2018年4月13日金曜日

なければ、無い方が良い対象を強引に正当化する

障害も、発達の遅れも、感覚過敏も、無いなら無い方が良いに決まっています。
それなのに、一部(?)の支援者と親御さんが強引に正当化し、美化しようとします。
「障害は個性です」「特性は活かしましょう」と支援者が言う。
「障害を持った子が生まれて、私の人生は素晴らしいものになった」と親御さんが言う。
きっと私がその人達の子どもだったら、「お前のために、私の人生があるんじゃない」と憤るはずです。
一般の感覚、社会の感覚と同じように「治してほしい」と願うはずです。


でも、時々、そういった困難を持った本人の中に、「私は障害があって良かった」「私は不登校を経験できてよかった」と言う人がいます。
もちろん、その困難を克服し、治し、自分の強みまで磨き上げられた人がそういうのなら分からなくもありません。
しかし、そういった人だって、困難の真っ只中では「どうにかしてほしい」「ラクになりたい」と思っていたはずですし、もう一度、その困難な状態に戻るかと言ったら、うんとは言わないでしょう。
結局、今、そう思えている、ということ。


で、だいたい無いなら無い方が良いものを「あって良かった」と言っている本人というのは、周りの人間に洗脳されている人であり、「あって良かった」と言ってなきゃやってらんね~という状況の人です。
無理やり不自然な価値観を生みだし、それを丸飲みしようとしている。
「ただでも苦しい状況なのに、そんなの丸飲みしてさらに苦しくない?」と私は率直に思いますし、それ以上、苦しまなくて良いでしょと思います。
やるべきことは、苦しい状況を丸飲みし、受け入れてしまうことではなく、その状況を打破し、苦しみから抜け出すこと。
それを手助けするのが、支援者であり、家族の存在だと思うのです。


それなのに、苦しむ本人以外の人間が自己満足のための価値観を植え付けようとする。
特に子どもに対して行う場合は、教育でも、支援でもなく、ただの洗脳。
「きみの障害は個性なんだよ」「否定するものではないんだよ」「良い面もたくさんあるんだよ」
素直な子どもがそのまま受け取ってしまったら、彼らの発達、成長する動き、エネルギーを削ぐことにならないでしょうか。
それに今、自分が感じている生きづらさに対して大人は何もしてくれない、そのままでいろというのは、子どもに無力感を持たせるものにならないかと思います。


いじめはダメだけれども、それをきっかけに学校に行けなくなった子どもに対して、「学校に行かないことは悪いことではない」「学校はきみを守ってくれない危険な場所」「学校に行かなくても、立派な大人になった人は大勢いる」というのも同じだと思います。
いじめは嫌だけれども、学校に行きたいと思っているかもしれない。
感覚過敏が治り、刺激の影響が少なくなれば、みんなと同じように学びたいと思っているかもしれない。
そういった想いを、大人側の想いやコンプレックスから生まれた価値観で覆い隠してはいけません。


啓発活動がうまくいかないのは、こういった一般的な感覚から外れた価値観を押し売りしてくるからです。
個人で、またギョーカイ内、限られた集団の中で、その特殊な価値観を持ち、満足しているのなら、私は何も言うことはありません。
しかし、往々にして、その特殊な価値観を受け入れない社会を「理解がない」と批判する。


「障害、発達の遅れを治そうとしています。でも、治るまでに時間がかかることや協力、配慮してもらいたいことがあるので、理解してください」と言われれば、「そうか、協力できることはしよう」という人も増えてくる。
だって、無い方が良いものを無くしていく、と言っているから。
反対に、「無い方が良いよな」「その状態はまずいよな」と思うことを、いくら熱心に、お金と労力をかけてやっても理解されません。
啓発活動をやればやるほど、離れていく人が多いのは、その価値観が受け入れられないからですし、押し売りされているように感じるからです。


よくナントカ会といって集まっている人達というのは、そういった特殊な価値観を受け入れられる空間を味わっている場合が多いと感じます。
啓発活動が熱心な地域ほど、ナントカ会が活発。
それは自分たちの価値観が受け入れられないという熱量を身内で集まって発散してバランスをとっているのでしょう。
そもそも本人の生きづらさ、困難が克服できているのなら、啓発も、ナントカ会も、ニーズがありません。


特殊な価値観を生みだし、それを受け入れようと努力する時間があるのなら、その生きづらさの根本をどうにかした方が何百倍も良いはずです。
生きづらい状況を、「これが私の人生だ」と受け入れるよりも、どうにか良くはならないだろうか、少しでもラクになるように動こう、と思う方がより良い人生につながると思います。
またそれが支援者の役目だと思います。
それを一緒になって、というか、支援者が率先して「生きづらさを受け入れよう」と言うのはおかしなことです。
教祖様になりたい支援者が洗脳し、治すだけの腕のない支援者がそれを隠すために方便を使う。
それが、無いなら無い方が良いものを「あってよかった」なのでしょう。


最後に、こういった内容を書くと、「障害者を否定するのか」「マイノリティー、苦しむ人を否定するのか」と息巻く人がいるものです。
こういった人は大概読解力がない人か、障害と自分がくっついてしまっている人。
障害=自分、困難=自分と思うのなら、それこそ、洗脳されている証拠であり、身体や感覚が育っていないのでしょう。
それか、自分という存在を与えられるものか、得たものでしか感じることができない人。
「頑張っている自分しか価値がない」「何もしていない自分はダメな存在」と、常に「何かしないと自分の存在が認められない、評価されない」という強迫観念を持った愛着障害の人なのでしょう。
自分と障害、困難とがちゃんと分かれていないと治せないですし、治すための一歩が踏み出せません。
「治すなんて差別だー」は、自分という輪郭が掴めていない人の特徴です。

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