2015年8月31日月曜日

都合よく出てくる偉人、天才、著名人

どうも発達障害と犯罪を結びつけるのは絶対に嫌だけど、天才とは結びつけたいという人が多いらしい。
それくらい偉人や天才と呼ばれる人は、発達障害に関する書籍や講演会に、度々登場する。
ときどき、空の上にいる偉人たちは、どういった気持ちでこのような自分の取り上げ方を見ているのか、と想像してしまう。

「私が発達障害でなければ、今頃、ロウソクで灯をともしていただろう」とエジソンは言うのだろうか。
「落ち着きなく、日本中を駆け巡ったのは、ADHDの特徴があったからぜよ」と坂本龍馬は言うのだろうか。

彼らが発達障害の特徴を持っていたのは確かなようだ。
そして、彼らには良き理解者がいて、才能を開花させることをサポートしてくれていたようだ。
だから、書籍や講演会で、偉人や有名人を登場させる人は
「発達障害は才能である」
「才能を伸ばせば、このような人たちのようになれる」
「良き理解者がいれば、才能を開花させることはできる」
と伝えたいのかもしれない。

しかし、伝えるべき事実はこれだけではないと思う。
それは、彼らには資質を開花させ、活躍できるくらいの身体があったことと、最低限の生活ができるだけのスキルと仕事をしていたこと。
いくら絵がうまく描けても、素晴らしい発明や研究ができても、それに耐えるだけの身体がなければ、作品を完成させることはできなかっただろう。
また、いくらよき理解者がいたとはいえ、基本的な生活ができない人は、活動を続けられなかっただろうし、世に作品がでることはなかっただろう。

私が空の上にいる偉人の一人だったら、自分の業績を"才能"もしくは"発達障害"という言葉のみで説明されたら憤慨すると思う。
「どれだけ努力して作品を世に出してきたのか、わからないだろう」と。
きっとエジソンは同じ考えだと思う。

現在、活躍している著名人を指して「あの人は発達障害に違いない」と言う人がいる。
診断を受けていたり、公表していたりする人は良いと思うが、そうではない人に関しては良くないと思う。
それは、自分が障害者であることを認めたくないのではなく、人からは決して見えない陰の努力についても「発達障害」だからというように、才能に近い言葉で、特別扱いされることに対して。

著名な人たち、活躍している人たちは、影で努力しているし、自分の身体の管理と身のまわりのこと、生計を立てるだけの仕事をしている。
ある意味、その人の光の部分だけを他人が切り取り、意図を持って伝えることは良くないと思う。
このように都合の良い部分だけを伝えるために偉人や天才、著名人を登場させるよりも、今、生きている人の中で身近にいる努力し、資質を開花させ、自立して生きている人たちこそ、もっと取り上げるべきだし、聴衆も聞きたがっていると私は考えています。

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