【No.1045】「退行」こそが発達保障

昨日のブログを見て、早速、感想を送ってくださった親御さんがいました。
以前、発達相談を行ったご家庭ですが、幼稚園がお休みになってから、天気のいい日は河川敷まで出かけて行き、そこで親子、寝転がって、雲を見るのを続けていたそうです。


まだお子さんには発語が出ていなかったのですが、雲を一緒に見て、「あれはパンに見えるね」「あれはキリンみたいだね」といったことを親御さんが語り続けていった結果、不明瞭ながらも言葉での発信がみられるようになったそうです。
また、動く雲を一生懸命見ていたら、普段の目の動きも自然になってきたとのことでした。
相談時は、乳幼児期からの長時間のテレビの影響もあってか、目の動きが乏しいのが気になりましたが、こうやって雲を目で追いかけることを続けていった結果、自然な動きができるまで育ってきた。
まさにこれが、発達援助であり、子育ての自然なあり方なんだと感じました。


親御さんの中には、「療育を頑張らなくて良いのだろうか」「他の子のように、いろいろやらせなくていいのだろうか」などという焦りや不安もあったそうですが、昨日のブログで安心できたし、我が子の成長からも続けて良かったと思えるようになった、と綴ってありました。
基本的に、土台である発達が育てば、あとは勝手に学んでいくのが、子どもというものです。
世の中、知らないことだらけ、やりたくてもできないことだらけ。
だからこそ、子ども達は学ぼうとするし、できるように試行錯誤をする。
その「知らないことを知る」段階、「やりたいと身体が動く」段階まで育てるのが、子育てであり、発達援助でしょう。


心理学を学んでいる人は、「退行」と聞くと、精神療法を思い浮かべると思います。
私も、特に成人や若者で、心理的な課題、行動的な課題を持っている人と対面するときは、精神療法的な意味で、「退行」をお勧めしています。
本人や家族に、幼少期、どういった遊びを好んで行っていたか、どういった環境に身を置いていたか、どういった感覚に懐かしさを感じるか、などを尋ねていき、そのときを連想するような活動、環境、刺激の中に身を置くことを提案しています。
そうやって、子ども時代の最初の頃に立ち返ることで、現在の縛りから心身を解放していく。
多分、多くの人にとって、その時代は、無邪気な目と感覚で世の中を見ていたはずです。
そういった、その人の原型、原風景に戻り、現在の精神的な安定を目指すのが、心理学的な「退行」です。


一方で、私が昨日、使った「退行」とは、未発達や発達のヌケがある段階に戻り、そこを育て直すという意味です。
5歳のお子さんに発達障害がある。
で、確認していくと、0歳代の運動発達にヌケがあった。
だから、そこを育て直そう、ということです。
もし、2歳の子に、1歳半の頃の発達のヌケがある場合は、それはただ発達が遅れているだけ。
そういった場合は、発達の遅れに繋がっているストッパーを外すのと同時に、より良く育つ環境と刺激を調整します。


精神療法的な退行とは異なり、子どもさんは自らを育てる退行へ向かいやすいといえます。
これは、私の感覚なのですが、いろんな発達のヌケを持ったお子さん達と関わっていますと、どの子も、その内側にはなんらかの違和感を持っているような気がします。
隙あらば、すぐにその遊びをしよう、みたいな感じです。
子どもの多くは、遊び道具がない環境に行くと、その子本来の動きが見られるものです。
遊び道具は、一種の遊び方が存在していますが、自由な空間にはそれがありません。


でも、どんな小さな子でも、発達の遅れや知的障害を持った子も、誰からも教わっていないのに自分だけの遊びを行います。
それが名も無い遊び。
子どもの遊びを見ていると、本当に面白いのは、どの子も違った遊びを考え、行うことです。
大人が考えもしないようなものを使って、また動きをして、思いっきり遊ぼうとします。


私も発達相談で、一緒に公園などにも行くのですが、子どもの自由な遊び、名も無い遊びを見ていますと、そこに大きなヒントがあるのがわかります。
と言いますか、その遊ぶ姿を見て、私が「今、何を育てるべきか」「何を育てようとしているか」を教えてもらうのです。
中には、いつものパターンで、遊びを行う子もいますが、徐々に大人の介入を減らしていきますと、本当にやりたい動きが出てくるものです。
そういった姿を見て、親御さんが驚くこともしばしば。
で、私が、お子さんの欲している発達を通訳するのが、いつものパターンです。


案外、子どもは、周囲のことを良く見ていますし、親御さんの気持ちや意図を汲みやすいといえます。
ですから、子どもらしい動きをしているようで、以前に教わったこと、注意されたこと、指示されたことを元に動いている場合があります。
もちろん、それは支援者や学校の先生、園の先生との関係の中でも生じます。
気を付けないと、知らず知らずのうちに、大人からの学習が進んでしまうことがあります。
そうなると、育てやすい子にはなるんだけれども、根本にある課題が解決していかない、その根本的な不安定さを抱えたまま、どんどん凸凹が積み重なってしまう、なんてことも生じるのです。
これが従来の発達支援であり、療育、特別支援教育の中で行われていたこと。


育て直しの「退行」とは、年齢不相応のことをやるので、支援者、教員の中には抵抗感がありますし、親御さんの中にも、「赤ちゃん扱い?」みたいな印象を持たれやすいといえます。
でも、根本から育て直していかないと、本人の内側には、いくつになっても違和感を持ち続けますし、それが学習や生活、生きづらさへと繋がっていきます。
ある若者は、半年間、ハイハイをやり直したあと、「初めて、自分の身体が繋がった感じがしました」「こんなに身体を動かすのは楽なんですね」「身体だけではなく、気持ちも楽になりました」と興奮気味のメールをくれたこともありました。
そういった不完全さ、違和感を持つ人は、多いのだと思います。


現在の特別支援も、療育も、ある意味、社会全体も、学習することに溢れています。
これだけ学習する機会に恵まれていて、選択肢もある中、発達障害を持つ子ども達の学習が積み重なっていかない、同世代のような成長の仕方をしない、自立もしない、というのは、学習を充実させるだけでは、その子達のニーズは解決しないという表れだといえます。
つまり、彼らに必要なのは、学習保障ではなく、発達保障。
その発達を保障するということは、ちゃんとやり直しをさせてあげる、そういった機会を用意してあげる、ということだと思います。


何度も言うようですが、発達が遅れるだけでは障害にはなりません。
初めて、それが生活の障害、人生の障害となるときというのは、発達の遅れが遅れたままであるときだといえます。
いつまで経っても、遅れたままであるとき、それが様々な障害となり、本人の自由と選択に影響を及ぼすのです。
ですから、従来の考え方から転換し、「本人に障害があるのだから、学習することで適応力を上げさせよう」ではなく、「本人に、発達のやり残しがあるのだから、その機会を十分提供しよう」というのが良いでしょう。
「いくつになっても、発達のヌケ、遅れ、未発達の部分をやり直すことができる」
それこそが、その子の発達を保障することであり、援助することだと思います。


発達とは、連続体です。
一つ育てたら、それが関連する発達とつながり、一緒に育っていきます。
ですから、そう言った意味でも、発達は引き算でいいのです。
一つに絞って、それをやり切ると、必ず別のところ、別の発達にも良い変化が起きるはずです。
子ども達を見ていると、退行の仕方にも変化があるのがわかります。
一つやりきり、満足すれば、次の退行に向かうのが子どもさんです。
やりきれるだけの機会を提供するのも、大事な子育ての一つであると、私は考えています。

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