2020年6月9日火曜日

【No.1071】自らの意思で自らを支援している状態こそ、『自立支援』と言える

私がまだ「構造化された支援」にどっぷり浸かっていた頃、あるベテランの施設職員がこんなことを言っていました。
「今は、どこでもここでももてはやされているが、日本で根付くことはないだろう」
その理由を私が尋ねると、一言、「コストがかかるから」という答えでした。
金銭的なコストだけではなく、時間的、労力的なコストがかかるという意味です。


そのときは、「そうなのかな~」と思うくらいでしたが、それから15年ほどが経ち、現実となりました。
私も視覚支援を頑張っていた時期がありますので、良く分かりますが、とにかく時間と労力がかかります。
特に子どもさんの場合、発達・成長が著しいですから、せっかく丁寧に作った視覚支援も、すぐに作りかえる必要が出てきます。
その都度、作っては変え、作っては変えを繰り返していましたが、それを仕事以外で、つまり、家庭でやろうと思えば、とにかく大変です。
親は支援者ではありませんので、支援グッズだけ作っていれば良いわけではありません。
仕事や家事、兄弟がいれば、他の兄弟のこともする必要があります。


あるとき、泣きながら電話をくださった親御さんがいましたが、某支援者から「構造化が合っていないから、問題行動が起きるんだ」と責められたということがありました。
一時期、それこそ、当地でも構造化ブームがあったとき、結構、構造化のダメ出しをされた親御さんが多く、子どもが寝たあと、夜なべして支援グッズを作っていた、なんて話も良く聞いたくらいです。


確かに、構造化、支援グッズ制作にはコストがかかります。
コストがかかる分、できる人とできない人が出てくるのは当然なことであり、結局は一部の熱狂的な人がいろんなものを投げ打ってやり続けたというのが実際のところだと言えます。
しかし、構造化された支援だけではなく、その後もいろんな療法が流行っては消え、流行っては消えを繰り返した様子を見ていると、「コスト」だけが理由だったようには思えないのです。
私が思うに、本人ができないものは根付かない。


つまり、どの療法も、その療法を行う支援者なり、親御さんなりが必要なわけです。
本人がいくら必要性を感じ、アクセスしようとしても、それができない。
また自分なりにカスタマイズするにも、支援者や親御さんの手が必要なことがほとんどです。
常に他者の手を必要とするものが、文化として根付いていかないのは当然の結果でしょう。


支援者とは、本人の自立を支援するための存在です。
ということは、その支援も、本人のもの、血肉とならなければならないのです。
口では「自立」と言いながら、いつまで経っても、支援を受ける者と与える者の関係性を続けるのは矛盾しています。
支援とは本人が自由にアクセスでき、自由に作りかえることができる形になっている必要があります。
本人が自分で自分のことを助けていけるモノ。
それが支援グッズの本来の姿です。


今後も特別の支援の世界は、流行り廃りが繰り返されると思います。
そんな中でも忘れてはいけないのは、「主体は本人である」ということです。
子どもさんの場合は、親御さんや支援者がその発達・成長を促すこともあるでしょう。
しかし、あくまでその子が自分のために発達する、成長する、ラクになる、ということは忘れてはなりません。
「この子が将来、自立してほしい」「今、少しでもラクになってほしい」
これは親の願いです。
それとは別に、「僕ができるようになりたいから頑張る」「私が今、心地良くなりたいから続けてみる」という本人の想いにこそ、支援の原型があるのだと思います。


発達障害を治すのは、家族や周囲、社会のためになることもありますが、それは結果です。
それよりも大事なのは、自分のために発達障害を治すということ。
他の誰のためでもなく、その子が自分のために、自分の将来と可能性のために治すのだと思います。
心身を心地良い状態に持っていくのも、発達の課題をクリアするのも、すべて自分のための行動です。
その本人の自らを助ける行為に対して支援するのが、親御さんであり、支援者という存在。
支援者が主導している限り、その行為は自助努力とはいえません。
自助努力ができている状態とは、自らの意思で自らを支援している状態なのです。





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