】日によってできたり、できなかったり

自閉っ子は、発達障害の子は「凸凹がある」というような言い方をされます。
確かに、アセスメントをしていても、こっちは同年代と同じくらいで、あっちは数年遅れている、なんてことは多々あります。
まあ、神経発達に不具合がある子ども達なので、というか、神経の繋がりにバラつきがあるのですから、「ああ、ここが抜けた分、迂回してこっちと繋がったのかな」「本来、必要ないくつかの繋がりの部分が少し足りないな」と感じます。
イメージで言えば、たとえ同じようにできていることでも、定型の子どもさんよりも迂回や繋がっている本数が違う分、目一杯でできている感じ。
よって、応用するような場面で、それらの回路がうまく使えなかったりして、能力の凸凹ができてしまうように思えます。


能力の凸凹ですので、「数学はできるけれども、国語がまったくできない」ですとか、「素晴らしい文章は書けるけれども、他人の気持ちを察することが苦手」などというようなことを指すのだと思いますし、実際、そのような人達が多いと言えます。
知的障害を持つ人達の場合、全体的な発達が遅れている、全体的な認知機能で遅れがある、という様相を見せるので、ここが神経発達症の人達に特徴的なところでしょう。
しかし、どうも、この能力の凸凹が拡大解釈されているようです。


子どもというのは、神経発達が盛んな時期ですし、気分や体調によって、できることができなかったり、やれるのに「今日はやりたくない」とやらなかったりします。
これは幼ければ、幼いほど、当たり前ですし、自然な子どもの姿だといえます。
一度、できるようになったことは、コンスタントにできるというのは、心身共に年齢を重ねないと見られない姿です(大人でも難しいww)。
それなのに、この「できたり、できなかったりする」が能力の凸凹であり、発達障害の特徴である、故に自閉症である、なんてことを言う人たちがいるのです。
最初は、親御さんの口からそういった話が出ていましたので、その都度、説明はしてきたのですが、なんと「支援者からそうやって言われた」という親御さんがいたり、中にはそれが診断の決め手だという風に言われ、診断名をつける材料にされてしまったご家族もいるのです。


いつからコンスタントにできる=定型になり、それができないと発達障害になったのでしょうか。
日によってできたり、できなかったりするのが子どもであって、そんなことを言ったら、世の中の子ども全てが発達障害になってしまいます。
もともと認知機能の検査をすると、自閉症の子の多くに能力間の差が大きい傾向が見られたため、それが1つの判断材料となっていただけなのに、いつの間にか同じ活動の日ごとの差までをも、障害の特性、または根拠に使われてしまうような事態になってしまいました。
ギョーカイというのは、どこまで発達障害を増やしたら気が済むのでしょうか。


同年齢の子の発達から見て、同じようにできる能力がある一方で、大きく定型から外れるような能力がある。
だからこそ、同年齢と同じ環境で学ぶには配力が必要であり、そもそもそこが本人の生きづらさに繋がっているのです。
たとえば、昨日は友達と集団で遊ぶことができた。
でも、今日は友達と遊べず、ずっと一人で活動をしていた。
これって本人の生きづらさにはつながっていませんよね。
そりゃあ、昨日と今日で体調も、気分も違うわけですし、遊ぶ内容だって違う。
しかも、本人が納得して一人で遊んでいるならいいじゃないですか。
っていうか、一人で遊ぶのは障害ではありませんね。


私だったらここで注目するのは、昨日、友達と集団で遊ぶことができたこと。
たとえ、それが昨日一日の出来事だったとしても、集団で遊べたというのは、素晴らしい能力であり、ちゃんと育っている証拠です。
365日あって一度もない、今まで生まれてから一度も友達と遊んだことがないというのでしたら、そこに配慮や発達のヌケ、遅れを生めるようなアプローチ、トレーニングが必要になるといえますが、そうじゃないんですね。
まだ不安定かも知れないし、それこそコンスタントに見られるわけではないけれども、ちゃんと育ちの息吹を感じる、友達を意識し、遊びの場を共有しようとする動きがみられる。
それこそが、この子をより良く育てる糸口であり、子どもらしい発達のプロセスだと思うんです。


