「藤家寛子の闘病記」(花風社)を読んで

私は本を読むのが早いほうだと思います。
そして、花風社さんから新刊が出るたびに、すぐに読み始め、このブログを通して紹介してきました。
もちろん、今回の新刊2冊ともすぐに読みました。
でも、読んだ当日に、すぐにブログで書こうと思いませんでした。


時間をおいて、何度も読み直していたのもあります。
しかし、それが一番の理由ではなく、自叙伝のような個人的な内容、しかも決して良いことだけではない内容のものは、新刊でましたー、読みましたー、紹介しまーす、ではいけないと思うのです。
もちろん、私の個人的な考えであり、感覚です。
決してそれ以外の著者の方のものが軽いわけでも、軽い気持ちで紹介のブログを書いているわけでもありませんが、個人的な情報、また個人の歩みを記されたものに関しては、より重く受け取ります。
著者の藤家さんがポジティブな気持ちで書かれたのかもしれませんし、執筆はご本人が求めていた活動ではありますが、自分の歩み、自分の素を表すことに対して喜びだけではなく、葛藤や苦しみもあったと想像します。


闘病記ですから、苦しみや葛藤、失敗についても記されていました。
そこから得られたこと、また治った今だから気づけること、分かることを伝えてくれます。
どれも貴重なお話です。
また感覚面の違い、捉え方の違いについても、自分の目の前の子の世界を想像するヒントをもらえると思います。
きっと藤家さんも、今を生きる子ども達、親御さん達にとって、より良く生きるためのヒントや手助けになれば、という想いもお持ちだと感じます。
だからこそ、読み手は、情報やヒントのみを見るのではなく、藤家さんという人を見ることが大事だと思うのです。


藤家さんの人を見つめて、読み進めていけば、本当に伝えたいこと、そしてその情報やヒントの裏にある本質に気づくことができると思います。
一つの物語ではなく、一つのヒント集ではなく、人を読むことで、読み手の私達も病気に打ち克つ、治るという方向へ進んでいけるはずです。
経験や技術、知識よりも、人が重いと私は感じています。


読み進めている中で、記されている藤家さんの言葉に、眼も、手も、頭も、すべてが止まった一文がありました。
それは大学進学を希望した理由が述べられた箇所です。
こういった言葉が出るというのが、藤家寛子さんという人であり、他人が想像できないような辛い状況から脱し、治ることのできた根っこになっていると感じました。
この言葉、表現にすべてが含まれているように私は思いました。


「闘病記」は「就活記」とは違った意味の希望を感じられる本だと思います。
「この先もずっと辛いままだ」
そんな風に思い、光のない人生が永遠と続くように感じている方に、この本を読んでいただきたいです。
藤家寛子さんという人の存在を感じられれば、動き出す力が湧いてくるかもしれません。
人が何よりの希望だと思います。


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