2018年6月17日日曜日

昨日の子のような笑顔が見たいから

昨日、伺ったお宅の子どもさんが、急に余所余所しくなったので、どうしたのかなと思いましたら、背中の方からあるものを渡してくれました。
算数テストの答案です。
表も、裏も、満点の数字が見えました。
そして、私の顔を見て、この子はニコッと笑ったのです。


小学校のテストで100点を取るのは、それ程、大きな出来事ではないかもしれません。
しかし、この子の場合は、特別な意味があったのです。
人生初の100点満点の答案。
しかも、低学年のとき、医療機関で正式な診断を受けており、「〇〇ちゃんは、アスペルガーだけでなく、LDもありますね。学年が上がれば、勉強についていくのも難しくなりますし、この子は福祉を利用しながら生きていくでしょうから、無理せず、早めに支援級へ移った方が良いですね」というようなことを言われていたのです。


そんな子と出会ったのは、実際、支援級へ転籍することが具体的に進み始めていた頃でした。
親御さんは、医師の診断と見たてを聞き、「無理させないで、福祉の中で生きた方が幸せなのかもしれない」と思いかけていました。
でも、心の中では「本当に幼い我が子の未来は決まっているのだろうか、他の可能性は無いのだろうか」「本当に何もやってあげられることがないのだろうか」という想いがあった。
そんな揺れ動く心情のとき、我が子の言葉を聞いたのです。
「私、みんなと一緒に勉強がしたい」


もし、あのとき、医師の言葉を信じ、転籍していたらどうなっていたでしょうか。
少なくとも、昨日の笑顔は見ることができなかったでしょう。
ある意味、医療を超えた瞬間でもありました。
現代医療を、親御さんとの二人三脚で、この子は跳び越したのです。


ご存じの通り、発達障害に対し「治る」という言葉を使うと、「医療的に誤りだ」「そんな医学的な知識、見解もないのに、よく専門家を名乗れるな」などと言ってくる人達がいます。
中には、「そんなこともわからず、よく教員免許が取れたな」などという反論するのもバカバカしくなるようなクソリプを飛ばしてくる人もいました。
多分、こういう人は、我が子の学校の先生に対しても、こんな上から目線のバカにしたような態度でいるのだと思います。
こういう人は、いつの時代の教職員を想像しているのか、と思いますね。


今どき、特別支援教諭の免許取得に限らず、どの種類の教員免許を取るにも、障害について学びますし、特に発達障害については、以前よりもましてしっかり学ばなければなくなりました。
当然、国が定めた教員免許を取得するには、一定以上の知識を獲得する必要があるのです。
しかし、学校の先生は支援者でなければ、療育や介護をする仕事ではありません。
学校の先生は、勉強を教えることが一番の目的です。
勉強を教える際、特別なニーズがある子の場合には、その子に合ったアイディアと方法で、勉強を教えていく。
勉強を教えていく、子どもの知識や技能の獲得を後押ししていくのは変わりがないことです。


中途半端に特別支援について勉強したり、地域の支援者とつながったりしていると、「そんなことも知らないの」「そんな療育方法もできないの」というような態度をとる親御さんがいます。
こういう人は先生の役割を誤解している人であると同時に、我が子の成長を後押しできない人だといえます。
何故なら、求める療育とは対処療法であり、子どもが身に付けるのは適応だからです。
ちなみに、こういった親御さんは態度に表さなくても、相手はすぐにわかるもので、当然、すこぶる評判が悪いですね。
こういう親御さんと連携して、その子により良い教育をとは…以下略。
まあ、自業自得です。


「治った、と言っているのは、適応できるようになっただけ」と言うような人もいます。
ここまでくれば、そんな発言をひと様に聞かれて恥ずかしくないのか、と同情すら覚えます。
多分、こういう人は、動物の曲芸のようなものを療育であり、教育であると思っているのでしょう。
場面に合わせた振る舞い方ができるようになる。
それは、発達しているわけでも、成長しているわけでもなく、ただの条件反射です。
条件に合わせて、求められる振る舞いをしているだけ。
動物の曲芸のように、芸をいくら覚えても生きやすくならないし、ましてや自立なんて不可能です。
だって、人生100年時代を生きる中で、子どもが出会う場面は、限りないくらい多くあるから。


