【No.1052】不確実な未来で、確実なもの

高齢者のデイサービスと同じように、児童デイでも送迎サービス、移動支援(なにを支援してる?)を一時休止にして開所しているという話を聞きました。
大いに結構なことだと思います。
一人で通所することが困難な高齢者や肢体不自由の子ども達なら、送迎の意義、必要性はわかります。
でも、五体満足に生まれ、元気よく行動できる発達障害の子ども達が、どうして学校から事業所、事業所から家までの送迎が必要だというのでしょうか。
必要性を感じないうえに、あることで、子ども達の成長、自立の妨げになっている、と私は思うのです。


以前、不登校の子のご家庭に訪問したとき、「授業がすべてオンラインになれば、この子達は問題がなくなる」と言っていた親御さんがいました。
確かに、授業がオンラインで展開されるようになれば、家から出る必要はなく、学力だって身につけることができるでしょう。
しかし、それで済むのなら、そもそも学校という存在が必要ないのだといえます。


学校が教科を教え、それを身につけさせることだけが目的だとしたら、学校と塾の境目はなくなります。
また単に学力だけなら、授業を録画したものを、各家庭で自分が好きなときに観て、勉強すれば良いわけですし、既にタブレット学習が一般化されていますので、就学と同時に一人一台配れば、学校という箱モノも、大量の教師という職業も、必要がなくなります。
学力、一点に絞って言えば、オンライン化、タブレット学習にすれば、とても効率的になります。
実際、こういった声は、いろんな人達から上がっていますし、今後、議論されていくことになると思います。


「学校は、教科を教えるところであり、学力を身に付けさせるところ」というのは、当然です。
私が学校に対して批判的な感情、意見を持つときは、この教科学習をないがしろにしている場合です。
支援級、支援学校で、きちんと教科が教えられない、教科書すら渡されない、6年間、ほとんど同じ内容、という話を聞いたとき、私は憤りを覚えます。
学校が学校の存在意義を否定するような行為、「どうせ、この子達には教科は無理」といった失礼な態度に。


しかし、学校の存在意義は、「学力を身に付けさせる」だけではないと思っています。
教科とは違った学ぶ力を養う場所、養われていく場所。
私はそう感じています。
たとえば、「登校する」ということだけ、一つとっても、とても意義のある行為であり、学びだと思います。


「登校する」という行為には、様々な要素が関わっています。
家の扉を開ける以前に、時間の理解、時間に合わせた行動、必要なものを準備、天候に合わせた服装の選択、基本的な生活リズムの確立など、生きるための発達土台から、計画や自制などの人間としての発達段階の育ちが問われます。
問われるということは、こういった一つ一つの要素を培い、課題をクリアしていくこと自体が、発達、成長そのものだといえます。


家の扉を開けたら、目的地である学校まで移動し続けなければなりません。
道順を覚えること、交通ルールに従うこと、間に刺激があり、注意が逸れたとしても、また自力で「登校する」という目的に意識を向けること。
そして何よりも、たとえ同じ道順だとしても、一日たりとも、同じ刺激、環境ではない、それを体験することでの育ちの大きさです。
私が「登校する」という行為に感じる発達刺激の豊かさと、その意義の深さは、まさにこの部分です。


ヒトは歩くことで進化し、脳を大きくしていきました。
歩く、移動するというのは、コンピューターのように、入力と出力の繰り返しではありません。
そこには、バランスや周囲の刺激の受信といった感覚系の話から、動作、運動系を総動員すること、危険の察知と臨機応変な行動、目的地までの記憶や経路の想像、推測、計画など、高度な脳機能まで幅広く必要となります。
特に現代社会の中では、人為的な環境のコントロールが進められてきたため、子ども達は危険の察知や臨機応変に対処を学ぶ機会が少ないといえます。
本来、動物であるヒトが、危険や見通しが立たない不確実性の中での体験を元に、問いのない答えを導き出してきたのに。


「登校する」という行為は、失われていた動物性を取り戻す訓練であり、危険の察知、臨機応変な対処など、生き抜くために必要な力を養う貴重な場だと、私は考えています。
学力は、他のものでどうにでもなると思いますが、季節が移ろう中、何年間も1つの場所に通い続けるという行為自体が、現代の子ども達にとっては必要だといえます。
就学前のご家庭での発達相談では、授業を受ける準備(「一斉指示がわかる」「他人に迷惑をかける行為がない」「離席せずに一定時間、座れる」)と同じくらい、一人で登校できる準備の大切さをお伝えしています。


