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嫌いな人と距離を置こうとするのは、自然なこと

私は、自分を守るための嘘をつく人間が嫌いです。 私は、言い訳ばかりして成長しない人間が嫌いです。 私は、口では良いことばかり言っていて、実際には行動しない人間が嫌いです。 ですから、こういった人に対しては、はっきり「No」と言ってきましたし、距離を置いてきました。 誰しも嫌いな人はいるでしょうし、私のような振る舞いをするのは自然なことだと思います。 でも、これが対障害を持っている人になると、不自然に見えるというのです、支援者という人達には、一部の親御さんには。 まあ、私から言ったら、そっちの方がどうかしていると思いますが。 何故、特に支援者は障害を持った人に対して「嫌い」と言ったり、距離を置いたりしてはいけないのでしょうか? 私はガツガツ言いますよ、「嫌い」だって、怒りもしますし。 「もう応援したくない」「支援するのも嫌だな」「別の支援者に頼めば良いでしょ」 今月だけで、3~4人に言いましたね。 そう考えると脂っこい8月でした(笑) 脅すという意図ではなく、正直な気持ちを伝えたのです、一人の人間の。 支援者って、本来、目の前の人が“社会の中”で自立していくことを応援していくはずです。 それなのに、プライベートな時間で、障害のない人がやったら絶対に許さないであろう行為をされたとしても、相手が自分の支援している人だったら、「もう同じ間違いはしないでね」とか、「一緒に、その課題をクリアできるよう頑張っていこう」などと言っちゃうのです。 こんな対応、人間関係って不自然ですし、いびつですよ。 そんないびつな対応をするから、問題は解決しないし、誤学習もさせちゃう、そして本人の中に「支援者だから、どうせ許されるだろう」という甘えも生まれるのです。 で、結果として、社会の中に出ていくことができなくなるんです。 つい先日も、自分の失敗を隠した上に、最後には「僕はアスペルガーだから」って言うもんだから、「都合が悪くなったら、アスペルガーって言うんじゃない。どの診断基準に、“アスペルガー症候群の障害特性は嘘をつく”って書いてるんだー。嘘をついたのは、アスペルガーという障害ではなく、〇〇〇〇という人間だ。何でも障害のせいにするのは、同じ障害を持っている人達に対して失礼なことだし、私はそんな人は大嫌いで支援したくない!それに自分を守るための嘘をつく...

ひきこもりについての空想

この世にいる動物の中で、ひきこもる動物っているのだろうか…なんてことを考えてみることがあります。 動物界にはアマゾンはないはずだから、自分の巣穴まで食べ物をお届けってことはできないです。 だったら、生まれてきたばかりの子か、まだ餌の捕り方を知らない子以外は、巣穴にずっといることはできません。 食べなきゃ、生きていけないので。 親とはぐれたり、親が他の動物に食べられたりしたら、例え子どもでも、這ってでも巣穴から出て食べ物を探しに行きます。 巣穴にいて餌を待つという選択肢は、遺伝子的には組み込まれていないんじゃないかな、なんて動物界を見て思います。 人間も動物なのだから、きっと遺伝子的には、ひきこもらないんじゃないかな、と思います。 じゃあ、なんで人間はひきこもるのでしょうか。 人間界にはお金も、アマゾンも、コンビニも、福祉制度もあるからっていう答えは面白くありません。 爬虫類の脳、哺乳類の脳、人間の脳のどこで、ひきこもるのだろうかと空想してみます。 爬虫類の脳で、ひきこもる人もいると思います。 自律神経の乱れで、餌を捕りに行きたいけれど、身体の方がNOと言っている感じです。 生命活動でいっぱいいっぱいの人は、ひきこもらざるを得なくて、ひきこもっているといえます。 哺乳類の脳で、ひきこもる人は、愛着形成が関係していると思います。 守ってくれる存在、自分は守られているという意識が持てない人は、やっぱり巣穴から出ることは怖いのでしょう。 餌を捕りに行くというのは、心の中でも、実際の場でも、帰る場所があるから出て行くのだと思います。 また、自分を育ててくれた人が巣穴の外を怖がっているとしたら、本能的にひきこもるを選択するかもしれません。 たとえ、その人と愛着が形成されていても、「そんな人が怖がるんだったら、よっぽど恐ろしい場所なのだろう」と怖さも倍増するかもしれません。 あと、トラウマなど、大きなショックが脳へのダメージとなって、ってこともあります。 人間脳で、ひきこもる人も、近しい人から「巣穴の外は怖いよ」と教わってというように、本脳ではなく、学習の結果ってこともあると思います。 「自分で餌を捕りに行かなくても、生きていける」という学習もあれば、ひきこもることがお得っていう学習もあると思います。 ひきこもりの人と接していると...

