2018年9月4日火曜日

決められた回数をこなしても、発達にはつながらない

この前、書いた『発達のヌケが埋まると、赤ちゃん返り、幼児返りが始まる」というブログにアクセスが集中しています。
これは日々、実践している人なら珍しくない現象ですし、ヒトの発達から考えれば、当然のお話。


初めての子育てで、こういったことがわからないというのは不思議ではありませんが、そんな親御さんのそばには一人や二人、支援者という人がいるはずですから、一言伝えれば済むだけだと思います。
タイトルの通り、「〇〇くんが赤ちゃん返りしているのは、発達で抜けたり、遅れていたりした部分が埋まったため、赤ちゃんのときにできなかった課題を育て始めたのですよ。退行が始まったわけではありません」と。
そうすれば、親御さんも悩むよりも、ポジティブに捉えられ、 「じゃあ、またそこの部分を育てていこう」と進んでいけるのに、と思うのです。
ナントカ療法も良いですが、発達障害の人達と関わっているのですから、もう少し、いや、ちゃんと発達について学ぶ必要があると思います。


「ちゃんと発達について学ぶ」といえば、最近、「運動を通して、発達を促そう。脳を育てていこう」という事業所が増えたような気がします。
発達障害の人達の身体や感覚、脳に注目し、運動を通して育てていく方向性を持ったところが増えたのは好ましく思いますが、中身を見ると、う~んと感じてしまうことも多々。
「これって、私が学生時代のとき、やっていたのと同じじゃん」と思うこともあります。


あの~、そろそろ回数の絵カードを使って、その提示されている数がすべてなくなったら終わり、みたいなのやめませんかね。
一回、抱っこされたら、一枚カードを処理する。
タイマーが鳴ったら、トランポリンを止めて、次のスケジュールに向かう。
確かに、運動を通して刺激し、育てていくことにはなっているのでしょうが、発達って、そういったもんじゃないでしょ。
支援者が決めた回数やって、「はい、10回、トランポリン跳んだから、発達ね」みたいなのは、違和感でしかないです。


発達って、子ども自身の内側にあるものであって、支援者が見たり、コントロールしたりするものではありません。
発達には回数も大事な要素ですが、それよりも、子ども自身が自主的に、楽しんで、やりきる、遊びきることで満たされ、進んでいくもの。
結局、回数を決めているのは、発達を保障しているのではなく、支援者がその子とその場をコントロールしているだけに感じます。
運動、身体を通して、より良く発達を促していくと謳っているのなら、子どもの発達を中心とした営みが行われるべきだと思います。


当地で言えば、構造化一辺倒の支援から、少しずつ変化しようとしているのでしょうが、まだまだ根深く残っているようにも感じます。
それは親御さんも同じで、「提示されたカードの枚数だけ行う」という支援が子育ての中にも入っていることがあります。


自分の親に対し、ベタベタしたり、身体接触や抱っこを求めたりする子がいます。
その理由は、発達が遅れているからかもしれませんし、発達のヌケが埋まり、やり残した課題を育てようとしているのかもしれません。
いずれにしろ、子どもの場合は特に自分自身を育てている場合が多いといえます。


しかし、そこで視覚的なコントロールをしてしまうと、十分に育っていけないのです。
本当は、親の匂いや感触、温かさを感じ、安心感を味わいたいのに、目の前でカードが減らされていく。
親御さんの方も、支援者の言葉を鵜呑みにしてしまい、「大きくなってもやったら問題になる」「他人にやってしまったら問題になる」と、親子の育みや交流よりも、回数とルールに意識が向いてしまう。
こうなると、子育てが療育になり、発達が満たされていかなくなります。


