【No.1084】「できる」と「できない」ではなく、「できる」を掘り下げる視点

日々、共に生活している親御さんの目からは「できる」「できている」と見える我が子の行動が、実際はそうではないことも多々あります。
「言われるまで、できている、大丈夫だ、クリアしていると思っていました」などという言葉をお聞きすると、訪問して良かったなと私は思います。
このアセスメントのズレに気が付き、そこを伝えていくのも発達相談の大事な仕事になります。


両足ジャンプができる。
スプーンで食事ができる。
相手に要求を伝えることができる。
文字が理解できる。
子どもの生活の中には、たくさんの「できる」があります。
その「できる」が増えていくことが発達、成長であり、より良い子育てである、というのは正しい考えです。
なので、なにかできるようになると親御さんは安心し、また次の「できない」から「できる」に意識が向いていくのは自然なことなのです。
しかし、その「できる」にはバリエーションがあります。


できないことに対して、「なぜ、できないのだろうか?」「どうしたら、できるようになるのだろうか?」と考えるように、できることに対しても、「なぜ、できるのだろうか?」「本当にできているのだろうか?」というように考えていきます。
なぜなら、一見すると問題なくできているような行動の中に、「"見せかけ"のできる」「"無理をして”のできる」「"意識して"のできる」が混じり込んでいるからです。
私の感覚では、こういった感じの「できる」はできると考えません。


「"見せかけ"のできる」とは、パターンや学習、適応の結果としてできているという意味です。
たとえば、飲み物が欲しいときに、「ジュースちょうだい」と言う。
でも、それが音の丸暗記ということもあるのです。
とにかく「ジュースちょうだい」といえば、飲み物が貰えると学習している子どももいます。
他の飲み物が欲しいときや食べ物が欲しいときにも、同じように「ジュースちょうだい」と言ったり、コミュニケーションの核である「相手に伝える」というところが抜けていたりすると、「"見せかけ"のできる」だと考えられます。
要求する相手のほうを見ていない、うわごとのように言う、といったのは、コミュニケーションしているとはいえないからです。
数多くのコミュニケーションカードを使っているが、人と人とのやりとりが成立していない子がいます。
カードの豊かさが、その子のコミュニケーションの豊かさにならないのは、「"見せかけ"のできる」をできると評価してしまうことに原因があります。


「"無理をして”のできる」とは、端的に言えば、そこにエネルギーの大部分を使ってしまっている、ということです。
学校を休まず登校できている、毎日、宿題をやり遂げることができている。
でも、学校から帰ったら横になって動けなくなる。
でも、宿題を終えるだけで何時間もかかる、宿題以外、なにもできなくなる。
そういった「できる」は、無理をしてなんとかできているのだといえるでしょう。
これを「できる」と評価してしまうと、本人に限界が来るまで、周囲からも、もしかしたら本人自身も見過ごすという結果になってしまいます。
不登校やひきこもりの人からの相談もありますが、親御さんも、先生も、同じようなことをおっしゃいます。
「大変そうだったけれども、本人が頑張ってできているから大丈夫だと思った」
「そうやって頑張って続けているうちに、力がついてくると思った」
これも「できる」という勘違いが生みだした悲劇です。


「"意識して"のできる」というのも、「"無理をして”のできる」と重なる部分があります。
もしかしたら、この二つを分ける必要がないのかもしれません。
でも発達相談において、「今のは、意識してできているのですね」と私は指摘します。
どういうときにそれが見られるかと言いますと、本人の意識が他のことに向いたときです。
たとえば、コップを片手で持ち、飲んでいる。
でも、話しかけられ、それに応えようとしながら飲む際、両手でコップを持って飲んでいる。
片手での操作は、右脳と左脳の分化、利き手の確立、同側性の動きなどといえますが、咄嗟に持ったとき、意識が他へ向いたとき、両手で持つというのはまだ前段階の発達が本当のところとみます。
他には、スプーン食べできているけれども、疲れてくると手づかみ食べが出る、「スプーン使って」と言われないとスプーンで食べないなどもあります。
大人のかたでも、意識しないと寝返りが打てない、座った姿勢から立ち上がれない、走ったりジャンプしたりできない、相手の気持ちが想像できない、空気が読めないといったこともみられます。
「意識してできるんだったら、いいじゃないか」と言われそうですが、特別な技術や運動以外で、ほとんどの人が無意識に行えるような基本動作、思考が意識しないとできないようでは問題ですし、そこにクリアすべき発達課題があると考えるのは当然です。


じゃあ、本当に「できる」ってどういうことを言うのでしょう?
ある行動に注目したとしても、その行動の背景にはいろんな発達があり、他の発達ともつながっていますので、実際のアセスメントでは、一つの行動だけをとりだして評価をすることはありません。
ですが、敢えて言葉にするのなら…
その行動が「別の場所、人、行動に応用している、応用できている」
その行動が「その人の持つエネルギーの大部分を占めない。それを行っても、他の活動、生活に支障が出ない」
その行動が「咄嗟の場面でも、他に意識が向いたときでも、一定の水準で行うことができている(例:意識して走ると早いが、無意識になるとガクンとスピードが落ちる、転ぶことがあるなど)」
といったところでしょうか。
私の場合は、ある行動を見たとき、その姿から滑らかさの雰囲気を感じないと、「おやっ」と思い、アセスメントの掘り下げを行っていきます。


支援者の習性として、彼らは子どもの「できないところ」が大好物なものです。
「ここができない」「あれもできない」
そう指摘すると、支援者である自分に、親御さんの意識が向いてくるからです。
それこそ、濃密な1対1関係への希求です。
そういった影響もあり、我が子を見る際、「できる」と「できない」というシンプルな視点になってしまいがちです。
でも、「できない」だけではなく、「できる」も掘り下げていくことが重要です。
それもより良い子育て、その子の豊かな生活には必要な視点になるからです。
是非、親御さんには我が子の「できる」に関しても、深く感じ、深く見て頂きたいと思います。




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