2019年11月11日月曜日

「障害ゆえに生きづらい」と「生きづらいゆえに障害」という連想

誤学習ランキングをつけるとすれば、「発達障害ゆえに生きづらい」が上位に食い込んでくると思います。
面談でお話ししていると、「それって、発達障害、関係なくね」と思う場面がよくあります。
「私は発達障害だから勉強ができないんだ」
「僕は発達障害だから、みんなに嫌われる」


詳しくお話をきくと、同じ勉強方法にこだわっていたり、そもそも勉強していなかったり。
周囲の人達は、発達障害を嫌っているのではなく、迷惑行為を嫌っていたりする。
「そんなことをしていたら、発達障害じゃなくても、嫌われるよね」ということがあります。
失敗や嫌われるにしても、因果関係が掴めていない。
ゆえに、また同じミスを繰り返す、の無限ループ。


因果関係が掴めないのは、情報が読みとれない、空気感が捉えられない、という本人側の理由が考えられます。
まあ、これが「発達障害ゆえ」と言われたら、そういう面もあるでしょう。
しかし、こういった部分は脳の機能障害ではなく、感覚系の未発達。
ですから、育てれば発達するし、感覚的にわかるようになる。


感覚系に未発達がある→情報が読みとれない、となると、頭先行で物事を捉えてしまいがちになります。
そこに脳の余白がないと、先着一名様の思考と重なって、特定の考え方に縛られてしまう。
それが「発達障害ゆえに生きづらい」という考え方(?)文言(?)スローガン(?)


本やネット、メディアなどでは、「〇〇ができない」「〇〇で失敗する」という具合に、ネガティブワードで溢れています。
そもそも診断基準の記述が、そのような「できない探し」で構成されているので無理もありません。
因果関係は載っていないで、「〇〇ができない」という文言ばかりなら、「発達障害=できない」という図式が出来上がってしまいます。
本当は、できないことよりも、「何故、できないか?」が重要なのに。


当事者会に行けば、形式的な自己紹介後は、「今、困っていることは何ですか?」と、みんな、困っていること大前提で会が進行していく。
その困っていることは、悩んでいることは、同世代の人達も同じように悩んでいるかもしれない。
そういった視点が持てなければ、当事者会は「同じ悩みが共有できた」という心の軽さよりも、「発達障害は、あんな困難も、こんな困難もある」という心の重さが増すばかり。
だから、当事者会を居場所にしてしまう人達は、ますますその重みで身動きがとれなくなるのだと思います。


愛着障害のある支援者は、自分が必要とされているという実感を得続けたいため、発達障害の人達には、心のどこかで、ずっと生きづらい存在でいてほしい、と願うもの。
ですから、その生きづらさをどうにかしようと思うよりも、その生きづらさに共感し、想いを受け止めようとする。
それが結果的に、当事者の人達の生きづらさの固定化につながります。
その生きづらさに、真っ正面からぶつかろうとする支援者は少ない。
「できることを活かして」「長所を活用して」は、問題の本質から逃げるための綺麗事。


さらに本人たちにとっては、家庭さえも生きづらさを強化する場にもなります。
当事者会同様に、親の会も、よろしくない。
聞けば、それは単なるわがまま、しつけの問題でしょ、というのも、会のルールなのか、誰も指摘しない。
指摘するような人がいたら、あとから「あの人も、自閉入っているよね」と言う始末。
「苦しいのは、うちだけじゃない」というような決して心をラクにしない確認をするために通い、家に帰れば、あらゆる困難を「障害ゆえに」と割り切る。
でも、そういった視線、態度、子育ては、本人にも伝わるもの。
ある若者は、「親の会に行って帰ってきた後の親がイヤ」と言っていました。


厳密に言えば、その生きづらさの正体は、どのくらい障害が影響しているか、なんてわかりっこありません。
ただ確実に言えるのは、生きづらさを感じている主体がいて、生きづらさが存在しているということ。
そして、同じ場所、同じことを繰り返している限り、その生きづらさは軽くならないということ。


その会に参加し続けて、現実の問題は解決したのでしょうか。
その支援者の支援で、その施設の療育で、自分の生きづらさは薄れていったのでしょうか。
生きづらいと訴えている人に、「その生きづらさがあなただ」「生きづらさばかりではなく、良い面を」と言うのは、支援しているといえるのでしょうか、その人は職責を果たしているといえるのでしょうか。
生きづらさが変わらないなら、そこは、あなたの場所ではない。


いろんな悩み事もそうですし、二次障害のエピソードなんかもそうですが、それ自体は誰にでも生じることだと感じます。
では、発達障害を持つ人は、何が違うのか。
私は、土台の脆さだと感じます。
結局、その出来事以前に、日頃から身体がしんどい、感覚刺激に圧倒されている、季節や環境の変化に翻弄されてしまっている、疲れから回復しづらい、というような生き物としてのしんどさがベースにあり、そこにネガティブな出来事が重なると、より生きづらさ、心身の不調へと繋がるのだと考えています。


人生、生きていれば、困難、ネガティブな状況と出逢うなんて当たり前です。
それは発達障害の有無に関わらず。
環境や未来の出来事はコントロールできないけれども、ベースにある日々のしんどさは改善、治すことができます。
特に、それが未発達だったり、発達のヌケだったりすれば、育てなおすことができる。
そのために、行動すること、何かを変えることが大事です。


「発達障害ゆえに生きづらい」というメッセージの一番の問題は、本人、周囲の動きを止めてしまう点にあると思います。
だって、思考停止でしょ、この言葉、この言葉の持つニュアンスは。
「あなたには発達障害がある。ゆえに生きづらさがある。しかも、その生きづらさは生涯変わらない」
そんなメッセージを長年受け続けていたら、行動を起こす気力が失われていくのも当然です。
その行き場を失った絶望感が、無駄に社会に向けられ、社会や困難がなさそうに見える人へぶつけられていく。
そういう人が嫌われ者になるのは仕方がないことですし、それは障害ゆえではありません。


以前、関わった若者が、「身体がラクになったら、いちいちネガティブな出来事に乱されなくなった」と言っていました。
だから、生きづらさは固定化されたものでも、障害特性でもありません。
夏に会った不登校の子は、緩い便から変わり、普通便が出るようになったら、自ら学校に行くようになりました。
やはり生き物としての土台が整うと、ストレス、刺激にも耐えられるようになるものです。
「障害ゆえに生きづらい」は、「生きづらいゆえに障害か?」という連想で打ち消すことができるのです。

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