2018年4月23日月曜日

公園内に見える特別支援の線引き

息子と歩いていたとき、通りかかった児童デイの建物を指し、「これは何をするところ?」と言ってきました。
外から中にある遊具が見えていたので、何か遊ぶ場所や習い事の教室だと思ったのでしょう。
小学生の息子に、児童デイの本来の目的と現状について話をするわけにはいかないので、「学校が終わったあと、身体を動かしたり、みんなで遊んだりしながら、自分でできることを増やしていく勉強をする場所」だと説明しました。
そうすると、「僕も行きたい!」というのです。


現在、診断名、療育手帳を持っていない息子は、いくら本人が望んでも児童デイに行くことはできません。
でも、息子の習い事には、障害のあるなしに関わらず、みんな通うことができます。
もちろん、習い事の種類、指導者側の考え方によっては断られる場合もあるでしょう。
しかし、原則、学びたいものを、習いたいことを、自分で選ぶことができます。


雪が解け、温かくなると、放課後の公園には子ども達がたくさん遊んでいます。
そんな中には、児童デイの子ども達もいます。
私はセッションでも、プライベートで子どもと遊ぶのでも、よく公園に行きますので、大型の車に乗って、スタッフの方達と共に遊びに来ているのを見かけるのです。


児童デイの車でやってきた子ども達も、他の子ども達と同じように遊んでいます。
時々、名札を付けた大人が「鬼ごっこをするぞ」と声を掛け、それに集まってくる子ども達を見て、「ああ、児童デイに通っている子達なんだ」と思うくらい。
子ども同士で楽しそうに遊んでいますし、名札を付けた大人も、ベンチに座っている時間が多いので、たぶん、問題なく遊べる子ども達なんだと思います。


で、私は率直に思う。
本当に彼らにとって児童デイは必要な選択なんだろうか。
彼らに教えるべき生活スキル、彼らが身に付けるスキルは、放課後、公園に行き、遊んで帰ってこれるスキルではないだろうか。
もしトラブルや不測の事態が起きるのが心配だとしたら、それこそ、どう対処するかを学び、実践するのが必要な援助ではないだろうか、と。


児童デイを利用するのは、本人のニーズだけではなく、親御さんの事情やニーズというのもあると思います。
でも、どう見ても、彼らは自分たちで遊びを形成し、楽しんでいます。
うちの子は、他の学校、違う学年の子とも、公園に行ったら一緒に遊びますが、彼らは児童デイの子同士、スタッフと一緒に遊ぶように促される。
同じ公園で、同じ位の年代の子ども達が遊んでいるのに、馴染んでいけない集団があるのが私には違和感に感じてしまいます。
トラブルが起きれば、間に入る必要もあるかと思いますが、子ども同士馴染みあっていく方が楽しいだろうし、よい経験になると感じます。


私が学生の頃は、毎日、誰かしらのお宅に訪問し、子ども達の放課後の時間を一緒に過ごしていました。
たった1時間、2時間でも、親御さんに大変喜ばれましたし、学生&素人ゆえのエネルギーで重度の子や行動障害を持った子とも、どんどん公園や公共施設に行っていました。
あのときの私達は、何かを教えることはできなかったですが、一緒に経験することはできたと思います。
何度も通えば、その場に馴染むこともできました。


そんな児童デイがなかった時代、学生に放課後頼るしかなかった時代から、大きく変わった現在。
果たして、本当に子ども達のニーズ、願いは満たされるようになったのか、子ども達の選択肢は増えたのか、と思います。
私は、児童デイに限らず、特別支援が突き進み、もたらしたものは、定型、非定型の線引きであり、親の選択肢を増やすことだったと感じています。


たまたま私が公園で見た子ども達が、自分たちで遊べるくらいの子ども達だったかもしれませんし、そのときは何のトラブルもなかっただけなのかもしれません。
しかし、もし児童デイのない時代だったら、放課後の彼らの過ごし方は違ったかもしれないと思うのです。
地域の習い事に行っていた子もいたでしょう。
同じ公園で遊んで過ごすにしろ、子ども同士の自由な交流は阻まれなかったはずです。
もし足りないスキルがあれば、必死に教えてくれる親や先生がいたと思います。
でも、今は特別支援の名の元に、親ですら手を出そうとしなくなった雰囲気があります。
「ここからここは学校」「ここからここは児童デイ」
定型、非定型の線引きは、時間の線引き、役割の線引きへと浸食してきているように、私はこの10年の歩みを見ています。


冒頭の息子のように、定型発達の子が通いたいけれども、通えない場所がある。
ノーマライゼーションの考え、多様性を認める社会と同じ方向を見ているのでしょうか。
何も、定型発達の子にも、児童デイに通えるようにしろ、と言っているのではありません。
ただ今の子ども達は、将来、多様性のある社会を担い、その中で生きていく人達なのですから、特別支援の名の線引き、分離が進んでいくことは、彼らのためにならないと思うのです。
特別な支援は必要ですが、「ここからここは特別支援ね」という線引きはいらないと私は思います。


私が関わっている子ども達の親御さんの中には、児童デイを辞めた方も多くいます。
親御さんが一緒に公園に通い、そこで我が子に必要なスキルを教えている方がいます。
地域の学習塾や習い事に通わせ、そこで様々な経験をさせ、育てていこうとされた方がいます。
みなさん、特別支援の線を取っ払ったら、自分にできること、そして我が子に必要な機会が、特別支援の外にあったことに気がつけたのです。


「特別支援の内側にいることが幸せ」というのは支援者側の戦略であり、そもそもそんな線引きなど存在していなかったのだといえます。
ないはずの線を引くのは、囲い込みのためです。
社会には特別支援と非特別支援の線引きなどありません。
子ども達が思いっきり遊ぶ公園は、彼らの未来の社会の姿。
本来の支援とは、公園に入る前までの支援のことを言うのだと思います。
公園に入れば、思い思いに、自由に遊ぶ。
「ここからここまでは入っちゃいけませんよ」なんて言って付いて回るのは、支援ではなく、お節介だといえますね。


それにしても、私たちが学生の頃とは違って、重度の子ども達の姿を見かけなくなりました。
彼らも公園で思いっきり遊ぶのは好きだと思いますし、学生時代関わってきた子ども達は、みんな公園に行くとはしゃいで走り回っていました。
重度の子ども達は、放課後、どこに行っているのか。
まさか同じ児童デイの中でも外には行かず、衝立の中で淡々と課題やDVDを観て過ごしていることなどはないと思いますが…。
成長へのエネルギーが使えず、また消化できなかったエネルギーが更なる問題へと向かわせるなんてこともあったり、なかったり。

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