2020年8月27日木曜日

【No.1094】自らを助ける会

この前、ある人と話をしていて、どうして全国どこでも親の会や当事者会があるのだろう、という話題になりました。
まあ、一言で言えば、標準治療が治せないから(笑)
治せたら、そこで問題が解決したら、わざわざ自分たちで集まる必要はないでしょ。
それこそ、自助会なんて言われるくらいですから、いろんな会は「自分を救えるものは、自分しかいない」という決意表明のようなものです。


時々、親の会や当事者会の代表やアドバイザーに、専門家、支援者の名前があることがあります。
これは、どういうことだろうか、といつも疑問に思うのです。
本業である本人の課題を解決するがままならないから、当事者の人達は当事者の会を起ち上げる。
でも、当事者同士だとトラブルが起きる、その解決が自分たちでは難しいことがある。
だから、地域の専門家、支援者をメンバーに入れる。
優しく言っても意味不明です。
100歩譲って専門家が入っているのなら、当事者会から卒業していく人が出なければなりません。


当事者会、親の会が居場所であり、共感し合える場所として機能しているのが本来の姿なのかもしれません。
しかし、それに対しても、私は悲しみを感じます。
同じ悩みを持った同士の集合体だからです。
悲しみの共感は、次の一歩、より良い未来への変化にはつながりません。
人は頑張ったこと、達成感のあることなどのポジティブな共感に対して、自らの原動力へと変え、変わるきっかにすることができるのです。
以前、いくつかの会のアドバイザーに、というお話をもらったことがありますが、陰の雰囲気が漂っていたので、いずれも断った経緯があります。


結局のところ、自分を助けるものは、自分しかいないのだと思います。
たとえ同じ診断名だったとしても、その原因は一人ひとり異なっています。
ですから、本当の意味での共感は得られないのです。
共感という名の幻想にすがっているのです。
じゃあ、何故、そういった幻想にすがるかと言えば、専門家、支援者が役に立たないから。
今なら1歳、2歳で診断名をつけるのに、一向に本人たちの課題解決、幸せ、将来の選択肢の広がりへと繋がっていきません。
それは入り口と出口が決まっているため。


日本の制度では、医療が入り口になっています。
そして診断名が付くのが、幼児期だろうが、就学後だろうが、成人した後だろうが、出口は支援を受けながらの自立(?)です。
つまり、支援云々は出口までの道のりで見える景色の違いみたいなもので、制度上は自分で働き、自分で生活を維持する、ということは想定されていないのです。
その悪しき根源が、『治らない』という言葉。


理由は問わない診断をしておきながら、なぜか、みんながみんな、「治らない」ということになってしまう。
近頃、私は「自閉症」という存在すら幻想なのではないか、と思うのです。
目の前にいる人は、一人の人間である。
違いがあるとすれば、発達のパターンとその表れ方ではないか。
脳の欠損自体を障害と言うのなら、そこは治らないのかもしれません。
でも、発達パターンの違い、表現の違いだとしたら、それは治る、治らないとは別次元の話になります。


今現れている症状、課題には、必ず背景、理由があります。
突然、ポッと現れるものではないのです。
しかし現在の「自閉症」「知的障害」「ADHD」などの言葉には、この雰囲気が漂っています。
ポッと現れたものだから仕方がない。
仕方がないから、支援を受けながらの自立だ。
でも、本人の内側にある苦しさは解決しないままだから、せめても共感し合える仲間を求める。
本来、求めるものは、問題解決に導いてくれる専門家なはずです。


「自閉症は脳の機能障害」というのはフィクションです。
「治らない」もフィクション。
数十年前の専門家が、「たぶん、そうだろう」とエビデンスもないまま、その証拠も示せないまま、言ったことなのですから。
そのようなものに、自分の人生、我が子の未来を委ねて良いのでしょうか。
発達も、神経も、その人の内側にあるその人だけのものなのですから、自らを救うべく歩んでいってもらいたいと思います。
試行錯誤しながらも、失敗して立ち止まりながらも、前に進んでいく中に、生きている実感、自分の人生を歩んでいるという実感があるのですから。
自分の人生と可能性を他人に渡してはいけません。




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