専門家の土俵ではなく、子の土俵で闘う

初っ端から私のところへ相談に来る人はあまりいません。
ほとんどの方は公的機関に相談し、療育、支援も受け、学校の先生に相談し…という具合に、多くの支援者、専門家と出会っています。
それでも、「なんだかしっくりこない」「もやもやが消えない」という方が情報を集め、辿りついたというのが、大方の流れ。
セカンドオピニオンというよりも、サード、フォース…オピニオンといった感じでしょうか。


支援者や専門家など、多くの他人と関わりを持つのが、発達障害を取り巻く環境の特徴だといえます。
これは、よくある話なのですが、同じ子ども、行動を見ているのにも関わらず、言っていることが支援者によって全然違うということ。


例えば、過敏性があり、学校に行けなくなっているお子さん。
心理系の支援者は、過去の嫌な出来事、引っかかっている言葉が過敏性を生んでいると解釈する。
教員は、クラス内の人間関係になにか問題がないかと考え、同時に家庭生活に問題がないかと推測する。
医師は、起立性調整障害、睡眠障害などを疑い、発達系は、それが障害特性だから周囲の理解環境調整を提案する。
そして不登校メインでやっている人達は、心の休息と受容、プレッシャーを掛けないことの重要性を説く。


これは例え話ではありますが、似た出来事、相談は少なくありません。
結局、自分たちの土俵の上で闘いたいのが、専門家というもの。
ですから、私が再三言っているように、専門家になるほど、治せなくなるのです。
発達とは生き物であり、流れですので、部分を切り取ると必ず誤ります。


本人、親御さんは、サービスの利用者です。
利用する者が、利用される者に利用されてしまうと、問題が大きくなります。
発達の軸が、子育ての軸がブレブレになってしまうから。
「あの専門家が良い」と行ってみる、「この方法が良い」と試してみる。
それぞれの専門性、アイディアは素晴らしいもので、効果があるものだとしても、発達とは一つの段階をやり切ることで達成されます。
子どもさんが、一つの段階をやり切る前に、「次!」となっている家庭があるように感じます。


素晴らしい専門家、英知を集めれば、子どもが治るか、どんどん成長するか、問題がなくなるか、といったら、そういうことにはならないでしょう。
何故なら、知識は知識であり、部分にしかならないから。
「策士策に溺れる」ではないですが、良い情報、アプローチを集めすぎると、子どもが見えなくなる、と言いますか、子どもの発達の流れが掴めなくなります。


専門家の助言がしっくりこないのは、それは本能的に「No」と言っている証拠です。
部分的に見れば、素晴らしいアイディアで効果があるかもしれませんが、我が子の発達の流れからしたら、ズレているということ。
そのズレが、親御さんに違和感となって伝えてくれるのです。
専門家は部分で勝負しますが、発達は受精から今までの流れの中で生じています。


〇番目のオピニオンとして相談に来る方も、そうではない方も、皆さん、まず最初に私が行うことは、その子の発達の流れを掴むこと。
時に、その子の生に繋がっている親御さんの生き方、流れを辿ることもあります。
当然、どのようにこの世に生を受けたか、生まれ出たか、そこが始まりですので、重要なポイントになります。
とにかく、今の発達の課題、問題ある言動だけではなく、その子の生のストーリー、流れを通して事象を感じてみる。
そうすると、どの人物の助言、アイディア、考えが合うかがわかります。
自然なストーリーを描ける人ほど、治すための根っこを掴むのが上手。
親御さんも、その人からの話を聞いて、すっきりする。


親御さんは、支援者、専門家がやりたい支援ではなく、子どもの発達の流れ、ストーリーから見て、今、何が必要で、その自然な流れを邪魔しないのか、加速できるのかを見ていく必要があるといえます。
そうすれば、専門家の手を借りるにしろ、依存することなく、その時々で必要な人、アイディアを選択することができます。


情報が手軽に得られる時代ですし、支援者の専門化がますます進んでいる時代です。
そういった中で、発達に障害のある子どもを育てていく。
どうしても、親も子も、情報過多で、刺激過多になるのは仕方がないことです。
情報がある分、待てなくもなっている。
ですから、常に子どもの発達の流れ、ストーリーの中で子育てをしていくことが大事なのです。


発達を促すための「刺激」というような言葉を使うと、「より良質な刺激を、より多く」という連想を生んでしまいます。
ですから、表現の仕方、説明の仕方を考えないと、と思うこともあります。
同年齢の子ども達と比べて、明らかに情報過多、刺激過多、忙し過ぎになっている子どもさん、ご家庭があるように感じます。
年齢が幼いうちに治った方が良いけれども、徒競走をしているわけではありません。


学校に行き、放課後は児童デイに行き、合間で療育施設、という子ども達にほとんど発達が起きていないのは、刺激の質の問題もあると思いますが、余白がない、流れのリズムが悪いというのもあると思います。
発達も生き物ですから、強弱と揺らぎ、活動と休息が必要です。


関わる多くの支援者との関係に参っている、情報過多で何が良いんだか悪いんだか分からなくなっている。
そういった親御さんには、何もしない、とことん子どもだけを見ることに集中する、という助言をすることがあります。
子どもがやりたいこと、自ら行動すること、熱中することに任せてみる。
そうすると、今、その子にとって、発達にとって必要なことが見えてきます。


ある親御さんは、いつも遊んでいるおもちゃを全部片づけました。
何もない状況を作った。
そして子どもさんは、クルクル回り始めた。
勉強もできるし、同級生と同じような遊びをしていたけれども、実はまだ土台の感覚の部分にヌケが残っていた。
勉強も、遊びも、学習であり、ある意味、教えられた文化です。


専門家は、自分の土俵からしか見ようとしないけれども、子どもは自分の人生という土俵から常に物事を見ています。
また、傍で見ていた親御さんは、子どもの発達の流れ、生きたストーリーを一番知っている存在。
なので、子どもの流れから見て、どの支援者が必要で、どのアイディアが後押しになるか、を選択できます。
もし、発達の流れを見失っていたら、一度、フラットな状態、文化の介入しない状態に、我が子を誘ってみる。
今、必要な発達、刺激を知っているのは本人だけですから。
わからなければ尋ねてみる、専門家ではなく、子ども自身に。




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