支援者なんてクソくらい!

内から変えることができた先輩たちは、早々と天国へ旅立ってしまった。 外から変えると言っていた先輩たちは、この地を去っていってしまった。 もうみんな、いない。 外では勇ましいことを言っていたのに、顔を合わせると、持っていた刀をスッと鞘に収め、何事もなかったように握手を交わす。 そして最後まで戦う姿を見ることはなかった。 「俺たちを見ていろ。後についてこい。だから、若いうちにたくさん勉強しろ」 気が付いたら、そう言っていた先輩たちは、いなくなっていた。 こういったこともあってか、私は支援者という人間を心から信じることはできない。 私は、若い人達にこんな話をすることがある。 「障害がある人だって、ない人だって、金持ちの人だって、貧乏の人だって、高学歴の人だって、中卒の人だって、100年後には、みんな灰」 「傲慢な医者、上から目線の支援者、何でも分かっているような態度の相談員だって同じこと」 「どうせ灰になるんだったら、見事な灰になってやろうと私は思っている」 「一度、この世に生を受けたんだから、その命をしっかり燃やし尽くそうじゃないか」と。 今、やっている仕事も、いつ辞めてもいいと思っている。 今日が最後の日になろうとも、後悔がないように1つ1つに全力を注いでいる。 開業当初より、早々と潰されるだろうと思っていたから。 4年目も約半分までこれたのだから、今日一日も儲けもん。 「何故、潰されると分かっていても、この地で起業するのか?」と、先輩支援者たちに裏切られた思いのあった親御さんが、私に尋ねてくれた。 私の答えは、とてもシンプルなもの。 「戦わずして逃げるのが嫌だったから」 どうせ負けるのなら、しっかり燃えて、しっかり灰になろうと思う。 その灰が、土に還り、いずれその土の上に新しい芽が出てくるかもしれないから。 もしその可能性があるのなら、喜んで灰になる。 各地で活躍し、移り住んだ土地に住む子ども達、親御さん達の希望、支えとなっている先輩たちの活動に尊敬の念を抱く。 だけれども、私は支援者としては1ミリも尊敬していないし、信じていない。 時計を止めたどころか、後戻りしているこの地の現状に無関係とは言わせない。 にらまれたって、悪口を言われたって、妨害されたって、あらぬ噂を立てられたって、別に命が取られるわ...