でもね、その一方で、「今日、友達と遊べなかったじゃないか」「一人で遊ぶなんて、自閉症の子の特徴だ」などと言って、そっちばっかりに注目し、挙句の果てに診断の根拠にしてしまう人たちがいるのです。
今までに数えくれないほど、親御さんからの相談がありましたよ、「できないことばかり言われて、そこは諦めなさいと言われました」「『いくら家ではできるんです。検査室でできなかったのは、緊張したからだと思うんです』と言っても、『検査結果がすべてだから』『私には分かるんですよ、お母さん』と言って聞く耳を持ってくれませんでした」という話が。


家でもできなくて、園でもできなくて、検査室でもできなくて、初めて一致するんじゃないですかね。
家でできるのなら、その子の内側には能力があるし、それが育つ可能性があるということではないでしょうか。
どうして家や園でできることが、いつもじゃなくても時々できることが、過去にできていたことが、その子のアセスメントに加えられないのでしょうか。
たぶん、ここには専門家特有の「親の言うことは当てにならない」「親よりも、専門家の見立てのほうが正しい」というおごりがあるのだと思います。
だから、家でできたことが検査室でできない=検査者の腕が悪い、というのを認めたくなくて、親御さんの見立てを一蹴しているのでしょう。
あとは、発達障害の診断自体が微妙なものなので、必死にできないところを集めて、無理くり診断名をつけている場合も少なからずあると思います。


とにかくたまったもんじゃないですよ、日による違いまであたかも「発達の凸凹」「能力の凸凹」にされてしまい、だから自閉症ですね、あなたの子には生涯支援が必要ですね、とされてしまうのは。
本当に無茶苦茶な話です。
「支援者って、どうしてあんなにも揚げ足取りなんですか?」
「療育機関に行っても、ダメ出ししかされないのは、どうしてなんですか?」
こういったのは、よく質問されることですので、私は「まあ、悪趣味なんでしょうね」って答えています。
それくらい診断もそうですし、療育機関も、とにかく"できない"に注目し、いったんそこを切り捨てることから始めます。
そして「できないことは諦めましょう」「できることを支援していきましょう」と進んでいく。


でも、支援者、専門家があっさり言い放つ"できない"って本当にできないことなのでしょうか。
一方的に決め付ける"できない"の中にも、環境を工夫すれば、発達のヌケや遅れを育て直せば"できる"に変わるものも少なくないと思います。
それに"できない"の中には、支援者が見逃している"できる"もたくさんあると思います。
というか、親御さんが"できない"と諦めているものの中から、"できる"や可能性を見つけるのが支援者の役目でしょ。
今、反対になっているんですよ、支援者が「できない」とばかり言い、親御さんが「できる可能性があるんです」と言う。


「発達障害は治らない」「自閉症は支援するしかない」と言っている親御さん達の中には、こういった支援者からの"できない"を信じ、可能性を見つけることを諦めてしまった人たちが少なくないように感じます。
普通、考えてもみてください。
どこの世界に、子どもの可能性、将来を最初から諦めている親がしますか。
子どもが生まれれば、期待し、将来の可能性を夢み、楽しみにするのが親です。
この前、お会いした親御さんは、1歳半の時点で、専門家から「もう諦めなさい」と言われたんですよ。
生まれてたった1年半。
そこで諦めろなんてひどい話です。
でも、それが現実に起きていることなんです。


日によってできたり、できなかったりするのは当たり前。
能力間の差だって、定型の範囲まで育っている能力が1つでもあるのなら、他の能力も定型の範囲まで育つ可能性は十分にあるでしょ。
どうして一番低い能力、育っていない能力に、子どもの姿を見る必要があるの??
育っていないのなら、どうやったら育つかを考えるのが支援者であり、その可能性を最後まで信じるのが親。
ダメなところしか見えていない人に、子どもの発達を後押しすることはできませんし、子どもさんも迷惑です、そんな人に関われることは。




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