支援を選べるけれど、捨てられない

選挙後、排除発言が話題になりましたが、どうしてそんなに騒ぐのか、私にはわかりませんでした。
あの発言があろうがなかろうが、勝つところは勝つし、負けるところは負けます。
ですから、「排除する」という言葉を強く受け取ってしまう人達が多くいて、排除自体を好まない文化があるのだと思いました。


排除といいますか、捨てるということは、子どもを育てることにおいても大切なことです。
子育てに正解はないのですから、特定の人や方法にこだわる必要はありません。
我が子に必要なもの、合っていると思うものをその時々で選び、カスタマイズしていけばいい。
良いとこどりが基本であり、必要なくなったものは捨てていく、選ばないというのの繰り返しです。


子どもの発達を後押しするのが上手な親御さんというのは、その時々で何を選ぶのか、何を捨てるのかが上手だと感じます。
その一方で、どうも後押しがうまくいっていない親御さんは、選んでいるけれど、捨てることができない、そんな風に感じます。


一度、良いと言われた方法があれば、それをやり続ける。
エビデンスがある、有名な支援者がやっているからといって続けるのも同じです。
「我が子に良いかも」と思った方法をあちらこちらから持ってくる。
だけれども、方法だらけになって、結局、何を育てたいのか、何を育てているのか、本人も、家族もわからなくなってしまう状態に陥ってしまう。


選べるけれど、捨てられない、止められない、という方を見ていますと、自ら選んでいるようで、本当は選べていないようにも感じます。
つまり、その取捨選択に主体性がない。
もし、主体的に選べているのなら、きっと「我が子のここを育てたくて、この方法を選ぶ」というように子ども発信で、具体的な目的があるはずです。
それだと、子どもが育ち、具体的な目的が達成されれば、その方法を捨てることができます。
ですから、選んでいるのも、自分の主体性からではなく、「良いと言われているから」「みんなやっているから」というような他者だったりするのです。


子どもは常に変化し、発達成長しますので、同じ方法で良いということはありません。
以前は良い影響を与えていたものが、却って妨げになるということもあります。
ですから、その時々で、子どもの変化を見ながら、必要だと思うものを選択し、そうではなくなったものを捨てていかなければなりません。
それには主体性が必要です。


排除発言にびっくりする人というのは、誰かに選んでほしいという思いを持った人ではないか、と感じました。
捨てられない人は、選べない人でもあります。
自分の中に基準があるから、具体的な何かがあるから、自分の意思を持って選べますし、捨てられる。
幼少期からずっと同じ支援方法のままで、子どもに成長ではなく、その支援適応が見られてしまっている方。
良いと思う方法をどんどん足すだけ足していって、何をやっているのかわからなくなってしまっている方。
こういった方達を見ますと、取捨選択のできる主体性が親御さんの中にもあるのか、育っているのかが重要だと感じるのです。


主体的に取捨選択できている親御さんは、その時々で子どもに必要な後押しができているように感じます。

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