不登校と発達障害、不登校と特別支援

不登校中である発達障害の子の親御さんからの相談も、結構な頻度でいただきます。
あっ、正確に言うと、「発達障害の子が不登校になった」というよりは、「不登校になったから、発達障害の診断を受けて、発達障害になった子」ですかね。


というのも、最初から発達障害の診断を受けている子は、普通学級に適応できなくなると、すぐに支援学級が勧められますし、支援学級では、そこまで登校を刺激されませんし、そもそも個別対応が主ですし…。
なので、支援学級に通えなくなる子は少ないですし、普通学級で不登校よりも切迫感が少ない気がします。


発達障害で悩まれる方が最初、公的な支援機関へ足が向かうように、不登校の子の場合も、最初は公的な機関、不登校メインの機関に足が向かいます。
そして、そこで答えが見つからないために、私のようなところにいらっしゃいます。


私のところにくる不登校を相談される方は、100%このように仰います。
「不登校関係のところに行くと、『受容しなさい』、『今は休みなさい』としか言われない。それでは解決しないし、問題もそこじゃないと思うんです」と。


不登校のきっかけは、イジメなど、様々あると思います。
しかし、不登校の原因は、外にではなく、本人の内側にあるはずです。
何故なら、同じ条件、きっかけになるような出来事があったとしても、みんながみんな、不登校にならないからです。
不登校になる子とならない子がいるのなら、その違いは個人の違いだといえます。


このように言うと、「本人が弱いと言うのか」「ただでも傷ついている子を、さらに苦しめるのか」などと批判を受けます。
酷いレベルのイジメに関しては、どの子も行けなくなりますし、心身に大きなダメージを与えるものなので「個人が」とは言いませんが、それ以外は個人に起因すると考えています。


不登校になる子の多くは、きっかけになる出来事の前から生きづらさを抱えています。
もともと学校に行くのが、授業を受けるのがしんどかったり、人付き合いが苦手。
勉強が遅れていたり、ついていけなかったり、そもそも登校する前の家庭生活で乱れがあったり…。
そして「きっかけが不明確」「学校に行けない理由がわからない」という子も、少なくありません。


イジメは、加害者が100%悪いといえます。
でも、このように不登校になる原因は、個人の側に存在しています。
だったら、不登校をいくら受容しようが、肯定しようが、生きづらさは変わりません。
理由が分からないというのは、言語以前の発達段階のやり残しと考えられるので、そこを育て直す必要があるのです。
つまり、ここでも言語、大脳皮質に向けたアプローチではなく、言語以前へのアプローチ、育てるということが大事なのだといえます。


特別支援の世界と同じで、受容と理解で仕事が成り立つのなら、支援者など必要はありません。
ですから、不登校で相談に来られる方に対しても、その子の受精から現在に至るストーリーを見ながら、発達のヌケを確認していきます。
そうすると、発達のヌケが見つかるもので、そこを育てなおしていくと、生きづらさが薄れていき、もう一回頑張ろう、挑戦しようと動き始めます。


同じ学校に戻っていた子もいますし、別の学校、道へ進んだ子もいます。
発達のヌケが埋まると、心身が動き始めるのは当然です。
発達が前へ前へと進むものなのですから、人の身体も、心も、連動して同じように動き始めるのです。
反対に、いつまでも発達のヌケが埋まらず、生きづらさ、発達課題が残ったままですと、たとえ別の道に進むことができたとしても、何らかのきっかけで不登校と同じような状況に陥りやすいといえます。


特別支援のアプローチと同じで、「ありのままで」は、急場しのぎであって、根本解決になりません。
それに長期的に見れば、不登校の状態を続けることはマイナス面が大きいと考えられます。
刺激の制限、刺激のマンネリ化があるからです。
神経発達が盛んな時期に、刺激のバリエーションが乏しく、同じような刺激、少ない刺激の中で過ごすと、どうでしょうか。
勉強は家でも、いつからでも取り戻せますが、神経発達が子ども時代ほど、盛んな時期はもう戻ってきません。


学校は勉強がメインですが、それ以外にも、多くの発達、成長につながる機会でもあります。
ただ単に、情報と知識を得るだけでしたら、同じ時間に、同じ場所に集まって勉強する必要、意義はありません。
しかし、学校は通うこと自体に心身を育て、生活の土台を築く力がありますし、何よりも刺激のバリエーションが多く、複雑です。
同じような刺激を学校以外で作ろうと思えば、大変な労力がいるものです。


よく「ゲームすることを否定しない」と言う人がいますが、目と身体の一部しか使わない活動を長時間やり続けることのマイナス面を考えないのか、敢えて言わないようにしているのか、と疑問に思います。
あれだけ強烈な視覚的刺激を、単一な刺激を入れ続けると、ヒトはどうなるか。
ただでも発達に遅れがある子、デコボコがある子が、強くて単一的な刺激を入れ続ければ、デコボコが大きくなるに決まっています。
現実を忘れ、誰かと繋がれるというポジティブな面もありますが、同時にネガティブな面もある。
どちらか一方だけの情報を伝えるというのは、その伝える人の意図が乗っかっていると言われても仕方がないと思います。


著名人を起用し、「不登校は不幸じゃない」キャンペーンが行われています。
でも、著名人の発言を見てみると、不登校は不幸じゃないと言っているけれども、何もしない状態を良しとはしていない、肯定しているわけではないことがわかります。
学校以外の学ぶ場所がある、学校だけが唯一の価値観ではない、と言っています。
第一、その著名人たちの現在と歩みを見れば、ただ単に家にいたわけではない、学校の勉強はしなかったかもしれないが、それ以外の場所で発達、成長していたことがわかります。
その著名人たちは、決して棚ぼたがあった人達ではありません。
「自分も待っていれば、棚ぼたがある」というのは、勘違い。


不登校の方達の相談が増える中で、不登校の世界を見聞きしていくと、特別支援のギョーカイと似ているなと感じます。
違うのは、不登校支援をしている人達の多くが特別支援でいうところの支援者ではなくて、当事者ということ。
そして特別支援でいうところの支援者は、私立の学校や塾ギョーカイの人達。
当事者の人が多い分、特別支援ギョーカイのような金、金はしていませんが、私怨と自己治療が充満している印象です。


いずれにせよ、受容と理解では課題は解決しませんし、「ありのままで」では時間が流れていくばかり。
「ありのままで」は、救いの手を差し伸べているようで、自分たちの世界へと引っ張っているようにも思えます。


学校がすべてじゃないのは、学校に通っている子ども達も同じこと。
しかし、神経発達が盛んな時期に、バリエーションのある刺激の中に行かないこと、通うという自立する上で基本的な力を養わないことの差は大きい。
だからこそ、発達のヌケを育て、学校に通える身体にしておくことは大事。
それは学校に行く、行かないに関わらず、人生を見据えた上で。


不登校状態を受け止め、理解してくれた人達も、神経発達が盛んな時期、時間を巻き戻し、与えてくれることはできないし、一生涯を丸抱えしてくれるわけではありません。
学校を批判しても、生きづらさはなくならない。
日本の教育制度を批判しても、不登校につながった発達課題の根っこを掴むことはできない。
子ども達は、不登校を認めて欲しいんじゃなく、根本的な生きづらさを解決してほしいというメッセージを日々、私は感じています。

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