2019年9月24日火曜日

個性、異物、ヌケ

個人的なお付き合いは、なるべく控えるようにしています。
支援者とは、親族でなければ、友だちでもない赤の他人です。
その赤の他人が、家族の思い出の中に残ってしまうのは、違和感としか言いようがありません。
発達の主体は、子どもさん本人であり、それを後押しするのは家庭であり、家族です。
あくまで支援者は、本人や家族の発達する力を引き出すのが役目。
支援者の「やってあげた感」「やってもらった感」が残るようなサポートの仕方は、その場しのぎになってしまいますので、長い目で見れば、結果的に支援者との関わりがマイナスになることもあるように感じます。


基本的には、「便りがないことのは良い便り」のスタンスです。
家庭での試行錯誤の姿が連想されるので。
「支援者が答えを持っているのではなく、試行錯誤を通して答え合わせしていく」
子どもがより良く成長し、自分の人生を豊かに生きらているのなら、それが正解です。
その子が幸せなら、どんな道を辿ろうとも、誰が何を言おうとも、それで良いのです。


一年以上前に関わったご家庭から久しぶりに連絡がありました。
「今、問題なく、学校に通えています」「感覚の過敏さも、怖がりも、全部治りました」と。
その様子を教えていただいただけで満足だったのですが、どうしても本人が成長した自分、治った自分を見せたい、ということでお会いすることになったのでした。


初めてお会いしたときは、感覚面の過敏さを持っていましたし、姿勢の保持も難しい状態でした。
そして何よりも、強い不安、世の中に対する言い表せないような怖さを持っていました。
授業中はノートをとることができず、一斉指示も半分ぐらいは理解できず…。
おとなしい性格、説明する力が弱かったことも加わり、度々、人との間でトラブルが生じ、学校から呼び出しが続いていたのでした。


学校からは、「発達障害かもしれない」「早く診断を」と言われ、診断を受けたあとは、「薬は飲まないんですか」と再三のアプローチ。
医師からは、「この子は普通級の子じゃない」「相当、しんどいはず」「無理してはいけません」と、別室対応と、ノートが取れなくても、授業に参加できなくても、指摘&頑張らせるはダメで、とにかく褒めましょう、という提案(?)。
学校が医療面の指示を出し、医師が学校のカリキュラムに指示を出すという越権行為のマリアージュ。
そんなむちゃくちゃな状況の中、「藁をも縋る」の藁の一本としてご縁がありました。


ご両親は、「治らなくても良いから、何よりも、この子が少しでも生きやすくなってもらいたい」と仰っていました。
でも、本人は「治りたい」と明確に言葉にしていました。
本人の想いに引っ張られるように、親御さんも一生懸命発達の後押しをされ、栄養や遊び、運動という原点に戻り、土台から育て直しをされていきました。
本人から「もう自分一人でできそう」、親御さんからも「私達で治してみせます」という言葉が出たので、そこで私の援助は終了となりました。
それから1年以上が経ち、今は学校からの呼び出しもなくなり、普通級の中で同じように学び、放課後は友達と遊んだり、クラブ活動に打ち込んだりと、健やかに成長しているとのことでした。


ご両親とお話をした際、つくづく感じたのですが、1つの選択が子どもの人生そのものを変えてしまいかねないという恐ろしさです。
このご家族も、途中までは学校の指示で診断を受け、医師からの指示で特別な配慮を受けていたわけです。
そして、精神科薬を処方してもらう一歩手前まで行っていた。
でも、どうしてもまだ幼い我が子に精神科薬を飲ませたくない、他に方法はないか、ということで、未発達を育て、発達のヌケを埋める、というアプローチ、自然な子育てと出会ったのです。
もし言われるがまま、精神科薬を飲んでいたら、一年以上たった今でも、未発達は未発達のまま、ヌケは抜けたままで、生きづらさの根っこの部分は変わっていなかったと思います。
当然、支援級への転籍も決まっていたと思います。


