2018年8月29日水曜日

障害受容ってする必要ある??

「私、障害受容ができていないんです」と言われる親御さんには、「それは良かったです。治るための手数が一つ減りました」と言っています。
治るためには、障害受容など必要ありません。
むしろ、足かせになったり、治り切るのを阻害する要因になってしまいます。


そもそも「障害受容」という言葉はどうして生まれたのでしょうか。
誰のためになる言葉なのでしょうか。
「私、障害受容できています」という人に限って、心の底では障害を受け入れることができず、自分に言い聞かすように、いや、自分自身を洗脳するために使っていたりします。


支援者も「障害受容」という言葉をよく用いますが、その意味するところは
障害受容できている親=自分が行う支援の方針に従う親
障害受容できていない親=自分が行う支援の方針に従わない親、支援よりも育てるを重視する親、治そうとする親
がほとんどです。
つまり、端的に言えば、自分の言うことを聞きやすい従順な親かどうか、なのです。
「お母さん、全然わかってないね」と直接的な表現をする代わりに、「障害受容することが大事ですよ、お母さん」と言っているだけ。


私は、「障害を受容しちゃってどうするの」と率直に思います。
障害はその名の通り、その子の能力、生活、選択肢の障害になっている部分なので、そのままにしちゃだめでしょ、と思います。
本人が生きづらさを感じている部分を、「それが障害ね。私は受け入れるわ」と言ったら、誰がその子の生きづらさを解いていくのか。
誰がその子の発達のヌケを育てていくのか、わかりません。


受容したことで、障害を含めて「その子」みたいな感じになり、結果的に育てるよりも、見守る、介護する、という方向へ流れていきます。
これって、本人のためにならないでしょ、「生きづらいのも、あなた」みたいな感じって。
じゃあ、誰が得をする言葉か、誰のための言葉か、と言ったら、本人以外の人が妥協するための言葉。
「何もできないのではなく、何もしないのではなく、私はちゃんと障害を受容しているの」
「障害受容」という言葉は、自立してほしいと願う親心に覆いかぶさる蓑であり、支援者が思いのままにコントロールしたいという本心を隠す笠なのです。


一度は通る「障害受容」という響きの中。
これは「治そう」「治ってほしい」と願い、日々育てている親御さんも同じこと。
もともと持っていた「治ってほしい」「自立してほしい」という想いを、「障害受容できていないダメな親」という言葉を使って、自分を何度も何度も傷つけ、ようやく飲みこんだ。
そういった親御さん程、お子さんが治り切るラインをまたごうとすると、揺らぎ始めます。
目の前に、自分も望んでいた治るがあるのに、心がざわつき、ラインを超えそうな我が子の手を掴んでしまう、といった感じです。


お子さんが治り切らないケースを見ていますと、最後の最後で親御さんが治るを阻んでいることがあります。
それは実際に、発達援助を止めるですとか、妨害するということではありません。
治り切らない子の側に、障害児として見ている目がある、ということです。
その目が、子どもに伝わり、そして治るラインの手前で立ち止まってしまう。


子ども達と日々、接していますと、自分が普通の子として見られているか、障害を持っている子として見られているか、どの子もわかっています。
だから、いくら生きづらさがなくなり、自分で大丈夫だ、治ったと思っても、その周囲の目がメッセージを伝えてくるのです。
「いや、治っていないよ。障害児のままだよ。ただ状態が良くなっただけ」
そういったメッセージが、僕は一人の人として治ったのではなく、障害児として治った、という想いと繋げてしまう。


「障害受容できていない」のではなく、それは親としての本心であり、本能、自然な願いと感情だったのに、自分を何度も傷つけ、障害をひっくるめて我が子の姿と無理やり飲みこんだ。
そのため、我が子の障害の部分が育ち、治ったではなく、障害児の息子が治った、という意識が残り続ける。
この意識の違いが、最後の最後で治り切るかどうかを分ける、と私は考えています。
障害児として見られている自分を知っている子は、社会や生活、人生の中で揺らぎが起きたとき、障害児に戻ろうとする。


ここ数か月間、発達的には治ったのに、障害児の雰囲気を出している子ども達の存在について考えていました。
そこで出た答えが、この「障害児として見る目」でした。
そして、この問題の根を辿っていくと、着いたのが、「障害受容」という言葉。
「障害受容」という言葉が、障害を固定化し、「障害=我が子」という認識を作り上げていくのだと思いました。


親御さんの中には、明らかに障害があるのに、「うちの子には障害はない」と言う人もいます。
こういった親御さんに対し、周囲の人は「障害受容ができていない親」「そこの子はかわいそうな子」という声が上がります。
でも、見方を変えれば、「障害=我が子」という認識を持ちたくない、という表れにも感じます。
この親御さんに必要なことがあるとすれば、それは我が子をしっかり見る目だといえます。
「障害=我が子」と見ていない目があるのですから、必要なのは障害となっている部分を見る目であり、その根っこを辿る根気強さでしょう。


