2017年9月26日火曜日

選択肢のある人生を歩めるために

「発達障害を治すことが目的じゃなくて、幸せになることが目的です」
私は、この言葉を親御さんに繰り返し言いますし、伝えています。


「えっ、発達障害って治るんですか!?」なんて驚くのは、勉強不足であり、時代遅れ。
「治りません」と言い続ける人は、もはやその人のイデオロギーか、治らない方がラクだから、そう言っているんだろう、と解釈します。
私達が生きている今は、治す実践をされている方がいて、治っている方達がいます。
治せる時代になっていて、これからは治すのが援助の標準にならなくてはいけません。
ですから、私は“治す”を仕事にする一人だからこそ、“治す”を目的、ゴールにしてはならない、と考えています。


冒頭のようなことを言いますと、「どういったことが幸せか?」と尋ねられます。
私は、幸せを「選択できること」と捉えています。
発達障害を治すのは、その子の人生の選択肢を増やすための援助であり、自ら選択できるようになることが理想的な姿だと思っています。
何を食べ、どこに住むのか。
どういった仕事をし、誰と生きていくのか。
こういった1つ1つの選択を自分自身でできることが幸せであって、特に子ども達の育ちに関わる場合には、将来の選択肢を増やせるような成長、発達の促しをしなければならない、と考えています。


このような考えに行った根っこには、施設職員だったときの経験があります。
激しい行動障害が治り、落ち着いた我が子を見て、「この子は、ここに来るのが幸せだった」「ここで暮らすのが幸せなんだ」と言われる親御さんがいました。
このような発言を聞くたびに、経験が浅い20代の私にも、この言葉が本心ではなく、エクスキューズでしかないことがわかりました。
また、例え親御さんはそう思ったとしても、「本人たちは絶対に幸せだと思っていない」と確信できました。


何故なら、誰一人、自ら選択して入所した人がいないから。
それは、入所の経緯から考えても、本人たちに選択する力が乏しかったことからわかります。
私が働いていた施設に限らず、「利用者の幸せを追求する」など理念を掲げているところは多々ありますが、入所者の方が「退所したい」といえば、それをかなえてくれるのか、そもそも選択肢を与えているのか?
いくら個人の幸せを高々と掲げようとも、選択肢のない生活の中に、個人の幸せはないはずです。
同時に、選択できたとしても、その人に選択する力が育っていない、また選択しようとしても、それが叶えられる状態に本人がないということも、結果的にその人の人生から幸せを遠ざける、と考えるようになりました。


発達障害を治すのは、未来の、そして自分の人生の選択肢を増やすために行うのです。
私が関わっている子ども達の中には、支援級から通常学級へ転籍する子達もいますが、その子の親御さんには「通常学級に行くために、発達障害を治すのではありません」と言っています。
子ども達が支援級で学ぼうとも、通常級で学ぼうとも、どちらでも良いのです。
障害者枠で働こうとも、一般枠で働こうとも、どちらでも良いのです。
それが、本人の選択だったら。


本人が「支援級で学びたい」と言うのなら、それで良いと思います。
でも、本当は通常級で学びたいと思っているのに、それができない、というのがよくありません。
将来、その子が選択する場面になったら、きちんと選択肢がある状況で、本人も選択する力と主体性があり、どれを選択しても良い状態にしておく。
将来、「選択肢がこれしかありません」「あなたが選びたい選択肢は、今の状態、力では無理です」というのは避けなければなりません。


発達障害を治すのは、今、ラクになること。
でも、その先には、選択肢の広がりがあります。
発達障害を治した人達が、生き生きとして見えるのは、ラクになったことが大きいと思います。
でも、それ以上に、人生の選択肢が増え、自ら選択していける喜びを感じているからではないか、と思っています。
ギョーカイのメンドリから、ギョーカイの鳥籠の中から、敷いた線路の上から飛び立った人が言っていました。
「籠の中にいたときよりも、大変なことや辛いこともある。でも、自分で自分の人生を選べるのが幸せだ」と。


自分の選択で生きていけるからこそ、人は幸せを感じられる。
いくら物質的に恵まれていても、なに不自由なく生活できても、周りが常にいい子いい子してくれて、転ぶ前に配慮してくれたとしても、選択肢のない人生は幸せを感じられない。
だからこそ、発達障害は治す、その子が選択肢のある人生を歩めるために。

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