2020年3月13日金曜日

【No.1029】発達は文字化することができない

相談メールと併せて、結構、ブログに関する質問や感想が多く寄せられます。
そういったブログに対するリアクッションを読んでいますと、一人ひとり捉え方も、響き方も、違うことがわかり、またそれを楽しんでいる自分がいます。
同じ文章、文字を書いても、見え方、捉え方が異なる。
当然、私が伝えたいこととのズレも生じるわけです。
でも、それが当たり前で、自然なこと。


言葉は、伝える手段としては、とても優秀なものだけれども、細部まで表すものではありません。
伝えているのはニュアンス。
たとえ同じ言葉であったとしても、それをどう捉えるか、は受けて次第で、その受け手の受け止め方を決めるのは、個人の体験に他なりません。
そういった意味で、円滑なコミュニケーションというのは、滑らかに言葉が出るとか、語句が豊富でバラエティに富んでいるとか、ユーモアのセンスがあるとかじゃなくて、相手と共感できるか、感覚を共鳴できるかということなんだと思います。


「僕、コミュ障なんで」という人は、だいたい空気も読めない人。
だけれども、同じ趣味嗜好の人とはコミュニケーションがうまくいく。
つまり、土台が感覚系の未発達であり、それに覆いかぶさっている課題が、体験、経験値の乏しさ。
おば様たちの会話を聞いていると、ト書きにすればあべこべなんだけれども、コミュニケーションが成り立っている。
それは、同じような年代で、同じような生活、人生を送ってきた共通点の多い人同士だから、ニュアンスで共感し合っているからなのでしょう。


五感が働かないと、ニュアンスに注意が向かず、その言葉、文字情報にグッととらわれる。
昔よく言われていた自閉っ子の「字義どおりに捉える」というのも、結局、相手との共感がうまくいかなかっただけのことであって、自分に感覚系の未発達があれば、言葉の持つニュアンス、つまり、それを発した人の背景、感覚がわからなくなるのも仕方がない。
言葉は曖昧なものであり、発した人の感覚、受け取った人の感覚によって変化するものです。


若い支援者からも、相談、助言を求められることがあります。
そんなとき、よくお話しするのが、勉強の仕方。
若手の頃は、私もそうでしたが、専門的な知識をとにかく取り入れようとします。
障害の特性から、療育の方法、脳や神経、ヒトの発達など、ありとあらゆるものを勉強します。
でも、その勉強の仕方を見ていると、受験勉強みたいなんですね。
とにかく幅広い知識を覚える、暗記する。


知識の少ない時期は、こういった勉強も必要なのでしょうが、実践の場面では、ほとんど意味をなしません。
ですから、基礎体力を養うっていう段階なのでしょう。
じゃあ、実践で活きる勉強とは?
それは、五感を働かせながら、ニュアンスを読みとるということなんだと思います。


その人は、どういったニュアンスで、その言葉を選び、記しているか。
そこを捉える必要があります。
言葉よりも、その言葉に乗せられた感覚に気づけなければ、ただの受験勉強にしかなりません。
若い頃に読んだ本を、後から読み直すと、当時、気づかなかったことがわかってくる。
それは、経験を積み重ねていった結果、体験の幅が広がり、共感できる部分が増えたということなんだと思います。
筆者の感覚に、いかに近づけるか、共感できるか、が真の意味での言葉の理解へとつながり、実践に活きてくる学びになるのだといえます。
言葉はただ音から生まれるのでなく、体験から生まれるのです。


他にも、たとえば、胎児期の発達について勉強するのなら、実際に胎児に自分がなってみる。
五感を働かせながら、イメージしてみる。
「これくらいの明るさじゃなかろうか」
「手を動かせば、こういった感覚が戻ってくるだろうか」
「母胎から、この世界に出てきたとき、何が最初に迫ってくる刺激だろうか」
そういった連想が、アセスメント力を培うのだと感じます。
実践の場では、なにかを勉強したからわかるのではなく、その子の感覚、体験と重なるからわかる、ということがほとんどなんです。


私は本を読んでいても、誰かと会話をしていても、その言葉自体には、あまり注意を向けていません。
それよりも、どういったニュアンスで著者が記しているのか、どういった声色で、どういった感覚、感情を乗せて、その言葉を発しているか、に意識が向いています。
言葉は曖昧なものですので、自分と同じ意味で、相手が使っているとは限りません。
必ず意味にはズレが生じています。
そのズレを読みとれなければ、発達相談も、発達援助もできません。
何故なら、発達自体が曖昧なものであり、ニュアンスだから。


言葉で発達を捉えようとすれば、必ずズレが生じます。
一人ひとりの発達は、多様でバラエティに富んでいる。
それを言葉で捉えようとすると、必ず見誤るのです。
言葉は入り口であって、本質ではない。
発達とは、ノンバーバルの世界。
ノンバーバルというのは、それだけ感覚で捉える部分が大きいということ。
つまり、発達と向き合う者は、支援者でも、親御さんでも、まずは自分の感覚が育っているか、整い十分働ける状態になっているか、が重要になってきます。


私の発達相談は、直感と感覚で行います。
専門書を開くときは、「あれで合っていたかな」と、あとから答え合わせをするとき。
教科書を見ながら、発達相談なんかできません。
文字を通してでは、発達を視ることができないからです。


言葉、知識が絶対だと思ってしまうのは、感覚系に課題がある証拠です。
それこそ、エビデンスにこだわるのも、同じ問題を抱えているのです。
今、目の前で起きていることがあって、あとからエビデンスが追いかけてくるのが真実。
エビデンスで、子どもの発達を捉えることはできないのは、エビデンスという枠にはまった部分だけを、その子の発達である、と見誤るから。
エビデンスは、数値化されないものをすべて切り捨てる。
その切り捨てた中に、その子だけの発達が入っているのです。

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