【No.1030】選ばれた言葉を窓に、親子の時間を、その子の発達を覗き、連想する

冷やし中華のように、「メール相談始めました」と言ったわけではなかったのですが、いつの頃か、相談のメールが来るようになり、「これだけニーズがあるのなら」と告知をしたら、ほぼ毎日、誰かしらのご相談があるようになりました。
メールの文面を拝見していますと、人によって書き方がバラバラ。
だったら、フォーマットを用意した方が良いかな、なんて一瞬思ったのですが、やっぱり良かったと思いますね。


「年齢は?」「運動発達で気になったことは?」「今、何が気になりますか?」なんていうようなアンケート用紙のみたいなものを用意したら、たちまちつまらんものになります。
それは、私にとっても、親御さんにとっても。
確かに、書く項目が明確になっている方が書きやすいというのはあると思いますが、それじゃあ、相談する意味はなし、です。
多分、アンケートのような記述には、マニュアル的な返しになります。
誰に訊いても同じような答えしか返ってこないから、こうやって民間の怪しい私に、わざわざ相談しているのですから(笑)


質問用紙というのは、実につまらんものです。
枠があると、回答する方は脳みその省エネができます。
でも、利点はそのくらいなもの。
書いている親御さん、本人にとっては、時間だけかかって、得るもの少なしです。
発達相談等で、枠いっぱいに、びっちり記述される親御さんは多いですが、まともな返事、助言が返ってくることはほとんどなかったでしょ。
だって、自信がないから、実力がないから、枠に逃げたくなるのです。
枠からはみ出たとき、その支援者の真の実力が問われることになる。


あるときから私は、相談メールに回答するのが、楽しく感じるようになりました。
相談者のメールの文面のバラエティさから、あることが見えてきたからです。
それは、何かを記述したということは、何かを“記述しなかった”ということに。


相談するということは、今、何かに困っていたり、悩んでいたりするからです。
だけれども、悩んでいることすべてを記述するわけではないと思います。
生きていれば、子育てをしていれば、何かしら悩みを持ち続けるもの。
でも、その中から意識、無意識に関わらず、相談するものが選別されている。
同じように、成育歴などの記述も、書かれているものの背景には、何百倍もの書かれていない話が存在している。


私は、書かれているものよりも、書かれていないものを想像することに楽しみを感じます。
多分、メール相談でも、実際に対面しての相談でも、大事なのは表に出ていないものの方でしょう。
言葉や文字にできる部分は、ごく限られた情報。
だけれども、無数ある情報、話、物語の中から、それを“選んだ”ということには、重要な意義、意味が含まれていると考えるのです。
選ばれた言葉を窓にして、その中を覗いてみる、連想してみる。
そうすると、本当に大事なことが、相談者の立場で言えば、最も伝えたいこと、訴えたいことが、見えてくるというものです。


凝った質問用紙を作りたがるのは、支援者特有の悪趣味というものです。
脳みその省エネ化だけではなく、書かれた文字だけから仕事をしようとする姿勢、また仕事をした気になった思い上がりが透けて見えるから。
面談に関しても、「何を言っても、どの支援者も同じことを返してくる」と言われる親御さんは多く、中には、「支援者の仕事には、助言のマニュアル、問答集みたいなものがあるんですか?」と真剣に尋ねてくる親御さんがいました。
それくらい表出された部分しか勝負できない支援者が多いということ。
だから、自分の土俵に持ちこもうと、質問用紙をせっせと作るのです。


私は、面談の開始時に、「とにかく自由に。上手に話そうとされずに、思い浮かんだ順に、ポンポンしゃべってくださいね」とお伝えします。
私が、その言葉よりも、言葉の背景に、何を言ったかよりも、そのときの雰囲気に意識を向けているからです。
言葉は、あくまでも入り口にすぎません。
言葉を通して垣間見られた考え方、捉え方、心情、その人が見てきた世界にこそ、現実の困難を解決する糸口がある。
悩みはポッと現れるのではなく、すべて過去から続く流れの中で生じている。


もともと、発達というものを、人工的な枠に押し込めようとしても無理があります。
支援者が、「ここのところを書いてほしいな」と思うようなところと、その人の発達がピタッと合うなんてことはありません。
“定型”という発達に合わないからこそ、相談に至っているのですから。
バラエティに富んでいて、その人オリジナルの発達。
その唯一無二の発達過程の中に、悩みが生じていて、ときにそれを一番傍で見ている親御さんが相談される。
ですから、親御さんの表面的な言葉よりも、親御さんの目を通して、その子を見ることが重要になってくるのです。
親御さんの目になるためには、親御さんが選択した言葉の、その選択にこそ、意識を向ける必要がある。


親御さんが自由に、伸びやかに、語られるとき、それまでの親子の時間、生活、我が子への眼差しがよく感じられます。
そういった場合、お子さんとお会いして行うのは、確認のみです。
「うちの子を見たわけじゃないのに」「まだ面談が始まったばかりなのに」、どうしてわかるんだというようなことを言われることが少なくないのですが、それは、それだけ親御さんが伸び伸びと語られているからです。
表現するのなら、言葉の雰囲気の中に、その子の姿が表れているって感じです。


別に、私に特殊な能力があるというわけではありません。
他の実践家の方達も、同じような感覚を持った人が多いはずです。
私で言うならば、今までの相談件数、実際に関わった多くの人達の中で磨かれた部分でしょうし、何よりもキャリアの始まりが、ノンバーバルの世界だったことだと考えられます。
ほとんどの方がノンバーバルだった施設職員時代。
言葉以外の何かで関わり、知って、察する支援を行っていました。


最初は、排泄物や体温、食事の量や行動等、見えるもので。
そこから徐々に、顔や身体のできもの、顔色や声色、自分との距離感など、抽象的なものへ。
そして雰囲気で察する、自分が勤務していないときの姿を想像できるようになったという感じです。
私の支援者としての土台は、こうやって築かれたので、今の仕事でもノンバーバルの世界で対話しています。


私は、「親の直感」というものを信じていますし、信頼しています。
ですから、その親御さんの直感、第六感が存分に発揮できるような環境づくりも、最も大事な仕事の一つとなります。
私達支援者は、どう頑張っても、それまでの親子の時間を実際に見ることはできませんから、実際に時間を共有し、見てきた親御さんの言葉から、雰囲気から感じとるしかないのです。
その結晶が親御さんの直感であり、その直感が言葉に乗ってやってくる。
メール相談でも、対面での発達相談でも、その直感を支持するような、後押しできるようなイメージで行っています。

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