2017年9月12日火曜日

人は反射のみで生きているのではないのだから

行動に注目し、行動を変えることを中心に置く支援者というのは、支援者自身の評判がすこぶる悪いことがある。
それは、きっと彼らが“心”を対象から外すからだろう。


その人の気持ち、感情は、外から見ることはできない。
だから、目に見える、外から確認できる行動のみを支援の土台にあげよう。
そういった姿勢が、彼らが冷たい人間で、それこそ、心のない人間のように映してしまう。


彼らが支援のテーブルの上から外すものは、“心”以外にもある。
それは“身体”である。
心を支援の対象から外したのと同じように、身体も、彼らにとっては伺い知れぬものとなるため、除外の対象となる。


彼らは、目に見える“動き”が大好物である。
しかし、 その動きの土台となる身体を大切にしない、または、ないがしろにすることが、行動変容というアプローチの限界を生みだしている、と個人的には思う。
人間性は置いておいて、行動変容を中心にしつつ、効果のある支援ができる人というのは、“動き”とその土台である“身体”を引き離さない、という特徴があるように感じている。


「何か偉そうだ」「上から目線だ」「平気で失礼な態度をする」
そんな風に言われる支援者というのは、行動変容系に多い気がする。
それは、心を外し、身体を外した結果なのだろう。
心と身体性が乏しければ、相手との心地良い交流を生むことも、距離を取ることもできない。
また何よりも、アプローチする際、心が使えない分、相手の身体性が掴めない分、上下関係を作るしか指導を成り立たせるものがなくなってしまう。


行動する主体は、本人である。
本人が変えるから、行動は変わる。
だが、本人がしたい行動と、変えさせたい行動が、いつも一致しているとは限らない。
「なんで、あんたの言う通りに、私の行動を変えなければならないんだ」
というのは、本人の持つ主体性に、無礼な手が触れた瞬間に起きる。
そんなとき、無礼な手を無礼じゃないように見せる方法は、ただ一つ。
「私が上で、あなたが下」という文句。
触れても問題ないでしょ、言うこと聞きなよ、行動変えな、というような態度でくるから、主体性のある本人や家族は、こういった当たり前のように上下を作ろうとする様子に、不快感を示す。


刺激に対し、反射のみで生きる生物にとっては、心を排除し、身体性を排除し、行動のみにアプローチしたとしても、うまくいくのかもしれない。
しかし、人間は反射から無意識の動き、意識する動きへと発達していく。
人間は主体的に動くことを目指し、発達、成長していく生き物である。
だからこそ、人工的な上下関係を築き、一方的に行動の変容を迫るアプローチというのは、不自然であり、限定的であり、違和感をもたらす。


「行動変容こそが、唯一無二の支援である」と主張する人に、心を感じず、不健康で、上から目線の人が多いのは、このアプローチの持つ特徴と相性の良い人物だからかもしれない。
主体性を持つ、意識的な動きの段階まで育った本人、主体性を育てたい親と支援者が、行動変容系から距離を置くのも、よくわかる。
個人的には、発達の視点が乏しいアプローチは好みではない。

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