挨拶しないっていうのは、「私は発達援助しません、できません」って言っているようなもの

婦人科以外は、すべて付き添いで行ったと思います。
小さな町ですが、いろんな先生に会いました。
確かに挨拶しない先生は多かったですね、特に本人たちには。

まあ、しゃべってもわからない、きちんと説明できないと思っているのかもしれませんが。
どう接したらいいか分からない、怖いっていうのもあったかもしれませんね。
あからさまに本人の方を見ないようにしていた先生もいましたし、怪訝な顔をする先生もいました。
「次回からは、本人は連れてこなくてもいいから」なんて言うのは、日常茶飯事です。
でも、職員の報告だけで薬出して良いのかなっていう疑問は、常に持ち続けていましたね。
だって、ある意味、職員のさじ加減で、どうにでもなるんですよ。
「全然、眠れません」って言ったら睡眠薬は増えるし、「日中、暴れて仕方がないです」って言ったら安定剤が増える。
そこに支援の質は問われないわけですから。
これって治療になるのかな?っていうか、治す気あるの?って、いっつも思ってました。
ですから、付き添いで病院に行くたびに、どうしてあの先生は〇〇なんだろう?と、接し方について考えていました。
その理由のいくつかが上記に述べたものです。

ある講演会で、本人たちに一切挨拶しない先生が、ぺこぺこ頭を下げているところを見たんですね。
なんだ挨拶できるんじゃん。
同僚の医師みたいな人にも頭下げてるし、ギョーカイや圧力団体の幹部連中にはおべんちゃらも言えてるし。
で、ここで感じたのが、挨拶をテクニックとして捉えてるのでは?ということです。
つまり、自分の仕事をうまくやるための方法の一つであって、利を得るための手段。
加藤清正風に言うと、「お前には、情ってモンがねぇんだよ!!(@真田丸)」って感じですね。

以前、ある子と挨拶の勉強をしたときに知ったんですが、「挨」には心を開く意味があって、「拶」には近づいていくっていう意味があるんですって。
ですから、挨拶には「自分の心を開いて、相手に近づいていく」ってこと。
ということは、診察室で本人たちに挨拶しないっていうのは、「私は心を開きませんし、あなたにも近づいていきません」っていう深層心理が表れているんですね。
これじゃあ、通院しても良くなりませんし、成長もしないでしょう。
だって、もともとやる気ないんですもん。
知的障害が重く、言葉がない子でも、このことが分かってたんだと思いますよ。
行きたがらない病院、行くと落ち着かなくなる病院、先生の診察を拒否する病院っていうのがありましたから。
まあ、こういう私の解釈も、エビデンスがないから否定されると思いますが、先生方には。

挨拶しない先生っていうのは、挨拶を表面的にしか捉えていないのでしょう。
人間特有の知性、テクニックとして。
でも、鳥とか、犬とか、他の動物だって挨拶はしますね、人間のような言葉は使いませんが。
ということは、挨拶って脳の表面(大脳新皮質・人間脳)だけでやることじゃなくて、もっと深い部分でやってることだと思うんです。
発達障害の人って、人間脳以前の脳の部分にバグがあると言われていますね。
だから、本人たちは、ここに刺激が欲しいし、アプローチしてほしい。
で、彼らは「挨拶しない先生は、自分たちの求めているところを見ていない=治せない」と、お見通しなんだと思いますね。

本人に挨拶しないし、付き添いの人、看護師さん、同僚やお偉いさんにもしない先生は、どこかに問題がある人なのでしょう。
でも、挨拶できないんじゃなくて、挨拶する相手を見ている人は、挨拶を知識やテクニックと捉えているのかもしれません。
それじゃあ、発達援助はムリムリ。
発達援助は、支援者によって知識やテクニックが与えられるんじゃなくて、本人の内側にある発達の可能性、力を刺激し、引き出す行為だから。
もしかしたら、大脳新皮質には知識として蓄えられるかもしれませんが、発達援助っていわゆる学校のお勉強とは違うはず。
もっと脳みその深くで、根本的で、本人主体なもの。
表面的にしか見せないし、見ようとしない支援者には、本人たちも表面的な部分しか見せないでしょう。
だから、挨拶しない先生は、治すことができないんだと思いますね。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1369】心から治ってほしいと思っている人はほとんどいない