子育てをきっかけに、溢れ出てくる自分の課題

子育てをきっかけに、自分の内側にある課題が表れてくる人がいます。
「どのように育てたら良いか分からない」
「どのように愛したら良いか分からない」
「何が正しくて、何が間違っているか分からない」


こういった発言は、発達障害を持つ子ゆえの悩みにも聞こえます。
でも、実際は、子どもと向き合うこと自体の悩み。
大なり小なり、子育てに悩みはつきもの。
ただ悩みの根っこが違うのです。


子どもと向き合おうとすると、子ども時代の自分が投影される。
その自分の顔が穏やかなら、“我が子”の子育てについて悩みます。
しかし、投影された子ども時代の自分の顔が辛そうだったり、悲しそうだったり、寂しそうだったりすると、我が子と向き合うこと自体に悩むのです。
いや、本当は、子ども時代の“自分”と向き合うことに悩み、苦しんでいる。


地域には、「子育て相談室」のようなものが常設されているが、いつも閑古鳥が鳴いています。
そんなにそんなに、第三者の他人に、我が子の子育ての相談はしないもの。
だけれども、我が子に「発達の遅れ」が見つかった瞬間から、第三者に相談する機会がやってくる。


子どもに発達の遅れがあると、第三者に子育ての相談をすることが違和感でなくなる。
だからこそ、本来は発達障害の子を育てるための相談をしているはずが、いつしか私の子どもとの向き合い方、そして最後の砦、私の子ども時代の苦しみまで辿りついてしまう。
普通、特別支援の世界に入らなければ、最後の砦まで辿りつくまで相談の機会は得られないもの。


特別支援の世界は、愛着に課題を残したままの人で溢れています。
そういった支援者は、悩み、苦しんでいる親御さんを傍に置くことで、自分の存在価値を確認し、自己治療を行います。
よく仕事上だけではなく、プライベートまで入っていく支援者がいます。
仕事の時間が終わったあとも、親御さんに連絡したり、個人的な携帯で連絡をとりあったり、自分の職責が及ばないところまで介入しようとしたり…。


子ども時代、満たされなかった想いがある親御さんが支援者に依存し、丸抱えされることを心地良く感じてしまう。
支援者は、悩み、苦しむ親御さんが、自分の傍から離れないことを実感することで、自己治療を行う。
その両者の間には、子どもの存在が見えなくなっている。
子どもは、子どもの発達障害は、大人たちの自己治療のきっかけになる。
だから、支援者と親御さんの距離が近すぎる家庭の子は、成長しないし、生きづらさを抱えたまま。


「発達のヌケを育てるには、どうしたらよいか分からない」と、「どのように育てたらよいかわからない」は、意味することが全然違います。
前者が、我が子の子育てに関する悩みであるのに対し、後者は自分の存在が掴めずに悩んでいる。
そもそも子どもの育て方にマニュアルも、正解もありません。
だからこそ、自分自身の土台がしっかりしている必要がある。
主体性が育っていることが大事で、その主体性を発揮することで、そのとき、そのとき、ベストだと思う選択を繰り返していく。
主体性が育っていないから、「どのように育てたらよいか分からない」という疑問が出てくる。


自分自身の土台は、胎児、乳幼少期、子ども時代に培われる。
しかし、その土台作りが十分に行えず、課題を残したまま、大人になり、親になると、再びその課題と向き合わなければなくなる。
学校の中ではマニュアル人間でも卒業できるし、仕事も選べば、主体性や選択をしないで済むものもある。
でも、子育てにマニュアルはないし、親としての主体性が求められる。
なので、子どもと向き合ったとき、自分自身の課題が表面化してくるし、特別支援の世界は、とことんその課題を味わい尽くそうとする支援者がいるために、課題の大部分が溢れ出てしまう。


支援者に依存している親御さんは少なくない。
また親御さんを丸抱えすることで自己治療をしている支援者も少なくない。
だから、居場所をなくした子どもが別のところに行ってしまう。
自己治療に忙しい支援者と親御さんが、子育てを外注してしまう。


子育てとは、育むもの。
その育みは、家庭、親子の間で、十分に交わり、味わい、やり切ることで、実を結ぶ。
じっくりと子どもの発達と向き合い、育んでいくには、親御さん自体、しっかり地面を掴み、立てている必要がある。
子どもを育んでいくには、親御さんの踏ん張れる身体、土台が必要なのです。
そのために、インスタントに支援者に依存するのではなく、自分の課題と向き合い、治していく必要があります。

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