支援校に通っていた、ある女の子は、話すことはできますが、学力の面では小学校低学年くらいでした。
でも、その子の親御さんが、「将来、この子には働く大人になってほしい。そのためには、自分で目的地まで行って、帰ってこれる力をつけなければならないと思います」とおっしゃり、実際に取り組みを行いました。
最初は、学校の近くまで車で送り、親御さんが見える範囲からの登校。
徐々に、距離を伸ばしていき、また別のルートや繁華街などの変化を持たせ、学校生活後半では、敢えて公共交通機関を使っての登校も練習しました。
こういった取り組みを重ねていった結果、卒業後、一般就労。
もちろん、公共交通機関を使って。
事故などで、遅れが出たとしても、その旨を職場に連絡し、落ち着いて行動できているそうです。


このご家庭の親子の取り組みを見て、生きる力を育てるとは、まさにこういうことをいうのだと思いました。
学校の先生からは、「何かあったら、大変ですよ」「今は、障害者の送迎サービスも利用できますよ」などと、何度も言われたそうですが、一切動じず続けました。
そういった小さな取り組みが積み重なっていく中で、会話の幅が広がり、世の中の理解力が伸び、人とのやり取りが上手になり、自分で考え、行動する力がついてきました。
親御さんは、度々、「いくら働く力があっても、通えなかったら、仕事はできないでしょ」と言っていましたが、働くために必要な発達と、働くという行為の本質を見抜かれていたのだと思います。
働くとは、自立するとは、「危険を察知し、それを回避できること」「その場の状況に合わせて、臨機応変に行動できること」が求められるのです。


学校が終わると、校門の前に並んだ車に乗せられ、事業所まで連れていかれる。
事業所で公園に行くときも、車。
帰るときも、家の前まで車。
その移動の時間に、なんのサバイバルもなければ、なんの発達刺激、学ぶ機会もありません。
結局、送迎サービスとは、加算が目的なのであり、子の発達が目的ではないのです。
確かに、親は安全、安心かもしれませんが、それと引き換えに失うものが大き過ぎます。
自分で準備し、学校に行って帰ってくる子と、全部お膳立てされて12年間過ごす子とでは、学力の面では差ができないかもしれませんが、生きる力、生き抜く力、働く力の面では大きな差ができるでしょう。


「うちは知的障害があるし、重いし」という親御さんもいます。
しかし、それは言い訳にすぎません。
何故、取り組む前から無理だと考えているのでしょうか。
そもそも、育てずにしてできる子が、どれほどいるというのでしょうか。
先ほどの女の子は、就学時、重度の知的障害という判定でした。
でも、12年間かけて取り組んだ結果、重度から中度、中度から軽度まで育っていきました。
つまり、土台である「生きる段階」の発達を、登下校を通して養っていけたということなんです。
それこそ、いくら知的障害がなく、働くスキルがあったとしても、自分を律することができず、自分で準備し、目的地まで移動できなければ、コンスタントに通うことができなければ、仕事などできるはずがありません。
働く力、働き続ける力の土台は、技能や知識ではなく、生きる段階の発達であり、危険を察知し、臨機応変に行動できる育ちなのです。


「三密になるし、介助者と近距離になるから」という理由で、送迎サービスが中止になっています。
ちょうど良い機会です。
自力で通所できるように練習すれば良いのです。
「一生、この子の送迎をやらなきゃいけないのか…」とこぼす、親御さんもいますが、それなら一緒に取り組みましょう。
一人10万円は、空から降ってくるのではありません。
全部、私達の税金であり、我が子が将来、払い続ける借金です。
世の中、みんなが苦しくなれば、最初に切られるのは、弱い立場、福祉に決まっています。
1日、一人通って1万円が続くなんて、のほほんと思っていれば、終息後に痛い想いをします。


福祉も、制度も、人が決めるもの。
人が決めるものに、確実なものなどありません。
それこそ、今は、すべてが不確実な世界であり、それが私達の未来。
その子が身に付けたもの、育ったものは、誰にも奪われることがありません。
唯一、私達大人ができること、それは不確実な中で、確実な力を子に付けさせてあげること。
それこそ、「生きる段階」の発達であり、子育て、発達援助のあり方。
発達をお金で代替することはできるが、お金で買うことができない。
発達障害の子ども達に必要なのは、自立に必要なお金を国に、社会に要求することではなく、その土台を育んでいくことだと、私は考えています。

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