2020年3月24日火曜日

【No.1034】自閉症特有の行動、自閉症の人にしか見られない行動

「ミニカーを走らせるわけではなく、並べるんです」
「車のタイヤや、換気扇が回るのを、ずっと見ているんです」
「まだ、言葉を話さないのに、ロゴやマークの字にこだわるんです」
「道順にこだわりが…」


こういった様子を話され、心配になり、相談に至る親御さんは少なくありません。
いわゆる、典型的な自閉っ子の姿ですね。
私が学生時代に持っていた本にも、そういった姿のイラストが描かれていましたし、映画やドラマでも、ミニカーを並べる男の子、変更が伝えられるとパニックになる子が登場していました。
今はどうか知りませんが、もう久しく特別支援系の本は手に取っていませんので、いまだに自閉っ子がそのように表現されているのだと思います。


学生時代は、そして数年前までも、このような姿を見かけるたびに、「ああ、自閉っぽいな」というような捉え方をしていました。
しかし、改めて胎児、乳幼児の発達を勉強し直し、多くの幼児期の子どもさん達の相談がくるようになり、そして自分自身が親になり、二人の子の発達、成長を見ていく中で、「自閉症特有の症状、行動」と捉えられていたものの多くが、単に未発達や遅れだったことに気が付きました。


親御さん達の多くは、また支援者の中にも、上記のような行動が確認されると、「自閉症かもしれない」「自閉症だろう」という想いが出てきます。
これは、特別支援の教科書、専門家の発言の影響からだといえます。
では、実際、発達相談でその子とお会いすると、そういった病的な感じはせず、単に発達が遅れているだけ、発達課題の途中経過ということばかりです。
なぜ、そう言い切れるかと申しますと、発達を後押ししたり、まあ、余計なことをしなければ、その段階から次の段階へと発達していくからです。
今を切り取ると、自閉症らしさ満載。
でも、発達の流れから見れば、途中経過であり、それもまた定型発達の流れに沿っているのです。
ですから、全然心配することなし、です。


このような経験から、最近では、「自閉症特有の行動などない」と考えるようになりました。
感覚過敏は、感覚系の未発達。
視覚優位は、聴覚系、三半規管の育ちの遅れ。
変更への抵抗、パニックは、周囲の情報が読みとれない=身体の範囲や軸が掴めていない、内臓を含む感覚系の遅れ、ゆえに前頭葉の発達の遅れ。
言葉の遅れは、運動発達のヌケや遅れ+長時間のメディア視聴(+早期教育)。
幼少期からロゴや文字は、全身や感覚を使った遊びの乏しさ+早期教育、メディア視聴、耳の発達の遅れ。
ミニカーを並べる、タイヤグルグルは、定型の子もやる。
大雑把に言って、こんなところでしょう。


そうやって、子どもの行動を「自閉症」という色眼鏡を外して見てみると、だいたいが定型発達の子も辿る自然な発達の流れに存在する姿だといえます。
一言で言えば、そういった行動があるのが問題なのではなく、そこの発達段階から進んでいかないことが問題なのだといえます。
ということは、自閉っ子の多くに必要なのは、そういった行動への支援でも、受け入れでも、理解でもなくて、そういった発達段階から一歩進むための援助であり、育ちです。
発達障害の子が、つまり、神経発達に遅れがある子が、支援ではなく、子育てや遊びの中で治っていくのは、こういった背景があるからだと思います。


ただ、ここで、もう一つ疑問が生じます。
成人した人達に感じる自閉っぽさです。
これは、幼少期の行動というよりも、思考に対して強く感じます。
融通の利かなさ、空気の読めなさ、一方で視覚的な記憶と情報処理が得意というものです。
こういったものを、以前、私は「自閉脳」「自閉症の情報処理形式」などと捉え、表現していました。
しかし、幼少期の子どもさん達の発達相談からみれば、やはり、これも胎児期から2歳前後の間における未発達、発達のヌケが根っこにあるのだと思います。


ただ違いがあるとすれば、そういった未発達、ヌケを残したまま、大きくなったということ。
感覚系の未発達により、周囲からの情報がうまく掴めない、掴めるのが視覚情報に偏った。
そういった受信形態が長らく続くと、脳が柔らかい時期を偏った刺激の中で過ごすと、おのずと脳は、身体は、その偏った刺激によって形作られていく。
いわゆる、「脳が環境に適応した」というやつです。
本人からすれば、とてもしんどい子ども時代、生活の中を過ごされてきたのでしょうが、それだからこそ、そういった環境を生き抜くために、脳や身体はサバイバルとして適応しようとした、そして適応を果たした。
不十分ながらも、なんとか生き抜いていけるように、自分自身を変容させてきた。
そんな風に感じることがあります。


