2020年3月10日火曜日

【No.1026】やりようがあるところを支援しないで、何を支援するというのだろうか

昨日の就労支援に関しても、どうしてやりようがあるところをやらないのか、はなはな疑問です。
職場への理解も、どういった配慮を受けるかも、相手があってのことだし、思い通り、全面要求通り、なんてことは望めない。
そんな、希望的な観測みたいな、どうなるかわかんないものに、時間を費やすのも、それで支援したことになるのも、意味不明。
やれるところをやるのが、すべてにおいて、大原則ではないだろうか。
就労に関しては、働ける身体を育て、整えることは、今からでもできること。
できることを支援しないで、何を支援するというのでしょう。


私は全国どこでも、家庭まで出向き、そこで発達相談を行います。
対面にこだわるのは、臨場感の違いです。
目の前で、私がお子さんと関わり、発達の状態を確認し、その子の発達流れ、受精から現在まで続く物語を紡いでいく。
その姿を間近で見てもらうことで、親御さんの中に気付きと変化が生じる。
また、そのときの親御さんの変化を受けて、私自身も頭が忙しくなり、訪問前には想像していなかった気づきと変化が生じる。
このようなお互いに変化が生じることで、初めて意味のある支援ができたといえるのだと思っています。


一方的に、変化を起こそう、与えよう、という支援は、そのあとに続いていきません。
結局、そのときはわかったつもり、できたつもりでいるけれども、場面が変われば、日常の流れの中に消えていく。
これが、「教わったら、教わり続ける」「支援を受けたら、支援を受け続ける」の理由です。
渡す人がいて、渡される人がいる。
渡されたものは、外付けするしかできず、その人の内側までは入っていけないのです。


私の発達相談、援助を受けた方は分かると思いますが、基本的に教えませんし、教えようともしません。
ハナから、何か知識や技能を与えようとなど、考えていないからです。
じゃあ、何しに行っているか、わざわざ飛行機を乗り継ぎ、訪問しているか、といえば、「やりようがある」というのを伝えるため。
目の前で、臨場感を出しながら、場と時間の共有をしにいくのは、この一点を感じてもらいたいから。


「やりようがある」というのを、実際、目の前でやりようがある姿を見てもらうことで、感じてもらう。
何故、感じてもらうかといえば、ヒトは感情で動く動物なので、感覚的な認知から発達が始まっているので、やはり感情が動くことが変化の始まりだと考えています。
電話やメール相談もやっていますが、やっぱり生の発達相談とは変化の起き方が違います。
コトバは概念であり、人それぞれ捉え方、定義、ニュアンスが異なります。
でも、ライブは、ノンバーバルな情報のやりとりに溢れていて、直に感覚へ訴えかけられるような気がしています。


「やりようがある」と文字で伝えても、頭で止まってしまうことがほとんどだといえます。
もっと深いところで理解してもらうには、場と時間を共有すること、それは肌身で感じるということです。
皮膚を通して感じたことは、直接、感情を揺さぶるとともに、感覚として残り続けます。
私が帰ったあとも、「やりようがある」と皮膚が覚えていれば、行動の変化としてつながっていきます。
「だって、目の前でやりようがあるのを見たから」
これは、それ以降出会う、やりようがないことで飯を喰っている人達の言葉を完全に打ち消していくのです。


特別支援というのは、つくづく、自立とは真逆を行くなぁと思います。
だって、そのほとんどが、やりようのないところに注目し、いじくろうとしているから。
自閉症の脳の情報処理ばかりに注目して、どうするの。
そこを支援することが、本人にとってプラスに働くというのでしょうか。
もっとシンプルに、栄養のこと、身体のこと、発達のことだったら、自分一人で改善していけるのに。
そういった「やりようがある」ところを、1つずつ、背中を押していく。
本人は、日々、やりようがあることを身をもって体験するのだから、意欲や自己肯定感を高め、それこそ、自立へと歩を進めていくことになるのにね。


最初からやりようのないところに注目し、いじくりまわした挙句、結局、「障害特性で治らないから」と言い放つ。
それのどこが支援というのでしょうか。
結局、今の特別支援というのは、本人を支援しているわけではないのです。
やりようがあるところを教えず、支援せず。
それが現状だといえます。


「生涯、治らない」という言葉は、親御さんの心を、いや、親としての存在意義を否定するようなもの。
親として一番つらいのは、「あなたに、やれることはないですよ」「我が子にできることはないですよ」と言われることです。
親になって、1年、2年、3年という若い親御さんが、子の未来と同時に、親としての意味まで否定される。
でも、それは真実に基づいたものではないですね。
生涯、治らないわけでも、やりようがないわけでもない。
親としてやれることも、親だからできることも、たくさんある。
それを伝えたくて、出張の発達相談をやっているところもあります。


医師や専門家から、「やりようがない」と告げられる。
その言葉を消すには、言葉よりも深い部分で対抗していくしかありません。
それが肌身で、「やりようがある」を感じ、体験すること。
肌身で感じたことは、言葉には揺るがなくなります。
同時に、それが親御さんの核となり、子育てを通して治し続ける原動力となります。
「やりようがある」を肌身で知っている親御さんは強い。


発達障害の子、知的障害を持った子。
診断を受けると、もうできることは限られている、支援者という他人を頼るだけ、みたいな感じがしてきます。
でも、やれることはたくさんありますね。
その「やれること」に気がついている支援者かどうか、そこを解決する知見を持っている支援者かどうか。
本人が、家族が、「やりようがある」と思えないような支援は受けても仕方がないでしょ、結果は同じだから。
特別支援の世界は、「やりようがない」という言葉まみれになっています。

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