私達が言っている「治る」は、適応といった表面的なことではなく、根本的な意味。
発達障害は「神経発達の障害」なのですから、一人ひとり異なる発達の課題の部分を見極め、そこを丁寧に育てなおしていく。
ヘンなサプリや水を飲むだとか、壺を買ったり、お祈りしたりだとのオカルト的なものではなく、とても合理的で、科学的だと思います。
こういう発言をすると、また「医学的に証明されていない」など、もう屁理屈みたいなことを言ってくる人もいますが、じゃあ、逆に質問しますが、「医学的に証明されていないこと以外、すべて誤っているといえるのか?まったく効果がないといえるのか?」「世の中全ての事象を科学で検証することができているのか?可能なのか?」と思うのです。


私が学生時代、それこそ、障害児教育の講義で学んだ「自閉症は脳の機能障害」「生来的な障害で、治ることはない」という知識が、すでに変更されています。
「脳の機能障害」が「神経発達の障害」と変わったのは、「脳の機能障害」と言われた時期に、すでにそれに当てはまらない人が存在していたということであり、「神経発達の障害」とした方が実態に適していると、世界の専門家の中で判断する材料が揃い、コンセンサスがとれたということ。
時代は動き、医療は日進月歩で進歩しているのに、いつまで、あなた様の頭の中は、「脳の機能障害」で止まっているのですか?
また今後も変わりうる医療の前に、「医学的にそう言っているから、それに従います」という姿勢でい続けるのですか?
未だに、発達障害の診断だって、目に見える、確認できる症状を診て判断している状態で、生物学的なマーカーで科学的に診断できているわけではないのです。


いつ来るかわからない、またどうなるかわからない医療の見解を待っている間にも、目の前のこどもたちは日々、大人に向かって歩みを進めています。
医療が言っていることと外れないことを選択するのと引き換えに、子どもの発達と成長の機会を犠牲にする覚悟があるのか、と思います。
冷蔵庫マザーの時代の親御さん、支援者の中にも、「いや、この子達が必要なのは親の愛情ではなく、適切な支援だ」と思う人がいて、実践し、結果を出してきたからこそ、「脳の機能障害」という見解が生まれた。
同じように、「脳の機能障害」と言われた時期に、「いや、脳の機能障害と言われているけれども、根本的な課題は、感覚や内臓も含め、生きる上で土台となる身体の発達にバグがあるのでは」と思う人がいて、そういった部分を育てていった結果、苦しめられていた障害がなくなり、同世代の人達と同じような生活ができる人が出てきた。
どうしてこんな当たり前のことを勘違いしているのかと思ってしまいますが、このように「人がいて、医療が追い付くこともある」というか、それが自然な流れです。


山中教授のように、不治の病に挑み、医療技術の進歩に人生をかけている医師たちがいます。
その一方で、そういった可能性と未来を信じず、「あ~、この子はアスペで、LDもあるから、将来は福祉ね。普通級?ムリムリ」と言う医師もいる。
私は、医療の可能性を信じられない人は、そもそも人間の可能性を信じることのできない人だと思います。
たとえ、自分が関わる医師が、支援者が人間の可能性を信じられない人だったとしても、親御さんは我が子の可能性を信じるのではないでしょうか。
そして、子ども自身も、表現しなかったとしても、自分の可能性と未来を信じているはずです。
親が子どもの可能性を信じず、誰が信じるのです。


治るの道を進む人達は、決して理想主義で、楽観的で、医学的な知識が全くない人ではありません。
みなさん、医学的に「治らない」と言われているのも知っています。
でも、目の前の子の中に、そういった知識を飛び越える可能性が見えている人たちなのです。
だから、何も知らず、あたかもただの無知のような、またインチキをやっているような発言をする人間を私は許せません。
だからといって、そういった人達に考えを改めてもらうつもりもないし、治らず、支援と理解を求めて生きていけば良いと思います。
医学的見解から外れてない自分に酔いながら、目の前で生涯生きづらいままの子を見続ければよいでしょう。


何を言われようとも、治りたい人達と共に私は歩んでいきます。
昨日の子のような笑顔が見たいから。
私は子どもの笑顔を犠牲にし、医療と心中するつもりはないのです。

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