上記の姿は、特別支援を受けてこなかった若者たちの姿です。
そして、幼少期から特別支援を受けてきた若者たちには、また違った雰囲気を感じます。
幼少期に、自閉っぽい行動が見られた。
そして、診断を受け、早期療育、支援を受けてきた。
背景にある未発達に気づかれず、自閉症特有の行動と周囲から捉えられ、そこに支援がされていった。
変更に弱いのは、自閉症特有の行動。
だから、変更がないように、常に先回りし、パニック防止に努めてきた。
そうすると、変化という学習、経験を積むことなく、それが情報と刺激の偏りとなり、本人の脳や身体に変更がない環境への適応が生じる。


運動発達のヌケを育て直すことなく、「ああ、この子は言葉の遅れがある子」となり、絵カードがコミュニケーションの主となる。
「言葉が話せないのだから、理解も乏しいはず」という誤解から、特別支援の教科書の載っている「言葉よりも絵で伝える」「話しかけは混乱に繋がる」という昔の常識から、言葉を耳にする機会が失われていく。
表出言語の土台は、運動発達と内言語を増やすこと、つまり、言葉をたくさん聞くことなのに。


ミニカーを並べるこだわり、遊びが、均等に並ぶ、整然と並べられるものへ発展し、電車の時刻表へ趣味が変容していく。
回るもの繋がりで、電車の車輪→電車自体→電車の形にいく人もいれば、聴覚の発達が遅れた人は音鉄へ移行していく。
他にも、定型の他人と関わりたいけれども、関わる機会に恵まれなかった人、そこで失敗した人が、二次元の世界へ。
成人の人の趣味を聞けば、だいたい、何に発達のヌケがあるかがわかります。
こういった趣味に関しては、周囲からも許容されることが多いので、どんどん自ら偏っていきます。


最後の話は、ちょっと脇道に逸れてしまいましたが、何が言いたいかと申しますと、主に大きくなった自閉症の人たちに見られる思考、情報処理の自閉っぽさも、元を辿れば、幼少期の発達の遅れとヌケがあるということ。
だから、育てれば、治るよね、支援よりも子育てだよね、となります。
ただ、長年、偏った情報、刺激の中でサバイバルしてきた人達は、脳や身体がそれに適応しているので、無理にそこを変える必要はないし、私の経験からも、そういった脳の適応は残り続けるし、現実的な援助としては、不便なところ、育てられるところを育て直し、その適応の範囲を広げていくことだと思います。


幼少期の子どもさんは、未発達を育て、本来の発達の流れに戻っていってもらう。
成長と共に適応したお兄ちゃん、お姉ちゃんたちは、自閉っぽさを残しつつ、ラクになること、幸せになることを目指していく。
言葉は適切ではないかもしれませんが、「自閉症のまま、幸せになる」というイメージです。
私は、自閉症という困難さには萌えませんが、その人が一生懸命適応し、生き抜いてきたその思考、情報処理形式には敬意をもって接しています。
長年の間で、作り上げてきたものは、より良く活かしていった方が良いと思うのです。


学生時代の講義の中で、これが自閉症だと、『レインマン』のビデオを見せられたのを覚えています。
でも、そういった造られたひと昔、ふた昔前の自閉症像に、どっかの誰かが想う自閉症のイメージに、引っ張られるのは終わりにした方が良いと思います。
あれだけ、「同じ自閉症でも一人ひとり違う」と言われ続けているのに、いまだに『レインマン』『光とともに』ではいけいないと思います。
もう、そういった姿に、悲しみ、共感し、社会に訴えかけていこう、という時代ではありません。


ほとんどが、定型の子も辿る、定型の子もやる行動なのです。
自閉症の子“だけ”の行動ではありません。
問題があるとすれば、その一時期で終わる発達過程に留まり続けていることです。
ですから、支援ではなく、子育てなんです。
ですから、理解じゃなくて、治すなんです。
留まっている段階から一歩進めるような後押しが、本人を悲劇のヒロインとして消費しないことに繋がります。
周囲に消費されて、自由と選択を失った子ども達がたくさんいた時代を、もう引きづるのはやめにしましょう。

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