2016年10月26日水曜日

子どもの課題と自分の課題をごちゃまぜにする人

親に手伝ってもらった夏休みの宿題が褒められたり、表彰されたりするっていうのは、笑い話になるけれど、日々の宿題を代わりにやるとなると、笑えなくなります。
もちろん、実際にこんなことをする人はいないんだろうけれど、これに似たようなことをやっている人はいますね。
子どもの課題を代わりにやっちゃう人。
子どもの課題を「やらなくていい」と取り上げちゃう人。
子どもの課題を「出した方が悪い」と言っちゃう人。


子どもは日々、課題と接しています。
それは、与えられる学校の課題がありますし、自ら向かっていく発達の課題、人間関係の課題などもあります。
どれもその子自身の成長に必要な課題なのですから、その子自身で乗り越えることが必要です。
いくら「自分がやった方が早い」「上手くできる」と思っても、手を出してはいけません。
その課題は、“その子”の課題であって、“私”の課題ではないのですから。


相談でいろいろな方のお話を聞いていると、課題の曖昧さを感じることがあります。
例えば、支援グッズを一生懸命用意する親御さんがいます(もちろん、それ自体は問題ないです)。
で、お子さんは〇〇という活動ができる、落ち着いていられる。
でも、それってその子が乗り越えたことになるのかなって感じるんです。
その子自身で、「ぼくは、課題に乗り越えられた」という気持ちが味わえるのかなって。


支援グッズは、本人が課題を乗り越えるために使う補助であって、周りがお膳立てするためのものではありません。
つまり、支援グッズから「この子が失敗しないように」という匂いが出ていたら、それは支援者自身が失敗を恐れている証拠であり、失敗に対する課題がある、まだ乗り越えられていないということ。
また、支援グッズから過剰さや見た目が匂ってきたら、それは支援者自身がどう見られているかに意識がある証拠であり、他人からの評価に揺らいでしまうことに課題があるということ、などが想像されます。


子どもの意思や課題と別のところで、「学校に行かなくても良いんだ」と主張する人は、その人自身が学校に良い思い出がなかった、辛い学校生活を送った、学校の中に課題を置いてきたというのもあります。
「無理に働かなくても良い」「一般就労より、福祉的就労の方にしなよ」と主張する人は、仕事の中に課題があるのかもしれません。
「社会の理解ガー」と主張する人は、自分自身が理解されていない現実の中に、「愛情ガー」と主張する人は、親との関係の中に課題があるようにも思えます。


他人の成長、発達を援助する人間だったら、まずは自分の課題をクリアしてから来てほしいと思います。
そうでないと、本人の課題と支援者の課題がごっちゃとなるからです。
せめて自分の課題くらいきちんと把握し、直視できるように、と思うのです。


いくら知的な遅れ、発達の遅れ、ヌケがあろうとも、子どもも別人格の人間です。
その子自身で課題と向き合い、乗り越えないと、いつまで経っても課題はクリアすることができません。
親や支援者は、課題で苦労する子の姿を見ないので、辛くはならないかもしれません。
でも、その子自身は、いつまで経っても課題が残ったままなので、ずっと課題を背負い生きていくのです。
支援者はいなくなっても、課題はなくなりません。


この頃、思うのです。
子どもの課題と自分の課題をごちゃまぜにする人は、敢えてそうしているのかなって。
混ぜることで、曖昧にすることで、自分自身の課題を直視しなくて済んでるんじゃない!?
結局、逃げてるのかなって。
やっぱり勇気ですよね、勇気。
自分の課題と向き合える人には、勇気がある。
勇気のない人は、自分の課題に向かっていける子を育てることはできませんよね。
私達が育てたいのは、自分自身で課題と向き合い、乗り越えていく人。

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