2020年5月6日水曜日

【No.1060】学力に差ができるのは自然なこと

「地域ごとの学校再開では、子ども達の学力に差ができて不公平だ」
このような発言があることにびっくりしました。
日本は南北に長い国で、地域によって実情は異なるはずです。
リスクが小さい地域、対策がとれる地域から、どんどん学校を再開して勉強することの何が悪いというのでしょうか。
コロナが完全にこの世からいなくなることなどないのですから、どこかで人が判断しなければなりません。
 
 
日本人は遺伝子的に周囲と歩調を合わせる、乱れるのを嫌う人達が多いと言われています。
ですから、「ある地域だけ学校が始まるのは良くない」「学力の差ができるのはまずい」などと考える傾向があります。
こうやっていつまで経っても、ある意味、できない人に合わせたラインづくりをしているから、本来伸びる力を持った子ども達がその資質を活かせずに没落していくのだと思います。
学力においては最低限のラインだけ決めておき、あとは各々の興味関心、資質が最も活きるような学びと成長を遂げていけば良いはずですし、これからはそのように変わっていかないといけない時代だといえます。
 
 
本来、特別支援教育が率先して個人に合わせた教育をしていなければならないところだと思います。
しかし日本人のメンタリティーがそうさせないのでしょうか、「タブレット学習は他の子に影響が出る」だとか、「一人だけ交流学習の時間を増やすのは無理だ」とか、子のニーズよりも、集団の輪を重視することがあります。
過去には「一人だけ普通級に転籍したら、他の家庭から不満が出るから、小学校のうちは…」などと言われたケースもありました。
支援級においても、みんなが同じプリントで同じペースで学習している様子を見聞きすることが多く、「普通級で行う授業をただゆっくりにしたのが支援級」というのがまだ少なくないように感じます。
これだったらタブレットなどを使い、個人で、家庭で学習を進めていったほうが良いと思いますし、それが可能なら支援級ではなく、普通級に在籍したほうが良いと思います。
 
 
以前から私は飛び級と留年に賛成ですし、支援級はいらないと考えています。
これから先の社会を考えても、というか今の社会を見れば、いろんな人が存在し協働しているのが自然な状態です。
幼少期につけられた障害名や一時的な症状によって教室が分けられてしまうことに違和感を感じます。
そうやって子ども時代の大部分を分けられた子が、どうして社会の一員として主体的に生きていくことができるでしょうか。
いろんな子ども達が同じ場所で学び、成長していくのが自然な姿。
飛び級や留年があれば、習熟度に合わせて学ぶことができ、今のような分断は必要なくなるはずです。
発達援助と同様に、発達の遅れをそのままにしておくから障害、生きづらさになるのであって、学習においても習得できない部分をそのままにして年齢だけで学年が上がってしまうから途中でドロップアウトしてしまう子ども達が出てきてしまうのだと思います。
 
 
とはいえ、公教育ですので一気に変わっていくことは難しいでしょう。
だとしたら、今の子ども達は現実的な路線で考えていく必要があります。
支援級においては、その少ない人数の中での一番遅れている子に合わせた学習内容に設定されがちです。
ですから勉強ができる子は家庭学習で力をつけていき、同時に普通級で学べない理由に当たる発達の課題を育て、転籍を目指していくことが大事だと思います。
発達障害の子ども達においては、支援級在籍理由が「学習の準備が整っていない」ということであり、その課題の根っこは胎児期から2歳前後の間にある発達過程のやり残しになります。
そのやり残しをできるだけ早い段階で、できれば就学までにクリアしておくことが望まれます。
「発達障害の診断を受けたから学習に支援が必要」ではなく、「現時点では学習するのに支援が必要なため、その準備を整えていく、発達を後押していく」というのが真実です。
 
 
「うちの子は5年生なのに、まだ1年生くらいの学力」などと言われる親御さんがいますが、その4年の差が問題なのではありません。
大事なのは何年かかったとしても、その1年生の学力が2年生の学力へ進んでいくこと、できれば4年生の学力を習得することです。
知的障害のある若者たちとも関わりがありますが、学校に通っている間だけが学力を身に付ける期間ではなく、成人後、就職後も、前に前にと学習できる準備と実際の学習を通して4年生の学力を身に付ければ良いのです。
そう考えると、気がラクになる親御さんもいるでしょうし、実際、学力を身につけ自立してける若者ももっと増えていくと思います。
 
 
結局、シンプルに「我が子に自立してもらいたい」→「小学校4年生の学力を身に付けさせる」と考えられないのは、私達の内側にある日本人のメンタリティーが許さないからだといえます。
小学校では小学校の学力、中学校は中学校の学力。
そんな考えにとらわれているから、それについていけない支援級の子ども達の教育がおざなりになり、また教育する目的を見失っているように感じます。
なんとなく「自立」「就労」などとは言っていますが、それに必要な小学校4年生の学力をしっかり身に付けさせようとしていない、家庭では学習の準備を整えていない状況が見受けられます。
せっかく特別支援教育というシステムがあるのだったら、一貫して「とにかく小4の学力」という具合に12年間を続けていければいいのになと思います。
 
 
「アクティブラーニング」などの横文字や専門用語の数々は外向けの見せるための言葉であって、子どもの視点に立った言葉ではありません。
物事を突き詰めていくと、シンプルになるものです。
ヒトは何故発達するかといえば、生き抜くためです。
生き抜くとは、その生まれ出た世界に適応すること。
どんな環境に生まれ出るかがわからないために、ヒトは余白を持って生まれてきます。
余白を埋めていく作業が、まさに発達です。
ですから、より良く発達するためには自然の刺激を受け、自然の中で遊ぶことが必要になります。
自然の中で思いっきり遊んだ子は道具が使えるようになり、それが学習の準備が整った合図。
この社会で自立して生きていくには最低限小学校4年生の学力が求められます。
そこさえ習得できれば、あとは本人の資質に合わせた学び、成長を続ければ良いのだといえます。
 
 
自立に必要な最低限の学力をつけることなく、「子どもの資質を伸ばす」「個性を活かした学びを」などとはおかしな話です。
特別支援教育がいくら「個に合わせた教育」を掲げても、家庭生活の中で土台となる発達が育ちきっていなければ、横並びの教育をするしかなくなります。
特別支援が理想な姿へと変わっていけないのは、家庭の責任であり、そんな家庭にしているのは未発達と障害の区別ができない専門家、支援者たちです。
自然の中で、遊びの中で育っていくものを、難しい言葉を使って、あたかも特別な方法があるかのごとくするのは、そうしないと商売にならないから。
時間がかかっても、最終的に育てばよいだけなのに、日本人の横並びメンタルティーにつけこんで、同年齢の子ども達ができることができないとまずいような雰囲気を出し、支援の道へ引き込んでいく。
 
 
子どもの発達は短距離走ではなく、長距離走。
早くゴールするのが良いのではなく、最後まで走り切ることが大事です。
チェックポイントがあって、そこを確実にクリアしていく。
その先に自立というゴールがあるのだと思います。
どんなペースで走るかではなく、最後までゴールを目指し歩を進めること。
日本人が気づきづらい一面は、現在のような一斉に立ちどまったときに見えてくるものです。



0 件のコメント:

コメントを投稿