私は「発達援助」という言葉と出会い、治るを肌身で知ることができました。
そして、私が関われた方達の中からも、治っていった人達が増えました。
そこで初めて、治った人と治り切った人がいると気が付いたのです。
治り切った人は、障害が部分でした。
治った人は、障害を持った人が治った、でした。


私は、常々、「障害者として生きるのではなく、一人の人として生きて」と伝えています。
世の中では、障害者、障害児と呼ばれているけれども、〇〇さんは、みんなと同じ時代、社会で生きる一人の人。
あったのは、発達のヌケや課題、未発達の部分。
だから、そこを育て直すというだけの話。
〇〇さんが、今よりも生きやすくなって、自分の資質を磨き、社会の中で活かしていけるように治していく。


「私、障害受容できていませんし、するつもりもありませーん」と明るくおっしゃっていた親御さんがいました。
この親御さんのお子さんは、発達のヌケが育ち、埋まったあと、あっという間に治るのラインを駆け抜けて行き、同世代の子ども達の世界に溶け込んでいきました。
だから私は、「障害受容できていないんです」と言われる親御さんにこう言います。
「発達のヌケが埋まったら、あっという間に治っていく子ですね」と。

2 件のコメント:

  1. いつも興味深く読ませていただいています。

    親を縛り付けて頑張る力を削ぐ言葉かけは幾つかあって、
    一番最初にドクターから言われる「治りません」に始まって、
    (我が子が診断されて)「悲しむ親は障害者を差別している」
    という本の中に書かれていた言葉にも打ちのめされました。

    障害受容ができていないと障害児としての我が子を愛せない親。
    という勝手なレッテルを貼られて嫌になります。

    我が子の色んな大変さを見ながら育てるということは、
    母親にとって心身ともに多大な負担があって、
    友達や知り合いで「死ぬこと」すら真剣に考えた人も
    少なくないのです。

    我が子が障害者だとと言われて、辛く悲しく
    どん底に落とされた気持ちになる事は、
    障害児を育てる親として相応しくない。と、
    言われた気がして余計に落ち込みます。

    障害があってもなくても我が子は可愛いし、
    大好きで大切なのに、受け入れられないと失格。
    みたいな気持ちにさせられて辛い気持ちの親は
    たくさんいると思います。

    わたしが今は本来の親の勘を取り戻しつつ頑張れる様に
    なったのは、呪縛の様な闇から引き上げてくれた
    花風車の本であり、浅見さんや著者の方々のおかげです。

    こちらのブログも元気を貰えて頑張れる応援メッセージが
    満載で、これで良いんだ!と思わせてくれます。

    ありがとうございます♪

    ブログにこちらのブログのリンクに貼らせて頂きました。
    これからも楽しみに読ませていただきます。

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    1. Kei様

      率直な気持ちを教えていただき、ありがとうございます。
      また、花風社さんの本をきっかけに、今は前向きに子どもさんの発達を後押しできている様子が伝わってきましたので、私も心から嬉しく思います。

      我が子に「障害がある」と告げられて悲しまない親がいるでしょうか。
      できれば、心身共に健やかに育ってほしいと願うのが自然な親心だと思います。
      そんな自然な親心を否定し、あたかも、我が子を愛せないダメな親という雰囲気で迫ってくる支援者がいて、同じ親がいることに憤りを感じることもあります。

      「我が子に障害があって悲しい」
      「できることなら、治したいし、治ってほしい」
      そういった自然な感情は、否定し、180度考え方を捻じ曲げてしまうのではなく、子育てに活かしていくエネルギーとして使えばよいと考えています。

      支援者は他人です。
      同じ障害を持つ子を育てる親だって、他人です。
      我が子の自立と幸せを願う力は、その子の親御さんに敵う人はいません。
      我が子のことで、死を考えるくらいの真っ直ぐあるのなら、その力を治すに向けていけば良いのです。

      以前は、治すアイディアも、発達のヌケを育てるアイディアも、ほとんどありませんでした。
      その時代は、『障害受容』という綺麗事が、唯一の心の安定につながったのかもしれません。

      でも、この『障害受容』という言葉は、優生保護法と同じ匂いがします。
      優生保護法は、子を持つ権利を奪い、『障害受容』は、我が子の未来、可能性を信じる権利を奪った。

      私達が生きる同じ時代、同じ日本という社会の中に、治った人がいて、治すアイディアを持つ人がいる。
      これは幸せなことだと思います。
      ですから、同じときを生きる私達は、もう諦める必要がないのです。
      思いっきり我が子の障害を悲しみ、だからこそ、その障害を一つずつ治していきたい、育てていきたいと願い、行動すればよいのです。

      Keiさんの他にも、有難いことに大勢の方がこのブログに訪問してくださっています。
      Keiさんのコメントを見て、「私と同じことを思っていた人がいた」「私もKeiさんのように子育てを頑張っていきたい」と思う方がいらっしゃると想像します。
      そんな親御さん同士が、このブログを中継に、気持ちが通い合えれば、素晴らしいことだと言えますし、私のブログの内容よりも価値のあることだと思います。
      コメントを頂き、ありがとうございました。

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