2019年11月1日金曜日

正常と異常の判断は、どうやるの?

支援者の腕の見せ所が、正常と異常の判断だといえます。
その言動は、その子の発達は、正常なのか、異常なのか。
異常と見えるような事象でも、正常発達における個人差、発現のパターンだったりします。


母子手帳や育児書などには、この月齢はこんなことができる、こんな様子がみられる、という情報が載っています。
新生児、乳幼児、子どもの発達は、世界各国で研究されていますし、だいたいどこの国でも同じような発達パターンを辿ります。
いわゆる、その共通する発達パターンが定型発達と呼ばれるものです。
一方で、発達障害の子ども達は、その定型発達から外れたり、異なるパターンを辿ったりします。


しかし、定型発達のパターンから外れた、その通りに進まないからといって、すべてが発達障害になるわけではありません。
「この月齢ではこの運動」というような大体の目安はあったとしても、個人差がありますので、それよりも早い月齢でできたり、遅い月齢でようやくできるようになることもあります。
発達に関しては、早ければ良いものでも、遅ければ悪いものでもありません。
重要なことは、飛ばさず、ちゃんとやり切ること。
たとえ他の子ども達より遅れたとしても、やりきり、発達課題をクリアすればよいのです。


親御さんは、この子の言動は、正常なのか、異常なのか、その判断で迷い、悩まれます。
でも、その悩みに拍車をかけているのは、近くにいる支援者、専門家だと感じるのです。
ここ数年多いのが、達成する月齢から少しでも遅れようなら、「発達障害では」と言う支援者の存在。
面談し、お子さんの様子を確認すれば、ただの個人差の範疇というのに、それが発達障害の疑いとなってしまう。
もちろん、発達の指標は、障害やリスクがある子を見抜くためのものではありますが、そこから外れたら、即、発達障害ということではないのです。
あくまで、そういった可能性に早く気付き、経過を丁寧に見ていきましょう、という話です。


啓発活動の成果によって、発達障害が身近なものになり、できるだけ早く見つけるのが、そして支援に繋げるのが良いことである、というような認識が広がったような気がします。
その結果、発達の意味を深く理解し、学ぶことなく、流れ作業のように発達のリスク、障害というレッテルがつけられるようになりました。
何か一つでも異常な部分を見つけると、すぐに発達障害となる。
私のイメージですと、障害名を早くつけ、支援に繋げるために、異常を見つけている、といった感じです。
早期から支援を受けることで助かった子もいれば、早期から支援を受けたばっかりに、障害者っぽくなった子がいると思います。


1つの項目で異常な部分があったからといって、部分的に異常があったからといって、発達障害にはなりません。
よくあるのが、「ASDと診断されました」という子に言葉の遅れなど、1つの症状しか当てはまらないケース。
ASDと診断されるには、他にも社会性の部分や、いわゆるこだわりの部分での異常も複数確認される必要があります。
でも、他が見当たらない。
よく良く聞くと、こだわりと判定された部分は、ただの興味関心だけだった。
社会性の部分は、言葉が遅れていることによるものだった。
結局、部分から障害を判断しようとすると誤りますし、障害名をつけること、「この子に障害がある」という前提から見れば、個人差、個別の表現パターンをも、障害として捉えてしまうのです。


実際はもっと詳細かつ多面的に確認していきますが、私が面談、セッションするときの正常、異常の判断の仕方です。
まず定型発達から外れている部分を確認します。
その外れている部分が、1つ、全体から見て部分的なら、それは個人差、個別の発達パターンとして捉えます。
ある発達が異常でも、それ以外の発達が正常なら、正常、問題なしの可能性が高いといえます。
また、異常な部分が複数あったとしても、発達には順序がありますので、そのすべてを辿っていくと、1つの異常と突き当る、つまり、異常の根っこが同じだとしたら、それも障害というよりも、個別の発達パターンだと捉えることができます。


他にも、親御さんが子ども時代、同じような発達の仕方をしているですとか、脳や身体などに機能的な障害がないですとか、本人が困らず社会生活が遅れているですとか、そういった面が確認できれば、通常の子育てで問題ないといえます。
と言いますか、個人差ならもちろんのこと、部分的な発達の異常、根っこが同じである複数の発達の異常なら、一般的な子育て、自然な中で、同世代の子ども達と一緒に活動していれば、自然と追いつき、普通の生活が送れるようになるもの。
発達の遅れ、ヌケは、支援では埋まりませんので。


結局のところ、母子手帳等に載っている発達の目安は、リスクを見つけ、丁寧に経過観察をしていくためのもの。
決して、障害の有無の判断に使われるものではありません。
障害か、異常か、正常かは、何故、その言動が現れているのか、丁寧に多角的に見ていかなければわからないものです。
「言葉が遅れているから自閉症」ではなく、「どうして言葉が遅れているのだろうか?」「それは以上なのだろうか、個人差なのだろうか?」「環境の影響は?神経発達の状態は?家族歴は?他の発達の部分は?」など、全体を通して、また私が繰り返し使っている受精から現在までの発達の流れ、ストーリーを見なければなりません。


発達障害が知れ渡るということは、それだけ「発達障害」という言葉、概念が軽くなったように感じます。
「どうして、あなたが」というような人が、他人様の子どもさんに「発達障害じゃないですか?」「一度、病院に行かれた方が良いですよ」「早く支援を受けなきゃ」「お母さん、障害受容できていないから」などを軽々しく言ってしまう。
その言葉は、親御さんにとって、そのときだけではなく、何年も、それこそ、子どもさんが正常発達になったとしても、心の傷、重みとして残り続けるものです。
普通に勉強し、実践している者からすれば、その認識は誤りである、個人差、個別の発達パターンだというものが、安易な「障害」という言葉から親御さんがそうだと思い込み、我が子を障害児として育てようとしてしまう。
その結果、同年齢の子ども達が得る自然な刺激、経験、体験ができず、発達が偏る、遅れる、知的な障害ができてくる、ということもあるのです。
それだけ「障害」という言葉、概念には重みがあり、子どもや家族の人生をも変えてしまう威力があります。


ある発達、1つの項目に異常があったとても、他が普通に育っていれば、問題ありません。
それは神経発達、ネットワークの表現型の一つです。
大まかな発達の流れは決まっていますが、発達のパターンは個人差が大きく、環境からの影響を大きく受けるものです。
友達と遊べなくても、心身共に健やかに育っているのなら問題なし。
言葉が遅れていても、運動発達が順調に進んでいるのなら、あとから育つ可能性がある。


子どもが少なくなったのと、気軽に情報がたくさん得られるようになったのと、ギョーカイが発達障害を軽くしたおかげで、みんなが定型に厳密になり過ぎるようになっただけ、こだわり過ぎるようになっただけ。
発達は、神経発達の表現型は、子どもの数だけあるのです。
「早く見つけ、早く診断を受け、早く支援を受ける」は、ギョーカイの青田買い。
その言葉を真に受け、部分的な異常で、突っ走ってはなりません。


早産児、未熟児は、発達がずれるのは当たり前。
早期から文字学習、外国語習得、メディア視聴をしていれば、発達のパターンが変わるのは当たり前。
だからこそ、その異常が、本当の異常かを見抜く目が必要です。
その異常の原因がわかれば、根っこが分かれば、発達させることができますので。
部分的な異常は、自然な子育てで育ちます。


 

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