構造化された支援が中途半端で終わる理由

構造化された支援が中途半端で終わる理由を、トレーニングを受けた人同士で話し合ったことがありました、もう10年くらい前ですかね。 そこで出た理由が、「構造化された支援ってめんどくさいから」でした。 確かに、ちゃんとやろうとしたら、めんどくさいんですよ。 だって、まず子どもの実態を把握しますよね。 そして、それを元に構造化された支援を行う、もちろん、グッズを制作、準備。 で、構造化された支援を実際に使ってもらい、ここでも評価。 さらに、その評価を元に、再び構造化された支援を作りかえる。 つまり、評価→構造化→実践→再評価→再構造化→…っていうように、その構造化が最適化されるまで、ずっとこれらのプロセスを繰り返すんですね。 特に、子どもさんの場合、どんどん成長しますよね。 ということは、成長のスピードに合わせて、どんどん変えていかなければなりません。 しかも、経験の広がりから、場面の広がりもあります。 ということは、それだけの場面、種類の構造化が必要になりますし、その1つ1つに上記のプロセスを行わなければなりません。 そのため、よく起きるのが、途中で力尽きるケース。 支援者が追い付けないんですよ、その人の成長のスピードに。 だから、本当ならもっと高いレベルで、自由度が高く、自然な形態にできるのに、っていう手前の段階で止まっちゃうんです。 一方、本人も自分のレベルよりも低いレベルの支援で止まっているため、難なくラクに使えちゃうんですね。 この最適化まで続くプロセスのことを知らない人が見たら、「ちゃんと構造化された支援が利いているね」ってなるんです。 この結果、支援者同士、もしくは支援者と親御さんの間で、「この辺でOKね」ってなる、本人の同意が含まれない中で。 本気で構造化された支援、最適化を目指したら、とっても大変ですね。 だから、NCで実際に使われている構造化された支援のグッズは、きれいに作られていない物が多い。 だって、どうせすぐに形が変わり、使われなくなる物だから。 トレーナーの人が、「この構造化は、自閉症の人が作ったのかい。こだわりが強いようだねww」なんていう冗談を言うくらいきっちり同じのが大好きな日本人はビックリするかも。 まあ、1つ1つの構造化をきれいに作り過ぎるから、それを捨てて、次の構造化に行きにくいって...

先人たちが伝えたかったことを想う

TEACCHってテクニックじゃなくて考え方。 「TEACCH=構造化された支援」なんて思っている人は、もう絶滅危惧種でしょう。 構造化された支援って、TEACCHの理念、考え方を形にした一つ。 まあ、これくらいは書いても怒られないでしょう、学生時代に読んだ本にも書いてあったし(笑) 私がTEACCHの存在を知ったのは学生時代。 ボランティアで関わって子が、絵カードで確認しながら一人で活動したのを見ました。 「えっ、手で引っ張らなくてもいいんだ!」 「ドラクエみたいに、ずっと後ろをついていかなくてもいいんだ!」 一見すると、しゃべらないし、何にもわかっていないように見えたけど、「こんなアイディアがあれば、この子達は考えて行動できるし、いろんなことを身に付けることもできるんだ!!」って驚きました。 そのあとも、独学で学びましたし、研修、トレーニングにも行きました。 それはTEACCHの理念、考え方が好きだったから。 薬漬けや力関係、赤子のようになんでもやってあげるんじゃなくて、一目では見えない彼らの持っている可能性、彼らが成長できる可能性を信じることができました。 TEACCHのトレーナーの人達や実際、NCで支援している人達を見て、やっぱり学ぶべきことは彼らの考え方であって、本人たちの可能性を疑わないその姿勢だと思いましたね。 彼らが言いたかったことは、とってもシンプルだったと思います。 「その人をちゃんと見なさい」 「その人の特性や成長に合わせて、支援を変えなさい」 「その人がわかりやすいように情報を整理しなさい」 結局、個別化ってことだし、誰も「構造化された支援を使え~~~」なんて言ってないんですね。 つまり、大事な考え方の共有以降は、支援者一人ひとりのセンスが問われるんです。 これじゃあ、困るのが頭ガチガチの人、マニュアル大好きな人、失敗が怖い人、恐怖麻痺が残ってる人…この解説は割愛。 で、解説したいのがギョーカイの人達の困り感。 想像したらわかると思うんですけど、講演会でもいいし、研修会でもいいし、相談でもいい、そこで「その人をちゃんと見て、支援を変えていきましょう。情報も整理してあげるといいですよ。あとは各自のセンスで」って言ったら、ものの10秒くらいで終わっちゃいますよね(笑) それじゃあ、ご飯食べられなく...

