2015年12月1日火曜日

自閉症の部分だけではなく、知的障害の部分もきちんと向き合ってほしい

遅めのお昼ご飯を食べながらテレビを観ていると、中国でPM2.5が大量に発生している映像が流れていました。
日本にも流れてくる可能性があるようですね。
日本の妊婦さん、お腹の中の赤ちゃんにも影響が出ないか、心配になります。

この頃、心配になることと言えば、知的障害がない自閉症の方たちに行うような療育を知的障害もある人が受けていることです。
もちろん、一概に知的障害の有無で療育の方法がスパッと分けられるわけではありません。
でも、「いやいや、それは合っていないでしょう」というツッコミが入るものがあります。
療育をする方としては期待があるのかもしれませんが、受ける方としてはかなりしんどいと思います。

確かに、知的障害を持っていたとしても、文字を読んだり、絵の意味を理解したり、簡単な受け答えができたりする人はいます。
しかし、「知的障害がある」ということは、読み書きそろばんの遅れだけではなく、理解したもの同士をつなげたり、実際の行動に応用させたりする過程に困難さを持っているのです。
たとえ、文字を読むことができても、その文字が表している概念を掴むことが難しい。
計算ができたとしても、買い物の計算へとつながっていかない。
テストの点数に表れるような表面的な力だけではなく、もっと深い思考のプロセスに関する力に注目すべきだと思います。
また、「理解した」「実際の場面でできた」としても、知的障害のない人が簡単にできるようなことであっても、相当なエネルギーを使って"なんとか"できている、という場合があることも大切な視点だと思います。

高機能の方たちが行っているような療育を受け、「あの人たちみたいになってほしい」
「文字も読めるし、言っていることもわかるから、理解でき、学んでいけるはず」
というような希望や期待があるのかもしれません。
でも、高機能の方たちが受けている療育を受けたからといって、知的障害がなくなるわけではありません。
第一、療育はIQを上げるためのものではありません。
それよりも大事なのは、その子の持つ資質を伸ばすことであり、社会的な適応能力を向上させること、つまり自立度を上げ、生活の質を向上させることです。
ですから、その子の課題に合わせて、その子がわかりやすい方法を用い、成長を促していくのです。
結果として、IQが上がることはあるかもしれませんが、それが一番の目的ではありません。

自閉症という障害だけでなく、知的障害もあって・・・というような気持ちもわかります。
ある親御さんは、私が「知的障害」という言葉を使うたびに、刺さるような視線を向けていました。
知的な遅れがあることを認めたくはないかもしれませんが、それを理解したうえで療育、支援を勧めていかなければ、その子自身が成長できないこともあるのです。
いくら立派な視覚的な構造化があっても、SSTがあっても、本人が理解していなければ、それはただの紙でしかありません。
「この子は、この方法が合っているんです」と言われ、本人の様子を確認すると、理解しているのではなく、ルーティンや他のことを手掛かりに動いている、録音したテープのように言葉だけ再現できている、ということもあります。
それでは本当に理解したことにはなりませんし、特定の場面だけでしかできないスキルになってしまいます。
「長年、この方法で支援してきました。でも、うまくいきません。どうしましょう」という相談は少なくありません。
もっと早い段階で、その子に合った方法ができていれば、もっと成長できたのに、と思うこともあります。

内容の難易度ではなく、本人の「わかった」を大切にしてほしいと思います。
「わかった」が積み重なっていくと、心身の成長を促します。
そして、前向きな気持ちで自立へと歩んでいけるのだと考えています。

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