本人がみるみる発達し、変わっていったとき、ご両親は「うちの子は、治ってきている」という話をしたそうです。
すると、学校からも、医師からも、「治るわけはない」という言葉が返ってきたそうです。
変わったのは認めるけれども、治ったわけではない、と。
学校は「受容ができていない」と言い、医師は「科学的にありえない」と言った。


こういった話は、よくある話です。
一言で言えば、学校は「個性」であり、医療は「異物」という捉え。


「個性を伸ばす教育」「個性を活かした教育」
個性個性と言い続けるうちに、個性に教育が侵食される。
結果的に、一人ひとりを見る目が衰えていく。
未発達も、発達のヌケも、性格も、環境からの影響も、家庭環境も、全部ひっくるめて「個性」となっちゃう。
だって、学校でできること、教師ができることは、その中で限られているから。
「そうだよね、個性だよね」と言うことで、教育の限界から目を背け、自らを納得させているだけ。


医療の目的は病気を治すこと。
つまり、病因、正常の状態と対する異物を取り除くのが治療。
とすれば、発達障害の障害は取り除けるか、治療できるのか、という問いになる。
発達障害という異物を取り除く方法はない、ゆえに、治療できない→治らない、という立場のように感じます。


私達は、学校の教師でなければ、医師でもない。
ですから、一般的な言葉として「治った」を使います。
お会いした子も、一年前の自分と比べて、あの辛かったときと比べて、今、「私は治った」と言っているのです。
親御さんも、その姿を見て、「治った」「治って嬉しい」と思っている。
これは親子の自然な会話であり、喜びです。


「治った」という言葉を使うと、「治るなんて嘘だ、間違いだ」と言う人達がいます。
きっと、その人達は、発達障害を個性か、異物だと捉えているのでしょう。
でも、私は、治そうと頑張っている人達は、そのどちらとも考えていません。
発達障害は、神経発達の遅れであって、個性ではありません。
発達障害は、神経発達の表れ、状態ですので、その人にとっての異物でもありません。
ゆえに、刺激と栄養、身体アプローチ、言葉以前へのアプローチによって、大いに変わっていく部分であり、診断基準を飛び越えていくような、社会に適応していくような子ども達が出るのは自然なことでもあります。


神経発達障害を身体障害と同じように「変わらないもの」と捉える人。
神経発達の表現の一つなのに「異物」として捉える人。
こういった人達から見れば、発達障害は受け入れるものであり、周囲がサポートするものであり、取り除くことができない治療不可で治らないものになるのでしょう。
このように出発地点から違っているのですから、子育てを通して、末梢神経からの刺激を通して、より良い栄養を通して、治していこうと考えている人達とは、生涯分かり合えないのです。


そもそもお互いに分かり合う必要はありませんし、どれが正しい道かは、子どもの人生を長い目で見なければわかりません。
ある意味、発達障害の診断も主観なので、正しいかどうかは、本人の主観で良いのだと思います。
今回紹介したお子さんは、「治って良かった」「今は学校が楽しい」と言っていました。
ですから、ご両親が「子育てを通して」という選択は間違えじゃなかったということ。
本人が幸せなら、本人が治ったというのなら、それで良いのです。


支援者はサービス業。
ですから、評価は満足度であり、結果です。
結果が出ないのに、「それでいい」「それしかない」というのは詐欺と言います。
医師も、先生も、支援者も、それぞれの視点があり、それぞれのサービスがあります。
ですから、消費者である本人、家族が主体的に考え、選択しなければなりません。
そば屋に行って、「どうしてピザがメニューにないんだ!」という人は、ただのクレーマー、入る場所を間違えたその人が悪い。
地域にある値段の安い、いつも同じなのり弁を食べ続けるか、自分で食べたいものを材料を集めて作るか、はその人次第。
みんなのお金で乗り弁を食べておきながら、「まずい」と文句を言うのはいけませんね。
美味しいご飯を食べたいのなら、自分で動かなければ。

0 件のコメント:

コメントを投稿