行動障害と向き合うときに、仲間で掛け合っていた言葉

行動障害を持つ人達の支援をしているとき、一緒に働く仲間には2つのことを言っていました。
「“障害者”として、その人を見ない」と「粘る」です。


「“障害者”として、その人を見ない」というのは、障害特性や発達の具合を考慮しないということではありません。
多くの方は、感覚過敏など、感覚面に課題がありましたし、重い知的障害などの発達面の遅れが見られました。
ですから、どうしても「障害者」として見てしまいがちになります。
でも、そこで「障害者」と見てしまうと、無意識的に一歩引いてしまうのです。
「これくらいは許容範囲かな」「こっちが我慢すれば良いや」という具合に。


そうやって一歩引いてしまうと、一歩引いたところに、支援に関わっていた本人の世界の線が引かれていってしまいます。
行動障害を持つ方の多くは、重い知的障害も持っている人が多いので、そういった支援者の「一歩引く」という感覚が、ストレートに影響を与えてしまうのです。
言葉を獲得する以前の発達段階にいるのですから、そういった動き、雰囲気が彼らにとって世の中を読み解く“主”になっている。


一歩引くのが普通になると、また次の波がやってきたとき、さらに一歩引くことになります。
こうやって知らず知らずのうちに、支援する側が一歩ずつ下がっていくと、一般的な社会で生きていくことが難しくなっていきます。
ですから、障害者という眼鏡を外します。
20歳なら、一般の20歳の男性がこういった行動は許されるかという視点で見て、介入すべきでは、指導するべきではないか、と考えていく。
また、年齢の幼い子どもだったとしても、同じ年齢の子と比べてどうだろうか、もし親だったら将来のために注意しないだろうか、そんな風に考えていきます。
そうすると、無意識に一歩引くということがなくなりますし、障害のない子と同じように、将来の自立、社会で生きていくために、何を教え、何を注意しなければいけないのかが見えるようになります。


行動障害を持つ人の支援というのは、本人はもちろんのこと、周囲にとってもしんどいことです。
しかも、身に付けてしまった行動を角度を変えて、別の方向へと導いていくのは時間がかかることです。
途中で諦めたり、支援を止めてしまうと、ある意味、糸が絡まってできあがった問題行動が、さらに別の糸で絡まってしまう。
そうすると、どんどん問題が絡み合ってしまい、どんどん解決するのが難しくなるのです。
ですから、一度、その問題行動に取り組もうとしたら、その課題が解決するまでやり通すということが大事になります。
私も実際、支援に携わるときには、「自分たちがこの問題を解決しなければ、今後、解決して暮れる他の人が現れるわけはない」と思い、取り組んでいました。


「粘る」というのは、まさしく人を育てる基本だと言えます。
発達も、成長も、自立も、本人の試行錯誤の先にあるものです。
その試行錯誤には粘りが必要であり、粘れる子を育てるには、まず大人が粘れる身体と心を持っているかが問われると思います。
子どもの発達を後押しするのが上手な親御さんも、問題行動へと繋がる芽を摘むのが上手な親御さんも、妥協しない人であり、粘る人ばかりです。


行動障害への取り組みも、子どもを育てていくことも、何か良い支援、良い教材を与えれば、ポッと解決したり、できるようになったりするものではありません。
やっぱり人が育つには、発達、成長するには1つずつの過程があると思います。
その過程を一歩ずつクリアしていくスピードは個々によって違いますので、特に発達にヌケのある子達に携わる者は、じっくり粘れる姿勢が求められます。


近頃、粘れない人が多くなったような気がします。
それは生活スタイルが変わったからだと、私は思っています。
重いものを持つことが少なくなった。
部分的な遊びが増え、身体全体、また腰を使った遊びが少なくなった。
あと、まだ私が子ども時代は、学校や公共の施設には和式便所があったのですが、今は洋式ばかりになり、かがむ姿勢をしなくなったことも、粘れないことと関係しているのでは、と思っています。

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