2015年10月3日土曜日

ボーリング場に着いたら、ただ投げるだけ

ボーリング場に着くと
自分の足のサイズに合った靴が渡され
すでに自分の名前が登録されているレーンに移動し
用意されているボールを手にし
とにかく投げる
すべて投げ終えたあとは
ボールと靴を片づけ、帰る

これって「ボーリングをやった」と言えるのだろうか?
これって将来、余暇としてボーリングを楽しめることにつながるのだろうか?

普通、ボーリング場に行ったら、申し込みや支払をしなくてはならないし、混んでいたら待たなくてはならない。
それなのに、何でもかんでも事前に済ませておいて、子ども達は何もしない。
ストレスフリーかもしれないが、これでは将来に活きた学習にはならない。
ただ球を投げるだけだったら、別にボーリング場に行かなくても良い。

中には、すべての行程を一人で行うことが難しい子どももいるだろう。
でも、お金を渡す、シートに名前を書く、靴のサイズを伝える、静かに待つなど、何かできないだろうか。
何かできるようになる可能性がないだろうか。
一人ひとり目標があるはずなのに、セレブのような"すべて周りがお膳立て"っておかしいと思う。

別の子の話だが、修学旅行で本州に行くとのこと。
その子のしおりを見せてもらった。
なんとつまらないしおりだろうか。
学年にはいろいろな子がいるのに、みんな同じしおり。
それも「何時にどこそこ」「バス」「飛行機」という文字と絵だけ。
せっかく旅行に行くのだから、乗るバスの時刻や行き先、料金だって自分たちで調べさせればよいのに。

どこで食べるかだって決められるくらいの空白があって良いんじゃない。
食べる場所が決まっているのは仕方がないとしても、もうすでに注文するメニューが決まっているってどういうことだろうか。
ホテルや見学する場所などの住所を地図で調べたら、初めていく土地のより具体的なイメージがもてるし、将来、旅行を計画する力を養う機会になるんじゃないだろうか。

上記の2人には、改めて勉強しなおしましたよ。
せっかく機会があるのに、そこで学べないのだから、別の機会にやるしかない。
私が言うのもおかしな話だが、やるべきところがやらずに、わざわざお金を払って改めて勉強するのってどうだろう。

支援者の言い分も分かる。
何かあったら困るし、とにかく無事に効率よく終えたいという気持ちが全面に出てしまうのだろう。
でもね、こういった支援を目にするたびに、私は「どうせ将来、一人でできることなんて無理だ」という諦めに近いような気持ちがあるのだと思ってしまう。
ある学校の教員が「どうせ、この子たちは一生誰かの世話にならなくてはならないんです」と言ったのを覚えている。
少なからず、自分に能力のない支援者はこのような考え方の人が多いのだと思う。

しかし、ただ経験すればできるようになるという人たちではない。
自然に、自分たちで適切に学び、スキルを身に付けることができない子ども達かもしれないが、1つ1つ学べば、成長できる可能性を持った子ども達である。
それには普通の子どもよりも、さらに多くの労力がいる。
でも、それを満たすために、少ない人数に職員が配置できるようにしているのではないか。
それが特別支援教育ではないのか。

至れり尽くせりは、子ども達のためにはならない。
それは、ただ決められたことをこなしているに過ぎないから。
それでは勉強にならないし、将来に活きてこない。
子ども達がより良く学べるように支援者がいるのだ。
自分たちの仕事がより効率的にこなせるように、子ども達がいるわけではない。

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