「見えないものは、ない」は障害特性?先天的な障害?活かすべきもの?

「見えないものは、ない」というのは、自閉症、発達障害の人達に多く見られることです。
ですから、「想像力の障害」という言葉で片づけられ、それが障害特性で、それこそ、変わらない部分で、支援や配慮が必要なものとして捉えられます。
でも、本当にそうなのでしょうか。


「見えないものは、ない」人達と接して感じるのは、情報処理の問題ということです。
定型発達と言われる私達だって、見えていないものは、どう頑張っても見えません。
でも、この部分において日常生活での問題にならないのは、見えないものを想像して補っているからです。


じゃあ、どうやって見えないものを想像しているのかといったら、複数の情報を同じテーブルの上に乗せ、過去の経験や体感などを駆使し、「多分、こうだろう」と想像している。
で、もちろん、外れることもあるが、想像はだいたい合っている。
だから、見えるものと、見えていないものを総合しながら、人と付き合ったり、仕事をしたり、生活したりしている。
ちなみに、子どもが面白い、突拍子もない想像をするのは、まだ経験が少ないのと、複数の情報を同時に処理する力が育っていないなど、まだ脳(特に大脳皮質、前頭前野)が育つ過程だから。


自閉症、発達障害の人達は、定型発達と情報処理の仕方が異なると言われます。
確かに、情報処理の仕方が違うな、というのは、この「見えないものは、ない」からも感じますが、それは独特な情報処理の仕方を持って生まれたというよりは、成長の過程の中で作られた処理形式、脳の使い方のようにも思えます。


例えば、感覚面に発達の遅れ、未発達があれば、特に視覚情報などの偏った情報しか入ってこなくなって、視覚に頼った情報処理の仕方ができてしまう。
例えば、爬虫類の脳や哺乳類の脳など、脳の表面よりも深い部位に発達のヌケや遅れがあれば、ヒトの脳の部位に発達の遅れが見られ、結果的にいろんな情報を整理、統合することが難しくなってしまう。


よく「自閉症の人は視覚的な情報処理が得意なので、その得意なことを活かしましょう」などと言われます。
でも、本当に得意なことで、生きていく上で武器となるような特性だとしたら、世の中の自閉症の人達はこんなに困っていないはず。
だから、得意と言うよりは、仕方なく、そうなるしかなかったというのが本当のところだと思います。
視覚以外の部分が平均くらいで、視覚的な情報処理が飛び抜けて優れているのならわかりますが、総合的に見れば、偏りであり、偏りによって作られた情報処理の仕方じゃないですかね。


受精後4ヶ月くらいで眼ができ、開くのが6ヶ月くらいから。
しかし、器官ができても、神経と繋がって情報処理ができるようになるためには刺激が必要。
ということは、やっぱり生まれつきじゃない、出生後の発達過程で作られていくもの。
だから、「活かす」というよりは、活かさざるを得ないというのが事実であって、そうだったら、偏りの根っこにあたる未発達、遅れのある部分を育てましょ、という方が良いと思います。


「見えないものは、ない」という人が、まったく見えないものを想像できないか、と言ったら、そうではありません。
見えなくても、想像できることもある。
想像するために持ってくる情報は少ないかもしれないが、そこから考えて、導き出すことができる。


「見えないものは、ない」という人は、「見えるものがすべて」という人であり、見えた情報のみで想像してしまう人ともいえます。
当然、生きている世界が狭いし、想像が妄想になりやすい。
なので、根っこからの解決じゃないけれども、経験することが何よりも大切。
経験することで、現実と想像のギャップを埋めることができる。
経験することで、情報が増え、妥当な想像ができることにつながっていく。
経験することで、妄想から想像へ発達させることができる。


「見えないものは、ない」というのは、障害特性でもなんでもなく、誕生後、偏った刺激の中で育まれた情報処理の仕方。
もちろん、特異な情報処理がとっても優れたものなら武器にして活かした方が良いけれども、ほかの部分に発達の遅れや未発達があるのなら、そちらを育ててからじゃなければ、本当の武器にはならないし、それを活かして、より良い人生を歩むことはできません。
結局、想像するとき、テーブルの上に乗せる情報が少ないということ。
そのため、見えていないものを想像する力が弱かったり、独りよがりの想像、妄想になりやすい。


想像するために必要な情報を、より多くテーブルの上に乗せるためには、身体、感覚面の発達のヌケ、遅れを育て直し、いろんな感覚、身体全部を使って情報を受け取れるようにすること。
同時に、こういった育て直しは、脳の深部を育てることになるので、ここが埋まりだすと、脳の表面、ヒトの脳の部分に広がりが出てくる。
そうなれば、想像するための材料を置くテーブルのスペース自体が広くなるし、いろんな情報を整理して見やすく置けるようにもなる。


そして、対処療法としては、経験すること。
経験すれば、自分の想像の正しさ加減がわかるし、次の想像の材料を増やすことにもなる。
だから、「視覚的な強みを活かして」などと言って、どんどん視覚情報を与え、どんどんそれ以外の情報を制限し、どんどん偏らせちゃダメ。
一般的な感覚として、一日中、眼ばっかり使っていたら疲れるでしょ、耳ばっかり使っていたら疲れるでしょ。
いろんな感覚、身体全体を使って処理しているから、私達は自然な生活を営むことができるのです。
こうやって改めて「見えないものは、ない」を考えてみると、想像力自体に問題があるのは、支援者の方かもしれませんね(ブ)

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