広がりのあるコミュニケーションの形態を目指す

そういえば、ズボンからコミュニケーションカードをじゃらじゃらぶら下げて歩いていた子がいましたね。 あとコミュニケーションブックといって、分厚いファイルを首からぶら下げていた子も。 確か2010年前後でPECSブームがあり、その頃の子ども達は、結構持っていたと思います。 今はどうでしょうかね。 当時から私はじゃらじゃらCOMカード、分厚いCOMブックを否定的に見ていました。 だって、あれじゃあ、持って歩くの大変でしょ。 首から下げたら、首痛くなるし。 ちっちゃな男の子が、ズボンがずれ落ちるのを必死に上げながら、大量のCOMカードをぶら下げて歩いてるのって、歩きにくいと思うけど。 というか、遊ぶために外出しているのに、これでは思いっきり全身で遊べないって、気になるし。 それに歩くのにリソースを使う子、発達課題がある子にとっては、重りをつけて歩いているようなものだと思いますね。 「これは何かのトレーニングですか」って思うくらい重いのもありました、実際にズボンに下げたり、首から下げたりしたら。 まあ、大量のカード、立派なCOMブックは、支援者にとって安心材料になるのでしょう。 見えない、もしくは見せられない支援の成果を示すことができますので。 「こんなにたくさんカード作りましたよ」 「私って立派な支援者でしょ」 とPRする手段の一つ。 どう考えても、今流行の“子どもファースト”ではないよね。 「この子にとっては、唯一のコミュニケーション手段なんですぅ~~~」っていう人もいましたが、それはどうかなって思います。 子ども達の中には、「このCOMカードの中でしか、コミュニケーションしてはいけない」って思っている子もいますので。 山奥で支援員をしていた頃、ショートステイの子がよく来ていました。 その子達の中には、家庭で、また通学している学校で使っているCOMカードを持ってくる子もいましたね。 で、そういった子の多くは、往々にして持たされてるんですね、支援者、もしくは親に。 だから、食堂に行くときとか、外出に出かけるときとか、遊んでいるときとか、持ってこないんです。 職員もそれに気が付かず、普通に食事を摂ったり、外出したり、遊んだりする。 そうすると、COMカードがなくても、コミュニケーションするんです。 物を使ったり、ジェス...

挨拶しないっていうのは、「私は発達援助しません、できません」って言っているようなもの

婦人科以外は、すべて付き添いで行ったと思います。 小さな町ですが、いろんな先生に会いました。 確かに挨拶しない先生は多かったですね、特に本人たちには。 まあ、しゃべってもわからない、きちんと説明できないと思っているのかもしれませんが。 どう接したらいいか分からない、怖いっていうのもあったかもしれませんね。 あからさまに本人の方を見ないようにしていた先生もいましたし、怪訝な顔をする先生もいました。 「次回からは、本人は連れてこなくてもいいから」なんて言うのは、日常茶飯事です。 でも、職員の報告だけで薬出して良いのかなっていう疑問は、常に持ち続けていましたね。 だって、ある意味、職員のさじ加減で、どうにでもなるんですよ。 「全然、眠れません」って言ったら睡眠薬は増えるし、「日中、暴れて仕方がないです」って言ったら安定剤が増える。 そこに支援の質は問われないわけですから。 これって治療になるのかな?っていうか、治す気あるの?って、いっつも思ってました。 ですから、付き添いで病院に行くたびに、どうしてあの先生は〇〇なんだろう?と、接し方について考えていました。 その理由のいくつかが上記に述べたものです。 ある講演会で、本人たちに一切挨拶しない先生が、ぺこぺこ頭を下げているところを見たんですね。 なんだ挨拶できるんじゃん。 同僚の医師みたいな人にも頭下げてるし、ギョーカイや圧力団体の幹部連中にはおべんちゃらも言えてるし。 で、ここで感じたのが、挨拶をテクニックとして捉えてるのでは?ということです。 つまり、自分の仕事をうまくやるための方法の一つであって、利を得るための手段。 加藤清正風に言うと、「お前には、情ってモンがねぇんだよ!!(@真田丸)」って感じですね。 以前、ある子と挨拶の勉強をしたときに知ったんですが、「挨」には心を開く意味があって、「拶」には近づいていくっていう意味があるんですって。 ですから、挨拶には「自分の心を開いて、相手に近づいていく」ってこと。 ということは、診察室で本人たちに挨拶しないっていうのは、「私は心を開きませんし、あなたにも近づいていきません」っていう深層心理が表れているんですね。 これじゃあ、通院しても良くなりませんし、成長もしないでしょう。 だって、もともとやる気ないんですもん。 知的...