子育てが親自身の発達援助になる

大きな変化、成長が起きるのは、子どもだけではありません。
子育てをされている親御さんにも、大きな変化、成長が起きることがあります。
久しぶりにお会いすると、ガラッと変わった親御さんが立っていることも少なくありません。
親が子どもを育て、子どもが親を育てる。
子育て自体が、親の発達援助になっているのかもしれません。


相談に来られる親御さんの中には、ご自身でも発達障害、自閉症やADHDなどを持っている方がいらっしゃいます。
そういった親御さん達のお話を伺うと、ただでも大変な子育てがより一層苦労に感じられているような印象を受けます。
資質でもある真面目さ、一生懸命さが、子育てに向かう。
それ自体は素晴らしいことだといえるのですが、限度を超えて頑張ってしまうことがある。
子どもさんの発達援助よりも、まずはお母さん、お父さんが元気にならなければ、というようなご家庭も少なくありません。


子どもは育てたいようには、育たないものです。
たとえ赤ちゃんでも、自分とは異なる別人格の人間だからです。
どう動くか分からない、どう育つか分からない、変化に富んだコントロールできない存在。
その先の読めない曖昧さ、不規則性、そして何よりも「子育てには正解がない」という真理が、親御さんによっては人一倍脳に負荷をかけているように感じることがあります。


しかし、この負荷は、親御さんの脳を育てる負荷にもなります。
もちろん、心身が疲弊する状態では、過度な負荷、有害な負荷といえますが、心身が整った状態で向き合うと、それが発達につながるような気がします。
駆け込み寺のような状態でいらっしゃった親御さんでも、心身が整ってくると、「自分ではどうにもならないことがある」という具合に受け入れられるようになります。
すると、子育ての一つ一つにどう対処していくかを考え、行動するようになる。
行動して出た結果に対し、また自分で考え、工夫し、さらなる行動へ移していく。
こういった繰り返しが、脳に柔軟性を持たせ、脳を育てることに繋がる。
いろいろなアイディアが浮かぶようになったり、不測の事態に対応できるようになったり…。
親御さんの変化に「脳の余白の広がり」を連想します。


他にも「一緒に自然の中で、思いっきり全身を使って遊んでください」と提案させてもらった親御さんが、その通り、ご自身も泥だらけになって遊び切った結果、発達のヌケが埋まることもあります。
同時に、自然とご自身が子ども時代に心地良かった遊びをすることが多いですので、退行にもなって心身が解放され、ラクになるようなこともあります。
「隠れていた資質が表に出た」というような雰囲気を感じたとき、こういった育ちがあると思います。


私の仕事は、家庭支援です。
本人だけが変わればいいという話ではありません。
何かしら子育てに悩むというのは、親御さんの現状では対処できない、適応できない何かがあるということです。
我が子に発達障害があるから悩むのではなく、家庭、子育てという環境への不適応が生じているからだと考えています。


その不適応から脱するには、親御さんも変わる必要があります。
子ばかり、「あれができるように」「これができるように」というのは虫が良すぎる話です。
私が関わるご家庭には、子の成長だけではなく、親子、家族そろって成長していってもらいたいと願っています。
子どもの育ちにとって、親は、家庭は、もっとも影響のある環境です。
その環境がより良く変化、成長していかなければ、子の成長の限界が先にやってきてしまいます。


まだ子どもさんが幼いのに、子育てを丸投げしている家庭を見かけると、子どもだけではなく、親御さんにとっても、最大の発達する機会を放棄してしまっているように感じます。
「専門家に任せた方が良いから」という言葉をよく耳にしますが、それは表であって、本心である裏ではないような気がします。
心身に、脳みそに余裕がない人が、脳の表面で体裁を整え着飾り言っているだけ。
身体、感覚からの声が聞こえる人は、いくら余裕がなくても、決してそのような判断はしないものです。
それこそ、本能のまま、想いのまま、たとえ自分の身が滅んでも、一生懸命子どもを育てようとする。


社会に出たら答えが一つではないのは、いろんな答えをもった多様な人々が存在しているから。
そのフラクタルが家庭であり、仕事であり、子育て。
ご自身でも発達のヌケを埋めながら、一生懸命子育てされていた親御さんが、一息つき、苦手だった「働く」に挑戦される方もいます。
まさに子育てを通して、発達、成長された現れ。
また仕事を一生懸命している人、してきた人、仕事で評価されている人は、子を治す後押しも上手だと感じます。


結局、家庭も、仕事も、学校も、自分自身が育つ場であり、同じ社会なので、すべてが繋がっているということ。
ですから…
「放課後、土曜日は児童デイに丸投げでいいの?」
「就労は目指さなくていいの?」
「作業所に通い続けることは成長に繋がるの?」
「学校に行かなくていいの?」
「お母さん、専門家の私達にまかせてください、でいいの?」
「問題が起きれば、服薬で対処でいいの?」


発達の機会は、社会の中に、身近なところに、溢れています。
「大人になっても治る」というのなら、まずは大人である私達も発達し、成長し、治っていくことが必要だと思います。
発達障害という診断を受けた子ども、人達にだけ、「治る」を求めるのは失礼だと言われても仕方がありませんね。

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