確かに、大きくなった子が、母親に抱っこを求めたらおかしいですし、体力的にも応じられないでしょう。
でも、そこで発達の欲求に応じず、制限を掛け続けていたら、そこの部分の発達は育っていきません。
ですから、現実的な姿で応じていくのが、基本だと考えています。
幼児の子なら抱っこはできますが、小学生くらいからは難しくなる。
だったら、本人が育てたい課題、要素を見極めた上で、抱っこじゃなくてハグにする、身体接触を伴う運動を一緒に楽しむなどに代えていくのです。


しかし、現実問題として限界がありますので、早いうちに、子どもが小さいうちに、発達を満たしていくのが良いのは確かです。
あまり詳しいことはいえませんが、性に関する問題を抱えている人達とも関わりがありましたし、あります。
そういった人達を見ていると、身体接触、求める欲求が赤ちゃん、幼児期の発達課題のやり残しからくるものという点で始まりは同じですが、問題となる人は、そこに思春期と重なった、という要件が加わった人ともいえます。
赤ちゃん、幼児期の発達課題のやり残しの上に、思春期が加わったとき、大きな問題となる。


いくら発達課題が残っていたとしても、身体面の発達は同世代の人達と同じように進んでいきます。
小学校の高学年、中学生くらいになれば、第二次性徴が始まり、身体的変化、ホルモンの盛んな分泌が行われます。
そういったときに、本当は母子の間での身体接触を通した発達だったのに、異性を求める欲求があらぬ方向へと向かわせます。
性に関する問題を抱える子、若者には、母子間の身体接触のやり残しが、異性の身体を執拗に求める行為として表れることがあるように感じます。


発達とはやり切ることで満たされ、そこには本人の主体性と楽しむ心が必要です。
決められた回数をやるという行動には、本当の意味で発達は存在しません。
発達とは、誰かが決めたメニューをこなせば達成するものではありません。
ましてや、親子での子育て、育みの中に、「5回やったら終わりね」「3分のタイマーが鳴ったら終わりね」などはあり得ないのです。
親が支援者になった途端、子育てが療育になり、支援になり、最後には介護になります。
時間や言葉を飛び越えた自然の中にこそ、本当の発達があるのです。
家庭こそ、自然であって欲しいと私は思います。

2 件のコメント:

  1. コメントたびたび失礼します。
    私の場合、「赤ちゃん返り、幼児返り」の言葉、行動などの知識は、
    上の子がいるので一般的な母親としてありましたが、
    (そしてその方法は、上の子(赤ちゃん返りした当人)を優先に満足させてあげるようにとの保健師さんの助言などありましたが)
    ひきがねは外的要因(弟妹の誕生など。それまでの自分の地位がおびやかされるような)という「思い込み」があり、
    自身の内からの発達に促された(内的要因の)結果である(⇒外的要因の時期から時がすぎてから起こることがある)というところに思い至りませんでした。
    当の息子の場合、1歳半の時には下の子が誕生し、その後入園前に私が体調を崩した入院期間など、当時は(親の方で)育てやすい印象があり、わがままなふるまいやこちらの困るような赤ちゃん返りの記憶がありません。
    その頃のことも思い出しながら、接していきたいと思います。

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    1. シフォンさんへ

      “その頃のことも思いだしながら、接していきたいと思います”

      まさに、こういった感覚に、親御さんがなれるかどうか、その当時の雰囲気が出るかどうかで、子どもの内側への響きが大きく変わってくると思います。

      「赤ちゃん返り」は、よく聞く言葉で、その意味するところも、接し方も、特別なものではありませんね。
      定型発達の子どもが外的要因、環境側の変化に伴っての「赤ちゃん返り」の一方で、発達障害の子どもの場合は、発達のヌケが埋まった、発達が進んだというような内的な変化に伴って「赤ちゃん返り」が起きます。

      対応の仕方は、どちらの「赤ちゃん返り」も大きく変わりませんので、知識として持っているかどうか、知っているかどうかで、子どもも、親御さんも、ちがいが出るような気がします。
      そのためには、発達に関わる支援者が、ちゃんとこういった知識や経験、視点を持つことが大事ですね。

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